教育改革とわたしたちの研究・実践課題


最新の論説

中学生二題

佐賀県多久市にある市立中学の二年生のあるクラスが、昨年12月、末期ガンなどを抱える人たちが過ごすホスピスを訪問しました。「生と死を考える授業」の一環だそうです。授業担当は養護教諭。「どうせおれなんか」と投げやりな生徒がいたり、高校を中退する卒業生がいたりする中で、この授業を始めたのでした。6年間続いています。

その日、広間で生徒たちは患者さんたちと対面し、ハンドベルの演奏や詩の朗読、そして合唱を披露したそうですが、合唱が始まると感極まって生徒たちが涙を流し、男子もハンカチを取りだしながら歌ったようです。

肺ガンの患者さん(73歳)も目にティッシュを当てながら「涙はもうかれたと思っていた」と。すると、ボランティアの女性が「泣けるのがよかとですよ。生きてる証拠!」と応じたということです。

以上は、『朝日新聞』1月23日付夕刊に載っていたものです。この日に至るまでに彼・彼女らは骨肉腫で13歳で亡くなった少女の作文を読んだりその母親の講演をきいたりするなど、「いのち」についての学習をしてきたわけです。その記事の写真には、上記の患者を囲んで、目頭にハンカチを当てている男子生徒たちが映っています。

「いのちの重み」を直に感じ取ること。言葉を超えた何かが自己を揺さぶる体験をすること。その中で、中学生たちは他者を、そのいのちを、そして自己の生き方を見つめることになったのだと思います。

同じ夕刊に、中学二年生(14歳)男子の悩み相談が載っています。「チョコなんか関係ない」とクールに構えているのだが、バレンタインデーに一個ももらえない。外見も悪くないと自分でも思うのだが、何が足りないのか。そういう質問です。

回答者のあさのあつこさんは、「あなたはどういうモテ方をしたいのか」と問いかけ、一人の人を本気で思う体験を勧めています。そして「一緒にいたいのは地味で本物の魅力を持つ男」なのだから、もう少し待ってみて、「今、あなたがやることは、自分の魅力に気がつくこと、信じ、磨くこと」と述べています。

同じ二年生ですが、この生徒の相談も、切実な面もあるようで、思わずにやりとしてしまいました。それにしても、さすがあさのさん。中年の男性にとっても、的を射た見事な「男の魅力」論になっています。

第44代アメリカ大統領誕生:再生と自由がテーマ

バラク・オバマ氏(民主党の前上院議員、47歳)が1月20日正午(日本時間21日午前2時)、連邦議会議事堂前での就任式で、アメリカ史上初のアフリカ系(黒人)の第44代大統領に就任しました。

まずは、就任おめでとうと申し上げます。

わたしは21日朝のラジオのニュースで、同時通訳による演説の一部を聴きました。また、ニュース速報でも要旨を読みました。全体が力強いし、格調の高さ、聴衆を鼓舞し、その存在意義をわかりやすく説くあたりは、この演説自体が教育論だなと思います。

就任演説のポイントは、アメリカの再生であり、「強い国アメリカ」一国主義からの脱却です。それを次のように訴えました。

私たちは危機に瀕(ひん)している。我が国は暴力と敵意のネットワークに対する戦争状態にあり、経済はひどく衰弱している。この難問は現実のものだ。深刻で数も多い。短期間で簡単には対処できない。しかし、アメリカよ、それは解決できる。
 きょう、私たちは恐怖より希望を、対立と不和より目的を共有することを選び、集まった。私たちは、つまらない愚痴と口約束を終わらせると宣言する。政治を縛ってきた古びた教義を終わらせると宣言する。

そして、演説の最後のあたりで、次のように述べて、アメリカ国民一人ひとりの胸に、市民としての自立と責任・義務の原点を刻みました。

今、私たちに求められているのは、新たな責任の時代である。それは私たちが、自分たち自身や国、世界に対して義務を負っていると認識することである。嫌々ではなく、むしろ喜んでつかみ取るべき義務だ。私たちは、難題にすべてをなげうつことほど魂を満たし、私たちの人格を特徴づけるものはないと確信している。
(注記:演説の引用は、すべて「アサヒ・コム」の速報からです(http://www.asahi.com/international/update/)。)

こうして、いま世界史に新しい頁が書き込まれ、自由と民主主義へのあらたな挑戦が始まったと言えます。オバマ新大統領演説は、中学生・高校生では十分に時事問題の学習テキストになると思います。

謹賀新年

【大学院生を主とする折出ゼミのメンバーに送ったメール賀状メッセージ】

ゼミの皆さん、明けましておめでとうございます。
修論完成をめざす人、学会発表をめざす人、論文に取り組む人、相談活動で支援する人、学級づくりで居場所づくりをする人、それぞれの当面の課題をやりとげられるように祈念します。
そして互いに研究しあえる仲間と交流することのできるこの「今」を大切にして、学びのコミュニティを育てて行きましょう。
皆さんにとってこの一年が良い年でありますように。
09.1.2.

【賀状のメッセージを以下に載せます】

昨年は社会と教育が
さまざまな困難さや格差を抱え込み、
子どもも教師も親も苦しみました
本年はなんとか一人ひとりが
居場所と他者(ひと)と目当ての持てる
希望の年に変わることを願います
皆様のご健康とご多幸を
お祈り申し上げます

                      ◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆                     

【昨年末のご挨拶】

この一年、特に4月以降の総務担当理事・副学長としての職務は、仕事の守備範囲も広く、かつ大学運営の文字通り「学内行政」あるいは「裏方」的な業務であり、財務を初めとしてどれも大事な分野なので、気を遣うことが多く大変でした。が、ほかの理事の方々など役員諸氏、所轄の職員の方々に支えられ、どうにかこなしてこれました。

年末には、来年度本学の概算要求に関して、財務省にあがった要求事項はすべて満額で認められたことが大学運営にとっては好材料となります。総額で約1億3千万円余、予算規模では11の教育系単科大学の中で中位の規模です。

しかしながら、来年から本格実施の「教員免許更新講習」、教職大学院二年目の定員充足、一部の耐震化工事未了を含む学内環境整備のための予算計画など、課題は山積です。経営というものの重責と計画力をひしひしと感じます。

ひるがえって個人のライフサイクルとしては、五木寛之『林住期』のいう「林住期」(りんじゅうき:中国の人生観で言う白秋に当たる)をどう充実して生きるかという課題があります。氏によれば、古代インドの四住期の考えにもとづくと、50〜75歳をこう呼びます。それは、「学生期」(がくしょうき:青春)「家住期」(かじゅうき:朱夏)までの人生前半期につづく人生後半期に当たります。このあとに「遊行期」(ゆうぎょうき:玄冬に当たる)が続きます。

「還暦」を迎えたとはいえ、正直なところ、現役でもあり上記のような当面のはたすべき役割で気持ちがいっぱいで、とてもゆっくりマイライフを、という心境ではありません。気持ちもまだ50代後半のままです。この立場での経験から、「他者や職務に当てにされ」「張り合いをもち」「自分の力を何とか表現してみたい」という主体性を否応なくせまられるのが心身にはいいようです。

研究面では、年度当初に間に合うように教職テキストシリーズ『生活指導』『特別活動』二巻を同時に刊行できたことは、その後の激務からするとほんとうにホッとしているところです。執筆者の皆様のご協力に改めて感謝します。

また、8年間続けてきた全生研代表職も離れたので、2009年度は少しフリーな視点から「アザーリング・プロの教師論」をはじめとして、民主的集団論・指導論を新視点で展開できたらと考えています。「教師の仕事の弁証法」といった読み物風の物もまとめてみたいなと。

末尾になりますが、読者の皆様にとって来年が、ご健康に留意されて希望のある素晴らしい年となりますように祈念します。

なお、新春早々1月20日、名古屋市西区・青少年育成大会で「最近の『若者事件』が問いかけていること」として話します。

刑事コロンボ 希望を持って

NHKBSハイビジョン(BS2は誤りでした)で、09年の1月3日から、毎週土曜日「刑事コロンボ」の完全フィルムの放送が始まるそうです。ノーカット版であること、ハイビジョンで画面がクリアであることが特徴で、物語の中身は再放送のようです。

コロンボを演じたピーター・フォークは、現在81歳の高齢となり、ロスアンジェルス校外で夫婦でひっそりと暮らしているようですが、最近は、認知症になっているようです。この文庫版ともいえるハヤカワ書房刊の刑事コロンボシリーズは、ほぼ読了したという、隠れコロンボファンとしては、P.フォーク氏のご静養と長寿を祈るほかありません。

かくいう私にも、そういう老化のときがいずれ訪れるのでしょう。それを引き受けて、承知の上で生きていくのも「人生」なのです。老いることに文句を言ったり、それを嘆いては、一回性のこの「いのち」を人類から預かっているともいえる己の存在の価値が薄らぎます。可能な限り、醜くならないようにして、生きて見せてこそ、人類への最大の恩返しなのです。

