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夜が明けて朝が来る。 それは日常と呼ぶにはあまりに当たり前な現象ではあるが、槙原耕介にとってこの変わり目は大きな意味があった。 海鳴市のはずれにある国守山。その山頂付近に位置するさざなみ女子寮の管理人というのが、彼の仕事である。朝早く起きて、掃除をし、風呂をたき、食事の用意をしながら、庭の花壇と寮にやってくる猫たちの世話もする。毎日の日課の始まりだった。 太陽が昇る頃に起きる彼の朝は、この寮の中で誰よりも早い。故によほどのことがない限りこの日常が壊れることはなかったし、寮生のためにも、耕介は変わらぬ朝の風景を作ることを心がけていた。 寮生たちが起きてくる少し前に朝食が出来上がる。普段と同じように起きてきた寮生に先に食事を促して、耕介はリビングを後にした。 昨夜、さくらを連れて帰ったことに驚いた寮生たちに耕介が話したことはさほど多くなかった。それでも深く追求せずに受け容れてくれる彼女たちの寛容さに感謝しながら、耕介は客間に向かった。 軽くノックをして、しばし待つ。もう一度ノックをして、返事がないと判断してから彼は、ゆっくりとノブを回した。 少女は眠っていた。混沌と、眠り続けていた。 現実から逃れるように眠る少女の姿はあまりにも弱々しかった。泣きつかれて眠るさくらの前髪をそっとなでて、その寝顔を伺う。 安らかな顔──とはとても言えなかった。まぶたは腫れ、頬は涙の跡がついたまま、時折、子犬のようにか細い声を上げる。居たたまれない気持ちになりながらも、耕介はどうにか自制した。それが同情なのか、それとも彼女をこんな風にした昨夜の人狼に対する怒りなのかは判りかねたが、今ここで自分が感情的になっても意味がないことだけは理解しているつもりだった。 とにかくさくらにうなされている様子がないことにホッとして、耕介は部屋をあとにした。 「お兄ちゃん」 「どうした? 知佳」 部屋を出てすぐ、彼を迎えたのは義妹の仁村知佳だった。 「さくらちゃん。大丈夫だった?」 「まだ寝てるよ。夕べは遅かったし、疲れてた部分もあるだろうから、今はそっと寝かせてあげよう」 「う、うん」 どこか気まずげに頷く知佳の頭を撫でて、二人はリビングに戻った。驚いたことに、誰もまだ朝食に手をつけていなかった。 「あれ? どうしたんです? みんな」 「さくらちゃん。大丈夫でしたか?」 岡本みなみが知佳そっくりの様相で耕介に訊いてきた。 「今はまだ寝てるよ。起こすのもかわいそうだから、寝かせて置いてあげようと思ってね。ほら、早く朝ごはん食べないと、学生組みは遅刻するぞ」 『はーい』 納得していない顔で幾人かが頷く。いつもは元気な美緒でさえ、どこか機嫌悪そうにフォークを握っていた。口元についたソースをナプキンで拭ってやりながら、耕介は従姉で寮のオーナーである槙原愛に向き直った。 「愛さん、今日は……」 「今日の講義は午前中で終わります」 「そうですか。あの、でしたら……」 耕介が言いかけたのを、銀髪金目の少女が遮った。 「ボクやみなみは今日から試験だから」 「ああ、リスティたち風高生は今日から中間テストか……」 「はい。だからお昼までに終わります。部活も禁止ですから、速攻で帰ってきます!」 比較的自由になる時間が早い二人をうらやましげに見ていた知佳が、ふと食事の手を止めて耕介を見た。 「……えーと、お兄ちゃん、愛お姉ちゃん。わたし、学校休んじゃ駄目?」 「知佳」 諭すように、耕介は妹の額を軽くこついた。 「みんなも。綺堂さんのことを心配しているのはわかる。あの子が何を抱え込んでいるかは俺にもわからないけど、困っているのは確かだ。でもそういう時だからこそ、やっぱりいつもどおり振舞ってあげるのが一番だよ。その代わり、彼女が聞いてほしいと言ってきた時は、存分に力を貸してあげればいい。それまではいつもどおり学校行って、知佳や美緒は普段どおり授業、リスティとみなみちゃんはしっかりテストを受けてくること。いいね?」 