すべては約10年前にはじまった。
 当時、私は人生を通じて最もリラックスできる時期に差しかかっていた──科学よりも実生活に多くの価値を見い出し、社会的意識と友好的な人づきあいに目覚め、新しい体験を受け入れるようになった。
 私は、日常的にではないが、ときどき快楽を得る目的でカナビスを吸っている人たちと親しくなった。最初はあまり気が進まなかったが、カナビス〔マリファナ=大麻〕が生み出す明らかな多幸感と生理学的依存性がないという事実から、ついに試してみようという気になった。しかし、初期の体験は完全に期待外れだった。効果が全く感じられず、カナビスの化学的作用に疑問を抱き、期待と過呼吸によって作用するプラシーボにすぎないのではないかと思いはじめていた。
 
 しかし、5〜6回失敗を繰り返した後、とうとうそれは起こった。私は友人宅の居間であおむけになり、天井に映った鉢植えの植物(カナビスではない!)の影を眺めていた。すると、突然、その影を輪郭とする複雑で精密なミニチュアのフォルクスワーゲンを見ていることに気づいた。私はこのような知覚に疑問を感じ、実際のフォルクスワーゲンと自分が天井で見ているものとのあいだに矛盾点を見つけようとした。しかし、ホイールキャップからナンバープレート、クロムメッキ、そしてトランクを開けるための小さな取っ手にいたるまで、ありとあらゆるものが揃っている。目を閉じると、今度はまぶたの奥に流れる映像に唖然とした。ピカッ……赤い農家のある素朴な田舎風景、青い空、白い雲、緑の丘から地平線へとつづく曲がりくねった黄色い歩道……ピカッ……同じ光景、オレンジ色の家、茶色い空、赤い雲、黄色い歩道、紫色の野原……ピカッ……ピカッ……ピカッ。心臓の鼓動に合わせて閃光が走った。閃光につづき同じ素朴な光景が映し出されたが、色は毎回変わっていた──最高に深い色合いと驚くばかりに調和の取れた配置がそこにはあった。それ以来、私は機会があるたびにカナビスを吸うようになり、すっかり楽しんでいる。カナビスは我々の眠っている感覚を増幅し、後述するようなさらに興味深い効果を生み出す。

 初期のカナビスによる視覚体験では、もうひとつ覚えていることがある。サンデマン製のシェリーの瓶ラベルに印刷されている黒い帽子とマントを着用したスペイン人の紳士が、ろうそくの炎のなかに無頓着に立ているのを見つけたのだ。ちなみに、ハイになっているときに、周囲の像を映し出すプリズム式の万華鏡を通して炎を見るのは、信じられないほど美しく感動的な体験である。

 
 ところで、私はこれらが「実際に」存在すると思ったことは一度もないことを付け加えておきたい。天井にフォルクスワーゲンが存在することもなければ、炎のなかに火トカゲ(火のなかに棲むことができると信じられた伝説上の動物)のようなサンデマンの紳士がいないことも理解していた。これらの体験に矛盾を感じることはない。自分のなかには、日常の生活からすれば奇妙に思える知覚を創り出している創造者としての部分があり、同時に観察者としてそれを見ている別な部分がある。快感の半分は、この観察者の部分が創造者の部分の働きを評価するところから生まれるのだ。
 まぶたの奥の映像に微笑んでみたり、ときには大声で笑うこともあった。そういった意味では、カナビスは精神異常作用薬ともいえるが、精神病につきもののパニックや恐怖感を憶えることはなかった。おそらく、自分がトリップ中であることを理解しており、必要であればいつでも正気に戻れるとわかっていたからだろう。