ぼろぼろのコートに、さえない雰囲気のロス警察刑事、そして廃車寸前かと見える愛用車と、頭の上がらない「うちのカミさん」。これぞ、コロンボが中年の男性に親しみを持って受け入れられた重要要素なのです。コロンボを語ると延々と続くのでこの辺で(笑い)。ともあれ、どんなエリートも、名歌手も政治家も、ビジネスマンも軍人も、いったん犯罪者となるとみな同じで、同じ行動を取る、ということです。つまり、事実としての犯罪から自己を隠そうとするのです。その「心理」を読んで捜査を展開する刑事コロンボのドラマは、ある意味では、わかりやすい犯罪(社会)心理学のテキストなのです。

重松清さんの作品〜いじめの描写〜

勤務先の事務職員(課長)から、重松さんの『ビタミンF』(新潮文庫)を渡され、「ぜひこれを電車で読んでみてください。ガツンときますから」と薦められました。ちょうど所用で早めに帰るときで、さっそく名鉄電車でよみはじめました。

その推奨作品は同書所収の「セッちゃん」です。ごく普通のサラリーマン家庭らしい家族風景のなかで、加奈子という中学二年生女子が一生懸命に居場所を得ようとしています。自分はちょっとしたことで「生意気だ」と見られ、以後、ある意味ですさまじいいじめを受けるのですが、それを「セッちゃん」という架空の転校生に託して、健気に耐えています。家庭で、その「セッちゃん」のみっともなさ、みじめさを、自分は傍観者のような目でいつもいつも父母に語ります。作品はその父親の視点で書かれています。

ところが、そのセッちゃんは実は自分のことでした。それがわかるのは、学校の運動会に夫婦で観に行ったときのシーンです。加奈子は、集団演技の最中グランドの真ん中で立ちつくしている。それは彼女があれほど「惨めなやつ」とさげすんでいたセッちゃんそのものでした。夫婦はとっさに理解します。が、信じたくはない。その夫婦の内面の葛藤描写はさすがです。

そこに読者は夫婦の視点に自己を重ねて読むのです。この場面では、まるでその加奈子の場違いな表情・姿が目に浮かぶほどです。このあたりが直木賞作家の文章力なのでしょう。ここがこの作品の山場です。

そしてそのせめてもの癒しとして、「身代わり雛」を流す。これがクライマックスです。
後日、担任との話し合いで加奈子のいじめ被害ははっきりします。それを知って父親は、ふと店で見た「身代わり雛」(子どもの痛みや傷を当人に代わって負ってくれる雛人形)を買ってきて、親子でドライブに誘って、それを加奈子と一緒に流すのでした。

その場面では、加奈子は、川面を遠ざかる雛の乗った船を手を振って見送り、「その手をゆっくりと戻して顔を覆った」で作品が終わります。「転校生セッちゃん」を「いじめられ生徒」に仕立てて、その生徒をあざわらい、好き嫌いは個人の自由だからと、自分が受けているいじめ被害を合理化しよう、耐えようともがきます。これは、自分のいじめ被害を解離的に処理しようとする心理現象です。その彼女が、まさに自己の身代わりともいえる「雛」の流れゆく姿を見て、やっと自己に戻れた場面です。この顔を覆うのは。そこに彼女の自立を、そして家族のあらたな旅立ちを暗示してこの作品は終わります。

父親は加奈子のいじめられ体験と心的外傷を十分には認知できていません。その父親は、ラストの加奈子の「顔を覆おう」行為の中に何を読み取ったのか。そこを書かないで、つまりそこを避けて、この作品は終わっています。実は、いじめ問題で問われるのは、そこなのです。そこをなぜ書かなかったのか。おそらく、読者それぞれが何を読み取るかの課題を引き取って欲しい、との作者の思いからでしょう。

全体として、もちろん小説ではあるのですが、なにか作り事っぽい、のです。まず、中2でいじめ被害に遭っていて、ここまでクラス全員から無視されていたら、もっと「空気を読んで」行動します。そしてダンスの演目の振り付け変更を自分だけが知らされていないと感じたら、もっとリアルな行動を取ると思います。

わたしは、これまでに自死に至った小・中学生のケースに接して(聴き取りからも、報告書を通じても)きたためでしょうか。重松作品では、いまの中学生たちのいじめ・いじめられ関係がリアリティを持って描かれていないように感じます。何かが足りない。それは、重松作品が、いじめ問題よりも家族とは何かを問うており、ある程度人生を歩んできた中年の父親の視点から問題を見つめているからでしょうか。

わたしは、ひょっとしたら重松さん自身に、いじめを受けたり、差別されたり、排除されたりする側の苦痛や苦悩が、やや観念的にしか捉えられていないからではないだろうか、と不遜にも思ってしまいました(わたしが重松さんより深く捉えているとは申しません。もっと暴力のリアリズムが要るのではないかと)。読者に重松ファンがいらっしゃったらごめんなさい。

※この記事は、初稿を一部手直ししました。

自主上映「日本の青空」

日本国憲法はGHQによる押しつけではなく、戦後当時、憲法学者・鈴木安蔵を中心に知識人が憲法研究会を結成し、植木枝盛らの民権思想や共和制の理念をうけつぐ立場で自主的に憲法草案づくりに取り組んだ。

ここで作成した憲法草案を民主的である(ポツダム宣言の精神にも則っている)と高く評価したGHQが、それを基に草案の構想を立て始めた。その中で「憲法九条」も織り込まれた。彼等は、天皇の至高の位置を護り国体護持思想で固めた政府側の松本委員会案に対して大幅に修正を求め、両者協議の結果(ただし松本は退席して議論から抜けた)、憲法改正草案要綱がまとまった。これを基に成案となったものを日本政府が1946年に帝国議会に上程し、可決成立。11月3日に公布された。

こういう戦後初期の歴史をドラマに仕立て、2時間の映画にまとめたのが表記のものです(大澤豊監督作品)。この難しいテーマを、うまくまとめ、特にGHQと日本政府側、民間側の関係の中でどのような議論があったのか、憲法九条はどういう経緯で設けられたのか、などを活き活きと描きながら、映像にまとめています。

鈴木安蔵と妻・利子を演じる中堅の役者がとてもうまく、良い映画に仕上がっています。憲法草案が出来ていく論議の過程も、重くして観るものを飽きさせがちですが、そういうことはなく、わかりやすく展開しています。映画館での公開はないので、どうぞお近くの自主上映の機会に一度観てみる価値はあります。

「教育格差」をめぐるシンポジウム

12月6日、愛知県勤労会館(鶴舞プラザ)小ホールで、「『教育改革』が拡げる教育格差−ここまできた教育現場、解決の道をさぐる」のシンポジウムが開かれました。主催は、憲法と教育を守る愛知の会。

コーディネーターは、わたし、折出が務め、次の6名の方から高校授業料の減免や滞納の現実、定時制高校での生徒実態、家庭の状況、教育費負担の増加、クーラー設置にみる教育格差ほか実態の報告をしていただきました。6名の方とは、名古屋市立高校の現場から、愛知県立高校の現場から、県下の小学校・中学校の現場から、定時制・通信制高校父母の会の活動から、そして名古屋市職労の方による非正規雇用の若者の実態についての報告です。

愛高教が中心になって取り組んだ「教育格差告発ホットライン」(11月26/27日実施)の報告をしてもらいました。そのあと、フロアからの実態をどう見るかの発言をお願いし、さらに後半では、今後どう解決に向けて行動するかについて意見をうかがいました。フロアからは、合計で12名のかたが発言され、整理すると、(1)高校生の授業料減免制度枠の拡大、奨学金の給付制の拡大、(2)定時制・通信制における年間労働日数で教科書代・給食費補助の条件を枠づける制度の撤廃、(3)医療無保険や給食費不払いに対する、県下すべての自治体による改善の取り組みの必要性などの、具体的な運動方向が提起されました。

わたしは、主催者の会からコーディネーターを依頼されましたが、前日までに、資料を読み、また橘木さんの『格差社会』(岩波新書)も再読して予習をして臨みました。そのこともあってか、論点の展開が見えていたので、ほぼ予定通り進行し、終了も予定の4時半で終えることが出来ました。参加は65名だそうです。

歩くことを学ぶ

11月22日〜24日の連休をつかって、長女とその男児Sクン(1歳1ヶ月)が帰省してくれました。Sクンを見ていて、その成長・発達のすばらしさを目の当たりにし、感動しています。広島にいる86歳の実母の介護で何度か実家にもどって世話をしてきた連れ合いは、「創られていく脳と壊れていく脳を同時に見ているようで、複雑な気持ち」と言っていましたが、なかなか良い表現だなと思います。

それほどにSクンのいろいろの変容は目を見張るほどで、これにユーモラスな行動が重なって、連日笑いの連続で、とても健康によい薬となりました。

まず、歩くことが楽しくてたまらない様子。なにかあると「外へ連れて行け」と、窓を指さします。ちっちゃな靴がもう二足目で、それもつま先がすれて、傷んでいます。天気の良い日は住居の近くに出て、歩き回っているからです。歩き方は、少し酔っぱらった人が千鳥足で進んでいくような格好です(Sクン、たとえ方が悪くてごめん。でもそっくりだよ)。そして、言葉。といっても、幼児独特の喃語です。これに身振りが付きます。