諭す口調に緩やかに励ましと叱咤を含ませながら、耕介は食卓を見渡した。 「うん」 「らじゃった」 「わかりました」 「OK」 素直な少女たちに笑みを返して、耕介もまた食卓についた。ただ一人、この場では耕介同様成人している愛だけが、にっこりと耕介に視線で合図してくる。 「愛さん」 「何ですか?」 「愛さんが帰って来たら、俺は薫を迎えに行きます」 「薫さん、ですか? たしか今は……」 「大学のサークルの合宿で、静岡にいます。往復で今日中には帰ってこれるとは思いますけど」 「わかりました。綺堂さんのことは私が見てますから」 「お願いします」 学生たちが次々に学校へ行くのを見送りながら、耕介は雲行きの悪い空を見上げた。 太陽が見えない空はどんよりと暗い。 気分の晴れないその日の朝、愛が帰って来ても、さくらは起きてこなかった。
◇
薄暗い地下に構えられた喫茶店の一席。たいして美味とも思えない紅茶で喉を潤してから、神楽双真は眉をひそめて言った。 「綺堂裕一?」 「はい。綺堂家の三代前の当主であり、夜の一族史上最強の戦闘者と謳われた方です」 問いに律儀に答える少女に目配せする。彼女はすぐに察したようだった。資料のコピーをとっているのはさすがに手際がいい。それを双真に手渡してから、彼女は説明を再開した。 「さくらお嬢様の曽祖父にあたります。残念なことに数年前に病気で亡くなられましたが、今もなお、彼の成した業績は伝説として語られています。コードネーム『オリジナル・セカンド』の名が示すとおり、最古の吸血種の再来とまで言わしめた彼の実力はまさに超一級。現在、四聖として世界四強に名を連ねているフリーデルト・オリジンの師匠でもあることを鑑みても、まぁ全盛期の彼が世界最強だったのは間違いないかと思います」 赤毛の少女の説明を聞きながら、双真は独り、その名が記憶にないか検索をかけていた。そこまで有名なら知っていても可笑しくないはずなのだが、どうにも覚えがない。 「彼は若い頃には、イレイザー部隊の隊長も勤めていたようです。その分、恨みも随分と買っていらしたみたいですが、その全てを力ずくで返り討ちにされたそうですよ」 「なんだか気が合いそうだ」 「私もそう思います」 同意を示して、少女──リオ・カリスマンは資料をめくった。 「彼がそこまでの実力を発揮した原因は、おそらく血によるものでしょう。吸血種と人狼族、両者の才能を見事に受け継いだのだと推測されます。で、ここからが本題ですが。人狼族からもまた『狼王』と謳われ崇められていた彼には、腹違いの弟が居ました」 「それが奴か?」 「いえ、さくらお嬢様を襲ったのは臥王という名の息子です」 関係図を頭に思い浮かべて、双真はすぐにそれをかき消した。この騒動の原因と結果が読めたからだ。 「あの、そこでもう何もかも解りましたって顔されると、必死に情報集めた私の立場がないんですけど……」 汗を一筋、頬に浮かべながら、リオは呻いた。 「聞いてやるからさっさと話せ」 「あ。は、はい……えっと、もう予想されているとは思いますが、この騒動は裕一様の弟、蛟臥様に端を欲したものです。腹違い──つまり、蛟臥様は吸血種の血筋ではありませんでしたが、裕一様に対して強い嫉妬心を抱いていたようでした」 「逆恨みもいいところだな」 「私もそう思ったのですが……裕一様も、その、性格的に決して善人と言い切れる方ではなかったらしく、まぁ恨まれても仕方ない、むしろ恨んでない方がおかしいだろうと当時のことを知る人は口をそろえていたくらいで……」 いくらか口調に戸惑いを浮かべながら、リオはハンカチで汗を拭いた。 「結果、兄弟間で血みどろの死闘が幾度となく繰り広げられ──言うまでもなく裕一様が全て圧勝されたわけですが……」 「さらに憎悪がつのった結果、その息子がご丁寧に復讐に来たわけだ」 「そうなります」 襲われる本人からしてみれば、迷惑なことこの上ない理由である。呆れも多分にあったが、それ以上につまらなさを覚えて、双真は沈黙で話の終りを受け容れた。 すでに結果の見えた今回の騒動に興味はなかった。