今日、カウンターが5万超え。5月の頭に5万アクセス。だから何だ?と言わずに、めでてぇ、めでてぇ。2003年頭からここ(@nifty)に移行して以来だから、約4年ちょっと。ざっと平均で日に30アクセスという計算。もっとも最近は一日30いってないと思うけど、でも本当にチリも積もれば山となる。ちょっとでも関わってくれた方々に感謝。
思えば、そもそも自前のサイトに移行する気になったのは、その頃は各回感想とか意識せずに日々見た番組の感想とかを無料の日記サイトにアップしていたんだけど、その頃気に入ってよく訪れていたアニ感サイトが「開設してから半年で50万アクセス達成しましたー」とかコメントしているのを読んで、なんだちゃんとやればそれだけの人に見てもらえるのか、ならば自分も!と思ったのがきっかけなんだよね。その頃は画像キャプメインの感想サイトと、テキストメインの感想サイトの違いを知らなかったという笑い話だ。「ちゃんとやる」の意味を勘違いしてたね。で、ここが50万いくには今のペースでいくならば、あと35年以上はかかることになるわけで…。積もらすにしても遥かなる高みだなあ。その頃って、何してるんだろ(というか生きてる?)。テレビ見て、時代劇見て、新宿コマ劇場行って?とか考えると、あんま本質は変わってなさそう。そのくらい緩く続けられれば自分としてはいいかな。
1991年。中原俊監督。今度は映画版。うーん、舞台版を先に見てしまったので、舞台であればこそ活きてくる話であることを実感させられたというか、映画版は舞台版を超えるものを感じられなかった。ちょっと滑舌の悪いトヨエツとか、そのトヨエツの見た目とか、クスッと笑ってしまう場面はあったけど、出演者の顔ぶれにしても、舞台再々々演版のほうが自分は好きだったな。映画でも一つの部屋に限定する必要はないけれど、中庭に出たり、休憩室のような小部屋があったりと、議論の場を中座する描写が中途半端にしか見えなくて緊張感を削いでいたのが残念。やはり緊張感あってのドラマ、見ている者もその場にいるかのように思わせる臨場感あっての作品なんだと思った。映画としてのメリットは低予算で作ることができることくらいかな。あとは元ネタへのオマージュの意味合いも生まれると思うけど、同じ舞台(媒体)に上がらせると、その違いが歴然としてしまうという皮肉。三谷さんはその辺も初めから承知の上なんだろうけどね。
新装版は映画化を機に復刊されたものらしい。元は1987年10月および89年7月に講談社より発行。
映画を見たときは養子かと思ったみえこの兄も姉も、みんな母ちゃんの連れ子だった。母ちゃんからすれば今の父ちゃんは三人目。なんて無国籍な家族構成だと思ったら、父ちゃんは本当に国籍がなかった! 宿泊客の台詞にもあるように、人によっては不幸とも思う、複雑な家庭環境とも思えるんだけど、この家族はそれを感じさせない。悩みも暗い話題も吹き飛ばす明るさ。ああ、やっぱりこれだな。この家族そのものがまさにハイビスカスで、読んでいるこちらまで沖縄にいるかのような心地。ホテル・ハイビスカスに泊まりに行きたくなるような心地。
陽射しの描写とか実写の強みもあるけど、沖縄のからっとした陽気をストレートに感じさせてくれるのは映画のほうだったかな。いかにもウチナンチュ顔の出演者とか(特に父ちゃんや婆ちゃん。この二人がいれば、たとえロケ地が北海道でも沖縄色に染まるに違いない)、あと映画はみえこを中心に据えただけあって、みえこのキャラクターも強烈に伝わってきて、それが楽しい作品に仕上がっていた。原作のほうは作風のイメージもあるのか、絵的にはそれほど沖縄って感じがしないんだけど、ところどころに基地の存在やら、景気とか経済的な問題を含ませながら、それを肯定も否定もせず、あるがままに生きる沖縄の人々が描かれていて、何か心に響くものがあった。第20話「ティダァ(太陽)の母ちゃん」は映画の中でもあったけど、これは原作のほうが断然良かったね。家族の中心に母ちゃんがいるんだぞーってのが伝わってくる話で、陽気さの中にある強さ、逞しさ、優しさがいい。行商のおばさんとのやり取りを描いた第21話「おばさんのアッパッパ」みたいな話も自分は好きだな。行商のおばさんと、みえこと姉ちゃんそれぞれのポジショニングが何とも言えない味わいを醸し出している。常にアクセル踏みっぱなしのみえこに対して、それをコントロールする役割を担っていたりと、原作では意外に姉ちゃんの存在が強く印象に残った。
