3

 

『RM−H』

 その名で呼び始めたのは誰だったか。

 いつしかそう名づけられた少女たちの会合は誰にも気づかれることなく、密かに、かつ不定期に、だがその名に恥じぬ少女たちの誇りを持って厳かに開かれる。

 およそ一年前に端を欲したその会合のメンバーは、基本は六名となっている。と言うのは、時折臨時で参加する者が存在するからだが、例え臨時でもそこに差別はなく、全員が平等で、誰がリーダーと言うわけではなかった。誰もが同等の権限を持ち、発言する権利を持ち、行動に移す資格を有していた。

 RM−HのM──Maiden(メイデン)とは彼女たち全員を示す。一であると同時に全て。一人でありながら全員。それは彼女たちの結束を意味するとともに、個人の意志の強さを明示した名前だった。

 だからこそ、彼女たちはこの名に誇りを持つ。誰にも侵犯されてはならない神聖なものとして扱い、そこに生きる意味を見出す。

 そして今日も少女たちは集う。

 自分たちを取り巻く世界を、少しでも幸せに、快適に、心地よく──笑顔で過ごすために。

 閑話休題(たてまえはともかく)──

「あ、このポテチ新作?」

「うん、こっち方面だけの限定販売だって。あ、でもあたしはオーソドックスに薄塩がいいかな? やっぱり」

「イカ墨ソースチップ。斬新なアイデアだよね」

「うちは、いつか誰かがやるとは思ってたで? イカ墨パスタは中々いけるやん」

「お兄ちゃんに今度作ってもらう?」

「うぅ。あたし、この味きらーい! そっちのチョコが欲しいのだ!」

「あぁ、美緒ちゃんには合わなかったか……」

 三人寄れば何とやら。年頃の少女たちがそれ以上に集まれば、真面目な話を除けば普段はこんなものである。

 RM−H。直訳するなら、さざなみ女子寮<少女(・・)>秘密会議──この<少女>というは極めて重要だったりする──は、学校終了後、メンバーのみが知る秘密の場所で開かれていた。

 会合場所は決まって寮生の一人、椎名ゆうひの部屋である。理由は単純で、彼女の部屋が唯一、防音処置を施されているからだ。であるから、寮内であるなら他の誰か──例えば少女でない(・・・・・)人たちや、管理人に気づかれるのではないかという心配も実はない。彼女たちが集まる際は、一度寮の外に出て、ちょっとした裏技で全員そろってゆうひの部屋に入るのが常だった。

 そうして今日みたく、お菓子片手におしゃべりするのである。

 議題は常に変わる。少女たちの幸せって何だろうと、男が見たら疑問に思うような事柄を話し合う集会といっても過言ではない。が、今日ばかりは少し毛色が違った。

「──と、まぁお菓子の話はさておいて、そろそろ本題には入ろうよ」

 知佳が本題を切り出したと同時に、皆がしんと静まった。

「本題……」

 相槌を打つように見せて、どこか釈然としない表情のリスティ・槙原は、ポテチに伸ばす手を止めることなく続けた。

「要するに、『耕介の様子が変なのは何故?』ってこと?」

「そや。うちは今日の昼に海鳴に帰ってきて、知佳ちゃんから事情聞いただけで、実際に耕介君にはまだ会うてへんねんけど……」

 と、ゆうひが知佳に目配せする。察した知佳が頷いて見せた。

「なんか、怒ってるみたいだった」

「確かに、少し機嫌悪そうだったね」

 リスティも控えめに同意する。

「ちょっとぴりぴりしてるくらいだとしかわかんなかったけど……」

 みなみはその原因を想像しながら意見した。美緒を除く皆が、今一階の耕介の部屋で寝ているだろう少女に意識をやる。

「さくらちゃんを襲った人って、どんな人?」

「いや、知らない」

 知佳の質問にリスティが首をひねる。誰もそのあたりの詳細は何も聞いていなかった。ひょっとしたら愛あたりが聞いているのかもしれないが、彼女に聞いても応えてくれるとは思わない。

