自己紹介三部作

えげれす通信 ■自己紹介三部作■  19th/Jun/2000 last updated

vol.01  黎明期
vol.02  浪速通信
vol.03  渡英前夜



vol.01 黎明期
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僕がオヤジ&オフクロと如何なる家族関係を築いてきたかとか、
どんなじいさんばあさんに可愛がられたかとか、
そんな話をしても始まらないので、
ここは一つ、わたくしの人格形成において
重要な意味をもたらしたと思われる事どもについて
ここに書くことにします。
一応、これが、筆者紹介になる見込みなので、
ある程度真面目に書くつもりです。
でも、全てあからさまにするわけにもいかんので
そのおつもりで、お読みくださいまし。

それは中学二年の時だった。
僕の連れが家に遊びに来た。
一つのカセットテープを持って。
僕は当時、音楽というものに対して
そんなに興味関心は持ってなかったし、
ましていわんや、レコードを買おうなどとも
思ったことはなかった。

奴は、おもむろにテープをかけた。
言っておくけど、彼もまた、おない歳の14歳。
ここは、14歳の少年が二人。
ええか。14歳やで。

さて、彼のかけたテープから奏でた音楽は、
第一曲目が「忘れな唄」というもの。
絶対誰も知らんと思うので一応言っておくと、
当時アリスは絶頂時にあったにも関わらず、
彼らは、三人が三人ともソロアルバムを出している。
で、この歌は、ベーヤン(堀内孝雄)の持ち歌。
まぁ、いい曲ですわな。
今でこそ珍しくないけれども、
当時としては、活動中にメンバーがソロアルバムを出すというのは
なかなかに珍しいことであった。

因みにこのテープは、「限りなき挑戦」という
アリスのライブ盤であります。
ここは、メンバーのソロパートなんで、
ベーヤンが終わって、キンちゃん(矢沢透)も終わって、
次がちんぺいさん(谷村新司)なわけですな。

はっきり言って、僕はその時までに、
「谷村新司」なる人物の名はおろか、
実像としても全く知らなかった。
聞いたこともなかったのね。

で、初めて聞いた歌は「陽はまた昇る」。
これは、とってもとっても暗い曲で、
とてもやないけど、当時チェッカーズとかに
騒いでいた女の子なんかと、話題を共有できるもんでは
なかった。

「夢を削りながら年老いていくことに
気がついたとき初めて気づく空の青さに」
14歳で、既に夢を削ったら、この先大変やろと思うが、
まぁ兎も角、この曲が好きになったのがきっかけでありました。

そいでも、当時(1985年頃)というのは、実は谷村の
パーソナリティとしての円熟期であった。

谷村新司は、大阪河内長野生まれ。
で、邦楽一家に育つのであるが、
モテたいがために、ギターを習得する。
彼の人格ともあいまって、
関西エリア(特に大阪)では、音楽&しゃべり共に
アマチュアとしては、結構な成功を収めている。
当時結成していたバンド「ロックキャンディーズ」は、
アルバムも出している。

当時、堀内はどうだったか。
僕は残念ながら、ベーやん情報には疎いんやけど、
彼も、確か何とか言うバンド(うー、名前失念)で、
関西(特に神戸)では有名だったそうな。
そこで、谷村がアリスの一員として、
この名ボーカリストを誘うのである。

場所は、大阪は阿部野橋、喫茶店「burn」。
谷村は堀内に向かい、こう言う。
「堀内、お前の歌は素晴らしい。日本で二番目の歌い手や。
どや、日本で一番のオレと組まへんか?」

当時、谷村は、細川健という腐れ縁の友人がいた。
彼は、「何ぞ一発あてたるわ」という企業家精神に
秀でてる人らしく、「ヤングジャパン」というプロダクションを
作ってしまった。
新星・アリスは、そこの専属となったのであった。

三人目のメンバー、矢沢透。
彼は、関東出身であり、
僕は、谷村+堀内が如何にして彼を知ったのか、
残念ながらその事情は知らないのである。
然し、新生・アリスの初期、
そうやなぁ、アルバム「アリス3」くらいまでは、
矢沢透の音楽センスに、かなり依存していたアリスであった。
そのことは、いみじくも、谷村が語っている。
それほどまでに、アリスにおける矢沢の影響は大であった。
逆にいうと、谷村+堀内は、シンガーソングライターとしても
まだ途上にあったということ。

