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3
マユラ・ヴェッセンフルグは愉しんでいた。今この時──復活したこの時間を愉しむくらいの余興くらいはあってもいいだろうと、自身を半ば無理やり納得させながら、槙原耕介との会話を愉しんでいた。 耕介は気づいていないようだが、マユラの方に余裕があるのかといえば、その実そうでもなかった。 ここにいるマユラがただの仮初でしかないことを、彼自身が一番よくわかっていた。本人はあの時、記録に在るとおり自爆によって滅している。ここにいる自分はただの残骸。故に、正確には復活したわけではない。 王を目指した者の霊力を喰らって目覚めたモノ。ある目的のために遺されたシステムの一部。人格を持つという特異性はあるにしても、生物などでは決してない。 ああ、だから人間よ。気づけ。このような存在を許した人狼など、この世に在ってはならないのだと。
◇
すかさずに文句が漏れ出たのは条件反射に近かった。鏡を見たら、きっと呆れ顔になっているだろうことを自覚しながら、いくばくか緊張気味の身体に別の意味で力が入る。 マユラはかなり不服そうだった。 「何? いきなり。話し始めたばかりで止めないでくれる?」 「話って、何の話なんだ? そもそも何故に昔話風?」 「いや、そのほうが雰囲気出るかなと……」 あまり深い理由はなかったらしいマユラの方も、文句を言われて困っているようだった。 「何の雰囲気だ一体。大体、神様って何のことだ?」 「……うーん。定義は難しいと思うんだ、この場合」 それは耕介の問いに対する答えだったのか、それともマユラ自身の独り言だったのか。彼の口調は耕介を意識したものというよりも、自身が思い出すための布石であるらしかった。 「全知全能でいう神様のことを、槙原さんは信じる?」 「んにゃ。これっぽっちも信じていない」 そこはきっぱりと否定する。あまりの即答に、マユラは驚いて言葉に詰まったようだった。 「や、やけにあっさりと。また何で?」 「何故って……まぁ目で見たことがないから……かな?」 耕介自身、明確な理由が在るわけではなかった。 「なるほど。自分の目で見たこと以外は信じないと……」 「いや、そういうんじゃなくて」 軽く手を振って否定する。その頃には、二人の間にある空気にギスギスしたモノはなくなっていた。それがいいかどうかはさておき。 「なんていうかな。神様って、俺からすれば信仰の対象でしかないわけで……、ンでもって、俺は無宗教なんだ」 「神様は信じない?」 「少なくとも、人間を都合よく救う神様なんていないって思ってる。人間を救うのは人間だ。逆に人間を襲うのも人間だ。命を救うのも、奪うのも、神様じゃない。人間だ」 「……クッ──」 と、何がおかしかったのか、マユラの表情が目に見えて歪んだ。なんというか、面白すぎて我慢ならないといった顔で。 「ハハハハハハッ」 「……なんか腹立つな」 「ハハハハッ! ごめん、ごめん。気を悪くしたなら謝るよ。だから、そんなに怒らないでくれ。僕はね、むしろ槙原さんはすごいと思うんだよ。僕を前にしての態度といい、今の考え方といい。自己中心的な感はあるけど、君の場合、周囲をキチンと容認した上での自分至上主義なんだね。いや、本当に珍しい。ハハハっ」 とりあえず、耕介にできたことは憮然とした表情でマユラの笑いが収まるのを待つことだけだった。怒ったところで、彼が言うことを聞いてくれそうにないのは解りきっていたし、感情は出来るだけ外に出してもらったほうが解りやすい。 無駄な労力を避けるべきだというのは、戦りあっても勝てない言い訳だろうか。 そうしてようやく笑いが収まる頃、長いため息を吐きながらマユラは── 「ハーッ! 苦しかった。でも君みたいな人間があの頃にいたなら、世界も少しはましだったのかな」 そう、しみじみと頷いたのだ。その瞳に見えたのは、たしかに悔恨に近い感情だったのだが、その意味を図ることは出来なかった。 「本題に戻ろう。神様の話だったな。うん。神様はいない。全知全能なる存在はいない。それは正しい。