 心を読める知佳とリスティが、しかしその行為に及ぶことにためらいを覚えるほどに、どこか大人たちの態度がぎこちない。

 と、ゆうひは寮にいるはずのもう一人の成人女性の存在を思い出した。こういう困ったときには何かと頼りになる姉御が、何故か見当たらなかったことに今更ながら気づく。

「そういえば、真雪さんはどないしたん?」

「サイン会で今は北海道」

「薫ちゃんは?」

「大学の部活で合宿所。今お兄ちゃんが迎えに行ってるよ」

 端的な知佳の回答に、ゆうひは思わず唸り声を上げた。お手上げだった。そもそもこの少女会議、頼りになる大人(・・・・・・・)が居ないのだから建設的な意見を得られるはずもない。

「ともかく、耕介君がちょっぴり機嫌悪いのは、間違いなくさくらちゃん襲撃事件が原因やね?」

「でもさ、どうして耕介の機嫌が悪くなるの?」

「犯人が許せないから?」

 控えめなみなみの意見に知佳が同意して、しかしリスティが首を振った。

「耕介って確かに『超』の上に『弩』がつくほどのお人好しだけど、そんなに正義感溢れてたっけ?」

「そう言われると……」

 ハテナ? と首をかしげる薄情な義妹である。

「警察に行かへんのは……まぁええわ。何か──さくらちゃんの方にも事情がありそうやし。でもなぁ、耕介君の様子がおかしいっていうその理由がわからへん」

「ついでに言えば、愛もね。何か隠してるみたい」

 頷く少女たちの反応を確かめてから、ゆうひは続けた。

「二人がうちらに何かを隠しているか、もしくは、耕介君も知らない何かがあることに、耕介君自身が気づき始めているのか。謎や。しかし謎はうちが解いてみせる! じっちゃんの名にかけて!」

 顎に手をやって俯き考えるゆうひに、リスティの裏手がポスリと突き刺さった。

「いや、今はボケはいいから」

「ナイス突っ込みや! って、それもおいといて」

 切り替えが早いゆうひの思考に付いていけなかったらしいみなみがソファーに突っ伏していた。

「ともあれ少し様子見やね」

「わたしかリスティで心を読むって手もあるよ?」

「やめといたほうがいいよ」

 知佳の提案に、しかし反対を示したのは親友のみなみだった。

「そやね。帰って来たら話してくれるかも知れへんし、耕介君自身、知らされてない裏事情があるかも知れへん。うちらの手が必要なら、向こうから声かけてくるやろ」

「神咲先輩にも意見聞いてみましょうか」

「薫ちゃんもメイデンの一人なわけやし、帰って来たら再度集会開こか」

 というゆうひの建設的な意見に、返ってきた回答は実に意外なものだった。

「それはいいんですけど、何でわたしだけのけ者なんです?」

「そりゃ、愛さんはもう大人やし、これは仮にも『少女の集まり』なワケやから……って──ええっ!」

 ゆうひの雄叫びにあわせて、全員が後退りした。

 それもそのはず。今この場には居ない、居るはずのない人物──槙原愛が、ゆうひたちの知らぬ間に鎮座ましましていたからである。

 浮かぶ汗を拭う余裕もなく、ゆうひはかすれた声で寮のオーナーの名を呼んだ。

「あ、愛さん……」

「はい?」

 きょとんとしている彼女は確かに名前の通り愛らしく、とても成人している風には見えない。だが事実、彼女は獣医学部の学生で、ゆうひよりも年上である。

「いつからそこに……」

「ごめんなさい。何度かノックしたけど返事がなかったから。ちょっとお留守番頼もうと思ってみんなを探してたんだけど、誰も居なくて」

 当然だ。寮生はここにいる者で全員である。

「どのへんから聞いてた?」

「耕介さんがお人よしだってあたりからかな? ……ところでみんなで集まって何してたの?」

「ちょっと乙女の作戦を……」

「??」

 愛が、ゆうひの答えに目を瞬かせるのも無理はなかった。と、それをごまかしたかったわけでもなかったのだが、知佳が身を乗り出して愛に詰め寄った。

「ねぇ、愛お姉ちゃん! さくらちゃんは?」

「まだ起きてこないの。たまに様子を見に行ってはいるけど……」

「わたしも……」

「それは駄目」

 様子を見ていい? と言おうとした知佳の言葉を、愛はぴしゃりと遮った。

「ど、どうして?」

「耕介さんから頼まれてるし、それに……さくらちゃんも、多分今の姿を見られたくないと思うから……知佳ちゃんやリスティだって、わかるでしょ?」

 そう言われては返す言葉もなかった。

 綺堂さくらに何かしら秘密ごとがあるのは察している。その何かはわからなかったが、どうやら『自分たち』と同じ類のものであるらしいと、気づけないでいるほど知佳もリスティも鈍感ではない。『正体』がばれても気にしないでいられるほど子供ではない。

