「殉教」の現実が問うもの                  
──再び熱いフィリピンに触れて              

     渡辺英俊  

 
「対テロ戦争」の渦中で
 今、フィリピンで起こっている現実に、わたしたちが目を向けざるを得なくさせられた直接のきっかけは、昨年
(2005年)6月に、日本キリスト教協議会(NCCJ)とフィリピン教会協議会(NCCP)の第9回協議会を沖縄で開
いたことであった。(この協議会の成果については、真野玄範「お前の弟の血が土の中からわたしに向かって叫ん
でいる」(本誌20059月号)参照。) もちろん、日比の教会が沖縄の諸教会の協力を得て、沖縄で出会うことの
意義は大きく、このような出会いを企画した目的もそこにあった。しかし、この出会いをより深いものにしたもう
一つの要因は、この会議にフィリピン教会を代表する6人の一人として参加する予定だったエディソン・ラプス牧
師(UCCP)が、会議の3週間前に射殺されたという出来事だった。
 この事件の切実さを私自身が肌で感じたのは、フィリピン代表と共に辺野古のヘリポート基地建設阻止の座り込
みに参加したときだった。参加者の多くは、私のような年配者は別として、単管やぐらに取りついて、いつでも海
に飛び込めるようウエット・スーツに身を固めていたのだったが、たまたまその日は波が高くて向こうが出て来な
かったので、テントで交流することができた。そして、フィリピン代表が、最近のフィリピン情勢について話し、
ラプス牧師の死や、語る本人自身も命の保証はない状況であることなどが語られたとき、たまたま通訳を務めてい
た私には、言葉を越えた強い共感が通っているのを感じ取ることができた。辺野古で基地作業船に素手で立ち向か
うのは、まかり間違えば命の保証のない、徹底した非暴力の闘いである。フィリピンですでに血を流している教会
の闘いは、辺野古での闘いと想いにおいて共通するものがあったと思われる。そして、両方の闘いを結ぶ共通項は
、どちらも米国の「対テロ戦争」という世界戦略の下で、それに全面的に追随・協力する自国政府の非道に対する
抵抗だという点だった。
 これを受けて、日本のNCCは、その後間もなく企画されたフィリピンでの事実調査団に議長と幹事を派遣し、
また今年に入ってはフィリピンNCCの総幹事を迎えて、外務省にフィリピンでの実情を訴える機会を作るなど、
いくらかの取り組みを重ねてきた。しかし、状況がますます厳しくなっている中で、フィリピン委員会として、
どうしても一度、現地を訪れて実情を知り、日本の教会と社会にそれを知らせる試みをしなければならないと考え
た。それが、本年7月20〜25日の連帯訪問団派遣となって実現したのである。
 当初は、何カ所か犠牲者の出ている現地を訪れて実地調査をしたいと考えたが、受け入れ側の安全の問題があ
って、結局、関係者にマニラに集まってもらって聞き取り調査をするという方法をとった。たまたま、フィリピン
合同教会(UCCP)の呼びかけにより、初めて開かれたマニラでの証言集会(1000人規模)とも日程が合ったので
、これに参加して証言を聞くこともできた。
 
「自由防衛作戦」という名の殺戮                        
 証言を聞くと、歴史が20年余り後戻りして、悪夢の時代に帰ってしまった観があった。もっとも、日本で
は60年前の悪夢が大手を振ってのさばっており、それがフィリピンの情勢にも影を落としているのだから、
人ごととは思えない逆戻りである。
 20年前、私は1年間の「牧師モラトリアム」を試みてフィリピンに滞在した。それは、あの「エドサの革命」
によってアキノ政権が成立した直後で、マルコス独裁政権下で血を流して闘った民衆と教会とが、みずからの力で
民主主義を勝ち取って「ピープル・パワー」を謳歌していた時期だった。しかし、アキノ政権は、茶番のようなク
ーデター騒ぎの度にラモス参謀総長(当時)を頼んで革新閣僚を切っていき、右のコーナーに追いつめられる。「次
はラモス」という、米国の書いた筋書き通りに事が運ばれていくのが目に見えた1年だった。
 アキノ─ラモス─エストラダ……と続くその後の政権は、この米国の筋書き通りに民衆を裏切り、エドサ革命憲
法をなし崩しに壊していく。そうさせた圧力として、米日を初めとする国際資本に主導された「グローバリゼーショ
