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 今にして思えば、何故あの男は最初に彼女を襲ったのだろうか。結果がある以上、何かしらの原因がどこかに存在しているはずだった。男が憎んだ理由。狂った理由。推測は出来るが、どれも完全ではなかった。

 だからこそ思い描く。今ここにある未来。ひょっとしたらいなかったかもしれない未来。そして彼との戦いで朽ちたかもしれない未来。ありとあらゆる可能性の中で、この結果が導かれたのは確かに彼女が選択した果てだ。

 この結果に後悔など微塵もなく、これからの未来に恐怖や不安を感じるはずもなく、だからもちろん迷いもない。信じることの強さを、信じてくれる強さを彼女は知ることが出来たから。

 初夏の夜。日も暮れた図書館の帰り道。ここから物語は始まる。

 

      ◇

 

 幾度目かも分からない爆音が、少女の脳を問答無用に揺さぶった。爆発は爆風を伴って周囲に霧散し、彼女の軽い肢体を悠々と吹き飛ばしてしまう。

 三半規管が麻痺していたせいだろう。着地は随分と無様なものだった。両足を地面につけ、だがバランスを取れずにしりもちをつく。スカートがめくれ上がり、可愛らしい純白の下着が丸見えになった。

「きゃん!」

 という鳴き声に、一番反応を示したのは爆発を引き起こした本人だった。

「随分、可愛らしく啼くじゃねぇか、あぁ? 綺堂さくら」

 下卑た笑いを浮かべて、男は言った。爛々と輝く赤い双眸。鉤爪が生えた手足は丸太のように太く、夜風に揺れる黒く濁った体毛が全身を覆っている。そして何より、イヌ科の動物を連想させる頭部が男の容姿を決定付けていた。

 狼男。端的に表せば、まさに言葉どおりの容姿である。そしてそれは、あながち間違いでもなかった。

 人狼族。彼らは総じてそう呼ばれている。ホモサピエンスとは違った進化を辿った、狼を先祖とする種族である。彼らは人が立ち入らない山奥で結界を張り、人と交流することなくひっそりと生活を送る。誇り高い彼らは、人間との共存を望んでいないのだ。

 そしてその誇りがあるからこそ、彼らは人間に迷惑をかけることも、かけられることも嫌う。少なくとも、日本にいる大抵の人狼族はそうしているはずだった。

 そのはずなのだが、今、少女──綺堂さくらの目の前にいる人狼は、そういった周囲の目を気にしているふうには見えなかった。深夜の路地に人通りが少ないとはいえ、男は迷うことなく狼の姿に戻り、こうして自分に向けて襲い掛かってきている。ここが住宅街でないことを、さくらは心の底から感謝した。

「吸血鬼なんかとの穢れた血にはお似合いかもなぁ? ヒャッハッハー!」

 男の罵声は続く。

「ったく、血ぃ吸うことしか能のねぇメス犬が、粋がって人間のように生きようとしてんじゃねぇってんだよ!」

 ぐっと、さくらは拳を握り締めた。痛いほどに、きつく、激しく、動悸が高鳴っていく。言い返すよりも早く、狼男が動いた。

「え?」

 さすがに獣というべきか、その動きは尋常なものではなった。反射的に後方へ跳躍しなければ、その鋭い鉤爪がさくらの身体を二等分したに違いなく──そのすさまじい風圧で彼女の服が切り裂かれ、紙くずのように散っていく。

「くっ!」

 というさくらの呻きは、痛みによるものではなく、前を──未だ発展途上の胸を隠す布がなくなったことに対してだった。腕で乳房を隠すさくらの態度に、また狼男が狂喜する。

「いいねぇ、その顔。胸見られて恥ずかしいってか? ハンッ! お前の貧乳なんか見たところで欲情する奴がいるかよ。 ああ、逆に萎えちまった。どうしてくれんだ? 俺の大事な息子をよぉ……」

