愛と死の幻想
卑劣で、かっこ悪い電脳サクラを続けているときに、僕がストレスを解消することが出来たのは白い粉のおかげだった。白い粉と言ってもスピードやコカインではなく、「合法ドラッグ」あるいは「脱法ドラッグ」と呼ばれているものである。
これらは試験試薬や植物標本という名目で、街やネット上で販売されている。
僕の感覚では、マジックマッシュルームが法的に禁止されたことにより、それよりももっと危険っぽい白い粉が大量に出回っているような気がする。
友人もなく、サクラ部隊のなかに知り合いもできない僕は2002年の6月から11月の間に十種類近くの合法ドラッグを一人で使っていた。そして天国のような経験と、地獄以下の経験をふたつながらもった。
そして僕はそれらの体験が単なる薬物による酩酊では片付けられないのではないかという印象を持った。
もっと言えば、それが薬物による酩酊であっても、なぜそのような酩酊の仕方、そのような一定の思考やイメージ、圧倒的な恐怖や愛などが現れるのかということが重要なのではないかと思う。
臨死体験者はなぜ、光を見るのか、なぜ統合失調症の患者は神や世界の終末というビジョンにとり憑かれるのかと言う問いはそれらが幻覚や妄想だとしても非常に有意義なことに違いない。
おそらく神と言う概念はその人が信仰を持っているか否かにかかわらず、人間精神の内部に一種のデバイスとして存在しているのではないだろうか。そして「光」も意識のベースにあるなんらかの知覚の原点として存在しているのではないか。
僕はそのトリップの間に悪魔的な存在や、恐ろしく聖なる神性や、すべてを包み込む愛の存在を肌で感じた。
以下はその不完全な記録である。
T 5meodipt(Foxy)の場合
以前ニュース番組の特集で、少年少女にドラッグが蔓延していると報道されていた。
民放のニュース番組の特集にありがちな、感情的色彩の濃い演出で、おどろおどろしいナレーションとBGMが見るものの理性を麻痺させるようなつくりだった。まーきっと誰もこういう報道番組を「報道」として見ちゃいないんだからいいのだろう。
とにかくその中でクラブに通う女子高生かなんかが、インタビュアーに小さなプラスチックの容器に入った白い粉を見せていた。
「これ何?」
と聞くインタビュアーに、音声を変えられた女子高生は
「メルシー。」
と答える。
「これ飲むとどうなるの?」
「めちゃくちゃハイになって、ずっと頭振って踊ってる」
と彼女は笑いながら答えていた。
メルシー・・・。ふ〜ん、十代の間ではそんなふうに呼ばれているのかと思った。
この薬は試験用試薬(決して服用しないでください)として、FOXYという名前で販売されている。
女子高生は踊ると言っていたが、基本的にはラブドラッグ?というか媚薬的な作用を持っているものだ。
僕は二年ほど前、この薬をネットで見つけて、体験談などを読み、強烈な性的快感っていったいどんなものだろうかとひどく興味をそそられて1パケ購入した。 そして誰も一緒に使う相手がいないので、ある夜ひとりで使って見ることにした。
紙の上に1パケを(約2回分)をあけて、それを舌で全部なめた。かなり苦くて妙な味だが、ミネラルウォーターで口をゆすぐとすぐに不快感は消え去った。さあ、このあとどうなるのかな〜。と不純な期待にわくわくしている僕に、そのあと十時間ほども続く地獄を予想できる術はなかった。
@ 審判
服用後20分ほどすると、だんだん頭がぼーっとしてきた。
これはマジックマッシュルームでもペヨーテでもだいたいおなじみの導入部だ。
そして、たしかに体に触れると皮膚感覚が敏感になっているようだ。これでHすればたしかに気持ちいいだろうというのがわかる。僕は官能的な気分のままだらーっと床に寝そべっていた。あーん、もうどうにかしてっ!という気分である。
なるほど、これはすごい。
そう思って体をくねくねさせていた。
やがて僕は何かがおかしいという感覚を持った。
何かが行き過ぎている。
いったいなんだろう?心臓がどきどきと鼓動を打っている。
まるでコーヒーを5,6杯飲んだような焦燥感。
不吉な感覚に突き動かされて、僕は体を起した。
どく どく どく どく どく どく
と鼓動は続いている。何だ?何だ?何だ?
口の中がすーっと冷たくなっていくような感覚があった。ずっと昔、小学校の体育の時間急に激しい運動をしたときのことだ。あの時僕は目の前に光の点がたくさん現れて、やがて視界を覆ってしまった。そして唇が紫色になった。
光の点こそ現れていないものの、そのときの感じと似ているような気がした。
そう考えた、刹那だった。
否定しようがない確信が、くさびのように僕のこころに打ち込まれた。
「薬が多すぎたんだ。僕は今そのショック状態で、死につつあるんだ。」
生まれてから今まで感じたこともないほど強烈に僕は、今まさに死んでいこうとしているという感覚を感じた。
生命が自分の体から抜け出していく。僕の人生はこれで終わりなんだ。今までいろいろ悩み苦しんできたけど、死はずっと遠くにあるものだとばかり思っていた。でも・・・今こんなくだらないことで僕はこの人生を終えようとしているんだ。
いやだ、死にたくない!いやだ!いやだ!
僕は部屋の隅に転がっていた携帯電話を手にとって、自分の部屋の外に出た。救急車を呼ぼうと思ったのだ。頭の中に一瞬ドラッグを大量服用して病院に担ぎ込まれたろくでなしのどうしょうもない若者、というイメージが浮かんだがかまうものか。命にはかえられないではないか。夏なので隣の部屋は入り口の戸は開け放たれていた。そこに部屋の中からの電灯の光がオレンジ色に映っている。あの部屋に助けを求めて駆け込もうか・・・。
体が冷たくなっていくような感覚は何度も何度も、波状攻撃をかけてきた。僕はそのたびに携帯電話を握り締め、救いを求めて隣の部屋の明かりに目をやった。
だが、そんなことを繰り返しているうちに、おぼろげな洞察がやってきた。
これは、実際に体がおかしくなっているんじゃなくて、全部恐怖と不安が異常に高まっているからではないのか?
