瞑想会雑記帳
悟った人を救う 2004年 4月×日
I先生の世話人をしているNさんと言う人からメールを貰わなければ、そもそも僕はこの瞑想会(グループセッション)には参加しなかったかもしれない。
個人セッションを受けたあと、僕はその体験記のようなものを自分のHPの掲示板に書いた。
Nさんが、I先生の名前で検索をかけたとき僕のページがヒットし、掲示板の書き込みをみたNさんが瞑想会に誘ってくれたのだった。
個人セッションを受けて、I先生にかなり興味はあったものの、なかなか瞑想会に出席する踏ん切りをつけかねていた僕の背中をNさんが押してくれた。
Nさんのメールには長い間世話人をやって、最近やっとI先生が本物だということがわかったということ、瞑想会に出席して覚醒する人がこの頃続出しているという事などが書かれていた。
正直言って、最初そのメールを見た時にはNさんが自分の興奮を押し付けようとしているみたいに感じてちょっと引き気味だった。
だが、やはり、これは自分の目で確かめて見るしかないという気持ちが優勢になり四月のはじめ、新宿での瞑想会に初参加することにした。
瞑想会は4時間にも及び、起こったことや会話の内容をすべて時系列に沿って思い出すことは出来ない。
しかし、最初と最後の自分の気持ちは覚えている。
最初は会場の雰囲気や会話の内容を聞いて、「これは異常だ。」と思い、終了後には「またここに来るだろう」と思っていた。
異常と書いたが、それには理由がある。
その日はI先生を含め、覚醒した人がひとつの会場に4人もいた。その後の経験から覚醒した人が会場に複数いるとI先生の様子がだんだん酔っ払ったみたいになってくる気がする。
4人も集まるということは殆どないと思う。
だから、その夜は幸いにも(?)その後参加する瞑想会の中でも、もっともイっちゃっているセッションであったのだ。
I先生の瞑想会は瞑想会といっても実際には、瞑想しない時の方が多い。
多くの時間は質疑応答や雑談で過ぎていく。
本式の講話のようなものを期待していると、ちょっと肩すかしをくらい、拍子抜けするかもしれない。
だが、覚醒した人の何人かは特別な瞑想をしている時ではなく、I先生の話しを聞いている時に目覚めたようである(僕はその瞬簡に立ち会ったことはない)。
初めての僕にはちょっと意味のわからない部分がある雑談が数十分続いただろうか。
会場のふすまが開いて、ひとりの男性が入ってきた。
その人はGさんと言い、新宿瞑想会の前日(だったと思う)の横浜の瞑想会で、覚醒体験をした人だった。
Gさんは眠れなかったらしく、I先生に「この状態がずっと続いているんですか?よく平気ですね!」と言っていた。
Gさんはちょうど空いていた僕の隣の座布団に座った。
I先生は面白そうにGさんが覚醒した時の様子を語った。
「さっきまであんなに喋っていたと思ったら、黙り込んじゃうんだからね。」
I先生がどんな感じかとGさんにたずねたらしいが、なかなか言葉が出てこなかったという。
「う・・・・・あ・・・・・」と口ごもっていたGさんがようやく口にしたのは
「シブい・・・・」
という一言だったらしい。
「I先生がオレンジ色のローブを着た、ヨーダみたいな姿に見えた。」とGさんは語る。
その後僕はI先生に質問はないかと言われて、いくつか頭にあったことを尋ねたように思う。
でも、はっきり何を尋ねたかは覚えていない。
そう・・・・死ぬのが怖いということや、悟るというのは消えてなくなるということなのですか?といったことを尋ねた気がする(これは以前読んでいたEOの「廃墟のブッダたち」などの影響)。どこかでI先生の境地を推し量ろうとしているような部分もあった。
「I先生は例えば、今ここで生命が危機にさらされるようなことが起こっても恐ろしくはないんですか?」と僕は言った。
「一瞬、おっとびっくりはするだろうね。でも恐ろしくはない。死ぬというのはちょっとインドに行くようなもんだよ」
とI先生。
「時々、死がとても近くにあるような気がするんです。」
「(実際)近くにあるんだよ。」
とI先生はにこやかに言う。
そのような質疑応答をしている時に、僕の隣に座っていたGさんが突然言った。
「彼に救われました・・・。」
「そう?救われた・・・?」とI先生。
会場はしーんとしていた。
僕はちょっとこの雰囲気にいらいらしたのもあり、「どういう風に(救ったん)ですか?」とGさんの方に向き直って言った。
すると何人かの人たちが笑った。
Gさんはそれがどういうことなのか、その時は答えてはくれなかった。
初参加者が僕の他にもう一人いたこともあってか、I先生は若い頃の修行生活や悟りにいたるまでの経緯などを話してくれた。
10代の頃から、インドやチベットで修行をしていたということ。
20代の終わりで日本に帰ってきてからは、悟りへの修行もあきらめ、二日でテキーラのボトルを一本空けるほどアルコールに溺れていた時期もあったということ。毎晩深酒をして、店で女の子とサルサを踊っていたこと。
二日酔いのまま次の日は会社に行き、太陽が黄色く見えた(?)という。
こんな自分が悟れるはずがないと思っていた。
しかし、ある日それは突如として訪れ、神がすぐ近くにいたことを知ったという。
瞑想会の最後のあたりだろうかI先生が
「(僕が)俺に似ているよ。」
と言った。
僕は「どういうところがですか?」と聞くと
「そういうところがだよ。」と返された。
「どう気分は?」
「うーん、ちょっとぼーっとしていますねー。」
「そう?そのうちすごくいろいろなものがリアルになってくるよ。」
言葉を慎重に選びながら
「そう・・・・なりたいですね。」
と答える。
するとI先生はおかしくてたまらないといったように「そうなりたい・・・だって。あっはっはっは」と笑った。なにがおかしいんだろう?僕の疑い深さだろうか?
