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最終更新日:2009年11月23日

TODAY'S MESSAGE

人々をしぐれよやどは寒くとも

元禄2年、芭蕉が46歳の時、三重で詠んだ句。句会がもたれたときの、風雅を求めて集まった人々への思いが込められているらしい。ちょうど旧暦の11月22日に詠んだ。
勤務先大学も11月21日、60周年記念式典・祝賀を催し、300名近くの方の参加で、派手さはないが、音楽教育講座の教員と学生有志による演奏、歌曲などの彩りも加わって勤務先大学の文化性が発揮されました。ご参加の人々の胸中に、これからの大学をめぐる厳しさと、前向きに取り組む事への思いの灯が少しともった、という意味で標記の句はあっているのではないか、と掲載しました。

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このページの前半に「副学長だより」、後半にレギュラーの記事を載せています。それぞれ初めに出てくるのが最新の記事です。

このトップページの後段に、多様なコーナーを集めた「常設 2009」があります。

「副学長だより」(1)〜(115)およびレギュラー記事の以前のものは、「常設 2009」の「以前のメッセージ&情報」に移しました。(09.11.8.)


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副学長だより


     

「副学長だより」(125)60周年記念行事

2009年11月21日、本学の講堂(愛知県刈谷市)で標記の行事を行い、無事終えることができました。
午前10時半からは「記念式典」として、学長の式辞に続いて文部科学省、愛知県、名古屋市、刈谷市、本学卒業生である佐藤泰介参議院議員から祝詞をいただきました(祝辞代読も含む)。つづいて、音楽教育講座の教員・学生有志による祝賀の演奏でした。これらのセレモニーは、国旗も国歌もない、ステージの金屏風と盆栽植木の松飾りだけの質素なインテリアでしたが、祝詞も演奏もよくて、参加者の感想でも「温かい、いい式典だった」「愛知教育大学らしい」と肯定的的でした。参加者は約300名。

お昼は、招待者を中心に祝賀会を行い、わたしが冒頭であいさつをのべました。
まず式典が無事終わったことのお礼を述べ、60年の間におよそ5万人の若人が本学に集い、学び、議論をし、恋いもした。そして、卒業後各界で活躍している。大学とは、「教育とは何か」「人間形成とは何か」「生きるとは」を問い合う自由な空間であって、そうした自由な空間として本学をどうにかここまで維持してきたことには感慨がある。

これからは複合的な課題に直面しており、先行きは厳しい。その中で、課題は、私見では三つある。1つは、「つながり」、2つめに、「課題を分け持つこと、すなわちコミュニケーション」、3つめに「個性の発揮=愛知教育大学らしさ」。こうした課題に向かって、今後ますます教職員と学生・院生が力を合わせて頑張っていきたいので、ご指導・ご協力を宜しくお願いしたい。

と、こういう主旨でした。

午後からの記念講演は、元NHK解説委員・西田善夫氏による「人を育てるとは!」でした。予定は1時間半でしたが、きっかりと講演をしあげるあたりはさすが「話し方」のプロだと感じました。主な中身は、甲子園にみる(氏の取材に基づく)指導者(監督)と選手(高校生)との対話に学ぶ指導論でした。

取手二高で優勝し、次の常総学院でも優勝した木内監督への取材を主な内容として、スポーツの場面で人を育てるにはいかに「言葉」(あるいは対話)が重要か、を話してくれました。取材で得たエピソードで笑わせたり、高校生の自立していく姿でホロリとさせたり、話術の名手です、西田氏は。

その要旨をあえて一言で言えば、「人を育てるとは当人を前に向かせること、その鍵は指導者の言葉だ」ということです。言い換えれば、相手を方向づけること、の重要さです。これは、あのJ.デューイのいう、教育機能のうち根本的なのは「direction=方向づけ」だという思想とまさに重なるのです。それもあって、わたしは、とても興味ふかく聴き入っていていました。

すべてが終わったあとに、内輪で「打ち上げ」をしました。講演前の演奏をしてくれたブラスバンド部、司会者、音楽教育講座の教員、総務課職員などの顔ぶれでしたが、わたしは初めのあいさつで「行事の成功をはかる1つの視点は、参加者の心が1つになったかどうか、です。この式典はその意味でとてもよい感情的トーンをつくりだしており、成功でした」と述べて、例の「四つの拍手」で、関係者を讃える場をつくりました。

「副学長だより」(124)学術交流協定

2009年11月19日、勤務先の大学とインドネシア共和国のジョグジャカルタ国立大学との間で、学術交流協定を締結しました。同大学の学長以下9名の役職者が本学に来学され、実現しました。本学としては17番目の協定校となります。

同大学は、ジャワ島の中央部に位置するヨグヤカルタ特別州にあります。その州都はジョグジャカルタ市です。

同大のスタッフの方々はそのまま愛知にしばらく滞在して、21日(土)に本学の講堂でおこなう「60周年記念式典」にも出席していただきます。

「副学長だより」(123)ピアノとチェロのデュオ・コンサート

勤務先の音楽教育講座所属でピアニストでもある教授(女性)が男性チェリストとのデュオでコンサートを催し、理事としてわたしにも招待状が来ました。2009年11月15日の公演で、場所は名古屋市栄の宗次(むねつぐ)ホール。この日、同じく勤務先において非常勤職員の方々の中から本学の常勤事務職員に登用する選考試験を行い、午後の面接官の一人となっておりましたので、それを終えてからコンサートには夜の部を聴きに行きました。

ちょうど開演の午後7時に会場に入れたのですが、小ぶりのホールはほぼ満員でした。演奏曲目は、ロシアの作曲家ラフマニノフによるピアノとチェロの協奏曲と、アルゼンチンと後にフランスで活躍したピアソラの作品、計6曲のほかに、アンコールで2曲、8曲を情熱的に演奏しました。

楽曲の中身はよくわかりませんが、どの演奏も、ピアノのアップテンポとチェロのあの嘆きのような高音とお腹にひびく低音の流れとがうまくマッチして、感銘を受けました。わたしには、後半の、「リベルタンゴ」「グランタンゴ」、そして愁いを表している「ヴォカリーズ」が、曲としては合っていました。

