4

 

 小さなふくらみが、ゆっくりと、静かに上下する。寝息に音はなく、身じろぎしないその様子は死体を連想させるほどで、白い肌が余計にそれを助長しているのかもしれない。自分の抱いた感覚を振り払うように、薫は一度軽く頭を振った。

 さくらの額に軽く手をやり、熱がないことを確認してから耕介の方に顔を向ける。彼はどこか、居たたまれないような表情でさくらを見ていた。

「さて、どこから話そうか……」

「耕介さん?」

 綺堂さくらの様子に変化はない。だがそれこそが異常だと、二人は暗黙的に理解していた。だからそれには触れない。今はまだ。

 耕介が近くの椅子を引き寄せたのに合わせ、薫はベッドの端に腰を下ろした。

「エリザさんから──って、ああ、さっきも言ったさくらちゃんの叔母さんから聞いたんだけどね」

「はい」

 彼が何を言いたいのか。この際最後まで聞くべきだと、薫は頷いて先を促した。

「綺堂さんはドイツ生まれらしい」

「は?」

 だがあまりにも唐突な発言に、薫は思わず目を瞬かせた。一方の耕介は随分と痛ましげに眉をひそめていた。言葉にすべきことは解っている、そんな表情で。けれど声に出すことで伴う痛みに、いや、むしろ自分よりも他人に与える痛みに苦しみを感じているようだった。

「日本国籍を持ってはいるけど、ドイツ生まれ。で、ご両親の仕事の都合で、七歳の頃に一度日本に住んでた時期があったらしい」

 言葉がなかった。耕介が綺堂さくらの過去を知っているその驚きよりも、何故彼がこんな話をし出したのか、その理由の方が気になった。

「だけどその日本で彼女は否定された。髪が赤みを帯びていることや、瞳の色が違うことでいじめられたそうだ。可愛らしい内気な少女だったらしいから、余計にね」

「…………」

 想像するのは難しくなかった。異種を排他するのは、時として子供の方が無邪気である分だけ残酷だ。

「だから彼女の両親は日本国内での引越しを三度ほど繰り返した。仕事があったらしくてね、ドイツには戻れなかったそうだ。でもやはり状況は回復されず、一年後、綺堂さんだけがドイツへ帰国する。いや、ドイツ人じゃないから、渡独したってことかな」

 一度、耕介は目を伏せた。そのままで語りを再開する。

「それは本人の意志というよりも、彼女の両親が望んだことだった。傷ついている娘をほうっておけなかったんだろう。でも決して無視していたわけでもない。彼女、幼い頃から本の虫で、『独り』が好きだったらしくてね。ドイツへ渡るのはかなり本人も乗り気だったそうだ」

 だけど、と。一度言葉を切るその口調が更に重くなった。

「ドイツで、ちょっとした事件が起こった。いや、それは事件なんてものじゃなかったんだけどね。どこにでもある、ありふれた日常のワンシーンだ。でも、やっぱり彼女にとっては事件だったんだと思う」

「何があったんです?」

「恋をした」

 コクリとなった自分の喉に、他人の物のような浮遊感を覚える。

「一目ぼれ、だったそうだよ。エリザさんだけじゃなく、他の誰が見ても一目瞭然なくらいに……」

 確かにそれは日常──といって良いかどうかわからないが、さして事件といえるほどのものでもない。だが、さくら当人にとっては確かに事件規模の出来事だったに違いない。耕介の口調から察するなら、それは間違いなく、

「彼女にとって、それは『初恋』だった。だから無邪気に信じた。自分が相手を好きだから、相手も自分を好きになってくれると。疑いもしなかっただろうね。まだ……えーと、確か七歳?──の子供だよ。無理もないさ」

 部屋は暗く、耕介の顔をはっきりと見ることは出来なかった。それでも、彼の瞳に確かな哀しみが宿るのを、薫は確かに感じてとっていた。

「自分がどんな存在であろうと、相手はきっと受け容れてくれるだろうと……綺堂さんは思ったんだろう。いや、もしかしたら、自分が人とは違うってことをまだ理解してなかったのかもしれない」

