えげれす通信 vol.41
自慢して言うことじゃないけど、 僕はそれほど文学好きなわけではない。 気に入った作家はいるので、 その人の作品をとことん読むという、 全く以ってB型的ハマり方をする程度。 広く深く、文学に造詣が深いとはとても言えないのである。 僕が、これと出会ったのは、 とっても奇妙なきっかけであった。 さる大学の、さるゼミに参加していた際、 輪読テキストが、 テリー・イーグルトンという文芸批評家の書いた、 「ブロンテ三姉妹」という本になった。 一応言っておくと、 このゼミは、人類学のゼミであって、 文学とかのではない。 恥ずかしい話だけれど、 僕はそれまで、ブロンテと聞いても、 さっぱりぴんと来なかった。 「三姉妹」にはうるさい僕としては、 気になるところだ。 風間三姉妹みたいなもんやろか。 読んでみてすぐにわかった。 なーんや。 「嵐が丘」の作者やんか。 僕は、ゼミの予習も兼ねて、 ビデオで「嵐が丘」を借りてきて、 見ることにした。 そして、感動の嵐に包まれたのであった。 さて、ゼミが終わり、 僕の、ブロンテ姉妹に対する関心は、 日ごとに高まっていった。 参考までに、このゼミで、 如何なることが問題になったのかを書いておきます。 この小説が書かれた19世紀というのは、 急速な産業革命が進行していた時代。 貧富の差が拡大していったという時代背景と、 女性が文筆活動を行うなどということを許さなかった社会背景に、 特徴付けられる時代である。 そして、そういった社会的な要因が、 色濃く小説の内容そのものに反映されている。 つまり、創作物というものは社会から自由ではいられない、 みたいなことがテーマであった。 ま、でも、それは、いいです。ここでは。 で、最初に見た「嵐が丘」に続き、 「ジェーン・エア」と、「嵐が丘」の別ヴァージョン、 そして「ブロンテ姉妹」という映画を、 続けざまに見たのでした。 当時、暗闇指令の部下たちと勘違いした僕が、 偉そうに言うのも何ですが、 まぁ、一応偉そうに説明しましょう。 ブロンテ三姉妹と、俗に言われるのは、次の三人。 シャーロット・ブロンテ(1816-1855) 代表作:「ジェーン・エア(原題"Jane Eyre")」 エミリー・ブロンテ(1818-1848) 代表作:「嵐が丘(原題"Wuthering Heights")」 アン・ブロンテ(1820-1849) 代表作:「アグネスグレイ(原題"Agnes Grey")」 彼女たちの没年を見ればわかるように、 皆、恐ろしく短命である。 これは、彼女たちの生い立ちと生活環境を、 参照すれば分かることです。 彼女たちの父、パトリック・ブロンテ(1777-1861)は、 アイルランドの貧しい家に生まれながら、 1802年、ケンブリッジのSt.John's Collegeに合格、 これを機会に、彼は自分の苗字を、 Bruntyから、より洗練された響きのあるBronteに変えた。 学校を終えた彼は、教区牧師として各地を転々とし、 最終的に、ハワースの地に落ち着いたのは1820年のことであった。 当時、アンは生まれたばかり、 他には、シャーロットの上に、二人の姉がいた。 そして、シャーロットの下には、 ブランウェルという男の子がいたので、 この時点で、子供は6人いたことになる。 この頃から、既に、彼らには、 黒い雲がたちこめ始めるのだ。 先ず、1821年、ハワースに移り住んでから僅か一年後、 三姉妹の母が亡くなる。 次に、1825年、上二人の女の子も亡くなる。 これは、当時、彼女たちが通わせられていた学校が、 劣悪な環境と厳格な教育という状況にあったためだと言われる。 これらの状況は、シャーロットの「ジェーン・エア」の中で 描かれているけれど、まぁ監獄みたいなもんですな。 西洋の物語に良く出てくる、 「いじわるおばぁさん」がうじゃうじゃいて、 子供たちは、かなり陰湿にいじめられるという、あれです。 