約2時間の演奏を聴かせて頂き、十分に心がほぐされました。

「副学長だより」(122)東アジア教員養成シンポジウム(第4回)に参加

東アジア教員養成シンポジウム(日本、中国、台湾、韓国の教育系大学が参加)が、2009.11.14.〜15.、大阪教育大学柏原キャンパスで開催されました。昨年の第三回参加記を、「学長便り(74)」に載せていますが、その4回目です。

わたしは、15日には別の公務が入っており、14日だけの参加でした。午前に三カ国から各3大学の発表があり、午後も同じ発表件数で、計18大学の発表がありました。発表者は基本的に学長(総長)です。教員養成のまとめ役の教授たちの発表も数件ありました。それぞれ午前、午後ともに一括しての質疑応答でした。

午前の部では、中国側から、「師範」と「教師」の概念をめぐって質問がありました。中国では「師範大学」という名称が一般的で、ただその実態は総合大学です。質問者は、日本側発表では「教師教育」という用語を使うが「師範」とはどう違うのか、という主旨の質問をしました。そのテーマは、根は深く、教職の専門性とは何か、にかかわるものです。

これに対して大阪教育大学の佐々木准教授(発表者)が、歴史的経緯を説明。「師範」は戦前において教師の理想型をあらわしていたが、戦後、教師の個性化や専門性がいわれ、つかわれなくなった、と。

同じ問題について、中国の北京師範大学からは、次のような問題提起がありました。

「師範」は教える技術に力点おいた概念であり、中国で師範大学が総合大学化していくなかで理想型教師像か、個性型教師像かが課題になってきている面はある。その際、これまで「技術」をもとめるあまり原点(注:教師とはいかなる専門職か)を忘れてきた経緯もある。教育実践と教師像との関係について理論的探求がすすむ現状だが、私見では、そもそもそれが師範大学の中心テーマではなかったか、なぜ今頃そういう議論になるのか、疑問を持っている、と。

また、韓国の教員養成系大学では中心的位置にあるソウル教育大学校からは、次のように応答がありました。国ごとに専門性の考えかたには違いがあるが、教師としての資格に関してはどの国も同じであると思う、と。

教職の専門性を理論的な面で追求してきたが、養成における専門性の形成過程をこれからさらに掘り下げて取り組む必要があることも、共通に語られました。

ところで、わが国では「師範」は、皇国民教育の支柱としての教職をあらわす概念であった点がとても重要です。戦時下では、ある師範学校において教官が学生に対して、「諸君は子どもたちに、お国のために進んでいのちを捧げることを教える大事な使命を持っている。その意味では、師範とは、死範、すなわち皇国のために身をささげる模範のことだ」といった講義が行われました。こうした皇国主義思想は戦後の民主主義教育とは相入れないために、師範概念を使わなくなったのです。佐々木氏の応答では、時間の関係もあったでしょうが、その肝心の部分が落ちていました。ただ補足しておくと、複数の中国側発言者によると、大学名は師範大学としているが、ここ数年、教師教育という用法が一般的になっているとのことです。

「副学長だより」(121)「事業仕分け」対象に運営費交付金が

2010年度の概算要求の無駄を洗い出すとして行政刷新会議の「事業仕分け」が11月11日から始まりました。3つのWGで、それぞれ公開で市民傍聴のかたちで行われています。

一番気になっているのは、文部科学省関係で、国立大学の運営費交付金がその対象に入っていることです。「私学助成金」は入っていません。なぜ、そうなったのか。以前に聞いていたのでは、国大協からの申し入れもあり、運営費交付金はほぼ従来通りの形で継続する旨の姿勢を政府も示していた、したがって事業仕分けからはずすとの了解であった、ということでしたのに。

関係者のさまざまな情報をまとめると、まず文部科学も政務三役が動いている。同省の法人支援課など関係セクションの課長クラスに(レクチュア等での要請の)声は掛かっていない。次に、財務省のつくったプラン通りに進んでいる。この構図は、前政権のときと変わっていない。

このままで行くと、「事業仕分け」の結果、来年度概算要求の一環である「特別教育研究経費」やGP(Good Practice)経費がばっさりと削られ、さらに運営費交付金の効率化係数も、従来よりも更に拡大されて数パーセントになることも可能性としては見ておかなくてはなりません。仮にそうなったとして、旧七帝大と筑波、広島のあたりにはそれなりの規模の予算、その他の地方大学と単科大学には厳しい縮小予算といったように、格差がますます広がり、まさに「つぶれる」国立大学さえ出てきかねない事態を迎えます。

「はじめに削減ありき」という「仕分け」のもとで、新政権は日本の高等教育をどのように高めていくのかというビジョンが語られないままに「金」の面だけで議論が進むならば、日本の教育や知性の自滅行為になっていくと思います。が、そのような、大学の現場サイドからの視点をもった報道があまり為されずに進んでいっているのが気になります。もっと「知と文化」を語るペンのちからを。

「副学長だより」(120)学生参加型授業を目指すFDフォーラム

09年11月6日午後、名古屋市天白区にある名城大学・大学教育開発センター主催で、標記の研究会が行われ、参加しました。まず基調講演で、「協同学習の魅力とその組織的取り組み」と題して、創価大学・教育学習支援センター長である関田一彦教授が話しました。アメリカのミネソタ州にある大学に在外研究で8ヶ月滞在して、ジョンソン・アンド・ジョンソンという兄弟の研究リーダーから学び、帰国後も自大学でこのテーマで実践的な研究を重ねてきた、それが約12年になる、と自己紹介をしました。

