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知らなければよかったという後悔。 知らずにいたことへの悔恨。 それら胸中に渦巻く怨嗟のきっかけを思い出して、知らず苦笑が漏れ出る。 既に滅びた目で何を睨む? 過去に亡くした心で何を怨む? その裏切りが全ての始まりだと、気づかないでいた己の愚かさを呪わなかった日々はない。それを生み出した原因ですら、全ては己の失策であったという、ただそれだけだろうに。 だが、だからこそ許せない気持ちも真実だ。 ■■はすべからく、連れて逝く。 それが──償いというものだろう?
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爆ぜる。 連続して暴発する空気の圧力は、避けるだけなら大した問題にはならなかった。知佳や真一郎たちへ向かうものだけを意識して弾き返し、それ以外は避けることに専念する。 と── 「XALL」 銀髪の魔女が唱えた呪文で、彼女を中心とした結界が構成される。真一郎らを包み込むように広がる半透明のドームの中までは喉を焼く熱風も肌を切り裂く砂塵も入ってこない。こんなものを呪文一言で構成した彼女がさすがというべきなのか。どちらにしても器用だなと、耕介は場違いな感想を抱いた。 (ま、何の解決も出来てないんだけど……) マユラに対しては勝ち目がないことが歴然としている。さくらに対しては、どのように対処すれば良いかさえ判っていない。 さくらを元に戻すための方法もわからず、マユラへの対抗手段も持ち合わせていない。要するに、こちら側は、完全無欠、問答無用に手詰まり状態だった。 困り果てて二人そろって唸る傍らで、双真が一人、ポツリと進言した。 「手ならあるぞ」 「え?」 「三種類ほど」 「みっつも?」 耕介とエリザが互いに顔を見合わせる。驚きは彼の発言に対してだけでなかった。何を思ったか、双真は結界の外にいた。いや、エリザはちゃんと彼も結界の中に入れた上で展開したはずだから、彼自ら外に出たということか。 「一つ目は単純で明快だ。これが一番手っ取り早い」 と、指を一本立てて、双真はその手段とやらを口にした。 「俺たちの誰でもいい。綺堂さくらを殺す。出来るか? 耕介」 「出来るか!」 「エリザ?」 「しないわよ!」 彼女も耕介同様、肩を怒らせて抗議する。その言葉を聞き入れたようには見えなかったが、双真は軽く肩をすくめて見せた。 「ま、面倒だが仕方ない。俺が殺すとしよう。お前達がしないなら俺が殺るしかないか」 「だから却下だって! その方法は断じて却下!」 「何故?」 真面目な顔で、心底疑問に思っている視線を投げかけてくる双真に軽く脱力しながら、耕介は真っ向から親友を睨み返した。 「俺たちは綺堂さんを助けに来たんだ。殺すために来たわけじゃない。お前だって知ってるだろう?」 「…………ああ、もちろん知っている」 「うそね」 「うそだな」 示し合わせたわけではなかったが、耕介とエリザの反論は早かった。 「思い切り間があったぞ、今」 「忘れてたでしょ?」 「っつーか、最初から覚える気がなかっただろ?」 「信用ないな」 「あると思ってんのか?」 「それはそれで驚きだわ」 「別に忘れていたわけじゃない」 「忘れてたわけじゃないってことは、知ってて無視してたってことだろ?」 「無視してた上で、それがさも全員の目的のように摩り替えようとしたわね。さくらを殺せってしつこいくらいに言ってたし」 「最低だな」 「最低よねー」 「……貴様ら、後で覚えていろ」 ギチギチと──奇怪な音を奏でながら、双真は首だけをこちらに向けた。 「ま、まぁ、それはさておき」 額に浮かぶ冷や汗をぬぐって、耕介は双真からさりげなく視線をはずした。見るとエリザもまた数歩後ろに下がっている。彼の視線に睨まれた結果だろうが、なんとなく、調子に乗った自分たちを後悔した一瞬だった。 