 はじめのころは視覚的な体験がほとんどで、不思議と人間をイメージすることはなかったが、それも時とともに変わっていった。今日ではジョイント1本で十分にハイになれる。自分がハイになっているかどうかは、目を閉じたときの閃光の有無で確認できる。閃光は視覚やほかの知覚が変化するよりもずっと早く生じるようだ。私はこれを信号対雑音比(S/N比)の問題ととらえている。目を閉じると視覚的な雑音レベルが下がるのだ。もうひとつの興味深い情報論理的側面として、(少なくとも私の閃光のなかのイメージにとっては)映像の出現頻度がある。これらの映像は写真のようなものではなく、単純な肖像や戯画風のものである。
 私はこれを単に情報の圧縮の問題と考えている。たとえば108の小景からなる写真に含まれる情報量を考えた場合、閃光が占める数秒間のあいだにイメージ全体をつかむことなど不可能である。こうした閃光体験は、瞬間的な鑑賞を目的として作られたものと言ってもよいだろう。アーティストと観察者の共同作業による成果である。イメージに精密さや複雑さが欠けているというわけではない。最近、二人の人物が話している単語が、頭の上に黄色い文字となって現われては消えていくというイメージを体験した。1回の心臓の鼓動につき1文のペースで単語が現われ、これを見て会話の内容を追うことができた。ときどき、黄色に混じって赤い文字の単語が頭の上に現われることもあった。全体としては完全に会話の文脈にマッチしているのだが、赤い単語だけを取り出してみると、かなり内容の異なる鋭い批判的な文章となった。少なくとも100個の黄色い単語とおよそ10個の赤い単語からなるこのようなイメージ体験は、わずか1分以内のできごとだった。

 カナビス体験は、これまであまり興味をもつことがなかったアートに対する理解を大きく高めてくれた。ハイになっているときにはアーティストの意図が理解できるようになるが、それが通常の意識状態にまで持ち越されることがある。これはカナビスによって到達できる、数ある人間の未開拓領域のひとつなのだろう。アートに関する洞察は他にもある。真偽の程はさておき、このように系統立てて考えるのはとても面白い。たとえば、ハイな状態で超現実主義者(シュールレアリスム)イブ・タンギーの作品を見たことがある。それから数年経ってから、長時間カリブ海で泳ぎ疲れて、風食したサンゴ礁でできた近くのビーチに横たわった。ビーチを作っているアーチ型のパステル色をしたサンゴ礁の断片をぼんやり眺めていると、目の前の巨大なタンギーの絵が現われた。おそらく、タンギーは子供のころにこれとよく似たビーチを訪れたことがあるにちがいない。

 同じように、カナビスのおかげで、音楽もこれまで以上に楽しめるようになった。私は生まれて初めて三重和声の各パートを聞き分けられるようになり、対位法(独立性の強い複数の旋律を調和させて楽曲を構成する作曲技法)の豊かさに気づいた。後になって、プロの音楽家は同時に数多くの異なるパートを容易に頭のなかに留めておけることを発見したが、私にとっては初めての体験だった。繰り返しになるが、ハイになっているときに学んだ経験は、ある程度、通常の意識状態にまで持ち越すことができる。
 食べ物はとても美味しく感じられ、ふだんは忙しすぎて気づかない味や香りが突出する。そして、こうした感覚に全神経を集中させることができる。ポテトの触感、質感、味はほかのポテトと変わらないのだが、それがずっと豊かに感じられる。カナビスはセックスの快感も高めてくれる。感覚がきわめて鋭敏になる一方で、オルガスムは遅延する──目の前を数多くのイメージが横切り、注意がそらされるのだ。実際にオルガスムが長時間持続するように感じられるが、これはカナビスを吸ったときによく見られる時間の拡大を体験しているだけかもしれない。……

 私は厳密には自分自身を信仰深い人間とは思っていないが、ときどき、宗教的側面をもつハイを体験することがある。あらゆる面で感性が高められ、有生無生にかかわらず、周りにあるものとの霊的な交わりを感じる。ときには、常識ではとても理解できない存在の到来を知覚することもあり、恐ろしいまでにはっきりと自分や同類の人々の偽善的行為や態度が明らかにされる。また別の意味で不合理な感覚として、遊び好きで気まぐれな意識の存在を知覚することもある。どちらとも意思の疎通が可能であり、これまでで最も報いの多かったハイでは、会話、知覚、ユーモアを分かち合うことができた。
 カナビスは、私たちが生涯を通じて見過ごしたり忘れてしまうように教育されてきた意識状態を取り戻してくれる。しかし、真の世界を感じとるのは、ある意味で気狂いじみたことでもある。カナビスは私に気が狂うとはどのようなことかを垣間見せてくれるとともに、人々が嫌なことに直面したくないときに「気が狂う」という言葉を用いてることを教えてくれた。ソビエト連邦では反体制の人々は決まって精神病院に送り込まれる。それほど露骨ではないが、ここ米国でもそれと似たようなことが起きている。「レニー・ブルースが昨日何を言ったか聞いたかい?やつは気が狂ってるよ」。カナビスでハイになっているとき、私は気違いと呼ばれている人々の内側に「誰か別の人」がいることを知った。

