/徒然なる日々はかくありき





 朝食の後に開かれるいつものお茶会。午前九時を告げる時計の鐘が鳴り響くとこれまたいつもの如く閉会となる。参加していた面々が席を立つと、居間は閑散とした空気に包まれる。
 みんながそれぞれの予定を口にした後で自室や仕事場へと戻っていくのを最後まで見送り、一人居間に取り残される。

 いや、取り残される、といったら語弊があるか。自分の意志でここに残ったんだから。
 ぼう、としていると無意識にテーブルに手を伸ばしていたらしく、何も無い宙空を掴もうとして空ぶる。

「と、そういやお茶も下げてもらったんだっけ」
 間抜けな行動を誤魔化すようについ独りごちる。そうしたところで誰に見られてる訳でもないので欺ける相手が居るとすればそれは自分に他ならないのだけど。


「お茶ぐらい残してもらえば良かったな」
 琥珀さんの申し出を断った事のは自分なのだから仕方が無いのだけど…………。ちょっと後悔しないでもない。
 だがしかし、ただでさえ忙しい琥珀さんの仕事を増やしてしまうのはさすがに心苦しい。翡翠と琥珀さんはたった二人でこの馬鹿デカい洋館を管理してくれているのだし、出来る限りの負担は減らしてあげたい。
 なのに、琥珀さんと翡翠ときたら頑なにそれを拒む。
 二人は二人なりに主人の手を煩わせる事がなきようにという配慮から言ってくれているのだろうけど、悲しいかなこちとら根っからの庶民である。
 尽くしてもらって当然、なんて待遇に慣れてない自分が二人の厚意に甘えていては際限無しに自堕落になってしまいそうなのだ。それでもって結局は二人に気兼ねしてしまって余計な不便を味わっているのだが。

「うーーん。その辺りの事、一度しっかりと二人と話し合った方が良いのかなぁ」
 ただ、この話題を吹っかけたところで二人がどんな反応をするかは火を見るより明らかだ。

 志貴さまは主人なのですから、と無表情ながらに有無を言わさぬ視線で威嚇してくる翡翠と、何度言ってもこればっかりはダメですよー、とヤンチャ坊主を躾るように言う琥珀さん。
 そのどちらもがありありと目に浮かぶ。

 うーーん。なんか言い方法は無いかなぁ、と手持ち無沙汰になった手で頭をポリポリとかいていると、つま先の辺りが次第に熱を帯びてくる事に気付く。

「ん?」
 視線を下に向けるとカーテンの間から洩れる陽射しがかろうじてつま先の辺りを照らしていた。
 
「そういえば今日はあったかいな」
 暦は三月下旬。
 屋敷に漂う朝の空気はまだ少し肌寒くはあるものの、冬のそれとは違い身を切るような厳しさはなくなった。撫でるように吹き抜けていく風はほんの少し冷たくて、それ以上に 澱んだ空気を吹き飛ばす爽やかさと清涼さを兼ね備えている。
 そして半ばまで閉ざされたカーテンに遮られ、窓から控えめに差し込む陽射しもこれまた春の訪れを告げるように穏やかだった。


「よっと…………」
 ソファーの背もたれに深く背中を預け、ダラン、と足を放り出す。
ちょうど足全体が陽射しに照らされる格好になり、ポカポカとした暖気が足の先からじんわりと染み込んでくるようで実に気持ちが良い。
 何ともだらしない格好だけど、たまにはこういうのも良いだろう。
 この屋敷に居る手前、他の人の前じゃこんな事できやしないし。
 行儀に厳しい秋葉はもちろんの事、身を粉にして仕えてくれている琥珀さんや翡翠を前にしてするにもかなり抵抗がある。
 誰も居ない今だからこそという背徳感と、最低限に張り詰めている心の箍さえ外してしまう開放感。
 ぐてー、と弛みきった身体で時たま伸びをしてみたり、人目も憚らず大あくびを溢したりする。
 この屋敷では到底他人の目に晒す事のできない怠けっぷりを堪能してほどなく、


「ん。飽きた」
 導き出された結論はいたくシンプルだった。
 誰の目を気にする事なく振舞うのも、何をしても咎められないのもこれはこれで寂しい。
 誰が言い出したか分からないけど、人間は一切のしがらみから開放されると不自由であった頃に想いを馳せるというのは的を得ていると思う。いや、実に。

「どうしたもんかなー」
 このまま自室に帰っても、うららかな陽気に負けて昼寝をしてしまうのは明白だ。そうでなかったとしても、文庫に目を通すぐらいが関の山といったところ。もちろん、期末テストを目前に控えているとか補習中だとかじゃないので、自主勉強などといった選択肢があろうはずもない。
 

「さて、どこに行くか」
 離れや中庭は自室同様日光欲の誘惑に晒されてしまう。
 となると、残るは屋敷内。
 その中でも不自由に事欠かない場所といったら

「あそこしかないな」
 思案するまでもなく思い付いた場所に迷わず足を向けた。





§






 という訳で、到着。
 遠野志貴にとって至上の不自由を与えてくれる存在といったらやはり一つしかない。
遠野家を牛耳る御当主さまこと秋葉である。そのそのテリトリーたる私室といったらまさに鬼門。
 ただ普通に話をしていても些細な事で秋葉がへそを曲げたり、やぶ蛇であらぬ容疑をかけられたりして、気が付いたら秋葉にシバかれている遠野屋敷屈指の魔窟である。
 こと、遠野志貴においてこの部屋に居る限り、やる事為す事全てが負の方向に働いてしまうらしい。
 
 む…………。そういえばこの部屋で起きた事件ってロクな事が無いぞ。
 背筋をぞわぞわと這い登る悪寒に身震いし、やっぱり止めておいた方が良いんじゃないかと踵を返しかける。
 だがしかし、