第一このまま脱線している場合ではない──まだ残り二つの案を聞いていないことに思い当たって、耕介は慌てて先を促した。 「そ、それで? 残り二つの案ってどんなの?」 「ふむ。そういう話題の切り替えに失敗するのはバッドエンドルートによくある展開だな」 「大きなお世話だ。ほっとけ!」 思わず叫び返してから、はっと正気に戻る。 「じゃなくて! そうしないためにここに来たんだ。お前だって──」 「俺の目的は既に果たしている。反力が完成した、その時点でな。だからこの場にいるのは、ただのアフターサービスだ」 確かに彼が慈善で人を助けるようなことをするはずがないことくらい、神楽双真という人間性を一部でも知る耕介は痛いほど分かっている。だがそれでも、頼りにしたいと考えてしまうのは、ひとえに自分たちが実力不足だからに他ならない。 「それに俺の案が、お前たちにとって最善かどうかはまた別問題だろう?」 「聞いてから判断するよ」 「…………ふん。まぁいいか」 認識あわせは簡潔なものだった。双真も耕介も、特に本気で文句を言ったわけでもなく、ただ互いの立場を確認しあっただけに過ぎない。そうして分かったことといえば、やはり自分は自分だということだ。 双真がさくらを殺すというなら、それは必ず実行するのだろうし、耕介としては絶対にそれは阻止する。味方で仲間で友人であるが、目的が──目指す先が違った瞬間に敵になる。それは出遭った頃から何一つ変わらない関係だった。 ほんのわずかな交差のうちに、二人は互いに互いの確固たる意志を確認する。双真は顔を再び前方に戻したが、その唇は微かに傾いているように見えた。そうして、おもむろに残った二つの案を話し始めた。 「二つ目は、綺堂さくらの霊力だけを無力化する」 「出来るの?」 「やったことはない。面倒だからな。俺の『反力』を使えば不可能じゃないが、これはあくまで綺堂さくらの行動を停止させるだけでしかない。根本原因が取り除かれるわけではないのでただの時間稼ぎにしかならん」 「ちなみに三つ目は?」 「フェンリルの初期化」 「初期化?」 「フェンリルがマユラとの契約で動いているなら、その契約を破棄させてしまえばいい。それで少なくとも敵が一人減る」 軽く、エリザがため息を吐いて会話に割って入った。 「まぁ妥当なところ……というよりも、それしかないって感じね。問題はそれを実行する方法か。どっちにしても神楽君が一番の適任っていうことなのかしら?」 「そうなる」 「なら作戦は──」 「あるはずないだろう?」 双真の言葉はやはりにべもない。 「俺が綺堂さくらを攻略する間に、耕介はマユラと戦闘。霊体であるマユラの相手は霊能をもつお前が適任だ。その間の周囲への防御をエリザが担当する。能力上、それ以外の編成はありえん」 『ああ、やっぱり……』 文句があるわけでも、言える立場でもなかったが、耕介とエリザは揃って脱力した。怨むべくは自分の力のなさであって、双真ではない。 「先生が──」 と、そばで聞いていた知佳がおずおずと進言した。 「先生が、さくらちゃんと戦うんですか?」 「不服か?」 「………………」 なんと答えたものか迷ったらしいその時間は、耕介とエリザにはそのまま明確な答えにしか聞こえなかった。軽く視線を交わしてから、二人は揃って肩をすくめた。 「不服みたいよ?」 「不服だって」 「え? まだ何も言ってない……んです……けど」 双真が再び後ろを──視線を知佳のほうに向ける。いくばくか面倒くさそうな顔になっていることを除けば、特に機嫌を損ねたようには見えなかった。が、慣れている耕介と違い、それだけで知佳は萎縮したらしい。そのまま尻すぼみになって言葉を引っ込めた。 「なるほど。他の連中も同じみたいだな」 驚きに任せて知佳が後ろを振り向くと、薫やリスティ、目が覚めたらしい真一郎たちもまた、納得のいかない顔で耕介たちを見ていた。