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心にざわつきを覚えながら、少女は久方ぶりに光を見た。
◇
「起きた?」 まだ起きていない頭では、誰の声かはわからなかった。でも不快な感じはしない。何故だろう。視界がぼんやりと霞んでいるのは……。 そうしてようやく、重い身体、ふらつく感覚、その全てが意識の思い通りに動かないことに驚きながら、綺堂さくらは自分が眠っていたことに気づいて顔を上げた。 見知らぬ部屋だった。目に入ってきたのは椅子に腰掛けた長身の男と、その傍で、どこか気遣わしげに立っている青みがかった髪の女性である。それが誰だかわからないまま、彼女は問いかけた。 「……ここは?」 「? さざなみ寮の空き部屋だよ?」 男が立ち上がる。小声で女に何かを語りかけ──だがその中にはっきりとエリザという単語が聞こえて、さくらは訝しげに眉をひそめた。人狼の血を引く彼女の聴覚は、その内緒話を聞き逃さなかったからだ。聞かれていることに気づく様子もなく、男は部屋を出ようとしたところで不意に立ち止まった。 「何か食べる? 暖かい野菜スープ、作ってあるけど」 首を振る。食欲がないわけではなかったが、その厚意に甘えるのは何故か危険に思えた。 「そう」 それだけ言って、男が退室する。後に残された女二人。どうしたものかと迷っていたのは向こうも同じらしい。 「……大丈夫?」 どこか遠慮した声で話しかけてくる彼女には見覚えがあった。そう──だ。彼女は。 何故解らなかったのだろう。何故、思い出すのにこんなに時間がかかったのだろう。確かに体調は不安定だし、浮遊感も残ってはいるが、知人を忘れるほど呆けていたのだろうか。 「……神咲……先輩?」 「うん」 だが彼女は──神咲薫は率直に頷いてくれた。自分が認識されていなかったことも、聡明な彼女なら気づいているだろうに、気にしたそぶりもなかった。その心遣いに感謝しながら、ようやく先の男が槙原耕介だったことに思い当たる。同時に、昨夜、自分がどこに泊まったのかも思い出した。 「さざなみ寮……」 「うん。ここは神奈さんの──耕介さんの前の管理人さんの部屋。事情は、耕介さんから聞いた」 ビクリと身体が震える。知った。知られてしまった。まただ。 知らず、握り締めた拳。俯く視線。何を知られたから嫌なのかさえもわからない。何を知られたくなかったのかも。ただ、自分について、相手が知ってしまったという事実だけが、重苦しくさくらの心に圧し掛かった。 「わ……たし……は……」 言葉にならない声は、相手に伝わることなく霧散する。 それからどれほど沈黙の時が流れたのか。言葉もなく、ただ時計の針が奏でる機械音だけが独り、我が物顔で部屋を支配する。 耕介が帰ってこないことも不思議だったが、それ以上に、疑念を感じるほどさざなみ寮は静かだった。頻繁に訪れたことはないので、ただの印象に過ぎなかったが。 その異常な静寂の中で、さくらはじっと薫を見た。 神咲薫。今はもう卒業した、さくらが通う風芽丘のOGである。だが、それは瑣末なことだ。彼女の真骨は、さくらたち亜人種と戦う力を持つことにある。退魔師として、人に害成す者と戦う力が── その彼女と一対一で向き合うことは──特にこのような状況下では苦しさしか感じなかった。 感覚の麻痺したさくらにはわからなかったが、短い時間でないことだけは確かだった。沈黙に耐え切れずに、さくらは声を発した。最初はただ嗚咽のような音しか発せられなかった。身体の芯に力を入れる。喉に痛みを覚えるほど必死に声を紡ぐ。それは何かを考えたわけでもなく、ただ逃避に近い拒絶のような言葉だった。 「何故──」 「……うちは神咲じゃ」 「え?」 だがその言葉をさえぎる形で口を挟まれ、さくらは思わず顔を上げた。そして思わず見とれる。薫はじっとこちらを見ていた。その真摯な眼差しにじっと見つめられては、視線をはずすのにもまたエネルギーがいる。 だが思えば、椅子に座ることもなく、どこかに身体を預けることもなく、不自然なくらい自然体でそこに立ち、疑問に思わないほどの、だが語り合うには距離のあると感じさせる場所に佇む薫は、どこか普段の彼女と違って見えた。 「実家が退魔の流派だから、ではなく。うちはうちの意志で、魔を祓う道を進むと決めた。つらくとも、苦しくとも、誰に理解されずとも、悪しき霊に苦しめられている人を助けるために。悲しい想いを断ち切るために剣を取った」 その決意の視線が、さくらの心にざわつきを生む。