「だからこそ退屈しのぎには持ってこいじゃないか」
 いつもならこれで引き下がるかもしれないが、今日ばかりはそうも行かない。安穏で退屈な時間に浸り切った頭ではネジの二、三本も外れていようというもの。
 飽きない時間を約束してくれる扉を前にして引き下がる事などできようか。否。できようはずもない。
 人は禁忌にこそ触れたがる愚かな生き物なのだー、と自分を奮い立たせてドアをノックする。


「秋葉。俺だけど入っていいか?」
「兄さん? どうぞお入りになって」
 間をおかず、落ち着き払った声が返ってくる。
  
「それじゃ失礼して」
 音を立てないようゆっくりとノブを回し、ドアを潜る。
 その、一連の作業がどことなくぎくしゃくしてしまうのは僅かに緊張しているからだろう。たとえ妹でも年頃の女の子の部屋に足を踏み入れる抵抗感というのはいつになっても、何度繰り返しても拭い難いものらしい。
 顔を上げ室内を軽く一瞥する。
 中央に敷かれた何やら高価そうな絨毯とその上に鎮座するソファーとテーブル。そしてその奥、やや窓よりに配置された勉強机で秋葉は参考書と睨めっこしていた。


「なんだ…………」
 さすがは、遠野家御当主であり名門浅上女学院生。
休日の過ごし方ですら模範的だ。一部の隙も見当たらないなんてお兄ちゃん残念です。


「部屋に入ってくるなり、なんだ、とは随分なご挨拶ですね、兄さん?」
 呆れているのか、怒っているのか。そのどちらでもあるのか。
秋葉はゆっくりと椅子ごとこちらに向き直ると鋭角的に細めた目で、じろり、と睨んでくる。


「だってさ、あまりにも予想通りだったから期待外れだったというか」
「期待に添えなくてごめんなさい。
 何しろ私、面白味も可愛げも無い女ですから」
 刺々しく言い捨て、ツーン、とそっぽを向く。
 捉えようによっちゃその態度は可愛くもあるんだけど。


「それで一体どうされたんですか?」
 腕組みをした秋葉は不快を隠そうともしない苛立った声音で訊ねてくる。
 さすがだ。入って二分と経たない内に窮地に立たされるなんて並大抵じゃない。やはりこの部屋は魔性の何かが棲み付いているに違いない。俺限定の。


「あーー、邪魔して悪かった。
 ちょっと話がしたかっただけなんだ。
でも勉強してたんじゃそういう訳にもいかないよな」
 からかいたいのは山々なんだけど、退屈しのぎに勉強の邪魔をするのは憚れる。
 こうなったらある意味秋葉よりリスクが高いけど琥珀さんの所に向かうとするか。

「じゃあな、秋葉。
 昼にまた会おう」
 背を向け、ドアに向かって歩く。

「ま、待って下さい。
 ちょうど一息付こうと思っていたところです。
 良ければ話し相手になって下さらない?」
 少し上ずった声で呼び止められ、足を止める。


「いいのか?」
 半信半疑な心境で肩越しに振り向いて訊ねると秋葉はわざとらしく咳払いを上げて口を開く。

「えぇ、ですから少しの間なら。
 今ここで兄さんを野放しにすれば、妙な気を起こして琥珀や翡翠の所に行くでしょうし。
 そうなる前に釘を差しておこうかと思いまして」
 む。どうやら見透かされているらしい。
 だったら、俺がここに来た理由っていうのも同上だと察しが付いてるだろうに、それを踏まえた上で相手をしてくれるなんて秋葉も中々お人好しというか。
 それとも言葉の通り俺が他の人に迷惑かけないように監視する心積りなのか。


「もしやここぞとばかりに説教するんじゃあるまいな?」
 不意に頭を過ぎる懸念。
 ここ最近で何かしたっけ?いや、無いぞ。たぶん。
 思い当たる節もないので堂々と胸を張るべきなのだが、日頃から門限破ったり夜中に抜け出したりと怒られる理由には事欠かないわけで。

「お望みとあればそうしますけど?」
 頤に手を添えて秋葉はくすり、と笑みを溢す。
 上機嫌になってくれるのは嬉しいけど口許に覗かせた嗜虐的な笑みは止めて欲しい。


「全然これっぽっちも望んでないのでその案は却下の方向で」
「あら、残念。
 今日こそ遠野家長男としての自覚をお持ち頂けるかと思ったのに」
「それを言うならお前。たまにはもう少し妹らしくしてくれよ」
「妹らしく…………?
 どういった意味なのか是非お聞かせ願いたいわね」
 反射的に口を突いて出たぼやきは酷く秋葉の勘に触ったらしい。怪訝に訊き返す声は低く、逆らいがたい威圧感を全身から放っている。
 まずった。どうやら地雷を踏んだらしい。
 ここで黙っていたらますます立場を危うくしそうだし、大人しく白状した方が身の為だろう。


   
「大した事じゃないんだ。ただ、少しばかり欲を言わせてもらうと女の子らしい一面を見せて欲しいかなーと」
「具体的にはどう振舞えと仰るのですか?」
「そうだな。
 ありきたりなところでいえば、花を愛でるとか…………」
 言って、想像してみた。


「…………すまん。俺が悪かった」
 なんていうか、すごく精神衛生上まずかった気がする。

「失礼ですね!
 自分で言っておいて謝るとはどういう事ですか!?」
「言っちゃ悪いけど秋葉にそういう少女趣味は似合わないじゃないか」
「えぇ、そうですとも! 
 確かに私にはそういった嗜好が無い事は認めます。
 だからといって、私が"可愛い妹"ではないと決め付けるのはいささか早計ではなくて?」
 歯に衣着せない発言に秋葉はひどくご立腹らしい。話を打ち切らず、食ってかかってくるのが何よりの証拠だ。 