けど、それに近しいモノ──いや、近づこうとした者たちは、過去に確かに存在したんだ」 「それがあんたの言う神様?」 「いや? あんなのはまがい物だ。神に近づこうとして、自らを神として扱ったが故に、世界に抹消された愚か者達だ」 「……誰の話をしているんだ?」 マユラの口調は、過去を振り返った思い出話をしているかのように緩やかなものだった。 「神の名を騙ったモノたちの話だよ」 そうして小さく笑う姿に、先ほどまであった圧力はなかった。マユラが何を意図しているのかいまだ理解できない中で、耕介はとりあえず彼の話しを聞くことを選択した。矛を下げた相手が話をしたがっている。いつでも自分を殺せるはずの彼が望むことを、少しだけ知りたくなったからだ。 「俗に神話に出てくる神様と呼ばれる連中がいた頃は、槙原さんみたいな霊能者をはじめ、僕クラス、それ以上の『能力者』がうじゃうじゃいたんだ。それこそ、新たな生命や生物を生み出すくらい簡単にできる連中がね」 「それはまた……なんというか」 ぞっとしない時代だなという言葉はかろうじて飲み込んだ。 「でも力を持たない者たちもいた。数で言えば、やはり能力者の数は圧倒的に少ない。本当に少ないと思えるほど、その頃には生命が溢れていた」 「それって西暦何年ごろ?」 「もっと前だよ。僕が狼王になったのだってそうだ。それ以上前から僕は生きてきた。神を騙る莫迦が世の中にはびこっていた時代だ」 「……西暦よりも前……」 紀元前にそんな連中がいたのかという疑問は、すっかり表情に出ていたらしかった。 「本当にそんな連中がいたのか。そう言いた気だね。でも今の人たちが、過去のことをどれだけ解明できていると思う? 僕が知る真実が、一体どれだけこの時代に伝えらているんだろう」 それを言われてしまえば、耕介は黙る他ない。マユラはいわば、歴史の生き証人でもあるのだから。 「何はともあれ、その時代は、いまよりもはっきりと明暗に分かれていて、力ある者は力なき者を自由に扱い、それでも力なきものは力ある者を崇拝した。力が全ての時代だ。神は楽園に住まい、力のない人々が隷属する世界。それでも飽きたらず、やがて神々は自分達の中にも階級を見出して、誰が優秀かを争った。文明は確かに在ったけど、神の住まうそこが平和だとか楽園だとか、信じきっていた連中を莫迦といわずになんと言うのか。本当に呆れるくらい、腐った時代が、確かに存在したんだ」 マユラの表情に変化はなかった。他人事のように話す彼が、耕介にはどうしてか、どうにも出来なかったことを悔やんでいるように見えた。 「けれど、世界はやがて、そんな神々を──正確には、自分達が世界を支配する神様であると自称する連中を認めなくなった。世界だって生きている。自分たちこそが一番で、世界は自らに隷属するものだ──何て考えている連中を、彼らをこそ真に内包する世界が容認するはずがない。結果として、彼らは存在することを許されず、すべからく世界から消えた」 その言葉を聞いたとき、耕介は幻聴かと己の耳を疑った。マユラの言葉を信じるなら、世界は、マユラでさえ力なき者とみなしたのだ。 「世界意志による神々の淘汰のあと、隷属していた人々は自由になった。記憶にも記録にも、世界のどこにも存在した痕跡を残さず消えた神々のことを、隷従され苦しむしかなかった時代のことを、それでも人々はどこかで覚えていたのかもしれない。結果として、彼らは『神話』なんていう形で後世に伝えられた。ま、その殆どは空想の眉唾だけどね。中には下手に真実付いてくるものもあるからびっくりだ」 何故マユラがそこまで詳しいのか。耕介は聞くべきかどうか迷ったが、彼の話はもう少し続きそうだったのであえて黙っておいた。とりあえず、相槌を打って先をうながす。 「そうして、その時代はいわゆる神話と呼ばれる物語の模型になった。知識として存在しないものを想像なんて出来ないだろう? 物語にするならなおさらだ。人間種族をはじめとする現存生命が、『神』なんて言葉を使って上位存在を崇拝するのは、あの時代の名残だと僕は思っている。だから『神話』が生まれ、宗教が生まれ、自分達に及ばないことに対して『神』に祈るようになった。そうすることで安らぎを得る。