 だから気になった。だから力になりたかった。

 しかし愛の言うとおり、自分たちが勝手に彼女の秘密を知るのは順番が違うというのも事実である。自分が彼女の立場ならと考えると、自然と答えは出た。

「夕飯前に、耕介さんと薫さんが帰ってくるから、そうしたら事情を聞けばいいと思うの。ね?」

 そうして優しく諭されたなら、うんと頷くしかない。愛の言葉にはそういう不思議な力があった。

「さすがは愛さん。大人の貫禄やね」

 言葉とは裏腹にほっとした顔で呟くゆうひに、ふいに浮かんだ疑問を愛は口にした。

「ところで乙女の作戦って?」

「うっ!」

 質問の矛先が変わって、ゆうひが真っ先にうめき声を上げた。

「ここには『少女』しか集まってはいけないと言うルールがあるのだ」

 誰もが言いにくそうに口をつぐむ中、美緒だけがあっけらかんと秘密を暴露した。その口元に付いたチョコレートを拭ってやりながら、

「『少女』?」

 愛は疑問を声に出して反芻した。そのままゆっくりと視線をゆうひへと向ける。

「『少女』しか集まってはいけないんですか?」

「愛さん、その視線と口調がどことなく気になるんやけど……」

 半眼で呟くゆうひの態度に、愛は小さく噴出した。堪え切れなかった笑いが漏れ出る。

「アハハ。冗談ですって」

 眼に涙を浮かべながら言っても全くフォローにはなっていなかったが。

「みんなの仲がいいのはうれしいんだけど、でも、あんまりわたしを仲間はずれにしないでね。あ、それから──」

 立ち上がったところで用件を思い出したらしい。ドアを開けたところで愛は振り返った。

「一時間ほど留守番、お願い出来ないかしら」

「どこか行くの?」

「足りない調味料を買いに行くだけだから、小一時間で戻ります。耕介さんの帰りが遅くなるみたいだから、晩御飯の支度しないといけないし……」

 その瞬間、全員の顔が青ざめた。浮かんだ汗を拭う間もなく、一瞬で互いの眼を見やり、頷きあう。メイデンとは一人でありながら全員を示す。彼女たちの意思疎通は完璧だった。

「あ、愛さん。うちも付き合ってええかな?」

「そ、そうだね。ゆうひちゃんも一緒に言ってもらったほうが早く済むし、その間に、わたしたちで準備しておくから」

「?? そう? それじゃ、下ごしらえだけでいいから、お願いしようかな。耕介さんがある程度準備してくれているから、それほど手間じゃないとは思うんだけど……」

「う、うん! それで今日の晩御飯は」

「ハヤシライスにするって、耕介さんは言ってたけど」

「ハヤシライスだね! 了解!」

 ビシッと敬礼してみせる知佳の態度にいくばくか疑問を抱いたようだったが、ゆうひに押されるようにして愛はそのまま退室して行った。

 階段を下りる音がなくなってから、残った少女たちは小さく息を吐く。

 愛の料理があらゆる意味で脅威的なものだというのは、さざなみ寮では既知の事実だった。

「あ、危ないところだった」

「知佳ちゃん、ナイスフォロー」

 親指立てて健闘を称えあう知佳とみなみに、リスティが冷めた口調で水を差す。

「でも、ボクたちだけで作れる? ハヤシライス」

「一度作ったことあるから、レシピはわかるよ。それに、いざとなったらゆうひちゃんにも手伝ってもらうし」

「そっか。ならあたしとリスティは雑用かな」

「OK」

「美緒ちゃん」

「ん?」

 チョコをかじりながら、美緒が上を向く。真剣な知佳の瞳もどこ吹く風で、最年少の彼女は小さく首をかしげた。

「愛さんの相手、お願いね」

「らじゃった」

 解ったのかそうでないのか。お菓子を食べて満足げな美緒の反応に不安は拭えなかったが、じっとしているわけにも行かない。今はとかくキッチンに向かうべきなのだ。

 さくらのことを後回しにするわけではない。ただ今は、いつもどおり、普段どおりにしていよう。深刻なときほど明るく元気に──さざなみの活力だけは失いたくなかった。

 と──

「ところで知佳ぼー。いったい、何歳から何歳までが『少女』なのだ?」

『え゛?』

 美緒の邪気のない問いかけに、女子高生三人組は無言で固まった。

 

