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綺堂裕一。現在より三代前の綺堂家当主であり、夜の一族が有するイレイザー部隊(言ってしまえば敵の排除のみを目的とした戦闘部隊)の隊長も務めた経歴を持つ、一族史上最強であったと称される天才的な戦闘者。 彼が成した業績は、しかし戦闘面以外ではさほど印象深いものはない。敵を屠った数も秀逸であるなら、作った敵の数も尋常ではなかった。力のあるところに争いあり──を体現したような人生を歩み、その勢いのまま没した彼が残した日記風の研究誌は、その人生の前半と後半。二冊の本に記されている。 エリザが目を通したのはその前半だった。 「人狼族に存在するクラスは、基本的には霊力の高さによって定められる」 その文のくだりは、日記のそれそのままだった。さくらが頷く。 「下層に三つ。臣狼、志狼、賢狼。中層に二つ。牙狼と天狼。上層に二つあるけど──普通の狼にも色々な種類がいるように、人狼族の中も事細かに種族というのが存在するわ。まぁ人間で言う白人とか、黒人とか、そういったものと思えばいいいわね──その種族に関係なく、ある例外を除いて、人狼は全てこの中層までの五つのランクでクラス分けされるの」 「例外……?」 知佳が問う。エリザは小さく頷き返した。 「そう。それが狼王と狼神。これはもちろん、日本での呼び名だけど、基本とされる五つのクラスと、例外の二つというスタンスは同じ。そしてその役割もね」 「役割って、何ですか?」 「力を持つ者は、その力に見合った役割を担い、その役目を果たさなければならない。仲間意識の強い人狼だから助け合いが基本なのね。だからクラスが高いほど、集落や──時として国単位で重要なポストに付いているらしいの」 さくらの理解が追いつくのを待って──といっても、この程度の基本事項くらい、さくらなら知っていることだった。だからこれは、さくらの周囲で必死に理解しようと呻いている少女たちに向けたものである。 「はーい、先生。質問でーす!」 元気よく手を上げてゆうひが、お約束よろしくエリザを先生呼ばわりした。 「何? 椎名さん」 「基本的なことで申し訳ないんやけど……」 「いいわよ?」 「人狼族って何なん?」 ポフッという気の抜けた音を奏でたのは、さくらが顔をうずめている枕だった。脱力して突っ伏したらしい。 今のさくらは、普段は隠している耳と尻尾を出したままだった。正確には、仕舞う暇がなかったというべきか。 見ると、ゆうひの手が休むことなくさくらの尻尾の感触を楽しんでいる。ひたすら疑問ではあったが、他の少女達も、さくらが人間でなかったことについて特に驚いた様子はなかった。 (これでいいのか、さざなみ女子寮) 思わずそんな文句を胸中で呟いてしまうくらい、彼女らの態度は『普通』と変わらない。むしろさくらが人間でないと解った今の方がより親密になったように見える。 そこまできて、ようやくエリザは彼女たちの生い立ちに思い至った。 人と違う者。人でありながら、異質な者。細かに言うならば、『個』として違う者、ということになるのか。彼女たちはさくらと同じ。けれど違う。 羽を持ち、一般的に超能力と呼ばれる力が使える者。耳と尻尾がある者。剣を手にし、視えざる存在と戦う者。彼女たちは確かに異質かもしれない。だが、聞けばここのオーナーの愛は獣医の卵だし、シンガーを目指すゆうひは世界最高峰のクリステラソングスクールの生徒だ。さくらの先輩であるみなみとて、普通の少女かもしれないが、決して非凡無能な人間ではない。 違うという点においては、全ての存在は全てが異なる。一つとして同じものなどなく、だが異なるという大別においては全て同じ。 その『違い』は些細なことであり、『同じ』であることもまた瑣末なことに過ぎない。 (要するに、さくらが人間でなくても気にしてないってことなんだろうけど) ともあれ彼女たちが、さくらが異質だと解っていて、かつ異質な存在として受け容れてくれていることだけは確かで、だからエリザは──不可思議な感覚に囚われながらも──彼女たちの心の在り様に感謝した。 種族など関係ない。さくらはさくらだ。だから受け容れる。だから助けたいと思う。その心ももちろん在るだろう。エリザ自身、その優しさは大切だと思う。すばらしいとさえ。 だが結局それは、あとから付け足された理由に過ぎない。 