遺伝子に残った微かな記憶が、『神』という存在をどこかで容認する。でもその実、神なんていないことを僕は知っている。でも神を名乗る能力者たちは存在した。だから僕たち『乗組員』は、彼らのことを神族と呼んだ」 それは、彼らを自分達とは違う者として見る境界を定義する言葉だった。 「『乗組員』って言うのはね、僕のような、力がありながら力なきものとされた者のことだよ。何故生き残ったのか。それは解らない。少なくとも、世界が慈悲を持っていたなんて事はないはずだから、理由はあると思う。でも解らないし、今となってはどうでもいいことだ。問題は──」 別にあるのだと、マユラは一度言葉を切った。 「世界は神族を否定した。でも神族が創ったものに対しては、そのいくつかは消えることなく世界に残った。僕ら人狼族もその一つ」 あ、これはまずい。そう思ったときには、マユラは眉ひとつ動かすことなく爆弾発言をした。 「要するに人狼族は、神族の手によって創られた神造種族なんだよ。天然自然に、進化の流れに沿って生まれたものじゃない。意思ある命を生み出すことの出来るくらいだから、連中が神なんて名乗り、呼ばれていたのにもある意味納得は出来るけど。創られた側としては、『有難う』何て言葉は間違っても出てこないな」 「…………あー」 後の祭りとはこのことだった。ここまで聞いては後には戻れない。なにやら嫌な予感が耕介の脳裏をよぎった。そしてこういうときの予感はえてして当たることが多い。 とりあえず絶望するのは後の方がいいと、耕介は話を一端区切ることにした。 「あのさ、一体何の話なんだ? これは。確かに人狼族が生まれたいきさつには驚いたけど……」 「そんな風には見えないんだけど……?」 もっと驚いて欲しかったのだろう、マユラは明らかにこちらの反応の小ささに不満を抱いているようだった。 「っていうか、何でそんなに冷静? 驚いてよ。出来ればもっと!」 「驚きも、過ぎると『へぇー』ってしか反応できなくなるんだ。しょうがないだろ? スケールがでかすぎって言うか、実感なさすぎっていうか、むしろ話が長すぎ」 「……うっ。それは考えていなかった」 失敗したとばかりに額に手を当てるしぐさは、もはや人間と何ら変わりない。だからこそ違和感があったのだが、それを今更気にしても仕方ないと、耕介は思考を切り替えた。 「まぁでも、大体のいきさつはわかっただろ? これは昔話だよ。そして、ぼくがここにいる理由でもある」 ああ、こいつはそれが言いたかったのか。 そう納得した耕介ではあったが、それでもやはり苦心は拭えなかった。遠回りしすぎな気がしたのだ。 「人狼族が創られた背景──なんていうのは、関係ないんじゃないのか。そう思うだろ? でも違う。そこが根源だ。僕はね、槙原さん」 にこやかに、マユラが笑った。寒気が走るほど、さわやかに。 「人狼族なんて存在は、この世から滅びるべきだと思っているんだ。僕を含めて」 どこまでも純粋に王が笑う。ここに来てようやく耕介は、彼の性格を把握し始めていた。 要するに彼は── (人を油断させておいて、不意打ちでどん底に落とすのが好きなんだ) どこかできっと、友人がくしゃみでもしているだろうことを期待しながら、耕介は震える手をもう片方でそっと握り締めた。 「人狼族を、滅ぼす?」 「過去と変わらないのであれば、ね。ただ──」 と、続けようとしたマユラの言葉が不意に止まる。怪訝に思った耕介もまた、その意図に気づいて身体を硬くした。 「何だ?」 「ああ、ようやく動いてくれた。待ちわびたよ、本当に」 笑う狼王の言葉の意味は解らない。が、それが指し示すことが、決していい知らせでないことくらいは理解できた。
──『 』
小さな音。澄んだ音色。奏でられたそれは、確かに何かの言葉のようだったが、耕介は複雑すぎて聞き取ることが出来なかった。 「!」 呪文のような声に呼応して、耕介とマユラ、二人のいる場所を、光が瞬時に包み込んでいく。やがて視界全てが光に覆われる中で、マユラはなお、その相好を崩すことなく笑っていた。 「何故笑うんだ?」 「貴方はおかしくないのか? 本当に人狼は愚かだと、僕はこの景色を見るたびに思う。ところで、今ボクたちを包んでいる光は未来と過去、どちらのものだと思う?」 「え?」 マユラは笑みを崩さない。その問いに答える前に、耕介の意識は光に飲み込まれた。