「他に無いんですか? 兄さんが仰る、"理想の妹像"が持つ条件は」
何だか微妙に話が逸れてきている気はするが、掴みかからんばかりの勢いで詰め寄る秋葉を前にして話を軌道修正するのはひどく困難な気がする。
ここは大人しく相手に話を合わせるべきだろう。


「そうだな…………。それならもっとおしとやかにしてくれ」
「あら、私はこれでも浅上学院の生徒ですよ? 
 それでなくとも、遠野家の当主なのですから常日頃から優雅に振舞うように心がけております」
 フフン、と得意気に胸を逸らし髪をかきあげ、いかが?と視線を送ってくる。
 その動作だけ見れば筋金入りのお嬢さまなもんだから、付き合いの浅い人はそれでコロッ、と騙されてしまうんだろう。
 と、余計な事を言わない内に次に行こう。


「じゃあ、もっと甘えてくれ」
「ご冗談を。兄さんが頼りないから甘えたくとも甘えられないんでしょう?
 大体兄さんは優柔不断が過ぎます。」
 大仰に肩をすくめ、白々しく嘆息を吐く。
 甘えて欲しいとかそれ以前に兄貴の威厳すら持ち得てないのだと再認識。
ここまでくると、頼りにして欲しいとかもうどうでも良くなって自己保身に走りたくなってくる。


「…………何かにつけて俺を苛めるのは止して欲しい」
 もはや要望ではなく嘆願に近い、しかし嘘偽りの無い心からの言葉は、
「断ります」
 即答で否定された。
 
「ちょっと待て!
 最初の二つは百歩譲って認めたとしても最後のだけは納得行かないぞ!」
「当然でしょう?
 勘違いしておられるようですけど、これはれっきとした躾なんです。これ以上兄さんを甘やかしてたら際限なくつけ上がるに決まってるじゃないですか」
 険しい視線を向けてくる秋葉に怯む事無く睨み返す。
 視線と視線が絡み合う事しばらく。
 秋葉が退く気がないと分かり不毛な睨み合いから視線を逸らした時、視界の隅に秋葉が鼻で笑うのを見てしまって抑えていた感情を爆発させてしまった。


「なんだよ!
 たまにはこっちの言う事聞いてくれても良いじゃないか。
 お前は妹として兄を立ててるって言うけどな、慕われてる感じなんかしないぞ。
 会話一つするにしても腹の中探り合う兄と妹なんてもうこりごりだーーー!」
 半ばヤケクソになって叫びながら、ドアを力任せに開け放つ。
「あ、兄さ――――――」
 背中から呼び止める声にも耳を貸さず、廊下に出るなり脱兎の如く勢いで廊下を疾走する。お兄ちゃんとしては、言い訳無用なぐらいの醜態を晒して撤退するのだった。





§







 駆け込む勢いそのままに、ドアを後ろ手に閉める。乱暴な仕草にドアの軋む音と、部屋の中の空気が大きく揺れる。

「あーーー! もう最悪だ!」
 ドスン、という擬音が鳴りそうな勢いでベッドに腰を下ろす。
 ホント頭に来る。
 秋葉に言われた事もそうだけど、あんな事ぐらいでわめき散らしてしまった不甲斐なさに腹が立つ。
割と忍耐強い方だと思ってたんだけどな。自分はいつからこんなにも短気になってしまったんだろう。
 だいたい、あいつの部屋に居るときから自分が理不尽な事を言ってるってのは分かってたんだ。
分かってたのに。あいつに邪険にされるにつれて、二人の間の溝は考えていたよりずっと深いような、そんな気がして、筋も理屈も通ってない、ただ感情をぶつけるだけの幼稚な行為。
「はぁ…………」
重い嘆息を洩らす。
やり切れない悔恨や、自分の狭量さに、振る舞いをした自己嫌悪など上げればキリが無い。考えれば考えるほど、底なしの沼に沈んでいくように思考は悪化の一途を辿っていく。


 本音で言ったんじゃない。
 秋葉は良くやってくれているし、これ以上あいつに文句の付けようなんてない。
 勢いに任せて、堪ってた鬱憤を口にしてしまっただけなんだ。
 でも、だからこそ、それは紛れも無く本心から来るものでもある。


「あぁ、もう。自分の部屋で篭ってるとどんどん鬱になっちまう!
 外だ、外に行こう」
 もっともらしく理由を付けてみたものの。
 今、秋葉と顔を合わせるのが怖いのだと、嫌になるぐらい自覚していた。





§









「――――さん、起きて下さい」
「ん…………」
 意識は未だ微睡みをさまよっているが、耳元で囁かれているのだと気付く。
 誰かが起こそうとしている。
 それなら返事をしなくちゃな、と胡乱な頭で考える。

「…………秋葉?」
 と、寝ぼけたまま口を突いて出た言葉は。
 声をかけた人物は、まだ寝ぼけてらっしゃるんですねー、と可笑しそうに笑い声を溢す。
 
 あぁ、そりゃおかしいに決まってる。
 こんな寝ぼすけを起こしにくる物好きなんて、不幸な事に遠野志貴付きの使用人になってしまった翡翠か、隙あらば誰かれ構わずからかおうとする悪戯好きな琥珀さんのどちらかだ。
 それなのに、第一声が"秋葉"なんてそりゃ無いだろう。ちょっと考えればすぐ分かりそうなもんなのにどうしてそう思ったんだか。
 …………考えるまでもない。秋葉との喧嘩が予想以上に応えたに決まってる。