「アリス2」のアルバムは、
僕のお気に入りである。
因みに、アリスが活動を開始したのは、
1971年12月25日。
で、活動を休止したのは
1981年11月3日である。
それまでに、計9枚のオリジナルアルバムと
その他ライブ盤を発表しているのだが、
その中でも「アリス2」は、僕はかなり好きなのだ。
当時、売れなかった頃、Opening Songによく使っていたという
「愛の光」なんて曲は、めちゃめちゃ名曲で
今聞いても、何の遜色もないねんけど、
これなんてのも、キンちゃん(矢沢透)の影響を受けていると
谷村は言っている。

さて、話を戻すと、
谷村は、当時、関西では有名なラジオパーソナリティに
既になっていた。
そして、彼が、全国へと羽ばたくきっかけとなった「セイヤング」、
パーソナリティとして不動の地位を得た「ヤングタウン」、
そして、後期谷村のエッセンスを受け継いでる「青春キャンパス」、
この3番組を以って、ちんぺいさんは、
ラジオ界の揺ぎ無い地位を得たのである。

セイヤング→青春キャンパスと受け継がれた、名物コーナー、
「天才・秀才・バカ」は、恐らく放送を聞いたこともない人間でも
名前を耳にしたことぐらいはあるでしょう。
因みに、この手のラジオ放送は、当時の日本で、
若者メディアの最先端をいっていただけあって、
例えば、デーモン小暮やサンプラザ中野は、
ちんぺいさんの番組の葉書職人だったのである。

さて、僕の話に戻すと、
うちの中学校には、件の、テープを持ってきた連れと、
もう一人だけ、アリスファンがおった。
つまり、全校で三人である。
当時、1984年から85年にかけて。
アリス解散から、僅か3年後。

彼女(そう、「彼女」なのである)は、
実は、うちの中学校における「先駆け」であった。
皆が、特に「じょし」が、
「吉川こうじ」だの、「おふこーす」だの、「おおかわえいさく(若干違)」だの、
そのあたりの「今様」なアーティストにきゃあきゃあ言ってる中、
厳かに、かつ粛々と、「我が道」を貫き通したのである。
僕の家にカセットテープを持って来た我が友人でさえも、
彼女の影響を受けた一人であるらしい。

彼女は間違いなく、後日の僕の方向性を決定付けた人間に違いない。

さて、アリスのヒット曲には色々あるけど、
「今はもう誰も」(確か1973年)、
「冬の稲妻」(1976年)、
「ジョニーの子守唄」(多分1976年)、
「チャンピオン」(1977年)、
「狂った果実」(1978年)
などなど。

で、彼らは、「冬の稲妻」で初めてメジャーヒットを飛ばした
んやけど、そこまでの道程は決して平坦なものではなかった。
前出の「細川健氏」のヤングジャパンの下、
活動を続けるのであるが、いかんせん、泣かず飛ばず。
売れないし、楽曲もうまくいかんドン底生活の果てに、
谷村たちがとった手段は、「起死回生のアメリカツアー」。
アリスの面々は、そこで、この状況を好転させようと試みる。
結果として、億単位の借金を背負うことになったアリスは
どこから見ても、絶望的なグループであった。

そんな彼らも、前出のようなヒットを飛ばすにつれ、
徐々に、日本のメジャー級になっていく。
上に挙げた他にも、
「帰らざる日々」(確か1976年)
「涙の誓い」(1977年)
「夢去りし街角」(1977年)、
「秋止符」(1977年)、
「エスピオナージ」(1980年頃)
等のヒットを飛ばしているのは、
皆さんもご存知のとおりです。

アリスといえば、忘れてならないのが、
「ステージへの執着」である。
確か、年間308ステージやったかな。
この記録は、未だに、破られていなかった筈。
その間、色々な苦難が彼らに襲い掛かった。
谷村は過労で倒れ、
堀内は喉の不調を訴える。
矢沢は、指先が麻痺する。
当時の手記には、ベーヤンが、
「声が出なくなった。歌えない。どうすればいいのか」
と書いてあるそうである。
谷村が入院し、二人だけのアリスで
ステージに立ったこともあるそうである。
年間308ステージ。これがどれだけ過酷なものか。
それでも、アリスは、ステージを一番に考え、
日本全国を廻りつづけたのであった。