 下卑た笑いは止まらない。さくらはそれらを完全に無視した。無視しなければ、怒りと怖さでどうにかなってしまいそうだった。

「貴方は、何者なんですか!」

「ハッハーッ! バカかお前。俺は人狼だよ。純粋な人狼族だ。みてわかんねぇのか? おつむ足りてる?」

「なぜ──」

「おおっと、『何故私を襲うんですかぁ?』なぁんて、とぼけたこというなよ? お前の存在自体が罪なんだよ!」

 言っていることの理不尽さに、さくらはいい加減、理性を抑えていられる自信がなかった。

「人間みたく生きてるってだけでむかつくんだよ。生きていけるって思ってるだけで苛つくんだよ。あぁ、ひょっとして自分は愛されてるかもしれないなんて思ってる? お前みたいなメス犬が? はっは! お笑いだぜ! おおっ! もしかしたら首輪つけてワンって鳴いたら飼ってくれるかもよ? 優しい人間様に、四つん這いになっておねだりしてみろよ! ヒャッハッハー!」

「……くっ!」

「何故、こんなことするのか知りたい? 知りたいよなぁ。俺はなぁ、手前みてぇな半獣人を見てっと我慢ならねぇんだ。無性に壊したくなるんだよぉぉぉ!」

 奇怪な叫び声を上げながら、人狼が跳躍する。もう、さくらは手加減も容赦も、情けも入れるつもりはなかった。相手が何者であろうとかまわない。勝てるか否かも関係ない。何故自分を襲うのかも、もうどうでもよかった。さきほど服を切り裂かれた時に、ヘアバンドも取れたのだろう。髪から狼の耳(・・・)が飛び出ていることもお構いなしに、彼女は咆哮した。

 が──

「そうか、ならお前が壊れろ」

 怒りを含んだそれは、弾ける直前で遮られた。

 さくらの横を、スルリと黒い影が通りすぎる。影は上から襲い掛かってきた人狼の攻撃をほんの少しの動作でよけると、まったく止まることなく、流動的な動きで足を振り上げた。ドス黒く土色に変色した体毛を撒き散らしながら、獣の巨体が宙を舞った。

「ぐぇげぇっ!」

「品がない奴というのは、うめき声まで品がないな」

 狼の巨体が地面に激突する様を呆然と見送る。なんとなく、ぽかんと口を開けたまま、見送ってしまった。

 が、それも数秒間だけだった。さすがに頑丈に出来ているらしい肉体を起き上がらせて、人狼が咆哮を上げる。毛むくじゃらの筋肉がさらに隆起する様は吐き気すらもよおしてくるほど醜かった。

「キサマァァァァ! 人間のくせに、俺様の邪魔をするなぁぁ!」

「あー、はいはい。悪かった、悪かった」

 投げやり気味に肩をすくめたのは、しかし人狼を蹴飛ばした人物とは別の人間だった。

「……え?」

 背が高いという点では人狼と言い勝負かもしれない。ただその温かみのある笑顔は誰にでも出来るものではなかった。場違いといっても過言ではないくらいに見ていてホッとする表情で笑っている彼は、確かにさくらの見知った男性である。もう一人は知らなかったが。

 思わず素っ頓狂な声を上げたのは、何故彼がここにいて、そんな朗らかな笑顔でこちらを見つめているのか、理解できなかったからだった。

 なによりもエプロンが似合っていそうな長身の男性に、さくらはおずおずと声をかけた。

「槙原……さん?」

「うん。お久しぶり。無事で何よりだ」

 やはり笑顔で答えて彼──槙原耕介は羽織っていた上着を脱いだ。それをさくらの肩にかけてから恥ずかしげに背を向ける。その手に握られた似合わない黒塗りの鞘と白銀の日本刀が、場違いさをさらに強調していた。