 結論を導き出すのは比較的容易だった。幼い子供に人の弱さを、自分と違うものに対して恐れを抱く『人の本能』を理解できるはずもなく、受け容れることの大切さや難しさを、おそらく同年代の少年に求めるのもまた酷というものだ。

「彼女は自分の正体を明かした。耳と尻尾。そして吸血の特性」

 結末はすでに伝わっている。なら言葉にする必要性はなかった。それでも耕介はやめようとしなかった。

「結果、その信頼は脆く崩れた。あっさりと裏切られた。その痛みを、俺はきっと理解できない。想像するしかない。だけど、それがどれだけ彼女の心を深くえぐったのかは解るつもりだよ。一応、大切なものを失った経験(・・・・・・・・・・・)もあるし」

 まだ先がある。さくらへの同情と、しかし一方で変わらず冷静な霊能者としての部分がぶつかり合う。結局感情の起伏を外に出すことなく、薫は耕介の話の続きを待った。

「深く傷ついた彼女を救ったのは、エリザさんの魔術だった。この辺は俺自身、魔術が何なのかよくわかってないから詳しくは言えないんだけど、『忘却術』っていう文字通り記憶を塗り替え、都合の悪い記憶を消す術らしい」

「──っ! 綺堂の記憶を消したと……?」

 歯がきしむ。痛みは如実に口調に現れ出た。

「それくらい酷かったってことだろう? そこまでいないといけないくらい追い込まれてたってことさ。想像するだけで怖いよ……」

 その様子を、その状況を自分の弟や妹たちに置き換えてみる。自然と身震いが起きた。

「それで結局、綺堂さんの記憶に残ったのは、一目ぼれをした記憶と、ふられた記憶だけになった」

「……ふられた記憶も?」

「下手に全て忘れさせるよりは、ある程度は覚えさせておいて、都合の悪い場所だけを塗り替えたほうが本人も納得しやすいそうだ。実際、綺堂さんは一目ぼれをした相手の男の子の顔を覚えていないし、覚えていないことを不思議に思うこともない。自分は恋をしてふられた。その事実だけが彼女の心に残る。失恋した記憶があるから、それでもある程度は落ち込んでいたようだけど、本当に隠したかったこと──つまり、自分から正体をばらして拒絶された記憶を、彼女は持っていない」

 だから、必要以上に傷つくこともない。裏切られたことを覚えていないのだから。

 今度こそ、薫はさくらの過去が背負う痛みに目を瞑った。不幸と言い切ることは出来ない。誰が悪いわけでもない。誰かを責めることのできない痛みや、どこにも『悪』の存在しない悲劇には、どうしたって居たたまれなさが伴う。

 目の奥に熱を感じながら、耕介が続ける言葉を受ける。

「結果として、確かに彼女の心は救われた。でも弊害もあった。記憶は操作したはずなのに、彼女は自分の正体を知られることを極度に恐れるようになった。必要以上に『他人』に対して壁を作るから当然友達なんて出来ない。血のつながった家族にさえ一線を引くようになって──ああ、でも忍ちゃんっていう親戚には何かと気にかけてるみたいだけどね。エリザさん曰く、自分と似ているからだろうってことだけど」

 ちょっとした朗報さえも、必要以上にほっとしてしまうのは、それだけ気が重くなっていた証拠だった。

 それでも想像してしまう。拒絶するしかない痛み。拒絶されることを恐れ続ける少女の心の内を理解することなど、所詮他人でしかない薫には理解することなど出来ない。

 いくらか共感を覚えなくもないが、薫とさくらとでは、生い立ちも背負う物も決定的に逆の立場にあった。

「話を戻すけど、ドイツでも彼女は居場所を見つけられなかった。まぁ、普通の人でもそんなに簡単に見つかるものでもないけどね。ドイツでも意図せず正体がばれたときも、彼女は問答無用でその土地から離れた。拒絶されたわけでもないのに、逃げた。結果として、誰も彼女を否定などしなかったのに、彼女は背を向けた」