それは、たとえて言えば「ジェスチャーゲーム」のような表現です。「ジィ」と言って彼が自分のあごのあたりをさわると、「ジィジ(つまり、わたし)がひげを剃ってきれいにしていた」ということ(朝方、洗面所にとことこ歩いてきてその場面を見たので)。

それから、これは彼の性格の一端でしょうか。どんどん子ども仲間に接近していく行動。近所にあるおもちゃ専門店に連れて行くと、同じくらいの年齢の男の子が乗っているもの、遊んでいるものに平気で近づいていって、自分もやろうとする。アンパンマンが車の先に付いていて、運転席がドア付きになっている乗り物にのせてやると、自分でドアを開けては締めて、その繰り返し。降りよう、と誘っても効きません。ところがあきると、自分で降りようとする。やはり男の子です。女児の孫の時とはだいぶん違います。

よく食べます。もう自分でやろうとします。幼児用スプーンにのせてもらうと、それを右手に持って自分の口へ持って行きます。ミカンが好きで、あるとき、ぐずぐず言うので、「じゃ、ひとくちね」と言ってミカンを一個取ってきて見せると、まさに「あった!」という表情で、目を開いて口も少し開けて、やったー、という感じがありありで、その表現・表情にこちらが驚いたほどです。

人間の学習の様子もよくわかります。たとえば、調子よく動き回っていて机の角に頭をぶつけて泣きます。そのとき、「バァ」(連れ合いのこと)が冷蔵庫からちいさな保冷用アイスをもってきて、それを頭の部分に当てて「痛いの痛いの、飛んでけー」とやります。その動作に刺激されてじきに泣きやみ、その保冷アイスをおもしろがって玩びます。次にまた、自分でゴチンとなって半べそをかいたとき、こんどは自分で、冷蔵庫によちよち歩いていって、保冷アイスをのあるところを指して「冷やしてくれ」と言わんばかりの動作をします(見ていて、大して打ってはいないのに(笑い))。ぶつかって「痛い」−「保冷アイス」を当てる−「痛いの飛んでけ」のおとなのケア、という三点が、彼の中で結ばれて、ひとつの行動を産み出しているのがよくわかります。

これはどの幼児も、ではないでしょうが、彼は午前中そうやって遊び疲れて、お昼を取る頃にはもう眠たくなってきています。それでも、ママに口に運んでもらうと、目を半分つむりながらも、飲み込んでいます。春雨のような、あのほそく長いゼリー状の食材も、目を閉じたままツルッと飲み込んだので、あまりのその見事さにこちらは大笑いでした。一人前の「芸人」です。

「赤ん坊は、歩いては転び、転んでは歩くことを学ぶ」。人も人の社会もそのようにして発達する。これは、若いときのマルクスの論文に出てくる名言です。わたしたちの人生も、そのプロセスの一こま一こまに、そうした楽しく、おもしろいドラマがいっぱい潜んでいるはずなのに、それを見落とし、軽視し、あるいは否定して、「世間」に合わせて行動して、それで自分は「立派な」成人だと錯覚しているのかも知れませんね。

日本科学者会議主催第17回総合学術研究集会

11月22日〜24日と、標記の集会が名古屋大学の工学研究科棟で開催されました。わたしは、同会議(英語表記 JSA)の会員でもあり、22日の全体集会と、23日の午後「大学問題」分科会で発表を依頼されたので、こちらにも参加しました。

全体集会の前に、特別セッションとして前フェリス女学院大学長・本間慎さんによる講演がありました。学長としての実際の組織運営の体験を交えたお話で、参考になりました。1つは、いま大学の危機が言われるときこそ、大学の自治が非常に大事になっていること。2つめには、その意味でも、学生とのコミュニケーション、信頼関係づくりが重要な鍵を握ること。つまり、数値目標や数量化では表されない次元の取り組みが、大学としてのまっとうな理性力をはぐくむのではないか、ということ。このような感想をいだきました。

わたしの発表は、「国立大学法人化後の問題点と改革のベクトル」と題して、約40分、パワーポイントによる発表を行いました。質問も3〜4人から在りました。

仕事の構えと仕方

職務の一環で、三重県立A高校に「出前授業」に行きました。夕刻に名古屋駅に戻り、夕食を兼ねて、和食系の「Y」(イニシャルにしておきます)という店に行きました。かねてから関心はありました。東京の池袋や八重洲にもその「Y」があり、ビジネスマンの間では定番の店です。わたしが利用した経験ではとても好印象でした。主に鮮魚を売り物にしています。

ところが、です。この名古屋駅前店は、店員の動きがとても鈍いし仕事のリズムが感じられない。まず席について、お通しが出て、生ビール(グラスタイプ)を頼みます。それが来てから、この店自慢の「お造り」を、と思って夕刊を読みながらそれとなく待てども、なかなか来ません。ついに呼び出しボタンを押してしまいました。

店員は男女とも和服風で雪駄で行き来しているのですが、その引きずるような足音がとてもけだるそうで、気になりました。「俺(わたし)はアルバイトです」と、自ら告白しているようなものです。「お造り」はさすがにサッと出ました。その味は評価できます。が、こんどは次の単品がなかなか出てこない。前もって注文した季節限定の「ひやおろし」がこれでは、台無し。

というわけでそこそこにその店は出て、松坂屋名駅店横にある、ホテル一階のレストラン(よく出張等のランチでは利用している)に入り、パスタを取りました。

応対した年配の男性スタッフがとてもきびきびしていて、気持ちが良かったのです。こちらの客の心理をよくつかんで、「おひとりで禁煙席でしたら、今あの奥が空いています」とサッと指示をし、オーダーしたグラス白ワインのセットも別のスタッフがすぐ対応してくれました。

次に入ってきた別の客にも、その男性はきびきびと対応し、手際よく注文を聴き取っていました。その様(さま)に、わたしは見とれたほどです。この違いは一体何なのでしょうか。世代の違い? 和食とホテル一階のレストランの違い? 単なる偶然?

わたしは、そこに「仕事の構えと仕方」の違いを見ました。レストランの彼は、他者へのサーヴィス自体を楽しそうに活き活きとやっているのです。それは、他者への奉仕という単純なことではないでしょう。自己実現の、その人なりのスタイルなのです。きっと。

夏期学校の講義要旨

2007年8月22〜23日、大阪教職員組合の「夏期学校(夏充電)」が開かれ、その二日目、わたしが、「共通講義U」(Tは一日目で、政治学者・渡辺治氏)を行いました。会場は、「エル・おおさか」(労働センター)。聴衆は約120名。

「新自由主義に抗して、子どもの自立を守り育む」がタイトル。要旨は以下の通りです。

社会保障、完全雇用、労組の交渉・争議の自由、を基本とする日本の戦後資本主義経済(福祉国家体制)は公的財源支出と公共部門を肥大化させてきたし、民間企業の投資機会をうばう、として強くこれを解体化することを財界はのぞんだ。1980年代の中曽根政権、行革路線がこれを推し進めた。以後、規制緩和、民営化路線が進められた。それは、市場の拡大、企業間・個人間競争の徹底であり、社会生活における私事化(自己責任の原則)の促進である。

小泉政権では、これを「構造改革」として進め、地方をその執行単位とした。そして、この一環で学校という公共機関も、構造改革のための現場とされた。

その経営・管理手法は、現場的には、次の三つである。(1)自主管理目標の設定、(2)PDCAサイクル(Plan,Do,Check,Action)の実施、(3)その目標未達成は、当事者の責任負担(給与減額、昇給停止、配置換えなど)。これが教員社会で行われているのが「教員評価」である。すでに富士通など大企業で導入された成果主義の弊害がいかに大きかったかが関係者によって報告されているが、いまや学校現場でも教員間の人間関係にその現実がもろに生じている(注記:本ページ下記の事例もその一つ)。

安倍政権はこれを引きつぎ、小泉政権による雇用・働かせ方の規制緩和(熊沢誠による規定)を引き継ぎつつ、さらに、私見では、生き方の基本である平和・自由などの基本価値の枠組みの解体を進めようとしている。それが安倍氏の言う「戦後レジーム(注記:レジームregime とは、統治形態、支配体制のこと)からの脱却」である。「教育再生会議」が、その作戦・実施部隊を務めている。

このような状況で、教師としては、(1)被管理の日常化ゆえに寡黙になりがちだが、そうではなく、労働条件や実態について自らの声で発言・発信していくこと。(2)教師の仕事のやりがいとは本来どのようなものであるか、教育は子どもの未来にどう関わるかを立証していくこと。この二点がとても大切である。

特に後者について言えば、教師は、子どもの自立と発達にとって(専門的な知見のある)他者として登場し関わり、伴走するという重要な役目を負っている。「構造改革」的管理手法(上記)はこの関係性を破壊し、よって子どもの自立や発達を危うくさせている。

では、教師の他者性とはどういうことか。これについて、先の教育研究全国集会の「生活指導」分科会での報告(大阪(小)・山本、滋賀(小)・森原、広島(中)・杉本)をもとに具体的に考えてみたい(以下、事例考察は省略。例えば杉本実践は、本ページ下欄のS報告のこと)。

確かに、いま「精神的疾患」で図らずも休職になる教師が増えている。「診断名」はそうだが、その事態の本質は、自分が教師を志し、子どもと関わってきたその支えとも言うべきもの、つまりその人の(生き方としての)「背骨が折れる」ことにある。これが自信喪失や教職意識の揺らぎ、子どもへの恐れ感などとなって現象している。