体の調子が良くなったり悪くなったりしているんじゃなくて、不安と恐怖がつよまったり弱まったりしているんじゃないのか?そのような洞察がやってきたのは、単に薬の効き目が最初の峠を越えたからかもしれない。
とにかく少しだけ余裕が生まれた僕は、その不安を観察してみた。するとやはり体の異常は、薬によって以上に敏感になった知覚がちょっとした温度の変化や、心拍数の増加を過敏にとらえ、それが不安と結びついて「死の恐怖」が発生しているように思われてきた。その恐怖がまた冷や汗をかかせるという悪循環・・・。
だが一度は思いついたその考えにも確信がもてたわけではなかった。
なんといってもリアルなのは圧倒的な不安と恐怖と、終焉の気配なのであり、それにくらべたらその「悪循環理論」もかげろうのように現実味がなかった。
一度は落ち着いて部屋の中に戻ったかと思うと、またすぐに「今度こそ死ぬ」という理不尽な確信をいだき、携帯を持って部屋の外に出る・・・・そんなことを5,6回は繰り返しただろうか。
僕はぼんやりと「今僕は完全に頭がおかしくなっているな」と思った。
つらくてつらくて仕方なかった。
僕は神様に祈りさえした。
「たすけてください。お願いします。たすけていただいたらこの体をすべてあなたにささげます」
と念じた・・・。
A Eye of the God
「人間なんて同じようにこの世界で生きているって言うだけで、みんな同じだよな。仲間だよな。」
テレビの野球中継をぼんやりと見ながら、僕はそんな風に思った。
死の恐怖を強烈に感じた僕には、生命というものがすごくあたたかい連帯の中に結び合わされているように思えた。だから普通ならただの他人としか感じない、プロ野球の選手や、スタジアムを埋めた観衆がとても自分に近しい人たちであるように感じられた。みんな同じように生きていて、やがて死ぬからである。
直接的な不安感はひとまずおさまっていた。とりあえず救急車は呼ばずに済みそうである。
しかし、Foxy二回分の作用は3,4時間で抜けていくほど甘いものではない。
僕はちょうど額の第3の目のあたりに、さっきからぱっ、ぱっ、ぱっと青い閃光が点滅していることに気付いた。この光は瞑想しているときに見えたこともあるが、もっともっと強烈だった。ばち!ばち!ばち!とそれにあわせて僕の目に映る世界自体が点滅しその存在を揺らがせているように思えた。
こりゃ、完全に狂っている。いつか僕がおかしくなることがあったら、それはこれが原因に決まっている。
と思った。
なぜそんなことをしようと思ったのかはわからないが、いつの間にか僕はチベット密教のマントラの入ったCDを聞きながら体をぐるんぐるんと旋回させていた。
このCDは誘導瞑想用のCDでマントラと誘導の声が交互に入っている。全部で15分ほどの長さのものだ。僕はそのマントラの部分だけをリピートして何度も何度も聞いていたようだ。
そして目を閉じ、あぐらをかいてそれに耳を傾けていると、体が勝手に旋回を始めるのだ。
目を閉じている僕の目の裏に様々なイメージが見えた。
大きな骸骨が、広い畑の上を這い回っている。それは僕にとってなにか忌むべきものだった。僕は目を閉じながら虹色の光線をその骸骨に向かって放射していた。
僕はいつもの僕ではなく、白い布を頭に巻いた、どこか北のほうの国の(アイヌか?)シャーマンの老婆だった。
やがてその旋回運動を続けているうちに、僕は宇宙の中を漂っているような気分になってきた。
生きること自体が旋回運動だった。
その中に生があり、死があった。
そして人間の生と死を神々が管理していた。今マントラを唱えているその人は、人間でありながら神の化身だった。神々が戯れる巨大な宇宙のなかでその人は人でありながら大きな役割を果たしていた。
その圧倒的な宇宙の力、宙と星の間に吹く風になぶられながら、僕の体はただひたすらに、決められたコースを周回する微小な隕石のように旋回運動を続けるのみだった。
僕は何も知らないんだ。まったく何一つとして。だから神とか魂とか生命について語る資格なんかありはしないんだ。
自分がとてもちっぽけで、無知で傲慢な存在になったかのようであった。
宇宙の中心、銀河のはずれに巨大な目が見開かれていた。
その目を中心としていくつもの手が放射線状に伸びていた。それは意識を、魂をつかもうとする神の手だった。
目は恐ろしいまでに絶対的で、リアルで、聖なるものだった。聖なる恐怖という言葉がまさにぴったりと来る。
その手は今、まさに僕のいる場所まで伸びて、僕を捕まえようとしていた。

B すでに僕は神なのかもしれない
少々疲れてきた僕は、寝転んで横に置いた鏡をじっと見ていた。
鏡に映った僕の顔はいつもと違っていた。一言で言うと、魔神系だった。ジンだ。背後に燃え盛る青白い炎を背負っていると似合いそうなそんな形相をしていた。
僕は悪魔だ。人間は悪魔と神の両方の性質を兼ね備えているから、今は悪魔としての僕が見えているんだ。そんな風な妄想が起こった。自分の表面の皮膚がさけて、その内側から真っ黒い毛に覆われた悪魔が飛び出してくるのではないかと思った。
それと同時に、「悪魔」と言う概念は人間が考えたものであり、それはずっと心の奥に元型として存在しているのだと思った。
この世界において絶対的にいいものとか、絶対的に悪いものは存在しないはずだ。だが、自我には自分を脅かす存在・絶対的な他者といったものが実在すると言う確信があるのだろう。だから悪魔は人間無しにはありえないのだ。
結局ぼくは自分が何を信じているのかわからなかった。悪魔は観念の産物だといいながら、それは確かに存在するように感じていたと思う。
僕は鏡を見つめ続けた。
あるときには、だんだん思考がうつろになってゆき、眠っているのか、気絶しているのか、なんだかわからない意識状態で口を半開きにして、舌を出して、なかば白目をむいていた。
そんな時ふっと意識が一瞬正気に戻り、そのいかれた顔を見て、こりゃ完全に薬中だと思ったりした。
そんなことをしているうちに、僕は自分が神であることに気付き始めた。(笑)
どういうことか説明しよう。
そのらりらり理論によるとこうなる。
人間はすでに神なのであるが、人間の心はそれを把握できないのだ。
へーお前神様なんだー。とこれを読んでる人は呆れ顔でいうかもしれない。いかにも。だがこの、僕は神であるといっている僕が神なのではない。
人間は自我意識が働く術もない0.0000000000001秒の間、誰もが神になってしまうのだ。
自分が誰かもわからないそのような極微の時にはエゴは存在しない。何十年か未来ではなく、今この瞬間の極微の時間に人の自我は死んでいる。その自我の死という破れ目から神があふれ出すのである。純粋な存在性が。
以上が人間は神であると言う、僕の理論だ。その時は疑いようもなく真実に思えたものだった。
C 深淵の闇
時間はそろそろ午前2時を回ろうとしていたように思う。
最初に白い粉を一なめしてから、もう7時間近くが経過しようとしていた。
思えばこのトリップで僕はいろいろなものと遭遇した。
死の恐怖に、神に、悪魔。考えてみればそれはすべて僕の心の中にあったものだった。人間の無意識にはこれだけ多くのものが眠っている。
ユングは確か、分裂病の患者がよく神話的なモチーフの妄想を描くことから、人間の精神には共通の認識の枠組みがあるのではないかという理論を構築した。それは集合無意識と呼ばれている。その人類に共通の集合的な無意識のなかで人を動かしている主要な観念を元型(アーキタイプ)と呼んだ。
アニマ(男性の中の女性像)にアニムス(女性の中の男性像)、グレートマザー(太母)、シャドウ、トリックスター、老賢人などが有名だ。例えば人は恋をするときに、女性なら自らのアニムスを、男性なら自らのアニマを相手の女性に投影するのだ。そのようにして自分のイメージに対して恋に落ちるのである。実際の恋愛を経験することは、自分のなかのアニマやアニムスと接触し男性性と女性性を統合していく過程であるとみなされる。それをほったらかしにしておくと異性という元型は抑圧されたもの、シャドウと化してしまう。
