中学入学を控えた主人公原田巧は、その歳にしてすでに名ピッチャーとしての素質を備えていた。誰かに強制されるわけでもなく、誰に教えられるわけでもなく、自らに課題を課し、どこまでもストイックに、投手としての才能を鍛える、ただそれだけに注力する孤高の少年。巧は家族と共に引っ越した新しい街で、同い年の永倉豪と出会う。永倉は巧にバッテリーを組むことを申し出る。
大人をも魅了する児童文学作品、そこに惹かれて読んでみた。確かに読んでいるあいだ、これは児童文学じゃないと思わせるものがあった。それは、主人公原田巧や永倉豪らがあまりに大人びているせいだけではない、登場人物たちのやり取りやその描写が骨太なせいもある。巧はとにかくませているなんてものじゃない。揺るぎない自信と、野球以外の関心のないもの全てを退ける排他的態度。こういう奴は一遍挫折を覚えないと駄目なんだよなと、経験者ぶって苦々しく思いつつ、でも巧の分析力は常に冷静で、決して間違ってないことのほうが多いし、それに「お前は世界の王様か!」(by 原田宗典)って時期は誰にでもあるもの。自分にもそんな時期があったことが思い出され、巧を毛嫌いするどころか、少し共感を覚えたりもする。一方、子供を理解しようとしない親たち。子供が好きなもの、野球のこと、子供の気持ちに無理解というのか、無関心な態度。いやむしろ子供の気持ちを理解して、その上で何より子供のためを思って、の態度だから尚更手に負えない。そういう態度がますます子供との溝を深くしていることに大人は気付かない、気付けない。そんな大人の無知な反応に、それ本気なの?と真っ直ぐに問い返す巧の視線が自分にも向けられているようで痛い。作中の大人に腹が立ったのも久しぶり。それって、つまり子供の目線なのだと気付き、これはやはり紛れもなく児童文学作品なのだなとも気付く。巧の弟である青波がまた可愛いんだよね。巧がとびっきり生意気な少年だとしたら、青波はとびっきり可愛く描かれている。刺々しい巧と真逆のキャラを置き、場の雰囲気を中和するための存在かと思いきや、実は巧をも上回る存在感を見せ付けるキャラであったり。青波は大人の側からすると「いい子」なんだけど、青波は別にいい子ぶってるわけではない。青波は青波なりに、ありのままに生きているとも言えるし。子供ってそう単純な存在ではないのだなと今更のようにあらためて思う。
巻末の「あとがきにかえて」を読むと、作者がこの作品に託したものを知ることができる。実に熱い。本作が、しっかりと歯ごたえのある物語であることも頷ける。生まれるべくして生まれた傑作だと感じた。第35回(平成9年度)野間児童文芸賞受賞。
中学生になり、野球部に入部した巧と豪。巧はそこでも他を寄せ付けない実力を見せ付けるが、命令に服従させようとする野球部監督や巧の実力を妬む上級生ら、問題が立ちはだかる。思いのままに野球ができると、いざ野球部に入部してみれば、監督の命令に従わなければ、試合に出させてもらえないかも知れないという現実。実力があれば、評価される。実力のある者が試合に出られる。それが当然と思っていた巧の、第一歩でのつまづきと言っていい。それでも巧は怯まない。己への自信は、揺るがない。でも、己の気持ちに正直すぎる故、豪の怒りに触れ、豪に「お前は最低だ」と言われ、巧は初めて「不安」も見せる。不安や戸惑い。巧の中で、豪の存在がいかに大きくなっているか。巧の心の揺れ動きがいい。
豪と出会ったことで、巧も多少人当たりが柔らかくなった。それが分かるように、巧と他の生徒とのやり取りが何度も笑いを誘って楽しい。通勤途中に読んでいて、笑いをこらえるのに大変だった。矢島繭など同級生のキャラもいいね。巧からすれば、何て心許ないんだと思うような、巧ほど強くはないけど、それでも友達のためとか、譲れないものをしっかり持っている。そんな矢島に巧が、へえこいつ結構やるじゃんという感じで感化されている節があるし、矢島も巧に勇気付けられたところがある。お互いが影響を受けている描写がいい。