さて、ラジオ界に戻りましょう。
パーソナリティとしての地位を既に確立していた谷村は、
公私共に結びつきが強かった、ばんばひろふみと共に、
MBSの番組「MBSヤングタウン」の金曜日を担当していた。
この「ヤンキン」は、関西在住の人ならば知ってると思うけれども、
ヤンタンの記念行事で表彰されたくらい、由緒&歴史ある
番組なのである。
パーソナリティは、谷村+ばんばんに加えて、
佐藤よしこ(MBSアナ)→岩崎良美→松本明子→佐藤よしこ(復活)
という布陣。最後は86年だったか、87年だったか。
兎に角、その辺に終わるまで、かなりの長期にわたり、
長寿番組の一翼を担っていたのである。

僕は、当時、中学生。
然も住んでるのは仙台である。
情報も疎ければ、接点もない。
然し、先達はあらまほしきものなり。
全く以って、有難い事で、
例の、二人の、アリスファン@うちの中学校が、
僕に色々と知恵をつけてくれたわけですな。
当時まだ放送中だったラジオ番組の
「ヤンキン」及び「青キャン」の二つを教えてもらい
僕のファン生活は始まったのでした。
「青キャン」は兎も角、
「ヤンキン」は、大阪MBSローカル。
雑音とノイズに耐えながら、
けなげにも、毎週聞いていたわけである。

一応これは自己紹介(長ぁ!)なので、
もう少し細かく言いますわ。
先の「連れ」がうちに来た時、
奴がかけた曲の初めは「忘れな唄」。
そして、きんちゃんパートが終わって、
谷村パートの「陽はまた昇る」、これで
かなり心を揺すぶられた中学生ではあったんやけど、
矢張り、最も心が震えたのは、次の曲であった。

「You're a king of kings」
この、非常に有名なフレーズ、
英語における「of」の使い方を勉強できるこの表現、
そう、「チャンピオン」なのですな、僕が完璧にやられたのは。
当時、まだ中学生やった僕は、歌詞の深さよりは、
メロディラインに感銘を受け、
一発でアリスファンになったのである。
で、上にも書いたように、
うちの中学の二人の先達から、ラジオのことを聞き、
毎週聞く生活が始まったのである。

はは。ここまで読んでくださった人たち。
この独白コーナーは、僕はさっぱりプロットや
表現や、趣向を凝らしてないので
さっぱりおもろないと思いますぜ。

だいぶ、本人が思っている以上に長くなってしまった黎明期、
もうちびっとで終わります(^^;。
まぁ、アリスに関するネタは、
ここで書いてることは、実は、記憶の中からなのでございます。
なので、年号が間違ってるとか、
事実関係が誤ってるとかいうことはありえる。
もしわかったら、教えて欲しいっす。
全て思い出しながら書いてるんで(笑)。
ここはえげれすなんで、資料がないです。

で、ですね。
僕は、そういう訳で、アリス、あるいは谷村に影響を
受けつつ育ったわけですが、
僕の、今でも続いてる言動やら趣向に、
その影響が出ているのは否めませぬ。
服装の趣味然り、人生に対する考え方然り。
まぁ、きっかけはどうあれ、
シンパシーを感ずるというところに、
何かあるのでは?という勘ぐりもありやと思うけど、
きっちりと、当時の僕の心情がはまってしまったのやから
仕方ない。

僕がラジオを聞き始めたのは、結構、谷村の
ラジオパーソナリティとしての晩年でした。
1988年頃を境にして、
彼は、主要な番組を降り始めた。
その理由は未だにわからないけど、
確実に、彼の芸能生活の岐路がきているのは確かである。
事実、谷村は、その頃から、ディナーショーという
新たな分野に開拓を始めていた。。。

さて、結局、僕のアリスへの思い入れを語るコーナーに
なってしまいましたが、一応、ここは、自己紹介の場所。
タダで、簡単に述べてもおもろないので、
このような語り調子の形式をとりましたが、
実は最近、「通信」本文の方を挙げるとき、
導入やらオチやらを色々練り上げるので
大変なのですわ。
たまには、最初の頃のように、
責任なしで思いつくままに、書きたいことを書く、
そういうのが欲しくなったんで、
そうしてまする。なので、
オチは無し!そして、次回は、
谷村Worldに魅せられた19歳の少年が、
魑魅魍魎、大阪に出て行くまで。

