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天が廻る。 クルクル。クルクル。 星が瞬く。 キラキラ。キラキラ。 リズミカルな拍動は次第と速さを増していく。 ドクン。ドクン。 痛みを訴え漏れ出る心臓の悲鳴はもはや限界に来ていた。 「せ……せん……せ……くる………ぃ……ぃ……は……して……」 もはや何度目の呼びかけだったかはわからない。時間にして永遠のようにも思えたし、もしかすると一瞬のことだったのかもしれない。人は呼吸を止めると三分程度で意識を失うそうだから、そこまで至っていないということはやはりたいした時間でもないのだろう。しかしかすれた視線のその先に花畑が咲き乱れるのを、知佳は確かにその目で見ていた。 そうしてようやく届いたその声に、反面教師が今更ながらに間の抜けた声を上げる。 「ん?」 不意に重力が軽くなる。本当に今気づいたと言わんばかりにずっと掴みっぱなしだった襟元が開放されて、知佳は待ちわびた酸素の到来に歓喜した。 咳き込みながらも呼吸を繰り返す。闇夜で解りづらいが、少し肌の色が青ざめているようにも見えた。 「ああ、すまん」 謝罪してくる担任の声に、言葉にあるような思いはない。それこそ知佳が窒息で死んでしまっても、「ああ、しまったな」で済んでしまいそうな淡々とした物言いだった。 だから知佳も改めては何も言わないでいた。この教師に文句を言っても通じないことは、聖祥女子に入学して二年と半年──身をもって知っている。が、 「大丈夫か? 悪かったな。わざとだ」 「わざとなんですか!?」 最後の一言だけはさすがに反論せずにはいられなかった。 「殺す気ですか!」 「ついうっかり」 「それは確信犯って言うんです! ゴホゴホッ!」 「酸素不足の状態で叫ぶと咳き込むぞ──今更だが」 本当に今更な忠告をしてくる双真はとりあえず無視して、知佳はどうにか落ち着きを取り戻すために、咳き込みながらも深呼吸を繰り返した。 クリアーになったのは思考力と視界。一端リセットされ、再度今日の出来事が脳裏を駆け巡る。そうして現状の理解をしようとした途端、どうして自分がいるのかという疑問にぶち当たって、知佳は再び落ち着きを取り損ねた。 「──って、何で私がここに?」 「まだ頭が眠っているらしいな。どれ、もう一度、脳髄をシェイクしてやれば……」 「ス、ストップ! 待った! 待ってください! 解りました! 思い出しました。ひーん、リスティの裏切り者〜っ」 最後の台詞は完全な八つ当たりだったが、今の知佳に、この場にいない者たちに配慮する余裕はなかった。 「さて」 と、双真がふいにあらぬ方向へ視線をやる。何かを始めようとするその顔つきに、知佳は思わずつばを飲んだ。緊張が走る。自分が何のためにここに来たのか──思い出した途端、その役割の重さに焦りを感じずにはいられなかった。心の中で『人』という文字を三回浮かべ、飲み込んでどうにか落ち着きを取り戻す。 「お前も落ち着いたようだし──」 「さくらちゃんを探すんですか?」 「……いや?」 「…………」 「…………」 何故か疑問符を浮かべて否定する双真の言葉に、知佳の思考はあっけなくフリーズした。 「えーと……」 では何故自分がここにいるのか。もう一度思い出してみよう。 思い出したら深呼吸。吸って、吐いて。もう一度吸って。 「……でしたら、何故、私を?」 「とりあえず、灯りがほしかったからだが?」 「へ?」 確かに光はそこにあった。HGSの力の象徴たる、知佳の背中に広がる純白のエネルギー結晶が、夜を感じさせないほどに力強く光を放っている。 「蛾が寄ってこないか心配だったが」 嬉しい誤算だったなと、独り頷く双真の顔に冗談の色はない。 「わ、私は……懐中電灯代わりですか?」 「ふむ。まぁ気にするな」 「気になります!」 「そうか? しかし気にしたところで事実は変わらんぞ」 「それはそうですけど……っ」 声が震えているのが自覚できるほどに、知佳は喉を痛めながらようやくそれだけを吐き出した。今まで色々な悪口を耳にしてきたし、化け物呼ばわりされることも少なくなかったが、電灯代わりにされたのは未だ十八年も生きていないとはいえ初めての体験だった。 