 なんにせよ、あまりに急な展開に、さくらはしばし脳の処理が追いついてこなかった。

 その思考を、狼の咆哮が断絶する。さくらのことなど初めから居なかったかのように吼える姿に恐怖はなく、むしろ憐憫さえ感じさせるほど不気味だった。

 殺意だけがさらに強くなる。

「殺す! 殺す! 殺す! 殺す! 殺してやるぞぉぉぉぉっ!」

 その激昂する人狼の圧力をこともなげに受け流しながら、二人は鬱陶し気に眉をひそめた。

「煩い奴だな」

「もういっちゃってるねぇ。いろんな意味で」

「殺してやるっ!」

 逃げて! というその声は、しかし二人に告げることは出来なかった。それよりも早く三者は行動に移ったからである。

 数秒──もしかしたら数分。いや、正確な時間など解るはずもなかった。その間の攻防を、さくらは呆然と見つめるしか出来なかった。

 人狼のそれは本能の動き。そこに美しさなど欠片もない。獣だからこそ強く、その醜くもしなやかな筋肉全てを殺意に変えた動きは、まさに魔獣の名にふさわしかった。

 耕介とともに現れた男の動きも、どちらかといえばそれに近い。武器も何もなく、素手で相手を粉砕する点も似ていなくはない。その動きは目で追えるレベルではなく、時として感じる圧力が、周囲の建物を襲う衝撃が、その戦いの凄まじさを如実に物語っていた。

 対して耕介のそれは、二人に比べれば稚拙で、決して高いレベルではなかった。だというのに敵の攻撃には当たらず、逆に彼の攻撃は確実にヒットしている。二人のコンビネーションは絶妙で、互いの考えを知り尽くしたかのような動きは見ていて飽きなかった。

 見とれていたのはその戦い方が自分とは違うという事実を認識したからではなかった。素直に耕介たちの戦いがすごいと思えてしまう。どこか、綺麗だと感じてしまう。それこそ場違いだと気づいて、さくらは慌てて首を横に振った。

「くそがぁぁぁっ!」

 肩。足。腹部。身体のいたるところから血を流しながらも、人狼の殺気はなおも強くなっていった。耕介たちが若干押しているからか、その表情が悔しげに歪む。

「これで──」

「終わりだ!」

 どちらがどちらの声なのか。だがどちらにしろ、そこに感じたのは決着の意志。必殺の気配。そこに生まれるだろう結果を思い描いて、さくらは思わず肩にかけられた上着を強く握り締めた。

 人狼の腕が飛ぶ。赤黒い血しぶきが待ったところで、三者は動きを止めた。路地に大量の血と、それに劣らず涎と体毛を撒き散らしながら、幾分か冷静になった狼が吼えた。

「クククク。やるじゃないか。いいぜ、獲物だ。貴様らも獲物に決めた。綺堂さくらもろとも食い殺す!」

「その状態で?」

「今月はまだ月が出たばかり(・・・・・・・)だ。今の俺じゃ手前らには勝てねぇ。だったら逃げるに決まってんだろうが!」

 限界まで息を吸いながら、人狼は後方へ跳躍した。逃さないとばかり追う耕介たちに向かって、今日、さくらが聞いた中でも最も凄まじい咆哮が鳴り響く。

(な──っ!)

 それはもはや、獣の鳴き声などではなかった。眼前が閃光に包まれた瞬間、さくらの身体がふわりと浮く。危機なのだとは察したが、身体が動かなかった。

 吹き飛ばされるのを頭の隅で客観視したとき、不意に身体を掴まれる。耕介だった。

「大丈夫?」

「……えーと、はい……」

「それはよかった」

 相変わらず優しげな笑みで自分の身体を抱きかかえながら、耕介がちらりと横を見る。険しい顔で人狼が居た方を睨んでいる耕介の連れの男は、しかし不意に諦めたように首を横に振った。

「逃げられた」

 その一言で脅威は去ったのだと。

 二人の戦う気配が薄れていくのを感じながら、さくらも身体の力を抜いた。上着をきちんと身体に羽織ながら、

(ん。大丈夫みたい)

 身体に大きな怪我がなかったことにほっとする。

 と、さくらは不意に目を丸くした。現状を認識して、理解する。急がなくてはならないと、さくらは心中で警報を鳴らした。誰かが来る前に打破する必要があった。それはさほど難しくない。相手にも理解してもらえればいいだけだ。ただし、それを相手にも求めるには、ほんのすこし勇気が要った。

