| 聖書の解釈をなりわいとして生きてきた私が今とっている立場を、これまでにぶつかった三つの聖書解釈の立場と対比させて明らかにしてみたい。ただし、ここでは聖書解釈論が主題ではないから、例外や中間型・複合型は考慮せず、パターン化してその問題を指摘するに留める。
1 ふたつのファンダメンタリズムに抗して
@テキスト・ファンダメンタリズム
キリスト教で一般に「ファンダメンタリズム」と呼ばれてきたものを、私は「テキスト・ファンダメンタリズム」と呼ぶ。これは逐語霊感説をベースとする聖書解釈である。聖書のテキストは、一字一句が「神の言」であり、それを疑うことや批判することは許されない。牧師の役割は、聖書の記述に精通し、「聖書によって聖書を解釈する」ことである。従って、現実の歴史の動きや社会の問題への関心とか、社会的位置や視座が聖書の読み方に与えている決定的な影響とかいう問題意識は、入り込む余地がない。
今日の世界で、「福音派」と総称される諸教派や、カリスマ的・熱狂的な運動形態をとる諸宗団が、とりわけ被収奪地域(いわゆる「第三世界」)に勢力を広げているが、これらの諸宗団の聖書解釈の立場は、おおむね私が「テキスト・ファンダメンタリズム」と呼ぶものである。これらの諸宗団は、民衆が自分たちを貧しさの中に閉じこめている収奪の根源を問い始めることを妨げ、被収奪地域の民衆に対する、収奪する側からの意識操作に利用されている。現代的な装いを持ったアヘン的宗教の典型である。
この立場が陥っている根本的な誤りは、人間がおこなっている「言語」という営みの相対性・偶然性を見誤り、聖書を天から降ってきた書物のように扱っていることである。二千年前の文書をそのまま現代に当てはめるのには大きな無理が伴なう。その無理を神秘主義や熱狂主義で飛び越えることが、アヘンのように良心の麻痺を起こさせる。被収奪地域の民衆は、資本による収奪と併せて二重の被害を受けているのである。
A信条ファンダメンタリズム
聖書の解釈に、教会の正統的教理(ドグマ)の枠をはめる立場を、私は「信条ファンダメンタリズム」と呼ぶ。ここでは、伝統的教会の諸「信条」が、聖書の教えから抽出された正しい「信仰告白」であるとされ、個々の聖書解釈はこれに従うことが求められる。この立場の人びとが権力を握っている時代では、正統的信仰に従わない「異端者」は火あぶりにされる。そうでない時代でも、「教師検定試験」において、「日本基督教団信仰告白を認めるか否か」というような踏み絵を課し、これに従わない者を排除しようとする企図が、しつこく繰り返される。テキスト・ファンダメンタリズムが、聖書テキストの文言を絶対化するのに対して、この立場は「信条」の文言を絶対化する点においてファンダメンタリズムの本質を共有している。ここでの牧師の役割は、「正統的信仰」の眼鏡で聖書を読み解き、人びとの思考に信条のタガをはめることである。
この立場の根本的な誤りは、第一に、「信仰を告白する」というからだの営みと、「信条」という「文字」のわざとを完全に混同しているところにある。「ことば」は「音声言語=文字」だけでなく、その人の生きざま全体で語るものだ。そのことを忘れたら「文字は殺す」のである。
第二の誤りは、「言葉」への反省を欠いたまま、「真理(ロゴス)→理性(ロゴス)→言(ロゴス)」という観念論的な言語理解に依拠していることにある。「理性」によるにせよ、「啓示─聖霊」によるにせよ、万古不易の普遍的「真理」が、一つの時代の、一つの文化に属する特定言語に固定できるという考え方こそ、最も非聖書的である。信仰告白は、そのつどの歴史の中に、私の生きざまで刻み込んでいくほかない。その際、「音声/文字言語」としての言葉は重要な役割を果たすけれども、それは私が体で語る「ことば」のほんの一部でしかない。そこの思い違いが、教会の言葉を空疎なものにしているのである。
第三の誤りは、その「教会中心主義」にある。教会だけが聖書を正しく読める「神の民」であると当然のように前提し、「世」より真理に近い存在だと思い違いしている。だが、神=キリストは教会の壁に縛られていない。教会が動かなければ、教会の外でキリストは働かれる。現代では、教会の壁の外でそういう事態が起こっているのである。