その人の子ども観、指導観、そしてその生き方を、またこれまでの苦しみありのままに語り、基本において何らあなたは「不適格」でも「教師の力の不足」でもないよ、という同僚や保護者からの共鳴・共感と励ましがあるならば、時間はかかっても、立ち直っていくことができる。しかし、それがないと、休職後にどうにか復帰しても、「また学級を『荒れ』させてはならない」「指導力の不足と見られてはならない」などの心理から、子どもを教師の指導のもとに従わせ、統率の取れた学級にしたいと「つよい指導性」を発揮してしまう。

そのために、トラブルや「荒れ」の背景にある子どもなりの生活文脈を聴き取ることを飛ばして、教師の「思い」「価値観」を子どもに説き伏せて、その秩序を取り戻そうとしてしまう。多くの子どもには、これは、権威的で支配的な他者としか映らず、ある指導拒否をきっかけに、教室に次々と反発行動が広がり、学級が崩れていきやすい。

そうした悪循環から脱するポイントは、教師自ら、肩を並べる良き他者を必要としていること、この伴走的な他者を得てこそ教師は子どもの前に(ほんらいの)共感的な他者として登場できることにある。〈教師の他者性〉は、職場や保護者をふくめて関係論的に獲得される実践主体性の活き活きとした表現なのである。この教職の原理(セオリー)を職場に根付かせることがすぐにでもできる打開策だ。


また一人、退職者が

わたしの知人の友人が、8月末付を以て退職願を職場の長に出し、受理されるようです。

転任した学校でいきなりの6年生。しかも、「荒れている」二クラスあるうちの主任。その学年の相方は40代の女性教師で、この6年の子どもたちを同校で過去に二度受け持ち、これで三度目。

6年生であるのに、たとえば、係活動で達成できたらシールあるいはメダル(風の作成物)を渡すとか、賞罰方式で子どもたちを「引っ張って」きた、その教師。

上記の退職願を出した教師は、6年生にそういう賞罰方式を持ち込むことには(低学年ならいざ知らず)納得がいかず、「隣のクラス」がやっている方法を俺たちにも、と強く要望してきた一部の男子に迎合せずにスタンスを取ってきました。しかし、その彼らが(反発からか)中心となってこの先生(女性)の指導を拒否し始めます。

「クラス崩壊」の現象を当の担任から聞いて、校長や教頭、教務主任が交代でその学級を訪問します。見ると、しずかに子どもたちは授業を受けています(権威者の前では静かにするのが「崩壊クラス」の特性です)。となりも、過去二度も受け持っている先生がこれまた静かに授業をやっているとのこと。

悩む上記の教師に、管理職たちは「特にこれといって崩れているわけでもないし、隣のクラスも上手くいっている」と、むしろその教師の「指導性の弱さ」を暗に示唆します。

転任していきなり6年主任に指定して大変だったね、といった共感はその管理職にはありません。実は、その子どもたちを5年で担任していた教師が途中で無断欠勤を重ねてついに急に年度替わりに他校へ異動していった。そのあとに上記の知人が転勤してきたのに、です。その証拠に、過去の担任の経緯を話題にするとほとんどが口をつぐむそうです。

ということで(ここではとても書けない、複雑な経緯のあとに)その女性教師は辞めることを決意したようです。

「教師になりたい」と、初心をもって教職に採用された方々が次々と途中で退職されていくことを、おそらく、一般の方はあまり知らないのではないでしょうか。

定年まで数年を残して退職する、その教師の話を知人を通じて聞いたとき、「この学校は重要な人材を失ったな」と思いました。
なぜなら、その教師は、賞罰で子どもたちを惹きつけるやり方に疑問を強く感じて、もっと対話やクラス集団づくりで何かできないかと模索しているのですから。

せめて同僚のなかにたとえ一人でも、その教師の悩みと理想を聴いてあげられる人がいたなら、彼女はこの子どもたちを卒業させるまでは頑張ってみようと、立ち上がったことでしょう。

実践家の方々に敢えて申し上げたい。「教員評価」をはじめ分断化のすさまじさはよくわかっていますが、それに翻弄されて、上記の教師のように悩める同僚を結局は切り捨てて自分は自分で守ったつもりでしょうが、それでいったい何のための教育実践なのですか?

自分もまたいつか誰かに聞いてもらえることで立ち直れる機会を得る。そういう苦しい現実がわかりながら、途中退職していく同僚を冷ややかにやり過ごして、それであなたは(公務労働の一環である)「教師」なのですか?



安倍晋三『美しい国へ』から見えてくること
       

安倍晋三氏が首相に選ばれ新内閣が成立した9月26日、氏の著作を読んでみました。今年の7月に文春新書として刊行されました。文章は読みやすく、メッセージ性もあります。おそらく、全体として氏の語りを基に専門のライターがまとめて、所々氏が手を入れたのではないかと思います。

まず書名は、「美しい日本へ」ではなく「美しい国へ」であることに注意。これは、自分は「偏狭なナショナリズム」ではなく「保守主義」の立場であることを表したいためです。文中では、「開かれた保守主義」がわたしの立場だ、と言います(18頁)。それは次のような考え方です。
「この国に生まれ育ったのだから、わたしは、この国に自信をもって生きたい。そのためには先輩たちが真剣に生きてきた時代に思いを馳せる必要があるのではないか。その時代に生きた国民の視点で、虚心に歴史を見つめ直してみる。それが自然であり、もっとも大切なことではないか」(26頁)

氏は1954年、東京生まれで、安保反対闘争のおおきなうねりの時代に少年期前期をすごしています。しかも、政治家の父親、当時の首相である祖父・岸信介の言動を身近に見て育っています。そうして青年期(大学時代)に、江藤淳などの保守系文人に刺激を受けながら、日本の伝統と文化を軸に物事を見る保守思想を身につけてきました。

全体の構成を見ておきましょう。
第一章 わたしの原点  第二章 自立する国家  第三章 ナショナリズムとはなにか  第四章 日米同盟の構図  第五章 日本とアジアそして中国  第六章 少子国家の未来  第七章 教育の再生

ここからもうかがえるように、文中には、至る所に「国」「国家」の言葉が出てきます。研究では「少子(化)社会」と言いますが、「少子国家」とはまず言いません。しかも、まさに復古的です。第二章でも述べていますが、ペリー来航以来、明治維新に至り、そして列強国の中で統治するか・されるかの危機を人々はいのちを賭けて乗り切り、この国をつくりあげてきた。その「日本人がつくりあげたこの国」と「時代」の目で、いまとこれからの国家のあり方を見ようというのです。

「国」とは「悠久の歴史を持つ日本という土地柄」、この自然と祖先と家族からなる共同体であり、「国家」とはその統治のあり方だというのです。ここでは、国家という統治の機構、政治のシステムは巧妙に、地理的・文化的な共同体にすりかえられています。ここは今後も、気をつけていかなくてはなりません。

さて、教育改革に関してですが、氏は、イギリスのサッチャーのおこなった改革をモデルにしています(202頁以下)。その特徴は「自虐的な偏向教育の是正」と「教育水準の向上」です。前者は、「国に対して誇りを持てるように」義務教育から改革をしていく。現行の学校教育法の定める小中学校教育目標にも言及しながら、これも見直し、変えていくべきだと主張しています。

学力の向上のために全国的な学力調査を行い、その結果を公表する。一定水準に達しない学校は公費援助を打ち切る(つぶす、ということ)。また教員も入れ替えるなどを強制的に行えるように制度を改める。

これらの他にも、以下のような「改革」アイデアを述べています。教員評価と学校評価による、学校間競争の徹底と競争淘汰。幼保一体の「子ども園」化の構想。大学を九月入学に改め、春の入試後三ヶ月をボランティア期間として大学入学の条件にする構想、「典型的家族モデル」を教育するための教育の転換。階層のニーズにあった学校運営ができるように教育バウチャー制度の導入。

要は、「国家的見地からの発想」ができていない。これが「戦後教育の蹉跌のひとつ」だ、ということです(202頁)。氏が、新政権としてまず教育基本法「改正」に着手するのも、以上の保守主義イデオロギーから来ています。小泉氏がイデオロギー的なものを抑えて、新自由主義の競争原理・市場拡大・自己責任社会への転換を図ったのに比べて、安倍政権では相当にイデオロギー的なもの(つまり、価値主義・徳目主義)を柱にした「改革」路線が出てきます。(マスコミはこれを「抽象的」と批判はするものの、肝心の保守思想の浸透には一役買う可能性が大きいので、要注意。)

以上をまとめますと、氏の政治的立場は、強い国家主導の保守主義です。そして「美しい国」というあいまいな言辞のもとに、単一の文化的価値と社会意識に国民を融合させるという、これも保守的で閉じられた共同体構想です。そのために教育の力を最大限に利用しようとしています。

また、「再チャレンジ」とは言うものの、今後は競争と格差がそれほどに拡大し各自の生き方に緊張が迫られる、ということです。そのとき安定してやっていけるためには、日本が強い国家となって他国からの脅威にも対抗しうる力を持つ。日米の協力体制の保持もそのためである。国が個々人を守れる状態であればこそ各自の努力が生きるのであるから、国民は国家の形成に様々なかたちで貢献することこそ、最大の義務であると。