「…………あの」

「ん?」

「そろそろ、おろしてくれませんか?」

「え? あぁ、ごめんね」

 俗に言うお姫様抱っこから開放されて、さくらは久方ぶりに自分の足で地面に立った。俯いたのはただ単純に恥ずかしかったからだが、耕介はそうは受け取らなかったらしい。

「どこか怪我とかある? 気分が悪いとか?」

「いえ、大丈夫です」

「そう? でもちょっと顔が赤いな。風邪とか引いてない?」

「……えっと……その?」

 大きな、少し無骨な手のひらがさくらのおでこに当てられる。今は夏だから、夜だからといってそこまで身体が冷えたわけでもない。そこに一片でも下心があるなら、もしかしたかもしれないが。

(あ……)

 だが耕介にはそんなものは少しもなかった。子供や妹に対してするような仕草に、彼が本当に心配してくれていることはすぐにわかった。だからだろうか、彼の手から伝わってくる熱が心地良い。眼を閉じて、思わず漏れ出た吐息の熱さにさくら自身が驚いた。

(やだ。私、なにしてるんだろう……)

 そもそも、こうなった原因さえ全くわかっていないのだ。のんきにしている場合でもない。あの狼男は何者なのか、聞かなくてはならなかった。

「あの……」

「話は後にしろ」

 しかし、それはもう独りの男によってあっけなく遮られた。先ほどまで電話していた彼の顔はどこかで見た覚えがあるが、名前が思い出せなかった。

 逆三角形の相貌が、ともすればあの人狼よりも怖い印象を受ける、細身の男である。街角で会っても絶対に近づきたくない雰囲気を纏った彼は、しかし敵ではないようだった。とりあえず耕介が気を許しているようなので、深くは追求しないでおく。

「そうだね。今日はもう遅いから、ゆっくり休んで。明日、話をしよう」

「あ、はい。それじゃ、あの……」

 何故慌てているのか。自覚のないままに、さくらは二人から離れようとした。そうしてようやく気づく。足元に無残に散っているのは自分の服。耕介に上着を貸してもらわなければ、さくらは完全にセミヌードになってしまうからだ。

 そんなさくらの心中に気づく様子もなく、耕介はお人好しの笑顔のままで、それでいて真剣な瞳でこちらを覗いてきた。

「君のご家族には連絡してあるから、今日はうちに泊まりにおいで」

「……でも」

「耳や尻尾を出したまま、一人で帰るのは危険でしょ?」

「……え? あ!」

 慌てて頭の上を確認すると、確かに見慣れた獣耳が二つ。尻尾が一本、姿を覘かせていた。こうなるともうどうしようもない。

 耕介たちに見られた焦りは不思議となかった。逃げる気持ちも起きなかった。

「泊まりにおいで。ね?」

 ただほんわかと笑う耕介の笑顔に、釣られるようにして頷く。そのまま、さくらは彼の家に着くまで顔を上げなかった。

 ほんの少し眼に浮かんだ涙を、見られたくなかった。

 

 

 ……

 あてがわれた部屋の中で、さくらは眠れずにいた。部屋の居心地が悪いわけではない。布団から感じる太陽の匂いは、気を抜けばそれだけで人を眠りにいざなうほど心地よいものだったが、いかんせん、彼女の心は安穏とは程遠い場所にあった。

「私は……」

 なんなのだろう。

 考えがまとまらない。あの人狼に言われたことが頭の中で繰り返し鳴り響く。頭痛を覚えるほどの罵声に、彼女はずっと眠れないでいた。

 夜の一族と呼ばれる、西ヨーロッパを発祥とする吸血の一族がいる。人間種族よりも身体能力的に優れた彼らは、しかし長寿故の少数民族だった。だからこそ、台頭してきた人間種族に追い立てられ、一部の者たちは極東の日本にまで逃げてきた。

