フィジー通信 vol.15
週のうち、4〜5日くらいを村で、残りを首都スバで暮らす生活。 なんというか、頭の中とか、体の調子とか、胃の具合とか、 ありとあらゆるポジションで、混乱が発生している。 環境に慣れたと思ったら、すぐにまた、環境が激変する訳で。 何って、一番違うのは、食事や起床・就寝時間といった、 生活の基本リズム。 僕は、19歳の時分から、この12年間というもの、 ずっとひたすら一人暮らしをしてきた。 これは、メシを作ってくれる人がいなかったとか、 お蔭でオレは、ワイシャツは全て陰干しするのだとか、 掃除する時には、お茶ガラと古新聞が欠かせんとか、 そういう「ペーソス感」を出したいのではなく、 自分なりの「生活ペース」というものが、 既にある程度、固まってしまってるということを言いたいのですな。 例えば、実家に帰省した時ですら、 多少、色々な部分を調整していかないと、しんどくなるのである。 村においては、別に僕だけに限らず、誰でも、 「自分個人の部屋」なんてもてる訳が無い。 だから、先ずは、都会生活では普通のこととされる、 「プライベートな空間を持つこと」 これを、真っ先に諦めなければならない。 「一人で考え事をしたい」とか、 「静かに音楽でも聞いてリラックスしたい」とか、 そういうことは、物理的に不可能。 隠れてアイスを食べることも出来ないし、 隠れてエロ本読むわけにもいかぬ。 #その前に入手が困難であるが。 ##森に行っても落ちている訳でも無い。 僕は、人一倍、この「プライベート空間」を欲する人間。 自分一人になれる場所が無いと、どうにもかなりきつい人なのです。 良からぬ事をする訳でもないけど、 一人になりたいことがある。 でも、これはそもそも、「一人になれる空間」が前提されているからこそ、 生まれてくる「感覚」なのであって、 元より、物理的にそういう可能性のない「村」においては、 「プライベート」という概念自体が、多分、成立していない。 「EGO」と「ALTER」の区別は、物理的にも精神的にも、実に曖昧である。 年頃の女の子がいる家庭では、 すっぽんぽんで歩くおとんを見て、娘が、 キャァァァァァァァ! と言うこともあるだろうけど、 ここでは元よりそんなことは言ってられない。 ガキんちょも、子供も、青年も、おやじも、じいさんも、 思春期の娘も、結婚前のおねえちゃんも、おばちゃんも、ばあさんも、 入浴は、外にいくつかある「水場」で、タオル一枚で行う。 公衆の面前であろうが何だろうが、 そんなこといってられんのだ。 隣で食器をごしごし洗ってるおばちゃんの前で、 おっちゃんは、体をえいえいと洗う。 顔も洗う。 ヒゲも剃る。 おねえちゃんも、やっぱり、体を洗う。 髪も洗う。 ヒゲも剃る・・・んがっぐぐ。 (註:だからといってすっぽんぽんが闊歩してる訳では決してない) 僕は最初の頃、体を洗うのは躊躇していた。 何故なら、脱衣場ってもんが存在しないのだ。 然も、洗ってる時には、常に近所に誰かがおる。 すっぽんぽんになれるのは、家の中の、ベッド付近のみ。 何故ならそこには、三方を囲むカーテンがあり、 そのスペースは、主に、着替えの場所になっている。 どうしたらええ? すっぽんぽんじゃない状態で体を洗った経験は、 我が人生31年間、多分一度もない。 然し、こんなときに、便利なのが、こっちの民族衣装のスル。 こいつは布一枚なので、濡れてもすぐに洗えるし、乾かせる。 みんなを観察してると、少なくとも男性は、 スル着用のまま水浴びしてるみたいだ。 (流石に女性の場合、隠すところが多いのでスルでは間に合わない) 僕は、とある朝、かなりの決心をして、「初洗い」にでかけた。 最初に、上半身裸、下半身はスル一枚になって、 家から出発(と言っても、水場は家から5歩くらいの所)。 タオルにボディーシャンプーつけてゴシゴシやってると、 ガキんちょが珍しそうにしてやってくる。 「荒井注?」 「は?何て?」 「洗い中?って言ったの」 朝っぱらから細かいボケをかます奴や。 然し、入浴シーンを見せつけられるほど、 オレはボディーに自信がある訳ではない。 ガキんちょを追っ払う。 露出してる部分の「洗い」は完了。 然し、最も大事な部分が残っている。 スルってのは、ゴムがあるわけでも、チャックがある訳でもなく、 本当にタダの、頼りない、薄い木綿の布なので、 それは、プールの時、教室で着替える小学生のガキんちょのように、 バスタオルを巻いただけ、という風情である。 