(3rd/Jun/2000)


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vol.02 浪速通信
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都ホテルという、京都は蹴上にあるホテルは
僕のお気に入りのホテルである。
最初の受験で京都入りしたとき、
初めて泊まって大いに気を良くした僕は、
翌年、今度は京都には用はなかったのだが、
大阪で受験を終えたあと、わざわざ京都に行き、
もう一泊したほど、僕はここが好きである。
ここを根城に、四条の「鍵善」でくずきりを食べた後、
南禅寺から疎水の方へ散策するのが、僕のお気に入りコース。

京都。
そう、この街に親しむために、
僕は是が非でも関西の大学に行きたかった。
師匠谷村のルーツに触れることと、
京都の街、あるいはその近くに住むというのが
僕の夢であった。
結局大阪の大学に決まり、
赤本で既にチェック済みだった
「古都散策」のサークルに早速入った僕は、
似非大阪人の生活を満喫し始めた。

東北人にとって、
ナニワなんてとこは、
不気味でこそあれ、住みたいなどとは
まかり間違っても思うところではない。
ヤクザと漫才師しかいなくて、
おっかないところ。
受験のときも、大阪行ってからも、
何十回何百回となく、
「なんで大阪行った(来た)ん?」
と聞かれて、些かうんざりしていた僕は
色々な返事のヴァリエーションを生み出していった。
曰く、「京都が好きだから」、
曰く、「文化的に濃いから」、
そして勿論「師匠の国だから」。

さて、この似非大阪人にとって、
最初の難関は、矢張り、言葉と習慣。

うちのサークルのボックスには鍵があって、
その番号を先輩から教えてもらったときに、

「489やから、『しばく』って覚えたらええ」

と言われて、「はぁ」と言ったものの、「しばく」って何だ?

新歓飲み会で先輩に

「自分、どこ出身なん?」

と聞かれる。何で彼は自問自答してるんだ?

しょっちゅう耳にする「いきり」と「へたれ」の違い。
これについては、非常に参考になる説明をしてくれた人がいた。
曰く、「『いきり』はスネ夫、『へたれ』はのび太や。」
ううむ。分かったぞ。

「しばく」の意味が分かった後も、
類義語「どつく」「どつきたおす」「しばきまわす」等の
ニュアンスの違いがわからん。
どれがヘビーなんだ?

なんかアホなことしてる友人にふと言ってしまった一言、

「はは。バカじゃねーの(笑)」

の後に訪れた不気味な沈黙は、
標準語を聞くと虫唾が走るという関西人特有の
標準語「イントネーション」アレルギーのため
だけではなかった。
関西で「バカ」と言ったら、血が流れるのを
まだ知らなかったときの出来事ですな。

お好み焼き屋で箸と皿を注文したら
連れに「邪道」呼ばわりされるし、
「ぱちる」「ほかす」「さぶいぼ」etc...
わからん語彙は挙げたらきりがない。

そうかと思えば、習慣に戸惑うこともしばしばで、
大阪発祥という「青までのカウントダウン式信号」やら、
きちんと対面通行になってる歩行者天国の戎橋筋とか、
来る直前まで並んでいるのに、
入線した瞬間アナーキー状態になる駅のホームとか。
兎に角、まごまごしてたり、おっとりしてると、
生きていけない場所であることをしみじみ感じ入ったわけである。

一度、赤信号で立ち止まってたら、交通整理のおっちゃんに、

「にぃちゃん、はよ行き」

と言われて、唖然としたことがある。
あんた、そういうの、取り締まる人じゃなかったの?

焼き飯を食えば、ソースかける奴いるし、
カレーにもソース。
「紅生姜のてんぷら」などという聞いたことない代物があるし、
肉じゃが頼んだら、牛肉でつくってある。

下りエスカレーターに乗ってたら、
前の二人組みおばちゃんが振り返って、

「にぃちゃん、行かはる?」

って言う。何のことだ?>「行かはる」
どこに行くんだよ。

知らない店に入ると、
おばちゃんが注文取りに来て、

「にぃちゃん、なにしよ?」

僕とあなたは、初対面だよ。
何故に故に「にぃちゃん」呼ばわりされなきゃならないんだよ?