皆の気持ちを代表するように一歩前に出た真一郎の表情は、中でも一等嫌悪の色が表れていた。 「他に方法はないんですか?」 「在るかもしれない」 答えたのは耕介だ。そうしたほうがいいと思った。 「だったら……!」 よほど双真が信用できないのか。と、耕介は胸中で苦笑いしながら、それもさもありなんと妙に納得した面持ちで真一郎を見ていた。もしかするとここに来るまでに何かあったのかもしれない、と思わせるほどに、彼の双真に対する視線は厳しい。 それが何であるかは知らないし、聞く気も起きなかった。どうせろくでもないことに違いないのだ。この友人のしでかすことなのだから。 「でもごめん。今は他の方法を考えていられる余裕がない。この目くらましだって、後何分も持たない……んでしょ?」 「正確には後一分ってところよ。ここでの五分間が外の約一秒に相当するんだけど、私がこの結界を維持できるのは五分間。つまり外での一秒間だけ。結界を張ってからもう直ぐ九分が経つから、槙原君の言うとおり、新しい作戦を考えている余裕はないのよ。もちろん、貴方たちに何か考えがあれば聞くけど……」 黙りこんだ少年少女たちの反応を見ている余裕すら既になくなりかけている。だが視線だけは不満を色濃く残したまま、彼らは双真に対して不振を投げかけていた。 「ふむ。なら賭けでもするか、耕介」 「は?」 凡そ彼らしくない言葉を聴いて、耕介は思わず目が点になった。 神楽双真という人間は、周囲が思うほど非常識ではない。酒もだめなら煙草もギャンブルもだめ、女遊びもしなければ趣味にお金を費やすこともない人物である。意外なことに知識を詰め込むことはかなり好きらしく、気が付けば本を手にしていることのほうが多いのだが、だからといってユーモアなどは欠片も持ち合わせていない。もちろん社交性も皆無である。 その異常なほどの戦闘能力と、社会に適合しない考えによるところから誤解されがちだが、そういった面で見るなら彼は、結構な真面目人間だったりすることを知る人間は極めて少ない。 その彼の口から『賭け』の二文字が出てくること自体、付き合いの長い耕介には信じられなかった。 「おい、どうした?」 「……いや、別に。で、賭けって何?」 「他の連中が不服のようなのでな。賭けでもしようかと思っただけだ」 「内容は? 何を賭けるの?」 エリザが額に汗を浮かばせながら先を促す。結界維持による疲労か、それとも双真の顔に浮かんだ笑みに不安を覚えたからだろうか。何にしても、耕介もあまりいい予感はしなかった。 「お前が先にマユラに勝てたら俺は絶対に綺堂さくらを殺さない。が、そうでないなら全ては俺の判断に任せてもらう」 「そんな──!」 反射的な文句を口にした真一郎たちを抑えて、耕介は結界に包まれ光り輝く天を見上げた。軽く吐いた息は、色もなく虚空に消える。 「……またそれは分の悪い賭けだなぁ」 「どうする? 乗るか、乗らないか。どちらだ?」 「乗った」 分が悪い。それははっきりと分かっていた。しかし答えは意外なほどあっさりと出た。迷うことなく答えが出たことは不思議に思うが、それでも嫌な感じは全くしなかった。 むしろ、その即答が爽快な感じを伴って耕介の気分を高揚させる。しておかなければならない補足事項がすんなりと口から出た。 「知佳とリスティには、エリザさんのサポートをお願いできる?」 「PKで?」 「そう」 「……うん、わかった」 聞き分けたわけではないようだったが、リスティは思いの他素直に頷いてくれた。知佳も遅れて了承する。 「俺に出来ることは──」 何の特殊能力も持たない真一郎は、自分が今何の役にも立てないことを自覚している。だからこそ苦渋に満ちた表情で、だからこそ双真に対しても文句を言うことができないでいる。 だが耕介は、この場にいる誰一人、無駄な人員はいないと思っていた。 「君の役目はまだ先だ。だからそれまで絶対に無事でいること。いいね。御剣さんたちは真一郎君や知佳たちの護衛をお願いできる?」 