ン」の流れがあった。資源に恵まれた「豊かなフィリピン」が、国際資本によるほしいままな収奪で「貧しいフィリ
ピン」にさせられ、世界一の「移住労働者」送り出し国の汚名を負わされ続けている。私自身の「あれから20年」
は、フィリピンを初めとする各地から日本に働きに来る、移住者(migrants)の人権支援に明け暮れてきたのだが、
20年たってふたたびあの出発点に立たされる巡り合わせになったわけである。
 歴代のフィリピン政権は、一方で国際資本の利益を守り、その後押しで権力を維持しながら、他方で、収奪の結
果として貧困に落とし入れられた人びとを支持基盤とする反政府武装勢力を鎮圧するという、2重の課題を負わさ
れてきた。相矛盾し、決して両立することのないこの二つの課題の間で揺れ動いてきたのが、この20年間のフィリ
ピン政権の歴史だったと言っても過言ではあるまい。
 しかし、2001年にエストラダ前大統領が追放されたのに伴なって副大統領から昇格し、2004年の大統領
選挙に勝って基盤を固めたアロヨ政権は、それまでの歴代政権が取ってきた「武装反乱鎮圧政策」(counter-insur-
gency program)とは質を異にする、徹底的な弾圧政策に転ずる。根本的な違いは、これまでの政権にとって、反政府
武装勢力は一つの政治的な反対勢力であり、武力鎮圧の対象ではあっても、他方では和平交渉の相手方でもあった。
しかし、2001年の「9.11」事件以来、ブッシュ政権が「対テロ戦争」を宣言し、米軍のアフガニスタンとイ
ラクへの侵攻を正当化したのに伴ない、アロヨ政権はこれに追随して、自分たちの武装反乱鎮圧政策を、「対テロ戦
争」と再定義する。戦闘の相手は「テロリスト」であるから、「和平」の可能性は原理的に存在せず、完全制圧ある
のみである。そこでは、合法的な政党活動であっても、地下で武力勢力と繋がっていると見なされれば武力攻撃の目
標となり得る。つまるところ、すべての政府批判勢力は「テロリスト」のラベルを貼られ、殺戮の対象とされ得るこ
とになる。
 アロヨ政権のこの政策は、2002年に開始された「自由防衛作戦計画」(Oplan Bantay Laya、以下OBLと略す)
という軍事作戦にはっきり示されている。(以下の記述は主として、Ecumenical Movemnt for Justice and Peace
 (EMJP)Primer on Oplan Bantay Laya”に基づいている。)
 「自由防衛作戦」(OBL)は、()アブ・サヤフ(ミンダナオを中心に活動している「イスラム原理主義過激派」
とされるグループ)の復活を阻止するため、政府軍の配置を維持する、(2)共産主義運動の浸透している地域で、
人や武器の供給をなくし、この運動の政治−軍事的機構を解体させる、(3)フィリピン南部での分離主義者(自治
を求めるイスラム教勢力をさすものと思われる)の軍事力を減少させる、という3つの目標を持つという。しかし、
間もなくその焦点は、フィリピン共産党(CCP)−新人民軍(NPA)─民族民主戦線(NDF)に絞られ、その影響が特
に強いとされる北部ルソン、中部ルソン、南タガログ、ビコル、ボホール、南部ミンダナオなどの13地区が、重点
地域とされる。OBLに対し、アロヨ政権は米国から46億ドル(約5300億円)の軍事援助と、3000万ドル
(約35億円)の対テロ訓練援助を受けているという。
 米軍の戦略をまねたOBLは、まず、敵と目された相手を「テロリスト」という悪魔的存在だと人びとに思わせる徹
底的なプロパガンダを行い、次いで、重火器を使った集中攻撃を行って「敵」をも市民の支持者をも縮み上がらせ、
また「テロリスト」の疑いがある者に対し、誘拐・拷問・殺害などの先制攻撃を仕掛ける。その作戦は、(1)掃討
─反乱地域の掃討、(2)確保─自警団や情報ネットワークの組織による地域の確保、(3)安定化─医療活動など
を通じた国軍と一般市民との結合の強化による地域の安定化、(4)開発─生計や開発プロジェクト導入による開発、
という4段階を踏んで実施される計画である。とはいえ、(3)と(4)は一時しのぎのもので、恒常的なプログラム
とされることはない。
 悪いことにOBLは、鉱山開発や木材の伐採、農業関連企業や農園、土地紛争などの起こっている地域で行われる。