異質は異質。『区別』は必要なのだ。 人狼族と吸血種の血を受け継ぐ亜人種だと解った上で接してくれる彼女たちの心遣いが、今はうれしかった。 さておき、ゆうひの質問には答えなくてはならない。 「人狼族っていうのはね、貴方達、人間から見た場合の『亜人種』なの。知能を持つ動物がヒトに酷似した生き物に進化した種のこと。人間だって、『猿』の先祖と元を同じくしているでしょう? それの狼バージョンと思ってもらえればいいわ」 「ふんふん」 わかっているのか、いないのか。したり顔で頷くゆうひの傍らで、同じように今度は知佳が手を上げる。 「人狼って、狼男と違うんですか?」 「いい質問だわ」 いつしか乗せられるような形で、エリザは気分よく返答した。 「結論から言うと、完全に違うものと思っていいわね。昔のホラー映画に登場するような狼男みたいなのは、言ってしまえば獣憑き──ライカンスロープと呼ばれる病気にかかった『人間』のことなの。動物の霊に取り憑かれたり、人狼の血で輸血されたりすることで引き起こったりするけど、まぁ詳しい話は神咲さんなら知ってると思うから、後で聞いてみたら?」 「それじゃ、さくらは満月を見ても変身しないの?」 「しません!」 悪気なく急所をつく質問をしたリスティに、さくらが困ったような悲鳴を上げた。 「正確には、『出来ない』んですけど……」 「どういうこと?」 「血が薄いのよ」 応えにくそうにしているさくらの代わりに、エリザが口を開く。少ししゃべりすぎのような気もしたが、さくらが嫌そうではないのを察して、彼女はそのまま続けることにした。 「綺堂家は元々夜の一族側──つまり吸血種の家柄なの。けど数百年前の直系に、人狼族の実力者と婚姻した者がいて、それで血が混じったのよ」 「じゃ、綺堂さんちって、みんな尻尾はえてるんですか?」 「何でそんなにうらやましそうな目で見るのか、ものすごく疑問なんだけど……」 キラキラと瞳を輝かせるみなみに思わず寒気を感じながら、エリザは少し身を引いた。 「期待を裏切るようで悪いけど、耳と尻尾を持っているのはその血を濃く受け継いでいる一部の者だけ。それにしたって、ただ人狼の特性を受け継いだって程度の代物なの。人体の霊的構造はあくまで吸血種のそれに従っているから、だからいくら霊力が高くても変身はできないのよ」 「えっと。そもそもその変身って何ですか?」 今まで沈黙を保っていた愛の言葉に、皆が振り返る。 「形態を変化させるには、それなりの機関とか必要だと思うんですけど」 「違うのだ! こう、ばーっとやって、がーって感じで、ピカーって変身するのだ! カックイイ!」 愛の専門的見識に美緒が真っ向から反論する。立ち上がって変身ポーズをとる様は、まぁ何というか、子供らしい、夢見がちな意見ではあったが。 「アハハ。美緒ちゃんには悪いけど、ポーズ取ったりしないし、光ったりもしないわねー。後、仮面やベルトもつけたりしないわよ」 「残念なのだ」 途端に耳が垂れ下がり、尻尾が力なく地面に横たわる。感情豊かな美緒の頭をさくらが優しく撫でると、彼女の機嫌はすぐに直ったようだった。 「それと槙原さん? 人狼の変身というのは、蝶がさなぎから成虫になるのとは違います。先祖がえりって言えば、少しはピンと来るかもしれませんね。彼らはただ、元の姿に戻ってるだけなんです。根本的な理由は勿論別なんですけど」 霊力──すなわち生命体が生きるために生成し、消費する力──の扱いに長けた人狼は、自分たちの身体を、刻み込まれた遺伝子の情報に従って造り戻すことが出来る。 勿論、美緒が考えているような外見が変わるだけでは終わらない。骨格、筋肉のつき方、内臓の位置、数、大きさなど、身体の全てが変化する一方で、しかし個人の任意で変えることが出来るわけでもない。格好良くも行かない。元々在り得た情報どおりに肉体を再構成させるだけではあるが、そのとき消費する霊力は尋常ではなく、また同時に酷く痛みも伴うらしい。 従って変身が可能なのは、霊力をある程度保有する一部の人狼だけで、その数もまた多くはないのが現状だった。 確かに変身後は、獣としての優れた特性と、人種としての豊富な知識──それを活用する頭脳を併せ持つ強力な存在に昇華できる。しかし一方で、狼の情報を濃く現したがために、知佳たちが疑問に思った狼人間そのままの姿となってしまう。