 それがさくらの先祖である。中でも綺堂家は、血筋の途中に人狼族が加わるという一族の中でも異例の部類だった。それ故に、他の者には見られない狼の耳と尻尾がある。それは狼への変身能力が失われた名残であり、吸血種としての遺伝が、人狼のそれと比べ中途半端に強かったために起こった弊害でもあった。

 また狼は群れを成す生き物だ。群れ全体を家族として扱い、その繋がりを何よりも大切にする。だからこそ、仲間意識の強い彼らは同族殺しを最も忌み嫌う。彼らが人間を嫌うのもこの理由が大きい。どんな理由があれ同じ種族で殺しあえる人間を、彼らは毛嫌いしているのだ。

 そんな中、綺堂家は難しい立場にあった。夜の一族──つまり吸血種としての方針は、すでにかなり昔から人間種族との共存の道をたどり始めていた。一族の多くが人間と混じり、交流を持ち、社会に進出している。

 しかし、中にはまだ『古き良き血』に拘っている者たちがいた。かつて人間種族が世界を支配する以前の繁栄に固執し、自分たちこそ優れた存在だとして純血を保ち続ける彼らは、狼と混じり、人間と混じる綺堂家を下等と罵ることが多かった。そしてそういった者に限って、一族の中では優れた力と地位を持っているから性質が悪い。

 その一方、人狼族のほうは、相変わらず人間界との不干渉を決め込んでいる。綺堂家に連なる人狼たちを裏切り者と呼ばわる者はさすがにいない。それでも、群れから離反したことへの不満を口にする者は決して少なくはなかった。

 どちらからも爪弾きにされる──とまではいかなくとも、どちらともに引け目を感じていることは間違いない。

「半端者……」

 だからその言葉は、さくらの胸の内に何よりも重く響いた。鉤爪のように彼女の心に深く食い込んだ。自分は半端。吸血でも、人狼でもなく、もちろん人間でもない。混血。言うなれば雑種なのだ。

 認めたくない? だったら、それこそ自分は何者だというのだろう?

 わからなかった。

 半端の何がいけないのかもわからなかった。

 どうして生きていてはいけないのかもわからず、どうして幸せになってはいけないのかもわからない。だから幸せが何なのかも、このときのさくらにはまるで理解できなかった。

 わからないからこそ恐怖を感じた。世界が怖かった。拒絶されることが怖かった。他人が怖かった。『異質』というただそれだけのことで、他者を排除できる『人の心』が怖かった。

 いつか、今まで知り合った学友たちがあの人狼のように自分を『否定』し『拒絶』するかもしれない。それは何よりも恐ろしい、考えるだけで気が狂いそうになるような未来だった。

 冷たい痛みが頬を差す。

 それが涙と気づいた瞬間、心の中で何かの(たが)が外れた。

 もう駄目だ。声が漏れる。せっかく『ここ』の人たちが暖かく迎え入れてくれたのに、その厚意も台無しになってしまう。後悔。懺悔。罪の意識。迷惑をかけるだけの自分はここに居てはいけないという自責の念が、彼女の心を押しつぶした。

「っく……」

 シーツにしみが出来ていく。滴はやがて一筋の川になり、枕に小さな水溜りをつくった。

「……っ……う……ひぅ……」

 ふと──

 人の気配を感じて、さくらは身を固めた。涙が止まらない。声を我慢することが出来ない。力いっぱいタオルケットを抱きしめ、さくらは枕に顔をうずめた。見られたくなかった。知られたくなかった。

 弱さを見せた途端、人は容赦なくそこを攻撃してくる。半端な化け物だと。近寄るなと。蔑んだ瞳、拒絶の言葉を無尽に投げかけてくるのだ。

 心の前の壁が壊れかけた今の彼女には、それに抗う術も、耐え切るだけの精神力もなかった。

(お願い! あっち行って!)