一気に二人の子供を失ったパトリックは、 同じところに通っていたシャーロットとエミリーを、 一時家に引き取ることにした。 それ以来、父親であるパトリックが、 彼女たちの教育を行い、 亡くなった母方の叔母、エリザベスが、 家事一般を担うと共に、 女性としての心得を彼女たちに施したとされる。 その後、彼女たちは、教職に就いたり、 見識を深めるために、ブリュッセルに赴いたりと、 当時一般の女性が辿る道を進んでいた。 一方、ブランウェルは、将来を嘱望されたアーティストであって、 肖像画画家としての道を歩もうとしていた。 彼は、有能なアーティストだったが、 なかなか結果を出せない焦りから、 次第に酒に溺れるようになる。 彼の生涯の後半は、酒と薬と借金に負われるという、 堕落した芸術家にありがちな汚点に塗れていた。 どうも、この一家は、芸術一家であったらしく、 そして、それは、父パトリックの方針でもあったらしい。 シャーロットとブランウェルは、 さる芸術家の元に通って、絵を勉強していたし、 エミリーはピアノの才能に恵まれていた。 アンは、歌うことをより好んだと言う。 才能というのは、天から授かるものであるが、 少なくとも半分は、環境が物を言うような気がする。 僕はちっこい頃、 「チェロをやりたい」 と、なかなか高尚なことを言ったそうだが、 んなもんを習わせるところは、そうそう無いので、 おかんは決断を怠った。 ここに、不出のto-beチェリストが現れる可能性が、 さっくり消えてしまったのであるな。 おかんは今でもそのときのことを悔やんで、 「探してでもやらせれば良かった」と言ってるけど、 全くその通りや。 そしたら、人生違ってたかもしれん。 今頃、えげれすじゃなしに、 音楽の都ウィーンなんかで、 旨いソーセージを食いながら、旨いビールを飲んで、 「ウィーン通信」とかを書いてるかもしれん。 ・・・って同じやん。 さて、ここで、彼女たちの人となりを、 ちこっと書きましょう。 尤も、「ブロンテ姉妹」の映画で見たのと、 今回の博物館の資料からの類推であるのだけれども。 シャーロット。 僕の中では大西結花なんだけれども(わかる人はわかる)、 彼女は内気な一方、事実上の長女なので、 まぁ所謂長女タイプだったらしい。 割と辛抱強く、職を務めたりしている。 ブランウェル。 彼は、上に書いたように、周りからはその才能を認められていた。 然し、浪費癖が、彼の人生を狂わせてしまった。 借金を背負って家に戻ること数回、 彼は、ハワースのパブ、「Black Bull」に入り浸り、 次第に体を壊していった。 エミリー。 リリアン棒を操るのは中村由真だったが、 彼女は、そうした家事一般を、最もよくこなしていた。 シャーロットと共に、家を離れたときは、 ホームシックにかかり、すぐに逃げ出すなんてこともあった。 叔母のエリザベスが1842年に亡くなってからは、 彼女が家事と父の世話を担当したという。 アン。 ううむ。浅香唯は可愛かった。 とっても良かったなぁ。 彼女はあの頃が一番良かった。 主役である筈のこのポジション、 然し、アンに関しては、 あまりデータがないのですな。 映画を見ても、いまいち印象に残ってない。 作品を見てない読んでないというのも、一因かも。 そして、度々、色々なところで強調されてるのは、 ブロンテ一家が、貧しかったということと、 ハワースという土地の地理的条件でしょう。 牧師としての信頼は厚かったパトリックだが、 生活は矢張り苦しかったらしい。 そして、あの、寒寒としたムーア(荒野)に囲まれた、 寂しい一小村のハワース。 「嵐が丘」の映画を見たことのある人なら、想像できると思うけど、 ムーアというのは、本当に寂しいものなのだ。 キャシーとヒースクリフが、馬に乗って駆け回る荒野、 短い夏には、ヒースという紫の野草が一斉に花を咲かせる荒野、 広大にして厳粛なる大自然がすぐ目の前にあるこの環境は、 彼女たちの作風に大きな影響を与えたとされる。 