日々の生活における変身という行為は、メリットがあまりに少ないのだ。 それでも変身に焦がれる者がいる。人間から神の遣いと崇められ、その気高き精神にて森の支配者であった頃の一族の在り様を取り戻そうとする者も、多くはないが、皆無でもない。 そういった者たちの中には、しかし変身時の痛みや変質した自分の在り様に耐えきれず、狂気のままに人を襲う例が過去の事例として少なからず残っている。狼男の伝承にも一役買っているその裏話を、今ここで彼女たちに伝える気はなかったが、エリザは少なからずさくらにその能力が備わっていなかったことに感謝していた。こればっかりは、本人の意思云々とは別問題だからだ。 「人狼は、先天的に霊力──生命力って言い換えてもいいけど──の扱いに長けた人種なんです。さっき上げたクラスもまた、その霊力量が大きな比重となっているのは間違いありません。変身は尋常ならざる霊力を消費しますが、成しえた場合、その能力は飛躍的に向上します。さくらを狙っている人狼──臥王もまた然り。奴がこれまで奪った霊力量から考察しても、決して楽観視できる相手ではありません」 だから──と、エリザは神妙な面持ちで続ける。いつしか真面目な表情で話を聞いていた彼女たちの幾人かが、緊張からか、喉を鳴らすのが聞こえた。 「ここは危険なんです」 その一言。だが決定的な言葉だった。少なくとも、エリザはそのつもりで口にした。ここは危険だ。いや、言い換えるなら、狙われているさくらがいることで、ここに危険が迫っている。 少女たちを信じないわけではない。だがエリザは、話の本質に入る前にどうしてももう一度、彼女たちの意志を知りたかった。が、 「でも何でさくらちゃんが狙われるんですか?」 知佳が何食わぬ顔であっさりとそれをスルーした。さくらがやっぱりと言った顔で苦笑する。気を取り直すために、エリザは一つ、咳払いして見せた。 「コホン! えっと……知佳ちゃん?」 「はい?」 「ここ、危ないんだけど」 「はい。さくらちゃんが狙われてるからですよね」 「そう。だから……ね?」 伝わっていないのかとも思ったが、知佳の眼を見てエリザは考え違いだったことを知った。夜の一族──その後継者として数知れぬ修羅場を区切りぬけてきたエリザを気迫だけで押し返すほどに、彼女らの強固な意志は、エリザの圧力などものともしていなかった。無言のままこちらに向けられる視線。彼女たちは何も言わない。 静まり返った部屋を、かすかに流れ込む外気が冷やしていく。 語らないことで答えを発している知佳たちの気力に内心汗を流しながら、しかし表立っては平常のまま、エリザはゆっくりと、視線だけで彼女たちを見渡した。愛、ゆうひ、みなみ、リスティ、知佳。美緒は──状況が解っているのかいないのか、それとも何も考えていないだけか、さくらを見捨てるという選択肢すら浮かんでいないように見える。だが結局彼女らは全員── (心の強さは時として厄介で、他人への優しさは見た目以上に脆いものだけど……) ひねくれた考えしか浮かばない自分の性格の悪さに苦笑しながらも、エリザは胸中で頭を垂れた。彼女たちから伝わってくる意志の強さは本物だ。ならばこちらも、その意志に答えなければならない。 「ありがとう」 小さく呪文を唱えてエリザは、すぐに気分を引き締めなおした。 「理由を話す前におさらいしておくわね。人狼族というのは、先に言ったとおり、亜人種なの。霊力を扱うことに長けた、狼を祖とする種族。彼ら一族の、霊力許容量によって分けられるランクは基本に五つ。例外に二つ。その例外が狼王と狼神。臥王がさくらを狙うのは、まさにこの二つのクラスに因るものなの」 「霊力って、薫ちゃんや耕介君が持ってる力のことやろ?」 「それは正しくもあるし、間違いでもあるわね、椎名さん」 「へ?」 思ったとおりの勘違いをしているゆうひたちに、エリザは出来うる限り解りやすいように言葉を砕いた。ここからはさくらもよくは知らないだろう。だからこそ、言葉は選ばなくてはならなかった。 「霊力とは、すなわち生きるための力。生命力。命ある者が、生きるために生成し、消費し続けるエネルギーのこと」 「ってことは、みんな持ってるってこと?」 「グッド! 理解が早いわね、リスティちゃん」 「む」 子ども扱いされたのが癪に障ったのか、銀色の眉が微かに寄る。その表情もまた可愛らしく、エリザの心に小さな笑いを生んだ。 