怒りよりも先に、この教師の思考回路に心底疑念を抱きながら、知佳はとにかく話題を元に戻すことにした。 「あの……本当に?」 さくらを探す気はないのか。本当に自分を連れてきたのは本当にただの灯りのためなのか。それなら、発光するために連れてこられた自分は、何故酸欠で死に掛けたのか? 諸々の思いを乗せた問いかけに、双真が陰のある笑みを浮かべた。 「心配するな。冗談だ」 「え?」 「……とでも言って欲しかったのか?」 「ふざけないでください! 先生!」 「そう怒るな。悪かった。わざとだ」 「あぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ…………」 弱く、長く、未練の残る嗚咽をあげながら、知佳は地面に突っ伏した。自身の価値観が音もなく崩れていく。土の味は思った以上に冷たく苦いものだったが、それが今の知佳には不思議と心地よかった。少なくとも、立ち上がって教師と会話するよりは楽でいい。 その頭上から、双真の淡白な声がやってくる。 「ふむ。今気づいたが、お前も結構面白いな」 「遊ばないでくださいよー」 文句を言う言葉にすら力が入らない。それが功を奏したのか、双真の目から休息に色が失われていった。 「心配するな。もう飽きた。だがまぁ、結局のところ……」 さらりとひどいことを口にしながら、知佳は無理やり双真に引き起こされた。こうしてみると、双真の手も耕介のように大きく力強い。その掌の内面的な大きさには、しかし耕介から感じるような温かさや安心感は皆無だったが。 「あながち冗談でもないんだがな」 「……どーゆーことですか?」 せめてもの抵抗に、口調だけは棘のあるものに変えないことには、心の均衡が保てそうになかった。 「しばらくは静観する」 「…………え?」 今度こそ、本当に目を開く。思わず顔を上げると、しかし双真はこちらではなく、どこか別の何かを見つめていた。 「先生?」 「それに、どうせ探したところで見つからんだろう」 「え?」 「まぁそんなことよりも」 今このとき、一番重要なことをさらりと「そんなこと」呼ばわりして、双真は再び歩き出した。こちらを見ることなく、何を求めるのでもなく。 ぽかんとその背中を見送ること数秒。思わず、リスティたちの後を追うことを考えてしまう。が、双真の意図が全く知れない状況は奥歯に物が挟まったようで居心地が悪いのも事実だった。 「先生!」 「何だ?」 立ち止まることなく応じる教師の背中のすぐ後ろにテレポートする。力を使うのもどうかと思ったが、双真の歩みは知佳が素で追いつけるような生易しい速度ではなかった。 背中に羽を展開して宙を浮くのはさほど難しいことではない。それが出来るからこそのHGSだ。 が、これが闇夜で、歩むここが森の中であることが、知佳のコントロールに障害を与えていた。それでも多少のふらつきで済んでいるのは普段のトレーニングの成果だろう。 「さくらちゃんを探さないんですか?」 「後回しだ」 「見つからないって……?」 「言葉通りだ」 「エリザさんたちの手伝いに──」 「意味がない」 双真の言葉には、文字通りにべもなかった。が、質問全てに応えてくれるくらいには、彼は機嫌がいいらしい。だがそれでも、知佳は彼が何をしたいのか図りかねていた。 その応えが答えにはなっていない、というよりは、知佳の求めた、知佳が理解できるようなものではなかっただけなのだが。 「可能性は提示してやったのだ。アレで気がつかないなら、今度こそ本気でエリザは終わりだ」 本当にエリザがどうなってもいいと思っているのかもしれない──そう思わせるほどに、物騒な言葉を吐く双真の表情は無機質なものだった。 「…………大丈夫かな、お兄ちゃんたち」 「それこそいらん心配だな」 「え? うわっ」 不意に双真が立ち止まったせいで、知佳は危うく彼の背中に顔をぶつけるところだった。 「耕介の気配が変わったな。時期に決着はつくか」 「えっと……」 ここに来て、ようやく知佳は胸の奥にあった棘のようなものの正体がわかりかけてきた。 