恐怖とも不安とも似つかない、だが確かに負の感情と呼べる黒い何かが沸き起こってくる。 「迷いがないわけではなかとよ。うちは未熟じゃ。剣の技術だけでなく、心も」 「神咲先輩が?」 そんなはずがないという否定の声は、しかし当の薫の視線で消されてしまった。 「そんな未熟者が、偉そうに何を言っとるのかと思われてもしかない。けど……」 目を閉じて、息を吸う。そんな薫の表情に、さくらは思わず見とれた。 「この命、全てを懸けて護りたいものがある。うちが託された霊剣『十六夜』で。うちがこれまで磨いてきた剣術と霊術で」 渇いた喉が痛みを訴えてきた。自然と吹き出る汗の正体を思い知って、さくらは知らず身震いした。彼女は── 「耕介さんや愛さん。さざなみのみんなに──うちが大切に想う人たちに牙を向けるモノを、うちは斬る。例えそれが、顔見知りの友人だったとしても。うち独り、恨まれればそれでいいのだから」 黒い瞳に、力強い炎をともした霊能者である彼女は── 「綺堂はどうする?」 もしここで裏切るなら、薫は自分を斬るのだろうという意志が、切実に理解できた。 だから思う。ああ、それならそれでもいいのかもしれない。 薫はただ立っているだけだった。剣を抜いたわけでもない。殺気をはなっているわけでも、戦闘体勢を取ったわけでもない。そもそも、彼女は剣を持っていない。 だからこれは、覚悟の話だとわかった。 だからこそ、さくらは恐怖した。薫が本気なのだとわかってしまったから。 薫の言う『裏切り』がどういった『モノ』なのか、具体的には何も思い浮かばなかったが、それでもさくらには、薫の抱く決意がわかっただけで十分だった。自分がどれだけ迷惑な存在なのかを思い知るには十分だった。 「私は……」 「また、逃げる?」 不意に身体が凍張る。そんなことを考えたわけでは決してなかった。どうしてその言葉に痛みを感じたのか。解らないままに、混乱を飲み込む。 逃げる? どこから? 誰から? どうやって? どこへ? ──そもそも何故逃げる? 「そんなことは……」 ないと言い切れない自分に、再び愕然とする。何故、そうじゃないと、はっきりいえなかったのだろうと。だが混濁した心が応えてくれるはずもなく── 「もし逃げるなら早い方がいいかもしれないよ。相川君たち、ここに来るって」 「…………え?」 淡々とした薫の言葉が、混乱に拍車をかけた。 薫が言ったことを理解できなかったわけではない。理解したからこそ、混乱した。 何故、先輩が……たち? ということは、野々村先輩や鷹城先輩たちも? いや、考えるまでもない。彼らが来るということは、彼らに、今のさくらの状況を教えた人物がいるということだ。 「何故……ですか?」 だから聞いた。一般人である彼らを巻き込むような、そんなことをした理由を問いたださなければならない。そんな非常識なことをした理由を聞かねばならない。怒りよりも焦りに突き動かされて、さくらは薫を睨みつけた。 「何故って、綺堂が襲われていることを伝えたからだけど?」 何を当たり前のことを、と言った返答に、さくらは思わず怒号した。 「違います! 何で先輩たちを巻き込むような真似をしたんですか!」 だが薫の表情は変わらない。 「何故、彼らを巻き込んだことを、綺堂が怒るんじゃ?」 「何故って、それは!」 言い淀む。そこから先を口にすることを、本能が拒絶したかのようにさくらの勢いは止まってしまった。 「それは?」 「それは……」 「相川君たちが危険な目にあおうと、綺堂には関係ないと思うけど」 「そんなこと!」 ない。関係ないなんてことはない。何故なら── 「…………ありません」 何故なら、彼らならきっと助けてくれるだろうから。 呟くその声に力はなかった。薫に聞こえたかどうかも怪しい。それ以上に、さくらは自分の抱く小さな期待の裏側にあるものを感じ取ってしまった。だから反論できなかった。 「ここから。この街から。いまいる『場所』から逃げようとしている綺堂が、彼らのことを心配する資格があると?」 「──っ!」 今度こそ硬直する。心臓をわしづかみにされたような痛みに、さくらは歯を食いしばって堪えた。口の中に広がった血の味が、今このときが現実であることを容赦なく知らせてくれる。これが夢だったらと、さくらは切実に思った。 夢で、朝起きて、学校へ行って、真一郎や小鳥たちとふれあう。そんななんでもない一日が始まる。 それを塗りつぶしたのは、見るも醜い狼の化身。