彼女たちが、初めて作品を上梓したのは、1846年のことである。 「Poems」と名づけられたこの詩集は、 Currer Bell、Ellis Bell、Acton Bell、のペンネームで自費出版された。 これは、冒頭に書いたような社会状況、 つまり、女性が文筆活動などを行うものではないという規範が、 まだ強かった時代環境を反映したものであり、 勿論これらの名前は、男性の名前である。 詩集が売れたのは、僅か二部であった。 以後、「ジェーン・エア」(1847)、「嵐が丘」(1847)、「アグネスグレイ」(1847)と 立て続けに出版をした三姉妹は、精力的に執筆活動を行う。 徐々に評判も良くなり、次第にこの作者が一体誰なのかという、 世間の噂が立ち上るようになった。 ある出版社が故意に流した噂により、 Currer、Ellis、Actonの三人は、実は同一人物であるという風評も広まり、 それを正すために、シャーロットとアンがロンドンを訪れたりもしている。 漸く日の目を見た彼女たちに、 然し、幸せは長く続かなかった。 酒と薬で体がぼろぼろのブランウェルが、 1848年に没する。 彼の葬儀に出席したエミリーは、 風邪を引いてしまう。 体調が悪いことをひた隠しに隠していた彼女が遂に倒れたとき、 既に手遅れなほど、病状は進んでいた。 結局、彼女が、医者に診てもらったのは、 死の直前の一度のみであったという。 1848年12月19日、エミリー死す。享年30。 病名は肺結核であった。 ところが程なく、今度はアンが同じ病気に罹る。 医者から静養が必要と言われたアンは、 シャーロットに付き添って貰って、 海辺の町、Scarboroughに赴く。 ここの海風が、肺病にはいいとされていた。 然し、介護も空しく、アン死す。 1849年5月28日。享年29。 姉妹の中で、唯一結婚したシャーロット。 然し、彼女もまた、同じ運命を辿ることになった。 当時、既に、彼女は小説家として名を成していたのだが、 その期間はまことに短いものであった。 結婚したのが1854年6月29日。 アイルランドへ新婚旅行へ出かけて、 戻ってきてすぐ、彼女は亡くなることになる。 1855年3月31日。享年38。お腹には子供がいたという。 と、ここまで、前置きが長くなってしまいましたが、 行って来ました、ハワースへ。 街は本当に小さく、 ほぼ当時のまま、Main St.が残っていて、 とてもいい感じである。 僕は早速、ムーア歩きに出かけることにした。 ここは一発、一念発起、歩き倒さなければならない。 なんと言っても、最終目的地、Top Withensと呼ばれる廃墟までは、 往復10km。四時間の行程である。 さくっと、というわけにはいかぬ。 然し、これを見なければ、極めたことにはならん。 えげれすに来て、豪華三点セット、 フィッシュ&チップス、ベークドポテト、ベークドビーンズを食わずに、 「極めた」とか言うようなもんである。 まぁ、必須アイテムとでも言うんでしょうな。 だから、行かねばならない。 えげれす人は、全く以って、Walking好きである。 Walknigツアーってのがかなりあちこちで主催されていて、 然も参加者も多い。 まぁ、色々と、説明を聞けるのでいいのかもしれないけど、 それにしても、あの人気はどうだろうと思うね。 歩くだけやん。 えげれす人ってのは、なんちゅうか、ゆったりしてるんやね。 せかせかしない。その点は日本人と正反対なんでしょう。 彼らが、休日、車で景色のいいところに繰り出したとする。 日本なら、多分そこには、 なんちゃら記念館となんちゃら博物館となんちゃら美術館と、 温泉とホテルとテニスコートとバーベキュー場と、 寺と神社と庭園と遊園地とゲーセンとボーリング場と、 ロープウェイと展望台とお土産屋かなんかがあって、 「記念だし、入ろっか」 「珍しそうだから見ようよ」 「綺麗な美術館ねぇ」 「日帰り入浴はできるかしら」 「お食事はホテルで取りましょうよ」 「ねぇ一寸テニスしていかない?」 