「志貴さーん、まだ寝ぼけてらっしゃいます?
 私が誰だか分かりますー?」
 手の平をヒラヒラと振ってこちらに意識を確認しようとする。
「ん? あ、ごめん。ちょっと夢見が悪かったもんだから、ぼーっとしてた」
 まだ眠気が抜け切っていないみたいだ。
 一応、琥珀さんの会話に応えているものの、意識は靄がかかったみたいに曖昧で自分が何をしゃべってるのかいまいち判別が付かない。


「そうですか。
 顔色が優れないようですし、てっきりお身体の調子が良くないのかと思っちゃいました。もう、駄目ですよ。いくら春先が近いとはいえまだまだ冷え込みが厳しいんです。縁側でお昼寝なんて風邪を引いちゃいますよ?
 ほら、お身体だってこんなに冷えてるじゃないですか」
 琥珀さんに半ば支えられる形で上半身を起こす。ん〜〜、と伸びを一つしてから頭を振ると、それで少しは目が醒めてくれた。

「そっか…………。結局ここに来ちまったんだ」
 我ながらひねりの無い思考回路だ、と自嘲する。
 あの後、部屋を飛び出してどこに行こうか迷った。
 屋敷の外に出ようとも考えたがポケットの中の財布は悲しいぐらいに軽かった。意地を張って街に飛び出す手前、夕食時にノコノコ戻ってくるなんて格好が付かないというのに、手持ちの金ときたら缶コーヒーとサンドウィッチを買えば尽きてしまう始末。とてもじゃないが夜が深けるまでネバれそうにもない。
 それから誰かの家に上がり込もうなんてのも却下。
こんなささくれた気持ちで会ったってロクな事になりやしない。今の状態だと、相手に気を遣われるのも、気取られぬよう明るく振舞うのも気が重い。

 それに何より翡翠や琥珀さんにまで余計な心配をかけてしまう。
 これが互いに非がある真っ当な喧嘩だったら例え二人に迷惑をかける事になっても引き下がるつもりなんて毛頭無い。だけど、今朝の件は文句無しにこっちが悪い。喧嘩ともいえない一方的な八つ当たりだ。二人を巻き込んで心労を煩わせるのは後味が悪過ぎる。
 だから屋敷から逃げる事はせず、覚悟を決める為に敢えて留まる事に決めた。
 それならば、秋葉と対峙するまでにも少しでも落ち着こうとこの離れに来たのだけど…………。


「すっかり寝入ってしまうなんて図太いな、俺も」
 寝癖の付いた髪の毛を撫で付けながら、ぼやくと、耳ざとくそれを聞きつけたらしい琥珀さんは腰に手を当て小さい子供にするようにメッ、と人差し指を立てる。

「全くですっ。
 秋葉さまなんてずっと上の空なのに志貴さんときたら、すやすやおねむなんて……。秋葉さまが気の毒ですよ?」
「もうバレてたんだ」
 敵わないなぁ、と苦笑を溢すと。

「バレバレです。
 何があったかは知りませんけど、今回は志貴さんに原因があるんでしょう?
だったら潔く謝ってしまった方が気が晴れますよ」
「驚いたな。そんな事まで分かるんだ」
 呆気に取られて顔を上げると、琥珀さんは着物の袖で口許を覆い含み笑いを溢す。

「えぇ。お二人ともやっぱり兄妹ですから、似ていらっしゃいますよ。
 本人には自覚が無くとも」
 そういうものなのだろうか。
 琥珀さんと翡翠は双子だからまだ納得は出来るけど俺と秋葉の場合は子供の頃の数年を一緒に過ごしただけだってのに。


「今回は志貴さん自身に非があると自覚しているご様子。
 なので、助け舟は出せませんからね?」
「あぁ、分かってる」
「では参りましょう。
 昼食の用意も整ってますし、二人が待ってますよ」
 気怠さを残す体に活を入れ一気に起き上がり、ぱんっ、両頬を叩いて気合を入れた。





§






 予想に反して昼食の席は滞りなく終わった。
 離れで話した時は、手助けしませんよー、と言っていた琥珀さんが場を取り成してくれたのだ。おかげで重苦しい沈黙が支配する中で淡々と食事を取る事態から免れた。
 翡翠は翡翠で俺たちの様子がおかしい事に気が付いていたようだけどそんな素振りは一切見せず、琥珀さんに合わせてくれた

 さて、ここまでお膳立てしてもらったんだから後は自分で片付けないと。


「秋葉」
 食後の軽いお茶を早々に飲み干し席を立つ。声をかけられた秋葉は萎縮した様子こそ見受けられないけれど表情が堅く強張っているように見えた。

「はい、何でしょう。兄さん」
「後で俺の部屋に来てくれ」
 緊張しているせいか、口調は端的かつ硬質だ。
 くそっ。もうちょっと言い方ってもんがあるだろうに。これじゃまるで命令してるみたいじゃないか。
 秋葉の機嫌をますます損ねやしないかと、肝を冷やしていると。


「分かりました。すぐに伺います」
 いつもの凛とした眼差しを向けてくる秋葉に、心の中で完璧に打ちのめされた。
 その気丈さが眩しくもあり、素直に羨ましかった。

「あぁ、急がなくていいからな」
 片手を上げ、軽薄な足取りでその場を後にした。





§






 カッチ、カッチ。
 平坦な早さと、単調な音。
 いつもは気にならない、ともすれば鳴っている事さえ気付かないでいた時計の秒針がやけに耳につく。


  ベッドに腰掛けて、秋葉が来るのを待つ。
  何もしないで待っているのは落ち着かないし、大袈裟に気構えてしまう気がしたので本でも読む事にした。
 
 何も深刻な話じゃないんだ。
 スパッと謝ってこんな嫌な気分とはさっさとおさらばしよう。

 謝ったところで秋葉がその場で許してくれる保証はないし、むしろ何らかの制裁を加えられそうな予感をヒシヒシと感じるのだが、このわだかまりを抱えているよりはずっと良い。
 