講演としては、総合評価で言えば、「C」です。その理由は次の5点です。

(1)「協同学習」について、いまなぜそれが必要なのか、それは「グループ学習」とどう違うのか、また「学びから逃走する」傾向にあるとされる世代の若者たちにそれはどう有効なのか。そうした参加者の多くがいだく関心に対して、レクチュアでもなく、ワークショップでもなく、中途半端な構成であったために、「協同学習」とは何を言うのか、が最後までクリアになりにくかった。
(2)前述のような論点を、講師はあらかじめ「よくある誤解」としてスライドにまとめて、講演の終盤で説明したが、これに対してフロアから(名城大の)女性教員が質問したように、「協同学習」になじまない授業科目はあり得るし、学力差がある中で「優秀な学生」の参加と効力感をどうしたらいいのかは、大事な授業改革の関心事である。
(3)「協同学習」の論旨が「ソーシャル・スキル」中心の話となり、いまの大学のカリキュラムの実態や学生の「学び」へのニーズの分析が殆ど示されず、フロアにいる大学教員にとってはまるで、大学以外の場でコンサルテーションの話を聞かされるようで共感しがたい構成であった。
(4)「協同学習」も、大学における多様な分野の授業改善の、ひとつの授業改善方法であるが、そもそも、大学ではいまどのような授業をめざすべきか、その課題に即して「協同学習」はどういう点が有効であると実証されているか、またどういう点が今後の研究課題になっているか、というオープンな議論への提起が乏しい。
(5)講師は、このテーマに関して自分はアメリカでの実証的・学術的な研究に従事してきたと言われるが、失礼ながら、どれだけ豊富にそれらに触れてきたのか。その研究成果をどう踏まえた話なのか。それらを部分的にでも挿入して語るにしては、話が、まるで企業の社員教育的で、研究者の講演・レクチュアとは言い難いと感じる局面が多々あった。

と、まあ、辛口の批評になってしまいますが、実際にそうだったので、これは仕方ありません。

講演の合間に、計4回くらいだったか、「では、今私が話しましたことについてお隣どうし、どうですか、と話し合ってみてください」と誘いかけていました。

その語り口はとてもソフトで、かなり訓練(洗練)されているなと感じますが、そういう模擬「スキル」を何回も講演に挿入すること自体が,実は、フロアの多くの方は「協同学習についてよくご存じないでしょうから、ちょっと、それらしい場面をもうけてあげますから、参考にされては」という、「上から目線」の組み立てになっていることを、氏は認識できていないようなのです。おそらく全国の大学で講演をしてきた、その氏の経験と講演のプログラムにそって話しているつもりなのでしょうが、その「プログラム」どおりの話し方自体が、聴衆への心理的な「コントロール」になっていて、講演では、「協同学習は教員と学生の人間的交流を重視する授業方法」と言いながら、皮相的な、双方のコンタクトの経験をフロアにさせるという、なんとも安易で失礼な組み立てになってしまったのです。

講演の後、後半では、人間学部、経済学部、薬学部からの実践事例が報告されました。

「副学長だより」(119)相互の連携を語り合う、名古屋大学総長・理事と

11月初めのある日、名古屋大学の総長・理事と、わたしどもの学長・理事とで、現在の大学をめぐる環境や今後の連携について語り合う懇談の場を持ちました。場所は、名古屋市内の鮨屋別館の離れ。

名古屋大学からは総長の濱口道成氏(腫瘍生物学専攻、医学博士)、理事(法務・リスク管理等担当)の佐分晴夫氏(国際法学専攻、法学修士)。こちらは学長の松田正久氏(物理学・素粒子論専攻、理学博士)、そして総務担当理事の折出(教育方法学・生活指導論専攻、教育学修士)。

食事を取りながらのフランクな語り合いの場でしたので、いろいろの話が出て、楽しいひとときでした。6時半頃から始まって、終わったときは9時半頃でした。

現在の状況ですから、新政権のことや大学改革の在り方など、途中では少々なまなましい話題も出ましたが、研究面や海外教育などを通じての今後の連携は了解し合いました。HPではこの程度に留めておきます。

「副学長だより」(118)福岡教育大学60周年記念式典への参加

10月29日、学長代理として福岡教育大学の60周年・教職大学院開設記念式典・記念講演会に参列してきました。場所は博多駅前の日航ホテル福岡の広間で、参加者数は、18×13のイス席がほぼ一杯でしたから、ざっと220名くらい。御手洗氏(元文部事務次官、現放送大学学園理事長)の講演は、約90分。話の前半は放送大学の現状のことで、後半にふれた現行の改革の動向に関しては新しい話題は何もありませんでした。

大後忠志(おおご ただし)学長の式辞も順当な中身でした。祝辞としては、文部科学省からは大臣の代理として義本博司・高等教育課長、九州大学総長代理で同副学長、県知事麻生氏の代理として副知事(女性)、そして県議会議長(同大の卒業生)でした。来賓紹介は、上記の他に県教育委員会教育長、同窓会会長、企業社長(経営協議会委員らしい)など。また、福岡選出の衆議議員議員、参議院議員(いずれも秘書が来場)が紹介されました。

式典の最後に、同大学が募集したイメージキャラクターの最優秀作品「フッキー」の表彰とその公開除幕式が行われました。奈良教育大学もそうしたキャラクターを作っています。

「副学長だより」(117)大学改革シンポジウム

この「だより(106)」でご案内しましたシンポジウムが10月24日に開かれ、受付の記録では90名の方が参加されました。県外からは鹿児島大学、奈良教育大学からもご参加いただきました。ご多用の中、ご参加いただいた皆様、ありがとうございました。パネリスト4名の方のご提言もユニークで意義あるものでしたし、後半の質疑・応答も、限られた時間でしたが大事な切り口が取り上げられました。

ちなみに、「学校と地域をつなぐ」というキーワードについては、最後のまとめで横須賀氏も、愛知教育大学らしい、今後に期待したい、と共感を表明して下さいました。

◇《後記》参加者からの感想が5件寄せられました。主催の前には、パネリストの顔ぶれからテーマをめぐってうまくかみ合わないのではないか、と心配される声も執行部周辺であったのでしたが、感想を見る限りはそうではなく、むしろ教師像を外の目から見ることのできる良い機会となった、とか、これからの学生たちに、相手とつながるコミュニケーション力を育てることの大切さが良くわかった、など肯定的でした。いわゆる教員養成関係者のうちわの議論にしないであえて開く形を取ったのが、参加者にはそれなりに受け止められたようでした。

以下は、そのとき冒頭でわたしが述べました「主旨説明」の草稿全文です。

シンポジウムを始めるに当たっての発題

本日はご多忙の中、国立大学協会との共催による「2009大学改革シンポジウム 学校と地域をつなぐ新しい教師像と教員養成を探る」にお越し下さいまして、まことにありがとうございます。