頷くいづみと弓華の後ろから進み出て、薫が無言で耕介の横に並んだ。 「まさか、うちにまで残れ、とは言いませんよね? 耕介さん」 「助かるよ、先輩」 軽く笑みを返すつもりで、けれど自然と出たのはウインクだった。自分でも似合わないなぁとは思ったが、まぁ薫が笑顔で返してくれたからよしとしよう。 最後にいくらか殺気だった声で、双真が締めた。 「準備はいいな。エリザ?」 「分かってるわよ。後十一秒後に結界が解ける。その一瞬で、尖峰三人は相手をひきつけて散開。私は二つのグループを閉鎖結界で閉じ込め周囲への影響を防ぐ。その後の連携は知佳ちゃんとリスティちゃんを中継点で起用。二人は私の指示でフォローをお願い。結界が解ける──いいわね!」 答えを待たずして、エリザが叫ぶ。 「三・二・一! 往って!」 その声を合図に三人が同時に地を駆る。結界が弾けたのはほぼ同じだった。 目を閉じない。息を止めない。柄を握る拳に力をいれ、耕介はただ前を向いて駆け抜ける。もうこの時点で、双真とさくらのことを気にしていられる余裕はなかった。 弾けた光の先に、弱者の小細工など気にも留めない王者の笑みがある。視線がぶつかった瞬間、狂いそうになるほどの邪気をこめたマユラの笑みを呑み込んで、耕介は御架月を振り下ろした。
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神造兵器フェンリル。 フェンリス狼とも呼ばれる──北欧神話に登場する、神々に敵対する魔物としてその名は記録されている。 巨人族の血を引く神ロキが生んだその獣は、神々に危険視された経緯の果てに、一度は小人の作り上げたグレイプニルという縄によって封印された。 雷神チュールの腕を飲み込み、神々の終焉といわれる最終の戦いにおいては自ら封印を破って主神オーディンを喰ったとされる。 その最古にして最悪の獣──その正体が、自分と変わらぬ年端も行かない小柄な少女であると一体誰が信じるだろうか。目の前でうずくまるようにして眠る少女を眺めながら、綺堂さくらは場違いな感想を抱いていた。 そもそも、ここはどこだろう? だがそれを知ろうとして見渡してみても、周囲にあるのは暗闇だけとなれば疑問に思う気持ちさえ萎びてしまう。 気が付いてみればここにいた。さざなみ寮──どころか国守山ですらない。ただ闇一色の広大な空間──と思う。目を凝らしても闇しか見えない場所で広さなどわかるはずもない──に、一体いつ足を踏み入れたのか。 さざなみ寮でエリザの話を聴いていたところまでは覚えていた。その後に震えるような遠吠えを聞いた瞬間から、自分が何をしてきたのか思い出せない。思い出そうとしただけで、身体全体がそのことを拒絶しているように痛みが走った。 だが痛みよりも、さくらにとっては肌で感じる視線のほうが気になっていた。不安に怯える心がそう感じているだけなのかもしれないが、そんな中で、自分と少女の姿を認識できる程度の光量があるのは微かな救いだった。 前も後ろも、上下左右も分からず、自分が地面に立っているのかさえ実感がない。熱を出して寝込んだときの浮遊感にも似た、酷く不安定な気持ちのまま、さくらはとりあえず少女に近づこうとして足を動かしてみた。 歩けた。 「…………ふぅ」 とりあえず進むことが出来るらしいとわかってほっとする。少女に興味があったからというよりも、単純に独りでいることに恐怖を覚えたからだ。 少女は動かない。こちらに気づいてないのかもしれなかったが、そもそも少女が誰なのかをさくらは知らなかった。ここからでは顔も見えないし、外見からは知人でもないように思う。だが何故だろう。記憶になくとも、知識としてさくらは少女を識っていた。『それ』が『何で』あるかを理解していた。 『それ』を知覚したとき、喉が小さく鳴った。 ファーファニル・ヴェッセンフルグ。 何故? というのはいろいろ複雑な疑問だった。