自分と同族の化け物だ。 そう──姿かたちは違えど、アレは自分と同類。考えるまでもなく解っていたこと──自分は化け物なのだ。これが現実。どこをどう捉えようとも、覆らない事実。薫が言ったことが嘘だとは思えない。本当に、真一郎たちはここに来るだろう。 何をしに? 決まっている。さくらを助けにだ。 こちらが裏切ろうとも、きっと彼らは追ってきて、全力で護ろうとしてくれるだろう。 彼らのことを知るからこそ、その予想が外れていないと、さくらは確信していた。それをうれしいと思ってしまう自分がいることも。 裏切っても許してくれる? いや、そもそも何が裏切りなのか。 逃げることが裏切りになる? そして再び連鎖する。 どこから? 誰から? どうやって? どこへ? そして──何故? 「…………私は」 感じた恐怖そのままにはき捨てる。 「逃げません」 何故逃げるのか? 知っている。逃げるのは怖いからだ。自分が心を許した人たちに、嫌われるのが怖いからだ。正体を知られたくない。嫌悪されたくない。拒絶されたくないのだ。今いる居場所を失いたくないために、今いる居場所から遠ざかる。それは本末転倒でしかない。解っていても、身体は震える。心は縮む。張り裂けそうなほどに、周囲の視線に苦しみを感じる。 けれど── 「逃げたりしない!」 叫びを決意に変えて、さくらは薫に向き直った。視線が交差する。目を離したら負けだと。そう思うくらいの気迫と勢いで、さくらは拳を握りなおした。 「じゃ、どうする? 相川君たちを巻き込む? うちはともかく、彼らは全く関係のない一般人なのに?」 薫の言っていることは矛盾している。そもそも巻き込んだのは、彼女の方なのだ。けれどさくらには反論できなかった。事の原因はこちらにあるのだから。 どうしてこんなことに? という思いも、未だくすぶっている。 去年の冬。従兄の氷村遊が起こした諍いに巻き込まれた真一郎は、しかしさくらが吸血種だと知っても、態度を変えることはなかった。だから期待した。今度は大丈夫と。彼らは自分を拒絶したりしないと。 だが膨らんだ期待は、やがて小さな恐怖を生み、それは次第に彼女の中で肥大していく。知ってしまったのは、さくらも同じだからだ。 友達と呼べる人たち。人と触れ合う心地よさ。誰かを気遣い、誰かに心配してもらい、誰かのために一喜一憂する。他愛のないことで笑ってけんかして──また仲直りして笑う。 真一郎たちに正体を知られないままでいられたら、きっと何もないまま穏やかに過ごせただろう。その代わり、他者と触れ合うことはなく、だからぬくもりもなく、彩りはない。 温かさを知らぬ心は磨耗していく。気づかないうちに、ゆっくりと。 どちらが良かったのだろう。だが今となっては、独りでいたほうがよかったなど、言えるはずもなかった。言いたくなかった。 自分のような半端な存在と、知らないとはいえ共に在ろうとしてくれた人たちを、いらない存在などと考えられるはずもない。 だからこそ恐怖した。始めて得た居場所の喪失。彼らからの拒絶。 だけど薫は言う。恨まれても戦うと。憎まれても、その大切な人たちを護るために剣を振るうのだと。 考えたこともなかった。 そのことに思い至った瞬間、不思議なほど心が落ち着いた。と、同時に嘲笑が漏れ出た。結局、自分自身のことしか考えていなかったことに気づいたからだ。 失っても、拒絶されても。結果として独りになっても。 真一郎たちが無事で、幸せであるなら── 「私にだって、護りたいものがあります」 今の居場所。帰る場所。お帰りといってくれる家族。ともに過ごしたいと思える友人たち。彼らの住むこの街。彼らが生きるこの世界。 それを護りたいと思う気持ちに関してだけは、薫に負けているつもりはなかった。 「また裏切られるかも知れんのに?」 辛辣な質問を、視線で受け返す。 確かに拒絶されるかもしれないし、裏切られるかもしれない。 嫌われるから逃げる? 逃げたら嫌われるかもしれないのに? それはわからない。わからないのに、嫌われると決め付けて、今までは逃げてきた。逃げて、逃げたから傷つけたかもしれないということを考えることすらせずに。 だけど、今になって初めて思う。 裏切るより、ずっといい。誰かを傷つけるより、自分が傷つくほうがずっとずっとマシではないのか。 それを体現したかのように生きてきた薫に、さくらは、今までの怒張が嘘だったかのような静かな心で問い返した。 「神咲先輩は……裏切られるの、怖いですか?」 「……そうやね。