今日はゴーヤの日ってことで、ごーやちゃんぷるー。実家にいたときは、母親が一時期はまったことがあって、えっ、もういいだろってくらい、毎晩のように食卓に並べられたことがあるので、見るのも嫌だってなった時期もあるけど、たまに食うとやっぱり美味い。酒にまた合う。ごーやと酒と飯があれば、どれもいくらでもいけるよ。でも、ほんとはこういうのは大勢食ったほうがもっと美味いんだろうな。
逃亡中の容疑者の事件直前の映像が公開された件、あの映像を見て、自分も相当な自意識過剰者なんだなと気付かされた。確かに、ゴミ出しや近くのコンビニへ行くときでも自分もチェックしてるよ。ひとりでエレベータに乗るや、髪型オケ、全身オケ、鼻毛オッケ、てな感じに。鏡が目の前にあるとつい、っていう癖みたいなものだけど、ああして記録されているかと思うとかなり間抜けだ。自分んとこのエレベータは開閉ドアの上半分がガラス張りになっていて、途中の階から乗ってくる人にまる見えだったりするから厄介。鏡を見ながらうっかり惚けているときに、鏡越しに目が合ったりなんかしたら、もう気まずい、気まずい、己が。
これは読みながら笑った。いや、怖くなくて笑えたとか、怖すぎて、怖さを通り越して笑うしかなかったとかいうんじゃない。この世で何が怖いって、人が一番怖い、自分自身のことを語られるほど怖いものはない、しかも方言で、っていう恐怖を演出する装置の完成度と巧さに思わず笑ってしまったというところ。自分にとっては馴染みのない岡山弁による独特の語り口も活字でも充分味わいはあったけど、でもやっぱり、この話は語り部の口から語られるのを耳で聴いたほうがより怖いのだろうなと思った。まさに怪談。稲川淳二がそうだよね。あの人のキャラと語り口はもはやコメディーでしかないけど、それでも怪談として成立してる。それは語り物として語り口が完成されたものになっているから。本作品の登場人物たちはよく幻覚のようなものを見るけど、それは本当に幻覚なのかそうじゃないのかはっきり明かさず、結局何なんだともやっとさせる辺りも語られる怪談としての巧さ、面白さだね。
表題作より、「密告函」のほうが身近に存在しうる恐怖というのかな、いかにもありそなとこが逆に背筋が凍る怖さがあって引き込まれた。他は定型な面もあって、怖かったかって言うと、怖くはなかったな。本作品群の魅力は、かつての日本の貧しいムラ社会の生々しい描写と、その閉鎖性や、過酷な環境ゆえに剥き出しになる人の闇から来る怖さであるかな。
映画「晩春」。1949年。小津安二郎監督の作品は初めて見た。戦後間もない頃の日本、それは自分にとっても既に想像すらできない時代で、この作品を見るスタンスは外国人とそれほど変わらないんじゃないかとさえ思う。それでも今の日本と変わらないところ、変わったところを見つける楽しさはあった。何より戦後4年でこういう映画が作られていること自体に驚きすら感じる。一般の人々は映画を見る余裕はあったのかと思ってしまうけど、こういう時代だからこそ娯楽が求められたのかなと思う。