よく考えたら、一作目は巧たちが小学生でも中学生でもない短い期間の出来事だったんだよね。とてもそんな気がしなかった。何ていうか「今まで生きてきた中で、一番いろいろありました」というくらいに、人の人生の凝縮感があったから。それに比べると、二作目は一作目ほどの吸引力は感じられなかったかな。新聞の三面記事に載るような出来事が起こったのもどうも好きになれなかった。そんな「事件」を起こさずとも、この物語は語れると思うから。もっとも巧の行くところ、摩擦が生じないわけはないので、致し方ない面もあるけれど。それに、自分は何を言われようと、何をされようと構わないが、自分がそういう態度を取ることで、豪たち仲間に迷惑をかける、仲間を傷つけることになっているんじゃないかと、巧が思い悩む。ひとりではいられなくなった中での、巧の葛藤はやはり読み応えがあった。そして教師に対してだろうが、同級生に対してだろうが、自分に真っ直ぐに対峙する巧。そんな巧に衝き動かされる周りの人間たち。思わず喝采をあげたくなるような読後の爽快感。それは一作目と同じだった。第39回(平成11年度)日本児童文学者協会賞受賞。
余談で、青波の出番が少なかったことも物足りなさのひとつだったかな、と。角川文庫版第2巻の表紙は、青波だっていうのにね。まあ、青波はほんの少しの登場でも充分に存在感のある子だけど、この子が出てくると、場が和んで、なおかつ巧とは別の意味で話が引き締まる気がするから。これから、巧たち野球部の話が中心になって、青波の出番がますます少なくなるのかと思うと、残念。
フィルとソルトの話。実験好きなフィルは今度はオーロラを作ると言い出す。オーロラを作るのは太陽使いの仕事であり、そんな生半可に作り出せるものじゃないことも知っているソルトはフィルが許せず、反発する。季節使いでもない人間が簡単に作り出せるものか、そんなソルトの反発は太陽使い見習いとしての自負でもあり、見習いであるソルト自身もまだオーロラを作り出せない悔しさから来るものでもあり。誰よりも立派な太陽使いになるんだという強い想いがあるから、簡単に口にして欲しくないと思うソルト。でも、フィルが真剣に実験に打ち込む姿を見て、ソルトも少しずつフィルに対する見方が変わってくる。
夢を持っている者は目が輝いているし、夢に向かって突き進んでいる姿も輝いている。魔法の練習に一所懸命なソルトもまた輝いている。輝いている者自身は気が付いていないけど、まさにそこには「きらめき」がある。はじめシュガーがオーロラもどきの光をきらめきと勘違いし、実は……というのが何とも心憎いし、フィルとソルトの力が合わさってできたオーロラ、オーロラそのものが幻想的で美しいけど、夢を持った者同士が一緒に力を合わせて作ったという、そこに「きらめき」があることがいいよね。そして、夜空に一瞬輝いたオーロラを、最後、ヴィンセントが見ている。上手いなあ。テレビ放映時はシリーズ構成とか全く意識せずに見ていたけど、今回は見方を変えて、男の子たちの話とか、エピソードを挿むタイミングや次の話へのつなぎが絶妙で、本当に上手いなと思う。初見の時は構成の妙を感じさせずに、後で見直したときに、ああ、そういうことだったのかと思うような物語が自分は好み。この作品を好きな理由はそこにもある。
不祥事その後。ここ最近、現実でも(主に大学の)野球部の情けない不祥事が相次いでニュースになっているけれど、この物語で不祥事を起こした奴らはそんな生ぬるい理由からではなく、明確な意思を持って、明確な理由から行動を起こしているから侮れない。ほんと、お前らませすぎだよと言いたくなるほど。不祥事の真実を見定めようとせず、事なかれで済ませようとする学校側大人たちと、子供たちのギャップは開くばかり。でも、何事にも真摯な態度の子供たちの前では間抜けにしか思えなかった教師たちも、この巻では何も考えてないわけじゃないよというところを見せる。大人と子供の歩み寄りが見られる。それもこれも自分を曲げない巧に影響されるところも大きい。真っ直ぐに気持ちをぶつけられれば、戸惑い、反発もするが、その気持ちに応えようとすれば、自らも気持ちに真っ直ぐであらねばと思う。巧が渦の中心となって、良くも悪くも周りを巻き込む、引っ掻き回す。巧のような子が貴重だと思うのは、今の学校教育の中ではとんでもなく異質な存在であるからに他ならないんだよね。と同時に、巧のようなものを抱えているのは巧だけに限らない。他の子はそれを自ら潰してたきたに過ぎない。だから巧に反発する上級生の気持ちも分からないでもないし、巧が潰される様を見届けてやるというのも自分も同じような気持ち。この物語の結末で、巧がどんな存在でいられるのか興味深い。