怖い……かな。考えたくないというのが正直なところだけど」 目を瞑って、ゆっくりと語るその言葉は、根拠もなく薫の本音のように聞こえた。 「私も、怖いです」 『ここ』から自分が逃げた後のことを考える。きっと真一郎たちは嘆くだろう。怒るかもしれない。エリザはどうだろうか。助けてくれた耕介は? 今、こうして向き合っている薫はどう思うのだろう。 「だから逃げません!」 自分がされたくないことを、他人にする恐ろしさを知るからこそ、背を向けたくなかった。 その意思が伝わったのか、微かに薫の表情が歪む。それは、見間違いかと思うほど刹那の時間。でも確かに、嬉しそうな笑顔のように見えた。
◇
さざなみ寮の廊下。壁に背を預けながら、横目で長身の男を見やる。 「脱帽だわ」 口をついて出たのはそれこそモノの弾みだったが、エプロン姿の耕介はその言葉を曲解したらしかった。 「まぁ、さすが薫、といったところですかね」 「違うわよ」 やんわりと否定すると、耕介の目に?の文字が浮かんだ。 「何がです?」 「私が、すごいと思ったのは貴方よ。槙原君」 「俺?」 解っていないらしい耕介の表情に、思わず含み笑いが漏れ出る。エリザベートは彼に少なからず好意を抱いていることを自覚しながら、その広い胸板を拳で軽く叩いた。 「確かに神咲さんのおかげで、さくらは前を向くことができた。でも、それじゃ、神咲さんを動かしたのは誰?」 「いや、そりゃ確かに協力はお願いしましたけど……」 「うん。そうね。貴方はさくらの過去を話して、神咲さんに頼んだだけ」 そう。だからこそ、この男には驚かされるのだ。 さくらの心を前に向かせることは難しい。彼女が今まで受けてきた心の傷は、思っている上に深く彼女をえぐっている。そう簡単に癒されるものではない。下手に刺激すれば、今度こそさくらは世界から目を背けてしまうほどに。 だがエリザが危惧していたことを、薫はやってのけた。まだ全てが終わったわけではないが、それでも彼女には感謝してもし足りない。 エリザでは駄目だった。同族で、親類縁者だ。さくらを余計に傷つけるかも知れない恐怖が先にたつ。どうしても甘さが出てしまう。それはさくらにも言えた。身近な家族であるが故に、さくらが依りそう事はできるが、結局それは依存でしかない。 知佳やリスティといった能力者でも駄目だろう。彼女たちも決して幸せな過去ばかりではないことは知っていたが、さくらと同じ側の彼女たちに、さくらの顔を前に向けることは出来ないだろう。 耕介や真一郎にはその可能性があった。男女のそれは最終的には色恋沙汰に発展しかけないが、それでも前を向くきっかけとしては十二分である。が、真一郎は例の学校に住まう幽霊と間でくすぶったままだし、耕介は自分からその立場を辞退した。 (自覚してるわよね。やっぱり) 弱っているときに優しい言葉をかけられれば、手を差し伸べられたら、当然人の心は傾く。それが解っているから、耕介はあえてさくらには手を差し出していない。支えはする。だけど、最後はあくまで自分で立て。 同情も、優しさも、一時のごまかしでしかない。 さくら自身が気づくしかないのだ。自分が本当はどうしたいのか。何を望み、どこへ往きたいのか。そう考えたから、薫に任せたのだろう。 ここで唯一、さくらと対立の立場に居る神咲薫に。 (そう、きっとこの役は、退魔師である彼女にしか無理だった) だから感嘆する。薫に、ではなく。彼女にさくらと向き合うよう仕向けた耕介のその『感覚』に。故意かそうでないかなど、些細なことだ。 (神楽君は、槙原君のこの辺に惹かれたのかしら?) あの人格崩壊者──とエリザが勝手に思っている──神楽双真は、意外なほど槙原耕介と言う男に対して信頼と信用を置いている。それがずっと不思議だったが、今はじめてその理由がわかりかけた気がした。 だが同時に、恐ろしさもあった。ひょっとすると双真よりも。 比較するのはかわいそうかもしれないとは思いながらも、エリザ自身、自分と同年代の男性とそう何人も知り合っているわけではない。 現実として、双真の戦闘力は、人間以上のポテンシャルを誇る夜の一族を軽く凌駕する。それは認める。その力が脅威であることは間違いない。一族でもトップクラスの戦闘力を誇るエリザとて、近接して戦って確実に勝てる自信がないほどに。 それほどに凄まじい彼の『力』は、残念ながら本人の性格上、こちらに向けられないという保障がどこにもない。 だが力で来る場合、その『返し』もわかりやすい。