彼──神楽双真がさも当然のように口にする、知佳にとっては血の繋がらない兄の名前。戸籍の上でも、血縁でもない、ただの愛称としての兄。が、知佳が最も心を許している男性の名前を、どうして双真が知っているのか。 「先生って、お兄ちゃんのこと知っているんですか?」 「ん? ああ、耕介から聞いてないのか?」 「何をですか?」 「長崎にいた頃からの友人だ」 その答えは、ありふれた、どうということもないものだった。だが心の中ではすっきりとしないしこりが残ったまま──それが表情に出ていたのだろう、双真がかすかに笑みを浮かべて知佳に向き直る。 「気になるのか?」 「え?」 「本人のいないところで心配したところで何も変わらんぞ」 心配という言葉は、ここでは不適切に思えた。 「本人に直接言ってやれ。あいつは、言われないと解らないところがあるからな。お前も知っているだろうが、あいつは相当な頑固者だ」 何のことを言っているのか、直感で理解する。双真は── 「『破壊者』になってほしくないのだろう?」 「何でわか──」 「ま、それこそいらん心配だとは思うがな」 あいつもいつまでも子供じゃないさ──と。独り、何かを知っている顔の双真から、真相は読み取れそうになかった。 その背中を見送りながら、知佳は密かに自身のアンテナを広げた。国守山に点在する人の気配。一つはさざなみ寮、一つはエリザたち。もう一つは耕介と薫、そして臥王という名の狼王。 破壊者という存在を、知佳は全て理解しているわけではなかった。戦闘意識のみを限定して向上させるスイッチ。ただ純粋に、心と身体、全てを戦闘一色に支配する仮想人格というべきもの。故に破壊者は多重人格ではない。耕介が耕介でなくなったわけでもない。劇的な強さを手に入れる代わりに、敵を殲滅すること以外の思考力を失う以外は、槙原耕介という人物に変わりはない。 それでも、いや、だからこそ。知佳は耕介が耕介でなくなっているような気がしてならなかった。普段の優しい、心配性で、へんなところで几帳面で、お人好しの耕介からは想像もつかない内面を認めなくないだけかもしれなかったが。 好きか嫌いか。その問いかけにすら迷いが生まれる。 が、その『彼』を知っている様子の双真は、逆に全く気にかけていないようだった。 「先生は、お兄ちゃんのこと──」 信じているのか。エリザに対してと同じく、どうでもいいと思っているのか。彼の背中が何かを語ることはなかった。と、 「仁村」 「え? は、はい!」 唐突な呼びかけに、思わず背筋を伸ばす。 「お前の出番はもう少し後だ。緊張を持続させろとまでは言わんが、せめて気は緩めるなよ。ここはもう、敵地だ。狼王か──果たして現れるのは何代目かな?」 そうして知佳は、そのとき初めて── 「あぁ……」 自分たちが、完全に囲まれていることに気づいた。
◇
特技と聞かれたら、迷うことなく耕介は料理と応えただろう。 趣味と聞かれたら、ツーリングと言ったかもしれない。 職業が寮の管理人であるからではなく、根本的に人の世話を焼くことは子供の頃から嫌いではなかった。それはつまり、好きということだ。 そうして好きか嫌いかと聞かれたなら、戦いは嫌いというわけではなかった。しかしだから好きかというとそうでもなく、ただ単純に、そこに意味を見出すことが出来そうにないことが理由だった。あくまで喧嘩と比べれば、だが。 どちらでもないという答えが一番近いのかもしれない。だがそれでも、必要なら剣をとることを迷うつもりはなかった。だから耕介の振るう剣閃に淀みはない。 例え敵でも、剣を振るえば傷つけることになる。その結果を予想しなかったわけではなかった。恐怖を覚えないわけでもない。事実、御架月を抜くまで──正確には、御架月を抜く覚悟が出来るまで、耕介の指先に在る微かな震えが止まることはない。 剣士として致命的な欠陥を抱えた耕介の──それも素人に毛が生えた程度の剣技が何か功を奏するとは思えなかったので、結局それは、考えても無意味な議題なのかもしれない。何にしても、剣士としての自覚を求められたなら、耕介ははっきりとそれを拒否しただろう事は間違いなかった。 