えげれす通信 vol.43
いや、まだ若干早いのかもしれないけれど、 何となく、思い浮かんだので、書いてるんですがね。 刑事モノを見ていて、よく登場するのが、 「住所不定無職」 という文字。 これは、実に、言い得て妙な文句ですな。 というのは、「旅」と「居住」の違いは何ぞやと考えるとき、 この二つの条件、つまり、「棲家」と「所属」というのは かなり大きな意味を持つのである。 長期間の旅行と、居住の違い。 簡単に言えば、 「ご旅行ですか?」 と、問われたときに、 「はぁ、旅してます」 と答えるのか、 「いえ、住んでます」 と、答えるのか。 これは、結構、突き詰めて見ると 面白い問題ではないか。 そして、これを決定するのは、 先にあげた、二つのポイント、 つまり、棲家と所属というものに存するのではないか。 ホテル住まいと、短期であれフラットを借りてる人間。 これは自ずと、意識も違ってくるだろう。 そして、「学校」乃至「大学」に所属しているとなると、 これはすなわち、 「オレはこの街におるべくしておんねんぞ」 というような実感が本人に湧いてくるのではないか。 然し、次に考えたいのは、 では「住んでる」とは一体如何なることであるか? 我々は、まず例外なくニッポン人である。 ということは、ここは異国なわけである。 何で、異国暮らしを選んだか、 さらに、何故、えげれす暮らしを選んだか、 それは各人それぞれ色々な状況があるのだろうけれども、 「異国」、あるいは「えげれす」というものに 興味を持たないで来た人はいないだろうということは、 何ぼなんでも仮定できるだろう。 尤も、その興味の持ち方は、人それぞれであろうけれども。 言うまでもなく、僕がこちらで知り合った人間は、 ほぼ間違いなく、こちらに「居住」しており、 こちらの何かしらの機関に「所属」しており、 そして、恐らく、「えげれす」に興味を抱いて、 ここまでやってきた人々なのである。 さぁて。 ここからが問題やねん。 一応、若干早いんだけれども、 僕らの仲間連中は、 多くが、今年の秋に、えげれすを引き上げる人がほとんどである。 だからこそ、この文を書く気になったのであるな。 つまり、彼ら(僕自身も含めて)を見て、 考えたことの一つを、ネタにしようかと。 上にも書いたけれども、 異国に留学するということは、 非常に、色々な意味で、出費を要する。 それを覚悟で来ている我らは、 それなりに、自らの覚悟があるというわけである。 ただし、その「覚悟」あるいは「期するところ」というのは、 各人で微妙に違ったりする。 それは、全く、当然のことである。 最初にこの地に来た時、 我々は少なくとも、同じラインに立っていた筈。 少なくとも、同じ知識と、同じ経験値を共有していた筈である。 それが、二年の月日が経つと、 それぞれの方向性が違って顕れてくる。 それは当たり前のことなんだけれども、 少なくとも、同じラインを嘗て共有したことのある人間から見ると、 改めて現状を見直すにつけ、 それはある意味、興味深い差異となって顕れているのである。 ある者は、ロンドンに関して精通している。 通りの名前を言っただけで、大体の見当が付く位。 ローカルな地名、あるいはチューブの駅名を言っただけで、 大体そのエリアの情報を言い当てる。 ある者は、芸能関係に精通する。 どこで何のパフォーマンスがあるとか、 どんな劇団がどこそこの劇場で公演するとか、 そういった情報を完璧に押さえてたりする。 ある者は、気の向くままにあちこち出向き、 特定の得意分野は持たないが、 満遍なくイングランドについて知っている。 ある者は、出歩くことを遂にそれほどせず、 自分の日常の領域のみを押さえることによって、 十分に満足していたりする。 その他、系統はかなり細かく分かれるんだけれども、 見事なまでに、個人の方向性というものは、 二年もいると、分かれてしまうものなのであるなと、 僕はある意味感心するのである。 みんな、それぞれ、自分が手を伸ばさない方面に関して、 興味と義務感みたいなものは、実は感じていたりする。 だから、機会ある度に、誘ってくれ等と頼んだりするのだが、 結局、最後に物を言うのは、自らの情熱。 自分の燃えることにしか、足を運ばない。 これは、人間なら、ある意味、当然至極のことである。 例えば、「旅」という名目で、 たとえそれが長期のものであっても、 あくまでも「旅」というカテゴリーに分類されるものであるならば、 各人の意気込みも違ってくるのではないかと思う。 「旅」には、「限定された自由」が付きまとう。 さらに、各人が意識するとしないとに関わらず、 大抵は「期限」というものが隣り合わせである。 それに対して、「居住」となると、 ある程度の自由と、期限の束縛から解放されるのではないか。 尤も、これは、短期の語学留学などには当てはまらないのかもしれないが。 気持ち的な意味で、 「居住」してるのだと、自ら思ってしまうと、 それすなわち、この地を、 「非日常なもの」としてではなく、 「日常のもの」として認識してしまう癖がつくような気がする。 名所旧跡、あるいは珍しいもの等等、 ある意味「義務感」に絆されて、廻ってしまうのは、 その「非日常感」が原因の一部としてあるからではなかろうか。 そうなると、たとえ「えげれす」という異国に暮らそうとも、 ある意味「日常」の一辺としてみなし始めざるを得ない我々が、 curiousなものに対して、「旅人」と同じような興味関心を、 必ずしも抱かないようになるというのは、 もしかしたら、正当な成り行きなのかもしれない。 問題は、何がcuriousであるかということになり、 それを語りだすと、話はまた別な方向に行くのだけれど、 少なくとも、我々は、「えげれす生活」というものを、 ある意味「日常の一部」としてみなしているのかもしれない。 あるいはまた、完璧に「非日常なもの」として認識しているのかもしれないけれど、 その方向が、人それぞれ違うということになるのかもしれない。 それは、どちらでもいいのだが。 然し僕の中では、そういう中では、 最も自分が興味を抱く方向は、 地の利を生かした「旅の可能性」である。 それは日本時代から変わってはいない。 仙台にいるときは、まだ若くて、財力も足もなかったから、 それほど地の利は生かせなかったけれども、 大阪時代は、十二分に、その地理的条件を生かした旅をした。 僕にとっては、今は、それと何ら変わりないのである。 旅にふらりと出かける頻度も、 恐らく普通の人から見たら、信じられないくらい多いのかもしれないけれど、 これは、大阪時代と、大して変わりはない。 そして、移動距離も、変わらんのだ。 ヨーロッパは、思ってるより、かなり狭いのである。 大阪−仙台の900kmをこの地で走ったら、 一体どれだけの国境を越えることになるのか。 しみじみ、日本というのは、細長い国だと思う。 だから、結局、この地で僕がやってることは、 何ら、大して変わらないことなのだ。 やりたいことをして、やりたくないことはしない。 その、ベクトルの向き方は、日本時代と変わらない。 そして、 これはやはり、留学してる連中も、 二年越しで見ていると、同じなのだなと実感する。 「旅」という、非日常な世界に置かれていない彼らは、 やはり、彼らの日常の通りに、 やりたいことをして、やりたくないことはしてない。 いくら、二年間の「異国暮らし」という題目があっても、である。 ここら辺に、「旅」と「居住」の違いがあるのでは?と 感じるのであるが。 如何なもんでしょう。 今回は、些か真面目に書きました。 というのも、留学仲間の殆どが、 この秋でいなくなるので。 一応、締めくくりの意味で、 彼らをネタにさせていただきました。 おもろないね。 ごめんね(笑)。 |
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