 ハイになっているときに過去に遡り、子供のころの思い出、友人、親戚、遊び道具、街なみ、匂い、音、味などを思い出すことができる。また、当時は半分しか理解できなかった子供のころのできごとでも心に再現することができる。すべてがそうであるとは限らないが、私自身のカナビス・トリップには、とても意味のある象徴的意義が内在していることが多い。ここで詳しく説明するつもりはないが、ハイによって浮き彫りになった曼荼羅のようなものとだけ言っておこう。この曼荼羅について視覚的あるいは言葉遊び的に自由連想することにより、一連の価値ある洞察が生まれる。

 カナビスのハイには、ある種の神話として信じられていることがある──カナビスを吸うと、とても重要な洞察が得られたように錯覚するが、朝になってもう一度よく考えてみると、実はたいした意味がなかったというものだ。私はこうした考えは間違いであり、ハイな状態で得られる圧倒的な洞察こそが真の洞察であると信じている。このような洞察を次の日に平常心に戻ってから、全く異なる自己が受け入れられる形に当てはめようとすることが問題なのだ。これまでで最も苦労したのは、こうした洞察をテープや文章で残すことである。ひとつを記録しようと努力することで、ほかの十ある興味深い考えやイメージが失われてしまうからだ。ほかの人たちが、考えを書き留めるための努力など時間の無駄であり、単なるプロテスタンティズムの倫理の押しつけと考えるのも当然だ。しかし、私はこれまでの人生のほとんどを慎ましく生きてきたため、こうした努力が報いられたと考えている。ちなみに、ある程度意味のある洞察であっても、単に覚えておこうと努力するだけでは忘れてしまうが、それを文書に書き残したり、だれかに告げるなど別の方法を用いれば次の日になっても思い出せることがわかった。

 ハイになっているときに得られる洞察は社会的問題に関するものがほとんどであり、自分に馴染みの深い分野とは全く異なる創造的な学術領域である。ある日、ハイな状態で妻と一緒にシャワーを浴びているときに、ふと人種差別の起源と無効性をガウス分布曲線を用いて表すことを思いついた。ある意味でこれは明白なことだが、これまでに議論されたことはほとんどなかった。石鹸でシャワー室の壁に曲線を描くと、その考えを書き留めるために部屋へ戻った。アイデアが次々と浮かび、およそ1時間にわたって一生懸命努力した結果、社会問題、政治、哲学、人間生物学など11編の広範囲にわたる小論文を書き上げていた。紙面が限られているため、これらの内容について詳細に述べることはできないが、一般の反応や専門家の論評など第三者の評判から判断する限りでは、ある程度説得力のある洞察が内在しているようだ。私はこうしたアイデアを大学の学位授与式、全学共通講義、著書などにも使ってきた。

 これらの洞察について、ほんのさわりだけだが、簡単に紹介してみたい。ある晩、カナビスでハイになっているときに幼少の時分に立ち返り、ちょっとした自己分析をしてみたところ、とてもうまくことが運んだ。それからひと休みして、ジクムント・フロイトがドラッグの助けもなしに、あのような優れた自己分析をなし得たのはいかに並外れたことであったかと考えた。
 しかし、すぐにそれが誤りであることに気づいた。自己分析をはじめる前の約十年間、フロイトはコカインを使った実験を行い、それに没頭していた。少なくとも部分的には、フロイトがこの世にもたらした真の心理学的洞察は明らかにドラッグ体験から得られたものであると私には思える。はたしてこの考えは正しいのか、フロイトの歴史学者はこうした解釈に合意するのか、あるいはこのような考えはすでに過去に発表されているものなのか、私にはよくわからない。しかし、非常に興味深く、通常の意識状態で考えても十分に意味のある仮説であることは確かである。