そのため、第4の「開発」段階は農民や先住民の土地を奪うものとなり、代わりに提供される生計プロジェクトは返
って重い借金を負わせる結果になる。もし農民や先住民が自分たちを組織して権利擁護のため闘えば、反乱者として
非難され殺される。軍事作戦に際しては、農民組織や協同組合が、常にNPAのプロジェクトの疑いをかけられ、潰され
る。
 また、OBLでは、各分野での運動組織の多くがが、CPP-NPA-NDFの政治工作機関と見なされ、攻撃の対象とされる。
国軍の文書の中では、以下の項目の内2項に該当すれば、「地域共産主義運動」の影響下にある分野運動組織と見なさ
れ攻撃の対象とされる。
1 CPP/NPA/NDFか、他の地域共産主義運動の下部組織によって設立された。
2 CPPかまたはその下部組織である民族民主地下大衆組織の影響下にある。
3 NDFの12項目運動プログラムや、他の地域共産主義運動下部組織による類似のプログラムを採用している。
4 各分野の伝統的利益を越えた課題を掲げる多分野の集会・デモに積極的に参与している。
5 大衆抗議行動において過激かつ暴力的な行動をとる。
個人に関しても同様の基準で攻撃対象とされるが、その中に「所属分野の関心を越えた運動に従事している」「聴衆を
政府に反対する行動に向かわせるよう計画された、シンポジウム、講演会、ティーチ・インなどの活動に積極的に参与し
ている」という項目があるのが注目される。こういう尺度で見たら、政府に対する批判的な活動は、ほとんどが攻撃対象
とされ、殺害・脅迫が政策によって正当化されることになる。
Karapatan(「権利」の意。フィリピン人権連合)の集計によれば、アロヨ政権成立以後各年の政治的殺害数は下記の通り
である。
    2001年   98
    2002年   111
       2003年   128 
       2004年    73人 (大統領選挙の年)
       2005年   182
       2006年   104人 (6月末現在)
また殺害された人の属する分野・団体では、多い順に
  KMP(フィリピン農民運動)関係  193
    Bayan Muna(新人民党)関係    95人  
    KMU(51日運動)関係      59
    Gabriela(女性運動)関係     32
となり、政府側からCPP-NPA-NDFの公然部門と見なされる農民運動や労働運動、女性運動、公認政治団体が狙われている
ことがわかる。しかし、前述のように、国際資本の収奪と結んだ「開発」に対して、農民・労働者・市民が抵抗しようと
すれば、すべて現政府の政策への批判・抵抗にならざるを得ないから、すべて反政府武装勢力とのつながりを疑われ得る。
教会が、開発によって生存権を脅かされる地域住民の生活をみずからの責任として受け止め、それを守ろうとすることは
信仰的良心の問題である。牧師・神父・信徒の活動が、OBLのターゲットとされる背景がここにある。フィリピン合同教会
(UCCP)が集めた資料と、今回聞き取り調査ができた被害者を合わせると、同教会関係者だけで以下の9例に及んでいる。
(○印は今回関係者からの聞き取り調査ができた被害者。)
○イザヤス・ドラモンド・マナノ  信徒  23才  東ミンドロ   2004
  ジョエル・B・バクラオ     信徒   40才  アルバイ    2004
  フアンチョ・サンチェス  青年リーダー   アシエンダ・ルイシタ 2004
  ヴィセンテ・オレア    信徒   71才  パラワン    2004
  アベ・スンギット    先住民信徒  42才  パラワン   2004
○エディソン・C・ラプス  牧師   38才   北東レイテ  2005
○ラウル・Y・ドミンゴ   牧師   43才   パラワン   2005
  ジュニコ・ハレム   信徒   40才  西ミサミス(ミンダナオ) 2005
○アンディ・パウィカン 牧師   34才  ヌエヴァ・エシハ   2006
それ以外にも、聞き取りができた以下の2例がある。
○フェルナンド・U・バトゥル 教会不明 ジャーナリスト 37才 パラワン 2006
○アルマンド・C・ハビエールJR. PCI信徒 年齢不詳   ブラカン 2005年 
 
聞き取り調査から