      ◇

 

 神咲一灯流と呼ばれる流派がある。鹿児島に端を欲し、分家である楓月流は京都に、真鳴流は青森に位置し、日本全土の悪霊、怨霊退治──いわゆる霊的災害を引き受けるオカルト専門の一派である。初代・神咲灯真が創設して以来四百年間、彼ら神咲家は日本の霊的秩序の守護者として、表に出ることなく活躍してきたわけだが──

 その宗家の跡継ぎである薫は今日、本気で神咲家の滅亡を意識した。

 何故だろうと言う疑問が頭に渦巻く。危険ならいつだって乗り越えてきた。厳しい修行に泣き言など言ったこともない(と思う)。歯を食いしばれ。死を意識するな。後ろを向くことなく、歩き続ければいい。戦う刃を下ろすな。神咲の命は、悪しき霊と戦えぬ者たちの前に立ち、盾となり、その身を護るためにあるのだから。

 そのとき、パクリと言う擬音を聞いた気がした。もちろん錯覚だったが。

 濃厚な味と混ざりながら舌を駆け巡るフレッシュな感覚。何故か砂をかむような砂利音。そして時折歯に絡みつくのはガムのような粘着性の『何か』。

(これはハヤシライス! ハヤシライス! ハヤシライス!)

 言い聞かせながら飲み下す。とりあえず、一口目は大丈夫だった。

「…………生きてる?」

 ついそんなことを疑問に思ってしまう自分が情けなくはあったが、同時にそう口に出来ることさえも幸せを感じていた。ちっぽけな幸福感だった。

 見ると、隣に座って同じような格好でスプーンを加えている耕介の顔もまた、なんとも表現できぬ複雑な顔になっていた。

 とかく生きていることにだけは、頑丈な身体に生んでくれた母親と、耐え切ってくれた自分の胃に対して感謝しておかねばならない。

「うぅ……ごめんね、二人とも。ゆうひちゃんがぐれちゃって……」

「ぐれた?」

 その単語の意味がわからなかった。

「少女って年じゃなくなった自分が嫌になったんだって。荒れた結果がコレ」

 指差す先にはハヤシライス(みたいなもの)。耕介と薫は思わず顔を見合わせた。

「ワケが解らん。っていうか、ゆうひが作ったこれを、みんな食べたのか? 綺堂さんに食べさせるつもりか?」

「わたしもそれはどうかと思ったから、さくらちゃんにはどうするのって言ったよ。さすがに悪乗りしすぎたって反省したみたいで、急ピッチで野菜スープ作ってた」

「まぁ、あいつへの責任追及をかねたツッコミは後にするか」

 問題は今このときだと、目線を下に下ろす耕介に従って、薫もまた湯気立つ茶色の物質に目をやった。

 見た目はおいしそうなハヤシライスである。あくまで見た目だけは。

「十六夜や御架月に食べさせてあげられないのが残念やね」

 薫がポツリと呟いた言葉に、宙に漂う西洋美人とその弟が、にっこりと微笑を返してきた。

「謹んで遠慮させてください」

「姉さまに同じく」

 姉の様相は金髪に蒼い瞳。そして白袴。おっとりとした雰囲気、優しげな顔立ちに、しかし今は楽しげな色が混ざっている。

 一方の弟はまだ子供の雰囲気を脱しない、灰色の髪に金目の活発そうな少年である。姉と対照的な黒の式服のせいか、背伸びした弟のように感じられなくもない。

 どう見ても、人間そのものにしか見えない姉弟である。だが彼らこそ、神咲がその名を日本全土に知らしめた再秘奥そのもの。秘儀にして秘剣。秘法にて造られし秘宝。霊剣と称される霊的神秘の『本体』だった。