 自分の感情や知覚が宗教性を帯び、突然、気がふれるとはどのようなことかを理解できるようになった晩のことを覚えている。このときの感情や知覚は非常に鮮明であったが、それを書き留めたところで、科学者としての持ち前の資質である細部にわたる精密な評価という点には耐え得るものではなかっただろう。もし、前の晩に自らに宛てたメッセージが、我々の周りにはふだん感じることのできない世界が存在するとか、宇宙と一体化することが可能であるとか、政治家の中には絶望的なまでに恐れを抱いている人々がいるといった内容のものだったとしたら、とても信じることはできないだろう。しかし、ハイになっているときには、こうした信じがたいことでも理解できる。私はこうした考えを真剣に受けとめるようにと自らに言い聞かせるテープを用意したことがある。「おい、よく聞け!これは真実なのだ!」
 私は頭が正常に働いていることを確かめるために、この30年間考えた事もなかった高校時代の友人の名前を思い出してみたり、別の部屋にある本の色、活字、形などを描写してみたが、どちらも朝になってからの批判的チェックにパスした。
 私はカナビスによって(おそらくほかのドラッグでも)得られる正真正銘の確かな知覚が存在すると確信している。おそらく我々の社会や教育システムの欠陥によるものだろうが、こうした知覚はドラッグの助けなしに得ることはできない。これは自己認識や知識の探求といった領域だけでなく、たとえば、顔の表情や声の抑揚など極度に高められた感性によって人物を認識したり、まるでお互いの心のなかを見通しているかのような親密な言葉遊びにも当てはまる。

 カナビスは私たち一般人にもミュージシャンになることがどういうことかを教えてくれ、アートの楽しみを理解させてくれる。 しかし、ミュージシャンでもなければアーティストでもない私自身が専門とする科学的研究分野についてはどうなのか?わくわくするような知的体験は常に別の領域であることが多く、自分の職業上の関心事について考えるのはなぜか気が進まないのだが、ハイになっているときには特に専門分野における現行の困難な問題について考えてみようと意識的に努力したことがある。ある程度の効果はあった。たとえば、矛盾しているように思える実験結果を受け入れられるようになった。ここまでは順調だ。少なくとも思い出すことはできた。そして、異なる結果のあいだに共通点を見出そうと考えはじめると、通常では絶対に思いつかないような非常に突飛な可能性が頭に浮かんだ。これについては、論文のなかでも触れたことがある。このときの結論が正しいとはとても思えないが、容認できる仮説かどうかは実験により証明可能である。

 カナビス体験中は心のなかに冷静な観察者としての存在が部分的に残っており、必要になればいつでも通常の意識状態に戻ることができる。渋滞のなかをハイな状態のまま、車を運転しなければならないことが過去に何度かあった。ときどき、交通信号灯の素晴らしい鮮紅色に心を奪われることがあったが、それ以外はなんら問題もなく、うまく切り抜けることができた。
 運転を終えたときには、ハイな状態からすっかり醒めていた。まぶたの奥の閃光も見えなかった。もし、ハイになっているときに私の子供に呼ばれたとしても、いつもと変わりなくそれに応えることができるだろう。ハイな状態での車の運転を擁護するつもりはないが、自らの経験から、それが可能であることを述べておきたい。私の経験ではカナビスのハイはアルコールの酔いとは異なり、内省的かつ穏やかで、知的な刺激に満ち、社交的になり、二日酔いになることもない。何年か経ってから、ある程度少量のカナビスでも十分にハイになれることに気づいた。最近、映画を見に行ったときには、映画館に蔓延している煙を吸い込むだけでもハイになれた。

 カナビスは自己滴定量の調整にたいへん優れている。少量を一息ずつ吸うことができ、煙を吸いこんでから効果を感じるまでの時間が短く、ハイになってしまえばそれ以上ほしくならない。私は効果を感じるまでの時間と過剰摂取に要する時間との割合Rを重視すべきだと考えている。(自分では試したことはないが) LSD のR値は非常に大きく、カナビスのR値は小さい。サイケデリック・ドラッグの安全性を示すひとつの基準として、このR値を採用すべきである。カナビスが合法化された暁には、こうした数値がパッケージに記されることを期待する。そして、それが遠い未来でないことを私は望んでいる。カナビスを非合法のまま放置し、平穏な心と洞察力、そして、ますます狂暴化して危険な方向へと向かっているこの世の中に必要な感性と親交を生みだすドラッグの有効活用を妨げるのは邪悪な行為である。





カール・セーガンのマリファナ体験記