部活動再開で紅白試合が行われ、それが巧と豪がバッテリーを組んでの初試合と、野球小説としての側面も色濃く描写される。一挙手一投足に到るまで映像が頭の中に鮮明に映し出され、試合中の選手たちの息遣いまで聞こえてきそうな描写がいい。適度な表現の硬さと、そのくせ一気に読ませる感覚。読み終わった時に、ふっと息を吐きたくなるような。
角川文庫版のこの巻には、青波視点の文庫書き下ろし短編を収録。青波は兄である巧をどう思っているのか、兄を見て何を思ったか、青波が精神的にも肉体的にも強くなった理由が明らかにされる。それはそれで面白い話ではあるけれど、これを読んで、青波のことは第三者の視点から見たほうがいいんだなとあらためて思った。青波に抱きつかれる巧が羨ましくなるような、自分も抱きつかれたいと思ってしまうような視点。というか、青波は巧以上に大人なだけに、青波視点だと巧が可愛く思えるね。
観て来た。世界で最も有名なミュージカルのひとつ「オペラ座の怪人」の映画化というだけあって、全編まさにミュージカル、歌、歌、歌の連続だった。自分はミュージカル映画をほとんど見ないので、こんなものなのかと思ったけど、やはり歌は多めらしい。テンポ良い展開も、歌をここぞという時に使うメリハリあってのものだとは思う。実際、退屈に感じたというより、まどろこしく感じて、途中で何度も眠気に襲われたりもした。それでも華麗な映像とともに歌をたたみ掛けられると圧倒される場面も多かった。
ストーリー的には、怪人ファントムがクリスティーヌの才能を高く評価しつつ、クリスティーヌそのものに溺れてゆく。クリスティーヌとラウルの仲に対する激しい嫉妬、憎悪。愛憎の裏返し。給料をよこせと無茶なことを言ってきたり。人々からはゴーストと怖れられ、クリスティーヌからは「音楽の天使」などと呼ばれるけど、その実、ファントムは怪物でもなく、才能ある者をそっと見守るような後見人でもなく、感情を、心の醜さを露わにする人間として描かれる。誰よりも人間臭く感じられるのが面白い。仮面で隠されていたのは、外見の醜さではなく、内面の醜さであった、と。クリスティーヌの存在によって、それがさらけ出されてしまう。さらけ出さずにはいられないほどの魅力がクリスティーヌにあるのかというと微妙なとこだけど。だいたい劇の下っ端役だったクリスティーヌと、劇場のパトロンになるほどのラウルが幼馴染みというのも都合が良すぎる気がしないでもない。クリスティーヌも一応貴族の身分なのだろうか。この辺は時代背景がよく分からなかった。
あと、気になったのは、マダム・ジリー。ファントムの命の恩人であり、常にファントムを気にかけた人でありながら、(少なくとも映画版では)とうとう最後までファントムに振り向いてさえもらえなかった。この人の物語を思うと切ない。だからこそ、事件から何十年後かのモノクロシーンでの、マダム・ジリーの登場が際立つ。老いて尚変わることのないファントムへの想い。こういう多くを語られないサブエピソードもいい。オークションに出された、ファントムが大事にしていた玩具はマダム・ジリーの手に渡してあげたかった。その玩具がクリスティーヌの墓前に供えられることで、ひとつのサプライズが明らかになるとはいえ。
舞台セットや衣装など美術面は確かに豪華だったけど、正直、素人目には驚くほどの豪華さには感じられなかった。そんなものかと今ひとつな印象。ウリのひとつ、シャンデリアも、どちらかと言うとクライマックスシーンより、冒頭で壊れたシャンデリアが吊り上げられていくときのほうがゾクゾクッと来た。何より、歌に圧倒された二時間強だったね。ミュージカルなんだから当たり前なんだけど。「オペラ座の怪人」おなじみのあの曲やら、ファントムの想いが迸る曲やら、大画面と大音量の中で歌に包まれる感覚、聴くだけの価値はあり。自分的には、劇団四季版のチケットが取れたので、その予習も兼ねて、映画と劇の違いとか比較できれば、また面白いかな、とも。有楽町日劇PLEXにて鑑賞。