 作者不詳ですが、ある説によると教師は三つの顔をもつと言われます。

 1つは、actor:俳優のように、子どもたちの活動を引き立てる様に演じる人。

 2つめに、doctor:一人ひとりの発達実態に沿いながら、その悩みや葛藤を聴き取り、これを乗り越える様に援助していく人。

 3つめに、fortune−teller:子どもや若者たちの未来をともに描き出し、前に向かって歩み出せる様に語る人。

 子どもと向き合い指導するトータルな教師像が示されていますが、しかし、こうした教師像はいまや崩れかけており、業務をこなすビジネス的な職能的専門家に変わってきているのではないか、との批判もあります。

その背景には、学校の管理経営面が強まり、多くの校務をこなし、文書作りに追われて、目の前の子どもと向き合い子どもの話を聞くという基本が削られている現実があります。また、養成段階での在り方として、教科指導、特別活動・生活指導などの基盤となる学校教育の指導力形成が十分に為されているのか。対人関係や対組織の関係で必要とされる資質や能力に対して、養成から採用・研修を経て、どのような支援と克服の道筋を造っていくのか。こうした教師の自立に対する総合的な支援・指導自体を自治体レベルも含めて探っていく事も必要ではないか。こういうことも言われています。

教師をめぐるさまざまな問題は、「教員の資質向上」というスローガンのもとに、時代ごとに教員養成政策として具体化され、国立大学の教員養成の改革が取り組まれてきました。たとえば、教職専門科目における生徒指導関係の必修単位の増加、4年間での教育実習の重視とさらなる改善、そして学生たちのコミュニケーション力を開発するための参加型授業の工夫など、それぞれの教員養成大学・学部の特色を発揮しながら、この社会的課題に応えようと努めてきているのが実情です。

このような教員養成の課題から浮かび上がるのは、教師を、狭義の教科を教える専門職者(ティーチャー)としてばかりではなく、子どもの学習や生活をとおして一人ひとりの発達と自立を支援する援助専門職者(ファシリテーター)、学校と地域をつなぐ協力関係の調整者(コーディネーター)としてのそれぞれの役割を担いそれらを総合していく教師像であります。

このような課題に対して、20067月に示された中央教育審議会答申では、教職大学院制度の創設、教員免許更新制の導入とともに、教職課程の質的水準の向上が明示されました。中でも、「教職実践演習」の創設・必修化は、入学直後からの学生の教職課程履修をポートフォリオの様に把握しながら、4年次の後期に、みずから学んできた教職の教養と専門科目を総合する契機として位置づけています。この新設科目も来年度から実施されます。

さらに、その答申が教職課程水準引き上げの今後の課題としてあげている今一つの点は、養成された教員を受け入れる側(デマンド・サイド)の視点に立つことです。これまでも国立大学の教員養成ではそうした視野を多少なりとも持ってやってきたと思いますが、今後はいっそうそうした課題にも応えて行かなくてはなりません。とくに、学校とこれをささえる地域とのつながりは、重要性をいっそう増してきます。その意味も込めて、「学校と地域をつなぐ」というキーワードをもうけました。

以上のことから、一言で言えば、教職実践と専門科目の理論との融合を学生自身に主体的に深く探究させられる教員養成の在り方が問われています。

これまで、こうした教職の専門性をめぐって大学の関係者が特色ある取り組みを報告しあい、課題を共有していくかたちのシンポジウムは多く見られました。わたしどもの場合は、すこし視点を変えて、ややもするとこれまで見落としがちであった問題を加味しました。つまり教員養成にもっとも期待を寄せている住民・市民の教育要求の視点であり、非行や問題行動、あるいは「新たな荒れ」ということで浮き彫りになっている、教育を受ける子どもたち自身のニーズにどう応えていくのか、という課題です。

そこで、ディスカッションの組み立て方も、教師に期待と要求を寄せる市民の目線、学校と地域との結びつきの観点、そして教員養成制度の立場、教員養成改革の具体化を探る立場という多面的な見方から,問題を掘り下げてみることにしました。

こうした経緯から、御登壇頂いている四名のかたに、それぞれの視点やお立場から積極的なご提言をいただければ、と考えてパネリストをお願いしました。ご多用の中、お引き受け下さったことにまずお礼を申します。

すでにご依頼の時点で、四名の方に共通する視点として「新しい教師像」を意識していただいてご提言を、とお願いしてありますが、それはすこし先の射程を見つめながらの論議になればと考えたからです。ただし、これはそう簡単に答えの出せるテーマでないことは承知しております。また四名のパネリストにのみ答えを求めるものでもありません。五人目のパネリストともいえるフロアの皆様からも、ご意見・ご示唆をいただき、課題を深めていくことができれば、と思います。

 ご発言の順序としましては、大河内さん、木村さん、横須賀さん、前川さんとさせていただきます。

 大河内さんには、1994年のあの事件以来全国の若者との交流を続けてこられた(注記:約1000件に及ぶ)経緯も踏まえて、いま、そしてこれからの教師の役割、教師と保護者の結びつきや対話の在り方について率直なご提言をお願いします。

 木村先生には、30有余年にわたり保護観察官として非行・問題行動で学校と家庭・地域の関係にじかに携わってこられた実践を基に、これからの教師と保護者、学校以外の専門家等との結びつきについてご提言をお願いします。

 横須賀先生には、教育学者としての豊富なご研究と実績と共に、教員養成大学の学長をお務めになられた経験から、また教職大学院の構想・制度設計の中核を担ってこられたお立場から、国立大学の教員養成に求められる課題についてご提言をお願いします。

前川審議官には、初等中等教育の分野をあずかるお立場から、教員養成にとっての課題、とりわけ今ホットな話題になっている部分も含めてご提言・ご示唆いただければ幸いです。

フロアには、国立大学の教員養成に携わっておられる大学教職員の方々、日々子どもたちと向き合う教育現場の教員の方々、そして地域での子育て・教育の問題に実際に関わっておられる市民の方々がおられます。また、いま大学・大学院に在学して教職を志望して日々勉学に取り組んでいる学生のかたがたもいます。後半のところで、ご質問やご意見を出して頂きながら、一緒に、テーマを掘り下げることができればと考えております。

    

「副学長だより」(116)概算要求情報

今年の6月、前麻生政権のときに急遽補正予算が組まれ、各大学が要求をした件についてこのたび文科省から通知がありました。当大学分としては、高性能分析電子顕微鏡や太陽光発電などの総計1億3千9百万円はとくに削減も受けずに、そのまま執行してよいとのことでした。