「生きているものなら、別に人間に限らず、みんな持ってるわ。私たち亜人種も、動物や植物だってね。そりゃもちろん、その許容量には個体差があるけど」 「でも、うちは薫ちゃんたち見たく、霊は視えへんし、退治もできへんで?」 「それは椎名さんが、霊力を扱えていないからなの。およそ殆どの場合、みんなそうなのだけど、霊力──つまり生命力っていうのは、その通り生きるための力だから、食事すれば補充されるし、逆に何もしなくても、生きているだけで消費する。運動すれば消費するのは更に加速するわね。日々おなかが減るのは、要するに霊力が普段の生活に必要な基準値より下回っているからなの」 「確かに、薫は人よりたくさん食べるけど」 リスティの一言に、美緒がさらに急所をつく。 「でもみなみのほうが数倍食うのだ!」 「人をオチに使わないでよー、美緒ちゃん……」 落ち込んだ表情のみなみに、すかさず親友がフォローを入れる。 「けど、みなみちゃんって、うちで一番力持ちだよね」 「まさかこんなところにも霊能者が!」 大仰に驚いてみせるゆうひの言葉に、乗せられるようにして愛とさくらが感嘆の声を上げた。 「あらあら。すごいわねー、みなみちゃん」 「岡本先輩ってそんなに?」 「うん。大人の男の人が四人がかりで運んでたピアノ、一人で運べるんだよー」 「すごいですね」 「エヘヘ。そんなことないよー」 (いや、褒めてないって) そう思ったのはきっと自分だけだろうなと思いながら、エリザは静かに、誰にも気づかれないように嘆息した。 (落ち着け) 巻き込まれてはならない。さざなみ寮の独特の空気。流れ。雰囲気。そう言った人の心を充足させる温もりから精一杯抗って、エリザは独り、自身に語り続ける。 (ツッコミ役がいないっていうのはこんなにも苦痛なのね!) 今だけは、あの非常に人の心をえぐることが上手い人格破壊者が恋しくなった。誰とは言わないが。 閑話休題。 「…………えっと、盛り上がってるところ悪いんだけど。話を元に戻していいかしら?」 全員がこちらに向き直る。少しだけ気分が良かった。 「気分を悪くしたらごめんなさいね。でも残念だけど、みなみちゃんも霊力を扱えていないわ。『力が強い=霊力が強い』にはならないの。その場合、スポーツ選手とか、格闘家はみんな霊能者ってことになるでしょう? 力は純粋な筋力から発せられるもの。霊力はその筋肉を動かすためのガソリンよ」 「ってことは……」 エリザの説明を、ゆっくりと吟味咀嚼しながら、知佳が呟く。 「力持ちほど、霊力をたくさん消費するんですよね。でも、霊力自体が強いわけじゃないから、たくさん食べて補充するってことですか?」 「ん。そう思ってくれていいわよ。身体が大きく強い人は、確かに霊力をたくさん持っている。けれど同時に、消費するスピードも量も人一倍なの。だから結局は他の人と大差ないのよ。多少感覚が優れてる、見たいな部分はあるだろうけどね」 皆の理解を待ってから、続ける。 「さらに言えば、霊力はエネルギーの一種だから、通常は保存が出来ない。常に消費し続ける──または形態を変えて体内を流れ巡る。いわば垂れ流しの状態なのね。霊能者と一般人の違いは、霊力を体内に留めることの出来るって言う、その一点に尽きるわ。霊力を扱うということは、その垂れ流しになっている『エネルギー』を体内にとどめ、意思によって操作することを言うの」 「薫さんも?」 「そう。そのための手段が、日本では霊術や陰陽術、神道術をはじめとした、『法術』と称されるモノなのだけど……」 『はぁー』 皆がいっせいに感嘆の声を上げる。そこにさくらが含まれているのを知って、エリザは人知れず苦笑した。同時に、嬉しくなって破顔する。だがすぐにそれを押し隠した。 (いいことよ。感情を外に出せるのは) ここからが本題── 腹部に力を入れて、エリザは声を発した。祈りをこめて。想いを乗せて。全ての感情を押し殺しながら、彼女はさくらの心を壊しにかかった。