小学生には、取りかえる瞬間、相当のクライマックスが待っているが、 僕は常時、その、頼りない感覚に怯えつつ、幕間までは長いのである。 奴が、何かで固定され、あるいは包まれていない状態の頼りなさ、やるせなさは、 きっと、オトコにしかわからんのだろうなぁ。 安心感が無い。落ち着きも無い。半分腑抜けである。 然し・・・、ある意味、「腑抜け」じゃなくなってしまったりしたら、 それはそれで、また別な問題が生ずる。 周りには、妙齢のおねえちゃんが、バスタオル一枚の、衝撃的な姿で、 そこここをうろうろしているのである。 薄布一枚で然も濡れてるスルのみしかない時に、 万が一、そんなことになってしまったら、かなり絶望的である。 僕の体の稜線は、急峻なものになってしまう。 「隙間」を緩めて、そこに手を突っ込み、秘所を洗う。 かなり際どいプレイである。 木綿布は水を含んで重くなり、 相当危険な状態になっている。 「玲!おはよう!!」 隣の家のおばちゃんが、鍋を片手に持って、 元気良く、笑顔で、無邪気に、挨拶をかます。 意表を突かれて、かなりヤバげになる。 ドラクエ風に言うと、 おばちゃんは げんきに あいさつをした りょうの するが はずみで ゆるまった りょうの自己防衛力が 30さがった おばちゃんの好奇心が 50あがった なんとか無事に洗い終えて、家へ戻る。 スルは完全に水浸し。 僕の下部は、濡れた布がそのなだらかな稜線を描き出している。 でも、どうやら「フジヤマ」は無いらしい。嗚呼。 そんなこんなで、「いやん、恥ずかしい」とかは、 言ってはいられんシチュエーションなのであった。 食事ってのも、なかなかに辛いものがある。 僕は、朝食はそんなに食べない人(ちうか、全く食べない人)なんだけど、 村では、「食事を抜く」ってことが殆ど想定され得ない事態らしく、 僕が嘗て、2回程「いいや、今日はいらんのです」と言って辞退した時、 全く以って不思議な顔をされた。 基本的に、食間の「買い食い」はおろか、「摘まみ食い」も不可能。 なんぞ買おうと思っても、店が無い。 なんぞ持参しようにも、保管スペースが無い。 あっても、一人だけで食べる訳にはいかない。 村では、「共同」「共有」が基本理念なので、 自分勝手な行動は慎まねばならない。 何かを食べる時は、皆で。 でも、それが、例えば、リッツをこっそり5枚ばかし食べたい、なんて場合、 食べる「場所」がない。 でも、全部で10枚しか残ってないから、 皆に勧める訳にもいかない。 あわよくば、明日の分として、半分は残しておきたい。 然し、こっそり食う訳にもいかぬ。 そういうややこしい問題に発展するから、 そもそも、食べ物を持参するということは非現実的である。 カバを飲む時、飴を合間に舐めるいう「奥義」を知ってからは、 僕にとってカバは、なんぼでも飲めるシロモノになっていた。 僕は、基本的に、あれで酩酊することはなく、 然も、元々嫌いなものではないのだが、 いかんせん、甘味が口の中から消えてしまうので、 終いには、えづいてしまうのだ。 でも、飴さえあれば大丈夫。 どんどん、なんぼでも、いけます。 然し、この「飴」。 カバを飲む面子は、青年以上じいさん未満な訳だけど、 大体が皆、いい年こいて、飴玉をしゃぶっている。 この光景は、実はなかなかに滑稽なのであるが、 要するに、それだけ、飴の需要があると言うわけ。 僕がごそごそと、袋から飴を取り出していると、 周りから、数本の手が伸びてくる。 「オレも、飴、ほしい」 「わしにも、飴、頂戴」 村では、飴とて、貴重なものな訳である。 僕は、初めて飴を持参した時、 一瞬で全てなくなってしまったので、 一計を案じた。 カバの席に行く時は、自分の分しかもっていかない。 「くれ」と言われたら、 「ごめんなぁ。こんだけしか、今、ないねん」 と、中を見せて言う。 でも、これは、重要なポイントなのだ。 飴が無いと、僕は、カバはせいぜい10杯くらいしか飲めない。 でも、「くれ」と言われたら、 ここでは基本的にあげなければならない。 それが「共同」「共有」の概念である。 喉が乾いても、ジュースやコーラを飲む訳にもいかない。 ビールなんてもってのほか。 (何故か村では酒は全く飲まれておらず、それを悪とみなす人も多い) 結局、飲み物は、紅茶しかない(あとは水)。 然し、お湯を沸かすのもなかなか大変(基本的にはマキを燃やす)なので、 好きな時に好きなものを飲む、なんてことはできない。 起床・就寝も大変。 家の中の全員が起きてしまったら、僕だけ寝ている訳にもいかない。 だから、毎朝6:30には起きなくてはならない。 