「耕介さん?」

 彼の言葉が少しずつ熱を帯びてくる。何が彼に怒りを覚えさせたのか、薫はうっすらとわかりかけていた。

「俺が綺堂さんを知ったのは、知佳やみなみちゃんを通じて、相川君つながりでだから、昔の彼女がどんな風だったか。この街に来てからどんな感じだったのか。俺はよく知らないけど……」

 意識のこもった視線に、少しだけ、安らぎの色が混じる。

「この街に来てからの彼女は──正確には、海鳴で『彼ら』と出会ってから、彼女は変わったって、エリザさんは言ってた。友達が出来て、自分の正体が知られても受け容れてくれる仲間が出来た。自分だけが特別なんじゃないことに気づき始めた。殻にこもるだけでは、何も得られないことを知った。だから、今回はどういう結果になるかわからない。ひょっとしたら逃げないかもしれない(・・・・・・・・・・)

 だがそうならないことを明らかに予測している耕介の表情に、薫はさすがに疑問を口にした。

「何故、言い切られるんですか?」

 言外に耕介の言葉の裏を察していることを示すと、彼は軽く苦笑して見せた。

「霊能者の勘……って言ったら、先輩に笑われるかな?」

 先輩というのは、勿論、薫のことだ。

「どうなるかはわからない。どういう選択を彼女がするのかも解らない。でも昨日から彼女を見ていて解ったことがある。この子は……いや、この子も(・・・・)……」

 一度言葉を切る。その全てが、自分の苛立ちの根源だといわんばかりの声色で。

「自分が周囲からどれだけ愛されてるか全く解っていない」

「…………」

 軽くウインクしてみせる耕介の表情は、もう普段のものに戻っていた。

「だからその辺、ちょっとわからせてやろうと思ってね」

 クククと意地悪く笑う様子は、どこかさざなみ寮最年長の某漫画家を連想させる。どこか耕介らしくない表情に、薫は思わず引きつった笑みを浮かべた。

「綺堂さんを寝かしつけた後のエリザさんの悲壮な顔を、この子は知らない。知佳やみなみちゃんが、どれだけ心配していたかを知らない。この子は、自分が思っている以上に周囲から必要とされてる。その点ではうちの──知佳やリスティ、ちょっと普通じゃない子(・・・・・・・・・・・)たちと同じだよ。自分だけが、自分なんて必要ないと思ってる。他人と比較して、普通じゃないことを気にして、だから自分みたいな存在が幸せになれるわけないって思ってる」

「そんなことは──」

 ないと言い切れない辺り、さざなみ寮の女性陣も特殊な部類が多い。かくいう薫とて、そんな意識がないとは言い切れなかった。

 剣を手に取り悪霊と戦う。この道を進むと決めたことに後悔はないが、一方で周囲を巻き込まないよう一線引くよう心がけていた。だから知り合いは多くても友人と呼べる人間は少ない。戦いという血なまぐさいものに手を染めている自分が、人並みの幸せを手に入れることに抵抗を感じているのも確かだった。

 だがそんな考えさえも、耕介には我慢がならないらしい。

「俺から言わせれば、みんな普通の女の子(・・・・・・)だよ」

 誰を想像したのかはわからなかったが、耕介の目が一瞬遠くなった。

「それにね、頑張っている女の子が幸せにならなきゃ嘘だ。苦しんだ分だけ、幸せがあってもいいじゃないか。薫も、知佳もリスティも、綺堂さんも……いや、彼女たちだけじゃない。みんなもね」