その様子は酔っ払いそっくりだった。
「覚醒するといろいろ面白いことになるよ・・・・。」というI先生の言葉を真に受けたというわけでもないと思うが・・・僕は帰り道を歩きながら、また、あの人に会いに行くだろうなと思った。
その夜から、翌日まで頭がずーっと痛かった。
にもかかわらず体にはエネルギーがいつもより満ちているようだった。
この頭痛にはその後の瞑想会参加後にもしばしば襲われるようになる。
グルジェフ 5月×日
最初の瞑想会に出席してから、僕は「神」についてよく考えるようになった。
「神」が現実に存在しているかどうか、僕は知らない。
「悟り」というものはあると前から思っていた。
それを人間の心理状態であると考えるならば、たとえばちょっとした脳内物質の異変で人は圧倒的な恍惚であるとか、絶対的な存在に直面しているという確信をもつことはあるだろう。
確信する、ということ自体が、脳機能の産物であるとも言う。どんな宗教的な経験でも、脳を介して起こるのだ。
問題はそれがただ、脳の暴走であるか、真理の知覚であるかということ。
「神」というものも、人間心理としては確実に存在している。
通常人が気づかないような心の深いところで、「神」という存在は眠り続ける。
一生、「神」のことを考えずに生涯を終えたとしても、最後には必ず人は神を思い出すのではないかと僕は思う。(度々言うがこれは実際に神が存在するか、しないかが問題なのではない)
また非常な困難に見舞われたり、思わぬ至福に恵まれた時も「神」は眼を覚ます。
それは宇宙の中心なのだ。
そして人間が人間である限り、人は宇宙の中心への叫びを持ち続けるし、宇宙の中心からの呼び声を必ず待っているのである。
人間は小さな存在だが、こころの中には世界を宿している。
その世界は部分的なものかもしれない。
人間の限られた知覚によって構成された、不完全な世界かもしれない。
しかし、そのこころの世界には中心がある。
山や海や、街や、星空・・・こころの中にそれらのものを存在させている中心軸がある。
こころの中心には、こころの中心を求める想いがある。
それはつまり、宇宙の中心を求めるということだが・・・。
だが、平素はそのことに気づかない。
本当に求めているものを、求めていないと思い、本当は欲しくないものを欲しいと思っている。
そんなことをごちゃごちゃ考えつつ、一月を過ごしたあと、僕は二度目の瞑想会に出席した。
その日の講話で印象的だったのは、グルジェフに関するものだった。
I先生がグルジェフの「ベルゼバブの孫への話」のことを話題にだしたので、僕は驚いた。体がぞくぞくするような興奮を感じた。
僕はグルジェフおたくではないが、P,D,ウスペンスキーの「奇跡の探求」を昔読んで強烈なインパクトを受けた。
グルジェフの主要な教えは「人間は機械である」というテーゼに集約されている。
人間には自由意志などありはせず、ただ環境の影響によってあっちこっちをふらふらと漂っているに過ぎない。それと同時に人間が単一の「私」を持っているというのも幻想である。人間は外部の刺激によって出現する無数の「私」の集合体であるという。
そして人間がこのように機械的である限り、そして惑星の影響を受け続ける奴隷である限り、「平和」であるとか「愛」をいくら実践しようとしても不可能だ。「平和」を求めるのも偶発的なら、戦争を始めるのも同じように偶発的である。
人間にはなにひとつ「なす」ことなどできはしない。
すべては、ただ、起こっているのである。
このような状態から人間が抜け出すには、常に絶えざる自覚を要求されるような厳しい修練によるしかない。そして眠っているものは自分が眠っているか、起きているか判別できないから、常に目覚めているものによって導かれねば目覚めることは出来ない・・・。
このグルジェフの主張には無視できないものがある。
初めて「奇跡を求めて」を読んだ後、僕は闇のなかにいるかのように感じた。
本当の意味での、愛とか、共感というものはこの世界には存在しないように感じた。
誰もが自分にとって都合の良いものだけを利用しようとしているに過ぎないのではないのか?