綺堂裕一が、自身を含めた全ての人狼族の身体に刻み込まれた、『種』の根源に在るシステムに気づいたときから、いつかは、こうなることは判っていたのかもしれない。 「例外のクラス──『狼王』とは、名の通り、全人狼族の王となるべき存在に与えられるモノ。だから全人狼族の中でも、このクラスに属するのは一世代にただ一人。その霊力許容量は計り知れず、この世のあらゆる種の頂点と呼んでも差し支えないほどの霊力を秘めた存在。人格など関係なく、その『力』で一切を支配する絶対的な超越者。それが狼王と呼ばれるクラス」 『王』は誰かが任命するわけでも、先代の『王』が命じるわけでもない。また常に存在するわけでもなく、強大な霊力によって、遺伝子に組み込まれた『何か』が覚醒することで『誕生』する、いわば突然変異と言い換えても良かった。 人狼たちはその覚醒と同時に、本能的にその存在を『王』と認め、忠誠を誓う。人狼族の長い歴史の中で、過去にたった四人しか存在していない事実から見ても、どれほどその『王』が稀少で重要視されているかは想像に難しくない。 「狼王の誕生は人狼族にとっては待ち望んだ統治者の復活なの。王は自分達一族に光明をもたらす救世主。だからこそ、王に対する期待は計り知れない。他の種族だけじゃない、人類だって他人事じゃいられない。実際、二代目の狼王は、種族を率いて他種族と戦争を引き起こしたくらいだからね」 「せ、戦争って」 スケールの大きさに仰天したのか、ゆうひが震えた声を漏らした。 「本当のことよ。でもま、隠匿されたくらいだから、結果はわかるでしょ? 人類を含めたほかの種族だって、決して弱くはなかったってこと」 善悪の判断はさておき、人類が勝利した結果として、人狼たちが森に引きこもったのは間違いなかった。 「力があっても、勝てるとは限らない。強者であるから、常に上にいるとは限らないの。ホラ、えーと、日本のことわざ? じゃなかった。何だったかしら? 昔の文学に出てきて、よく言うでしょ? 何とかの鐘の声、修行無料の響きあり……だったかしら?」 何か違う。 「平家物語? 祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり──のことですか?」 「そうそう、それよ。さすが知佳ちゃん!」 この際、全く違っていた恥ずかしさは勢いで弾き飛ばす。 「盛者必衰の理はいつの世代、どこの世界でも同じってことね。どれほど叡智を極め、絶対的な力によって頂点に上り詰めたとしても、いつしか衰え終わりが来る」 しかし『不老不死』という事象がこの世にない以上、やがて来るだろう終焉の未来から逃れる術はない。ならば、その衰えを限りなく遅くすればいいのではないか。そう考えた者がいた。 「そうして、『狼神』と呼ばれるクラスが生まれたの」 静まり返った部屋。固唾を呑んで聞き入る彼女たちが、果たして理解できただろうか。不安を胸中に押し隠して、エリザは先を続けた。 「老いと共に衰える生命エネルギー──人狼や吸血種と人の寿命が違うのは、この霊力の枯渇するスピードが違うせいでもあるの。電池だって何度も充電したら、いつしか持続時間は減っていくでしょう? 霊力が垂れ流しになったままの状態で常に補充していけば、当然その限界は早くなる。逆に、食事が少量でも、霊力を体内にとどめられる人狼や吸血種の寿命は遥かに永い。それはもちろん、種族的な肉体構造の問題もあるけれどね」 人間の中にも、中には数百年の時を生きる者もいる。ただその一方で、退魔師のように霊力を他の手法に用いる場合は、長寿であると限ることはできない。 「なら逆に、霊力の枯渇を防ぐことが出来れば、老化は止まらないまでも相当に遅くすることが出来る。そう考えた者たちがいたの。彼らは『狼神』というクラスを造り、狼王に霊力を供給する役割を与え、王の覚醒と同時にクラス付けされるようシステム化した」 『え?』 意図せず、全員の声が重なる。理解のできた幾人かは絶句し、追いつけていない残りは首をかしげた。 とりわけ、不安の色に塗りつぶされたさくらの瞳──それが余計にエリザの心に棘を刺す。かすかな痛みは胸部を中心にゆっくりと確実に広がり、それに比例して身体が急速に冷えていった。だというのに、目の奥が熱い。 「狼王の絶対的ともとれる霊力許容量。けれど次代がいつ現れるとも限らない『王』の身が滅びるのを防ぐため、彼の霊力の枯渇を防ぐために設けられた、霊力貯蔵庫。神の名を冠しているのは、つまり狼王として覚醒した者を、神話の時代に存在した最古の狼へと近づける意味がこめられているらしいわ。他者から霊力を奪い、自身の霊力も含めた全てを王のために注ぎ続ける『器』──それが『狼神』と呼ばれるクラスの本義。神とは名ばかりの生贄──そして、さくら」 「え?」 