何故彼女がここに? 何故自分がここに? 何故彼女が『それ』だと分かったのか? 身震いする。自分に何が起こっているのかも分からない状況がいかに危険なのかをようやく自覚して、けれどいくら考えても『今』を打開できる方法は分からなかった。 「エリザ……」 不意に思い出した伯母の顔──その名を呟いてみる。時として過保護を思わせるほどに優しくしてくれる彼女ならどうしただろうか。そう考えて、けれどエリザと自分の力の隔たりに気づいてさくらは苦笑した。ドロワーテの名を継いだ希代の魔術師でもある彼女の能力──その応用性に敵うはずもない。 だが不思議と悲観はしなかった。自身が持ちうる手段でどうすることも出来ないときであっても、きっとエリザなら止まらないだろうという密かな確信があった。どれだけの苦行であっても、自分の道を進む彼女の意志を曲げることなど出来はしない。 それがエリザベートという女性の強さだとさくらは思っていた。戸惑いや迷いを抱えながらも前に進む彼女の輝きは、例えその姿が土埃と敵の血で塗れようと隠れたりはしない。先陣を切って戦う魔女の姿こそ、さくらが臨む一つの理想だった。 「ふう」 そうして自己暗示のように頷いて、さくらはため息と共に今抱えるどうしようもない疑問を吐き出した。出来ることは何もないと、逆に開き直りにも似た形で前を向いてみれば、スゥと胸のうちにあるものが幾分か落ちていく。それだけで気分は少しばかり楽になれた。 少女の元へ辿り着いた頃には、雲の上を歩いたらこんな幹事かもしれないと思えるくらいには精神的余裕が出来ていた。 近づいてみて、けれどその足が止まる。動かない少女に対してどう接触すればいいのか。その困惑は、そのまま言葉に出た。 「えっと……こんにちは」 「…………」 少女に反応はなかった。身体を頭ごと抱え込むようにして丸くなり、周囲を断絶しているかのように微動だにしない。 さくらは声をかけては一歩、またかけては一歩と、反応のない相手に怯えながらも近づいて、結局、触れるくらい傍に来ても動きのない少女に、思い切って指先で触れてみた。 そうして初めて少女が顔を上げた。彼女がファーファニルだ。そう思わせたのは、記録としてあるマユラ・ヴェッセンフルグ──つまり彼女の親だ──の顔立ちと似ているからだった。 が、確信してから首をかしげる。マユラって誰だっけ? 二代目狼王──けれどさくらは無論マユラの顔など知る由もない。そうしてまた疑問が増えた。 「ファーファニル……さん?」 フェンリルとして兵器化された少女は答えず、ただこちらを──というよりも、さくらの方向にただ顔を向けただけのようだった。そうして首をかしげて、小さく唇を開く。 「あー」 それが。 鳴き声にしか聞こえないその音が、彼女の『言葉』なのだとどうして思ったのだろう。 寂しげな音。それは小さすぎる振動だった。空気が震えないほど微弱な音量しかないために、音は儚く消えて余韻すら残さない。 思わずつばを飲み込んだのは、少女の眼に光が映っていないからだった。 「……あの、もしかして目が見えないのですか?」 「…………」 答えはない。気づいていないのか、聞こえていない──ことはないだろうと、しかし言葉が通じていないのかもしれないと思って、さくらはもう一度彼女に触れた。 「……あー」 子猫のような鳴き声が返ってくる。少女はこちらを見ていなかった。目が見えていない。それだけの理由ではないのだと知って、今度こそさくらは戦慄を覚えた。 耳も聞こえていない? (違う) 単純な視力や聴力の喪失だけではこんな風にはならない。 少女の声は、自己主張でもなければ挨拶でもなかった。ただ自分に何かが触れたという、その事実に反応しているだけでしかない。赤子でももう少し豊かに表現するだろう感情の機微が、この少女にはない。 「これ……が……?」 これがフェンリルなのだろうか。神々を終焉に導いた兵器だと。 兵器として利用されたからこうなったのか。