ユングの理論を生半可な理解で解説しようとしているので、ちょっといっぱいいっぱいになってきたが(笑)とにかく!人の心には認識の枠組みというものがあらかじめ与えられているのだ。そして、神や悪魔とはちょっとでも理性というたががはずれると誰でも確実に遭遇する。大槻義彦みたいな、がちがち科学主義者だってそうだろう。なぜなら、それはこころの装置の一部としてすでに存在しているからだ。大槻教授が生まれる何万年も前から。それを原始人が危険に満ちた世界に対していだいた恐怖や、畏怖の念の名残といおうとなんと言おうと、表層の意識でいくら科学主義を気取ったところで人間はいまだにそれらとともに生きているのである。ちょっと理性を解除すればすぐに神様と悪魔に会えるのだ。(まあ別に会う必要もないけど)
しかしでは、すべての認識の形態を規定する元型が存在するとするならば・・・。その元型はどこから生まれたのだろうか。それも結局は化学&生物学的な限りなく複雑な作用から出現したに過ぎないのだろうか。
人間がみんな何万年も何千年も神様、神様といってきた。その観念によりこころの平安を得ることもあったが、その概念が原因で多くの相互殺戮が起こった。
死んだら肉体とは別の魂と言うものがあって、生まれ変わりを繰り返していく。
世界各地に同じように見られる、輪廻転生という思想。
これらさえ、結局はDNAの塩基配列から生まれたものに過ぎないのだろうか。生きることを楽にするために、生命維持の方便として・・?
もしそうだとすれば、僕達は自分のこころという牢獄に無意味に幽閉されていることになってしまう。
僕の前に突然深い、深い闇が開けた。
そこでは存在するのは僕の思考だけだった。
僕の思考と言う妄想が、万物の存在を存在させていた。
人間という生物としての知覚&思考という真実とは全く隔絶した妄想。
僕はその中にたったひとりで幽閉されていた。
僕の思考の外側にはなにも存在せず、虚無があった。
他者もまた僕と言う知覚形式が生み出した、妄想に過ぎない。その証拠に違うことを考えると・・・ほら、もう消えてしまうじゃないか。僕がなにかを考えるたびに、その前に考えていたものは完全に消滅してしまう。思考と言うのは異常だ。いろんな宇宙を次から次へと飛び移りどこにも落ち着かない。
そしてその思考の外側には虚無が、深淵の闇が広がっているのだった。
圧倒的な孤独が襲ってきた。
それはすさまじかった。
存在そのものが苦痛だった。
僕は恐怖という、無意味な点・ドットだった。
・
僕はなにともつながっていなかった。その結果として、愛情と生命がひたすら恋しかった。

補足(1):こんなひどいトリップをしたにも関わらず、このあと数回同じようなバッドトリップを体験することになる。きっと潜在意識のどこかで一種の地獄を経験したかったのだろう。そうとしか思えない。
加えて、人には見せられないようなマスターベーション的行為の乱痴気騒ぎへの誘惑が大きかった。
ということでFOXYというドラッグは僕の中では完全に「性と死」のドラッグだ。
オーバードーズした時には天使がたくさん飛んでいるような、あの世的イメージがたくさん現れた。
中でも印象的でもあったのは、夕暮れの丘に真っ黒な犬達が輪になって集い、空に向かって吼えているというイメージだった。
犬、というのは集合無意識の中では異世界への境界の番人であり、「死」とも密接に関連しているようだ。
タロットの愚者というカードで、愚者の尻には犬が噛み付いている。愚者というのはこの世界で所有したものをすべて捨て去り、違う世界へと旅立つ人間の象徴であると言う。
また、エジプトで死の神とみなされているアヌビス神もやはり山犬の頭をしている。
補足(2):得体のしれない不気味さ。
オーバードーズするといつも理由のわからない不気味さ、やりきれなさを感じる。
ブラウン管に映る、「えなりかずき」がとても不気味な猿の化け物ののように見えた。いや、見えたというよりもその時僕はえなりかずきは一種の化け物であると考えていた。
自分の頭の中にはウジ虫が詰まっていると感じる。あるいは世界全体が微小な虫の束で構成されていて、それが虚空に分解して崩れていくと言うおぞましいイメージ・・・。
外出すると眼に映るもの一つ一つが精神病的な不安を掻き立てる。ちょうど道路工事を夜中にやっており、ごーんごーんという何かを打ち付けるような音が響いていたが、それがまるで地獄から聞こえてくる音のように思える。
救いようもなく世界全体が変わり果てている感覚。
あれは潜在的な統合失調症が一時的に表面化したものではないかとさえ思う。
補足(3):潜在意識の狂気。僕は壊れた動物としての自己を見たように思った。フロイト的な潜在意識の狂気。
あらゆる殺意と性と、倒錯を一瞬のぞき見た。
補足(4):最後にも書いたが、このようなバッドトリップにも肯定的な側面がある。
いや、それどころか単純に楽しいトリップよりも有意義でさえあるかもしれない。それは実人生という名のトリップにおいても苦しみによってより多く学ぶということと相通ずるものがある。
眠れない地獄のような夜が終わると、僕は自分自身を本当に大事にしなければならないんだと思った。
死への衝動を発見したと思った僕は、必死に自分自身に対して「生きていいんだ、生きていいんだ」という言葉を繰り返し、それを出来るだけ深層へ刷り込もうとしていた。
U ハワイアン・ウッドローズの場合
ハワイアン・ウッドローズは、サルビアやマジックマッシュと同じように天然の植物だ。
その構成成分はLSDに非常に似ていると言われており、ネット上では比較的安価に購入することが出来る。しかし、安いのにはやはりそれなりの理由というものがある。ひとつひとつの商品によって品質にばらつきがあるらしい。それと嘔吐感などの副作用が激しい。僕は二回試してみたことがあるが、一度目はとても天国的だったが二度目は最悪のゲロゲロ地獄だった。それにFoxyで体験した激しい死の恐怖が蘇ってとても恐ろしい思いをした。なんか人間の思い通りにならない植物の妖精といった感じで個人的には好きなキャラクターなのだがゲロゲロとパニパニはいやなのでそれ以来使っていない。
ただ、一回目に使ったときは全く予想もしない方向に飛ばされてしまい、なおかつとてもハッピーになったのでそのときのことを書く。
@ そのままでいてもいいのかもしれない
ウッドローズは効果が現れ始めるまで、少し時間がかかった。
一時間近くたってもぼんやりするほかは何も起こりそうもないので、退屈してきた僕はまだ残っていたFoxyも一緒にキメてやるかと考え始めていた。
僕は鏡を持ってきて、また自分の顔をのぞきこんだ。鏡を使うとしらふかそうでないかがとてもよくわかる。少しでもきていると自分の顔がいつもと違った様子に見える。そのときも自分なのになんだか見知らぬ人のように思えたから効きはじめているのがわかった。ので、Foxyを追加するのはやめておいた。
目を閉じると、そんなにクリアーではないが、幾何学的な形や色が見える。しかし、あまりにもだるく、ほとんど眠気と紙一重でこのまま眠ってしまいそうだったので、布団を敷いてその中にもぐりこんだ。
ごろごろだらだらとしているひとつの考えが僕の中に起こってきた。
(本当は、なんにもする必要なんかないんだよな〜〜
あれしなきゃとか、これしなきゃとか、心の中にある焦りは全部外側から刷り込まれたものだったんだ。
だから僕は別にこのままでかまわない。このままで完全なんだ。そうか、なるほどね〜)
とひとりで納得していた。なんにもしなくて、存在するだけでよいという発見は新鮮だった。
(焦りからいろんなことをやろうとするから、争いが起こるんだよなー。このままの自分じゃいけないと思ってる人がお互いに無言で相手
を責めて 暗黙の了解でそのままじゃいられない空気を生み出してるんだ。だから、会話がなくなるとみんな必死に話題を探すだろう?