その名は、安良城 紅(公式サイトはこちら)。初めて名前を目にしたとき、何て読むのかなと、「やすらぎくれない」とも読めるなと思って、癒し系だとしたら、シャレたネーミングだなとか(同じことを思った人は結構いるらしい)。そのことが頭にあったせいで、ファーストアルバムをCD屋で買おうとしたとき、何を勘違いしたか、や行の棚を一所懸命探してしまったよ。そこにあるわけないって。事前に名前の読み方も調べない自分がアホ。どうやら本名らしいけど、「紅」という下の名前も凄く個性的だと思う。それにしても、顔立ちも印象的。見る角度によって、実年齢より凄く大人っぽくて見えたり、凄く幼く見えたりする。母親が沖縄出身で父親がアメリカ人、らしい。いかにも、そんな顔立ち。日本人のようで、もう日本人じゃない顔というか。そんな子が「国民的美少女コンテスト」の最終選考まで残ったことがあるというのだから。もしも彼女が選ばれていたら、「国民的」とは何だ?という大いなる皮肉になったに違いない。残念。
ファーストアルバム「Beni」のほうはすべてiPodに転送して、現在ローテーション中。で、Mac miniがまだ手元に届いてないので、一時的にWindowsマシンにiTunesを入れてやってるんだけど、これ、Mac miniが届いた後はどうしよう。iPodのほうから転送できればいいんだけど、iTunesのほうにリストがないと駄目なんだろうな。やっぱり一から入れ直しか。
サガたちの街に、ハモンド劇団来たる。そのハモンド劇団が演じる劇中劇「クマのピアニスト」は、短いながらもよくまとまっていて、「それは、美しくも哀しい愛の物語」(某映画のコピー)という感じで、人間に恋してしまうクマの物悲しさが伝わってくる話になっている。「ちっちゃな雪使いシュガー」作品そのものが劇風のお伽話になっていると思うのだけど、その中にもうひとつ小さな劇をこしらえて、それがまた作風に合った幻想的な話になっているところが見事だね。階層的な夢物語を見ている気分。いいお芝居だから、サガたちが劇に感動している様子にも頷ける。劇団員のひとりにときめいてしまうノーマ(長老で言うところの「胸キュイン」)、現実とお芝居の区別が付いていないシュガーたち、劇に次第にのめり込んでゆくグレタ(久々にグレタの脱線が盛りだくさんの回で、三文芝居と高を括っていたグレタが「そんな!」と驚く場面は一番の笑いどころ)。それぞれの描写が可笑しくて、素直に笑ってしまった。芝居に触れて、その芝居に夢中になって、物語を肌で感じる、ってのはこういうことなんだろうな、と。「感動した!」と感動するわけじゃないってこと。
そして、ヴィンセント。テレビ放映時も思ったけど、やはり掴みどころのない人だ。ルキーノさんの店にふらっと入ってきて、コーヒーを注文する素振りを見せつつ、サガの様子を見ながら微笑んだりしている(こう書くと、単に危ない人みたいだけど)。サガに促されるようにやっとコーヒーを頼み、飲んだ後に言った言葉が、
「何だか、ちょっと窮屈な味だな」
窮屈な味。旨いと誉められるでもなくお世辞を言われるでもなく、見ず知らずの人にそんなことを言われたら、誰だってぽかんとしてしまう。窮屈ってどういうことなんだろう、って。誉め言葉ではないことは確かなんだけど、味にゆとりがない、余裕がない? 判ったような、判らないような。美味しくない、まずいと言われるより、気になる。気になる言葉、その気になる言葉を口にした気になる人。サガの中で、波紋がまた広がる。ヴィンセントが気になる存在となってゆく。また、サガがヴィンセントに対して抱く感情はノーマと同じような「ときめき」でもあり。ときめきが「きらめき」の一種と言っていいのなら、まあ、ハモンド団長は嘘は付いてないわけだよね。
作品のシリーズ構成的にも、ハモンド劇団の話は重要なアクセントになっていて、ヴィンセントはとりわけ欠かせない存在。自分もこのハモンド劇団の話は好き。「窮屈な味」もこの作品を思い出すとき、まず思い浮かぶ言葉のように、自分にとっては印象的な台詞として残っている。ヴィンセントのことは、その掴みどころの無さから、テレビ放映時は正直好きになれなかった。正直イライラした。でも今なら判る。ふわふわと、どこか感性で行動しているような、行動予測不能人ヴィンセントがもたらす不安は、「窮屈な味」と言われたサガが感じたものと同じなんだろうって。つまり、自分にとっても、ヴィンセントは何やかやと気になる存在だったわけだね。「キライ」が「スキ」に等しかった典型。