◇
知佳の心理は複雑で、しかしそこにある気持ちは単純だった。 「みんな、大丈夫かな?」 呟いたところで何かがわかるわけでもない。すぐ傍にいる教師は何の反応見せず、ただ目を閉じ、何かに集中しているように見えた。 「先生?」 語りかけても返事はない。これを何度か繰り返したが、結果は同じだった。同じだろうなとは思っていても話しかけてしまうのは、やはり心細くなっているからだと知佳自身も自覚していた。 落ち着かないのは何もすることがないせいだった。数分に一度、立ち上がっては座り、教師を呼びかけ、返事がないことに落胆して再度沈黙する。 それを繰り返して数回。知佳自身数えていないので何度目か解らなかったが、またかと諦めに似たため息を吐いたのと、双真が立ち上がったのはほぼ同時だった。 「……先生?」 「動いたか。思ったよりも早かったな」 「何がですか?」 「綺堂さくらだ。てっきり耕介たちの方へいくと思っていたが、エリザの方に現れるとはな。ま、考えによってはそのほうが好都合か」 「さくらちゃん?」 「強行突破する」 え? ──と、聞き返す間もなかった。唐突にほとばしった閃光に、知佳は思わず目を瞑った。 驚きから醒めて目を開けると、双真の身体を赤い空気が覆っていた。彼の身体から迸るエネルギーが渦となって周囲に散開し、炎となって大気を燃やす。 「突破した後、貴様は俺もろとも瞬間移動しろ。俺が周囲の存在を『否定』して脱出口を作る。連中が再展開される前に、お前の力でここから脱出だ。いいな」 いきなり何を言っているんだろう? というか、何がしたいんだろう、この人は。 賢明にも、知佳は思ったことを口に出すことはしなかった。 「は、えっと……? どこに?」 「エリザたちのいる場所だ。わかるか?」 「……解りません」 これは本音だった。彼女達のいるらしい方角はわかるが、その場所まで正確には知覚出来ていない。 「大体で構わん。知覚できる限りでいいから近くに飛べ。この場から脱することを最優先に動く。いいか? しくじるなよ? 綺堂さくらを助けるためにはお前の役割はかなり重要だ」 「…………」
先生は確か、さくらちゃんを殺すようなことを言ってませんでしたか?
その質問が喉まで出掛かっているのを、知佳はどうにか押しとどめた。双真が何を思っているのか理解できない。そもそも、彼は何のためにこの一件に関わっているのだろう? その疑問がそのまま視線に現れていたのだろう、不意に双真がこちらに向いた。 「何だ?」 「先生は……」 敵か味方か。それすら聞くことが怖くなって、知佳は口をつぐんだ。静かな、そしてわずかな沈黙の後、 「……耕介が助けたいと言っていた」 思っても見なかった答えに、知佳は思わず彼に向き直ってしまった。そして瞬時に後悔する。 「だから手を貸してくれと」 だから? 「だから、俺が綺堂さくらを殺す。あいつにはそれが出来ないだろうからな」 無表情に、淡々と語る双真の言葉から感情は読み取れない。けれど彼が何のために戦うのか、その理由がはっきりして、知佳は胸の内にあったわだかまりがすとんとなくなるのを感じていた。 それが誤解であれ何であれ、知佳はもう迷うのをやめることにした。土壇場になってからまた考えることにする。今はただ、ここから出よう。そしてさくらを助けよう。 自分に出来ることがあるなら、全力でやるだけだ。今必要なのは、その覚悟を決めることだ。 「売られた喧嘩は三倍返しだ。準備はいいな」 なにやら物騒なことを言っている双真の後ろに立って、知佳は自身の力を解放した。純白の──天使を模した羽が左右六対にわたって展開される。 (よしっ) 知佳の戦いはここから始まる──そう思った矢先、双真の掛け声よりも先に、知佳の耳に聞き覚えの在る声が届いた。
──『 』
それは天上から。それは彼らを取り巻く周囲から。 「さくらちゃん?」 異変に気づいたのは知佳だけではなかったが、双真が何かしらの対処を講じるよりも速く、奏でられた音は二人のいる世界をあっけなく侵食し、光と共に霧散させた。