依頼主──リオの上司から頼まれたのは、正確には『昨夜』だけのことである。延長で事情を聞いたのは、双真の古い友人である槙原耕介が、おそらくこの件が解決するまで首を突っ込むだろうと判断したからだ。 綺堂さくらを保護することという仕事はすでに終了したと言っていい。これ以上、自分が何かをする必要はなかった。 反応を示さない彼に、訝しげにリオが眉をひそめる。 「…………」 「……あの?」 「帰るか」 「ま、待ってください!」 本気で慌てたように双真の腕を引いて、リオは叫んだ。構わず立ち上がって自宅へ足を向ける彼に引きずられるようにリオの足が地面を滑る。 彼女は何が何でもこちらを逃す気はないようだった。 「今、双真さんに抜けられたら困ります!」 「くだらなさにもほどがある。正直なところやる気が失せた」 「最初からそんなのなかったじゃないですか!」 その通りの発言に、双真はピタリとその足を止めた。 「ほほう?」 自分でも笑っていることを自覚しながら、双真はリオの方に顔だけを向けた。身長差があるために見下ろす形で少女を見やる。瞬間、彼女の顔が一気に青ざめた。 「えっと、あの、あー……あ! そうだ! もう仕事料、お支払いしましたよね? だからお金の分くらいは仕事してくださると、なんだか少しだけハッピーです」 「それなら昨夜の分で十分に果たしたと思うが?」 「えーと……それもそうですよね……じゃなくて!」 おもわず納得しかけた自分を叱咤するように首を大きく振って、リオは一気に詰め寄ってきた。 「追加分を払うって約束で手伝ってくれる約束じゃないですか! それにこの件は槙原さんだって関わってます! あの人がさくらお嬢様を放っておけるとは思いません!」 正確には、彼が動いたからこそ自分が動く必要がないと感じたのも理由の一つだった。昨夜戦った感じでは、例え『満月』になって強くなったとしてもたかが知れている。耕介とエリザベート──さくらの叔母でリオの雇い主──が組んで戦えばさほど苦戦することもなく倒せるはずだった。 「そこまで言うなら、俺がその気になるようなものがあるんだろうな?」 「……双真さんがやる気になるかはわかりませんが、一つ、気になることは在ります。エリザ様がおっしゃられていた最悪の事態のことです」 言われて、双真は「ああ、そんなこともあったか」程度に記憶から呼び起こした。 「確か、奴の目的が『真なる原初の狼』──だったか?──の復活にあるかもしれないんだったな。どういう意味だ?」 「『真なる』、とは『神なる』の意でもあります。つまり──」 彼女の発した言葉の内容に、彼は歓喜した。それは敵に出会えて喜びではなく、やりがいのある仕事だと感じたわけでもない。 結果として生まれるだろう力の在り方に、彼は心の底から共感を覚えたのだ。 それは同時に、彼の立場の逆転を意味した。
◇
静岡にある合宿所まで、そう遅くならないうちに到着できたのは僥倖だった。帰り道、急ぎ帰る支度した神咲薫に申し訳なく思いながらも、耕介は車を再度海鳴に向けて発進させた。車の中でもう一度、事のあらましを助手席に座る彼女に説明する。 全てを聞き終えてから、彼女は疑問を一つずつ口にした。 「狼神?」 「または狼神っていうらしいけどね──綺堂裕一という『狼王』、そのさらに上を行こうと考えたみたいだね」 山道から高速道路へ。さほど混んでいない車の隙間をかいくぐりながら、アクセルを更に踏み込んでいく。薫が少し身体を硬くするのがわかった。 車のスピードに少しばかり戸惑いながらも、彼女は話の本質を掴み、的確に根元に存在する問題を言い当てた。 「霊力の吸収……ですか」 「うん。多分、いや、きっとそうに違いないだろうって」 霊力とは生き物が生きていくために必要な生命エネルギーのことである。生きている限り、そこには必ず霊力が存在する。霊力を得る方法は簡単で、言ってしまえば食事を取るだけでいい。もちろん霊力は生き続ける限り消費する。霊能者と一般人の違いは、それを操る技術を持っている点にあった。 