 カッチ、カッチ。
 秒針は変わらぬ早さで時を刻む。
 文庫本の頁を繰っていた指を止め時計の盤面に目を遣る。長針は略字の一区間も移動していない。
 捲った頁はいつの間にか文庫全体の三分の一にも届きそうな厚みになっていた。
 冒頭で心臓を串刺しにされるという問答無用な殺され方をした主人公が、今は道場でコミカルに死にかけている。何でも、"手頃に使える必殺技が欲しいと"口を滑らせたせいで自身の従者にお仕置きされたらしい。
 何がどうなってこんな展開になったのか分からない。間を繋ぐ途中経過がすっぽり抜けているのだ。まぁ、つまるところ上の空な頭では文字に目を走らせても内容の方はてんで理解できないという事だ。


 こんこん、とノックが響き渡る。
 慌ててベッドの傍らに文庫本を置き、姿勢を正す。身構えたら余計に緊張すると分かっているのにそうせざるを得ない自分の小心っぷりが嫌になる。

「開いてるよ」
 内心の動揺をひた隠し、努めて平静な声で返答する。

「失礼します、兄さん」
 悠然とした足取りで近寄る秋葉の前に椅子を置き、座るよう促す。ありがとうございます、と頷いて腰を下ろす動作も淀み無い。
 ほんと大したものだ。どうしたらそこまで平然と振舞えるものなのかと感心していると顔を上げた秋葉が訝しそうな視線を寄越してくる。


「どうかしましたか?」
「あ、いや。何でもない」
 ここであらぬ誤解を招いては仲直りどころかますますこじれてしまう。極力穏便に、事を荒立てないよう進めないと。


「………………」
 とはいったものの、上手い切り出し方が見付からない。
 下手に遠回しに話すのも秋葉の性格からして嫌われそうだし、場を和ます話術など持ち合わせていない。
 あぁ、くそ。こういう時有彦だったら器用に立ち回るんだろうに。…………む、アイツの事思い出したら無性に腹が立ってきた。今度会ったら適当に理由付けて殴ってやろう。


「……………………」
 途方に暮れている間に室内にはどんどん息苦しい沈黙が充満していく。そのずしりと胸に圧し掛かる居心地の悪さに堪えられず、とうとう顔をあげる。


「秋葉、聞いてくれ――――」
「兄さん、その――――」
 二人の声が重なる。
 口を開こうとしていた二人は見合わせる格好になり固まってしまう。呆気に取られた表情で口を閉ざす事も忘れてしばし見詰め合う。
 待て待て。せっかく話が始まりかけたのにここで黙っちゃまた振り出しだ。
 秋葉の先を譲るべきかと僅かに逡巡していると。


「あ、では。私の方から宜しいですか?
 失礼だとは思いますが手早く済ませたいので」
「分かった。秋葉がそう言うのなら」
 すんなり同意を得られた事に安堵してか僅かに口許を緩める。そうして、静かに一呼吸置いた後、真剣な面持ちと眼差しで真っ直ぐに見据えられる。

「先ほどの言い争いですが、私も少々大人げなかったと思います」
 秋葉の口から飛び出した言葉は全くもって予想外であり、自分が話すつもりでいた台詞でもあったので完全に虚を衝かれた形になる。
 うろたえ、落ち着きを無くした上擦った声で秋葉に待ったをかける。

「待て待て。お前が謝る必要なんてないぞ。
 あれは完全に俺が悪かったんだし、ここにお前を呼んだのも謝るつもりで――――」
「いいえ。確かに兄さんの仰る通り、無条件で兄さんの頼みを受けた事が少ないです。
 事情を詮索してから、というのがほとんどでしたから」
 力強い声でこちらの言葉を遮り、悄然と目を伏せる。
 

「だって仕方ないだろ。
 名のある名家の当主としては長男が好き勝手するのを見過ごすわけにいかないんだし」
「だからです。遠野家当主として接するあまり、妹として兄さんに見られなくなってるんじゃないかと危惧もします」
「いや、あれは言葉のあやっていうか…………ただの世迷言だ。
 綺麗さっぱり忘れてくれるとこっちも助かる」
「そうはいきません。
 兄さんはそれで良くても私の気が済みません。
 先のお詫びを込めて、私なりに考えた方法で兄さんに接しようと思います」
「あ、えーと…………?
 何でそうなるんだ?」
 唐突な展開に疑問符を浮かべたまま首を傾げると、こちらの物分かりの悪さがじれったいのか秋葉は苛立たしそうに声を荒げる。


「ですからっ!
 兄さんが"あんな事"を言い出したのも元々は私に"妹らしさ"が足りなかったからなんでしょう!?
 だったら、兄さんの言う"可愛い妹"として接すれば汚名を返上できるじゃないですか」
「あーーー、なるほど。
 いや、でもな。そんなのって付け焼刃で身に付くものじゃ――――」
「何か文句でもありまして?」
「…………いえ、ありません」
 秋葉の為を思って呟いた台詞も底冷えのする声に一蹴される。
 おかしい。お詫びに尽くしてくれるっていうのに脅迫されているようにしか感じない。
思い立ったら即行動な秋葉にはこれ以上何を言っても聞きやしないだろう。
 先が思い遣られるけどこれ以上何か言えばますます事態は悪化しそうだし、一応は厚意で頑張ってくれるというだかならありがたく頂戴しよう。