物語のほうは、婚期を過ぎながらも見合いをして嫁いでゆく娘と、それを見守る父の二人を描いた、何てことない話。結婚なんてしないと言い張る娘には何か深い理由があるのかとか、嫁いだ後でやはり父を心配して戻ってくるとか劇的な展開もあるのかと想像していたら、本当に何もなくて、拍子抜けしてしまったくらい。娘の結婚によって父と娘二人の生活が静かに終わりを告げる。本当にただそれだけの物語。でも、父親の朴訥さがいい。多くを語らず、物静かで、そうか、そうだな、と同じ言い回しを何度も繰り返す様が笑いを誘った。寅さんシリーズでお馴染みの(というか、それ以外で知らない)笠智衆が演じているわけだけど、この人の笑顔はなんでこんないいんだろうね。温かみがありつつ、どこか寂しげって感じが切ない。若くして老け役がハマリ役になったというのは知っていたけど、まさに適役という感じだった。娘役は原節子。この人も作品を通して見たのは初めてかな。父のために結婚を渋っているとは言っても、貞操を守るとかおしとやかな性格というわけでもなく、言いたいことは言うし、活発そうな性格で、自分なんかがイメージしていた、この時代の典型的日本人女性像とは違う、今の時代にもいそうな、ありのままのごく普通の娘を演じていた気がする。というか、もうこの頃から「今の若い子たちは…」なんて言われ方があったわけだね。笠智衆さんも原さんも二人とも決して演技が上手いって感じは受けないんだけど、その普通っぽさが今とつながっている印象を強く持った。調べてみたら、原さんのほうはまだご存命らしい。芸能活動からは身を引いて久しく、今はひっそりと暮らしているようだけど、その生き方は「千年女優」の千代子を思わせる。千代子のモデルのひとりであったに違いない。
「FINAL FANTASY VII ADVENT CHILDREN」
2005年。スクウェア(・エニックス)お得意の超美麗フルCG作品。FF7は途中までしかやってないので、ストーリーやキャラクターに特別思い入れがあるわけじゃないけど、ゲーム中の映像を初めて見たときのインパクトはやはり強烈に印象にある。度肝を抜かれたというか、ゲームの世界が変わったというのを肌で実感できた瞬間だったかな。発売前から早くプレイしたいとワクワクしたのもあの頃がピークだったかも。さすがに今見ると、グラフィックなんかしょぼしょぼなんだけどね。当時はそれですっげえ感激してた。
で、そんなFF7の続編としてゲームではなく、映像だけで構成された本作品、オリジナルを最後までクリアしてないから話がよく見えないというのも差し引いても、断片的な場面を畳み掛ける序盤はかなり取っ付きにくい。映像的にはスタイリッシュに見えても、お話的には体を成してなくてどうにも浮いている。大コケして、エニックスとの合併の引き金にもなった映画版から何も学んでねえのか、薄気味悪いほど細部までリアルに作ればいいってものじゃない、とかなりテンション下げながら思った。思ったけど、この際ストーリーは無視して、アクションシーンとかを抜き出すとかなり面白い作品なんだよね。とても人間業とは思えない、もはや超人レベルの者同士の戦いの描写はとにかくスタイリッシュにって意図は充分に伝わってくる出来で、思わず画面に釘付けになっていた。アクションシーンは非常に見応えあった。
それと、オリジナルのゲームとの連動という意味では、等身大のリアルなキャラたちが街の中とかでドラゴンのごとき巨大モンスターと戦っているその不釣合いな構図、ゲーム中の戦闘シーンをリアルに再現するとこうなるのか、いかに荒唐無稽かって思えるところが逆に楽しくて可笑しかった。こりゃ世界を救うってホント大変だよな〜と思わずツッコミ入れたというか、壮大なるはったりを真面目に再現する面白さ、超リアル系CG作品の未来はその辺りにあるんじゃないかと思ったよ。あと、これはファンサービスと言えるかもしれないけど、ごつごつポリゴンキャラたちが超リアルで超美麗な姿になって登場する楽しさね。ゲーム中の仲間たちが集結する辺りとか、オリジナルに思い入れのある人にとっては感涙ものだったんじゃないだろうか。もしくは落胆? 自分の中で思い描いていた姿との比較、その点ではFF10以降を映像作品化するのとはまた違う楽しさがあると思う。自ら想像する余地の充分あった過去の作品をフルCGで蘇らせるってのも面白い気がする。ああでも、それってハリウッドがもう乱発してるか…。