薫もまた、幼き頃から修行を受けている本物の霊能者である。神咲一灯流という退魔の家系の跡取りである彼女は、さすがにこの手の出来事への理解は深かった。もとより耕介に退魔や霊力と言ったオカルト知識を教え、教授したのも彼女である。師と呼んでも差し支えない彼女のほうが、遥かにキャリアは上であった。 「綺堂さんのお父さんやお爺さんも襲われたらしい。いくらか怪我を負いはしたけど、なんとか逃げたそうだよ。今は、安全なところで治療しているみたいだけど……」 言葉を濁した耕介に、何かを察した薫が眉をひそめた。 「……もしかして?」 「うん。吸血種と人狼の二つの治癒力をもってしても治りが遅いらしい。傷口からごっそり霊力を持っていかれて、今もまだ、二人とも全身虚脱でベッドから動けないそうだ」 霊力を得る最も簡単な方法は食事をとること。それを考えれば、昨夜の人狼──臥王と言う名の狼男の行動は至極真っ当であり、同時に最悪の選択でもあった。 もとより人間よりも霊的構造の結びつきが強い人狼や吸血種と言った亜人種は、小さな子供ですら、時に人間種族の中ではトップクラスに霊力の高い薫と同程度のそれを保持していることがある。元来の生命エネルギー保有量が人間種族に比べてはるかに高いのだ。 同時に、亜人種は天性的に霊力の扱いに長けていることが多い。身体能力や寿命に大きく影響を及ぼす霊力許容量が高い彼らにとって、霊力を操ることは生きる上で必要不可欠だからだ。 だからこそ、臥王は人狼と吸血の二つの血を引く綺堂家を襲った。彼らを喰らうことは、吸収によって霊力を爆発的に増大させる最も効率的な方法であり、同時に父親の復讐を果たす効果的な方法だからだろう。 しかしそれは、『同族喰い』という最大の禁忌を犯すという、もっとも愚劣な行為でもあった。 「綺堂は今?」 「合宿所に着く少し前に愛さんから電話がかかってきたけど、まだ寝ているそうだよ」 「そうですか……」 小さな沈黙の後、薫は疑問を口にした。 「それで『狼神』とはなんですか?」 「エリザさん──って、綺堂さんの叔母さんでエリザベートさんっていう人がいるんだけど──その人が言うには、人狼族の『ランク』だそうだよ」 「ランク……というと、つまり階級のことですか?」 「うん。一番下から『臣狼』『志狼』『賢狼』。ここまでが下層クラス。中層に『牙狼』『天狼』がいて、上層に『狼王』。そして最上級が『狼神』」 改めて考えてみると、妙な制度だった。横のつながり、そして何より仲間意識の強い彼らは、しかし自分たちの群れに確かな上下関係を構築している。しかもそれは人望などによるものではなく、確かな力関係でしかない。 多種族への理解は、思った以上に困難だった。 「臥王という人狼の階級は?」 「集落を抜け出す前は『牙狼』──中堅だね。でも、綺堂さんのご両親を襲い霊力を吸収した時点で、最低でも『天狼』にはなっていると思っていいそうだよ」 「止められなかったとですか? その最初の時点で」 「ん?」 薫のいう『最初』が図りかねて、耕介は一瞬だけ視線を彼女に向けた。 「臥王という人狼がいた群れにも、長がいたはずですが」 「今の長が何のクラスかは解らないけど、エリザさん曰く、臥王と同レベルかもしくは下だったんだろうって話だよ。自分より力の強い狼を止められなかったんじゃないかな」 「長が一番強い、というわけではなかったと」 「可能性の話だけどね」 その通りだと、耕介は言ってから自覚した。 狼神という名の最上級の人狼。昨夜さくらを襲った臥王という名の人狼が、狼神になるのに、あとどれほどの霊力を必要としているのかは全くと言っていいほどわかっていない。 例えば、臥王の今のランクが『狼王』だとして──と、考えて、耕介はすぐに否定した。 最古の吸血種の再来とまで言われた綺堂裕一の強さをもってしても『狼王』止まり。もし臥王が『狼王』なら、あの程度──耕介と双真の二人がかりで戦って優勢に持ち込める程度──の強さであるはずがない。 なら──と、考察を続ける。 エリザベートは一体何を危惧しているのだろうかと。 可能性。