しかし、本学の2010年度概算要求であげた施設整備に関しては、理数科教育への対応との絡みで自然科学棟の改修や基盤的な環境整備はすべて却下されました。全国の概算要求の傾向としては、医学系(医療機関を含む)や理工系の総合研究棟などの改修が認められています。しかも、すべて総合大学です。教育系大学では、唯一、京都教育大学の耐震改修が認められただけです。

民主党政権の財源の厳しい査定も、結局は総合大学と教育大学との格差を引き継いだ形で進められているとの一面は、上記の事態からも言わざるを得ません。



My Life(近況や社会的活動、研究会、講演をアップしています)


「出会う」ということ

標題同名の書物(藤原書店、10/21付発刊)は、演出家・竹内敏晴さん(本名:米沢敏晴)の絶筆となったものです。著者の「あとがき」の日付が、2009年9月5日であり、その二日後の9月7日に逝去されました。ご冥福をお祈りします。

竹内さんと言えば、『ことばが劈(ひら)かれるとき 』(筑摩書房、1975年刊。現在、ちくま文庫に収録。)を読んで、衝撃にちかいものを受けた方も多いでしょう。わたしもその一人です。氏は、幼児期から難聴による言語障害であった自らの体験を基に、「ことばが生まれる」ということを生涯のテーマとして、からだとことばのレッスンを続けてきました。

わたしは、そのレッスンに参加した経験はありませんが、その本(初版)を読んだ頃は、ちょうど助教授となって講義やさまざまな研究会(とくに実践家との)に打ち込んでいた頃でしたので、そうした出会いの場で自分はどのような「ことば」で語ることが求められるのか、どのようにしたら「ことば」を相手に伝えられるのか、を自分なりに考えてきました。

改めて、教育の仕事は、ことばによる伝えあいであり、(このトップページ前半に書いた)元NHKアナウンサーの西田善夫さんのいうように「ことばをもって相手を前に向かせる」営みといってよいでしょう。

「ことば」の語源は、一説には、言霊の端、つまり人々のスピリチュアルな内面世界の表されたもの、という意味合いから来ていると言われます。それだけ、そのひとの存在そのものの表出なのです。「声のきれいさ」とか、「正しく話す」という外見的な問題は、自己を表現できるならばおのずから良くなっていくものでしょうし、変わっていくと思います。

その本の中でも、氏のある実践が紹介されています。学生たちの講義にリンゴを持っていって、「これは何か」と聞く。すると「リンゴ」と返ってくる。そこで「これはリンゴではない。さあ、なんと言いますか」と聞き返すと、みんな「えっ」と言って、あらためてその物と向き合おうとする、というのです。ことばの発見のレッスンですね。

それを幼児は、とても活き活きとやっています。孫のSクン(二歳)がことばを憶え、つかい、外界とじぶんとのつながりを毎日発見していく中で、その行為自体を楽しんでいるようすをみますと、もっと「ことば」には、未知と出会うたのしさ・おもしろさ・わくわく感があるはずなのだ、と教えられます。

話を戻して、竹内さんは、『「出会う」ということ』の中で、自分のレッスン体験を振り返りながら、これという正解はどこにもない、と述べて、「冥い(くらい)道を、鉱脈の予感に従って手探りして掘ってゆく一人の抗夫だ」と自分のことを定義づけています。

「抗夫」がいれば、かならず、その掘り出された物を運ぶ「運搬人」が現れますし、それらを保管し貯蔵してより多くの人に分ける「伝達人」も登場します。何からの運動や、開拓に取り組む人は、どこかに「抗夫」的なものをもっているでしょう。その「抗夫」であることの不安やつらさ、責任の重さに負けてしまってはよくない。「抗夫」になろうとしてなったわけではないけれど、その立ち位置に自分が居ると知ったときから、それはその人のミッションになっているのです。

教師の、専門職としてのほんとうのきびしさ、課題の重さは、文化の「運搬人」「伝達人」でありながら、同時に「抗夫」的要素も必要であることにあるのではないでしょうか。それらすべては、これからを生きてゆく子どもたちのために。

ベルリンの壁

09年11月9日は、「ベルリンの壁」が崩壊してから20年目に当たります。「壁」は、1961年に建設されて以来20年以上にわたって東西冷戦の象徴となっていました。東欧諸国に民主化の嵐が吹き荒れ、1989年のこの日に「壁」が崩壊し、つづいて1991年には当時の東欧共産圏の支柱国であったソビエト連邦も解体されました。

背景としては、第二次世界大戦後、ドイツが連合国側に敗れ、アメリカ、イギリス、フランス、ソビエト連邦の4ヶ国による占領を受けて、アメリカ、イギリス、フランスの占領地域が「西ドイツ」、ソ連の占領地域が「東ドイツ」として分断されたことに始まります。東ドイツのエリア内にあった首都ベルリンも市内を4ヶ国で東西に分割占領し、その境界(国境)で、東側から西側への住民の越境・流出を阻止するために「東西ベルリンを分ける壁」がつくられました。1961年から。

「崩壊」の少し前に、故藤井敏彦氏の呼びかけで「西洋教育思想をめぐる旅」と称して、ソ連・東欧・ドイツ・スイス・フランス・フィンランド・イギリスの旅が企画され、私も参加しました。この時に、ドイツに入って東ベルリンで二泊して西ベルリンに団体観光バスで移動する際、東側から西側へ出る「壁」で東側の検閲を受けました。バスは停車させられ、制服の憲兵たちが私たち全員のパスポートを集めたり、幹部らしい兵士がバスの中に乗り込んできたのを今でも憶えています。車内に、緊張が走りました。

通訳者兼ガイドの男性が旅行目的や移動の理由などを先方に説明したと思いますが、ずいぶんと長い時間待たされた感じでした。

当時、旧ソ連国家保安委員会(KGB)の中佐として東ドイツの監視役を務めていたロシアのプーチン首相は、ロシア国内で11月8日夜に放送された「ベルリンの壁崩壊20年」のテレビ特集番組の中で、89年当時を振り返っていろいろと語ったようです。「朝日コム」速報によると、プーチン氏は、「東独がそうした状況になったのは、社会主義システムが経済的な損失を発生させ、計画経済は競争力がないことを露呈したからだと指摘。西独の方が生活水準が高く、国民は自由を感じ、政治に積極参加していたが、東独には何もなかったと」述べたようです。(「朝日コム」09.11.09付け=http://www.asahi.com/)