◇
「さくら……」 現れたのは探し人だった。 見つけた──と。感情が歓声を上げる脇で、本能が危険を訴えてくる。だがそれは、どうやら自分だけだったらしく、少女の姿を認めた少年少女たちはこちらが制止する間もなく駆け出していた。 「さくら!」 「綺堂!」 にっこりと微笑むさくらに、真一郎たちが駆け寄る。無事だったことに安堵する子供達を眺めながら、エリザはその場から一歩も動けないでいた。 (何?) ああ、アレは確かにさくらだ。 薄く赤みの差した髪。青紫の瞳。可愛らしい唇、整った目元。愛して止まない姪が無事に帰ってきたというのに、エリザの心に浮かぶのは安堵ではなく不信だった。それ故に、彼女に歩み寄ることもなく、呆然と子供達の再会を眺めている。 (臥王は倒された) 胸中で呟いたのは無自覚だった。だが次は意識して、現状の整理を行う。自身が知り得ている情報が殆ど『偽物』である可能性が高くなった以上、今起こっていることから随時判断するしかなかった。 (槙原君はまだ戦っている) それは彼のいる場所で、二つの霊圧が存在している点でも間違いない。もう一つのそれが何者なのかは図りかねたが、この時分に突如現れる存在を、都合よく味方などと考えるほど、エリザは呆けていなかった。 (そして神楽君がここにはいない) あれほどさくらを殺すと豪語していた彼がここには来ていない。さくらを見失っていたのは彼とて同じだが、さりとてこの場に彼が姿を現さないのは不自然に思えた。 真一郎には『ああ』は言ったが、双真という人間は自身の臨む場所へ、何の情報もなく赴くことの出来る、ある種とんでもない第六感の持ち主だ。 どこからともなく現れて、こちらの意図などお構いなしに場を引っ掻き回すことの出来る、はた迷惑な感性ではあるが。 いられては困るが、いなければいないでどこにいるのか不安になる。何にせよ、そんな彼がここにはいない。それが不思議だった。 では逆に、何が自然なのかといえば、それもわからない。 考えすぎだろうか? 神咲薫までもがさくらの傍に寄っている。なるほど、霊能者の彼女が何も感じていないのであれば、自分の思い過ごしかもしれない。 喉に魚の骨が刺さったような、どこか釈然としない引っ掛かりを感じながら、エリザもまた、さくらが無事であったことを素直に喜ぼうとして一歩踏み出した──その時だった。 ──H その音は、天上から聞こえてきた。 声ではなく音。そう思えるほど澄んだ音色が、すんなりと脳に入り込んだ瞬間、エリザは全身を駆け巡る悪寒に抗いながら、全力で叫んでいた。 「さくらから離れなさい!」 音が止む。だが声は届かず、少年達は再会を喜び合っている。さくらの顔にも笑顔が浮かぶ。それ自体、何の不自然さもない。 (違う) 自然であることが異常なのだと、エリザの第六感が告げていた。そも、何故さくらはここへやってこれたのだろうか。周囲の白い影によって隔離されたこの場所へ? その予感を実証するかのように、不意に、彼女の周囲が崩れ落ちた。 空間が切り取られたかのように静止する中で、子供達の声が不意に消える。その切片に自分も組み込まれることを察して、エリザは全力で大地を蹴った。 「くっ!」 走るは無音。今ある全力で持って内なる吸血種の力を解放する。 姪の姿をした何か。少なくとも、アレはさくらではない。さくらと同じ姿の敵にわずかなりとも迷いを抱きながら、エリザは疾走した。ただ速さだけを求め、子供達の下へと駆ける。 見慣れた笑顔で微笑むさくらの唇から音が零れ落ちたのと、エリザが子供達とさくらの間に割って入ったのは同時だった。 ──S 「cladveil!」 衝撃は一瞬──視界を白銀の閃光が支配する。全身に感じる痛みでどうにか正気を保ちながら、エリザは無我夢中で呪文を唱えた。
──The night is far spent, the day is at hand. Therefore let us cast off the works of darkness, and let us put on the armor of light!