「あい、分かったよ。
 それで、秋葉の言う理想の妹って何なんだ?」
 秋葉がどんな解答を用意してくるのか興味は尽きない。
 怖い物見たさと面白い物見たさとが半々、といったところか。


「はい。世間の風潮がどのような物かは存じませんが、私の考えた妹像。それは痒い所にも手が届く細やかな気配りができるという事です」
 ふむ、と首肯で相槌を打つ。

「そもそも兄妹という関係でありながら献身的に"尽くす"のは何か違う気がしますし、身の回りの世話という事でしたら兄さんには既に翡翠が付いていますから同じ土俵で張り合ってエキスパートである彼女に及ぶべくもありません。
 ただ、"尽くす"とはまた違った"世話を焼く"、程度の範囲なら兄妹でも不自然ではないでしょうし、使用人の領分からも外れているでしょう?
 もっとも、兄さんが翡翠にそういった事までお願いしているんでしたら話は別ですけど」
 語尾にやたらと力を入れて、じろり、と睨め付けられる。敵意を通り越して殺意にも似たプレッシャーは口を開く事も許してくれず、代わりに首を横に振った。


「そう。でしたら問題ありませんね。
 では耳掻きなどいかがかしら、兄さん」
「耳掻きか…………」
 秋葉の事だからトンデモな勘違いをしてくれるかと思ったけど、意外と的を得ているかもしれない。多少気恥ずかしくはあるけど、せっかく秋葉の厚意を立てる為にもどうにか辛抱しよう。 


「じゃ、宜しく頼むよ」
 ごろん、と横になる。
「それでは失礼します。」
 椅子毎ベッドの傍にと移動し、こちらの耳を覗き込むなり秋葉の動きがピタリ、と止まる。横目で盗み見ると、何やら難しそうな顔でブツブツと独り言を漏らしている。
 その様子に得も知れない危険を察知し、素早く身を捻り仰向けになると腹筋の要領で上体を起こす。
 
「待った、秋葉。
 お前、誰かに耳掻きするのって何回目だ?」
 元通りベッドに腰掛ける格好になり向かい合う形で詰問すると、秋葉は驚いた風に目を丸くする。

「何回目って…………。そんなの今回が初めてに決まってるじゃないですか」
「やっぱり耳掻きは無しにしよう」
 ベッドから降りようとしたその試みも即座に横手から伸びてきた手によって制止させられる。

「どうやら兄さんは私の耳掻きにいたく不安を抱いているようですね。
 良いでしょう。こうなったら意地でも私の耳掻きが良かったと認めさせてあげます」
「意地の張り合いはもう終わったんじゃなかったのか!?」
「いいえ! これは私の女としてのプライドです。
 勝負を持ち込んだのは兄さんの方なのですから大人しく受け入るべきでなくて?」
「じゃ、その勝負不戦敗でいいからとにかく退いてくれ。
 耳掻きされるのだけは嫌だ!」
 本能が全力で危険を告げている。
 秋葉の手を払い退け、中途な姿勢で固まった身体に力を入れようとした刹那。

「往生際の悪い!」
「うぉっ!?」
 事もあろうに、秋葉はベッドから降りようとする俺に飛び付いてきたのだ。組み伏せられるままベッドの上に仰向けにされ、秋葉はその上に跨る格好になる。

「いくら何でもはしたなさ過ぎやしないか!?
 っていうか、そもそもこの体勢おかしいぞ!」
 マウント・ポジションで労われても全然癒されねーー!

「聞く耳もちません!
 さぁ、観念なさい!!」
 秋葉はこっちの頭を両手で鷲掴みにすると躊躇無く真横に捻ってみせた。
「ぐぁっ!!」
 グキッ、と首の奥のほうで嫌な音が響いた気がした。
 首の筋が突っ張って、なんか今にも千切れそう。
 意識は朦朧で、気を抜けばあっという間に霧散してしまう。しかし、この状況で気を失うのは死に等しいと確信し、必死で意識を繋ぎ止める。


「ふふ。どうやら兄さんも諦めてくれたようですし、いよいよですね」
 あまりの痛さに声も出ないだけだっつーのに。
 それにしても、強引に頭を押さえ付けながらされる耳掻きってこんなに怖いものなのかと思い知る。
 逃れたくても、下手に動くと尚更危険なので大人しく事が済むのを待つしかないのである。
目を瞑り、居るかもしれない神様に胸中で祈る。
 どうか秋葉が慎重かつ思慮深い行動を取ってくれますように、と。

「…………では、行きます。えいっ!」
 そんな願いを嘲笑うように、 "振り下ろされた"耳掻きは一片の躊躇も遠慮も無く、耳の中の何かを確かに貫いた。

「×☆‰※○!?」
 ビクン、と身体が弓なりに仰け反る。
 耳の奥を貫く衝撃に意識が飛びそうになる。
 歯医者とかで神経に直接触れられる痛さとは違った、頭の奥から響く激痛。
 たぶんこれは、このままいけば脳に到達するという警告。生命を脅かされた事に対する脳の悲鳴だ。
  
「あ、あら? 
 何か違ったかしら…………。
 こ、今度こそ大丈夫です。はっ!」
「g☆○y‰※׆pーーーー!!!?」
 耳掻きに掛け声は止めてくれ、と思うのを最後に意識はそこでプツリと途切れた…………。