で、この作品、今年、Blu-ray Discで再発売されるそうな。知ってたら、それまで待ったのに…。フルHDだったら見ないわけにはいかないかな。
涙が止まらなかった。「夕凪の街」の話は頁数にして30頁ほど。たったこれだけの短い話に、ここまで心を揺さぶられることになろうとは。「夕凪の街」の主人公、皆実は普段は明るい性格ながら、時おり不自然な態度を取る。それがまた不自然な表現なので余計に「ん?」となってしまうのはあるんだけど、次第に皆実の心に暗い影を落とすものの正体が明かされて、そういうことだったのかと気付かされる。そして、まさに夕凪のような穏やかな最後に、気付いたら涙が溢れていた。戦争は終わっても、終わらない被爆の記憶と後遺症、その負い目を背負いながら生き延びて、ようやく手にしたかと思った幸せ、それも容赦なく断ち切られる、その悲しい現実に涙が止まらなかった。
「桜の国」の主人公、七波も直接戦争を体験してはいないが、被爆者を身内に持った現実が七波自身にも暗い影を落とす。
皆実にしても、七波にしても、被爆したという事実、あるいは身内に被爆者がいるという事実を自ら進んで口にしたがらない。むしろ口をつぐんでしまう。それって自然な反応ではあると思う。強烈な悲惨な体験、あるいは悲しい過去を誰だって積極的に話す気にはなれない。それは戦争を語り継ぐ立場でも同じ。広島市内の小学生で原爆の投下日時を知らない子が半数いるという記事を読んで、それを憂うより、これまで平和教育を受けた人たちがそのことに良いイメージを持っていないということのほうに、語り継ぐことの難しさを感じた。原爆は特にストレートすぎても良くないし、堅苦しく伝えるのも良くない。ますます難しいだろうね。戦争を知らない世代がどうやってあの戦争のこと、二度と繰り返してはいけない悲劇を語り継いでいけばいいのか。それはもちろん自分への問いかけにもなるのだけど、作者はそのあり方のひとつを見せてくれた。この作品を読んで少し安心したというのは安易な感想かもしれないけど、こうして語り継がれていけるのなら、希望は持っていいと思うんだよね。
書籍・ノンフィクション『誰も「戦後」を覚えていない』 鴨下信一 文春新書
読んだ時期が「夕凪の街 桜の国」とちょうど重なったというのもあるけれど、それにしてもというべきか、どちらにも根底に「生き延びた者の罪悪感」があるというのが興味深いところだった。片方は戦後生まれが戦後を描いた物語、もう片方は戦後を生きた人間の回想録という違いにもかかわらず。
記憶の隅に追いやられ、語り継がれることもなく、やがては忘れられてしまうであろう戦後の記憶を著者なりに振り返るのも面白かった。日常であった窃盗など、当時は誰もが感じていたはずの後ろめたさや、玉音放送の記憶とか。もちろん主観的な記憶であるから、全てを鵜呑みにするのは危険だけど、資料のみからは読み取れない「戦後」には違いないんだよね。「戦後」はその時代を生き抜いたひとりひとりにあったわけだし。自分の両親でもその辺の感覚は違うんだよね。片や海沿いの漁師町の生まれ、片や内陸育ちと土地柄の違いや経済的な違いはもちろんあるだろうけど、「戦後は苦しかった?」という話になったときも「苦しいなんてものじゃなかった」「そうでもない」と反応は違ってた。この話になったときがそうだったように、一度話題に上れば、当時はこんなものを食ってた、あれは不味くて食えなかったとか話が尽きないんだけど、こういったことはやはり殊更に語り継がれることでもないし。その意味でも、著者の試みは貴重で、面白いと思った。
印象に残ったのは、どんなに飢えていても食えないものは食えないという感覚かな。そういうものだろうなという実感があった。あとは終戦後の、人々の復旧意識というのか、プロ野球の再開時期の早さや、ラジオ放送の内容の充実ぶりを記したくだりは人々の娯楽を求めるバイタリティ、その貪欲さを改めて感じた。