 夢物語だと。年齢に見合わないほど現実を知っている薫は一瞬そう思ってしまった。そんなに世の中は甘くない。優しくもない。だがそれは……

「世界が優しくないことくらいは知ってるつもりだけどね……それでも俺は、自分の周りにいる人たちが幸せじゃないのは嫌なんだよ。我侭な願いだってのは解ってるけど」

 耕介も知っていることだった。薫には薫の背負うものがあるように、耕介とて優しくお人よしで料理好きの、家事万能なだけ(・・)の人物ではない。

「だから──」

 もう言うべきことは全て言い終えたかのように晴れ晴れとした表情で、耕介が笑う。

「薫も協力、よろしくね?」

「は?」

 展開の流れについていけず、薫は目を瞬かせた。

「だ・か・ら、協力♪」

「何を……ですか?」

 冷や汗一筋を拭う余裕さえなく呻く。

「そうだね。名づけるなら、『綺堂さんの正体ばらして、みんなでハッピー大作戦』?」

 何てネーミングだ。心で突っ込みながら、表面だけは冷静を装った。

「あの、おっしゃられている意味がよく……」

「エリザさんの秘書さんにお願いして、相川君たちにはすでに連絡済。メンバーが全員そろったら、知佳たちにも動いてもらおうかな」

「耕介さん……」

「ん?」

「何か、らしくなく(・・・・・)策士ですね?」

「……考えたのは、俺じゃないんだけどね」

 少し目線をそらした耕介に怪訝に思ったそのとき、

「あの、それはどういう──っ!」

 自分の尻の下に伝わった振動に、薫はすぐにベッドから立ち上がった。だが反応はない。いまだ目覚めぬ綺堂さくらの吐息に変化はなかった。

 しばし、耕介と息を潜める。

(気のせいか?)

 やがてそう思い始めた頃、小さく身じろぎして、眠り続けていた少女が目を開けた。

 

      ◇

 

「幸せには貪欲に、楽しいことには積極的に、他人の不幸は吸い尽くせ──やはりいい言葉だよなぁ。誰が言ったのかはわからんが……」

 電話の受話器を置きながら、長身長髪、白衣の男は一人静かに笑みを浮かべた。

「なんだかなぁ……」

 すぐ傍で、聞き耳を立てていたその親友が呻く。逆立つ染めた金髪が、呆れ加減を示すかのようにすこし萎えた。

「耕介の奴、ぜぇーったいに相談する相手を間違ってるぞ」

「何を言う。『弟』のピンチを救うのは『兄』として当然のことだろう?」

「いや、だからお前、いい加減『耕介離れ』しろよ、十四郎」

「お前こそ、いい加減恭也君とやらをからかうのをやめたらどうだ? 陸王」

 しばしの沈黙、にらみ合いの後、二人は同時に笑い声を上げた。

「ハッハッハ。やめられるか。あのくそ真面目なガキ、からかえばからかうほど食いついてきやがるからな。もうしばらく、楽しませてもらうさ」

「気の毒に」

 自分のことを完全に棚に上げる友人に、彼は格好だけ嘆いて見せた。

「人のことよりお前はどうなんだ?」

「俺のは純粋な思いやりからだ」

「うそつけ。正体ばらしてみんなでハッピー大作戦? もうちっとましなネーミングはないのか? 絶対に耕介の窮地を楽しんでるだろ? っつーか、何でそれを耕介の奴も疑わないのかね」

「信頼の……」

「いや、絶対にそれはないから」

 パタパタと手を振る金髪男に、長髪がうめき声を返す。反論できない自分に苛立ちを感じている口調で、彼はしかし窓に外に広がる夜空を見上げて言った。

「信頼……されてないのか? いやしかし、だったら相談なんかしてこないだろうしなぁ……ま、結果的にあいつが幸せになるならそれでいいんだが」

「だから、それが甘いんだって……」

 金髪男の愚痴もどこ吹く風、彼は独り、はるか遠く離れた地に住む親友を思いやる。海鳴の夜空が晴れていることを望みながら、冷めてしまったコーヒーを口にした。

(後の問題は臥王という人狼がどう動くか。双真が何を考えているのかも気になるし……どうしたものかな)

 保険はかけておくべきだという勘が働く。様子を知るための情報(ライン)もほしい。誰かいい人材はいないかと考えて、彼は、

「いたな、適任者」

「ん?」

 そのまま、すぐ傍でナイター中継を楽しんでいる幼馴染みの顔を見た。

 

