ベンヤミン・ステレオ写真・ネットワーク
細馬宏通
皇帝パノラマ館
ベンヤミンのイメージの中核のひとつがステレオ写真だと言ったら、唐突に聞こえるだろうか。彼が語る「パノラマ」が、しばしば幼年時代に観た「皇帝パノラマ館(カイザーパノラマ)」というステレオ写真装置を指していることは、後の彼の思想を考えるポイントとなる。
カイザーパノラマのヴューワーから覗きみるフィヨルドや椰子の木。ヴューワーのフレーム=「窓」とその向こうの世界の間には、ステレオ写真ならではの距離感が感じられる。遠近の狭間に置かれた「窓」によって、向こうの風景は、単なる異国とは別の感情をひきおこしていく。
「その遠い世界がわたしのうちに喚びさます憧憬の念は、かならずしも未知へと誘い出すようなものではなくて、むしろときとしては、ふるさとへ回帰してゆこうとするあのいっそうやさしみをおびた憧れであった(ベルリンの幼年時代)」。
カイザーパノラマ館には音楽はなく、ただ、写真が切り替わるときに鳴らされる合図の鐘の音だけが響いた。ベンヤミンはステレオ写真を包む静寂と、鐘の音を愛した。その音が鳴るたびに、風景は「いつももの悲しい惜別の思いに深く浸されるのであった」。
パノラマの風景は、やわらかい間接光に包まれていた。強く明るい光の下での鑑賞とは違った、微妙な光の中の風景。ときとして照明装置は故障したが、そのアクシデントすら美しかった。色彩が消え風景が薄暮に沈む瞬間。音楽のない時間。「風の音や鐘のひびきまでも聞きわけられたかもしれないようであった。」
彼の文章にはさまざまな形で、カイザーパノラマへの憧憬が見られる。
「夢想家は形象のうちに安らぎと永遠とを得るのだ。掠め飛ぶ鳥の翼、身震いさせる激しい風、突きあたってくる近景、これらことごとくがかれの偽りを避難する。けれど、かれの夢を再び紡ぎあげてくれるのは彼方の遠景。雲の壁にもたれ、橙火のともった窓辺という窓辺で、かれはまた新たに光り輝く。あらゆる動きからそのとげ抜きとり、突風は風のさやぎに、掠め飛ぶ撮りは渡りゆく鳥影に変えられたら、これがかれにとっては完璧となる。かく自然に静止を命じ、それを蒼ざめた形象の枠内に収めることが夢想家の喜びといえよう。自然を新たな呼びかけで呪縛すること、これは詩人の天分である。」(遠き彼方と形象/一方通交路)
円筒の内側は遠く懐かしい世界だ。それを円筒の外から覗きみる、幼年のベンヤミン。しかしこの美しいイメージは、やがて彼のバロック的思考によって反転されていく。わたしたちは皇帝パノラマ館の外から内へと、誘われて行くのだ。
外から内へ
ベンヤミンの「皇帝パノラマ館」は、ワイマール時代のドイツに関するいくつかの断章からなっている。カイザーパノラマの仕組みを知らなければ、この断章の集まりになぜこのようなタイトルが付けられたのか、にわかにはわからない。しかし、カイザーパノラマが、何枚ものステレオ写真をいれかわり見ていく装置であることを思い出せば、このエッセイが、ドイツのさまざまな精神風景を断章として次々といれかえていこうとする試みであることに気付く。
しかし、ベンヤミンは、次々と悲観的に語られるドイツを、ただパノラマの観察者のように、風景として漫然と眺める立場にはいない。
「この国の円周内に囲いこまれたひとたちは、人間らしい人物の輪郭に対する眼識を失ってしまった。およそ自由闊達の士は誰でも、かれらのまえでは奇人と見える。アルプス山系の山脈を、ただし蒼穹にくっきりと浮かび上がった姿ではなくて、黒ずんだ布の皺を背景にしたところを、想像していただきたい。堂々たる威容も、ごく朧ろな輪郭しか見えず、もうひとつパッとしないはずだ。これとまったく同じで、一枚のカーテンがドイツの空を覆ってしまったために、ぼくらは大偉人の横顔さえ、もはやわからぬ始末である。」(皇帝パノラマ館/一方通交路)
皇帝パノラマ館が円筒形=円周であったことを思い起こそう。幼年時代、パノラマの外部にあって淡い風景を覗いていたベンヤミンの姿はここにはない。円周の内側そのものと化し、覗くべき中心を失ったドイツがあるばかりだ。
外から内へ。この反転は「パサージュ論で」でさらに拡張される。 パサージュ。透明なガラスの天井に覆われた近代のアーケード。そこは天井に覆われた「室内」でありながら、建物の「外」の街路でもある。 パサージュの中は天井のガラスの淡い透過光に包まれ、さながら水族館の内部であった。ステレオの風景が淡い間接光に包まれていたことに対応している。
「パサージュの通行人は、ある程度はパノラマの住人である。パノラマの窓は彼らに向いている。彼らは窓から観察されているが、彼らのほうは内側を見ることができない。(パサージュ論)」
ネットワークの窓
こうした二重の立場は、そのままネットワーカーにも当てはまるだろう。わたしたちはネットをROM(lurk)しつづけているときでさえ、単なる観察者で済まない。あなたの足取りを見たシステム管理者が、いきなりメッセージを送ってくるかもしれない。ときにはあなたの使っているブラウザが、「いま送った情報は先方に届くまでに誰かに見られている可能性がある」と親切に教えてくれるだろう。わたしたちは徘徊することで、窓=モニターから観察される立場にわが身を置く。
もし、ネット上でなにか発言をすれば、こうした感覚はいっそうはっきりするはずだ。わたしからは窓は見えない。ただ、わたしたちの発言に対し、それまで知らなかったさまざまな好意や悪意、あるいは好意とも悪意ともつかない見たこともない態度にわたしたちは突然行き当たる。そのときこそ、窓の存在が明らかになる。ネットワーカーは、窓を介して対話をするのではない。対話によって、窓が現れるのだ。
ネット・サーフィン、ネット・ダイヴィング、ネットワークが語られるとき、しばしば海がメタファーとして用いられる。しかし、窓が現れるとき、わたしたちはネットワークが海ではなく、巨大な水族館、巨大なパサージュであることに気づかされるだろう。
わたしの行為は他者の窓=モニターの内側にある。わたしは次々と切り替わる風景となり、多種多様なイメージとなって他者の窓に現れる。わたしもまた、自身の窓=モニターからその風景を眺めている。
AltaVistaの山々を眺めながら検索されるリンクには、思いがけないほど個人的なページが含まれていることがある。恋人に向けて能天気に愛を語るページがあり、知人に息子や娘を一人一人紹介するページがある。明らかにわたしとは別の世間に向けて書かれたものだ。わたしは違和感を感じる。わたしは笑う。驚く。呆れ果てる。わたしはうっかり、テクストにそぐわない窓から覗いてしまったのだ。ネットワークはいたるところに窓を穿つ。笑い、驚き、呆れ果てることで、わたしは彼/彼女の窓と自分の窓の近さ遠さを知る。それがネットワークで生活することだ。わたしは我が窓に向けてテクストを書く。それはあるいは誰かの笑いや驚きや呆れを誘うかもしれない。すべての窓に向けられたページなど存在しないし、する必要もない。
「真実には窓がない」。ベンヤミンは「モナドロジー」に倣ってそう書きとめている。窓を笑い、窓を忘れるまい。
(「ステレオ−感覚のメディア史」/ペヨトル工房/吉村信+細馬宏通/より1996.07.17 改訂)
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