僕は誰かからの愛を感じる時、外から自分の存在を無償で包み込んでくれるもののように勝手に妄想する。その愛を相手側の視点から見るということはなかなか難しいが、その機械性と、相互理解の欠如に眼を向けず、真綿のような幻想に包まれることは容易い。
それは幻想であるから、次第に食い違い、ほころびが見え始める。
グルジェフの思想は真実だろうか?本当にそこまで人は救いがないのだろうか。
「グルジェフって・・・あの人は本当にわかっていた人なんですか?」と僕は聞いた。
「あの人はわかっていたね!なにからなにまで知っていた人だよ。そして、とても複雑なシステムを作り上げた。でも、グルジェフのシステムを一生懸命やっても絶対に人は悟れない。」
「じゃあ、グルジェフの弟子で悟った人はいなかったんですか?」
「さあ・・・・いなかったんじゃないの?」
あの人は、清浄で天国的な世界を説くだけではどうにもならないと思い、裏側から攻めて行った。 ベルゼバブというのは大悪魔の名前だよ。」
「グルジェフの未完の本でとてもすごい題名の本がある。『生は「私」が存在してはじめて現実となる』だ。こんなすごいタイトルのものは他に知らないね。」
I先生はグルジェフの超人性は認めているようだが、そのシステムに関しては否定的なように僕には思えた。まあ、どちらにしろ自分がグルジェフワークをやってるグループに入って、神聖舞踏を舞うというようなことはほぼあり得ないと思うのでそれはどうでも良いのだが・・・・。
確かにグルジェフは宇宙や人間のダークサイドをより多く、冷徹なまでに語っているという点で、トラディショナルな宗教とは大きく異なっている。
なんというかグルジェフの世界は・・・・人間的な文化的妥協とか、感情のオブラートを一切剥ぎ取った純粋な「事実」の世界であるように僕は思う。
グルジェフの世界は高く聳え立つ山脈に似て、確かに人間性を超越しているが多くの人にとってはあまりにも大気が希薄で呼吸できない。
グルジェフは言う。
人間は「なす」ことなど出来ない。すべてはただ起こっているのだと。
I先生は言う。
自我がおこなっているのではなく、神がおこなっている。すべてはただ起こっているのだと。
二つの言葉は同じ事実を、違う視点と意図から語っているのではないか。
グルジェフの宣告は自我を奮い立たせ、I先生の言葉は自我を溶解させるように思える。
これは西洋の道と東洋の道の違いだろうか。
サタン、何かがくる 6月×日
この日は横浜の会場へ向かった。
平日だったが、前回と今回の間に僕は仕事を辞めていた。
さらに実家の方で非常に深刻な出来事を経験したあとだった。
それは自分にとっては相当にきつい出来事だったが、その事件によって自分や家族の深層を垣間見たようにも思った。
しかし疲労していたのも事実であり、エネルギーを補給するような気持ちで会場に向かった。
この日は最初に、僕がメールをもらったNさんが世話人をやめるという話しをI先生がした。
その理由はマーヤがきつくて大変だかららしい。
なんでも、今までI先生のことを紹介していたセラピストや、ワークショップを企画した人は結構大変な目にあっていると言う。
その理由は人を眠らそうとうする力が、その人たちに働いてくるかららしい。(ということはこんな文章を書いている僕もやばいんだろうか・・・)
なぜか強引に宣伝しようとしたり、商業的にしようとうするとマーヤ(人を迷わせる力)と関わることになるのでだめらしい。
マーヤとは何か?