涙だけは流してはならない。その自制だけはどうにか効いていた。その分表情が険しくなっていたかもしれない。さくらの身体が軽く痙攣したのが見えた。 「もし今、この世代で狼王が誕生したなら、貴女がその『狼神』になるの」 言葉がこれほど痛いと思ったことはなかった。けれど続けなければならない。さくらのために。自身を含めた夜の一族、そして、今この場に集ってくれている彼女達のためにも。 ここにいるのは、狼王にかしずくためではない。 「エリザ、私は──っ!」 「狼神は、人狼族、またはそれに準拠する一族の中で、最も霊力許容量の大きい、十八歳未満の『処女』が任命される。人狼の血と、吸血種の血。加えて言えば、先代狼王である綺堂裕一の血脈である貴女を除いて他にいない。だからこそ、臥王は貴女を狙った」 「…………ぁ」 それが嗚咽だと、気づいたのはもっと後のことだった。 「今の時点で臥王が狼王として覚醒したかどうか、私にはわからないけれど──人狼の血を引く貴女ならもう判っているのでしょう?」 「あ……あぁ……」 安い挑発だったが、それでもさくらに『それ』を意識させるには十分だった。言葉を止めてはいけない。痛いくらいに赤くなった拳をさらに力一杯握り締めながら、エリザは無感情に事実を吐露した。 「自分がどうしなければいけないのか。王に、どうするよう求められているのか。自覚しているんじゃない? 意識していなくても、心の奥底に、すでに王の命令が届いているのではないかしら。我が元へ来いと、喚ばれ続けてるのではないの?」 そして──変化は突然現れた。 「ぁぁ……あぁ……ぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!」 「さ、さくらちゃん?」 突然の叫声に驚き駆け寄る少女達の声も、さくらには聞こえていないようだった。ただ呆然と、どこか空を見つめ続け、時折かすかなうめき声を上げる。 「……あ……あぁ」 戦うと決意したさくらの瞳から、見る間もなく色が消えていた。それは支配下に置かれることを必死に抗っているようにも見えたし、逆に、王の意識が侵食するのを受け入れているようにも見えた。 だが、どちらにしてもはっきりしたことがある。 (臥王はすでに『狼王』として覚醒している) 同時にそれは、人狼族全てが敵に回ったということだ。 (先手は打った。後は──) 世界各地にある人狼の集落に対し、戦闘を見越した上での監視体制はすでに敷き終わっていた。だが一方で、突然の事態に人手が足りない現状では、戦力を自分の下へ集めることは出来ない。 (後は、私たちがどれだけ迅速に行動できるかにかかっている) その言い訳じみた説明がまさに自身に言い聞かせているのだと気づいて、エリザは自嘲にも似た笑いを浮かべた。笑うしかなかった。苦しんでいる姪を目の前にして、冷静に打算できてしまう自分の行為が痛かった。そう在ろうと決めたのは自分であるはずなのに、苦味を感じる心の葛藤をとめることができない。 (最低ね) だがその自己嫌悪すら、顔に出すことはなかった。 「さくら……」 必死に呼びかけているゆうひたちにどいてもらい、エリザはさくらに近寄った。反応はない。人形のように凍りついた瞳。痛ましいくらいに温度のない身体。一瞬で命の気配が失われた彼女の頬を撫で、両の手で優しく包む。 冷たい感触が、余計にエリザの胸を突いた。さくらを胸の中に抱きしめる。それが限界だった。これ以上いれば、きっと自分のほうが崩れてしまう。 「待っててね」 何も応えない。けれど、今はそれが嬉しかった。さくらはまだ、その心、全てが王の支配下に置かれたわけではない── 「まだ希望はあるわ。臥王を倒せばいいのだから」 口で言うほど安くない。それは百も承知で、それでも口にしたのは、彼女なりの決意の証だった。落ち着いた知佳たちに手伝ってもらい、抗う様子も見せないさくらをそっとベッドに寝かせる。 「さくらをお願いできますか?」 「はい。お気をつけて」 応えたのは愛で、エリザとほぼ同時に立ち上がったのは、リスティと知佳だった。 「ボクたちは行くよ」 「うん!」 力強い瞳を向けてくる少女達は、エリザに比べれば随分と若い、それこそ無謀とも取れる熱を帯びていた。 彼女達の出自はエリザも知っている。HGSという先天性の遺伝障害から、数多の超能力を扱えるようになってしまった子供達。