§






 
「う、ぐぅ…………」
 耳の穴を抑えて呻く。

「おぉぉぉ…………」
 地獄の亡者よろしくひたすら呻く。

「う、うるさいですね!
 いくら何でも大袈裟じゃなくて!?」
 みっともない、と秋葉の叱咤が飛んでくるがそれはいくら何でもあんまりだと思う。

「お〜ま〜え〜なぁ〜〜。
 どれほど痛かったか分かって言ってんのか?」
 ガシッ、と秋葉の両肩を掴んで両目を覗き込む。

「そ、それは…………。
 ただ、ちょっと奥に刺し過ぎただけでしょう?」
「全然ちがう!
 刺し過ぎなんて簡単に言ってくれるな!」
 全くもっとそんなレベルじゃない。
 あれはもう陵辱というか、穴という穴を蹂躙されるのってこんな感じなんだなーって、分かりたくもないのに分かってしまった。…………男なのに。


「だからって…………いつまでも拗ねてないで下さい。
 何ですか、一度の失敗ぐらいでグチグチと。
 今度こそは大丈夫です。自信がありますから。さ、早くうつ伏せに寝て下さい」
 兄の上に跨ったまま、至上傲慢な物言いで信じられない言葉をサラっと告げる鬼妹。

「次ぃ!?
 まだ何かするのか」
「耳掻きではご満足頂かなかったようですし、そんなに文句を言われたら私だって後味が悪いじゃないですか」
「後味悪くたっていいからそのまま帰ってくれ。」
「そうはいきません」
 秋葉は取り付くしまも無くきっぱりと断言してみせた。仁王立ちならぬ跨りながらの腕組みをしたままで。


「ちなみに、何をするつもりなんだ?」
 喉に溜まった唾を一息に流し込み、震えそうな声で訊いてみる。

「肩叩き――――」
 む…………。それならさっきよりかは多少マシかもしれない。少なくとも脳みそ貫かれるほどの危険は無いのだし。

「――――ではあまりに芸が無いので、もう少し捻って整体を」
 言い終わって無かったらしい言葉を紡いだ秋葉はにこやかに死刑宣告を告げる

「…………待て。だから何でお前はそう嗜虐的な方向に走るんだ?
 普通の肩叩きで十分じゃないか」
「何を言うんですか。万年虚弱体質のくせに不摂生ばかりなさる兄さんには肩叩きなんて甘すぎます。
 時南先生に相談してみたところ、それはもう好意的に協力を申し出て下さいました。
 先生手ずから、初心者でも出来る整形指南書を書いて頂いたんですよ?」
「あんなもうろく爺さんの書いた物が信用できるか!!」
 なんたって診療に訪れる度、新しく開発したツボを患者で試そうとする外道じじぃだぞ。
 その指南書とやらだって信用できたもんじゃない。むしろ、ここぞとばかりに俺で実験しようという魂胆かもしれない。
 仮にそのガイドが正しくたって、いまいち加減知らずな秋葉に身体の矯正を任せるのは物凄く不安だ。治療が終わる頃には動く度に身体のあちこちからバキボキに音が鳴りそう。

「とにかくだ、そんな危ないものは捨てろ。っていうか、今すぐ降りてくれ」
 上に跨る秋葉ごと起き上がろうと腹筋に力を入れる。
 するとそうはさせまいと、再び秋葉が圧し掛かってくる。

「おまえな〜〜。降りろってーの」
「いいからっ、寝てください!」
 互いの両手をガシッ、と掴み睨み合う。まともな状態でなら腕力比べで秋葉に劣るはずもないのだが、中途に 上半身を起こした体勢なのとマウント・ポジションを取られているせいで二人の力が拮抗する。

「そもそも、何だってそうムキになるんだ。
 お前、何か隠してるだろ?」
「――――っ!」
 声こそ洩らさなかったものの、秋葉はものすごく密やかに息を呑んだように見えた。
 秋葉の態度はやっぱりどこか不自然だ。
 ほとんど鎌かけに近かったがどうやら図星だったらしい。

「そ、そんな事はありません!
 いいから、兄さんは黙って私の整体マッサージを喰らいなさい!」
 一気に決着を付けようという腹積もりか、秋葉は上体を大きく後ろに逸らし反動を付けた勢いでこちらを押し倒そうとする。その刹那、大きく身を乗り出した為かスカートのポケットから何かが零れ落ちる。


「何だそれ」
 そちらに意識が逸れ、秋葉との組み手を離す。それを確認しようとのそのそとベッドの上を這って手を伸ばそうとしたところで横から悲鳴があがる。

「え? きゃぁぁぁぁっ!?」
「あ…………」
 拮抗していた力と対峙していた相手を失った秋葉は頭突きもかくや、という勢いでベッドに頭から突っ込んだ。

「き、急に何をするんですか兄さん…………」
 ベッドの上でもなお痛かったのか、ほんの少し涙目になりながら恨めしそうな視線を送ってくる。

「いや、悪い。
 お前が何か落としたみたいだから気になったんだよ」
 さきほど指先に摘み上げた手紙のようなものをヒラヒラと振ってみせる。

「それはっ――――」
 驚愕に目を見張り、口をパクパクと開閉させる。

「なんだよ、そんなたいそうな物じゃないだろう」
 秋葉の驚きようが気になって回収した物に目を落とす。

「あれ…………これ」
 ぱっと見た感じでは真っ白だったから紙だと勘違いしてたらしい。指先から伝わるツルツルとしながら硬質な感触から何かしら加工を施されたカードのような物であると気付く。それならば裏面が白一色なのも頷ける。
 指先を翻し、表にしたそれは。

「なっ…………!」
 こんどはこちらが驚愕に固まった。
 目を釘付けにされる。
 指先に摘んだ 写真は、まだ小さかった頃の秋葉と自分。そして、その秋葉のおでこに口付けをしている場面だった。