「あ、お肉買いに行かなきゃ」 「古そうなお寺だな」 「神社もあるわね」 「綺麗なお庭」 「あのジェットコースターのりたーい」 「オレはゲーセンがいいな」 「そして、一発、投げとくか」 「お、登ってみようぜ」 「まぁ、綺麗な見晴らし」 「温泉饅頭は基本でしょ」 とか言って、 とっても密度の濃い休日を過ごす。 そして、帰りの大渋滞に巻き込まれ、 へとへとになって帰宅するのでしょう。 然し、えげれすは違う。 そこには、なんちゃら記念館もなんちゃら博物館もなんちゃら美術館も、 温泉もホテルもテニスコートもバーベキュー場も、 寺も神社も庭園も遊園地もゲーセンもボーリング場も、 ロープウェイも展望台もお土産屋も、まず無い。 あるのは、 「歩道」 そして、するのは、 「Walking」 彼らは、車を然るべきところに停め、 おもむろに、カッパを着始める。 靴を履き替え、帽子を被り、 リュックを背負う。 そして、、、、歩く。歩く。ひたすら歩く。 まぁね、確かに自然は綺麗だし、全く人工物のないところを歩くのは、 命の洗濯って言葉がぴったりする感じなんだけれども、 ほんまに、彼らは好きなのですな。歩くのが。 男も女も、おっさんもおばちゃんも、ばぁさんもじいさんも、兎に角歩く。 老いも若きもこぞって歩く。 歩いてる彼らは、とっても嬉しそうである。 然し、これはまだ、彼らにしてみれば、動きがある方である。 もう一つ、彼らがいい景色のところですることと言えば、 「日光浴」 彼らは、車を然るべきところに停め、 おもむろに折りたたみ椅子を取り出す。 そして、、、、寝る。寝る。ひたすら寝る。 まぁね、確かに日光浴は気持ちいいし、 景色のいいところで眠るのはとってもいい。 しかーし、せわしないにっぽんじんの目から見ると、 あの光景は、なんとも言えないものに映るのだわ。 もっと、動けーーー! 何で、ここまで来て、寝んねん! 折角なのに、勿体ないやんかと思う僕は、 矢張りにっぽんじんなのである。 話が、あさっての方向に大きくずれてしまった。 今回は、ペーソス溢れるもの哀しい雰囲気でいくつもりやったのに。 気を取り直して。。。 というわけなので、僕は意を決して、10kmコースに挑むことにした。 ガイドには、往復4時間とある。 然も、注意書きがあって、 ・ムーアを嘗めたらいかん ・夏でもごっつい気候やで ・晴れたと思ったらすぐ豪雨もアリ ・食糧ぎょーさん持っていかな ・水も忘れたらあかん ・いっぱい着込んで行きや ・サンダル履きはやめときや などと、びびらせまくり文章が並んでる。 何度か書いたけど、ブリテン島ってのは、 高い山も、切れ込んだ渓谷もなく、 あるのは丘と、低い山のみなのだ。 尤も、ハワースのあるヨークシャーは、 daleと言われる独特の谷が沢山あって、 イングランドの中ではぼちぼち険しい地形のところだけれども、 言うても、たかが知れてる。 然し、それでも、一応は水だけ買って出かけた。 暫く車道を歩いた後、 例の「歩道」が現れる。 「歩道」は「Public Footpath」と呼ばれ、 国中に張り巡らせられている。 ここは人気コースなので、 あまり荒れているところはなく、 表示もきちんとしてるが、 コースによっては朽ち果てていたりするので、 ガイドがないと厳しいものがある。 周りは、丘また丘。 そして、丘と言えば、いるものは一つ。 羊やね。言うまでも無く。 僕は今回、初めて奴らを至近距離で見た。 というのは、歩道は、奴らの囲いの内部にあったりするのだ。 で、しみじみ思った。 矢張り、物事は、接近してみないと本当のことが分からんのだと。 遠くから見る奴らは、常に僕らの心を和ませてくれる。 緑の草原に、ポツポツと白い斑点を作る奴らは、 既にえげれすの風景の一つである。 