剣術とは茨の道──さざなみ寮に就任し、薫や真雪から剣の手ほどきを受け始めたのは一年ほど前だが、その程度で何かを修められるほどの才能は耕介にはない。それでも技を覚えることは愉しかったし、剣閃が鋭くなっていく自身の上達が理解できた瞬間の快感は、年甲斐もなく興奮を覚えたものだった。 これらを踏まえてみれば、自身が好きなのは戦いではなく、むしろ『強くなること』なのだと耕介は思っている。 強くありたいと願う──大切な人たちを支えられるほど、強くありたいと思っている。 今ここで、何のために戦うかと聞かれたら、護るためにと。誰のために戦うかと聞かれたら、寮生と、今でいえば綺堂さくらのためにと。 それは嘘偽りのない、確かな耕介の本音であった。 だというのに── かつて友人達と戦いに明け暮れた頃ほどの『愉しさ』が欠片も感じられないことに、耕介は拭いようのない違和感に苛まされていた。落ち着かない気分のままで戦い続けることの危険性は熟知していたが、それでも、一度浮かんだ疑問は中々消えてはくれなかった。 だから気づけた。この戦いに意味はない。誰かを護るための戦いなど、ただつらいだけでしかない。命を懸けるに値しないから、結局、そこに充実感を覚えることもない。 「っ!」 鋭い爪で抉られた肩から赤い血が吹き出る。思ったよりも浅かったのか、流血は程なく止まってくれたが、痛みよりも厄介なのは出血による体力の消耗だった。 臥王が駆使する武器はたった二つ──爪と牙のみである。霊術を使うわけでもない、生まれ持った身体能力に頼った妄執による攻撃は、単調であるが故に躱すことも防ぐことも出来たが、だからこそ、その全てが必殺となりうるものだった。 戦闘が始まっておよそ十数分。耕介だけでなく、薫ですら臥王の攻撃を防ぐことで精一杯で攻撃に転じることは出来ていなかった。互いのサポートをしつつ、それでもこの様なのだから、単身で戦わなくて良かったと耕介は密かに安堵していた。 希望は失ってはいない。諦めもない。防戦一方ではあったが、不思議と焦りもなかった。勝てる要素は何もないのに、どうしてか負ける不安も浮かんでこない。 拭いきれない違和感だけが、耕介の心を苛む。体力が磨り減っていくのを感じながら、彼は隣で戦う薫の表情を盗み見た。 彼女の瞳は真摯だった。真面目で几帳面。そして何より優しい。他者の暮らしを脅かす妖と戦うことを躊躇わず、そうする自分の生き方を誇りに思っている。 薫は苦しそうだったが、だからこそ充足しているようにも見えた。 (そうか…………そうだな) そうしてようやく、胸中で疑問が解ける。 この戦いには意味はない。 その通り、意味などなかった。ただ自尊心を満たすためだけの争いなど、溝に棄ててしまっても何の支障もない。 だが逆を論じるなら、臥王の口元は愉悦に歪んでいた。耕介を殺せることが嬉しくてしょうがないとでもいわんばかりの表情だった。避けんばかりの口元からは涎が垂れ、目は血走り、時折漏れ出る嗚咽はしかし狂気を含んだ嗤い声だった。 慇懃な口調で隠そうとも、臥王の根底にある他者を見下す性質は変わらない。他者を切り刻むことに快感を覚える異質さに、しかし本人だけが気づいていない。 それは愉悦だった。確かな享楽だった。 醜いとさえ感じさせる──他者を駆逐すること、それが戦いの本質であるなら、耕介はどうあっても戦いに愉しさを感じることなど出来そうになかった。 どれだけ傷つけられようと、感じるのは痛みよりも哀しみが強い。刃を振るうことに迷いはなかったが、これで倒して勝って得た結果がどうであろうと、胸中に浮かんだ虚しさを拭い去ることは出来そうになった。 (御架月) ≪……はい≫ 心の中に直接応答が帰ってくる。 (先に謝っておく。すまない) ≪え?≫ 相棒から疑念が伝わるのを感じながら、耕介はおもむろにその場を退き、剣を収めた。 「耕介さん!?」 薫が戸惑い、しかし臥王は構うことなく牙を突き立ててくる。それを躱すことなく受け容れた瞬間、骨が砕けんばかりの痛みが耕介を襲った。 「ぐっ────っが!」 腕に突き截った牙の隙間から血が吹き出るのを、しかし耕介は他人事のように見つめていた。