彼女はそう言っていた。狼神というのは、考えられ得る結果の中で、最悪のものだと。そうなる可能性があるからこそ、臥王を放っては置けないのだと。 狼神になることが臥王の目的だと、はっきり断定できたわけではない。逆に復讐が目的だということも、ただの理由付けでしかない。臥王という敵の行動を元に、こちらが勝手に予測しただけなのだ。 現に、臥王は一般人は一人も襲っていない。霊力が必要だと言うなら、無差別に人間を襲撃しても言いように思えるが、人が襲われたと言う情報は入ってきていない。だからこそエリザベートは臥王の目的が復讐だと判断したのではあるが。 (だったら、別に狼神になる必要はないよな) 結局、そういう結論に至る。 ずっと奇妙な感覚に囚われていた、その答えが少しずつ浮かんできている気がする。 (彼女は何かを隠している?) 姪を心配しているだけではない何かがきっと、エリザベートという女性の内側にあるような気がして、耕介は思わずため息をついた。 薫がそれを見咎めるが、彼女は何も言わなかった。その心遣いに感謝しながら、高速の出口に向かう。 日は暮れていたが、月は出ていなかった。
◇
純粋な怒りは、それそのまま言葉に表れた。 「それはつまり、あなた方は不干渉を決め込むと?」 自制しろという命令も無駄になりそうな感覚に囚われながら、エリザベート・フュンフト・フォン・エッシェンシュタインは白髪豊かな老人に向かって赤い視線を強めた。 人狼族、臥王が居た集落の長は、見た目小柄な老人だった。しかし、その人となんら変わりない容貌の裏側に、今なお衰えぬ力を秘めていることを、エリザの吸血種の瞳は的確に見抜いていた。 あごひげに隠された唇が、小さく動く。 「左様。臥王はすでに村を離別した。あれについては、我々はもはや無関係じゃ」 「ではお尋ねします」 爪が食い込む。その痛みでどうにか怒りを押さえ込みながら、エリザは説いた。 「彼を止められなかった責任をどう取られるおつもりですか? 彼が我ら一族にもたらした被害は、決して軽いものではありません」 そこで一度言葉を切る。長の表情に変化はなかった。続ける。 「そちらの言い分は理解しました。つまり今後、臥王をどう扱おうとあなた方は一切関知しないことには、もう本当に、何ふざけたこと言ってんだこのジジイってなくらい不承ではありますが、譲りに譲りまくって認めましょう」 長の額に汗が浮かぶ。それで少しは気分が晴れたが、このくらいの仕返しではまだまだ足りない。 「社会では上司は責任を取るために存在します。貴方はそれを、どう取られるおつもりですが」 「辞任せよというなら、そうする心積もりはあるが」 エリザは鼻で笑った。 「まさか。そんなくだらないことをされてもこちらの気は収まりません。金脈を一つや二つ、っていうかむしろ全部よこしなさぃ──ではなく、いただくくらいでないと」 乱れかけた口調を慌てて直すと、今度は長が荒げた声を上げた。 「アレは我々の生命線じゃ、渡すわけには行かん! 吸血の一族は高利貸しにでも身を落としたか? 吹っかけるにも程がある!」 「たとえ話ですよ」 自分より数倍以上長生きしている存在を足蹴にするのは、ある種快感だった。人狼の社会が閉鎖的になっている分、彼は交渉に慣れていない。弱点など、いくらでも見つけることが出来た。 「まぁでも、最悪の場合を考えてその覚悟はして置いてください。臥王という人狼が『狼神』になれるとは思いませんが、それでも万が一というのはありますから」 「なれんよ」 部分的に同意する長の口調は、いくばくか乱れていた。 「随分と断定なさるのですね」 「当然じゃ。神は神。狼神というのは原初の一部じゃ。それが何を意味するか、解らぬわけでもあるまい。最古の吸血種の再来、最強の狼王──数々の異名で呼ばれた綺堂裕一さえも、『狼王』止まりじゃ。たとえ、夜の一族全てを食い尽くしても、神には届かん」 「それは可能性の話ですか? それとも決定事項ですか? 我ら一族全員の霊力を知り尽くし、臥王の現在の霊力をきちんと定量的に計測し、ありとあらゆる要因を考慮した上でのお答えですか?」 