手を広げすぎると、やっぱりちょっと混乱する。BIGはかすりもしなかった。ま、なんせ2口だから。スルガ銀の定期開設のご祝儀もそろそろ届くはず。あとひと月もすればそれも紙くずになると思っちゃあいけない。夢はギリギリまで見続けることに意義がある。
映画「麦秋」。1951年。小津安二郎監督作品。「晩春」の原節子、笠智衆コンビ、また登場。まず笑ったのが、人物設定は違うのに、自宅の舞台セットが「晩春」とほとんど変わらないんじゃないかってところ。いいな、こういう使い回し。こういうところに時代を感じるというか、不思議と全然気にならない。そしたら原節子演じる主人公はまた適齢期を過ぎた売れ残り寸前娘って設定で、縁談話を持ちかけられていたりする。「晩春」は父と娘二人だけの家族だったけど、今作は祖父母や兄夫婦、その子供たちも同居していて賑やか。主人公の結婚についても、本人はのん気に構えているのに、周りはやたら気を揉むって辺りが面白かった。笠智衆も今度は兄役で、珍しく歳相応な?役。家長らしく威厳のある態度を取ったりするのだけど、どことなく滑稽というか、笠智衆さんの演技もあるけど、いるだけで(話しているだけで)可笑しいってのはホント天性のコメディアン気質を持ってる人だよなあ。出演者たちの会話、いかにも喋らされているといった感じの、相変わらずおうむ返しも多いあの会話も今のドラマにはないものだから、逆に新鮮というのもあるし。いやあ楽しかった。まさにホームドラマの走り。ホームドラマのコメディと言っていいんじゃないかな。
楽しい一方で、主人公が結婚しない理由とか主人公の考えも「晩春」同様見えなくて、何を考えているのか分からないのだけど、というか始終にこにこ顔で内面をなかなか見せない主人公に何か裏があるんじゃないかと思ってしまう、笑顔貼り付き表情の主人公に二面性すら感じてしまう自分だけど。今回の主人公は上司からの縁談話をことわって、身近な子持ちの人と結婚することに決めた理由として「四十にもなってひとりでぶらぶらしてる男の人ってあんまり信用できないの。子供のいる人のほうが却って信頼できると思うのよ」なんて言う。あちゃー言ってくれる。のん気っていうより、シビアだ。楽観的なようでいて、よく考えたうえでのこと。当時は独身女性への風当たりとか無言の圧力は今とは比べものにならなかっただろうし、歳が離れていようともらってくれる相手がいるだけでもありがたいと思えと結婚を急かす周囲への精一杯の抵抗だったと言えるのかもしれない。嫁ぐのではない、自分にも選ぶ権利はあるんだと言ってるようにも聞こえた。しとやかに振舞いつつ、さり気なく自分らしさを自己主張する、なかなか気持ちの良い主人公像ではある。それをまた「永遠の処女」と言われたらしい原節子に演じさせる辺りに、結構毒を感じてしまうのは穿ちすぎなんだろうか。
ようやっとクリア。やり始めてからここまで時間がかかったのはやっぱり苦手意識のせいかな。脳トレは毎日ちょっとずつでもやってると脳が鍛えられているのが実感できて、それでますますやる気が出たり、成果がイマイチでも、ああ今日は調子が悪いやって思えたりしたのだけど、これはパズル系ナゾトキが好きな人にはたまらないけど、苦手な人が好きになってゆくかっていうと難しいところ。町の住人たちと話をするたびにナゾを出題されるのもね、自分にはテンポが悪いようにしか思えなくて。元々、脳トレ形式を考えていたのを、先に脳トレを出されたので、二番煎じを避けて作りを変えたという話は聞いていたし、アドベンチャー形式にしたのは良かったと思う。ただ、あくまでメインはナゾトキなので、ストーリーとか取ってつけたようなものだったのが残念。最後の塔のイベントのように、ナゾを解けば先に進めるという意欲を持てるような、ナゾトキとアドベンチャーのバランスをもうちょっと調整してくれたら、より楽しめるかなと思った。