また、氏は中国の万里の長城と「壁」を比べ、「万里の長城はなぜ数百年も立っているのか。それは国民を守ったから。ベルリンの壁は国民を分断した。だから不自然だった」とも述べたとのこと(同前)。NHKニュースによれば、「壁」崩壊後に生まれた若い世代がドイツ国民の約20%を占めるまでに変化してきているそうで、その今でも、東西の経済や文化などの違いは尾を引いているようです。

「壁」をめぐってはこんなことも身近にあります。日本における集団主義教育を実践的・教育技術論的に、先駆的に切りひらいてきた全生研という研究団体の「集団づくり」理論に対して、長年の会員でありますわたしはその改革構想を提起してきました(例えば小著『市民社会の教育』創風社、2007年)。これに対して同じ会員の中から反論や批判があったわけですが、それら批判者の中には、「(ベルリンの『壁』の後に)ソ連の崩壊を経験したが、だからといってわが国における集団主義教育までも精算しようとする(折出にみられる)立論は間違っている」という主旨でした。

わたしは、あくまで市民社会論から「集団づくり」の刷新を提起したのですが、上記のような批判をくりひろげた論者は、「壁」崩壊・ソ連崩壊にひるむことなく(集団づくり理論で語られた)「民主集中制」という組織論・そのイズム(イデオロギー)を堅持すべきこと、また全生研という研究団体の「指標」は「政党の綱領的文書」にもあたるもので歴史的なものなのだ、という考えを表しています。

問題をみるその目線そのものが、図らずも、集団づくり理論を社会主義的組織論の枠内から見ようとする視野狭窄を表しており、これでは、一般の会員やこれから増えて行くであろう(また、増えて欲しい)新しい若い世代の会員の関心からかけ離れています。

問題の最重要なポイントは、いま、民主主義をどうとらえ、その主体者を育てる実践論・方法論としての「集団づくり」理論をこの社会的現実や矛盾の発現を踏まえつつどう構想するか、なのです。「歴史的伝統」をまもれ、と旧い体質をそのまま維持し正統化しようとする議論は、果たして若い実践家の成長に対してほんとうに責任を負えるのでしょうか。結局は、批判者みずからの思想の正統化のために、そうした言辞を述べているのではないでしょうか。

まさに、市民社会の成熟へと徐々に動き出していく社会的事実と、そうした主張をされる方との間にある「壁」こそが問われるべきで、それをきちんと見つめるべきではないでしょうか。

どのような自分の人生行路を築いていくか

渡邊二郎『自己を見つめる』(左右社、09年9月30日刊、定価1619円)は、その書名の通り、自己自身をさまざまな確度から見つめ、対話するには好著です。放送大学叢書の一冊で、著者は西洋近代哲学を専攻してきた東大名誉教授で、故人となっています。豊富な学識を背景に、いっさい、文献引用のわずらわしさを省き、それでいて古代から現代に至る東西のすぐれた思想家の主題を読み解き、わかりやすい言葉で、読者に「汝自身を知れ」「汝自身に帰れ」そして「汝自身に成れ」と語りかけています。

たんなる人生論ではありません。哲学の本ですが、結果として、人生をよみとく、すぐれた参考書になっています。全部で15章に分かれ、扱う主題は次の通り。すべて、わたしたちの人生の歩みにとって回避できない主題です。
経験、時間、境遇、遍歴、自己、生き甲斐、仕事、孤独、愛、他者、世間、運命、不幸、老い、死。

随所に、このトップページの下段でも取り上げているヘーゲル哲学が出てきます。それは、ヘーゲルを批判的に摂取して現代の思想を築いたハイデッガーを著者が若い時から研究してこられたからでしょう。

たとえば、「愛」とは、漢字としては「既」(息が詰まること)に「心」がついて、下に「ふゆがしら」(静かに行く、の意味)の字がついたもので、「心が強く打たれて、切ない気持ちで、行き悩むありさま」を表しています。愛は、ふつうに思われている以上に、ずっと深く、心の奥深い悩み事に係わるのです。それは「表面的で感覚的な好み」のことではなく、「控えめながらも持続的で強い根源意欲ないし生命意欲」なのです。そして、それに伴う、憂い、優しさ、悲しさなどの情念のすべてを含むものです。

自分自身や身近な他者、仕事、そして自然にたいするそれぞれの愛を、このように簡潔に、かつ見事に言い当てている例はあまりありません。これほどに、著者の中で長年の思索によってほぐされ温められてきているさまざまな思想が、まるで高校生に説くように、のべられています。

「生き甲斐」も、読み進めるごとに染み入ってくる章です。「甲斐」とは、自分の努力や非力を受け入れつつ、それよりほかにはない自己の安らげる住み処、自己を自己としてまるごとうけとめ肯首できる故郷なのだ、と著者は言います。

本書を読むと、その中に書かれているニーチェの言葉、「これが、生きるということだったのか。よし、それならば、もう一度」という決意のメッセージがとても身近に感じられるから不思議です。

推理小説にも飽き、店頭にならぶさまざまな人生論、エッセイもなにか合わない。だけど、こころにひびくような本に出会い、そういう知的なタイムを持ちたい。そう考えている人には、ぴったりの一冊となるでしょう。(09.11.6.)