ということを説明し始めるとすごく長くなるし、僕には語る資格がない。
マーヤは人を惑わせ、真実から眼をふさぐ力であり、この世界の原動力であり、僕達を生かしている生命力自体であり、なおかつそれ自体が神の表現そのものであるらしい。
マーヤが解けると、人は真理に目覚める=悟り。
I先生はよく話で「マトリックス」を例に出していたので、あの映画は結構真実に近いのかもしれない。あの映画で言えばマトリックス(母体)の中で暮らしている人々が、マーヤーに囚われている人々であり、ネオやモーフィアスたちが真理に目覚めたものだ。
そして、エージェント・スミスは・・・・・・。
(笑)
エージェント・スミスの目的は「人が目覚めないようにすること」であるという。
サタン=魔的な存在は、人が考えるようなおどろおどろしいものではないとI先生は言う。
「ルシファーなんてすごいよ。とても美しくて・・・」
I先生の話によると、ルシファーは神に敵対しているというようなものではなく、神の中でひとつの役割を与えられている、力であるという。なぜそのような力があるかというと、みんながみんな究極的に覚醒すると、このマーヤーの次元が崩壊するかららしい。だから、神自身が人間をマーヤにかけている。サタンは神の初期設定通りに作動しているプログラムのようなもの・・・と書くとさらに「マトリックス」的になるが・・。
悟り系の人でもこういう魔的な存在のエネルギーを感じる人と感じない人がいるらしい。
僕としては、悟り系の人はこの種のことは言わないと思っていたのだが・・・。
サタン・・・あんまし考えたくない存在である。
ちょっとニューエイジにはふさわしからぬ言葉だ。
しかし、トラディショナルな聖者のもとには魔的な存在が出現している。
キリストは荒野で悪魔に試されたし、ブッダは魔王の娘たちに誘惑された。
近年で言えば、J・リリーが遭遇したソリッド・ステート生命体というのも現代版悪魔の姿かもしれない。
それらを一種の比ゆとして・・・例えば自らの影との対決・・・として解釈することも可能であろう。
どちらかというとそういう解釈の方が自分自身の心の健康に良さそうなので、好きだが。
どちらにしろ、修行・・というか心の変容のプロセスの要所々々で、「魔」との遭遇は起こりうるようだ。それはもろに直面すると相当に恐怖心を起させるものらしい。
覚醒したある女の人は、ずっと横に死神が見えていた時期があったらしい・・・。
「誰か質問ないの?なにか言ってくれないと、こっちは頭真っ白でなにも浮かんでこないよ。」
とI先生が言った。
僕も頭がぼーっとしている感じだった。
大勢の人たちが輪になって座り、ひたすら沈黙している図が面白くて僕は少し笑った。
「何かある?M君?」
とI先生が僕の方を向いて言った。
「いや・・・真っ白ですね。」
と僕は答えた。
「わかる?」
「え?なにがですか?」
「来てるのがわかんないんでしょう?」
僕はよくわからないままに、頷いた。
「男は難しい・・・。ここが邪魔するから」
とI先生は自分の頭を指差した。いや、それはI先生ではなかったのだろうか・・・?
人を覚醒させるのは母なる神の力であるという。
それは、おそらくインドではカーリと呼ばれている存在で、宇宙創造の母だ。
と、同時に最初のマーヤであり、すべてのマーヤの流出源でもある。
ラーマクリシュナはその母なる神を「マー」と呼び、熱狂的に奉仕していた。
その母の力が、僕のところに「きていた」らしい。
僕はその存在を感じることができなかった。
と、いうことはその存在を信じきることも出来なかったということだが・・・。これは瞑想会の参加者をコントロールするやり口なのではないかと思わなかった訳でもない。
だが、その後原因不明の幸せな気持ちが数日続いた。
まんじゅう、天職無職 7月×日
7月の夜。
春以来の新宿の瞑想会。
その日は、彼女も半ば強引に引きずって行った。
会場の建物の前に、I先生が腰掛けていたので、あいさつをして彼女を紹介した。
7月末日
悟りとは「真理が自己において完結すること」
2004年の一月に個人セッションを受けたのをきっかけに、僕はI先生の瞑想会に時々出席するようになった。そもそも僕がそこに通い出したのは、覚醒とか悟りという言葉にひきつけられたからだ。
その瞑想会でI先生の話しを聞いた人が、次々と・・覚醒の体験をしているという。
ぶっちゃけて言うと、自分も覚醒出来るかもしれない!と思ったのだ。
しかし、そもそも覚醒とは・・・なんだろうか?
古今東西の文献の中で様々なことが言われている。
見るものと、見られるものがひとつになることであるとか、宇宙と一体になることであるとか、自我が存在しなかったことに気づくこと。
そして、そのような体験をするとこの地球という学校を卒業して、もう生まれ変わらなくてもよくなるという。
I先生はチベット仏教の世界で修行していた人だが、「神」という言葉を使う。
それはなぜかというと、I先生が覚醒した時にそこにあったのは「神」であったからだという。
覚醒とは、「神」があることを知るということであるらしい。
そしておそらく、「神があることを知る」とは、宇宙と一体となるということでも、自我が存在しないことを知ることでもあるのだろう。
僕はまだ悟ってなどいないが、I先生の話す言葉に真実の匂いを感じる。
I先生は神様のことを語り始めると、時々薬でもやってるみたいにラリって見えることがある。
ある人は、I先生のことを好意的に「イっちゃってて面白い」と評した。
イっちゃってるものがすべて真実であるとは限らない。
だが、真実とはイっちゃっているものであるということに関しては、僕を信頼してほしい。
それについては自信があるのだ。
だから、ここでは僕がほんの少し覗き見た、ちょっとイっちゃってて素敵な、瞑想会風景を紹介したい。