国家と国民は対立関係ではなく相互関係だ(65頁)と言いますが、本書を通して見えてくるのは、国家と国民が一体となって互いの運命を支え合うことこそ日本の未来の要だという、非常に強い国家保守主義の考え方です。他国への防衛、他国の支配、というように強力性・権力性を強めれば強めるほど、これでは他国への対抗的なメンタリティを持つ日本人国家となっていきます。これは(日本)民族主義のモダンな再生にもつながるし、まさに、それが軍事防衛あるいは侵略の戦争へ突き進む精神風土となるといえます。
        



教育再生会議第一次報告を読んで(その1)

教育再生会議は1月24日付で、「社会総がかりで教育再生を〜公教育再生への第一歩」と題する第一次報告を出しました。A4で、本文27ページ。報告といっても、各論的な施策(四角囲みで列記されている項目)について、「なぜ、そうするのか」の原理論、哲学が不明であって、これでは「再生」方針メモの感をぬぐえません。
以下ではまず、読後の要点を述べます。

(1)全体として、子どもの問題、学校の問題の解決というより、子ども・学校に公的・行政的に責務のある国や自治体のレベルでそれぞれが抱える問題の解決のためにまとめられた、という印象が強い。

子どもや教師の声が取り上げられていない。また、保護者の要望を受け止めて、とあるが、それは本来、国や自治体の公教育に対する責任ある対処を求めるものであって、これを子どもたちや教職員の次元の問題に置き換えて、ここに押しつけている。

(2)「教育を再生する」というとき、どのような学校・学級、またどのような学びをよみがえらせるのかが不明なまま、再生のための方策が先行している。そのため、報告書の言う「公教育再生」は、公教育の本来の意味である、個の発達保障のための制度保障、市民のための公正な教育保障という意味ではなく、公権力によって営まれる教育の再生、と言う意味で読まれてしまうことは否めない。

(3)これらの結果、管理や禁止、あるいは力による統制という、目に見えるもの、誰もが従わざるを得ないものに再生の手段が偏ってしまっている。しかし、これらは教育の機関および組織を経営する側の発想、権力を有する者がその権力をいかに効果的に活用するかの発想である。

(4)生きづらさを抱えながらも生きている(生きようとしている)子どもたち、その子どもたちと向きあうことで体も心もぼろぼろに壊れかけている教師たち。こうした当事者の苦悩への共感から学校の再生は始まると筆者は見るが、同報告の視点はそこから全くずれており、これでは教育の現場とのギャップが広がってしまう。

そのギャップが、一部メディアによって、また学校現場の対応の「まずさ」「ひどさ」「遅れ」批判として使われかねない。こうした相乗作用によって、世論のなかに、公権力による介入や毅然とした措置・対策をもとめる空気がつくりだされていく。報告がそこまで意図(計算)しているとは思いたくないが、客観的な社会意識作用としてはそのように働いていく。

このように同報告書には、検討すべきいくつかの問題があります。その1つとして、「個と公」の関係に対する同報告のスタンスがあります。結論を言えば、同報告に流れているのは、「公教育」=国家の求める規範や価値の教育、とする認識が前提にあって、そのもとにいかに子どもたちの「個」を教育的に(?)統制していくか、という教育観です。

これは、改正教育基本法の前文や第二条等の「公共の精神」のあきらかな実施要領的性格のものであり、まさに安倍内閣の教育改造マニフェスト的な性格を帯びているでしょう。

各論的な分析はまた後ほど、とします。(2/13)

※ なお、下記に報告全文が載っています。

第一次報告


あいち民研の研究同人である大橋基博さんによると、下記の、民間教育再生会議も提言をまとめたとのこと。

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2007年1月24日 子どもたちをのびのびと育てるための「教育再生民間会議」提言

小山内美江子(脚本家、特定非営利活動法人JHP・学校をつくる会代表)、堀田力(弁護士、財団法人さわやか福祉財団理事長)、 牟田悌三(俳優、社会福祉法人世田谷ボランティア協会名誉理事長、ほか

−提言骨子−

教育は人と社会、国の未来を決めるものだから、その在り方を決めるには、拙速を排して、国民的議論を尽くさなければならない。

1.新しい教育の基本的な姿
(1) 人口減少時代の教育は、できる人の選別・育成ではなく、すべての人がそれぞれに持つ多様な能力を、適性に応じて伸ばすことを目的に行う。
(2) 教育は、社会の総体が、一人ひとりの子どもが持つ人間力を総合的に高めるよう、本人の伸びる力を支える形で行う。

2.親の教育
(3) 子どもがこれからの社会を生きて行くうえで大切なのは、学歴ではなく、本人の人間力、特に自助、共助に対する意欲である。親は、そのことを認識して子育てに当たる。
(4) 親が適切に子どもを育てられるよう、地域のN POなどによる子育て支援を充実するとともに、相談、指導の仕組みを拡大する。

3.学校教育
(5) 学校教育の問題点は、依然として知識偏重教育にあることを認識する。
(6) 知識教育よりも、総合的人間力を直接高める教科等( 総合的な学習の時間など)を充実させる。
(7) 生きるために必要な最小限度の基礎知識を超える知識は、その教科に興味を持った子どもが学ぶ過程で自ずと身に付けるように教える。
(8) 初等中等教育では、総合学習、特別活動、道徳、家庭、体育など、人間力を直接高める教科等、及び、最小限度の基礎知識を教える教科は、学年ごとに教え、そのほかの知識教科は、学年にかかわらず、個々の子どもの興味と習熟度を基準に、子どもの選択によってクラス編成を行う。
 ただし、習熟度別編成が差別を招かないよう、個人尊重の教育を徹底する。
(9) 知識偏重教育の原因の一つである入試を、人間力を試すものに改めるための調査研究を行う。
(10) 教師は、子どもの人間力を育成する能力を中核にして、子どもや良識ある保護者などによる評価を行う。
(11) 多様な教育を実現するため、校長に対し、授業時間や内容の選択権を与える。
(12) 教育委員会は、正しい教育を実現する人物を選ぶ仕組みにして、存続する。

4.地域や社会の教育力
(13) 年齢が異なる近隣の子どもたちと交わる場を、地域に多数創出する。
(14) 近隣地域の人々は、子どもたちの人間力を高めるため、多様な支援活動を行う。
(15) 企業、官庁その他の団体は、勤労者が子育てや子どもとの交わりを行えるよう、定時帰宅をすすめる。
(16) すべての人がその能力を生かして働く社会を実現し、子どもに希望を持たせて、その人間力を高める。

この「提言」に全面的に賛成ではありません。しかし、教育再生会議の第一次報告のような、まるで国家教育の再生であるかのような管理主義・権威主義の統制教育に比べると、子どもたちの苦しみ・悲しみに「改革」の目線を置こうとしていると思います。


「私史」とは
          

下欄の学習会でのレジュメにあります「私史」に関して、著者の香村氏から手紙で「私史で自分史と観られることには異議がある」との主旨の問い合わせがありました。同氏だけではなく、参加者にも同じような疑問があるかと思いますので、わたしの返信のうち、その説明部分のみアップしておきます。

 「私史」については、お手紙で言われるように即自分史のつもりでは使っておりません。
過日の報告の場でも、「香村氏の問題意識のもとに、ご自身の作文教育および学級づくりの実践を基にしながら、広く愛知の教育労働運動を視野に入れて時代の節目ごとに時系列に即してまとめられたもの」と評しました。
わたしが「私史」と言いますのは、第一に、敢て申せば民間史の意味です。行政やその委嘱を受けた機関がまとめたものではなく、自由な思想的立場で内発的に、しかも自己の問題意識も交えて執筆されている。ここに民間史の固有な意義を見いだすものです。
 次に、著者個人と運動の社会的・歴史的課題との向きあいにこそ、個人の立場で執筆される歴史の意義があると言うことです。全生研の代表をいま務めているわたしとしては、元代表の春田正治氏(故人)がかつて『生活指導運動私史』(明治図書刊)をまとめられたことが、念頭にありました。同書は、春田氏も執筆した全生研大会基調提案という公的な文書も収録しながら、それでも敢えて「私史」と名乗っています。その趣旨は、運動史をまとめたとしても、その評価に対しては常に相対的な評価に開いておくという姿勢です。貴台の著作にもその視点を読み取りました。
 さらに、「私史」とは、わたしがヘーゲルから学んだことで言えば、積極的な意義もあります。それは、自己を客観化しながら自己を認識しようとする精神のこの上ない労働の所産であり、内面で自己と対決し内面で仕事を続けてきた結晶が「私史」ではないかということです。教育運動をになってきた客観的な精神が、具体的な形態となって現れたものが貴台によってまとめられた今回の著作です。
 それを、貴台が「正史」「公史」と呼ぶのを求めておられるとは思いません。わたしは、貴台が戦後愛知の教育研究運動と向きあいながら、その渦中にあってたたかってこられた自己と向きあい、その緊張関係から発せられたこの歴史的なまとめの著作こそ、むしろ堂々と「私史」と呼んでもいいのではないかと思いました。
 


愛知の民間教育研究運動とは

12/25に、愛知民教連主催の集会があり、戦後愛知の民間教育研究運動についてこのたび村田徹也・香村克己の二氏による二著作が出され、それを受けてのコメントをわたしが述べました。以下はそのときのレジュメです。

愛知民教連集会                         2006.12.25.
 