       ◇

 

 その日、人狼の集落が一つ、この世から消えた。それを最初に知ったのは、その事態が起こることを唯一予想していた人間だった。

「やはりこうなったか」

 生きている者はいない。目の前に広がる全てが惨劇の後。それを悲劇と思わない辺り、彼もまた異質であった。

「さて、残っていれば良いんだが」

 そう思って散策を始める。血塗れた地面。飛び散った肉片。生臭い瘴気で充満した空間は、全ての存在の侵入を頑なに拒み続けている。気分は最悪、むかつきは最高に達していたが、彼はそれでも淀みなくその地に足を踏み入れた。

 やがて目的のものは見つかる。ここを襲撃した例の『敵』は、同族を食うことにしか興味がなかったらしい。建物はその殆どが無事であるのに対し、誰かが生き残っている様子はどこにもない。どうでもいいことだった。

 彼の目的は小さな土蔵だった。鍵を拳撃一発で破壊し、脆くなった戸を開く。

 果たしてそこに、小さな階段が現れた。地下へと続く階段だった。

「俺の勘も捨てたものではないな」

 躊躇なく階段を降り、数歩進んだところで壁にぶち当たる。他に分岐のない一本道、進むべきは、この壁の先にあった。

 暗闇の中、ただまっ平らな土の壁を見つめる。やがて彼はその角にある小さなくぼみを見つけた。なぞり、押す。小さな振動音を奏でながら横へと引っ込んでいく土壁の動作に、予想通りだったことへの核心の笑みを浮かべながら、彼は更に暗部へと進んだ。

 そうしてたどり着いたのは、地上にある土蔵本体と同程度の広さの空間である。ただしそこには書物が所狭しと積み重なり、今にも倒れんとしてひしめき合っていた。人ひとりがどうにか入る程度の隙間しかないほどの蔵書量である。

 軽く見積もっても数千冊は下らなさそうな本の山に、多少げんなりしながらも手元にあった懐中ライトをつける。

「さて、さっさと読破するか」

 こともなげに言う言葉に、しかし力はない。この量を読みきるとなれば、やはり二、三日は軽く有してしまう。その間の行動を制限されるのは痛かったが、この場所を自由に使えるこのときを逃すわけにも行かなかった。

 一冊目の本を手に取る。長期戦であることは百も承知だった。

「あるはずだ」

 確信があった。

 狼王。狼神。この二つが何なのか。その情報が。王だとか神だとか不安定で概念的なものではなく、もっと具体的な、そう呼ばれるだけの象徴たるものが。

 思考の速度を緩めることなく脳の記憶装置を最大限に活性化させる。

 神楽双真は独り、知識を蓄え始める。決して他人のためなどではない、彼自身の目的のために。

 そうしていく冊目か。何時間経っただろう──時を見るのを止め、もう数えるのもやめてしまっていたが、千冊は軽く終えた頃だった。山積みされた本の下から調べた甲斐があったと──人狼の死体の群れを見ても何一つ動揺を見せなかった彼の眉がはじめて動いた。

「やはりあった。消去砲。ディスフィックスと呼ばれる意味消滅を成し得る力」

 自然と歪んでいく笑みは、だが決して喜びなどではなく──

「これで俺もまだ強くなる」

 力を求める狂気を含んだ、戦闘者のものだった。

 

      ◇

 