あれだって沈黙という「そのまま」を嫌っているからなんだよなー。)
A ゴルゴダ
体を起して、目を閉じ、ぼーっとしているとやがて脳裏にあるイメージが浮かんできた。
それはキリストだった。そしてその像に対してふたつの感情が沸き起こってきた。
ひとつは思慕の情で、もうひとつは悔恨の思いだった。
僕はその人をとても慕っているのに、その人にとてもひどいこと、悲しませるようなことをしてしまったような気がしてきた。不思議だった。僕はクリスチャンでもないしそれまで取り立てて、イエスに興味を持ったこともなかったと思うのだが・・・。
いや、そうじゃない。ともう一人の自分が言った。
僕はキリストへの愛情を抑圧していたのだ。
僕はキリストを深く愛しているのに、その感情に気付かない振りをしていたんだ。
でもどうして?
それは危険だからだ。考えても見ろ。抑圧と言う自我防衛機制を。人は自分自身に認めると危険な観念を抑圧するだろう。ビクトリア朝時代のイギリスではそれは「性」だった。「殺意」や「妬み」や「許されぬ愛情」やその他無数の感情が抑圧されてきている。それらを認めてしまうと人は今までの自分ではいられないと言う強い、本質的な不安を感じてしまうんだ。人は違う自分に変わることをもっとも恐れている。それが一番の危険なんだ。
キリストがあらわしているものはなんだ?それは愛による自己犠牲だ。そしてキリスト教の教義で言えば、神自身が人間への愛ゆえに人間を救済するために、人として生まれ、人に殺されたと言うことになる。
もし僕がキリストを心から愛せば、その巨大すぎる愛を認めることになってしまう。
僕はそれを認めたくはなかった。
愛による自己犠牲。考えてみればそれはキリストではなくても、多くの人がおこなってきたことだ。
僕はそれを認めたくなかった。
なぜなら、それを認めると僕自身が象徴的な意味で十字架にかけられる危険が出てくるからだ。
なんと、僕は愛を認めたくなかったのだ!
それはなんとしても映画やドラマの中だけのことにしておかねばならなかった。「現実」にそんな化け物が進入してきてはならない・・。だから僕はキリストを心から愛することは避けてきた・・・。
そのような認識が一瞬の間に僕の内側に出現していた。
しかし、それは僕だけではない。無数のキリスト教徒にとってもそうであった。彼らは祭壇に十字架をまつりあげ、それを敬ううと言うかたちをとり、キリストの犠牲をありがたがることで自分自身は常に安全な場所にい続けようとした。愛ゆえに死ぬなどと言うことは彼らにとって問題外だった!
キリストは恐ろしいほど孤独だ。しかし、自分を理解できない人間への慈悲に溢れている。
人間はずっとゴルゴダにいる。それは歴史的な一事件ではありはしない。その場所は人の心の奥深くに存在して今もそこでは処刑がおこなわれている。キリストは僕達のハートの中で今もはり付けにされている。愛だ。僕達はキリストであり、処刑吏であり、その周りに群れ集う物見高い群集だ。「本当の自分」が殺されているのに、自分には全く関係のないような顔で見物している。
僕は今もゴルゴダにいて、殺されるキリストを黙認しているのだ!
それが僕の強い悔恨の理由だった。それが僕の感じるすべての罪悪感や自己嫌悪の源にあった!(ように感じた)
僕は「そうか愛だ!愛!愛を遠ざけていたことが僕にエネルギーが足りない理由だったんだ!」と一人でつぶやいた。
そして今もキリスト教系のなんらかの存在に導かれ、縁していると思い込んだ。
母が洗礼を受けていること、昔住んでいた家の隣が教会であったこと、僕が最初にヒーリングしたお客さんがクリスチャンであったこと・・ウッドローズの魔法にかけられている僕にはそれらのすべてが全く必然的なことだった。
すべてに意味があったんだ!