戦後愛知の民間教育研究運動
○ 民間教育研究運動とは
 
 @もともと社会的運動は、社会的価値の配分にかかわる集団的な行動を背景にもつものであって、教育研究運動は憲法・四七制定教育基本法のめざす民主主義的価値の実現を各地域で、各学校で追究する継続的な実践活動を指している。
 「民間」という名称は、個々の教師並びに父母・市民の内発的な力によって活動する形態をさし、行政権力による外からの強制運動ではないことを意味する。
  また、この運動は、既存の学校教育の体制や教育をめぐる価値構造を不動の前提にするのではなく、子どもたちの現実やその発達課題に応じて個別のイッシューを追究しつつ、方法論や指導技術の考え方を開発していくものである。それは、この過程をつうじて、既存の体制を相対化しあらたな価値形成を築きだしていく。
 
 A民間教育研究運動における重要な要素・側面は、
  参加する教師・父母・市民たちのアイデンティティ
  教育内容や方法等に関わる自己決定性
  教科・教科外、地域の活動など学校教育・社会教育の各活動領域の重視
  参加者の意思決定を重要原則とする直接民主主義
  などであり、これらの更新がいかなる動機や価値追究によっておこなわれるかによって、その研究運動体の歴史性・進歩性あるいは開放性が規定される。
 
○本日の出版記念に際して
 
1 香村・村田両氏の著作「私史」の意義
 
 
2 愛知という歴史的・社会的磁場の問い直し、捉え直し
 
 
3 戦後愛知の教育を問うための視点
 
  「いま、愛知の民間教育がめざす価値とは」を問い続けること 
 
  「やらされる実践」ではなく「してみたい実践」を、というアイデンティティの形成
 
  子どもたちと共に教師としてどう生きるか
 
  愛知を見つめて愛知を超える
 
  実践を創り実践を語るも、その相対化の目を忘れない
 
 
4 「改正教育基本法」下で、愛知の民間教育研究運動はどうあるべきか
 
  @管理主義的風土の相対化と、四七教育基本法の内実を保持する視点を
 
  A市場化・格差化による父母・保護者の孤立化とどう向きあい、つながるか
 
  B若手教師や若手研究者に開かれるためには
 
  C研究団体内の開放性・複数性の確保を
 
  D民主主義の諸原則は実践をもとに学習し再学習していかなければ形骸化する
 
  E(ある実践例を複数の研究サークルで検討する)実践検討が呼び込む共同と対話
 
  F全国への発信が愛知を(その技術の思想、実践の構図、子ども観などを)鍛える
 
  G「愛国心」教育が強まるときこそ、憲法が生きる学校づくりを
 
  H教職員組合の運動との関連と区別
 
  I「書き留めよ。実践し議論したことを風の中に吹き飛ばしてはいけない」

新国家主義とのたたかいと全生研運動の発展を

(注記)以下は、教育基本法が「改正」可決された翌日の12月16日、札幌のホテルロビーのパソコンから発信したメッセージです。雪の降る景色を見つつ、つとめて冷静に問題を直視した一文です。(17日記)

全国のみなさん、こんにちは。いま、本日午後からある北海道子どもセンター主催「いじめ問題の集会」のため札幌に来ています。先日カナダから帰国したばかりですが、いじめ問題ではつながりのある行動です。朝から雪が深深と降っています。

昨日の教育基本法改悪、このMLに発信されました方々の声を読み、あらためてこの暴挙に強い憤りを感じます。この改悪によって、「権力を拘束する規範から、国民を拘束する規範への変質」(成嶋隆氏新潟大・法学専攻のコメント、『北海道新聞』16日付朝刊二面)が先取りされ、いよいよ改憲前夜へと進むことは必至です。

学習指導要領の改訂をつうじて「愛国心」教育はあらゆる教科とともにむしろ教科外でいっそう強められ、教師と子どもを圧迫してくるでしょう。この構図は、1940年代当時の国民学校の教育統制の構図ともダブります。

わたしたちは今回のこの権力による暴挙をもってしてただ落胆するのではなく、この間の行動と運動、討議と意見表明によって従来見られないほどの連帯やつながりが築き出せたこと、また現代民主主義のエッセンスでもある、(まだ「改正」法の施行前なので)現行教育基本法のすばらしさ、そしてその理念を語り現実を捉え返すことの知の強さ、を学び直しました。

ここに、これから起こるであろう新国家主義の嵐に立ち向かうエネルギーは胚胎されているし、これをてこに立ち上がっていくことで、市民としての政治能力・連帯・社会的正義・教育の民主的公共性、を1つ1つの局面で創り出して行かなくてはいけません。

その役割を全生研は引き受けていきましょう。その営みの中で、全生研も一段と思想性のふかい研究団体になっていくと思います。悔しさを知の鋭さに、無念の思いを市民的自立の物語の情熱へ、そして常に教師は激動の中にあってこの現実と向きあい民衆の教師として教育されるという、あのテーゼの再確認を。

以上、常任委員会を公式に代表するものではありませんが、その任にあるものとしての現時点でのコメントです。

折出健二 12・16 午前、窓に降る雪がみえる、ホテルロビーにて


愛知研究者の会 シンポジウム                    06.10.29. 日本福祉大学名古屋キャンパス8階
 
「教育目標」の法定化とは
〜「内心の自由と愛国心問題」にもふれて〜
 
                         折出健二
                        (愛知教育大学/教育学専攻)
 
はじめに
 
 政府提出・教育基本法「改正」法案は、冒頭で「全部を改正する」としている。
 同法案は、現行法の根幹をなす同法第二条「教育の方針」の中心理念を削除して「教育の目標」に置き換えたり、教育行政の役割を現行法とはまったく逆の立場で規定したりしている。この構図の中で、「教育の目的」としての人格の完成が、国家の示す「教育の目標」修得・達成による「必要な資質」を備えた「人格」育成にほぼ完全に変質・変換されている。
 以上のことから、同法案は、現行法の「改正」ではなく全面的な廃棄ととらえるべきである。また、民主党提出の法案も、附則二条で現行法の「廃止」を規定しており、政府提出案とは別の文脈ではあるが、現行法の廃棄という性格を持つ。
 以下では、政府提出案を主たる対象とし、一般に通称される「改正」法案の言葉をつかうが、報告者の見地は上記の通りである。
 
T 愛国心をめぐる問題
 
(1)清水幾太郎『愛国心』岩波新書(初出 1950年)は、仮の定義と断った上で「愛国心とは、自分の国家を愛し、その発展を願い、これに奉仕しようとする態度である」としている(7頁:旧漢字・旧かなはすべて改めた。以下同じ)。
 氏は、続けて「愛情が注がれているのは、高貴偉大なものでなく、日常の些末なものである」としながらも、「永久に存続し且つ発展しようとする集団」すなわち国家からみれば、「内部の結束「外部との対抗」のために、その「愛情を助長し促進することが必要である」という(9〜16頁)。
 そして以後の行論では、国家の特質を検討し、その結果、「国家はその存立と発展のためにメンバーが国家への愛情及び奉仕の態度を持つことを必要とする」としている。さらに、「国家にとって必要な奉仕は、その極まるところ、人間の生命の放棄という問題に到達する。人間を人間としての限界に追いつめるのである。これは最高且つ最大の奉仕である」(同書、23頁)とする。
 この所論には、大きく二つの根本的問題がある。
 1つは、自然・文化をふくむ生活あるいは社会の共同体への「愛情」を、巨大な政治集団である国家という共同体への「愛情」の中に吸収させていること(性格の異なる二つの共同体を癒着させていること)。
 2つめに、1950年時点でありながら、憲法に保障されている基本的人権、とりわけ精神的自由権としての「内心の自由」が全くと言っていいほど考察されていないこと。
 
(2)憲法における精神的自由権は、思想・良心の自由(第十九条)、信教の自由(第二十条)、学問の自由(第二十三条)として規定されている。
 中でも思想・良心の自由は「内心の自由」とも呼ばれ、国民がどのような世界観・国家観を持とうとも内心の領域としては絶対的に自由であること、また国家は各人がどのような内心を持とうともこれを開示することを直接または間接に問いただすことは許されないことを意味する(折出『弁証法のレッスン〜暴力・平和・他者』私版本、14頁)。
 ところが、清水の所論は、国家が各自の「愛国心」を必要とするとし、その最高・最大の奉仕は、国(国家)のためにいのちを捧げることであるとしている。このように、日常の対象への愛情として肯定されたものが国家の忠誠心に組み込まれ、その最高の姿が追求されるとき、まさに「愛国心」のもとで各自の内心の自由は否定されるのである。これは基本的人権を侵すものであって、国家による「愛国心」育成という論議自体が暴力性を持つとも言える
 しかし、以下に述べるように、安倍氏の国家像、政府与党提出の「改正」法案をつなぐ論理には、まさに清水の所論と繋がるような危険な要素が含まれるのである。
 