派手にほとばしる赤い鮮血が視界を染め、痛みの熱が正気を容易く奪い去っていく。 微かに残った理性が噛み砕かれなかった腕の存在を確認した瞬間、耕介の感情が爆発した。 敵を見つめる視線は冷ややかに、耕介は問いかけた。 「愉しいか?」 腕に力を入れた反動で、盛り上がった筋肉が更に牙にめり込む。赤黒く染まった獣が、血走った目をこちらに向けた。 「こんなことが、そんなに愉しいか?」 「────っっ!」 牙を突きたてたまま睨む臥王の姿は、精一杯の威嚇だったのだろう。が、耕介には無様にしか映らなかった。 冷静に、自分でも驚くほど冷徹に、視界が鮮明に開けていく。怒りと痛みで頭は沸騰しそうなのに、目の奥がひんやりと冷え渡る。自身の霊力が体内からあふれ出し、自然と耕介の意志に従う。それはやがて臥王すら飲み込み、二人は光の中で身動きすることなく対峙した。 「そんなに美味いか?」 初めて、臥王の瞳に戸惑いが生まれた。耕介は睨んでいるわけでも、威嚇しているわけでもない。だが臥王は、ただの人間の、それも遥か格下の男の言葉に、慄くように牙を離した。食い千切れなかった腕などすでに意識になく、ただ耕介の纏う光から逃れんとして目をそらす。 腕が熱かった。滴る血は、臥王の唾液に塗れて照り輝いていた。痛みは不思議と感じなくなっていた。 「なら喰らわせてやるよ。ほら」 牙痕の残った左腕からは絶え間なく血が流れ落ち、地面に血溜りを作っていたが、耕介は構うことなく臥王の眼前にその腕を差し出した。 「……正気か?」 かすれた声で、臥王が呻く。 「お前ほど狂っていない」 自分でも驚くほど、静かで穏やかな言葉だった。その一言で、駆け出そうとしていた薫までもが立ち止まる。 「お前ほど馬鹿でもない」 「何を…………」 「可哀想に」 「何を!」 自分以外何も信じない獣がいる。自分以外の全てを見下し、全てが自分のための餌であると思い込んでいた獣がいる。 可哀想に。どうしてそれが間違いであることを教えてあげなかったのだろう。どうしてそういう存在が臥王にはいなかったのだろう。 耕介は自分すら信じることなく生きてきた男を知っていた。少年の頃から身近にいた、親友とも呼べるべき存在のその男は、耕介と出会って少しは変わったのかもしれないが、その本質は今もきっと変わっていない。 その彼と向き合ってきた耕介だからこそわかったことがあった。臥王は弱い。臥王は強くなってなどいない。自分が何より大切だから、自分の命を懸けることが出来ないでいる。だから、少しでも理解できないものに対しておびえを示す。だから小さな自尊心にすがろうとする。 虎の衣を借る──とまでは行かなくとも、だから耕介の目には、臥王の威嚇はもはや畏怖足り得るものではなかった。 それでも臥王が敵である以上、さくらを狙っている以上は倒さなくてはならない。それはただのエゴだった。どこにも正義など存在しない、弱肉強食の世界の縮図でしかない。 自然界の掟だと、だから命を奪うのだと──そう割り切れるほど耕介は達観したわけではなかった。この行為が偽善であることなど百も承知で、それでもなお、拳に込める霊力は次第に高まっていく。 「正直、同情するよ。けど悪いね。俺にも譲れないものがある。だから──」
お前を壊すよ。
言葉一つ一つを噛み締めるようにして呟く。同情という単語に、見下されたと感じた臥王が吼えた。 「我を──」 臥王の唇が震える。直視し難いほどの霊力が臥王の身体を包み込んだ。が、耕介はそれすらもはや、脅威とは感じなかった。 「愚弄するなぁぁぁ────っ!」 踏み込みは一瞬。地面を割る音が鳴ったと同時に、耕介は全身全霊を込めて拳を振りかぶった。臥王の咆哮が、霊波となって耕介を襲う。 それを真正面から拳一つで受け止め、意志一つで弾き返す。 「壊れろ」 耕介が壊そうと念じたのは臥王の命ではなかった。奪うのは彼の意思。壊すのは彼のプライド。生きる糧──その凄まじき霊力。 行ける──! その確信があった。 臥王の霊力量は凄まじかったが、しかし昨夜と比べて強くなったかというと、実質そうではなかったことに耕介は驚きを感じていた。逆を言えば、臥王はその霊力量さえ攻略できれば勝てる相手ということでもある。 