「いや、それはさすがに……」 困ったように違うと言いかけた長の口が止まる。エリザの瞳が、再度紅く灯っていた。 「ならばそれは可能性という、予測の域を出ない考えに過ぎません。軽率な言動は謹んでくださらなくては困ります」 「う、うむ……すまんかった」 小娘に言いくるめられることに幾分か不快感を覚えたようだったが、長は顔を青ざめながら頷いて見せた。 「この件が片付き次第、そちらに賠償を請求しますので、その点は覚悟しておいてくださいね」 「何度も言うがな。その点については平行線じゃ。臥王のしでかしたことについて、我らが責を負う必要はないはず。おぬしらとて同じじゃろう? 人間もまた然り。個が犯した罪を、種族が負う必要性はない」 歯がきしむ。奥歯を噛み締める痛みは、どうにかエリザを正気に保っていてくれた。確かに長のいうことは正論だ。間違っていない。だが、論理などこの際どうでもいいのだ。常識などそれこそゴミに捨てて燃やしてしまえばいい。 何故ここに夜の一族の後継者が来たのか、いまだ理解していない長に対して苛立ちを募らせながら、エリザは表面上だけは平静を装って質問した。 「なら、改めてお聞きします。何故彼は綺堂家を襲ったのですか? 吸収するなら他の家でも良かった。純粋な戦闘力では月村や氷村の方が遥かに上なのですよ?」 「父親の確執じゃろう。それはおぬしも知っているはずじゃ」 「つまり、臥王には、父親──蛟臥の無念を晴らそうという思いがあったのですね?」 「それはわからんが……」 「それでは困ります。予測で応えないでください」 「しかし現に……」 「結果論もいりません。過去、彼がこの村で暮らしていた頃、父の無念を晴らそうという思いを口にしたり、態度に示したりすることは一度もなかったのですか?」 「一度も、と言われると困るな。ない……とは言い切れん」 「あったのですね?」 「一度や二度ほどはあるじゃろう? 酒の席で愚痴を言いたくなったりすることくらいは……」 「あったのですね?」 「いや……だからな? 酔った上での言動じゃ。言質などはまるでないと……」 「あったのですね?」 「………そうなるじゃろうな」 何か釈然としない表情でしぶしぶ頷く長には気づかれないように、エリザは唇をゆがめた。 「彼は普段から、復讐などを口走っていましたか?」 「それはないな。むやみやたらと強さを求める傾向はあったが、それもまだ、子供の純粋な欲求でしかなかった」 「では吸血種についての偏見は?」 「なかったと言えば嘘になるが、吸血種狩りを実行に移すほどではなかった」 「どうしてそう思われたのですか?」 「いや、さすがにそれを実行するとは普通は思わんじゃろう?」 確かにその通りだが、臥王にはそれをしても不思議ではない背景がある。そして実際に行動に移している。追及は後にして、エリザはさらに質問を続けた。 「父親のことは尊敬していましたか?」 「していたように思う。だが同時に、軽蔑もしておったな。何度も伯父──綺堂裕一に負け続けた父親をふがいないとも思っておったようじゃ」 「強さを求めていたとおっしゃいましたが、具体的にはどのように?」 「小さい頃は、だれかれ構わずけんかを吹っかけておった。戦いを好み、狩りを好み、力を誇示することを楽しんでおった。成長してからも相変わらず強さを求め続けてはおったが、少なくとも表側にそれを出すようなことはなくなったし、むやみに戦いをしかけることもなかった」 なるほどと、内心エリザは頷いた。だから長は何も思わなかったのだ。 「つまり、大人になってからの彼を見て、何も問題がないと思われたわけですよね? 実は彼は変わっておらず、内側に吸血種への偏見やら、復讐やら、強さへの欲求やらが渦巻いていたのに、それに気づかなかったと」 「しかしな……」 何か反論しかけた長を、エリザはピシャリと叩き伏せた。 「しかしもかかしもありません。気づけなかったから、今があるんでしょう?」 「それは結果論じゃ……」 「そうです。結果の話をしているのですから、当然でしょう?」 