ヘーゲル哲学入門

寄川条治さん(愛知大学教授)がまとめた『ヘーゲル哲学入門』が刊行されました。ナカニシヤ出版、09年9月25日付刊。

「まえがき」で、今なぜヘーゲル哲学を学ぶ必要があるのか、と問いかけて、「ヘーゲル哲学は『すべてのもの』を理解するための必要条件であり、かつ十分条件だからである」と。つまり、西洋のことも東洋のことも、過去も現在も。現代思想だからといって「ポストモダン」を追い回さなくても、ヘーゲル哲学に学べばわかる。それ自体がヘーゲルから生まれてきているから、と。

ずいぶんと大きく出ているなと感じるかも知れませんが、広島大学の学生時代の卒論をきっかけに、以後ずっとヘーゲルにこだわり、ヘーゲルの弁証法の考え方を指針として、自分の人生をここまで歩んできたと言っても過言では決してないわたしにとっては、著者のその序言は、少しもオーバーには感じられないのです。

生ある有限なものとして、わたしたちは「いま」「どこに」立っており「どこへ」向かおうとしているのか。その道しるべ、サーチライトとなる役割をヘーゲルの哲学は果たしうると言えます。そのために、ヘーゲルの言葉に即して、彼の哲学の中にある物の見方・考え方・捉え方を学ぶ必要があります。

本書は、学生や一般読者のためにまとめた導入書だと著者は書いていますが、実際にはややむずかしいと思います。わたしのようにヘーゲルについて考える機会をこれまでにも積み重ねてきている者にとっては、とってもわかりやすい全体像のわかる本になっています。もし、ヘーゲルに興味があって、しかし彼の著作(邦訳)にはほとんど接していない方にあっては、本書の第六、第七章の「精神現象学」にかんする展開から入って前に戻ると、わかりやすいでしょう。

いま新政権のもとで「友愛」が語られ、あらゆる分野で人々の相互信頼が問い直され、他者と自己の関係性がつねに生活の現場でさまざまに生起するとき、ヘーゲルの志向すること、つまり、自己が自己にあらざる姿を取りながらもなお自己を人間性ゆたかな、統一的な主体者として存立させようとすること、そのことを世界という視点から体系的に見る力を得ること。ここに現代の生き方の原点があるように思います。

それは、東西の宗教の問題にも及びます。たとえば、親鸞がなぜ「悪人正機説」を唱えたのかも、ヘーゲルの弁証法に立てば、理解しやすい。「悪人」こそおのれの罪をあがなう他力をたのみとしており、そのことに気づくこと。その自覚こそ、まさに「悪人」にあらざる者への、否定の否定という主体的な契機となるものである、と。

汲めども尽きぬ、と言いますが、ヘーゲルの哲学は確かにそうです。学ぶこちらの側の成長・変化に応じて、その現れる相がすこしずつ異なってくるから不思議です。

(注記:この間に入るトピック=「前立腺の話」は、「以前の情報」欄に移しました。バランスを考えてのことです。)

『悪童日記』の冷徹な人間共感力

最近、新聞の「文化」欄で宮崎駿さんが薦めていた小説『悪童日記』(ハヤカワ文庫、初出2001年)を、アマゾンで購入して読みました。元の邦訳初出は1991年ですから、当時話題になってからもう20年近くということになります。作者は、アゴタ・クリストフという女性作家で、ハンガリー出身でいまは亡命先のスイスで活動しているようです。

この本の原題は「大きなノート」という意味らしいのですが、意訳の意図は、こうです。

「ぼくら」という双子の少年が主人公で、かれらの日記・手記の文体で綴られています。文中からすると、その少年は10代初めでしょう。どこの国の、どの町で起きたことかはいっさい書かれていません。しかし、著者の実体験から推察すると、舞台は、第二次大戦の戦時下で、ハンガリーの首都ブダペストから離れた、オーストリアとの国境に近い町でのこと。この町に疎開してきた双子の「ぼくら」が、母親に預けられた「おばあちゃん」の家で暮らすことになり、その町のおとなたちの生活、そしてドイツ軍と思われる兵士たちのこと、やがてソ連軍が「解放者」として侵入してくるまでの戦時下のリアルな場面を、子どもの目線で綴っています。

そこに出てくるのは、死、暴力、犯罪、飢え、貧富、性など、どの章を取っても「悪」に充ちた物語ばかりです。しかも少年たちがその「悪」を感情抜きで、あまりためらうこともなく引き受け、かつ実行していくのです。邦訳の標題の意図がそこにあります。

しかし、どの場面にも、少年の目線を通してうかがえる、人間の根底にある幸福欲求といったらいいでしょうか。あるいは安全や安心をもとめる根源的な生命力といえばいいでしょうか。登場人物の根っこにある人間としての本姓にたいする、一貫した共感の目線が「ぼくら」の語りの裏側に見えるので、それが読む者をしだいに惹きつけていくのです。

数々の「悪」の行為は、子ども時代だから許されるともいえますが、同時に、その叙述にはおとな社会への痛烈な風刺やユーモアもにじみ出ています。たとえば、町にある教会の司祭から聖書を読むよう薦められ、もう読んだと「ぼくら」が答えて、やりとりをする場面。司祭「十戒を知っているね。戒めを守っているかね?」、ぼくら「いいえ、『汝殺すなかれ』って書いていますが、実は誰もが殺すんです」と。

最後の最後まで、いっさいの権威、物欲、性などにたいして冷徹なまでに「個」としての尊厳を守ろうとする(ように描かれる)「ぼくら」を通して、戦時下の非情なまでの人間性の堕落にもかかわらず、生きることへの明かりも随所に感じさせるのです。

今頃になって本書を話題にするのは気が引けますが、なにかおもしろい本を探しておられるかたは、この本はお薦めです。文庫本で、値段は660円です。



※ 『朝日新聞』10月12日朝刊(名古屋本社版)が、「参考書復刻ブーム」として、下段で私が取り上げた現代文参考書や同じく60年代参考書であった英文解釈の本について、いま40〜50代の間でブームになっており、背景には「ノスタルジックな向学心があるのではないか」という研究者のコメントを紹介しています。また、その世代は中間管理職としても迷うことが多く、かつての受験成功体験に戻ることで自信を再確認したいのではないか、とも。

私の場合には、絵と短文の解説ばかりで頁が軽く感じられる最近の「ハウツーもの」にまったく失望して、本来のハウツーとは何なのか、を考えていてこの現代文参考書に行き当たったのでした。

理念と言葉の力が市民を育てる

アメリカのオバマ大統領がノーベル平和賞を受賞しました。まずはお祝いします。就任から9ヶ月の短い期間での受賞は、それだけ彼の活動と発してきたメッセージが、これからの世界の平和にとって大きな意義を持つと評価されたからでしょう。「特に『核なき世界』を目指すとする理念と取り組みを重視する」というノーベル賞受賞委員会の述べる受賞理由もわたしたちを納得させるのに十分根拠のあるものです。