でもまあ、問題文を何度も読み直したり、問題を穴が開くほど見つめたり、画面を逆さまにしてみたりと、文字通りいろいろな角度からナゾトキに挑戦する、発想の柔軟さはだいぶ意識してできるようになってたかな。右脳を使ってるよ、って意識。あと、アニメーションやキャラ絵はとっても和み系で良かったし、大泉洋の落ち着き払った教授声や堀北真希の少年声も楽しかった。これに能登麻美キャラも加わるなら、次回作も期待してよさそう。
どのナゾが一番印象に残っているかって、延々考え込んでいたナゾばかり記憶にあるんだけど、特に「デジタル時計」と「本の虫」はハマッたなあ。このふたつはヒントを全部見ても、まだ悩んでたくらいだから。思い込みが激しいっていうか、ほんと頭がカタイよな。
薄茶色のパッケージに、カフェオレかと思って買い、家に帰ってよく見たら、ただの牛乳だった。よく確認しなかった自分も悪いんだけど、紛らわしいっちゅうに。というか、レイトン教授に費した苦労と成果が日常においてあまり活かされていない、そこが問題って気も。
書籍・ノンフィクション『誰も「戦後」を覚えていない [昭和20年代後半篇]』 鴨下信一 文春新書
今度は昭和20年代後半。著者自身、15〜20歳にかけての、知識や情報に貪欲な時期でもあったせいか、前著に比べ、映画や音楽、芸能といった文化全般に関することや、時事ネタまでかなり事細かに取り上げている。その分、同じ時代を生きた人にとっては懐古趣味的な、知らない者にはちょっと退屈な内容になってしまったかな。それに著者は国民の大部分が同じように感じていたという表現を用いていたけれど、本当にそうだったのか。この時期、日本人の多くは著者と同じくらい文化に接する精神的、経済的ゆとりがあったのか。高校卒業後、すぐに働かなければならなかったうちの父親と比べると、この時代、戦後に対する感覚は違うのではないかという気もする。話の端々に若い頃は文学少女であったらしいことを仄めかす母親も、著者ほど教養を深める機会に恵まれたかどうか。もちろんその辺のことを親たちに詳しく聞いたことはないから実際は分からない。これよりもう少し後の、昭和30年代に入ってからのことになると思うけど、石原裕次郎の映画はほとんど見た(劇場に観に行った)という話は父親から聞いたことがあるから、娯楽に対する貪欲さは確かに共通のものだったと言えるかも知れない。やはりあくまで著者の目から見た主観的な戦後史には違いないのだろうな。
この時期、演歌が存在しなかったというのが、一番興味を持った点というか、意外に思った部分だった。何となく、戦後の日本を支えたのは(日本人の心を歌った)演歌だったのでは、という勝手なイメージが強くあったもので。美空ひばりでさえ、この時期は演歌を歌っていないという。むしろ終戦直後は演歌を求められなかった、というのであれば、言葉の定義よりも、その辺の背景や理由を、より深く掘り下げてくれたら良かったかなとも思った。まあ、語り尽くそうとしたら、この程度の分量ではとても足りないという著者のもどかしさすら感じた後半篇ではあったね。
映画『ナビィの恋』。1999年。中江裕司監督が「ホテル・ハイビスカス」以前に沖縄を舞台に製作した作品。沖縄民謡の大御所を多数起用した、というだけあって全編沖縄民謡に溢れている。で、時々、沖縄民謡以外のアイルランド民謡やオペラ的な演出も挿入される。これには面食らって、最初は違和感もあったけれど、何でも受け入れる大らかさ、陽気さを軸にした包容力、ある意味ごった煮感が沖縄らしさではあるのだろうなと思い直した。平良とみ演じるナビィは初恋の相手に60年ぶりに再会し、思いを成就させる、その結末にはビックリだったけど、ナビィの乙女のような行動が何とも愛らしかったというか、幾つになってもやはり乙女なんだなと思わせるところが微笑ましかった。おじぃ(登川誠仁)も本業は民謡の唄い手さんてことで、演技は決して上手くないんだけれど、もはや字幕なしでは何を言っているのか分からない沖縄方言の喋りと、どこかとぼけた言動は何とも言えない味があった。まさに、沖縄のおばぁとおじぃって二人で良かった。楽しかったし、「ホテル・ハイビスカス」よりこういう作りのほうが自分は好きかも。