知佳とリスティの背中には、その証たる羽が、個性に応じて輝き放っている。 冷静に判断するエリザの心は、彼女達の申し出を断っていた。足手まといにしかならないからと。臥王と戦いながら、この子達を護ってやれる余裕はないだろう。頭の中でいくつもの対臥王に向けた戦術が浮かんでは消えていく中で、しかし彼女の感情は、素直に少女達を受け容れていた。 「……強制は出来ないし、逆にお願いもしないわ。申し訳ないけれど、あなた達の命について、私は何も保障が出来ないの。責任も取れない」 それでも? と目線で問いかけるが、全く意味はなかった。決意の変わりそうにない子供たちから目をそらして、愛の方に確認の意味もこめて顔を向ける。 彼女はただ、笑って見せた。 「心配ですけど、この子達がそう決めたのなら」 「うちやみなみちゃんもお留守番やね」 「本当は、すっごく行きたいんですけど、足手まといってわかってますから」 悔しそうな少女の顔。それを悟らせない大人二人の声。美緒が口元をチョコレートで汚しながら、エリザを見上げて言った。 「おみやげよろしくなのだ」 「美緒ちゃん。みんなは遊びに行くわけじゃないのよ?」 「だからなのだ」 たしなめる愛を無視して、エリザをじっと見続ける。美緒が言いたいこと。望んでいること。胸の中に熱い何かがこみ上げてくるのを抑えながら、少女の目線に高さを合わせる。 「わかった。お土産もって、みんなでちゃんと帰ってくるから」 「約束なのだ」 指切りをして、少女と笑いあう。 それからの行動はすばやかった。大雑把に愛やゆうひにもしものときの対処を説明して、軽い一礼とともに部屋の外に出る。慌ててついてくる知佳とリスティに、エリザは、玄関前で顔だけを向けた。 「準備は?」 返事はすぐに返ってきた。いらないらしい。見ると二人ともシャツにズボンと、随分とラフな、しかし動きやすそうな格好をしていた。最初から行く気満々だったのだろう。そこに思い至って、エリザは思わず失笑した。最初にこの子たちの服装と表情を見て、何故気づかなかったのかと。 「あっ、そう言えば」 玄関を出る瞬間、知佳が手をポンと打つ。 「相川君達が来るんだったっけ?」 「え?」 間の抜けた反応を示すエリザの声に呼応するかのように、チャイムが鳴る。 引き金はほぼ同時だった。
ワオォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォン────ッ!
山全体を震撼させるほど強大な咆哮が鳴り響く。身体が震えたのは寒気のせいだけではなかった。音波としての、物理的な振動。鳴動で揺さぶられ崩れそうになる身体を、自制心だけで押しとどめる。壁にもたれ崩れかける知佳とリスティを支えるくらいの余裕はあったが、それでも戦慄を覚えずに入られなかった。 (これが──っ!) 狼の咆哮。人狼の王たる獣の、女を求める召喚の声。そこに含まれた、眩暈を覚えるほどの殺気を全身に受けながら、しかしエリザの脳裏に走ったのは別のことだった。 「さくらっ!」 慌てて引き返す。靴を脱ぐことなく、他人の家であることも忘れてエリザは廊下を走った。間を空けずに鳴ったのはガラスの割れる音。女性の悲鳴。さくらの名を呼ぶ少女の声。 部屋に戻ったときは、すでに遅かった。 あまりに唐突な出来事に呆然としているゆうひたち。砕け散った窓ガラス。 割れた隙間から入ってくる風がカーテンを無造作になびかせる。それが余計に腹立たしかった。 「エリザさん。綺堂さんが……」 「わかってる。喚ばれたんだわ。狼王に」 さくらが王の下へ行くことは避けられない、そして決して覆ることのない未来だというエリザの考えは間違っていなかったことになる。結界を張って閉じ込めれば、結果も少しは変わったかもしれないが…… だがその行為は、逆に臥王本人がここに来るのを早めてしまうことに繋がりかねなかった。そうなれば危険になるのはさくらだけでなく、愛やゆうひと言った戦闘力を持たない人たちだ。 天秤をかけた結果だった。だからこそ、自身への怒りが生まれる。こんな策をとらざるを得なかったのは、自分が無力だからだ。 「私を、恨むかしら? あの子は」 「エリザベートさん?」 「これで、さざなみに臥王が来ることはありません。思っていた以上に敵の動きが早かったですね」 愛への説明が機械的になっていないだろうかと心配になりながら、エリザは続けた。