寝坊するってことは、朝食を作って待っていてくれてる若女将を、 それだけ待たせることになる。 朝食を含めて、食事は全員が揃って、が基本だから、 ここでも自分勝手な行動は慎まなければならない。 皆が食卓につくまで、皆待ってるのだ。 夜は電気が無いから、ベンジンランプの生活。 然し、燃料は、彼らが自給できないものの一つである。 だから、なるべく節約しなければならない。 例えば、夜に、書き物をしたいなとか、 本を読みたいなと思っても、 僕だけの為に、ランプを点けて貰う訳にもいかない。 夜、星でも見に、散歩したいなと思っても、 そこには何人もが寝ている訳で、 外に出るためには、ドアを開けなければならない。 そのためには、何人もの間を通りぬけなければならない。 そんな迷惑なこと、出来る訳がない。 挙げたらキリが無いんだけど、 要するに、これは、僕が12年間やってきた一人暮らし生活、 そして、「個人」が社会の基本構成単位になってしまっている文明国の生活、 このどちらとも、全く正反対に位置する「生活」なんですな。 然し、考えて見れば、「生活」とは、元来こう云うものであっただろうし、 そもそもの基本的な有り様なのかな、とも思う。 我々は忘れてしまいがちであるが。 文明が発達して、 物質文化も繁栄して、 どんどん便利になって。 その結果生まれるものは、 社会における、共同体の崩壊(=個人主義の誕生)である。 これは、これまで、様々な、理論的見地から、 様々な角度と領域において、議論されてきている問題だけど、 村に暮らしてみると、余りにも当然に実感できますな。 塩がなくなったら、隣家から貰う。 でも、コンビニがあれば、夜中でも買える。 家族に迷惑がかかるから、同じような生活リズムにならざるを得ない。 でも、家に自分の部屋があり、 自分の仕事なり学校なりがあって、 自分でカネをもっていれば、 家族とは別の行動を取れる。 電子レンジとか、保温ポットとかがあれば、 別に、家族揃ってメシを食う必要も無い。 僕は、一人っ子で、さらに一人暮らしが長いから、 完璧に個人主義的思考になっていて、 それはよく、実家に帰った時に、おかんから注意をされる。 然し、村で暮らすと、 おかんの言う意味がしみじみわかるなぁ、と思う今日この頃、 如何お過ごしでしょうか。 母上さまぁー♪ お元気ですかー♪ 一休さんのおかんは、結局、何物だったのだ?? もとい。 で、漸くにして、村での生活リズムにも、 体と頭の思考とが順応した頃、 スバのアパートに戻ってくるのだ。 ここでは、僕は、全くの一人暮らし。 日本とは違って、夜中に開いてる店は少ないけど、 それでも、村とは比較にならない程、 モノの入手に関しては便利な環境な訳だ。 好きな時に、ジュースを買えるし、 好きな時に、自分で好きなモノを調理できるし、 好きな時に寝たり起きたり出来る。 果たして、これが良いことなのか悪いことなのか、 そういう問題はおいといて、 体と頭の思考のバランスが、なんかおかしくなるねん。 村から帰ってくると、僕は大抵、 喜び勇んで料理をする。 その為の買い物に行く。 それはスーパーだったり、マーケットだったり。 昨日は土曜日だったので、 マーケットは恐ろしい人出。 ここでは、多種多様な野菜(茄子やマメや芋類とか)、 多種多様な南国ちっくな果物(パパイヤ[フィジーではpawpawという]とかマンゴとか)、 そして時々は、かなりレアなものも売ってる。 僕は、チンゲンサイと、人参を買おうと思ってやってきた。 実は、前々回、村から戻る時、おみやげに貰ったタロ芋がまだ冷蔵庫に眠っている。 タロはね、 僕は、嫌いじゃない。 嫌いじゃないよ、確かに。 でも、好きって訳でもないのだ(笑)。 村では、乏しいヴァリエーションの食材を巧みに組み合わせて、 いくつかの料理のパターンが存在する。 主食としては、タロ、キャッサバの超強力の双璧以外にも、 ロティだったり、バンバカウ(ドーナツみたいな奴)だったり、パンだったり、パイだったりする。 おかずも、基本はロロ(ココナツミルクでタロの葉と魚の缶詰とかコンビーフとかを煮る)だけど、 多少は、カレーとか、卵焼きとか、鶏肉の炒め物とかもでてくる。 でも、やっぱり、基本的には、種類は乏しいわけだ。 日本の朝食って、ほとほと、素晴らしいと思う。 (バリエーションが素晴らしく多いでしょう?) だから、出されたものは食べますが、 全く以って、有難く頂きますが、 やっぱり、「飽き飽き」する訳。 言わないけど。 