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vol.01 黎明期
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僕がオヤジ&オフクロと如何なる家族関係を築いてきたかとか、
どんなじいさんばあさんに可愛がられたかとか、
そんな話をしても始まらないので、
ここは一つ、わたくしの人格形成において
重要な意味をもたらしたと思われる事どもについて
ここに書くことにします。
一応、これが、筆者紹介になる見込みなので、
ある程度真面目に書くつもりです。
でも、全てあからさまにするわけにもいかんので
そのおつもりで、お読みくださいまし。
それは中学二年の時だった。
僕の連れが家に遊びに来た。
一つのカセットテープを持って。
僕は当時、音楽というものに対して
そんなに興味関心は持ってなかったし、
ましていわんや、レコードを買おうなどとも
思ったことはなかった。
奴は、おもむろにテープをかけた。
言っておくけど、彼もまた、おない歳の14歳。
ここは、14歳の少年が二人。
ええか。14歳やで。
さて、彼のかけたテープから奏でた音楽は、
第一曲目が「忘れな唄」というもの。
絶対誰も知らんと思うので一応言っておくと、
当時アリスは絶頂時にあったにも関わらず、
彼らは、三人が三人ともソロアルバムを出している。
で、この歌は、ベーヤン(堀内孝雄)の持ち歌。
まぁ、いい曲ですわな。
今でこそ珍しくないけれども、
当時としては、活動中にメンバーがソロアルバムを出すというのは
なかなかに珍しいことであった。
因みにこのテープは、「限りなき挑戦」という
アリスのライブ盤であります。
ここは、メンバーのソロパートなんで、
ベーヤンが終わって、キンちゃん(矢沢透)も終わって、
次がちんぺいさん(谷村新司)なわけですな。
はっきり言って、僕はその時までに、
「谷村新司」なる人物の名はおろか、
実像としても全く知らなかった。
聞いたこともなかったのね。
で、初めて聞いた歌は「陽はまた昇る」。
これは、とってもとっても暗い曲で、
とてもやないけど、当時チェッカーズとかに
騒いでいた女の子なんかと、話題を共有できるもんでは
なかった。
「夢を削りながら年老いていくことに
気がついたとき初めて気づく空の青さに」
14歳で、既に夢を削ったら、この先大変やろと思うが、
まぁ兎も角、この曲が好きになったのがきっかけでありました。
そいでも、当時(1985年頃)というのは、実は谷村の
パーソナリティとしての円熟期であった。
谷村新司は、大阪河内長野生まれ。
で、邦楽一家に育つのであるが、
モテたいがために、ギターを習得する。
彼の人格ともあいまって、
関西エリア(特に大阪)では、音楽&しゃべり共に
アマチュアとしては、結構な成功を収めている。
当時結成していたバンド「ロックキャンディーズ」は、
アルバムも出している。
当時、堀内はどうだったか。
僕は残念ながら、ベーやん情報には疎いんやけど、
彼も、確か何とか言うバンド(うー、名前失念)で、
関西(特に神戸)では有名だったそうな。
そこで、谷村がアリスの一員として、
この名ボーカリストを誘うのである。
場所は、大阪は阿部野橋、喫茶店「burn」。
谷村は堀内に向かい、こう言う。
「堀内、お前の歌は素晴らしい。日本で二番目の歌い手や。
どや、日本で一番のオレと組まへんか?」
当時、谷村は、細川健という腐れ縁の友人がいた。
彼は、「何ぞ一発あてたるわ」という企業家精神に
秀でてる人らしく、「ヤングジャパン」というプロダクションを
作ってしまった。
新星・アリスは、そこの専属となったのであった。
三人目のメンバー、矢沢透。
彼は、関東出身であり、
僕は、谷村+堀内が如何にして彼を知ったのか、
残念ながらその事情は知らないのである。
然し、新生・アリスの初期、
そうやなぁ、アルバム「アリス3」くらいまでは、
矢沢透の音楽センスに、かなり依存していたアリスであった。
そのことは、いみじくも、谷村が語っている。
それほどまでに、アリスにおける矢沢の影響は大であった。
逆にいうと、谷村+堀内は、シンガーソングライターとしても