聞き取りの詳しい報告は、NCCフィリピン委員会によって別の形で行われる予定であるが、ここでは、200420052006の各年から一例ずつを取り上げて報告しておきたい。(肉親からの聞き取りなので、ここでは主にファースト・
ネームを使う。)
 
<イザヤス D. マナノさんの場合>  (20044月、ミンドロ、殺害時23才)
 イザヤスは、ミンドロ島カラパン市で、UCCPの牧師の家庭に生まれた。父は地区の議長を務めた人。父が礼拝の司会
をするときも、信徒を訪問するときも、いつも父にくっついていた。訪問先の多くは小作農で、地下活動をしている人
もいた。よく質問をする子で、どのように農民の生計が成り立っているかなど、あれこれ尋ねることが多かった。父と
もよく議論し、よく勉強した。最近は父親の方が言い負かされるほどになっていた。
 教会には、先住民など、さまざまな人が相談にきた。イザヤスは、いっしょに来る子どもたちの世話をするのが好き
で、よくいっしょに遊んであげた。貧しい家庭の子どものことを気にかけ、自分の持ち物や食べ物をあげてしまう子だ
った。両親が共働きなので、1週間に一度まとめて洗濯をするため、7足の靴下を買ってあげたが、次の土曜日には5
になっていた。2足は友だちにあげてしまっていた。
 大学では、聖歌隊とフィリピン・エキュメニカル青年連盟(KKKP)の活動に参加していた。その活動でミンダナオに
行き、ダム開発や鉱山の開発の現場で、先住民族の人びとがおかれている状況を知る機会があった。そのプログラムか
ら帰ってきてから、いっそう熱心に活動に取り組むようになった。大学を出てマニラで就職したが、住居や社会保険な
ど、他の従業員に与えられていない待遇を受けて、すべての労働者に同じ待遇を与えるよう運動を始め、3ヶ月で辞め
てミンドロに帰ってきた。
 ミンドロ島では、Karapatan(フィリピン人権連合)の活動に熱心に取り組んでいた。特に、20042月に殺害された
Karapatanミンドロ支部の総主事レイマ・フォルトゥのために、事実調査団を組織したことで狙われるようになったと思
われる。当時、ミンドロ島では、レイマ・フォルトゥの他にも、副市長ジュヴィ・マグシモらの殺害が続き、問題になっ
ていた。国軍の関与が疑われ、司令官パルパランは「屠殺人(butcher)」と呼ばれるようになってビサヤ地方に転任した
(その転任先で後述するラプス牧師らの殺害が起こる)。
 イザヤスの身にも危険が感じられるようになり、母親は活動を控えるように頼んだが、彼は、「民衆が僕を必要として
いるんだよ」「お母さん、僕に何が起きても、それはみんなのためになるのだから」と答えて母親を慰めた。
 2004428日、イザヤスは友人コズと二人で市長選の候補者だったボジェ・イグナチオ氏の家を訪ね、農地改革に関
わる裁判に出るための二千人の農民の交通手段について話し合い、午後9時頃二人で同氏の家を出た。遅い時間でトライ
シクルやバスなどはなかったので、歩いていたところ、黒のシャツ、ズボンを着て、左肩にサックを背負った男が後をつ
けてくることにコズが気付き、足を速めて次の交差点で二手に分かれた。コズは、イザヤスが通りを渡って行って間もな
く銃声を聞き、続いてイザヤスの苦しむ声を聞いた。コズは自分に向けて撃ってくる銃弾を避けてジグザグに走り、大声
で助けを求めた。幸い、そこのバランガイ(集落)の役員が気付いて警察を呼び、コズをANAKPAWIS(青年活動連盟)の
事務所へ車で送ってくれた。
 イザヤスの葬儀には多くの参列者があり、母親はイザヤスをまだ子どもと見ていたが、いかに多くの人に頼られる存在
になっていたかを知って驚いた。イザヤスの活動をよく思っていなかった祖父も、多くの参列者の声を聞いて、「自分の
孫の中に英雄がいたとは知らなかった」と言って考えを改めた。
 母親は、息子を死を契機に立ち上がる決意をし、同じような超法規的処刑の犠牲者の家族に呼びかけ、集まりを持ち始
めている。
 
<エディソン C.ラプス牧師の場合> (20065月 レイテ、殺害時38才)
 エディソンは、東北レイテのサン・イシドロで、小さなココナツ農園を持ち、トゥバ(椰子酒)のセールスで生計を立
てていた貧しい農家に生まれた。地元のUCCP教会でよく活動したので、シリマン大学神学部に送られ牧師になった。