カフェオレ買い直し。そうそう、これを買うつもりだったんだよ、なんて。こうして並べてみると、よくもまあ間違えたものだと自分でも思ってしまうけど、こういうパック飲料って賞味期限の印字された上部くらいしかよく見んのよ、と言い訳。ここのスーパーの牛乳はいつも青系のものを買っているから、それが先入観としてあったというのはあるよなあ。
映画『東京物語』。1953年。小津安二郎監督作品。笠智衆と原節子のお二人は今度は親子という関係で登場。ただし親子は親子でも義理の親子、原節子は戦死した息子のお嫁さんというやもめ役。それに今作は「家族」の物語になっているから、行き後れ描写はなし。それでも原節子は今作でもまた満面の笑みがお得意だし、そろそろ再婚しても罰は当たらないんじゃないかと義父や義母から勧められる描写はあって思わずにやり。
遠く尾道から久しぶりに東京に出てきて、息子や娘に会ってみれば、子供たちは子供たちで生活があって邪険にされる。もちろん傍目にはそんな素振りは親たちに見せないけど、親は親でそういう子供たちの気持ちを見抜いていながら、親のほうもまたそんな子供たちを咎めたりしない。家族どうし、親と子の間でも本音と建前が見え隠れする、そんな今に通じるような家族の姿がこの当時の日本にもあったのかと驚きだった。長女役の杉村春子が良かった。このひと、「晩春」や「麦秋」でも愛嬌のある近所のおばさん的役で存在感を出していたけど、今作でも親にはおべっか使うわ、親のいないところでは言いたいことズケズケ言うわ、ときには親の前でさえ遠慮がなかったりと、非常に現実的で、いかにもいそうな役を好演していた。寂しいけれど、これが現実。原節子演じる紀子の優しさを際立たせるためにも欠かせない存在ではあるんだよね。原節子は毒弱めのためか、物足りなさもあったけど、「晩春」や「麦秋」よりは不自然さもなく素直な人物に見えたかな。
2003年。今敏監督の作品って、「千年女優」では老いた千代子がお茶目な面を見せる場面もあったけど、「PERFECT BLUE」にしても「千年女優」にしても、作りとしては手堅いイメージがあって、今作も見る前はそんな感じの作品かなと思ってた。ところが、いやいや楽しいじゃないの。浮浪者二人プラス家出娘の三人組が捨て子を拾ったことから始まるドタバタ劇。ありえない幸運が立て続けに起こる、何故ってそれは聖夜の奇跡だからと片付けられてしまう楽しさ。奇跡でありながら災難と言ってもおかしくないような出来事の連続に、主人公たちが何度も呆気に取られる様が可笑しかった。ハナの顔のどアップとか、そのハナが動くときの派手な効果音とか、終盤のカーアクションとか、わざと面白おかしく大げさに演出しているところなんかも楽しんで作ってるなというのが感じられて楽しかった。
主人公三人組も一見「奇跡」に翻弄されているように見えて、それは自ら動き出した結果によるもの。ひとはひとりでは生きられない、孤独ではないって辺りを涙もろく見せないからこそ、ラストの奇跡が素直に感動できるようになっていたんじゃないかと思う。コメディはコメディでも素直にやらない。今監督はきっとひねくれ者に違いない。でもそこが監督の味なのかと。しっかし、監督の好み?の反映なのか、ミユキも、ギンさんの娘さんもちょっと太めと、登場する若い子たちがみんな萌えキャラじゃないというのにまた笑ったけど、それがまたいいんだよね。ミユキのがさつさがめちゃ良かった。見てる間はミユキの声が誰だか分からなくてね。ギンさんやハナが江守徹、梅垣義明というのは聞いていれば分かったけれど、ミユキは本職の声優さんだろうなと思っていたら、岡本綾だったのにはビックリ。「慶次郎縁側日記」や「あずみ」での役柄とはえらい違いだな。でも違和感がなくて凄く良かった。主役級に声優が本業じゃない俳優さんを起用して、(主人公の三人が三人とも)ここまでキャラと見事にマッチした作品は見たことないかな。