「Truemadly──deeply!」
発したのは光の檻。敵の攻撃──その侵入を防ぐ閃光の盾。防いだ瞬間に、敵を、その攻撃もろとも焼き尽くす攻勢型防御結界を展開させ、エリザは光の先にいるさくらを睨み付ける。 展開された結界が発する光の渦──本来なら既に消滅していてもおかしくないほどの熱量を浴びながら、それでもさくらの姿をした何者かは、平然と、傷一つ、焼け跡一つないままに、こちらを見ていた。 子供達と笑いあっていた表情はすでにない。機械的な顔。だが、それは紛れもなくさくらと同じ顔だった。さくらと同じ瞳。さくらと── 「貴女は誰!」 「貴女に望みはありますか?」 やはり声も同じ。何から何まで同じであることに、エリザの理性が悲鳴を上げる。 「答えなさい!」 「応えてください」 質問が重なり、互いが互いに答えを望む。が、成立しない会話に見切りをつけたのはエリザが先だった。 「貴女が何者でも構わない。さくらをどうしたのか、教えてもらうわ」 「ごめんなさい。質問の意図がわかりません」 「なんですって!」 「私は綺堂さくらです。この身体は、貴女が求めている少女そのものなのだから」 「…………え?」 呆けたのはほんの数秒だった。瞬き数回にも満たない時間。が、それだけの間に、さくらの姿をした者は、エリザの作り上げた結界を腕の一振りで消滅させ、彼女の眼前にまで近づいていた。 瞬間、エリザは突然の脱力感に襲われた。四肢に力が入らず、思わず地面に肩膝をつく。 (体力を奪われた?) まるで、神楽双真の反力のように……。 いや違う──と、エリザは即座に否定した。体力が奪われたというよりも、体力を一気に失った状態になったというべきだ。結果は同じでも、過程が違う。精神的な疲れは全くないのに、肉体だけが疲労を感じている。そんな器用なことを、双真は出来ない。 「貴女は……」 「すみません。でも、私は間違いなく、紛れもなく綺堂さくらです。ただ貴女が知る『綺堂さくら』という少女とは別であることには違いありません。私は目覚める前、この肉体の本来の持ち主である『綺堂さくら』の声を聞きました」 「さくら……の、声?」 「彼女は貴女を求めていました。だから私はここに来たんです」 「何の……ために?」 「……契約のために。もう一度問います。応えてください。貴女に望みはありますか? 私との契約を望みますか?」 「望めば?」 「私の持つ力の全てを懸けて、貴女の命令を執行します」 「拒めば?」 「特に何も? 別の契約者を探すだけです」 思考する。彼女はさくらではない。が、彼女は自身をさくらだという。納得は出来なかったが理解は出来た。彼女はさくらの肉体を支配する別の何か。 問題は、さくらをどうやって、その支配から開放するかである。 「さくらは、どこ?」 「私が綺堂さくらです」 「それは答えではないわね。貴女の肉体の本来の持ち主はどこにいったの?」 「……この器、その人格、その魂と別物であって同じ。全てを共有するもの。私がさくらであり、さくらが私です。貴女が求める人格でないという、ただそれだけのことに過ぎません」 「さくらと話すことは?」 「できません。私の目的を果たすまでは」 「目的?」 肩の力を抜くことなく、エリザは静かに深呼吸した。 頬に汗が伝う。脚が、手が、意識が、エリザの身体の全てが少女から目を背けて逃げろと伝えてくる。が、それは出来ない相談だった。後ろで意識を失っている子供達を見捨てるわけには行かない。目の前にいる、ようやく見つけたさくらを助ける前に逃げるわけには行かない。 鼓動の収まりを待ってから、エリザは質問を続けた。果たしてそこに光明があるのかどうかは疑問だったが、この場から撤退するわけには行かなかった。 