まだ途上にあったということ。
「アリス2」のアルバムは、
僕のお気に入りである。
因みに、アリスが活動を開始したのは、
1971年12月25日。
で、活動を休止したのは
1981年11月3日である。
それまでに、計9枚のオリジナルアルバムと
その他ライブ盤を発表しているのだが、
その中でも「アリス2」は、僕はかなり好きなのだ。
当時、売れなかった頃、Opening Songによく使っていたという
「愛の光」なんて曲は、めちゃめちゃ名曲で
今聞いても、何の遜色もないねんけど、
これなんてのも、キンちゃん(矢沢透)の影響を受けていると
谷村は言っている。
さて、話を戻すと、
谷村は、当時、関西では有名なラジオパーソナリティに
既になっていた。
そして、彼が、全国へと羽ばたくきっかけとなった「セイヤング」、
パーソナリティとして不動の地位を得た「ヤングタウン」、
そして、後期谷村のエッセンスを受け継いでる「青春キャンパス」、
この3番組を以って、ちんぺいさんは、
ラジオ界の揺ぎ無い地位を得たのである。
セイヤング→青春キャンパスと受け継がれた、名物コーナー、
「天才・秀才・バカ」は、恐らく放送を聞いたこともない人間でも
名前を耳にしたことぐらいはあるでしょう。
因みに、この手のラジオ放送は、当時の日本で、
若者メディアの最先端をいっていただけあって、
例えば、デーモン小暮やサンプラザ中野は、
ちんぺいさんの番組の葉書職人だったのである。
さて、僕の話に戻すと、
うちの中学校には、件の、テープを持ってきた連れと、
もう一人だけ、アリスファンがおった。
つまり、全校で三人である。
当時、1984年から85年にかけて。
アリス解散から、僅か3年後。
彼女(そう、「彼女」なのである)は、
実は、うちの中学校における「先駆け」であった。
皆が、特に「じょし」が、
「吉川こうじ」だの、「おふこーす」だの、「おおかわえいさく(若干違)」だの、
そのあたりの「今様」なアーティストにきゃあきゃあ言ってる中、
厳かに、かつ粛々と、「我が道」を貫き通したのである。
僕の家にカセットテープを持って来た我が友人でさえも、
彼女の影響を受けた一人であるらしい。
彼女は間違いなく、後日の僕の方向性を決定付けた人間に違いない。
さて、アリスのヒット曲には色々あるけど、
「今はもう誰も」(確か1973年)、
「冬の稲妻」(1976年)、
「ジョニーの子守唄」(多分1976年)、
「チャンピオン」(1977年)、
「狂った果実」(1978年)
などなど。
で、彼らは、「冬の稲妻」で初めてメジャーヒットを飛ばした
んやけど、そこまでの道程は決して平坦なものではなかった。
前出の「細川健氏」のヤングジャパンの下、
活動を続けるのであるが、いかんせん、泣かず飛ばず。
売れないし、楽曲もうまくいかんドン底生活の果てに、
谷村たちがとった手段は、「起死回生のアメリカツアー」。
アリスの面々は、そこで、この状況を好転させようと試みる。
結果として、億単位の借金を背負うことになったアリスは
どこから見ても、絶望的なグループであった。
そんな彼らも、前出のようなヒットを飛ばすにつれ、
徐々に、日本のメジャー級になっていく。
上に挙げた他にも、
「帰らざる日々」(確か1976年)
「涙の誓い」(1977年)
「夢去りし街角」(1977年)、
「秋止符」(1977年)、
「エスピオナージ」(1980年頃)
等のヒットを飛ばしているのは、
皆さんもご存知のとおりです。
アリスといえば、忘れてならないのが、
「ステージへの執着」である。
確か、年間308ステージやったかな。
この記録は、未だに、破られていなかった筈。
その間、色々な苦難が彼らに襲い掛かった。
谷村は過労で倒れ、
堀内は喉の不調を訴える。
矢沢は、指先が麻痺する。
当時の手記には、ベーヤンが、
「声が出なくなった。歌えない。どうすればいいのか」
と書いてあるそうである。
谷村が入院し、二人だけのアリスで
ステージに立ったこともあるそうである。
年間308ステージ。これがどれだけ過酷なものか。
それでも、アリスは、ステージを一番に考え、
日本全国を廻りつづけたのであった。
さて、ラジオ界に戻りましょう。
パーソナリティとしての地位を既に確立していた谷村は、