視線だけは、割れたままの窓──その外に向けて。 「目的が変わりました。さくらを取り戻します」 冷静な振りが出来なくなる前に部屋を立ち去ろうとして、エリザはきびすを返した。返して──不意に立ち止まる。 「あなたたちは……」 部屋の入り口付近にいたのは、相川真一郎をはじめとする、さくらが友人と認め、さくらのために集まってくれた少年少女たちだった。 相川真一郎。野々村小鳥。鷹城唯子。千堂瞳。御剣いづみ。兎弓華。さざなみ寮の面子とも面識があったのだろう──知人同士で挨拶を交わすのを遮る形で、エリザは前に進み出た。 「貴方が、相川君……?」 「あ、はい」 真一郎とは、生身では今回が初見だった。さくらから話は聞いていたし、写真でも見たことはあったが、実物は想像以上に可愛らしい、女の子のように華奢な少年である。彼の後ろに控えている少女達の方が、幾分か背も高く、身体つきもしっかりしているように見えた。 「はじめまして、相川です。あの……間違ってたらごめんなさい。エリザベートさん……ですか?」 「うん」 応えた返事は端的で最短だった。気を損ねたわけでも、焦りがそうさせたわけでもない。ただこの少年には、回りくどい言葉は必要ないように感じたからだ。 「はじめまして、相川君。私は、エリザベート・フュンフト・フォン・エッシェンシュタイン──さくらの叔母です。いつもあの子と一緒にいてくれて有難う。さくらから聞いている通りの印象ね」 「えーと……そこはかとなく、っつーかもう完璧に予想出来るんですが、どんな印象ですか?」 「すっごく可愛らしいわ」 ガクリとうなだれる真一郎の後ろで、少女たちが失笑していた。エリザもまた、笑いが漏れ出るのを抑え切れなかった。 けれど決して彼を小ばかにしたわけではなかった。そもそも、エリザは外見のみを差して言ったつもりはない。彼も自分の容姿を自覚しているのだろう──それを補おうして、服装やアクセサリーなどで男らしく見せるその姿勢が可愛らしいと思ったのだ。努力はあまり実っていないようだが。 「本当ならきちんと挨拶したかったし、せっかく会えたのだからゆっくりお話してみたかったんだけど……ごめんなさい。今は少し時間がないの。だから──」 「あの!」 エリザの言葉を、真一郎が遮った。 「さくらが襲われたって聞きました。それで……」 (ああ、そうか) うろこが落ちたような気がした。 今、何が起こっているのかなど、この普通の少年が解るはずもない。それでもさくらが危ないと聞いて、ただ助けたいという一心でこの子達は駆けつけてくれたのだろう。現に彼らは、現状などまるで判っていない様子なのに、『何をするべきなのか』については一切の迷いも抱いていないようだった。 強く思う。ああ、やっぱりさくらはいい子なのだと。そうでなかったら、こんな危険なことにわざわざ首を突っ込んだりしてくれる友達ができたりしない。 護るべきものはどちらか。打算的なその考えを振り切る。違う──どちらも護らなくてはならない。そう思い至ったと同時に、エリザは耕介の言葉を思い出した。 さくらは、自分がいかに愛されているか、もっと自覚すべきなのだと。 (本当にそうよね) 帰ってきたら思いっきり折檻が必要だ。そうして苦しむほどに抱きしめてやる。浴びるほどキスをしてやって、こっちの気持ちを知ってもらわないことには割が合わないではないか。 思い描いただけで、活力が沸いた。 (大丈夫) 呪文のように呟く。 不安は強く心にある。恐怖はそれ以上に。だが不思議と落ち着いていられるのは、彼らのおかげだった。自分は孤独ではないことを実感する。共に歩み向かってくれるモノたちの存在が、エリザに、彼女本来の冷静さを取り戻させる。 (先鋒は任せるわ、槙原君、神咲さん) ここにはいない、二人の剣士の姿を脳裏に描いて、エリザは気持ちを切り替えた。 「さぁ、気合入れて、反撃と行きましょうか!」
震える山。凍える空気のさらされながら、宙に浮いた、黒服の少年がポツリと呟く。 「ところで、耕介様」 「何? 御架月」 「この話って、一体、どなたが主役でしたっけ?」 「………………」 応える者のいない問いかけが、夜空に虚しく霧散する。 薫が優しく、ポンッと耕介の背を叩いた。
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