遠くから見るあの景色はとても綺麗だし、 見てると、まるで草原を駆け巡るハイジのように、 自分も駆けてみたくなるわな。 しかーし。 現実はそんなに甘いもんやない。 奴らがすることはといえば、 ひたすら草を食い、ひたすらボーっとする。 そして、忘れちゃいかんのが、 「うんこ」 あの動きの無さは、えげれす人に通じるところがあるけれども、 えげれす人も生き物なら、奴らも生き物。 出すもんは出すのだ。 緑の草原に白い斑点を作るくらいならまだしも、 ややもすれば、 雪景色の中の雑草状態になってることもあって、 要するに、夥しい数がいるということ。 となると、「落し物」の数というか、量というか、 それも当然の如く、夥しいものになるんやね。 そこまでは、遠目では見えない。 だから、ハイジのように駆け回りたいとか暢気なこと言えるけど、 実際やったらエライ目に遭うわ。 流石のハイジも、うんこに塗れては、笑顔でブランコはこげんやろ。 「教えておじいさん」って言われたって、 おじいさんも困るやろ。 「生き物ってのは、うんこをするんじゃよ」とか教えてあげるのかな。 当たり前やっちゅうねん。 そんなこんなで、足の踏み場にも困るほどのうんこ回避行動を取りつつ、 僕は前進した。 街中で犬のうんこを踏んだときのショックは計り知れないものがあるが、 それは、この広い世界にあるたった一個のうんこを、 自分の歩幅との兼ね合いで偶然にも丁度踏みしめてしまった物凄い偶然に、 ある意味「運気」みたいなものを感じるからであって、 今回の場合は、それとはちと訳が違うのだ。 だから、僕は、余り気にせず、「土」とみなすことにした。 色、おんなじやん。 まもなく、僕は、自分のその安直さに気づいた。 色がおんなじだからと言って、 うんことカレーは違うように、 うんこはやっぱりうんこなのであった<あたりまえやっちゅうねん。 微妙な質感の違い。 それぞれのブツは、形状もさることながら、 保存状態の違いもあって、 まさに千差万別である。 驚異的な太さのものから、可愛らしいものまで、 そして、土に化してるものから鮮度の良いものまで。 だから、やっぱり、気をつけながら歩かなきゃいかん。 なんだかなぁ。 今回の話は、ヒースクリフとキャシーの悲恋話と、 それを生んだブロンテ三姉妹の哀しい生涯を、 寂寥のムーアに絡めて、書くつもりやったのに。 何で、オレは、うんこを熱く語ってんのやろ。 いかんいかん。 羊は相変わらず、必ずどこかに見えてるんだけど、 周りは、丘ばかりで、他に目印が無い。 なだらかな丘陵なんだけど、 丘陵のみなので、逆に、背の高いものが全く無く、 従って、目印になる岩とか低木なんかは、 すぐに丘陵の下に隠れてしまうのだ。 辺りは一面にヒースの群生。 どこを見回しても、360度、同じ景色である。 羊。草原。丘陵。低木。ヒース。 「荒野」という言葉がまさにぴったりくる景色。 僕は、「嵐が丘」の中で、よくヒースクリフとキャシーが、 馬で駆け回っていた、あのムーアの情景を重ねて見ていた。 まさに、あの景色。殺伐とした荒れ野。 全く以って、感慨深いもんがありますな。 歩道はちゃんとしてるから良いようなものの、 それでも数回、道を外れかけた。 それに気づいたのは、ガイドの説明のおかげで、 あれ無しで来ていたら、迷ってしまったかもしれない。 そして、道を外れてしまったら、 目印となるものが殆どなく、 360度景色が同じで、 気候の変化がめまぐるしいここでは、 遭難することもあり得るかもしれないと思った。 「嵐が丘」の中でも、キャシーが豪雨に打たれて、 死にかけたではないか。 そうなると、あの、びびらせまくり注意書きも、 満更嘘ではないのかもしれない。 ほんま、「ムーアを嘗めたらいかん」のである。 姉妹が好きだったという「ブロンテの滝」、 同じくお気に入りだったという「ブロンテの橋」、 等のポイントを過ぎ、 道は愈々佳境に入る。 時間としては、夕方17時。 