「貴女は……」 「おい」 震える片手を握り締め、未だ答えのない問いを繰り返した、そのときだった。さくらの瞳が、何を思ったかエリザの頭上に向く。 それにつられた形で上を見ようとして、 「へ?」 突然頭上からやってきた聞き覚えのある声に、エリザは思わず身震いした。何故か上を向くことを本能が拒否したが、身体が勝手に反応するのは脳ではなく脊髄のせいである。 ともあれ、反射的に何事かと向き直った瞬間、 「神ぐ──ぶめぎゃっ」 視界いっぱいに何かが覆いかぶさるのを感じた瞬間、エリザは潰れた奇声を挙げた。衝撃よりも痛みよりも、唐突に頭上に出現した知人のその脚が、何故自分の顔面にめり込んでいるのかが気になった。そのまま背中から地面に転倒する。 何事もなかったように着地を決めてみせて、神楽双真は自慢げにのたまった。 「ふむ。まだ無事のようだな。大丈夫か?」 「大丈夫じゃないわよ!」 腫れて痛みが響く頬を押さえながら、エリザはなりふり構わず立ち上がった。痛みはそのまま感情としての怒りを呼んで、怒りは自然と身体を動かしてくれた。 その怒りをぶつけられているはずの当人──双真はいつもどおり飄々としてエリザの背後にいた。何故ここにいるのか、否、それ以前に── 「何故蹴るの!」 「そこに頭があるからだ」 「わけわかんない! っていうか、何でここにいるのよ?」 「ん? ああ、お前一人じゃ勝てないだろうから、加勢しに」 「加勢しに来て、味方に不意打ち食らわしてどうすんのよぉっ!」 至極まともな反論を、しかし友人はさして気にした風でもなく、軽く肩をすくめただけだった。 「蹴りやすい位置に頭があれば、つい蹴りたくならないか?」 「ならない! っていうか、今すぐ棄てなさいって言ったでしょう! そんな悪癖は!」 「ったく、細かい奴だな」 鬱陶しそうに眉をひそめる双真の胸倉を掴みながら、エリザは内なる怒りを押さえることなく激昂した。 「細かい? 私の言ってることって間違ってる? ねぇ!」 「ちょ、ちょっと落ち着いてください!」 知佳が間に入ってなだめてくる。それを跳ね除けようとして、しかし不意にエリザは、双真たちがどうやってここに来たのかという疑問にようやく思い至った。 「……ってあれ? そういえば、どうやってここまで来たの?」 「それは……」 大人しく首を振る双真の横で、知佳が言葉を飲み込む。それで理解した。彼らもわかっていない。強制的に連れてこられたのであれば、それをしでかしたのは目の間にいる少女しかいなかった。 「ちなみに、俺の予感だが」 「何?」 何か新しい情報か何か。それを期待して見返した双真の瞳は、しかしエリザの上に向けられている。瞬間、嫌な予感がした。 「俺たちが強制的にこちらに呼び寄せられたのなら、耕介たちも当然……」 「へ? ──うぎゃぁっ!」 今度は後頭部に痛烈な衝撃を喰らって、エリザはあっさりと転倒した。痛みのあまり意識を失えなかったのが運のツキだろうか。悶絶打って地面を転がり、ようやく立ち上がったその脚で、今振ってきた二人のうち、彼女に直撃した背の高いほうに詰め寄る。 「い、痛いではありませんのこと?」 「口調と語尾がおかしいですよ! エリザさん」 双真と同じくして突如空中に現れた青年──槙原耕介は襟首を締められ苦しそうに抗議してきた。 「あーら。何のことかしら。もうこの際、みんなまとめてフッ飛ばしてやろうとか、全然これっぽっちも思ってませんわよ。ホホホ──ホ……」 「自棄になるのはそのくらいにしておけ。阿呆が」 だがその瞬間──後頭部に再度衝撃を喰らって、エリザは今度こそ昏倒した。
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