 剣に宿った魂とでも言うべきか。物にも触れるし誰にでも見ることは出来るが、霊体であるが故に物を食べることは出来ない。

 残念そうに、幽霊もどきの姉弟は首を振った。

「それほどまでに不味……いえ、美味しくないんですか? 耕介様」

「いや、不味いかと言われるとそうでもないんだよな、実は……」

 耕介の言葉に、薫もまた頷いて見せた。確かに不味いわけではない。不気味なだけだ。

「でもなんかこう、痒いところに届かないというか、痒いんだけど、その場所がわからないというか。そんなもどかしい味なんだよ」

「よくわかりませんが……」

 冷や汗一筋、流しながら御架月が相槌を打つ。

「よく食べきられましたね、みなさんは」

「それはうちも思います。感心しました」

「あ、あははは」

 笑い返すしかない知佳の反応に、薫と耕介は、まさに苦虫を噛み潰した表情で二口目を運んだ。まだ大丈夫だった。

「まぁ夕飯のことはさておくとしよう。綺堂さんのことなんだけど……」

「まだ起きてこないね」

「綺堂の様子は?」

「帰ってきてから一度見に行ったけど、出かける前と同じ。霊力は減ってる風でないのに、眠り続けてる」

「……後でうちも見に行きます」

「うん。お願い」

「お兄ちゃん。わたしも……」

 言いかけて、知佳は口ごもった。彼女の気持ちはわかる。気になるのだろう。それが決して好奇心などではなく、純粋に心配からくるものだということくらいは、薫も知佳と言う少女の性格は知っているつもりだった。

 それでも許可できない。きっと、自分が綺堂の立場なら──と思うと、それは出来なかった。耕介も同じ考えだからこそ、彼女の看病を愛に任せていたのだ。

 それに、

「綺堂さんの叔母さん……エリザベートさんって言うんだけどね。事の発端はその人から聞いたんだ。俺が昨晩、綺堂さんを助けに行ったのも、今、家に送らずにうちで預かっているのも、実はその人の意向なんだよ。綺堂さんが起きるまでは、少なくとも他の人に会わせないで欲しいというのもね」

「そうなんだ……」

 耕介の言うことは本当なのだろう。初耳だったが。

 エリザベートと言う名は、薫も聞いたことがあった。当然だ。綺堂さくら属する夜の一族の後継者、ということだけではない。ヨーロッパに本拠を構える世界四代財閥──エッシェンシュタイン家の代表でもあるのだ。よほど世情に疎かったり、新聞を読まない子供でない限り、彼女を知らないことのほうがおかしい。

 ただ薫は、自らの特殊な生い立ちから、エリザベートが実は吸血種だということを知っているに過ぎなかった。当然、面識などない。

 そうこうするうちに、手元の皿が空になる。

「ごちそうさま」

「うわ、すごい! 食べきった!」

「……知佳ちゃんのその驚き方がちょっと気になるけど、まぁ……我慢の許容範囲だったから」

 見ると、耕介もいつの間にか皿を開けていた。

「知佳、後片付けお願い出来る?」

 ウップと口元を押さえながらお茶で気分晴らしをして、しかし耕介はダイニングを出る前に不意に扉のところで立ち止まった。

「あー、知佳」

「なぁに?」

「ごめんな」

「? えっと……おにいちゃん?」

 耕介が何を言いたいのか、何を謝ったのか。薫にもわからなかったが、仲のよい血の繋がらない兄妹のやり取りを、彼女はそっと見守った。

「落ち着いたらきちんと話すよ。だからそれまで待ってて欲しい。勝手な言い分だってのはわかってるけど……ね。それぞれがそれぞれに、出来ることは違う。俺には俺の、知佳には知佳の役割がきっとある。ゆうひはそれが解っているから(・・・・・・・・・・)、こんな料理を作ったんだと思うしね」