生まれつきこうだったから兵器として利用されたのか。どちらが先であろうと違いはない──戦いに利用された、そして利用されたことすら知らないかもしれない彼女の胸中を想像して思わず寒気が走った。 理性を奪われ、五感を失い、ただ他者を殲滅するために稼動する兵器として扱われた彼女の境遇を理解できなどできはしない。想像もつかないから、同情すら出来ない。 だが、それでも思わずにはいられなかった。 彼女がこうまで自由を奪われるほどの何をしたのだろうか。 「あー」 彼女の手を握るさくらの指先にファーファニルの手が重なる。ただ握られた手のひらの温かさに嬉しさを覚えたそれは赤子を思わせる、小さすぎる歓喜の声だった。 思わず目頭が熱くなる。少女の小柄な身体に、わずかに身体を預けるような形で寄り添って、さくらは目を閉じて涙をこらえた。 そうして再び目を開けたとき、 「……え?」 視線の先、突如として現れたもう一人の人物に、さくらは思わず身体を硬くした。 萌葱色の髪。透き通るような白い肌。小柄な身体はさくらより少し小さいくらいの、年のころ十四、五歳頃の少女。そして何より赤い瞳を持つ、彼女は、 「ファーファニル?」 呟いてから、しかしさくらは「違う」とすぐさま胸中で否定した。ファーファニルは変わらずさくらの腕の中にいて、伝わることのない声を発している。と── ヴヴ……と小さく響く電子音は、ファーファニルと瓜二つの姿かたちをした第三者から聞こえてきた。
どこの言葉かも分からない──聞いたことのない発音は、外国語というよりも機械語に似ていた。淀みなく流れるような言葉も、意味が分からなければただの音でしかない。だが解釈できないはずの音声は、さくらの脳に直接理解を促す。そうしてまた、一つの疑問が増えていく。 だがその疑問を氷解させている暇はなかった。得体の知れない少女の纏った空気は酷く肌を刺激し、貫くような痛みが全身へと駆け抜けていく。無機質な音声に喉を焼かれ、さくらは声に出せずに嗚咽した。無意識に飲み込んだ唾がコクリと生々しい音立てる。 身体の震えは止まっていたし、恐怖は不思議と感じない。けれど、悲しくなるくらい寂しかった。 さくらに分かるのは、彼女がファーファニルとそっくりで、けれど違う何か。それだけだ。だからこそ、どこからか聞こえてくる声を傍聴することしか出来ない。突然現れた少女は口を開いていない──どころか起きているようにも見えないが、声は確かに少女のほうから聞こえてくる。 まるで自動人形のようだと、自分の知識から似たものを引っ張り出したその時、少女の──と思われる電子的な声が不意に止んだ。
Fenris──Einschalten nein Heiligmode
「──!!」 その言葉は、さくらの呼吸を止めるに十分な威力を持っていた。目の前にあるのは夢か幻か。聞こえた声が幻聴出なければ、少女は確かに、自身をフェンリルと告白したのだ。 無意識のうちに、さくらは幼子を守るようにしてファーファニルを自分の後ろにやった。目の前にいる瓜二つの少女から遠ざけるように。 ≪素体02を認識。ターゲット:綺堂さくらと確認します。相違ありませんか?≫ 尋問するような声は、驚くほど低いものだった。十代の少女のものではない。まるで年老いた老婆のような重みのある、しかし確かな発音を持った威圧的な音だ。 だが不思議と少女から脅迫的なものは感じない。重圧はあるが、それは現状に対して抱くさくら自身の不安から来ていた。先ほどと違って機械的な感じが無くったのも大きな要因の一つだ。 「貴女……は…………」 ≪フェンリル。葬主ロキによって造られた兵器の──管制人格となります≫ 恐る恐る問いかけたさくらに対して義務的な受付で答える少女──フェンリルは、再度同じ質問をしてきた。 ≪繰り返します。貴女が綺堂さくらと確認しますが、相違ありませんか?≫ 「あ。は、はい。はじめまして!」 ≪はい。