えげれす通信補遺 ex-07

えげれす通信補遺ex-07 ■公私の別■ December/2000

一時帰国カウントダウン。
毎年毎年この時期は、心がウキウキする。
一年ぶりの日本なのだ。
然し、最後の用事を片付けなければならない。
と言う訳で、大学へ行く。

今日の、2000年最後のチュートリアルでは、
年越しの課題は出なかったからほっとしたんだけど、
年明け早々、参考文献リスト作りをするように言われた。
新年は、まずそのリストに沿って、
読破計画を一緒に立て、
それから要約作りをして、
その後、論文の概要を作る。
と、同時に、フィールドワークの具体的な計画を練る。
・・・と、まぁ、休む暇がない感じだけど、
せいぜいこのクリスマス休暇を楽しむことにしよう。

先生は、

「きみの休暇を邪魔したくはないから」

と言って、課題を出さないでくれたのだった。
なんて良い人や!

リンボウ氏のエッセイにも書いてある通り、
えげれす人は、公私の混同を絶対にしない。
そして、公の部分で付き合ってる人間は、
極力、相手の「私」の部分に立ち入らないようにする。
それと共に、相手の「私」の部分に対する一定の敬意を忘れない。

リンボウ氏のエッセイでは、
彼が図書館で調べ物をしている時、
一寸分からないことが出てきたので
顔見知りの書士の人に聞こうとする場面がある。

それは丁度お昼休みであった。
書士の人は急いで何処かに行く様子。
リンボウ氏の「用事」は、
ものの10秒くらいで終わるものだったので、
彼は呼び止めて、聞こうとしたら、
かの書士は曰く、

「あ、今、お昼休みなので」

と言って、去ろうとする。
ほんとに一寸したことなので、

「いや、一言聞けばいいんですけど」

と言っても、

「ごめんなさい。後にして頂けますか?」

と言われたという。

で、後で彼が戻ってきて、リンボウ氏に言うことには、

「さっきはすみませんでした。お昼休みの合唱の練習時間だったもので」

というわけで、
お昼休みに彼が何をしようと自由だし、
然もその時間は彼の「私」の時間として認められてるので、
何用があっても、たとえそれが時間的に僅かなものであろうとも、
そこに立ち入っちゃいけないという訳。

僕も似たような経験をして、「ほぉ」と思ったことがある。
うちの、学部事務のおばちゃん(Pat)。
兎に角、良い人で、親切極まりない。
学部に関する全ての情報は、
彼女に聞くと全て分かるし、
彼女に聞かなければ、全て分からないという人。

僕のその時の用事も、リンボウ氏の如く、ほんの一言で終わる内容。
Yes/No Questionだった。
彼女の部屋に行くと、彼女は他の事務のおばちゃんたちとお茶を飲んでいる。

「パット。あの、一寸聞きたいんだけど・・・」
「あ、今、ランチを食べてるの」
「ひとことなんだけど・・・」
「ランチなのよね」

決して、嫌がらせとか、意地悪とか、
そんなんじゃないんだけど。
表情もにこにこしてるし。
でも、言うことは言う。
これがえげれす流。
感じは決して悪くはないのだ。

そんな訳で、
公私の区別をきっちりつけるえげれす人と、

「いや、そこをなんとか・・・」

の応酬で成り立ってる日本社会と、
どちらが良いのか悪いのか、
それは単純には言えないだろうけど、
違うってことは確かやね。

多分、えげれすの会社で、
「日本級の」残業とか休日出勤とかは
殆ど無いんじゃないか。
そら、多少はあるやろし、
2000年問題の時のシティでは、
前代未聞の「残業」が繰り広げられたと聞くが、
その程度の「前代未聞」は、日本では恐らく「茶飯事」。

例えば、取引先の人との間で、自分が担当窓口になっている場合、
担当者である自分が休暇で不在になれば、
他の人間ではフォローできないということがある。

日本なら・・・自分がいなくなっても、問題の無いように、
全ての手配を終えてから休暇に行くだろう。
最悪の場合、休暇先まで携帯がかかってきたりもする。

えげれすでは、それはありえない話やろね。
自分がいなくなったら仕事が成立しなくなる状況であっても、
構わず、休暇は取るやろね。
「休暇」というものに関する考え方が、
お互い共通していて、
先方も、「休暇なら仕方ない」と思うので、
問題は起こらないんだろう。

大学院の願書出願の際、
返事が来ないので問い合わせたら、
指導教官になる人が「夏休みでいない」ので、
返事はあと一月くらい後になる、と言われたことがある。

ほんま、どっちがええんか、わからんことではある。
日本の経済は、そういう「曖昧さ」で成り立っているのは事実で、
えげれすの場合、この結果として、
あらゆる仕事は遅いのだ。
公共工事なんか、信じ難い程の時間がかかる。

そういう訳で、うちの先生も、
僕の「休暇」というものに、
最大限の敬意を払ってくれたのだ。
その先は簡単である。
要は、「やることさえちゃんとやれば良い」。
目先の、一つ一つの期限なんかは余り問題ではない。
「木を見て森を見ない」の逆やね、えげれすは。
確かにそういうところは、好きな要素の一つではある。
然し・・・、

たまには木も、そして枝とかも、見ろや。なぁ。

というわけで。
20世紀最後のえげれすを満喫して、
その後は、待ちに待ったニッポンである!


 



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