・・・・・・・翌日にはそれらのすべては現実味を失っていた。しかし、僕があの時考えたこと、その洞察はそれほど間違っていただろうか・・・。十字架はなんとなく自分に近しいような気が今でもするのだが・・・。
その後ひどく人間関係で落ち込んでいたときに、十字架上のキリストの姿を黙想したことがあった。
するとこんな考えが浮かんだ。
「人間性で傷つく必要はありはしない。人間性はその盲目性ゆえにときにもっとも神聖で、愛すべきものを殺してしまうことがあるのだから。だから人間性にどう扱われようと気にする必要はない。キリストはすべて、人間性に傷つく人の救いなんだ。」
そう思った。
V ペヨーテの場合
『中世後期の芸術様式を基に作曲している反宗教改革派精神病患者の風変わりな作品に耳を傾けながら、私は何かいわなければならないと感じていた。・・・「でもジェズアルドがばらばらの細切れであることが問題なのではない。全体は分裂状態にある。ところが個々の断片には秩序があり、それぞれ(高次の秩序)を表している。(高次の秩序
The Higher Order)が分裂のなかでさえ支配している。・・・』
『メキシコやアメリカ南西部のインディアンと原始宗教にとって、このサボテンは大昔から親しい友人であった。新世界を訪れた初期のスペイン探検家の一人はこういっている。「土地の人はペヨトールと呼ばれる根を食べるが、彼らはそれを神のように崇めている」』
知覚の扉 A・ハクスリー
ペヨーテによるトリップが、とても強烈なものになることを僕は予感していた。
何冊もの書籍で、インディアンから神聖なサボテンといわれているペヨーテと、そこに含まれるメスカリンという化学成分が生起させる意識の変容作用について読んでいた。覚せい剤や、コカイン、ヘロイン、LSD、マリファナ、MM、アルコール、ニコチン、カフェインなどなど意識に作用を及ぼす化学成分は数多いが(ただの砂糖だってそうである)僕にとってメスカリンとLSDはやはり別格という気がしていた。これらには単なるレクリエーションドラッグでは片付けられない、本当に「神聖な」気配がつきまとっているようだ。
だから、必ずいつか僕はこれをためすことになるだろうと随分前から思っていた。
渋谷のとある、某所でぶつを入手した数日後の夕方、僕は乾燥したサボテンを砕いて、少しづつミネラルウォーターで飲み下した。手元にはテープレコーダーを用意し、変わった経験をしたら逐一録音していこうと思った。
@ ありがとう、ごめんなさい
砕いたサボテンは硬くて、ごつごつしており全部飲み下すだけでも一苦労だった。飲み込んでる途中でのどに刺さって、冷や汗が出た。どうにかこうにか全部胃に収まるまで30分はかかっただろうか。
それから更に30分ほどたつと徐々に、だるさがやってきた。
僕はアンリ・ミショーの「みじめな奇跡」という超分厚いメスカリン体験についての本を図書館から借りてきていた。そこにメスカリンを摂取したときに起こる主要な現象として、「意志力の減退」というのがあげられていた。
確かになんだかだら〜〜〜んとしてきて、体中がひたすらだるい。
そろそろ服用後一時間ほどたつだろうか。ただだるいだけでこれといって変化はない。
なんだよ、サボテンも思ったほどたいしたことないんじゃねーの?・・・という思いが頭をかすめる。
僕は少しコンディションを変えるために、自転車に乗って近所を一回りしてくることにした。まあ、まだそこまで効いてないから自転車に乗るくらい大丈夫だろう。
街は特にいつもと変わりないようだった。ただ何かが変だ。まわりのバイブレーションが全く感じられない。気配?というのだろうか。視覚にも聴覚にもなんの問題もないんだけど、外部のリアリティーがものすごく希薄になっているように感じた。
「みじめな奇跡」に「世界が退却」していくような感覚と言う表現があったが、このことかもしれないと思った。
部屋に戻ると、ぐてっとまた畳の上に倒れこんだ。
そろそろ日が落ちて、部屋の中も薄暗くなってきていたが、電気もつけずにただ寝そべり続けた。
「なんにもする気にならへん!これええんかいな〜?」
という関西弁丸出しのぐちがカセットに残っている。きっと半端じゃないだるさだったんだろう。しかし今思えば、この無気力状態にこそ意味があるのだが・・。
しかし、そうこうしているうちに僕の頭は徐々にトビ始めてきていた。この時点ではあんまし自覚していなかったが。僕はキリストの死についてレコーダーに向かってしゃべり始めた。
「キリストにとってはキリスト自身は一個人でしかなく、人間が人間を殺す、無知によって目が曇った人が一人の人間を殺すと言う意味しかなかった。」
多分、エゴというものにとらわれていないキリストにとっては、「自分が殺される」という自我にとっては最大の悲劇が普通の人間とは全く異なって映っていたのではないかということが言いたいのだろう。キリストにとっては「自分が」殺されているから悲しいのではなく、人が人を殺しているから悲しいのではないかと思ったのある。再度言うが僕はクリスチャンではない。聖書もほとんど読んでいない。ただ深層にはかなり深くイエスというイメージが入っているのだろう。それに続いて・・・
「俺自身も一個人でしかないわけで・・他の人間より自分が重要だと思うのはエゴでしかない。そういうことを考えると夢の中で生きているような気がする・・・」
別の人から見ればただの一人の人間に過ぎない、この小さな「自分」というものが僕の側から見るとどうしてこれほど大きく、特別に見えてしまうのか?街に歩いている全ての人がこの「自我」という幻想の中に生きている。とても当たり前になっているこの自己中心性が一種の夢であることをぼんやりと認識した。
今思えばこれらふたつの録音にこれから始まるトリップの方向性が兆していた。
部屋はほとんど闇に没し、外からの常夜灯の光だけがほのかに周りを浮かび上がらせていた。
視覚的な変化が徐々に起こってきた。
録音をおこなっているラジカセに電源が入ってることを知らせる、小さな赤い光。
それが闇の中でとても美しく、不思議に見えた。
ぽとんと地面に落ちる前の線香花火の最後の一粒のように。
いつか図鑑のイラストで見た、赤色巨星(年老いて赤く膨れあがった恒星)のようにそれは見えた。
「なぜ全てを忘れているのか。それは恵みなのか、罪なのか、ルールなのか・・・」
心の中に得体の知れない寂しさがあった。
なにに対する寂しさなのかわからないが、とにかく孤独で仲間と離れていて、悲しかった。
涙が出てきた。
よくわからないが、この感情を言葉にして残しておこうと思い、鼻をすすりながら録音ボタンを押した。
「もといた場所に帰りたい・・・最初はみんな一緒だったのに、ひとりひとり別々になって・・・もといた場所に帰りたい・・・もといた場所。」
その後どういう経過をたどったのかは定かではない。
祖母のことが頭に浮かんだ。
祖母は約7ヶ月の寝たきりの生活のあと、10日ほど前に亡くなったばかりだった。
祖母の具合が悪くなり始めたのは、亡くなる一年ほど前からだった。
実家は京都なのだが、そのころ僕は高知にいた。
大学はもう卒業したので、そこにいる必要はなかったのだが実家に帰りたくなかったので、学生の頃住んでたアパートに残っていた。就職もしておらず、バイトもあまり出来ず、将来が全く見えない精神的その日暮しを続けていた。
そんな時に母親から祖母の介護の手伝いをするために帰ってきてほしいというメールが来た。
僕はその年の11月から年が明ける頃まで、介護のお手伝いをして、翌年の春に東京にでてきた。
祖母の看護は仕事をやめた母が実質的に一人ですることになった。
僕は東京でなんとか生計をたてて行くことに精一杯で、家の事は気になりつつも祖母が危篤状態になったという連絡が来るまで一度も実家に帰らなかった。
あわただしい帰省と、葬儀。その間も僕のこころはどこか麻痺したようにうつろで、強い感情は感じなかった。むしろ僕はことが早く終わればいいと、そればかり思っていた気がする。病院に見舞いに行ったときも、意識もなく苦しげにうめく祖母をみて、早く楽になってほしいと思った。そして葬儀のときも・・・。魂の存在を信じてはいたし、祖母はどこかに意識をもって存在していると思ってはいたが、この世での別れという儀式に臨むにしては、僕のこころは淡々として冷めており、現実を現実として見ていなかった様な気がするのだ。なぜそれがそのようであったのか・・・。