自宅近くにマシなレンタル屋がない自分にとって、オンラインDVDレンタルは重宝している。観たいものを必ずレンタルできるわけではないけど、人気のあるものが始終レンタル中というのはリアルでも同じ、それがいつレンタル可能になるかチェックする手間を考えるとオンラインのほうが手軽。借りる手続きも簡単だし、数日もすれば郵便受けに届いている。返却も郵便ポストに入れるだけ。返却期限もない。シリーズものとか1巻目を試しに見て続きを見るかどうか決めるとか、凄く気に入ったら買うとか選択肢も増えるので便利。
そういう自分からすると、本の貸し借りがネットでできればいいなと思う。いや、探せばあると思うけど、ある程度の規模で、在庫も充実していて、商業的にも成功している、という話はあまり聞かない。本の場合、郵送や貸し借りによる傷みがDVDより激しいだろうし、それならというか、ネットの特性を活かすなら電子データにすべきなんだろうけど、やはり紙のほうがいいし、簡易印刷したものを製本してとか……それは出版業界が黙っていないかな。一番いいのは、リアル図書館がネット経由の貸し借りをしてくれると助かるのだけど。
なんてことを、以下の記事を読んで思った。
「ぼくたちが本と出会うときのこと」第二回:お前のものは俺のもの、俺のものも俺のもの(ぼくたちの本と本屋)
http://uchnm.exblog.jp/1936819/
個人所有の本をデータベース化して、ネットで公開し、個人で貸し借りをする。これであれば、読みたい本がすぐ見つかる可能性は高いだろうし、共通の趣味の人も探しやすくて、広がりが期待できる。現実的でこれからはそういうのが主流になってゆくのだと思う。でもネット上ならともかく、見知らぬ相手とリアルで貸し借りすることはまだ何となく抵抗があるんだよね。やはり個人と個人の間を結ぶサービスがあるといい。
前作第3巻の終わりで、巧たち新田東中野球部は、全国大会4位の実績を持つ強豪横手との試合を組んだ。チームとしての実力からすれば無謀な、しかし巧の実力を持ってすれば結果の分からない勝負が見られるとゾクゾクしながら第4巻をいざ紐解いてみれば、話はその試合からひと月以上も経ったところから始まる。え? 読み進めていると、どうも負けたっぽい。しかも巧はメッタ打ちされた様子。どういうこと? そんなことがあり得るの? 実力で負けたのか? と、早く試合の中身を知りたいと気が急くこちら(読み手)の気持ちをかわすように、淡々と乾いた筆致を貫くところが作者らしい。まるで巧のようだ。で、巧と豪というバッテリーとして負けたことが、徐々に明らかになる。打ち負かされたというより、自滅。それは呆気なく。実力の一方で何度も危惧されていたことだけど、本当に脆い時はこれほど脆いのかというほどに。
巧と豪のバッテリーは一球一球が常に真剣勝負。巧は最高の球を豪のミット目がけて投げ、豪は巧の球を全身全霊で受け取る。それは実にしんどい。第3巻で豪を気遣って力を抜いた巧は豪の怒りを買った。だから今度は手を抜かない。豪もそれに応じる。でも横手のエース門脇との一打席が限界だった。豪はぷつりと集中力が切れ、そんな豪を前にして巧はどうしたらよいのか分からない。巧の球を受けることは常に己の限界との勝負でもある豪。投げる相手としていつの間にか豪以外考えられなくなっている巧。バッテリーとしての経験の浅さ、未熟さが露呈したと言えば簡単だけど、乗り越えていかなければならないものの過程の描写がいい。第1巻以来かな、作品タイトルに相応しく、バッテリーとしての巧と豪二人の関係が浮き彫りになるのもいい。横手との試合後、互いにバッテリーとして向き合えなくなる二人だけど、実はすでに答えは出ていたりする。巧は球を投げることを渇望する。とにかく球を投げたい、球を投げることしか自分にはないんだという想いを強くする。この辺は豪への依存度が弱まったということでもありそう。豪も巧の球を一度受けてしまった以上、巧の球をミットに受けるその快感から逃れられないことを自覚する。それでもなかなか向き合えない二人。巧は巧で、投手としての才能以外は、本当にどうしようもない欠点ばかりの人間。巧がいつもより小さく見えるというか、巧からボールを取ったら本当に何も無い普通の少年というところが、軽口を言う場面が多かったり、「珍しく」友達とじゃれ合う姿を通して印象に残る。豪は豪で、いつもの彼らしくない弱さを見せる。いや心の優しい豪が自分の弱さに思い悩むのはいつものことなんだけど、それを吹っ切るいつもの強さがない。それだけ豪にとって己を左右する決断だということ。どうにもいつもの闊達さが見られない二人。