公私共に結びつきが強かった、ばんばひろふみと共に、
MBSの番組「MBSヤングタウン」の金曜日を担当していた。
この「ヤンキン」は、関西在住の人ならば知ってると思うけれども、
ヤンタンの記念行事で表彰されたくらい、由緒&歴史ある
番組なのである。
パーソナリティは、谷村+ばんばんに加えて、
佐藤よしこ(MBSアナ)→岩崎良美→松本明子→佐藤よしこ(復活)
という布陣。最後は86年だったか、87年だったか。
兎に角、その辺に終わるまで、かなりの長期にわたり、
長寿番組の一翼を担っていたのである。
僕は、当時、中学生。
然も住んでるのは仙台である。
情報も疎ければ、接点もない。
然し、先達はあらまほしきものなり。
全く以って、有難い事で、
例の、二人の、アリスファン@うちの中学校が、
僕に色々と知恵をつけてくれたわけですな。
当時まだ放送中だったラジオ番組の
「ヤンキン」及び「青キャン」の二つを教えてもらい
僕のファン生活は始まったのでした。
「青キャン」は兎も角、
「ヤンキン」は、大阪MBSローカル。
雑音とノイズに耐えながら、
けなげにも、毎週聞いていたわけである。
一応これは自己紹介(長ぁ!)なので、
もう少し細かく言いますわ。
先の「連れ」がうちに来た時、
奴がかけた曲の初めは「忘れな唄」。
そして、きんちゃんパートが終わって、
谷村パートの「陽はまた昇る」、これで
かなり心を揺すぶられた中学生ではあったんやけど、
矢張り、最も心が震えたのは、次の曲であった。
「You're a king of kings」
この、非常に有名なフレーズ、
英語における「of」の使い方を勉強できるこの表現、
そう、「チャンピオン」なのですな、僕が完璧にやられたのは。
当時、まだ中学生やった僕は、歌詞の深さよりは、
メロディラインに感銘を受け、
一発でアリスファンになったのである。
で、上にも書いたように、
うちの中学の二人の先達から、ラジオのことを聞き、
毎週聞く生活が始まったのである。
はは。ここまで読んでくださった人たち。
この独白コーナーは、僕はさっぱりプロットや
表現や、趣向を凝らしてないので
さっぱりおもろないと思いますぜ。
だいぶ、本人が思っている以上に長くなってしまった黎明期、
もうちびっとで終わります(^^;。
まぁ、アリスに関するネタは、
ここで書いてることは、実は、記憶の中からなのでございます。
なので、年号が間違ってるとか、
事実関係が誤ってるとかいうことはありえる。
もしわかったら、教えて欲しいっす。
全て思い出しながら書いてるんで(笑)。
ここはえげれすなんで、資料がないです。
で、ですね。
僕は、そういう訳で、アリス、あるいは谷村に影響を
受けつつ育ったわけですが、
僕の、今でも続いてる言動やら趣向に、
その影響が出ているのは否めませぬ。
服装の趣味然り、人生に対する考え方然り。
まぁ、きっかけはどうあれ、
シンパシーを感ずるというところに、
何かあるのでは?という勘ぐりもありやと思うけど、
きっちりと、当時の僕の心情がはまってしまったのやから
仕方ない。
僕がラジオを聞き始めたのは、結構、谷村の
ラジオパーソナリティとしての晩年でした。
1988年頃を境にして、
彼は、主要な番組を降り始めた。
その理由は未だにわからないけど、
確実に、彼の芸能生活の岐路がきているのは確かである。
事実、谷村は、その頃から、ディナーショーという
新たな分野に開拓を始めていた。。。
さて、結局、僕のアリスへの思い入れを語るコーナーに
なってしまいましたが、一応、ここは、自己紹介の場所。
タダで、簡単に述べてもおもろないので、
このような語り調子の形式をとりましたが、
実は最近、「通信」本文の方を挙げるとき、
導入やらオチやらを色々練り上げるので
大変なのですわ。
たまには、最初の頃のように、
責任なしで思いつくままに、書きたいことを書く、
そういうのが欲しくなったんで、
そうしてまする。なので、
オチは無し!そして、次回は、
谷村Worldに魅せられた19歳の少年が、
魑魅魍魎、大阪に出て行くまで。
(3rd/Jun/2000)
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