僕は親戚やいろんな人と接するのに疲れてしまった。通夜のあとで大酒を飲み、僕に説教を始める親戚のおっさんに我慢できずに、ブチキレて黙って席をたった。自分が儀礼的なこういう場でしっかり振舞えないような気がしていたし、両親がそういう僕を情けなく思っているような気がした。もとより僕にとってはゆっくりと祖母を偲ぶという環境ではありはしなかった。
だが、どこかで僕の祖母に対する感情もそれ以上のものではないのではないかと思っていた。
確かに僕の両親は共働きで、幼い頃昼間は祖母に面倒をみてもらっていた。
しかし、成長するにつれて僕には僕の世界が出来・・・・そして祖母も年老いるに連れて同じようなことを繰り返し、繰り返し、しゃべるようになり、僕はいくらかうんざりしながらもお年玉だけは大学生になってもちゃっかりもらっていたりした。感情が死ぬのは仕方ないではないか。小さい頃全能に見えた両親も、それぞれの心理的限界を持った人間だと言うことが見えてくるように、幼い頃の折り紙をして遊んでくれたおばあちゃんは今はもう痴呆気味の、会話するのに骨が折れる老人となる。お年寄りを気遣って優しく接することは出来ても、心はそこにはいない・・・。
仕方がないではないか。
しかし、今ペヨーテを食べた僕の中には祖母が、新しい姿で甦っていたのだ。
今まで感じなかった感謝の思いや、すまないと言う思いやいろんな思いが一時にあふれ出した。
祖母は創価学会に入っており、朝と夕方には欠かさず仏壇の前でかかさず勤行をあげていた。僕たち家族は(少なくとも僕は)祖母のその習慣を一種の趣味と言う目で見ていたような気がする。祖母がそこにこめていた「祈り」の気持ちを理解していなかった。なぜそれを理解できなかったんだろう。祖母は家族全員のために毎日祈っていたのかもしれないのに。それが僕にとってあんまり好きではない団体という媒介を通そうとも、その「祈り」だけは本物なのに・・・・・。すまないという気持ちでいっぱいになった。涙がぼろぼろこぼれ落ちて止まらなかった。
僕は祖母が亡くなるまでのこの一年ほどのことを思い返してみた。
きっと僕は祖母が病気にならなければ、実家には帰っていなかったかもしれないな。あの時帰らずにそのまま東京にでも行っていたら・・・家族との距離はもっともっと開いていたかもしれない。祖母の病気と言う、あまりよろこばしくはない事態が一種の磁石のように僕を家に呼び戻した・・・。それは本当に偶然だったのだろうか?
いや違う。少なくともサボテン目線の僕からはそれは偶然ではない。僕は帰らなければならなかった。でも僕には帰る意志がなかった。だとすれば?帰らざるを得ない状況が必要だ。
だから祖母は病気になってくれたのだ。自分の肉体を苦しめることで、僕が家に帰るきっかけをくれた。
もちろん、これは僕と祖母との関係のみに限って話している。しかし、祖母と母の関係、祖母と父の関係、祖母と弟たちとの関係、そして祖母と世界自体との関わりにおいて、祖母がぽっくりと楽に逝かないで、病気になるということは何かしら意味があることだったのかもしれない。 だから祖母はそれを引き受けたのかもしれない。
でもそんな先読みした判断で病気になることなんて人間にはできない。
どのような死を選ぶか、その選択をしたのは、祖母の霊なのである。表層的な人格を超越した、より高次の自己だ。
といっても死んだあとの霊、ではない。そういう霊(人格)は死んだあとに迷ったり、後悔したりする可能性がある。迷ったり、後悔するのは全て無知ゆえに起こる。しかし、もっともっと本質的な、神に近い部分は全てを知っている。
僕はその時に、その「霊=高次の自己」の存在を確信していた。
人間は、その神の意のままの、霊の意のままの生を生きているのだ。それは全て完全な愛ゆえの生き方であり、死に方だ。だが僕たち「人格」の方見ると、大きな目的や愛が見えず、不幸な人生と幸福な人生があるように見えてしまう。
もしそうならば・・・もしそうならば・・・この世界で起こることはどんなにひどく見えても全て意味があり、愛ゆえに起こっている。ひどい犯罪者や殺人者の霊は愛ゆえにその役割を引き受けている。いったい善とか悪とかはなんなんだ?それは短期的な視点に立ったときのみいえる概念ではないか。
いいことをしているように見える人は本当にいいことをしているのか?悪いことをしているように見える人は本当に悪いことをしているのか?
神は霊を動かし、霊は「人格」に働きかける。全てこのままで完璧におこなわれている。
「そうなろうとして病気になったわけではないし、でもその結果としてなにか結びつけるような作用が起きるとしたら・・いいことをしようと意図しないで、いい結果が起こるとしたら・・・・その人の本当の姿って言うのは誰にもわからない。現実に見えてるものじゃないんだ。だからもっともっと広い視点で考えたら・・・俺だって、他の全ての人だってそう・・神聖な存在なのかもしれない。だから表に表れる行いだけで人を裁いてはいけない・・。みんな目に見える以上の存在なんだから。
間違ったことをしているように見えても、その人の本当の姿って言うのはもっと別のところにあって・・いい意図の下で間違ったことをしているのかもしれない。だからみんな・・・神聖な存在」
「そうだとすれば神になるんじゃなくて、最初からすべての人が神である・・・・」
僕の想いは祖母から家族全員に広がっていった。
子供の時、僕は父と母がとても好きだったような気がする。
それがいつからだろうか・・・薄いフィルターが家族と僕との間に出来て、僕は感情的に家族と自分とを切り離していた。それはぼんやりとした像へと変わっていった。だがその時心の目にはみずみずしく生まれ変わった家族全員の姿が映っていた。
僕はその時、全員を尊敬し、愛情を強く感じた。
「家族ってもといた場所、なんだよな・・・こころを閉ざしてしていたのかもな・・いつからかわからないけど、自分が心を閉ざしていたのかな。もといた場所・・・・もといた場所は家族。みんな俺よりずっとすごいんだ。みんなずっと・・Yもすごいし、、Kも(二人の弟)すごいし、お母さんもすごいし、お父さんもすごいし、みんなすごい・・・すごかった。みんなすごいんだ・・・・」
みながそれぞれの「痛み」を背負い、その痛みの強さに応じてそれぞれの存在は高貴で、神聖であった。
霊は偉大だった。
A愛のためなら
僕は窓辺にもたれていた。雨が降っていて、常夜灯が雨粒を美しく輝かせていた。
愛と調和のためなら死ねる、と思った。
B エゴのある場所
僕の体は力を抜いていると、自然に動き始めるかのようだった。それは肉体そのものの、意志のようだった。流れに乗って、逆らわずに・・・動き続けることはとても気持ちがいい。僕はそれを見ているだけだ。エゴの機能のひとつは人に「自分がなしている」ということを思い込ませることにあるという。ペヨーテは自我を徹底的に弱体化させる。そうであればこそ、弱く弱く、いられればこそ世界は美しく見えるし、人を愛することが出来る。
そしてこの「エゴ」もまた今・ここにしか存在しない。川に浮かぶ泡のようなもので・・・一瞬前には存在せず、また次の瞬間には消えている。
C 僕の『知覚の扉』
ハクスリーはメスカリン摂取実験で、日常的な家具や植物に存在の美を見た。
僕もそのようなトリップを期待していたが、僕の場合それが人間に向かって作用したようだった。そのわずかな時間の間、他人と僕を隔てている見えないバリアが消え、 僕はいささかも人に対する疑いや不信や嫌悪のない状態に復帰していた。それはある意味で当たり前すぎるほど当たり前の状態であった。天国とはこれに似た「状態」に違いない。ひとりひとりの喜びや苦しみがわがことのようにリアルに感じられた。そして全ての人の本質は愛であると感じた。とても清らかで、すがすがしい世界だった。
「もの」に対しても若干知覚の変容は起こった。
時刻は深夜に近づき、腹が減ったのでカップラーメンを食べようとしたときだ。
袋に入ったラーメンの具に乾燥したコーンの粒があった。
それがとても重要な意味がある、未知の存在に見えた。
実際にその乾燥コーンの粒は未知の存在なのだ!