だが時間的に見て、そんな悠長なことをしている余裕はなかった。そもそも霊力とは生命エネルギーであるから、その量が多いことはいわゆる生命力が強いことに直結する。ちょっとやそっとのダメージでは倒すことは出来ず、結局先に体力切れするのは耕介たちの方である可能性が強い。 だから勝てるとすれば、一点集中突破せんばかりに、一撃必殺を狙うほかなかった。それも臥王がこちらを殺すための、全力の攻撃をした隙を縫う──タイミングを逃せば自滅しかねない、危険な作戦だった。 けれど耕介は不思議と落ち着いていた。心の在り様はどこまでも穏やかに、戦場には似つかわしくないほど静寂を保ちながら、振りぬく拳だけは激情に煮えたぎったように燦爛と輝きを放っていた。 眼前に広がる光の渦。その中心に、耕介の拳が在った。獣に触れる寸前で止まったままでいること数秒。臥王の身体が不意に崩れる。 「我が……負ける?」 「ああ」 「我が……?」 地面に倒れ行く巨体を、臥王は執念で踏みとどめていた。まだ倒れていない。だがそれも時間の問題だった。耕介が壊したのは臥王の霊力──生命エネルギーを生む、魂の根幹たる心の臓に位置する霊脈。だから、臥王に今以上の霊力が戻ることはもうない。それはすなわち、臥王がただの獣に戻ったことを意味していた。 「終わりだ。お前はもうただの人狼に戻ったんだ。諦めて村に帰れよ」 「……終わり?」 這いつくばるように俯いていた臥王が、不意に顔を上げた。 「我が、この程度で終わると? こんなところで終わると?」 「…………」 「ククッ! ハハハハッ! 莫迦な! 認めない。認めん! 認めんぞぉぉぉぉっ!」 もはや先に感じた圧力はどこにもなかった。ただ虚しく夜の森に木霊し霧散していく。 臥王がいくら認めなくても、結果が全てを物語っていた。彼はもう、力にすがることさえ出来ない獣でしかない。霊力が最低ラインを下回ったからだろう、臥王の意識が崩れ落ちるのにそう長い時間はかからなかった。 勝ったとか負けたとかはどうでも良かった。ただ、臥王に告げた通り、『終わった』ことだけは確かで、けれど『何が』終わったのか、耕介にも漠然としたままわからないでいた。 「耕介さん?」 身体が浮いたような感覚のまま、耕介は薫に向き直った。手を差し出そうとして、そして不意に気づく。 「…………」 手が光っていた。 「あれ?」 グー、パーを繰り返し、握っても開いても、手を包む光──否、改めてみれば、耕介の身体全体を包む光は衰えることなく輝き続けていた。意識して霊力を放っているわけではない。霊力を身体の周囲に展開することなど出来るはずがなかった。そもそも耕介にそんな技量は──技術は勿論だが──ないのだ。 「だ、大丈夫ですか?」 「えっと……何が?」 大丈夫かと聞かれるような事態に陥っているのかと、耕介は独り不安に刈られつつ、薫に問い返した。 「いえ……霊力を放出しているように見えたものですから……でも、違うようですね」 「…………違うの?」 「…………」 薫の目が点になる。こちらに聞かれても、という顔をしていた。 「あー、えーと……」 光放ったまま、耕介はとりあえずそれを脇においておくことにした。自分では抑えることは出来ないし、かといって何か実害があるのかどうかも判断がつかない。霊能方面に関してはプロフェッショナルである薫が首をひねったのだから、これはきっと別問題だ。そうに違いない。 (そうだといいなぁ……) 内心弱気になりながら、耕介はひとまず思考を切り替えることにした。臥王を倒したということは、少なくともさくらが彼に喰われることは避けられたということになる。 だから全てが終わったのだと、そう思っていいはずだ。が、 (思えないのは何でだ?) 臥王との戦いが、思ったよりもあっけなかったからか? 物足りない? そうではないと否定するも、気分は晴れてくれなかった。 「耕介さん?」 その不安が表情に出ていたのだろう、薫が気遣わしげに耕介の顔を覗き込んできた。 と── 「なぁ、薫は……」 二人を吹き抜けた一陣の風。視界を霧が包んだのは、肌に心地よい空気の流れを感じたそのときだった。 「え?」 