 願いは届かない。気配はゆっくりとさくらに近づいて──

「泣いていいから」

 けれど、誰の声かはわからなかったが、そこに怒気はなかった。悪意もなかった。

「今は頑張らなくていいから。頑張らなくても、誰も君を責めたりしないし、誰も君のことを嫌いになったりしない。だから、今は思い切り泣きなさい」

 抱きしめるでもなく、突き放すでもない声。ただ、すぐ傍に感じる優しげな声。

 胸が痛かった。何もかもが渦巻いて、頭の中が真っ白になるくらい痛みを感じながら、さくらは泣いた。

 声を上げて泣いた。傍で見守ってくれている誰かに感謝しながら、今だけは、泣き続けた。泣きながらさくらは──

 少しだけ、胸の痛みが薄れていくのを感じた。

 

      ◇

 

 山のふもと──街灯のない暗がりの中に、一台の車が止まっていた。近づくにつれその輪郭がはっきりとしてくる。彼は運転席に近寄って、その窓を軽くこついた。

「綺堂さくらの保護は完了した」

 運転席に座る女が一人、ホッとしたような表情で頷いた。

「でもいいのかしら? さざなみ寮に連れて行ってもらって」

「綺堂の屋敷に戻すわけにも行かないだろう?」

「それもそうだけど……」

 危惧していることもわからないではなかった。綺堂さくらを保護した場所には、他にも同世代の少女たちが暮らしている。巻き込んでしまうのではないかという心配をしても不思議ではない。が、

「奴は綺堂さくらだけでなく、俺たちの『臭い』を覚えただろうからな。どこへ逃げても無駄だ。『狩り』は狼の領域。絶対に逃げられん」

「いつか追いつかれるなら、万全を整えられる場所で迎えたいってこと?」

「そのほうが確実だ」

 それに、と──彼は続けた。

「あの寮を『おとす』のはそう容易なことじゃない。奴がもし『禁忌』に触れたとしても、お前が増援をよこすまでは持ちこたえられるだろう」

 彼女は無言で視線を山の上に向けた。ここから寮まではかなりの距離がある。明かりが見えるはずもなかった。月明かりも乏しい今夜は、いつもより山が暗く見える。

「今日はまだ半月。満月まであと一週間ほどか」

「時間的余裕はほとんどないわね」

「お前はこれからどうするんだ?」

「人狼の村へ行くわ。奴が暮らしていた集落に行って、最低限、駆逐する許可をもらってくる。今ここで、人狼と諍いを起こしたくはないもの」

「面倒だな」

「まったくだわ」

 横のつながりが強い人狼族は、たとえそれが群れを離反した者であっても勝手に刑を執行したりすれば彼らの逆鱗に触れることになる。今回、さくらを襲った人狼を処罰するにはあくまでこちらが被害者であり、一方的な暴力を受けたことを示さねばならなかった。

 本当なら、その生き証人であるさくらを連れて行きたかったのだが、ただでさえ不安定な立場の少女を連れて行くのはさすがに抵抗があるのだろう──彼女は断固として首を縦には振らなかった。

「ついていてやりたそうな顔だな」

「当たり前でしょう? あの子はわたしの大事な家族よ。苦しんでいるときは傍にいてあげたいし、慰めてあげたいわよ」

「時間がない。諦めろ」

 すげなく一蹴した彼の顔を、彼女は半眼で睨みつけた。

「ま、貴方に人情理解しろって言うつもりはないけどね」

「なにか不服か?」

 彼女はこめかみを押さえながら、頭痛を振り払うかのように頭を振った。

「……まぁいいわ。とにかく、最悪の場合を考えて行動していかないとね。手遅れになってからでは遅いもの。貴方には悪いけど、ちょっと遠出になるわ……」

「問題ない」

 それで話は終わりだった。きびすを返して、再び暗闇へと足を向ける。と、

「神楽君?」

 呼び止められて、彼は立ち止まった。後ろは振り返らずに言葉を待つ。

「さくらをよろしくって、槙原君に伝えて。それと、ごめんね。巻き込んで」

「依頼料をきちんと払ってもらえれば問題ない」

 その場から立ち去って、彼は独り、考察する。

(最悪の場合……か)

 そのほうが面白くなるかもしれないがな。

 口には出さずに思いを馳せる。薄く歪んだ口元を押さえながら、彼は闇夜に姿を消した。

 

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