その代わりと言っては何だけど、存在感を見せるのが、吉貞と横手の瑞垣。二人とも、よう喋って、軽口ばかり言う。吉貞は一見何も考えてないアホに見えるけど、巧よりずっと物事を見極めている。吉貞なりに覚悟も、自分も持っている。瑞垣は物言いも性格も凄まじい。「姫さん(巧)を潰す」、瑞垣のそれは上っ面だけの挑発ではない。マジで巧を潰す気でいる。あの、作者さん、これが児童文学だということを忘れてません?と言いたくなるほど、瑞垣は辛辣なキャラ。圧倒的な存在感。吉貞と瑞垣の軽口は楽しいし、話に抑揚も与えている。吉貞と瑞垣のコンビは、作品的に新バッテリーの誕生といったところだね。いいね。吉貞のこと、ぐんと好きになった。他にも、バカ正直でドン臭く思える門脇や海音寺なども意表を突く面を見せたりと、巧や豪がへこんでいても、他の人物が活き活きと描かれ、物語に躍動感があるのは変わらない。最後の、青波がピッチャーとなっての、新田東中野球部の面々、門脇や瑞垣らもまじえての草野球もどきの場面が本当に楽しかった。野球で遊んだことのない巧もその中にいる。その巧が外野にいる。吉貞と瑞垣の掛け合い。巧から豪への返球。キャッチする豪。言葉で説明する以上のものが、その場面では描かれている。野球を楽しんでいる少年たちがいる。素晴らしい。実にお見事。相変わらず、やんや、やんや。
ところで、第4巻以降は、今現在、文庫版が出ていない。値段が三倍近くなるのは痛いけど、続きを読みたくて仕方がないので、教育画劇版を購入した。角川文庫版と教育画劇版の価格以外の大きな違いは、佐藤真紀子さんのイラスト。文庫版では表紙だけだが、教育画劇版は本のところどころで絵が挿まれる。その絵が、何気なくていい。特に気に入ったのは、目次のところの絵。枝垂桜の木の下に、少年たちが座り込んで、何か話していたり、ぽけっとしていたりする。巧や豪らしき者もいる。今にも少年たちの話し声が聞こえてきそうな、ひと休みしている少年たちが感じている風や陽気が伝わってきそうな、そんな一場面の切り取り方が心地よくて好きだ。
海水浴に出張って、海の図書館で司書るこころたちの話。冒頭、三姉妹の水着姿が見られます。いいなとあるとに弄ばれて、こころが次々水着を披露する見せ場でもあるんだけど、やっぱりあるとだよ、あると。どう見ても、15歳の体には見えない。
海辺に出掛け、こころは丘の上の家に住む少女みさとに出会う。みさとは病弱で、家に籠もり切り。本を読むことだけが自由にできること。そんなみさとを案じて、こころはイルカを見に行こうと、みさとを連れ出す……。
ええ、司書としてのモットーをすでに超えています。(家の)外の世界を見たかった、外の世界に触れてみたかったというみさとの心の叫び、イルカに触れて喜ぶみさとの姿は確かに感動的。でも、それは別のこと。それを、利用者さんに喜んでもらえるなら、と飛躍してしまう強引さがこの物語の凄いところ。こころんの暴走がたくましい。まあ、利用者さん(他人)を放っておけない、お節介すぎるほどお節介せずにはいられない、それがこころんのモットーだと思えば。そう、これと信ずる我が道を行く、それがこころんの「司書としてのモットー」なのだから。またひとつ、たくましくなるこころんが見られる話と。頭にリボンを付けていない、髪を上げたこころんもカワイイ。
中学生の頃、英語の発音に厳しい先生がいて、appleは「アップル」じゃなくて「アッポー」とか、milkは「ミウク」とか(実際はもっといろんな音が混ざった発音なんだけど、カタカナで書き表すとこんな感じで)、それこそ口を酸っぱくして教えられたものだった。でも、中学生の頃ってひねくれていて、いかにもネイティブアメリカンな発音をする者がいると「何、マジになってんの?」とからかう奴がいる、恥ずかしいというのもある。だから大抵、教科書を読むときなど日本語的にたどたどしい発音をする人が多かったけど、その先生はその度に間違いを指摘して、正しい発音を繰り返す。どっちが教科書を読ませて、どっちが教科書を読んでいるのか分からなくなる、なんてことも多かった。で、この先生にはオチがあって、自分のときはずっと英語担当だったのだけど、実際は社会科の担当だった、というのを後で知った。なんやねん、それ詐欺やないか、センセの情熱にすっかり騙されとった、とまあその時は激しくツッコミ。今となれば、笑い話。