「へ? それはどういう……」

 知佳の質問には答えず、耕介は優しげに微笑んだ。

「知佳たちの出番はこれからだよ。きっとみんなの力を借りるときが来るから。だからもう少し、待っててくれないか」

「お兄ちゃん……」

「頼りにしてるよ」

 先立って自室へ戻る耕介を見送る。薫はあえてダイニングに残った。

「知佳ちゃん。何か心配?」

「え? ううん。大丈夫……」

 噛み締めるように頷く。耕介の言葉を胸に抱くように息を整えて、知佳は薫に向き直った。

「うん、頼りにしてくれるのはちょっと……ううん。大分うれしいかな。でもやっぱり心配。今朝のお兄ちゃんが機嫌悪いみたいだったし……」

「それはきっと……」

「きっと?」

 言いかけて、薫は口を閉じた。言うべきではない。不明瞭な、不確定なことは、個々の裁量で勝手に決め付けるべきではない。今浮かんだ考え自体、薫の想像でしかないのだから。それでも、

「耕介さんの様子が、もし怒っている風に見えたなら、それはきっと、綺堂を襲った犯人に対してじゃなく──」

 どうしてそう思ったのか。薫自身不思議だった。

 それでもこの答えが間違っていないと確信している。他に思い浮かばない。

 さざなみに帰る道中、薫もまた『それ』を見たのだ。知佳が言うような感情。内側の、本当に心の底に小さく浮かび始めている『怒り』の雰囲気が、耕介の瞳に静かに宿っているのを薫は確かに感じ取っていた。

「耕介さんは……きっと綺堂に対して怒っている(・・・・・・・・・・・)。そんな気がする」

「え?」

 知佳の驚きの声を背後に、薫は耕介の後を追った。

 薄暗い部屋の中で、いまだ眠り続ける少女の下へ──

 

      ◇

 

 吐いた息が小刻みに震える。

 早すぎる呼吸。鳴り響く鼓動。何の幻だと、少年は思う。

 額から流れる汗が、まるで他人事のように身体をぬらしていく。いつしかそれは、赤い液体へと姿を変え、地面をぬらし、辺りを生臭い色で覆っていった。

「ボク……は」

 自分の名前を言おうとして、しかし少年は口ごもった。

 名前? 自分は一体誰だろう。わからない。おかしいな。さっきまで、友達と一緒に遊んでいたはずなのに。

 ほんの数メートル先に倒れている三人は、確かに見覚えがあった。そうだ、彼らだ。生まれたときからずっと一緒の幼馴染み。

 呼ぶ。彼らの名前。自分の名前を知っているはずの、友達の名前を。意識せずに出た声に、しかし返事はない。

 なんとなく理由はわかっていた。返事をしないのではない。出来ないのだ。手足を引き千切られ、臓物をかき出された彼らの瞳に、すでに色はない。

 見開かれた友達の目。その小さな頭を軽々と持ち上げる一つの影が、少年の瞳に映った。

 影は大きかった。見たこともないくらい大きな影だった。裂けるような大きな口がバクリと開き、友達の頭を丸呑みにする。バリボリと。骨を噛み砕き、血をすすり、脳みその苦味にうっとりと目を細める影は、そこにあった三人の死体を食い終えると、ゆっくりと少年に赤い瞳を向けた。

「お、生きてたか。運がいいな」

 朗らかに、陰は笑った。

「さすがに死んだ奴らばかりで物足りなかったんだ。うれしいぜ、餓鬼。よく生きててくれた。せっかくだから踊り食いをしたいと思ってたところだったんだ」

「え?」

 問う。全身全霊、全ての意識を総動員して、影を見る。

 おぞましいほどの黒い毛並み。赤い瞳。涎滴り落ちるその口元からは、収まりきれぬ牙が姿を覗かせていた。

「まずは脳みそを吸うか。いや、目ン玉から食うかな。せっかくだから、四肢から食って絶叫する様を見つめるのもおつだよなぁ」

「……」

「決めた。脳や心臓は後回しだ。俺ってばおいしいものは後に食べるタイプなんだよ、悪く思うな。それじゃ、いただきます」

 痛みなどない。ただ反射的に叫ぶ。手が食いちぎられた。その事実が、すでに出血過多によって痛覚の麻痺した少年の脳に、痛いと言う錯覚を起こさせた。

 わからない。どうしてこうなったのだろう。

 目の前の影が甲高く笑うさまを見つめ続けながら、少年は思う。

 同族喰いと呼ばれる禁忌。その餌となってしまった事実に思い当たることもないままに、少年はやがて、影の血肉へと変わって行った。

 

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