 その報告を聞いたとき、彼女の襲ったのは猛烈な悪寒だった。

「神楽君が消息を絶った?」

「正確には、行方がわからなくなった、です」

 秘書の少女の訂正を右から左に聞き流して、エリザベートは力なく傍にあったベンチに腰掛けた。

 人気のない夜の公園は、しかし冷気と虫の音で静謐さをかもし出していた。夜の空気を心地よく感じながら、今得たばかりの情報を整理する。

「彼から目を離したの?」

「いえ。一族の諜報部数名を随時つけてましたし、念には念を入れて発信機も忍ばせておいたはずなんですが……」

 そこまでしろとは言ってなかっただけに、エリザはこの少女の時に思い切った行動力に驚きを隠せなかった。同時に、

「それが逆にあだとなりました。発信機を囮にして、気がついたときには蒸発していましたから」

 神楽双真の尾行がいかに難しいかを実感した瞬間でもあった。

「加えて同時期に臥王が故郷の集落──つまりエリザ様(マスター)が交渉に行かれた人狼の村に向かったとの情報が入ったものですから、こちらも混乱して……」

「神楽君の足取りを掴めなくなったと……」

「申し訳ありませんでした!」

 深々と頭を下げる秘書だったが、しかしエリザにとって見れば、それはむしろ仕方のないことだと簡単に諦めがついた。

(彼が本気で行方眩ます気になったら、それこそ追跡関係の特殊能力でもない限り見つけられるはずないわよね……)

「まぁ、神楽君のことはいいわ。どうせ行方がわかっていようといなかろうと、彼がこちらの意図通りの行動するわけないもの」

 その事実があるだけに、確かにどうしようもないのが現状である。

「確かに、彼がどこにいるかわからないのは、何だか不気味通り越して怖いけどね」

 頷くリオの顔もまた、少なからず青ざめていた。

「それよりも当面の問題は臥王ね。結局、故郷に帰ったの?」

「はい。マスターと入れ違いだったのでしょう。正直ほっとしましたが」

「? どういうこと?」

「つい先ほど入った情報です。臥王が集落から去った後、周囲に張られている結界がなくなっていることに気づいた諜報員が不審に思って内部に侵入しました。それによれば、あの集落にいた人狼種族が全滅していたということです」

「…………え?」

 言葉を羅列しただけのように、単調な報告だった。だからこそ、そこに含まれる事実を呑み込むのに時間がかかってしまった。

(全滅?)

 反芻する。言葉が砕けてしまえば、後に残るのはその余韻。滅んだという事実。誤報という可能性を一切排除した真実に、エリザは思わずつばを飲み込んだ。

「……同族を殺した? いえ、まさか……食べた(・・・)の?」

「はい。間違いなく、あらゆる生態系で禁忌とされる『同族喰い』そのものです。村の大地はその七割が赤く染まり、散乱した血肉の臭いが充満していました。私も、映像ではありますが確認しましたから間違いありません。ちなみに、その映像と写真がありますが、ご覧になります?」

「いらないわ」

 きっぱりとそれだけは断っておく。言葉を濁したりすれば、後に大変なことになるような気がした。

「やってくれたわね」

 感じたのは、ただただ疲労感だった。脱力したと言い換えてもいい。何でもいい。どうでもよくなるくらい、その事実は腹立たしく、同時に笑ってしまうほど馬鹿らしい。

 どちらにしても、臥王は気が狂っているとしか思えなかった。

 浅ましいほどの上昇志向。高みに上り詰めるためだけに、他者を踏みにじることを厭わない精神力。まともな思考力では決して行動になど移せるはずがない。

 臥王が壊れた存在であるなら、それが自分たちに牙を剥くなら、戦うことに躊躇はいらなかった。

 息を吐いたのは、意識を切り替えるためだった。果たしてそれは上手く作用してくれた。

 戸惑いを捨てる。迷いもなくなる。臥王を殺すと、その心が固まるのは本当に一瞬のことだった。

「さざなみへいきましょう。槙原君と合流して作戦を立てるわ。あの村に居た人狼全ての霊力を吸収したのなら、私たちが個々で戦ってもきっと勝てない」

 月の満ち欠けで、その霊力が大きく左右される人狼ならなおさら──満月へと向かっていく今、勝算は時が立つほど薄くなる。

 だが意志を固めてしまえば行動に移すのは難しくなかった。活力の戻った身体は命令を送るまでも泣く自然と立ち上がり、歩き始める。後ろを振り向かずとも、その声を聞かずとも、秘書が後ろから付いてくるのが気配でわかった。

(命を奪い合う)