「なんでこれを…………!?」
 この写真は二枚と無いはず。琥珀さんの言葉が正しければ俺があの箱を開けるまでこの写真は十年近く門外不出となっていたのだから。

「まさか…………」
 机の引出しを乱暴に開け放つ。
 そこにしまっておいた写真が無い。

「お前…………。勝手に持ち出したのか?」
 ベッドの秋葉に振り向くと罰が悪そうに目を伏せたまま消え入りそうな声で口を開く。

「…………すいません。
 朝の一件の後、兄さんを追ってこの部屋に上がった時に見付けました。
 何の断りも無く持ち出した事については謝ります。
 ごめんなさい」
「あ…………まぁ、それなら良いんだけど」
 殊勝に謝られて拍子抜けを食らう。
 秋葉の謝罪を聞いてると物凄く悪い事を咎めたような気がしてならないけど、実際は見られたくない写真を見られただけだし。
 そう考えたのを見透かされたのか、秋葉も同じ思いだったのかうな垂れ力無くした様子から一転、秋葉は訴えるような眼差しを向けてくる。

「でも、兄さんも兄さんです。
どうしてこの写真の事私に黙っていたんですか?」
「いや、どうしてって言われてもなぁ」
そんなの、恥ずかしいからとしか答えられない。

「幼少の頃の兄さんの写真は全てお父さまに焼却されました。
 でも、それがただ一枚だけ残っていた。それも兄さんと私のツーショットで。
 兄さんはあの日々が私にとってかけがえないモノだったとご存知でしょう?
 それを知った上でこの写真を隠しているなんてあんまりです」
 寂しそうに、悲しくてやり切れない様子で呟く。
 秋葉の抱く幼少頃の思い出は俺が考えていたよりもずっと深い処に根ざしていたらしい。


「黙ってて悪かった。
 でも、あまり人に見せたくないじゃないか。
 ほら、ちっちゃい時の写真ってなんか恥ずかしいし」
 秋葉から視線を逸らし、照れ隠しに頭をかく。
 自分じゃ分からないけどたぶん、顔も真っ赤になっているだろう。

「そ、そんなのそこに映ってる私だって一緒じゃないですか!
 他人ならいざ知らず、少なくとも私にはその写真を知る権利があったはずです」
 そういう秋葉も頬を朱に染めてそっぽを向いてしまう。
互いに照れてしまって何だかやり辛い。

「ほら」
 顔を背けたままの秋葉に写真を差し出すと、秋葉は事態に付いていけないようで顔を上げる。

「え?」
「お前に預けとく」
「で、でも…………。これは兄さんの大切な物でしょう?
 だったら――――」
「お前がさっき言ったんじゃないか。
俺同様、秋葉にとってもかけがえのない物だって
 あぁもうっ。こんな恥ずかしい台詞言わせるなっての」
 頭をクシャクシャと掻きながら、秋葉に写真を押し付ける。
 慌てて両手で受け取った秋葉はしばらく呆然として、しばらくすると本当に嬉しそうに頬を緩めた。

「それではありがたく頂きます」
 手に取った写真を、そっと胸に抱きしめ秋葉は瞼を閉じる。
 取り戻した思い出を二度と離さないように、失わないように、と。
 
 ――――その姿に、神に祈りを捧げる修道女を幻視してしまう。
 
 あぁ、なるほど。祈るっていうのはこういう事なんだ。
 崇拝する神様だとか場所とかは関係ない。ただ一心にそれだけを祈る姿は見る者の心さえ打つんだ。

 儀式を終え、秋葉が顔を上げる。祈りを捧げ追えた秋葉の表情は実に穏やかで、優しかった。

「それにしても兄さんがこの写真を大事にしているのは意外でした。
 それほどまでに恥ずかしがるんでしたらら、誰にも見られないよう捨てるか焼却すれば良かったのに」
「バカ。俺にも大切な思い出だって言ってるだろう。
 でも見られるのは嫌だったから、誰の目にも付かないようにずっと引出しに仕舞っておくつもりだったんだ」
 すでに琥珀さんには見られてるが元々この写真の存在を教えてくれたのは彼女だから仕方無いだろう。ただ、これ以上他の人間に見られるのは勘弁だ。
「そうですか。それは私にとって僥倖でした」
 そう口にし、満面の笑みを浮かべる秋葉。
 こんな事ならもっと早くに写真の事を教えてやれば良かったと思う。
 今だって、写真を見詰めたままクスクスと肩を震わせて含み笑いを――――って、何か邪な雰囲気を発してないか?


「ふふ…………。
 兄さんと私の初キッスの写真。
 これを見せればあのアーパー吸血鬼もカレーメガネも、真に兄さんの想い人たるのが誰なのか認めざるを得ないでしょう」
「ちょ、ちょっと待て。」
 大切な思い出をそんな風に扱うのは止してくれ。

「ふっふ…………。手始めにまずは翡翠と琥珀よ!
 それでは兄さん、ごきげんよう」
 軽い身のこなしで立ち上がり、ご丁寧にスカートの裾を摘んで優雅に一礼したかと思うと、オーホホホ、なんてやたらと様になる哄笑をあげながら部屋から走り去っていく秋葉。
 展開に付いていけるはずもなく唖然と見送るものの、唐突に我に返る。

「止まれーーーーー!
 俺の思い出を穢すなーーー!!!」
 足音からして秋葉の向かった先はリビングだ。まずは翡翠と琥珀さんに見せようって魂胆なのだろう。それが終われば次はアルクェイドやシエル先輩の所だ。
 今の人外じみた秋葉にとてもじゃないが追い付けるとは思わないが、降りかかる受難には全力を持って抗うべきだろう。

 …………結局。何をどう悩もうとこの屋敷にいる限り、退屈とは縁遠き遠野志貴なのであった。