タクロバン市や東北レイテの諸教会牧師を歴任、2000年に支教区長に選出され、20の郡市の教会を担当した。同僚の
牧師や信徒に信頼され、自分の持っているものを持っていない人と分け合っていた。開発による環境破壊にも関心を持ち、
教区の環境委員を務めていた。
 何よりも、自分が貧しい農民の子であることから、特に貧しい農民の支援のために働いた。被害に合う少し前の母親
の誕生日に縁者が集まった時、危険なのでこの土地を離れたらどうかと勧められたが、「貧しい農民を見捨てることは
できない、死んでもここに留まる」と答えた。
 エディソン牧師が働いた地域は、先祖代々の住民が農業を営んできていた。ところが、隣接地の大地主が政治家の友人
の助けを得てDAR(農地改革省)に工作し、農民たちの土地を書類上で自分の土地に書き替えた。その上で所有権を
主張し、農民たちに立ち退きを迫ってきた。その際提供された代替地は、遠い上、耕作できないような土地だった。これ
と闘うため、農民たちはKAMASを組織した。この闘いの法的な側面を支援したのがダクット弁護士だったが、彼は
エディソン牧師に3ヶ月先立つ20053月に暗殺された。エディソン牧師もこの闘いを支援し、農民の土地を守ることに
成功した。これが、エディソン牧師殺害の直接の理由だったと思われる。
 殺害の2週間前に、エディソン牧師の父の家が国軍の捜索を受け、将校が何度もやって来て、息子がいつ帰ってくるか
尋ねた。どういう意味かわからずに、父は、エディソン牧師の義父の葬儀が510日にあるので、その時は帰ってくるだ
ろうと答えた。
 葬儀の当日、墓地から出ようとしたとき、エディソン牧師の車から10メートルほどのところにオートバイが止めてあ
り、ヘルメットをかぶった二人の男がいた。友人が注意をうながしたが、エディソン牧師は「ここは自分の町だから大
丈夫だ」と答えた。家に帰って、参列者みんなに食事が振る舞われたとき、先の二人も食事をもらっていたが、ヘルメ
ットをとらずに食事をしたのを見て、友人は不審に思ったという。
 この二人は、20メートルほど先のサリサリストア(雑貨屋)でソフトドリンクを買ったが、店の人はオートバイのエン
ジンをかけたまま飲むのを不審に思っている。また、飲むときヘルメットをとったので、店の人は顔を見ている。
 この二人が家の方に近づいて来るのを見て、友人がエディソン牧師に声をかけ、彼が立ち上がって振り向いたとき、
二人が発砲し、エディソン牧師のほかいっしょにいたアヴェリーノが撃たれた。恐らく彼は、いつもエディソン牧師と
いっしょにいるアシスタントと体型が似ているので、間違えられたものと思われる。すでに5時半を回っており、薄暗か
った上、ヘルメットをしていたので顔は見えなかった。
 エディソン牧師の甥が追いかけ、二人のオートバイに近づいたが、銃を持っている相手なので危ないと思って引き返し
、警察に助けを求めた。訴えを聞いた警官は、今ここに警官は自分一人しかいないので、動けないと答え、記録もとら
なかった。後にマニラの新聞記者が取材に来たが、警察にはこの事件の記録が何もないと怒っていた。
 
<アンディ・パウィカム牧師の場合>20065月 ヌエヴァ・エシハ州、殺害時39才)
 アンディ牧師は、貧しい村の貧しい牧師だった。自分も村の農民と同様農業をし、米や豆や野菜をパレンケ(市場)で
少し売って現金収入をえるだけの、ほぼ自給自足の生活だった。最近政府の環境自然資源庁の許可を得て教会を建て、
その周辺に村人が家を建てて、共に祈り共に働いていた。37人の信徒の小さな教会だった。
 2006521日、日曜日の朝、礼拝を終えてアンディ牧師はひと足先に帰宅していた。アンディ牧師の義父(妻ドミ
ンガの父親)が買い物から帰ると、家には私服の男が3人いて、家に入れてもらえなかった。アンディ牧師は少し離れた
林の中に連れて行かれており、義父がそちらに行こうとするとそれも許されず、家から1キロほど離れた所にある国軍の
キャンプに止めておかれた。そこには国軍の兵士20人余りがいた。
 午前11時、義父はようやく家に帰ることがゆるされたが、アンディ牧師は家におらず、私服の3人は家に居続けていた。
そのうち、妻のドミンガさんと二人の娘、近所の人などが教会から帰ってきた。それで、アンディ牧師といっしょにいる