(3)安倍晋三氏は著書『美しい国へ』(文春新書)の中で、「国」とは「悠久の歴史を持つ日本という土地柄」、この自然と祖先と家族からなる共同体であり、「国家」とはその統治のあり方だという。ここでは、伝統と文化のわが「国」を問題とし、国家という統治の機構、政治のシステムは巧妙に、地理的・文化的な共同体の影におかれる、ないしは途中からそれにすりかえられている。
 安倍氏の所論も政府提出案も、社会共同体としての「愛国心」を語りながら、それを「政治共同体」の忠誠心へと変換させるものであること、しかもこのために後述の「教育の目標」や「教育行政」等にみる教育基本法「改正」案を利用するものであること、この二点をわたしたちはしっかりと銘記し注視していきたい。
 
 
U 「教育目標」の法定化は何を意味するか
 
(1) 教育基本法・政府提出「改正」法案の問題点は、あらたに「教育の目標」をおこし、ここに「愛国心」教育の観点をいれることにある。以下の通りである。
 
(教育の目的)
第一条 教育は、人格の完成を目指し、平和で民主的な国家及び社会の形成者として必要な資質を備えた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない。
(教育の目標)
第二条 教育は、その目的を実現するため、学問の自由を尊重しつつ、次に掲げる目標を達成するよう行われるものとする。
一 幅広い知識と教養を身に付け、真理を求める態度を養い、豊かな情操と道徳心を培うとともに、健やかな身体を養うこと。
二 個人の価値を尊重して、その能力を伸ばし、創造性を培い、自主及び自律の精神を養うとともに、職業及び生活との関連を重視し、勤労を重んずる態度を養うこと。
三 正義と責任、男女の平等、自他の敬愛と協力を重んずるとともに、公共の精神に基づき、主体的に社会の形成に参画し、その発展に寄与する態度を養うこと。
四 生命を尊び、自然を大切にし、環境の保全に寄与する態度を養うこと。
五 伝銃と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛するとともに、他国を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与する態度を養うこと。
 
 問題点@ 戦前「改訂 実業修身 巻四」(1930年刊行:あいち民研の早川教示さん提供資料)によれば、「愛著」(愛着の着は略字)=愛国にとって他国愛は必然であって、それは世界の中の日本を自覚すること、すなわち「我が国」が「特別な天職を持つて居る国家」だと知ることがそうさせるのだ、という趣旨で「愛国心」を解説している。
 上記の「五」は、その我が国への「愛著」と酷似する内容である。少なくとも、それが戦時突入前夜の愛国思想とつうじる、ないしはその延長にあることは否定できない。
 同A 本来、教育の目的の実現に関わる教育の目標は、対象とする子どもたちの発達段階、地域性、生活文化などを総合して、保育・教育・福祉の各関係者(実践者)が自主的・共同的に実践指針として定めるものであり、これを教育の最高法規たる教育基本法で定めるべきではない。
 同B 現行の学校教育法に既に小中高校の教育目標は法的には掲げられているし、(教育基本法を反映した)この現行法を尊重すべきである。「改正」法案のいう「教育の目標」は実質的にはこの学校教育法を廃棄するに等しい。
 同C 「我が国と郷土を愛する」心情と態度は学習活動・自治活動・文化活動などを通じてひろく生活認識・社会認識、並びに自己認識・他者認識・集団認識が豊かに発達していく成果として、各自の中に形成されるものである。また、そのことが、子どもにおける「内心の自由」をふまえた教育のあり方である。
 国家が「目標」の形で法的規範として掲げることは、学ぶ側の内心の自由を侵すおそれがあるだけではなく、教える側の内心の自由をも侵食するおそれが強い。
 
(2) 「改正」法案第二条の拡張と教育の変容
 「改正」法案は、目標管理型の国家統制法に変えることを意味し、学校教育(幼稚園から大学に至るまで)さらには家庭・地域に至るまで、その「目標」達成が教育に強制的に要請されてくる。
 
(学校教育)
第六条 法律に定める学校は、公の性質を有するものであって、国、地方公共団体及び法律に定める法人のみが、これを設置することができる。
2 前項の学校においては、教育の目標が達成されるよう、教育を受ける者の心身の発達に応じて、体系的な教育が組織的に行われなければならない。この場合において、教育を受ける者が、学校生活を営む上で必要な規律を重んずるとともに、自ら進んで学習に取り組む意欲を高めることを重視して行われなければならない。
 
 とくに第2項でいう「目標」は、前述の「目標」であり、その達成のために、規律の教育、意欲の発揚を重視することは、戦時下ファシズム期の国民学校体制と論理的には酷似している。
 しかも、第十条(家庭教育)において、「子の教育の第一義的責任」と「生活のために必要な習慣を身につけさせる」ことを規定し、第十二条(社会教育)、第十三条(学校、家庭及び地域住民等の連携協力)と合わせて、第二条「教育の目標」の諸価値を実現することに収斂していくように、それぞれの努力と連携の努力とが一体となって規定されている。
また、「改正」法案第十六条(教育行政)は、「教育は、不当な支配に服することなく、この法律及び他の法律の定めるところにより行われるべきものであ」るとして、教育内容への無制限の国家介入を法的にも許容する改悪を行おうとしている。 
 この場合の「不当な支配に服することなく」は、「この法律(すなわち「改正」教育基本法:折出)及び他の法律の定めるところ」にこそ「教育が服する」根拠の正当性があるとして、教職員組合や市民団体の請願行動などをもって「教育」が左右されないことを示したものである(憲法学者・小林武氏の見解)。
 
こうしてみると、法定される「教育の目標」は教育科学的な意味での、あるいは教育方法的な意味での「目標」提示ではけっしてない。それは、第一条の「人格の完成」を国家奉仕の心性と価値意識を持つ国民の育成へと変換させる装置としての役割をもっている。
 しかも、現行法の第二条「教育の方針」でいう「学問の自由を尊重し、実際生活に即」することは〈科学と教育の結合〉〈実生活と教育の結合〉という重大な教育原理を規定していたのに、これらが価値題目を主とする広義の道徳教育にまったく置き換えられている。
 これに関して、「改正」法案は、その第二条で「学問の自由」を尊重とうたっているが、それは各自の「内心の自由」に基づきこれを保障する見地からの批判的な学びと探求を指すものではなく、逆に(たとえば清水が述べたような)国民を「最高最大の奉仕」にうなが諸原理を「学問」的に解明する「自由」を認めるものにほかならない。
 
(3)教育改革における安倍手法との関連と「改正」法案の問題点
 氏は、イギリスのサッチャーのおこなった改革をモデルにしている(前掲書、202頁以下)。その特徴は「自虐的な偏向教育の是正」と「教育水準の向上」である。前者は、「国に対して誇りを持てるように」義務教育から改革をしていくことを指し、現行の学校教育法の定める小中学校教育目標にも言及しながら、これも見直し、変えていくべきだと主張している。
 つまり、ここでも「改正」法案の第二条「教育の目標」は学校教育法の次元にまで及びこれを変質させるように働く位置にあることがうかがえる。。
 また、氏は、学力の向上のために全国的な学力調査を行い、その結果を公表し、一定水準に達しない学校は公費援助を打ち切ること(つぶす、ということ)、また教員も入れ替えるなどを強制的に行えるように制度を改めるとしている。
 これらの他にも、次のような「改革」アイデアを述べている。
 教員評価と学校評価による、学校間競争の徹底と競争淘汰。幼保一体の「子ども園」化の構想。大学を九月入学に改め、春の入試後三ヶ月をボランティア期間として大学入学の条件にする構想、「典型的家族モデル」を教育するための教育の転換。階層のニーズにあった学校運営ができるように教育バウチャー制度の導入。
 要は、「国家的見地からの発想」ができていないことが「戦後教育の蹉跌のひとつ」であり(202頁)、安倍政権として「改正」着手を急ぐのは、それを根本的に組み替えて実現したいからである。
 「美しい国」というあいまいな言辞のもとに安倍氏が展開する保守主義とは、教育の次元で見ると、「教育の目標」に収斂される単一の価値と国家奉仕意識に国民を融合させるという、閉じられた共同体構想である。そのために教育の力を最大限に利用しようとしている。
 また、氏は「再チャレンジ」とは言うものの、その意図は、一見個を尊重したかのような国家奉仕の磁場づくりである。
 すなわち、それは、今後は競争と格差がそれほどに拡大し、各自の生き方に緊張が迫られることを意味し、各自が安定して競争に参加できるためには、日本が強い国家となって他国からの脅威にも対抗しうる力を持つこと、日米の協力体制の保持もそのため必要であること、そして国が個々人を守れる状態であればこそ各自の努力と再チャレンジが生きるのであるから、国家の教育権を確立して国民を国家の形成に様々なかたちで貢献するように啓発感化することこそ最重要の教育課題であることを、述べている。
 その証拠に、氏は、国家と国民は対立関係ではなく相互関係だ(65頁)と言い、国家と国民が一体となって互いの運命を支え合うことこそ日本の未来の要だという、非常に強い国家保守主義の考え方を示している。
 