アメリカ外交史研究者の西崎文子氏(成蹊大教授)が述べる様に(『朝日新聞』10/10朝刊)、オバマ氏はこれまでの「アメリカ中心」ではなく、アメリカを含むそれ以外の国々の複雑な歴史を総合した世界史の文脈に立って「非軍事と対話」の理念を語っています。常にアメリカが正しい、ではなく、異なる意見(たとえばイスラム世界)とも対話し、普遍的な価値を探るとしている点が各国から大きな共感を持って迎えられているのです。

ちょうどこのようなタイミングを捉えて、わが国では、広島市長と長崎市長が、2020年のオリンピックに共同開催で立候補したい旨を表明しています(10月10日)。これをめぐっては国内にはいろいろの評価があるでしょうが、オバマ大統領のスタンスとリーダー性を指標として日本からもその国際平和運動の新たな段階づくりに参画したい、という意思表示として、とても重要な動きではないかと思います。

わたしたちは、こうした良心的で理性的な政治家たちの語る理念やその言葉の力によって、しだいに市民に育っていきます。たとえば、「チェンジ」「We Can」「希望」などの言葉が若者や労働者の間でも折に触れて使われ、自分たちの現状の変革と重ねて合い言葉的な意味をもってきています。下段の記事でも書いた様に、こうした地殻変動に支えられて民主党政権が新たな課題にチャレンジしていくことでしょう。その実績が真に市民社会の要求に応えているかどうか。その検証をするのも、かれら政治家ではなく、わたしたちです。

その、わたしたち一人ひとりは、いかなる理念を語り、その言葉をどれくらい大事にし、どれほど他者と共有していくことができるでしょうか。



【2009年前半の講演スケジュール】

下記の講演を無事に終えました。「愛知生活指導研究会」「児童言語研究会名古屋支部集会」の講演レジュメを「生活指導 ナウ」のコーナーに全文掲載しました。ご参照ください。ただし、公表を前提とする文章への転用はしないでください。(8/22)

                 *       *       *              

7月5日(日)瑞穂生涯学習センター 午後1時半〜3時半  愛知生活指導研究会(全生研愛知支部)の40周年記念集会 講演「いまこそ生活指導・集団づくり 子どもと教師が立ちがあるとき」

7月28日(火) ウィルあいち
児童言語研究会名古屋支部主催「国語教育研究集会」 講演:午前9時40分(主催者挨拶、基調報告を含む)〜12時
「子どもと教師が蘇る学校とは 共生と自立を求めて」

8月20日(木)午後2時〜4時半 稲沢市勤労福祉会館 主催:同市いじめ・不登校対策委員会

「不登校・いじめ 子どもの関係性と対応」(同市の小中学校教員の主な担当者が対象)

                 *       *       *              

新著刊行

このたび、哲学の学会である全国唯物論研究協会の三十周年を記念して「哲学から未来をひらく」三巻本が企画され、その第二巻『生きる意味と生活を問い直す〜非暴力を生きる哲学』が刊行されました。豊泉周治・佐藤和夫・高山智樹編著、青木書店刊、7月23日発売、定価 3800円+税

全11章の論集のかたちです。わたくしも、「市民的自立の学校〜関係性の再構築」という論題で書きました。他に片岡洋子さんや佐藤和夫、後藤道夫さんたちが書いています。

以下は、最近の論文です。
「原則と柔軟さ」愛知生活指導研究会(全生研愛知支部)40周年記念誌(7月発行)。
「競争的自立観の矛盾と混迷を超えて」『生活指導』2009年5月号、明治図書、78〜83頁。
「道徳教育とアザーリング」民主教育研究所編『人間と教育』62号、旬報社、09年6月刊。
「道徳教育とは何か」開隆社編『KGKジャーナル』09年5月中旬刊。
 

                 *       *       *              



最近のいじめ問題に関して、いじめ自殺をどう見るかを含めた私見については、

いじめについて語るに掲載しました。

いま新たな貧困層として改革が求められる「ワーキングプア」に関するTV放送番組の骨子を、

子ども・若者の現在と未来 〜暴力を超えて〜 THE PRESENT AND FUTURE OF CHILD AND YOUNG PEOPLE, BEYOND VIOLENCE

に書きました(07.2.)

教育再生会議第一次報告をどう読むか、並びに教育基本法改正をどう見るか、の関連トピックスは、
教育改革とわたしたちの研究・実践課題 PROBLEMS TO BE SOLVED AND EDUCATIONAL REFORMに移しました(07.2.)。

 


 以前の「メッセージ」は、下記の各コーナーに保存しています。過去約5年間の発信の内、こんにちの子ども・教師・親、学校教育そして文化的なトピックスに関するものをアレンジして、上掲の私版本『弁証法のレッスン〜暴力・平和・他者』として刊行しました。どうぞご参照ください。


常設のトピックス&情報 2009

「以前のメッセージ&情報」、「新刊 わたしの書評」、「教育改革とわたしたちの研究・実践課題」を更新しています









以前のメッセージ&情報 THE FORMER MESSAGES & INFORMATION

子ども・若者の現在と未来 〜暴力を超えて〜 THE PRESENT AND FUTURE OF CHILD AND YOUNG PEOPLE, BEYOND VIOLENCE

いじめについて語る SOBA(Symposium of Bullying in AICHI/ SPEAKING ABOUT BULLYING)

新刊 わたしの書評 BOOK REVIEW

生活指導 ナウ JUST NOW LIFE GUIDANCE STUDIES

教育改革とわたしたちの研究・実践課題 PROBLEMS TO BE SOLVED AND EDUCATIONAL REFORM

わたしの生活指導研究関連著作 MY WORK ABOUT LIFE GUIDANCE STUDIES

プロフィール MY PROFILE〔縮小版〕


あいち県民教育研究所のホームページにつながります。

全国生活指導研究協議会(新ホームページ)のホームページにつながります。

(お願い)Microsoft Internet Explorer でアクセスの方は、このHPの「常設トピック」のリンクページが開けない場合があります。

そのときは、Explorerの「ツール」で「インターネットオプション」をクリック。「詳細設定」をクリックの後、その中の「ブラウズ」に移って、「いつもUTF−8としてURLを送信する」のチェックをはずしてください。

それでこのHPをご覧いただき、リンクページも最初開けないときは、「再読込」でお願いします。

お手数をかけますが、よろしくお願いします。

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