それは生命なのだから!
誰にも理解不能の凝縮したエネルギーだ。
生命っていったいなんなんだ?このすばらしい感じはなんだろう。
「なにが見えるかなんてどうでもいい。何も(特別なものが見)えなくても、一粒の砂の中にも世界があって、一輪の野の花にも天国があるのだから。多くを見る必要はない。ただ、すくないものあたりまえのものを完全に知ることが出来たら・・」
「オルダス・ハクスリーが知覚の扉って言った意味がすごくよく理解できるな・・・。言葉の意味をなにひとつ理解せずに生きてるとか、生命とか使ってたんだよな。あらゆるものから目を閉じているっていう感じがすごくする。なんでこんなに限定された世界の中に生きているんだろう・・生命とか命とかなにもわかっていない。知りたいな・・・知るもんじゃないのかな・・・知りたい」
神秘〜AM0:45〜
「午前零時四十五分。そろそろ、しらふ意識復活の兆しありです。目の前にろうそくがひとつ燃えています。根元が青くてとてもきれいな光です。燃焼の微妙な動きが、風に揺れる炎がひとつひとつの動きがすごく微妙なところまで観察できて美しいです・・・」
補足(1)
「このトリップは完全にエゴと全体性についてのトリップでした。その内容は出来る限り録音するようにしたけど、言葉でいいあらわすことが難しい・・。」
補足(2)
「神聖さという言葉の意味を初めて断片的にでも知った気がする。人間は間違いからしか始めることは出来ない。G・I・グルジェフ・・・間違いからしかはじめられないっていうのは・・結局あの海に潜った塩の人形みたいな話でエゴの増強を求めてする行為が逆にエゴの消滅につながったり、そしてその求めてなかったはずのことにもっと幸福感を感じる自分がいたり・・・。そういう・・・ゲーム」
塩の人形の話と言うのはどこかのHPで読んだものだが、このような話しだったと思う。塩で出来た人形が自分のルーツを探そうと、海の奥深くに潜ってゆき、最後には溶けてしまった。
「人間は間違いからしか始めることは出来ない」というのはロシアの神秘家グルジェフの言葉である。
というのは、なにか最高のものを、真理や神や悟りを求めようとするときに、人はいわばプラトンの寓話のように洞窟の壁に映った影を見てそれを「悟り・神・真理」だと考えているからだ。
別の例で言うならば、月を指し示す指を月そのものだと勘違いして、探求を始める。
理解不能なものを、絶対の愛であるとか、平和であるとか仮に、比ゆ的に表現しているに過ぎないのだ。
そして、欲望の消滅が涅槃であるとするならば、「欲望を消そうとする欲望」はそもそもの出発点から間違いを含んでいることになる。
しかし、人間は欲望からしか動けない。余計なおせっかいしか出来ない。
しかし、その欲望の旅を続けるうちになにか欲望世界を超えた、光が垣間見えることがある。
それは予測を超えた、全く別のものだ。
イメージしたとおりのものではない。全く新しい、未知のもの。知られざるもの。
クリシュナムルティーが「惨事」と呼んだと言う、自我の崩壊。
予想外の仕方での至福。そういったものだろう。
僕もまた、そのトリップで求めていたものと全く違う世界が開けてから、そのグルジェフの言葉がよみがえってきたのだ。
僕が精神世界に求めていたものも、また違うものだった。でも不思議な縁によって僕は当初の予想を超えたものを学んでいた。僕は知識と特殊な力を得て強くなりたかった。だが重要なのはそういうことではなかった。
<脳>〜欲望と愛の結節点〜
以下の抜粋はオルダス・ハクスリー著「知覚の扉」からのものだ。
ペヨーテに含まれるメスカリンという化学物質がいかにして、意識を変容させるかということについての分析である。
「脳にはその働きを促進する幾つかの酵素体系が与えられている。これらの酵素のうちの幾つかは脳細胞へのグルコース供給の調整を司さどっている。メスカリンはこれらの酵素の生産を抑制し、それによって糖分をコンスタントに必要とする器官が使えるグルコース量を減らしてしまう。メスカリンが糖分の正常な定量を減らすとどんなことになるのか」
「@記憶力や「まともな思考」力は減少することがあってもごく僅かでしかない。」
「A視覚印象が非常に強化され、感覚内容が即座にまた自動的に概念に服従させられるということのない幼年時代の知覚の清純さを目がいくらかでも取り戻す。空間への関心は減り、時間への関心はほとんど零になる。」
(僕がカップめんの具を見たときにはこれと似たことが起こっていた。その物体は「カップめんの具」という概念に服従させられ、カテゴライズされることなく、認識不能の「未知の存在」としてあったのだ。全てがいつも「未知の存在」であれば日常生活は営めまい。しかし、いったいどちらが「より真実の」知覚か?)