はずの一番下の生後5ヶ月の子どもがいないことがわかった。
 午後2時頃、銃声が聞こえたので家族がそちらへ行かせてくれるよう求めたが許されず、間もなく、子どもだけが連れ
て来られた。服が血まみれになっていたが、子どもは無事で、その血はアンディ牧師のものであったことが後でわかった。
 次の朝、アンディ牧師の遺体は葬儀場に運ばれてあるというので駆けつけると、両腕にはタバコの火による火傷があり、
片腕と片足の膝は逆にねじ曲げられ、頬から頭に抜ける銃弾の跡があった。家族はすぐに遺体を家に運んだ。
 軍関係者は、アンディ牧師が「NPAにもらった薬を持っていた」とか、「服のポケットに銃を入れていた」とか言
うが、「教会から帰ったばかりの牧師が銃など持つ必要があるものか」と近所の人は言う。事実NPAとの関係などま
ったくなかった。事件はそれで終わらず、村人全員に軍のキャンプに出頭せよという命令が出た。村人はみな、村を捨
てて逃げ、親戚に身を寄せていたりしており、村に帰れず畑にも行けないでいる。
 この背景には、「地方の共産主義勢力の根を絶つ」というアロヨ政権の政策がある。しかし、アンディ牧師が「国家の
敵」とされるのは、事実とのギャップが大きすぎる。
 
問われている日本の教会
 これらの事実の証言に接して、わたしたち訪問団が強く感じたのは、これらが決して偶発的な行き過ぎなのではなく、
アロヨ政権の基本戦略に基づいて、フィリピン国軍があからさまに動いているということである。「屠殺屋」と異名を
とったパルパラン将軍が在任したパラワンでマナノさんが殺害され、レイテに移って司令官在任中にラプス牧師が殺害
された。わたしたちのマニラ滞在中に行われた大統領演説(SONA)では、この人がアロヨ大統領によって賞賛されてい
る。農民たちと貧しさを共にしていた牧師が、NPAと関わりがあると疑われるか、あるいはそれを口実にして殺される
というのは、アロヨ政権の「対テロ戦争」戦略がバックになければ不可能である。
 わたしたちは、この聞き取り調査や、今度の訪問で学び知ったことを声明にまとめ、在マニラ日本大使館を訪問して、
資料と共に担当者に手渡した。声明の中では、このような人権侵害を行っている政府に対し、政府援助(ODA)を続け
ることは、フィリピン民衆に対して敵対的意味を持つこと、また人権抑圧的な政府には援助をしないというODAの原則
にも反していることを訴えた。
 日本政府は、ブッシュ米政権の「対テロ戦争」に荷担することにより、フィリピンでの民主主義への抑圧に大きく手を
貸している。そして、もっと直接的には、政府援助という形で、独裁化する政権の人権抑圧に手を貸している。かつて、
韓国やベトナムやインドネシアや南アフリカで、そしてフィリピンでもマルコス政権の時代に、日本政府は常に独裁政権・
人権抑圧政権の支援者であり続けてきた。今、同じ過ちをフィリピンで繰り返している。
 これは、単に「政治的問題」なのではない。単に「社会問題」なのでもない。フィリピンの教会は殉教の血を流しなが
ら闘っているのである。そこでは、教会であること、キリスト者であること、牧師であることは、民衆の生活を守ること
と切り離せない。そこでは、世界資本の利益のために行われる現政権の「開発」政策により、人びとの生活が破壊される
ことに対する闘いにならざるを得ない。そこでは、信仰は「共産勢力」や「テロリスト」と繋がっているという口実によ
る弾圧を恐れて引っ込むことはできない。信仰は闘いと直結しており、そこで殉教の血が流されているのである。
 「殉教」というのは、初代教会やキリシタンの時代の古い話、あるいはせいぜいボンフェッファーやマルチン・ルーサ
ー・キングまでの話……とわたしたちは思いがちだが、フィリピンでは今それが現実に起こっている。しかもそれは、わ
たしたちが結ばれている同じ信仰の絆のすぐ隣で起こっており、わたしたちもその原因を作っているのである。日本の教
会はこれをどう受け止めるのだろうか。浪費生活で麻酔をかけられた信仰的感性を、もう一度呼び覚ます必要があるので
はないだろうか。
               『福音と世界』2006年12月号掲載    
               →「“オプラン・バンタイ・ラヤ Aとは何か」(渡辺英俊訳)
                                  →トップにもどる