「おぬし、つい数分前の自分の言葉を覚えておるか?」 呆れた口調で眉をひそめる長に、しかしエリザは笑うだけだった。 「覚えていますとも。要するに、長が臥王の内側にある闇に気づけなかった、わからなかったという結果を示すために、少し回り道をしただけです」 「どういう意味じゃ?」 「言ったとおりです。忘れないでください。これは『責任』の話です。長は臥王を止められなかった。そこに責任はないとおっしゃられましたが、そうではないことは、今の会話ではっきりしたではありませんか」 「なんじゃと?」 長の頭の回転の悪さは、今になって思えば滑稽だった。 「わかりませんか? 要するに、臥王が吸血種に偏見があり、父親の復讐を果たそうと言う考えがあり、強くなるために吸血種狩りを実行する可能性があることを知りながら、彼を止めることができなかった責任です」 「無茶を言うな。それは可能性の話じゃろう?」 「そうですね。でも対処は出来たはずです。今回のような結果が起こりうる可能性のあることを考慮して行動を起こすことも出来たでしょう」 長は激昂した。立ち上がり、憤然と眼を怒らせながらエリザに詰め寄る。 「おぬしなら出来るか? 可能性はあくまで可能性じゃ。犯罪を侵すかもしれない、というただそれだけで犯罪者扱い出来るはずがない。犯してもない罪でどうして責めることができよう! ただの予測だけで、臥王の未来を縛ることなど出来るはずがない。いや、してはならんじゃろう!」 「その結果がこれですか」 長の圧力を受け流し、自然に漏れ出た微笑は、自分でもぞっとするほど冷たかった。 「貴方の責任は、ただ一つ、怠惰です。閉塞し、変化の少ない人狼の世界で、今なお変化を求め続ける臥王という存在の本質を読み違えた。全ての可能性を考慮し、考察し、全ての事態に迅速に対処を講じるからこその主導者でなくてはならない。群れのトップに居ることに対する自覚が足りない。いえ、そんなことは今更どうでもいいことです。要するに──」 言葉を切るのは一瞬。溜まりに溜めた感情を一気に吐露するかのように、エリザは押さえ込んでいた怒りを爆発させた。今なお、状況を正確に理解していない長に向かって、容赦なくさっきを叩きつける。 「然るべき処置を取っていただかないことには、我々の──っていうか、もうわたし個人の怒りが収まりません。解っていますか? 最初、自己紹介した際に言ったはずです。わたしは今、一族を代表してこの場に居るのだと。いいですか? おつむの弱い貴方に免じて、もう一度言います。わたしは一族の代表です」 長は無言だった。齢にして数分の一しか生きていない娘に圧倒され、その小柄な身体が余計に小さく見える。そこに威厳などは欠片もなかった。 「夜の一族は、臥王の駆逐を決定しました。あなた方がそれに対して不干渉を決め込むならそれもいいでしょう。しかし、臥王という存在を野放しにした責任は取っていただきます。今が全面戦争一歩手前だということを理解してください。譲歩はしません。臥王を駆逐した後は、人狼──といっても、この群れに対してのみですが、戦いを仕掛けさせていただきます。それを避けたいなら、どうかご理解のある対応をお願いします」 沈黙は痛く、冷たく、そして無常だった。青ざめた長に対して一礼して、その場を後にする。客間から出る前、エリザはもう一度彼に向き直った。 「解っていないようだから、これも言いましょう。わたしは今、究極的に怒っています。怒りゲージMAXです。必殺技ならレベル3発動で、どんな強敵だろうと瞬殺できるくらいに怒り心頭しています」 それだけ言い切ると、エリザは長の家を後にした。家の周りに集まっていた人狼達が何事かと目を丸くする。彼らに罪はない。それは解っていたが、今はその能天気な表情さえも苛立ちを増長させた。 それでも──と、いくばくか冷静な部分でエリザは思った。 この豊かでゆったりとした平和な村と、戦わないで済みますようにと。
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