Mac miniが届く。早速、開封。見た目のコンパクトさと、手に持った時の思った以上の重量感は、iPod miniを初めて手にした時と同じ。本体に比して、でかいと言われた電源アダプタ、確かに本体の三分の一くらいの大きさで、本体と電源アダプタを並べると、大食らいの人の弁当箱(ドカ弁)と、フォークやスプーンも入る箸箱という感じ。で、いざつなごうと思ったら、マウスもキーボードもUSB接続。あちゃー、USBのキーボードは持ってない。また事前準備不足だ。地元の店では変換アダプターを売ってなかったし。会社の帰りに寄れたら買ってこよう。仕切り直し。
しんどい。第5巻をひと言で言い表すとしたら、これ。この物語の登場人物たち、特に巧と豪の二人は常から真剣に向き合い、常からしんどいことをやっている関係だけど、第5巻ではさらにしんどさが増す。横手二中との試合以降、ようやくバッテリーとして復活した二人。マウンドにいる巧、ミットを構える豪、どちらにももう迷いはない。どちらかがどちらかに依存するような甘えもない。自分の投げる球を受け止めることのできるミットに向かって投げる。最高の球をひたすら投げる。一瞬でも気が抜けないほど、襲い掛かるように向かってくる球をミットに収める。荒々しく生きた球をひたすら受け止め続ける。それは言い知れようのない快感。ストイックな欲求、という言い方はおかしいかな。ただ投げたい、ただ捕りたい、といった研ぎ澄まされた欲望。バッテリーとしての純度をとことん突き詰めていった結果、投げる、捕るという本当に純粋にバッテリーとしての関係でしかなくなった二人。野球を楽しむことも忘れ、息苦しさすら感じる関係。それでも二人はそこから逃げようとしない。一瞬一瞬の快感から逃れることができない。ほんとに、こいつらの乾いた感覚は何なのだ、と読んでいて思わず溜め息が出そうになる。でも、マウンド上では迷いがない巧が、マウンドを降りると、豪の気持ちを掴みかねていて、不安や弱さを見せたり、巧のストイックさが乗り移ったかのように、豪までがストイックになってゆく、そんな風に互いが影響し合って変わりゆく姿を見せつつ、本音をぽろりと見せたりするのが、やはり面白い。
重苦しさの増す中で、それを緩和するのにひと役買っていたのは、前巻に引き続き、横手二中の瑞垣。吉は今回はちょっとおとなしめだったかな。誰よりも辛辣で、誰よりも皮肉屋で、誰よりも物事に冷ややかで、何もかも見通しているかのように、分かったような口を利く。そんな瑞垣でさえ、ガキでしかないとする、作者の冷ややかで乾いた目線が、ほんといいよなあ。それにしても、マジギレした瑞垣の行動には思わず笑ってしまった。巧に往復ビンタって、なんか案外カワイイ。言葉ではどんなえげつない暴力も自由自在な瑞垣にしては、やることが可愛らしい。というか、マジギレした瑞垣というのがなかなか想像できなくて、いつもは鮮やかに情景が思い描けるこの物語には珍しくここの場面は想像するのに苦労した。映像化する時も、ここは凄くポイントだろうな、なんて、アニメでも実写でもいいから、この作品を映像化したものが見てみたいという気持ちが高まっているのを抑えつつ、そう思った。そうそう、今回は青波も「マジギレ」した。本気で怒った青波というのも想像しにくいけど、これはこれで想像しがいがあるね。唐突も唐突、それも豪に対してというのもいい。どうして怒ったのか、本当のところは分からないけど、青波もまた自分の気持ちに真っ直ぐで、豪のことも兄である巧のことも大好きであるはずだから、その青波が怒った、いつも笑顔で周りを和ませる青波が本気で怒ったというのは、気持ちが伝わってくるし、アクセントにもなっている。ブラボー。青波ファン的にも「青波に抱き付かれてみたい」に、「一度でいいから青波に怒られてみたい」という濁りまくりの欲求が加わったという感じ。