はじめまして、綺堂さくら≫ こういう時、自分のボキャブラリーの少なさをさくらは恥じた。今この時点ではどうしようもないことだが。律儀に返してくれるフェンリルに、何故か微妙な申し訳なさを感じる。 肌に感じる痛みが痛みはまだ退かない。何が好転したわけでもなく、フェンリルが持つ感情のこもらぬ無機質な深みに、どうしたって不安を拭い去ることは出来なかった。 彼女の唇が開くたびに肌がざわりと波打ち、鼓動が一際大きく跳ね上がる。無論、そんなさくらの心情をフェンリルが考慮してくれるはずも無く、 ≪これをどうぞ≫ 「え?」 唐突に、彼女はどこからとも無く取り出した一冊の本をさくらの元へよこした。 ≪これより、神造兵器『フェンリル』の機能説明に入ります。お手元の取扱説明書の二ページをお開きください≫ 「…………」 あっけに取られるさくらを置いてきぼりにしたまま、フェンリルは淡々と本を開き、暗闇の中で突然の講義は始まる。 恐る恐る、つられるようにして本をめくると、 『ご挨拶』 開いた本の最初のページにはそう書かれていた。よくある見慣れた文句も含め、ぱらっとめくってみた本の中身は全て日本語で書かれている。 (なんで?) その胸中を言葉に出せないほど混乱したさくらを無視して、フェンリルの説明は挨拶から始まり、説明書の目次を読み上げていた。 それが不意に止まる。 ≪──以上、これが本書の内容となります。各詳細については使用者の責任においてご照覧くいただくことになり、ガイドに当たっては私が務めることになります。なお、起動時に本書の目次説明を行わない場合は──≫ 「…………」 そのほとんどを聞き取れなかったのは、さくらに専門の知識がないからだけではなく、単に意図が掴みきれていないからだった。 混乱している思考を、どうにか落ち着かせるまでにさらに数分。フェンリルはじっと待っている。不安で震える指先をごまかすように、さくらはファーファニルの手を握った。少女のあどけない表情を見て、心に微かな灯が灯る。 だが冷静に落ち着いてみても、さくらに理解できたことはあまりに少なかった。 彼女は自身をフェンリルと名乗った。その管制人格であると。 では、使用者とは一体誰だろう? 契約者? 説明書を読めば分かるのだろうか? 今が何時で、どれくらいの余裕があるのかもわからない。 どうすれば、元に戻れるかも分からない。 だが……きっと見えていない場所で、色んな人たちが戦っているはずだということを、さくらは知っていた。確かめたわけではないけれど、確信に近い形で彼女はそれを信じていた。 薫に豪語した自身の言葉を忘れてはいない。 忘れてはいけない。 大切なものがある。守りたい人と、その人たちが生きる場所がある。 そして自分もまた、そこに帰りたいのだと、願う『今』がある。 落ち着いて。 冷静に。 けれど心だけは熱を帯びたまま、今の自分に出来ることを考えろ。 鼓動を静めるために息を吐いて、さくらはパタンと本を閉じた。その音に、フェンリルが首をかしげる。 迷いも恐れも捨てることは出来ない。それが出来る程の強さはない。けれど何もせずにいて後悔するだろう未来に比べれば、怖いものなど何もない。だから…… 「聴かせて下さい、貴女の全てを。貴女の力を、私にください」 意識して震える背筋を伸ばし、さくらはフェンリルと真正面から相対した。 これが私に出来る戦い。
兵器の意識下で、別の戦いが始まったことを■■は知らない。 誰にも知られぬままに、彼女は独り戦場に向かう。 人狼を滅ぼさんとするマユラの意図も。 さくらを助けたいとするエリザや耕介、少年少女たちの決意も。 既に目的を達したが故に、後始末のためにさくらを殺そうとする双真の意志も。 全て。 歯車を動かす軸を握るのが自分であると、知らぬままに、さくらは兵器の手を取った──
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