と、一緒に行った友人は、
至極あっさりと、

「おばちゃん、豚モダンして」

きみら、仲間かい!

と、まぁ、当時HPがあったら、
間違いなく、「ナニワ通信」を立ち上げてたと思うんだが、
それくらい、僕にとっては、異文化の街なのであった。
然しながら、もともと異文化に対する好奇心が旺盛な僕は、
馴染むのが得意であると自他共に認める性格も手伝って、
急速に溶け込んでいったのであった。
・・・但し、言葉は除いて。

僕は形から入る性質なんで、
朝は、まず、「浜村淳」で起きる事にした。
(その後、802→FM大阪→KissFMに変化)
吉本は欠かさず見ることにし、
飲みに行くときは、キタではなくミナミ。
時には阿倍野のdeep地区。

会話にはなるべくボケ突っ込みを入れるようにし、
突っ込みの手とか、そういうボディーランゲージも取り入れる。
関西ローカルのテレビ(ナイトインナイトとか)は必見。
気が付けば、隣の車道信号が黄色になった瞬間に
一番にフライングしなければ気がすまないようになり、
御堂筋車で走るときも、タクを煽り、
下りエスカレータで横並びしてる不届き者には
容赦なくあからさまな咳払いでプレッシャーをかけ、
お好み焼き屋行っても、おばちゃんに、

「豚モダンね。マヨネーズ胸悪くなるくらい塗ってなー♪」

とか言うようになっていたのであった。
めでたしめでたし。

結局8年半住んだ大阪の街。
僕にとっては、間違いなく第二の故郷であって、
今でも、帰国してからも住みたいと思ってるのであるが、
転機は、いとも簡単に訪れた。

実を言うと、僕はもともと経済学志望ではなく、
人類学をやるつもりだった。
受験の都合で、変更を余儀なくされ、
結果、経済学部に入ったが、
人類学に対する気持ちは失ってなかった。
それで、経済学部時代も、純経済学のゼミではなく
広く社会思想史をカバーするゼミに所属し、
院に入ってからも、その指導教官のおかげで
割と自由に研究させてもらえたのであった。

然し、経済学部で人類学をやるには
どうしても限界がある。
研究だけならいいのだが、
その先を考えると、どうしても不利である。
その事情をよくわかってるうちの指導教官からも
院に入った当初から留学は勧められていた。

そうなんだけど、問題は、
学力とか環境とか金銭問題とか、
そういうところにあるのではなく、
僕自身の、留学に対する情熱にあった。
はっきり言って、別に行きたくなかったのね(笑)。
日本でええやん。

なので、下調べもせず、具体的な計画もなく、
無為に時間は過ぎていった。
修士を終えて、Dに入ってから行くのがいいだろうと、
周りには言われていたので、
それをいいことに、それまで特に動かなかったし。

転機は二つあった。
一つ目は、98年の冬、僕は初めてえげれすを旅行。
このとき、たまたまこちらに留学してた
うちの大学の先生がいらして、
先生にお話を伺ったのが、直接の契機。
そして、その後、留学するには具体的に何をすればいいか、
という点を、その先生に紹介されたこちらの院生の方から
懇切丁寧に教わった。

そのおかげで、だいぶ具体的な知識がつき、
さて、ではそろそろ本格的に考えようかと思っていた
矢先に起きた、第二の、然も甚だdrasticな事件。

僕は、当時、愛車プリメーラを駆使して、
関西を中心に、日本全国を攻めまくってた。
わがプリメーラのタイヤの跡がついていない都道府県は、
北海道、佐賀、長崎、沖縄の4つのみ。
大阪から仙台への帰省も、
基本的には、車。
それも、タダでは帰らず、
長野経由だったり、能登半島経由だったり、
まぁ色々ですな。

事件は、98年4月某日に起きた。
僕は、仙台を大阪に向けて出発。
予定経路としては、
喜多方でラーメンを攻めた後、
会津地方のスーパーならどこにでもある「さくら(馬刺)」を購入後、
只見を越えて新潟に抜け、そこから日本海沿岸ルートR8を
ひたすら西行するというもの。
僕は喜多方で二つの予定をこなした後、
さくっと、只見越え国道に入った。
すると、