この第5巻は事件らしい事件も起こらない。息を呑むような「野球」の描写も特にない。横手二中との再戦に向け、少年たちがじわじわと気持ちを整える様が描かれるだけ。でも、むしろその事件らしい事件も起きない日常の中でのほうが、少年たちがふと垣間見せる本音が浮き立つように思える。野球のこと以外考えもしなかった巧が野球以外のことにも目を向けるようになる、意識するようになる。物語の転換点としても、読み応えがあった。さて、次巻はいよいよ最終巻。それをすぐに読める嬉しさの反面、それを読めばもう終わりという寂しさ。はあ、どうなるのだろう。
Mac mini。USBとPS/2の変換ケーブルを買ってきて、手持ちのマウスとキーボードをつなぎ、初起動。ひと通り触ってみた印象は、やっぱりWindowsとは違うなあ、と。操作に慣れないというか、パソコン画面を前にしてのこの戸惑い、どこかで覚えがあると思ったら、そうそう、仕事で初めてWindows3.1に触れた時と同じ。その時は客先で、「Windows3.1を使ったことなんてありません」とは仕事上もちろん言えず、客を前にして「古いマシンはやはり反応が鈍いですねえ」なんて言いながら、どこをどう操作していいか分からなくて、反応が鈍っているのは自分自身だぁと内心焦りまくりだった。そんな笑うに笑えない思い出を思い出す。Macの場合も、全く分からないわけではないんだけど、慣れというのは恐い。Windowsで慣れきった感覚との違いに戸惑う。キーボードにしても、Apple純正ではないと、キー通りに打てない場合がある。漢字の変換がSpaceキーだったり、英字とひらがなの切り替え方が異なったり。中でも「@」の入力が分からなくて、えらい難儀した。こんな対処方法もあるようだけど、まあ文字をバンバン入力するようなことはそれほどないと思うし、しばらくこのまま使ってみるつもり。それより、バンバン放り込むはCDの曲。重箱にしたこちらに見倣い、さながら音の弁当箱としよう、なんて。
「ちっちゃな雪使いシュガー」 #10 バックステージハプニング
今回は劇の舞台裏。開演前の様子や、劇の最中も舞台の袖からの視点などが中心になる。前回は劇の内容を紹介して、視聴者に「客」として劇を見せ、今回は舞台裏を見せる。現実とお芝居の区別が付いていないシュガーたちが「お芝居とは何ぞや」と探究心を旺盛にして、舞台裏を引っ掻き回すことで、劇が作られたものであると知れる。すべては作り物なのだ、と言うと貶しているみたいだけど、そうではなく、見えない部分で人に支えられて劇は作られていること、仮の作り物が人々を感動させる舞台と変わる様が描かれているように感じられていい。ヴィンセントも劇には出ているけど、舞台中は顔を見せないし、ハプニング時に即興で対応するところとか、劇を陰で支える裏方的存在と言っていい。いわば陰の主役。そのヴィンセントにときめくサガ、一方、劇の花形にときめくノーマ。どちらも微笑ましいし、劇ひとつ取っても、華やかな面に心を奪われたり、照明の当たらない部分に目を向けたりと、いろんな見方があってもいいよねという感じで、描写に無駄がない。
そして、ハプニングを無難に治めようとしてヴィンセントが取った行動は、サガの神経に触れる。いくら芝居のためとはいえ、ピアノ線が切れるほど乱暴にピアノを弾くなんて、ピアニストのすることじゃない。ヴィンセント許すまじ、の心境になるサガ。前回の「窮屈な味だな」というヴィンセントのひと言に対してもそうだけど、サガは何かひとつのものに囚われてしまう。そのこと自体が窮屈なんだと言いたくなるような。何ものにも拘りがないように自由奔放なヴィンセントやシュガーたちと対照的で、最後のフロ場のシーンで、怒りが収まらないサガと、どうして? 楽しかったじゃんといった風のシュガーたちの対比が面白い。登場人物たちの感情の描写が上手い。何度も繰り返している気がするけど、本当に上手いと言うしかない。
ところで、書割をバンバン叩いて、ハプニングを誘発し、劇を台無しにしかねなかった、でも結果的には場を沸かすのにひと役買ったグレタは、裏方向き(陰の支え役)? 花形向き? クラウンは主役ではないけど、なくてはならない存在(華)とも言うけれど……。