 そも、戦いの本質は常にそこにある。だがいつしかそれを忘れてしまっていたのは、ひとえにエリザのいる世界が幸せだからに他ならなかった。

(思い出すしかない。私が、世界が、私のことを知る全てが。私が何者でどこへ行くのか。今一度、このぬるま湯のような空気から脱して)

 自分の手に宿る血の臭いを感じながら、エリザはゆっくりと感覚を研ぎ澄ましていく。やがて公園を出て車に乗った頃、秘書の携帯にかかった電話は耕介からのものだった。

「さくらお嬢様が起きられたそうです」

 その瞬間、思いがけずエリザの顔に笑みがこぼれた。

 戻りかけた戦士としての感覚が身体を駆け抜けていく中、ほんの少しだけ、まだ残っていた『優しい姉』の顔で。家族が無事だったという事実が、エリザに更なる力を与える。

 それが彼女の戦う理由だった。

 

      ◇

 

 相川真一郎の携帯にメッセージが送られたのは、太陽が暮れて、夜の闇に目が慣れたころだった。

 少し前から通い始めた予備校に向かう途中のことである。幼馴染みの野々村小鳥が、少し前で微かに急いた顔で電話が終わるのを待っていた。もう三十分もすれば授業が始まる。のんびりしている暇はなかったが、しかし電話の内容を理解した瞬間、真一郎の意識から予備校のことは消えた。

 ただ簡潔に述べられたこと。リオ・カリスマンと名乗る少女の言葉に、しかし彼は不思議なことに一片の疑いも持たなかった。

「小鳥。俺、ちょっと今日はサボる」

「え? ちょ、ちょっと真くん? どうしたの? 急に」

「今さっき……」

 心に余裕がなくなっていることを自覚しながらも、真一郎は自分のすべきことを見失わなかった。

「さくらの家の人から連絡があった」

「さくらちゃん?」

「詳しくは解らないけど、どうも狙われてるらしい。襲われたそうだ」

 ミシリと、手の内の携帯が不穏当な音を奏でる。が、それが壊れるのを防いだのは、爆発した幼馴染みの暴行だった。

 一瞬にして視界が揺れた。違う。揺れているのは、襟首つかまれ振り回されている自分の頭だ。

「え? な、なななな何で! 狙われてるってさくらちゃんが? 誰に? どうして? さくらちゃんどうなったの? 無事なの? 怪我してない? 大丈夫だよね? ねぇ、真くんってば!」

「いや、だから、ちょっと、待て、落ち着けって、小鳥……うぷっ」

 視界が回転している気持ち悪さを必死に堪えながら、真一郎は小鳥をどうにかなだめ落ち着かせた。周囲の視線が微妙に痛かったが、今はそんなことを気にしている場合ではない。

「真くんこそ慌ててよ!」

「あー、目が回る。いや、だから大丈夫だよ、今は。さざなみ寮にいるらしいから」

「あ……みなみちゃんのとこ?」

 同じ学校の同級生が住む女子寮を思い出す。確かにあそこなら安全だった。

「そう。岡本のところ。だから落ち着けって。狙われてるって言っても、誰に、どんな理由でそうなったのかはまだ聞いてないんだ。だから、これからさざなみに行こうと思う」

「わたしも行く!」

 即答だった。迷いのないまっすぐな視線。綺堂さくらの身を純粋に案じている瞳。それが、真一郎の心にほんのりと熱を灯す。拒絶する理由などどこにもなかった。

「ああ、行こう」

 と、その前に。

「御剣や瞳ちゃん、弓華、唯子にななかちゃん。七瀬……はさすがに無理か」

「みんな呼ぶの?」

「味方は多い方が心強いだろ?」

 軽くウインクしてみせる。きっと来てくれるだろう友人たちの顔を思い浮かべながら、真一郎は液晶にヒビの入った携帯を操作し始めた。

 

      ◇

 

 漆黒の世界で、それは嗤う。

 残酷に、冷淡に、けれど絶対的な美しさをまとって。

 月のない夜を肴に、女は独り嗤い続ける。

 

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