思わず呻く。耕介にできたのはそれだけだった。生暖かい水分。スプレーのように爽快な音を奏でながら、赤い霧が耕介の視界いっぱいに広がっていた。 「な……」 雨にも似た水滴に見舞われるたび、むせ返るような汚臭が鼻を突く。否応なくこみ上げてくる嘔吐感に必死に抵抗しながら、耕介その発生源を見た。 ただ赤く。それ故に、何よりも明確な命ある者の証。 「何が……」 薫が呟くのもまた、無理らしからぬことだった。 そこにあるはずのもの。今しがたまで、哀れに見えた獣の頭部──臥王の首がなかった。 きれいさっぱりなくなっていた。 周囲に鮮血を撒き散らしながら、臥王であった物体がゆっくりと崩れていく。首がなくなったから、ではない。それは文字通りの崩壊だった。褐色に染まった毛並みが凍り、ドライアイスのように音を立てて溶けていく。ぼこぼこと浮き出る空気の泡がさらなる異臭を放ち、森を一瞬で腐海のそれに豹変させた。 やがて全てが消えてなくなるのに要した時間はおよそ一分程度でしかなかったが、耕介たちに時間など気にする余裕はなかった。狼の巨体が赤い煙となって霧散するのを、ただ黙って見送ることしか出来ないまま、今度こそ本当に、全てが終わる。 否、全てが消えたわけではない。消えたのは確かだが、消えたのを見届けていないものがあった。 首だ。 (どこへ?) 驚くタイミングを逃してしまえば──というよりも、目の前で起こった出来事があまりにも奇抜すぎて、脳の処理が追いつかなかったというのが正しい──幾分かは冷静なままでいられることが出来た。その冷静さが、しかし今は少し恨めしい。 落ち着きを失っていれば、少なくともこうなった原因について考える余裕はなかっただろうから。 「薫、大丈夫か?」 髪を、肌を、服を、赤く染めながら、呆然と血溜りを見つめていた薫の硬直が不意に解けた。 「あ、は、はい! すみませんでした。うちとしたことが……」 「いや、俺も驚いてる。っていうか、正直なところ、わけがわかんなすぎて驚き損ねたっていうのが正しいかなぁ?」 自分もきっと、血の雨で赤黒くなっているだろうとは思いながら、耕介は間の抜けた返事をした。 「臥王の首は──」 どこに行ったのでしょう? そう続けられただろう薫の言葉が不意に途切れた。訝しげに彼女を見やり、そうして耕介も、数瞬送れてその原因に気づいた。 「……何だ?」 視線の先にあったのは首ではなく、霧だった。臥王の血が拡散した血の霧である。漂う姿はまるで怨霊のようだったが、違う点は、この霧に意志などないことだった。 ただ漂っている。そう見えた。何かしらの意図に従って。その原因は図りかねたが、その臥王の成れの果ては、空を回転するように漂いながらゆっくりと凝縮しつつあった。 やがてその中央に、赤く光輝く宝玉のような塊を認識した瞬間、耕介たちの前方で『何か』が爆ぜた。爆発したのはその赤い塊だったのかもしれないし、別の要因かもしれない。 砂塵が巻き荒れ、岩礫が耕介を襲った。それほど痛みがなかったのは小粒だったからだろう。その分、体中が悲鳴を上げていたが。転ばなかったのは体重のおかげだけではないようだった。未だ光を放つ何かしらのエネルギーが、耕介の周囲をうっすらと展開し、爆発による衝撃を和らげている。 「薫!」 が──返事はなかった。慌てて周囲を見渡すが彼女の姿は見当たらず、砂塵吹き荒れる中では捜索もままならない。霊圧を探ろうとしたそのとき、薫のものではない、もう一つ別の霊圧が前方に出現しているのに気づいて、耕介は思わず身を固めた。 わけのわからない事だらけだった。臥王の首がなくなり、身体が血を噴出して爆散したと思いきや、粒子状になった血液は消えることなく宙を漂い、凝縮したと思った瞬間、爆発した。その爆発の向うに──おそらく爆発した原因である場所に、何者かが忽然と現れた。 「くそっ!」 毒づきながらも焦りが生まれなかったのは、ここに薫がいないおかげだった。前方に現れたものが何であれ、味方でないことは確かだろう。確認したわけではなかったが、そんな気がした。霊能者としての勘だ。 だから安堵する。少なくとも二人同時に死ぬことはない。