「B知能は損なわれることなく感覚知覚が巨大に改善されるが、意志力の劣化は激しい。メスカリン服用者は特定のことをする気になれず、普段ならそのために行動を起し、また苦しみも耐えるのにやぶさかではない事柄に対しても、まったく興味をいだかない。」
「メスカリンのもたらすこういった効果は、脳の減量バルブの能力を減ずる力を持つ薬を飲んだ場合に必ず起こると思って間違いない。脳の糖分が切れると、栄養失調になった自我は弱くなり、日常欠かせぬ雑事をわざわざやる気になれず、出世に熱心な有機体にとっては非常に意味のある空間的また時間的諸関係に対する関心をすべて失ってしまう。水ももらさぬ堅固さではもはやなくなったバルブから(偏在精神)がにじみ出てくると、生物体として不益なあらゆる種類のことが起こり始める。超感覚的な知覚が生じる場合もある。視覚美の世界を発見する人もある。裸の実存在、つまり所与の、概念化していない事象の持つ無限の価値と意味性が、その栄光が見えてくるということもある。」
まず説明しておきたいことがある。
それは<脳>という器官は、基本的にはこの地上で生存するために存在しているということだ。
何を当たり前のことを・・・と思うかもしれないが、僕達はあまりにも脳が生み出す精神活動や認識機能を当然のものともみなしそれらに自己を同一化させているために、それらが一体なんの為にあるかという視点を殆ど喪失しているのではないかと僕は思う。
それらは具体的に言うと、喜怒哀楽という感情や、ハクスリーが述べているような(出世に熱心な有機体にとっては非常に意味のある空間的また時間的諸関係に対する関心)というやつだ。
空間や時間に対する認識というのは生存の為に有効であるからこそ、人間に備え付けられている。
さらに人間が10秒を「この長さ」として感じるということ、一時間を「あれくらいの長さ」として感じる元となっている「時間の体感感覚」も脳の機能ではないかと僕は思う。
客観的に言うと「短い時間」、「長い時間」というものは存在しないのだ。
それらの表現はすべて、人間がこれだけの時間をこれくらいの長さとして感じる、という体感的認識がベースにある。
よく言われることであるが、交通事故に巻き込まれた人や、高いところから足を踏み外してしまった人はしばしばすべてがスローモーションのように展開していくのを見るという。
これは幻覚でもなんでもなく、脳が緊急時に際して平常と異なった時間の世界へとチューニングを合わせた結果であろう。
さらに進んで<脳>と<自我>の関係を考察してみよう。
<脳>はまず主体を時空間のなかで、ある一定の位置に定位する。
簡単に言えば、これが<自我>である。
<自我>もご多分に漏れず、人間が生存するために存在している。
というのは人間は動物達のように本能の恩恵に預かることが少なく、好むと好まざるに関わらず、僕達は知性を駆使して生存しているのだ。
そしてこの<自我>というものが知性が機能する土台を築いている。
例えばである・・・腹を減らした一人の男が、食べるものを探している。
ひどい旱魃で、もう三日も四日も何も食べていない。
彼は考える。
どこに行けば食いものが手に入るのだろうか。
このような単純な思考活動でも、<自我>という土台がなければ全くおこなえない。
<脳>が主体を時空間の中でこの飢えた男に定位せねば、次に続く思考活動は発生しないだろう。
私は飢えた男だ→どこに行けば食い物が手に入るのだろうか
まず<脳>は主体のまわりにどこまでも広がる空間を設定する。東西南北に上と下。
次に<脳>はその広大な世界の中でひとりぼっちで存在している<自我>を設定して、それを自分だということにする。
これで、脳内宇宙のなかに世界と<自我>が出現した。
このようにして人間の生存の為に用意された、人間的時空を、僕達は生き始めるるのだ。
これらのことを念頭において、今一度ハクスリーの文章を読んでいただきたい。
一種の偏在的なリアリティーを閉め出す、脳内の神経組織。メスカリンがその自我的(時間・空間認識、肉体への同一化、習慣化された知覚)作用を弱体化させ、普通以上に開かれたバルブから超越的なリアリティーがあふれ出すという理論が正しければ・・・。
ある、正常な肉体の機能の弱体化が、高次の知覚をもたらす。言い換えれば微小な「死」が神秘への扉を開くと言うことになるであろう。
これが正しいとすれば臨死体験者が体験するものはバルブが全開に開き、彼らの意識がほとんどそこから流れ出してしまいそうな・・・そのような状態ではないのか。
程度の差こそあれ、メスカリンによるトリップと臨死体験はどちらも「死」の部分的な体験ではないだろうか。
「死」と呼ばれる境域の彼方には、脳が仮構した、空間性と時間性から解放された世界が存在すると僕は考える。脳の役目はこの偏在するリアリティーを制限して、人間-生物的なリアリティーに僕達を閉じ込めるためにある。
なぜなら、一種の至福・サマディー・超越意識においては生と死は等価になってしまうからだ。
これでは人類という生命体が地球上に根をおろす事は出来ない。
恐怖がなければ生命は生きようとしない。
欲望がなければ人間の歴史はすぐに終わってしまう。
脳と言うのは生命存続の為の戦闘的サバイバルツールでもある。
彼岸側からの超越的愛が流入し続ければ、マシンがいかれてしまう。
サバイバル能力が失われると生物として、ジ・エンドだ。
しかし、物質的生命を越えた「誰か」にとってはそこが始まりなのである。
ドラッグは危険であるという。しかし、誰にとって危険なのだろうか?
和尚ラジニーシは向精神性の物質は人々に「自分が何者であるか気付かせる」。だからこそ為政者はそれを法的に禁止するのだという発言をしている。これにいささかパラノイア的な考えに思えなくもないが、もしこれらのドラッグが日常世界にあふれ出せば、現存の経済や価値観が大きく変質してしまうというのはありそうなことだ。
「全ての問題は人々が自分の部屋でじっとしていられないことから起こる」
とパスカルは言っている。だがペヨーテは人々を自分の部屋でじっとしているだけで満足させてしまうことだろう。
だがそれでは消費経済は成り立たない。この世界ではいつもより多くのものを、そして新しい技術や流行にお金を払うことによってシステムが成立している。いらないものがあふれすぎている。そしていらないものをいると思わせる幻想が世界を回している・・・。
本当はなにもいらないんだ。携帯電話も、車も、テレビも、行列の出来る店も、漫画雑誌も、映画も、ベストセラーも、海外旅行も・・・・・・
雲を読み、花としゃべり、夜の闇と溶け合う術を知っていれば。本当にシンプルで、平和な世界があるだろう。
ペヨーテが垣間見せる、不可知の美に満ちた世界、エゴの消失した世界は、この世界で肉体を持って生きるという目的と反目するように僕には思われる。僕たちはその旅から必ず帰還せねばならない。
タロットのThe Hanged-man吊るされた男のように

ここでの僕達の仕事は怒り、悲しみ、迷いながらも、なおかつ希望を抱いて生きることなのだろうか。あの大いなる愛が僕らをその奴隷にしてくれることを祈りながら。
※最後に不粋な警告
向精神性の物質は重篤な精神疾患の引き金となることがあります。アルコールと同じ程度にしか考えず、リスクを認識しない人は関わらないに越したことはありません。どのドラッグにもそれ特有の危険が必ずあります。