「冬季通行止め」

あなや。
まだ開通してなかったか。
ここは、六十里越という、とっても峻険な峠があって、
豪雪地帯なのである。
4月上旬だから、微妙だとは思っていたんだが。

あえなく、ルート変更。
選択肢は、このままR49で新潟に出るか、
同じくR49を戻り、郡山に出るか。
僕は迷わず前者を選んだ。

そのとき、僕は、新潟の五泉市というところの、
一直線の田圃道を走ってた。
黄昏時、点灯/非点灯は半々くらい。
僕はカセットを交換して、前を見ると、
目の前に干し草が見えた。
次の瞬間、それを積んでるトラクターが見えた。
不思議とスピード感はなく、
静止画像のようだった。
但し、そのトラクターは、画面一杯に広がってる。
つまり、、、既に至近距離にあるということ。

タイヤがロックされたままの状態で
道路を滑っていく感触を感じた次の瞬間、
わがプリメーラのボンネットが全壊状態になってるのが見えた。
命の恐怖とか、そういうのは全くなかったけれど、
足が少し挟まってるのを感じたとき、
改めて恐ろしさがこみ上げてくる。
車室の損壊はほぼなかったが、
なんか、煙い。

僕の頭には、
「太陽にほえろ」で、殿下が乗った車が崖下に転落、
そのまま炎上した映像が蘇って怖くなったけど、
どうやらその煙は、そういうシロモノではないらしい。
なんぞ、チョークの粉みたいな。。。

人間、意外と身の回りのモノは見えないらしい。
僕のすぐ前にある膨らんだものに気が付くまで
結構時間がかかった。

そう、エアバッグ。
僕は、「一度膨らましてみたいものランキングNO.1」、
エアバッグ体験をした男なのである。

お互い怪我はなく、
然も、優先道路を無灯火で横切っていた
向こうが悪いのは一目瞭然。
こんなとき、日ごろの似非関西人ぶりが
いかんなく発揮される。

「どこ見て運転してけつかんねん。その目ん玉引っこ抜いて
馬刺しと一緒に、ちゅるるん、食ったろか、われ!」

と、心で叫びつつ(笑)、
まぁ、表面は一応穏やかに、然しなめられんように、
事後処理を行った。

いくつかの不利な条件が重なったため、
だいぶ保険金は減ったが、
まぁぼちぼちというところ。
そんなことより、僕には、
プリメーラ廃車という事態の方が痛かった。
奇しくも、車検を通したばかりであった。
タイヤも替えたばかりであった。
金の問題もさることながら、
愛着があったからねぇ。
何せ、80000キロ近く乗ってる。

嗚呼。
あの時、素直に高速乗ってれば、あの道は通らんかった。
あの時、ラーメン食わなければ、時間がずれてた。
あの時、馬刺し買おうと思わなければ、あのルート通らんかった。
はぁ。

僕にとって、車は生活の一部というより、
自分の体の一部であったので、
大阪に車無しで戻ってからというもの、
かなりの無気力状態になったのである。
何をする気も起こらない。
他にも辛いことが連続し、
精神的に最悪な春先であった。
これが、第二の契機ですな。

つまり、いつからか、「日本脱出・海外逃亡」という
とってもnegativeなプランが僕の中で出来上がってきたのであった。
勿論、それだけで決めたわけではないけれども、
これが大きな踏ん切りになったことは確か。
そして僕は、大学選びに東京を考えなかったのと同じく、
留学先にアメリカは選ばなかった。
大阪に来たきっかけが、谷村新司にあったのと同じく、
えげれすは、学問上の憧れの人、R.Firthがいる国。
7月に仙台に帰省したときは、いつもの帰省と同じだったのに、
8月に大阪に戻ってきたときは、
マンションを引き払うためであった。
こうして、非常に慌しく、
僕はえげれすに行くことになったのであった。

(14th/Jun/2000)


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vol.03 渡英前夜
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前回書いたような理由で、僕はえげれす行きを決めた。
最も、offerが来ないと話にはならないので、
その為の筆記試験を受けに、
東京のブリティッシュカウンシルに行ったり、
国際電話でインタビューを受けたりと、
なかなかに慌しい生活を送っていた。

如何に慌しかったか、本人も行けるのかどうなのか、
さっぱり分からなかったのだが、
offerを無事もらえたのが、
何と8月20日のことだった。
当時の予定を見てみると、