傾きかけた太陽が、荒野を照らす。 ひたすら続く丘陵とヒースの群れ。 人工物は全く見えない。 遥か遠くに、何かが建ってるのが見える。 最終目的地、「Top Withens」である。 この廃墟は、1900年頃までは使われていたという、 農業施設だそうで、 今はすっかり朽ち果てている。 石造りの、この地方に多く見られる様式だが、 屋根は朽ち果て、壁も崩れかけている。 傍には、大きな2本の楓の木。 「楓」って、木偏に風って書くんだね。 まさに、強風が吹き荒れ、 空に浮かんだ雲は、瞬く間に通り過ぎる。 エミリーは、ここの家を見て、 「嵐が丘」の着想を得たと言われているのだが、 僕の中で、また一つ、記憶が交錯した。 映画のシーンそのままなのだ。 全く無人の、人の気配が全く無い荒野の中に独りいると、 しみじみと自然の厳しさを感じることができる。 この自然は彼女たちに、小説のいのちを吹き込んだが、 同時に彼女たちの生命も奪ったのだと思うと、 厳粛な気持ちになってくる。 僕は、来て良かったと、心から思った。 翌日は、ブロンテ博物館に行った。 彼女たちの生家はまた別にあるのだが、 結局生涯の一番多くの時間をここで過ごしたのだ。 入ってすぐ右側の部屋は、パトリックの書斎。 彼は、食事もここで取り、閉じこもりがちだったという。 エミリーがよく弾いてあげたというピアノもここにあった。 その向かいには、ダイニングがある。 ここが、ハイライトの一つでしょう。 中心のテーブルに座って、 彼女たちは食事を取り、 その後、夜遅くまで、小説の構想について議論をしたという。 アンが好んで座ったというロッキングチェアと共に、 エミリーがその上で亡くなったというソファーが、 僕には印象に残った。 彼女は、世界的に評価の高い小説を一本書いたのみで、 その短い生涯を閉じたのだ。 それが、この、まさにこのソファーの上。 その他、パトリックが毎晩九時になると、 娘たちに「あまり遅くまで起きていないように」と言ったという 曰くつきの時計だとか、 エミリーがその上で毎日パンを焼いたという台とか、 シャーロットの、日本趣味のジュエリーボックスだとか、 様々なものが保存されているのだが、 僕は、一つ思ったことがあった。 それは、一般にブロンテ一家は貧しくて、 生活に困っていたとみなされているが、 それは少し違うのではないかと言うこと。 先ず、第一に、パトリックが子供たちに、 芸術の素養を身に付けさせようと、 色々なことをしていたという事実。 そして、彼らの家には常に、servantがいたと言うこと。 困難さと費用が現代とは比べ物にならない当時、 彼女たちが数回、旅行をしていること。 要するに、「貧しくて生活にも困る」という事実に、 間違いはないのかもしれないけれど、 この伝統ある階級社会の英国においては、 いくら貧しかろうが何だろうが、 貧しさで階級が下がることはない。 彼らは、依然として、ある一定の階級に属していたんだろうと思われる。 それを理解すると、ヒースクリフが、小説の中で、 受けた仕打ちや取った行動の真意が汲み取れるわけです。 全てを周り終えて、もう一度考えてみた。 僕には矢張り、エミリーのソファーが印象的だった。 一作しか書いていないのは、彼女だけなのだ。 三姉妹のうち、最初に亡くなったのもエミリー。 ずっと父親の面倒を見ていたとか、 体の不調を人には決して言わなかったとか、 医者に診て貰うことも拒んだとか、 そういった史実に基づいて、 映画「ブロンテ姉妹」の中でエミリーは、 勝気な、それでいて優しい女性に描かれているんだろう。 30年という短い生涯の中で、 素晴らしい作品を一作だけ遺して逝った女性。 うーむ。 僕は、帰ったら、もう一度、「嵐が丘」を読もうと、 しみじみ思いながら、ハワースを後にしたのであった。 |
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