とはいえ、薫が先の爆発で吹き飛ばされたのなら、結局無事ではないかもしれないが。 理性を優先させろ! ──そう自分に必死に言い聞かせないことには、今すぐにでも薫の安否を確かめたくて飛び出してしまいそうだった。やはり自分に戦士は向いていない。プロフェッショナルにはなれそうになかった。 そんな思いを、酷くかすれた声が否定した。 「やはり君が残ったね」 鼻で嗤う声は臥王のものではなかった。 煙が晴れる。現れた男は── (男?) 答えなど返ってくるはずもなかったが、耕介は疑念を抱かずにはいられなかった。 目の前にいたのは男だった。 随分と小柄な、年のころ十代後半の青年だった。青い瞳を煌かせ、斜め半身に絶つ男は耕介の無事を知るなりうっすらと笑みを浮かべていた。顔つきから生まれは判別できず、ともすれば女と見間違うほどの華奢な印象すら受ける。 「誰……?」 「名前が必要? でも、どうせ殺しあうんだし、知らなくてもよくないかな?」 物騒な物言いではあったが、彼は臥王ではなった。人狼でもない。少なくとも、見目は人間だった。 「知りたいっていうのが本音かな。物凄く不自然だし。こんな夜中に、君はこんなところで何してる……って聞いてもいいの?」 「まぁ世間話くらいは構わないかな。っていうか、他人の名前を聞くなら、その前に名乗るのが礼儀でしょう?」 「あー、ごめん」 どう見ても年下の青年にやり込められる自分の立場の弱さを実感しながら、耕介は彼に向き直った。足をしっかりと地面に着け、軽く重心を落として、いつでも動けるような体勢を取る。青年はそんな耕介の思惑も見取っていたようだったが、何も言ってこなかった。 「初めまして。俺は槙原耕介って言います」 「初めまして、人間の男の人──槙原さん……ね? うん。覚えた」 青年は、言葉こそ丁寧だったが、どこかこちらを見下しているような感があった。声が冷たい。感じる霊圧にすら、その冷酷さが伺えるほどに。 小さく、わずかに頭を下げる仕草は人間そのものに、彼は自己紹介する。 「僕の名はマユラ。マユラ・ヴェッセンフルグだ。よろしく、槙原さん」 にこやかに告げられた名前──それは、二代目狼王のものだった。
◇
吹き飛ばされたということを認識したのは、爆風で飛ばされ宙を回転している時だった。 豪快に、気前良く、信じがたいほど高らかに、薫は夜空を滑空していた。肌に冷たく突き刺さる風に否応なく頭を冷やされながら、薫はとりあえず、周囲を見渡して耕介の姿を探してみる。 彼は見当たらなかった。その場に残ったのか、それとも別方向に飛ばされたのか。不安定な──むしろ精神的に──ままでは、彼の霊圧を探ることさえ難しい。 「……どうしよう?」 そっと独りごちる。とりあえず、自分が空を飛んでいる事実と、その先に待つ結果を薫るは忘れていなかった。 「着地を何とかしない……と」 吹きすさぶ夜風を突き抜けながら、陣内なら喜ぶだろうな──彼女はジェットコースター系が好きなのだ──と、この場に限っていえばどうでもいいことを考えられる余裕があったのは運が良かった。すでに落下し始めている自分の身体の行く末──重力に従った落下点を予測しながら、愛刀に霊力を込める。地面に向けて霊波を打ち込み、その逆風をクッションにする──薫が考えた作戦はいたってシンプルだった。が、 (薫) 抜き放った刀身から、相棒の声が聞こえる。 「十六夜? なんとね」 (あちらにどなたかいらっしゃるみたいですよ?) 「え?」 視線の先に、銀髪の女性が立っていた。すぐ傍には、見知った後輩達もいる。 赤く彩られた彼女の瞳が、ほんのりと光を放っていた。彼女はあのような瞳をしていただろうか。そんな驚きはさておいて、薫の身体は落下を続けた。 突如空に現れた薫を認めたのか、彼女もまた同じような顔をしていた。すなわち、何であんなところに彼女が──? その姿が何故か──だけど素直に綺麗だと思いながら、薫はエリザの元へと飛び込んでいった。痛みよりも強い衝撃が耳元を襲う。轟音にも似た悲鳴を突きつけられ、薫は意識を手放した。
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