力で屈服させようとするものに対しては、必ずどこかで反抗が残る。 だが──と、エリザは胸中で考察を続けた。 彼は違う。槙原耕介に、そこまでの『力』はない。その代わり、彼は『心』で人を動かす。人望だけで、周囲の人が行動を起こす。彼自身が特に何かをするわけでもない。そして厚意で、時には好意で動く者たちに、彼への反抗などありはしない。相手を『折る』のではなく相手と『共に在る』。己を殺すことなく、個々の意思で選択させる。 それは一種のカリスマのように思えた。本人が気づいていない無意識の産物。だが、それこそが耕介の武器。だからこそ、怖いのだ。 彼がこちらにその見えざる牙を向けたとき、彼を敵と思えないかもしれない可能性を思いやりながら、エリザは先へ続く扉をノックした。 「お礼は、全てが終わってからにするわ」 ノブを廻しながら、後ろに居る耕介へ視線を流す。彼は小さく笑っただけだった。 今は、耕介が味方でいてくれることに感謝しよう。彼が信じ、彼を信じるさざなみの少女たちにもまた。 扉の向うにいる姪のために。
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喉の奥を、スゥッと通り抜けていく。身体全体が温かくなっていくと、不思議と心も落ち着いてくれた。 「ごちそうさまでした」 自然とその言葉が漏れ出たのは、それだけ美味しかったからだろう。胃に負担をかけないようにと作ってくれた野菜スープが、身体に優しく浸透していく。 「はい。お粗末様でした」 カチャリというその音にさえ名残惜しさを感じさせながら、さくらは皿を片付ける耕介の動きを見送った。 ほっとした一息に、エリザがうらやましそうな声で反応を示す。 「美味しかった?」 「うん」 「いいなー。ねぇ、槙原君──」 「まだたくさんありますから。事が片付いたら食べてください」 最期まで言わなくとも耕介には伝わっていたらしい。幾分か呆れながらも、彼はほんわかにエリザの要求を受け流し、今しがたさくらに出してくれた──そしてありがたくいただいた野菜スープの皿をお盆に載せて部屋を去る。気を利かせてくれたのか、薫もまたそれについて行ってくれた。 「エリザ」 足音が遠ざかる。その緩やかな刻みよい音に励まされるような気で、さくらは叔母に向き直った。エリザがうなずく。 「話を、しないといけないわね。全部」 「うん。聞かせてくれる?」 「長い話よ。けれど、きっと楽しくない話」 「それでも……」 痛みを覚えるほど鼓動が早くなる。決意を固めたはずなのに、どうしようもなくドキドキが止まらなかった。恥ずかしさ。居たたまれなさ。不安。自分のしようとしていることだけでなく、今このとき、誰かを傷つけてやしないか──恐怖で塗りつぶされそうになる意識の中、必死に耐え抜く手助けをしてくれたのは、エリザの手だった。 握ってくれる手の体温が、ゆっくりとさくらの緊張をほぐしてくれる。不思議な感じだった。ただそれだけで、何故こんなに安心できるのだろう。 心に光が灯る。それは熱を発し、さくらの彼女の中で小さな炎になった。 「自分が『何者』なのか、知りたいから」 それから決めよう。耳を傾け、真実を知る。薫に言われたとおり、どうするのかを考えるのはそれからだ。
小さく揺れる火は儚く── だが強く、明るく、灯った炎は何よりも温かく。 その光を胸に、彼女は一歩、前へと向かう。
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生と死。一般的に両極にあると思われている事象は、しかしそうではないことを識る者は少ない。 生。すなわち生きること。生まれた瞬間より始まる命──そのエネルギーの持続期間と言い換えてもいい。 対する死はその終わり。故に対局と思われがちだが、そうではない。 死は命の終わり。死という事象は、生の終わる瞬間であって、その後ではない。死は一瞬。故に死は生の裏ではなく、強いて言うなら『誕生』の反対なのだ。 では生の対極にあるのは何か? その答を、彼は見つけた。 故に嗤う。嗤わずにはいられなかった。 それは歓喜の声。狂気の笑み。月の影の中で、光を喰らい潰すような声が響く。 「さて、臥王もそろそろ動く。俺も往くか」 綺堂さくらを殺しに──
舞台の上で、役者が踊る。 その儚き命を散らすため、反力者はゆっくりと舞台へと向かった。
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