7/10 TOEFL受験
これはいいとして、

7/18-7/20 越前で刺身に溺れたあと仙台に帰省
こんなんやってるし(笑)。
まだ牧歌的な状況らしい。

8/13 ブリティッシュカウンシルにて筆記試験
まぁこの辺りから風雲急を告げてきたわけですな。

8/20 電話インタビュー→offerが出る。
実際この日、日本時間で18時に電話したんだが、
結果を聞き次第、受かってたら、
そのまま大阪に行くことになっていた。
大阪の引越し準備を何もまだやってない。
手続きやら片づけやら、顔をださなあかんとこもあるし、
色々と大変。結局、夜中0時頃メールで結果を聞き、
そのまま大阪へと出発したのであった。

他に色々「渡航について」の有益な情報があるHPはあるので、
そういう技術的なことはここでは書かないけれど、
まぁ、一人の人間が引越しをする、
そして行き先が海外ってのは、
相当大変なことである。
やってみてしみじみ思ったけど。
人間、社会の中にいるんだなと感じる瞬間である。
「繋がり」、これは普段感じないけれども、
それを断つ時にその存在を感じるもので。
それは、人間関係であったり、
単なる事務的関係であったりするけど。

ざっと挙げただけでも、

飲み会3件/通信環境の準備/スポーツクラブ退会/
携帯解約/NTT解約/保険加入/電気・ガス解約/
奨学金書類提出/休学届/指導教官挨拶/税還付手続き/
免許証住所変更/住民票移動/引越し屋手続き/家具処分/
航空券予約/チューター引継ぎ/定期購読雑誌の中止/
院生特別経費手続き/チューター報告書提出/学割取得/
研究室整理/図書館へ本を返却 /ちゃりんこ処分/
マンション解約/JR切符購入/休学面接/飲み屋挨拶

こんだけのことを、4日でやらねばならない。
我ながらよくやったもんだ。
勿論そのうち3日は、飲み会が入る(^^;。

仙台に戻り、銀行口座をまとめたり、
歯医者に行ったり、
飲み会をしたりして、
結局、仙台を出発したのは、9月5日のこと。
大阪に一泊後、9月6日のBAで、
ヒースローに降り立ったわけです。

前に別なところで書いたけれども、
最後に、この「どんな人」を〆るにあたって、
少々真面目なお話を。
英国王立人類学協会(Royal Anthropological Institute)は、
何と、1872年に既に雑誌第一巻を出している、
とても歴史がある機関である。
19世紀末といえば、
世の中ぼちぼち人類学的関心は高まってきた頃だが、
まだまだ学問として確立しているとは言いがたい状況。
進化主義人類学者E.B.Tylor卿やJ.G.Frazer卿など、
後世に多大な影響を及ぼした人類学者もいたが、
まだまだ「奇特な風習を紹介する旅行記」的意味合いが
非常に強かった時期である。
こうした状況が一変されるのが、1922年の「機能主義革命」である。
それを担った二人の人類学者のうちの一人、
B.Malinowskiが人類学のセミナーを開いたとき、
彼の最初の学生として出席していた一人が、R.Firthである。
Firthは、英国王立人類学協会会長(1953-55)を勤めるなど、
なかなかの大物である。
僕の研究は、主として、彼の理論に関するものであったので、
もう一つの人類学の大きな流れ、
即ち「文化人類学」の本場アメリカではなく、
「社会人類学」の英国を選んだのであった。

さて、最後に簡単に自己紹介(これまでは違ったんかい>僕)

正式HN:玲(りょう)
サブHN:似非関西人/謎の大阪人/似非紳士/西の柱/toonarmy etc.
性別:男
血液型:わが道を行くB
生年月日:10/11/1970
居住地:仙台(19年)+大阪(8年)+英吉利(4年)+フィジー(1年)+再英吉利(1年)+再大阪(1年)
人生の師匠:谷村新司
人生の至福:刺身に溺れ、酒に塗れるとき
職業:ずっと学生。今は、経済学ドクターコース在籍。
今後の予定:就活中。
(2005年12月7日修正)

他に知りたいことがあったら、
BBSででも呟いてください。
答えられる事は、答えます(笑)。
大学の名前等は、表向き、伏せてます(^^;

おわり

(7th/Dec/2005)


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