不安の時代には、人びとは何か確かなものに掴まりたがる。手すりをほしがる人びとを、「動かないもの」という触れ込みで釣りたくなる誘惑もある。ファンダメンタリズムは、他のいずれの宗教の場合でもそうであるように、この誘惑に陥った姿である。だが、世の苦しみを負って時代のただ中を歩まれる神の確かさは、体ごとついていくことによる確かさである。文字の固定による見せかけの確かさは、いつかバケの皮がはがれる。
2 批判的聖書学の援用をめぐって
私が直面するもう一つの壁は、むしろ前述のような問題意識を共有している友人たちとの間にある。それは『鼓動する東アジアのキリスト教』(新教出版社 二〇〇一年)を生んだ共同研究の過程でぶつかったもので、対立点は聖書解釈における批判的聖書学の位置づけにある。私は、現代において聖書解釈を業として営むものにとって、批判的聖書学を踏まえることはほとんど義務だと思っている。このことが共同研究者の何人かから厳しい反論を受けた。その共通項を仮に「テキスト・リベラリズム」と呼んでおく。
Bテキスト・リベラリズム
このとき主張された第一点は、近代以降の批判的聖書学が、著者の立場とか意図とか背景とか、主として「著作」する側に関心を寄せてきたことへの批判にあった。テキストは、著者が何を言おうとしたかに関わりなく、テキストとして読み手の前にあり、どう読むかは読み手の自由だ。聖書解釈は軸足を著者から読み手の側にシフトする必要がある、ということだった。このように、聖書のテキストを所与の前提としつつ、それを読み手の自由に委ねられたものと見ることを、私は「テキスト・リベラリズム」と呼ぶ。
第二点は、この「読み手の自由」が、他方では読み手の社会的位置に伴なう「視座」によって規定されることに着目する。聖書解釈に際して「解釈学的特権」を主張できるのは、被差別者、周縁者、小さくされた者等々であり、その視座である。聖書はそのような人びとへの解放のメッセージだからである。
この第二点については、「解釈学的特権」を「場のアドバンテージ」と言い換えれば、私も異存がない。私たちの共同研究を終わりまで漕ぎ着けさせたのはこの共通項だったと思う。ただ、私は、そういう視座からの批判が、なぜ聖書諸書の著作過程に向けられないのかと問い続けた。聖書を所与のテキストとして前提した上で「解釈学的特権」の視点から批判する……というだけでは不十分ではないか。聖書という「正典」文書の成立に至るまでの歴史的過程で、どのように権力支配のバイアスがかかったか……。「場」=視座の優位性をテコにそれを解明する作業が、逆に解釈者の視座の自己批判にも跳ね返ってくるような読み方が必要ではないか、と。
私の問いが受け入れられなかった理由は、この人びとの主張の第三点に関わっている。つまり現代の、とりわけ日本の批判的聖書学は、「(東大)アカデミズム」に支配されている。すべてが仮設に過ぎない学問の世界で、決定権を持っているのは権威ある「教授」であり、そこでは渡辺のような「アマチュア」が何を言っても顧みられない。知の抑圧がそこにはある。同じような構造が、例えば「なか伝道所」というような小さな集団で、唯一のプロである牧師が「聖書学の権威者」として聖書学を使う場合に起こり得る。聖書の解釈が、このような特権と抑圧を生んではならない、というのであった。
それはその通りなのだが、少しスジが違うと思う。仮に「東大アカデミズム」が今の百倍悪かったとしても、十九世紀以来の批判的聖書学の蓄積を拒絶する理由にはならないだろう。また、アカデミズムと知の抑圧は、聖書学だけの話ではなかろう。組織神学でも現代神学でも、現場の牧師は「アマチュア」に過ぎないから、その発言がまともにとりあってもらえることは少ない。『荊冠の神学』ですら、私が必死に問いかけたことに応えてもらえたとは思えない。私にとって大切なのは、アカデミズムの世界でとりあってもらえるかどうかではなく、聖書解釈の「プロ」として、自分の使うツールについては、きちっと反省しておくということである。
以上、私が体験した三つの聖書解釈の立場に対して、私は第四の立場を提出したいが、その違いや共通点をはっきりさせるために、下のような図を作ってみた。
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