然も、それが自分の好物ならば、 毎日でも全然問題無い。 毎食雲丹丼でも、僕は文句は言いませぬ。 タロとかロロとかは、確かに旨いが、好物には程遠い。 然し、日本人が、たとえ毎食ご飯でも、 別に不思議に感じないのと同様に、 彼らは、毎食タロでも差し支えない訳だ。 然し、僕には、差支えが沢山あるのだ。 だから、スバに戻ってきて、 僕が好きなものを自ら料理するのは、 実は相当な楽しみの一つでもある。 でも、帰りがけに、膨大なタロをお土産にくれる(苦笑)。 せめてスバでは、タロから解放されたいと思ってるんだけど、 まさかに、好意を踏みにじる訳にもいかず・・・。 有難く頂戴するものの、 素晴らしく、量が多いときてる。 おかげで、未だに、冷蔵庫に眠っている。 そういう訳で、マーケットには、 僕が好きなものを作るための材料を買いにきた。 そして帰りがけに、ちらと別の店を覗くと・・・。 またもや、新たなブツを発見してしまった。 海ぶどう、雲丹、に引き続く第三弾。 それは、「小えび」。 週末のマーケット、然も海産物関係は、奥が深いなぁ。 別に目新しいものではないよ、そりゃ、確かに。、 基本的に、スーパーなどで海産物を買う時、 この国は、多分、冷蔵ルートがないからなんだろうけど、 ほぼ全てが冷凍食品なのである。 稀に生もあるけど、殆どない。 そして、冷凍だから、やっぱり高い。 えびなんかも相当高い。 今回の小えびは、 大きさは丁度桜海老くらいのもの。 三度、その前を行ったり来たりして、 結局そいつを買ってみることにした。 山盛りで60円。 矢張り、生ってのが有難い。 でも、小えびって、どういう使い道があるんや? でかい奴なら、炒め物に入れてもいいし、 茹でて食ってもいい。 でも、小えびやしなぁ。 この時点で、僕の頭に浮かんだのは、 1.かきあげ 2.佃煮を作る でもなぁ。 小麦粉ないねん。 村に行く時、手土産で、いつも小麦粉が買ってあるんだけど、 あれは自家消費用ではないねん。 そして、たとえあったとしても、 開けた後、使いきれる自信が無い。 佃煮は魅力的に思えた。 でも、、、日本酒が無いやん。 それに砂糖も無いやんけ。 鍋は非常に焦げやすいシロモノやで。 障害が多そうなので、あえなく却下。 結局、塩茹でにして、わさび醤油で食べた。 めっちゃ、普通やんけ。 冷や飯があればチャーハンとか(でも焦げやすいからあの鍋では難しい)、 お好み焼きにしてもいいけど、これまたやっぱり、小麦粉がいるか。。。 そんな訳で、 なかなかドキドキな土曜日の食卓。 あ、因みに、今回の、村からのお土産は、 危うく難を逃れた。 若女将曰く、 「この前のタロ、あれ、もう食べてもぉたん?」 「いやぁ、まだやねぇ。なんせ、僕、一人やし(とやんわりフォロー)」 「おとんが、『もし無くなってるんなら今回も持たせてやりなさい』って言うもんやし」 「それはまた、ありがと。でもなぁ、まだあんねん(いらんいらん。いらんねん。頼む)」 「それなら、今日は、これ、持っていき」 そう言われて持たされたのは、 巨大なパパイヤ2個。 横にマジックでそれぞれ、「すず」、「き」、と書いてある。 ありがとう。 ありがたいんだけど、 僕は、いつの頃からか、果物を食べなくなってしまって、早や幾余年。 なんというか、食べるタイミングが、 自分の食生活と合わないのよ・・・。 子供の頃は、果物大好きだったのに・・・。 思うに、今は、 暗くなる →酒を飲む →アテを作る →炭水化物は食べない →酔う →寝る これでは、果物の登場機会があまりない。 かと言って、 朝 →起きる →せいぜいお茶を飲むくらい →仕事をはじめてしまう →外に買い物に行く →ネットカフェでメールをする →帰ってメールを書いたりする →暗くなる あ、やっぱり、出場機会はないらしい。 スバにいるときは、 僕はやっぱり、一日一食の生活になってしまっているので、 果物なんかの出番は全然ないのであった。 然し、日に日に熟れていってるんだよなぁ。 元々が、名前の通り、やたらでかい、立派なパパイヤなんだよなぁ。 然も、帰りの車の中、 道のコンディションが相当悪かったので、ダンスを激しく踊ったらしく、 「すず」くんの方が、深刻なダメージを負っていて、 腐りかけのRadioぉー♪状態になっている。 然し、、、絶対に、僕一人では、よう食わんなぁ。 次に僕が村に行くまで、残すところあと2日。 どうするどうなる、パウパウ鈴木。 |
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