(4)「改正」法案のえがく教育
 これは子ども社会のみならず全社会を競争と抑圧で閉塞化させ、不可視的な精神的監禁状態におくものである。
 「教育目標」の実現は、
 @そのための数値目標と管理点検を生み出し、教育関係機関は、協力共同すべき同僚との間に相互牽制の風土を拡大させやすい。
 A実践のつまずきや壁を出し合いその共同考察の中から実践の改善や見通しを得ていく道筋を見失わせる。
 B同時に、実践者である広義の教育関係者の自己形成、教育者の成長感をも失わせていくことが十分に予見される。
 こうした予兆は、昨今、数値目標を異押しつけてきた文部行政のもとでいじめ事件の隠蔽に動いている一部教育行政関係者、学校の管理職者の事象によって明らかとなっている。
 
 このように見てくると、安倍氏の「美しい国」においては、個人を孤立化させて競争を徹底する格差と競争の社会はいっそう拡大・浸透させられるし、このような競争的学校体制が子ども社会にあっては他者への攻撃を生み出していく。また、その実現の最優先課題とされる教育基本法の「改正」法案も、そのまま実施されればますます管理体制を強化するものとなるおそれが十分にある。
 視点を変えれば、教育のあらゆる局面で、子ども同士、職員同士、上司と部下同士で、また保護者間でも、いじめが起こりやすい社会に転化していきかねない。
 いじめとは、相手に対して優位な立場にある者がその関係性をちからとして利用して相手を抑圧する「関係性の乱用」である(大阪市立大学・森田洋司さんの定義)。このような関係性の混乱あるいは関係性の乱用が、あらたな競争社会で拡大していく。
 安倍国家構想ならびにこれと深く繋がる教育基本法「改正」法案の教育構想もとでは、国家の力によって強制ないし統制が進み、ますます学校も地域社会もいじめ発生装置をもった共同体に変質させられていくと言わざるを得ない。
 
(5)ところで、「改正」法案は前文で「公共の精神」をうたうが、教育の公共性を考えるに当たり、わたしたちは、国家統治のもとでの参加だけではなく、みずからの存在の表象(英語のrepresentativeは、選ばれた代表だけではなく、表象の意味もある)を求める行為としての参加も重要な課題として追求していく必要がある。
 それは、教師がみずからの教育行為への批判的な視点をもちつつ、子どもならびに保護者・住民との合意形成の空間(自由に教育をさぐる公共空間)をつくりだすことのために求められる。
 その構図は、子どもの人間的発達の課題を中心に置きながら保護者・住民との共同関係を創造するものである。
 この中から、真のコミュニケーション的権力が形成され、このコミュニケーション的権力が子どもの成長発達に必要な教育の自由空間をまもる、ほんらいの民衆的権力として作用する。
 当然それは「内心の自由」を核として精神的自由権の行使と保障をふまえつつ、教育の公共性を探るものとなる。
 
 教育基本法第二条の「教育の方針」は、まさに「あらゆる機会を通じて」「実際生活に即し」「学問の自由を尊重」する活動の方針にもとづき、自発的精神と自他の敬愛と協力(民主的相互性)を営むことを文化創造の社会性原理として規定している。
 同条は、それが生かされてこそ「平和的な国家及び社会の形成者」たる国民一人ひとりがこの21世紀的な課題と向き合い、個性的に発達していくと共に歴史的な変革の過程にも参加していくことが可能となると、法の理念として見事に示唆している。
 ここに、いま国民が共同してとりくむべき教育改革の王道がある。
                                   (了)

教育基本法「改正」法案にみる生活観の転換

以下の文章は、日本生活指導学会の通信にこのたび教育基本法問題の特集を組むに当たって、依頼を受けて書いたものです(2006年6月13日)。これから掲載予定なので、転用はご遠慮ください。

教育基本法「改正」案を法の条理から見た場合の問題点の考察や、最新の審議状況などは他の執筆者が取り上げられるかと思いますので、わたしは角度を変えて、「改正」法案の中にある生活観の転換を取り上げたいと思います。

 「生活」という文言の登場回数だけを見れば、現行よりも「改正」法案のほうが多いのです。しかし、私見では、その「生活」観(法案の文脈から見えてくること)と、「公共の精神」の強調とは表裏一体のものではないかと思われます。

(1)現行法では、次のように、教育の目的を実現するための方法原則の一環として「実際生活に即」することがあげられています。しかも、それは「自発的精神」と個々人の相互性に開かれた活動の原則として述べられていると解することができます。

第二条(教育の方針) 教育の目的は、あらゆる機会に、あらゆる場所において実現されなければならない。この目的を達成するためには、学問の自由を尊重し、実際生活に即し、自発的精神を養い、自他の敬愛と協力によつて、文化の創造と発展に貢献するように努めなければならない。

(2)「改正」法案では、第二条「教育の目標」の中に、
「個人の価値を尊重して、その能力を伸ばし、創造性をはぐくみ、自主及び自律の精神を養うとともに、職業及び生活との関連を重視し、勤労を重んずる態度を養うこと」
と規定しています。このあとに、

「正義と責任、男女の平等、自他の敬愛と協力を重んずるとともに、公共の精神に基づき、主体的に社会の形成に参画し、その発展に寄与する態度を養うこと」
 と続きます。

与党協議会の「中間報告」では、

 B正義と責任、自他・男女の敬愛と協力、公共の精神を重視し、主体的に社会の形成に参画する態度 の涵養、C勤労を重んじ、職業との関連を重視

 と逆になっていました。しかも、「中間」では「生活」は抜けています。

 「及び生活との関連」と、最終報告に規定された理由は(わたしにとっては)定かではないのですが、関連させる対象としてだけ位置づけられたのです。それは「勤労を重んずる態度」形成への媒介項のような位置づけといえるでしょう。

(3)「改正」法案で「生活」観がクリアに出ているのは、次の条文案です。すなわち、第六条学校教育の中で、
 教育を受ける者が、学校生活を営む上で必要な規律を重んずるとともに、自ら進んで学習に取り組む意欲を高めることを重視して行われなければならない
 と、規律重視の場としての「生活」観を明記しているのです。先に示しておいた現行法の第二条全体の精神と読み比べると、はっきりとその違いがわかります。「生活」は個の自発性と他者との相互性に開かれててゆく場ではなく、「規律」に収斂していく場と見なされているのです。

(4)さらに、「改正」法案では第十条家庭教育の条文を新たに起こして、
 「父母その他の保護者は、子の教育について第一義的責任を有するものであって、生活のために必要な習慣を身に付けさせるとともに、自立心を育成し、心身の調和のとれた発達を図るよう努めるものとする」 とうたっています。

 ここでいう「生活のために」とは何でしょうか。
 わたしは、これは、上述の「規律」ある学校生活のために、さらには、「教育の目標」でかかげられる「公共の精神」にみちている生活のために、と他の条文規定に合流していくものと解します。

以上をまとめますと、「改正」法案の「生活」観は、他のなにものかによって規制され、「規律」を重視しする場として示されていることがわかります。「他なにものか」とは、国家の権力といえるでしょう。それが、表だって直接に統制するわけではない。この限りでは、民主制の法理をふまえているかに見えますが、それは見かけであって、実質的には子どもの生活を、家庭面、学校面、そして「公共」という面から国家権力が監視する構図が内在しているといえます。

 これは、現行法にはなかった、というか民主主義の原則からは規定してはならない「生活」の内的事項にまで立ち入った規定を、「改正」法案がしているということです。 ここに重大な危険性があると思います。

今回は問題提起にとどめます。


「教育新法案」のゆくえ(その9)
            

今朝(5/31)のニュース・新聞報道によると、小泉首相は、昨日、国会の会期延長はしないとの言明を記者団に語ったとのこと。これにより、いま衆議院で審議中の教育新法案の見送りも濃厚になったと伝えられています。

今回の「改正」法案は、現行法を廃棄する新法案の提出であることがはっきりしてきたので、こういう表現を使います。

で、見送りとなるかどうかは予断を許さないと私は見ます。与党側は、早くも公聴会日程を持ち出し、審議手続きを早めようとしています。つまり、法案審議に必要な総括質疑・一般質疑・公聴会をとにかくスピードアップしてすませて、あとは特別委員会で採決動議を出す。そこで強行可決し(45名の委員の内、与党は30名)、本会議に送る。といった強行の手続きの可能性は消えたわけではない。

もちろん、そういう暴挙は許されるものではありません。しかし、国会で2/3を占める「有利」さ、一部の「改正」強行派などの諸要因のあるなかで、何が起きるか(ここまで政治倫理が腐敗している中、権力で何をやらかすか)。注視していき、引き続き、世論を興していく必要があります。


           教員免許更新制、取得者全員を対象に

各紙既報の通り、文部科学省が表記の素案を中教審に提示したようです。以下は、『朝日新聞』5月26日付夕刊の記事を参考にしています。        

終身有効のライセンスである教員免許を、(1)10年の有効期限付きとする。(2)期限前2年程度で通知し、指定大学で30時間以上の講習を義務づける。(3)そのとき、教員の適格性・専門性を評価して更新の可否を決める。

現職者およびすでに取得している者にも適用するのは、終身有効のライセンスにたいする、取得後の変更であり、その権利を侵すものではないか。これに対しては文科省は、時代の変化に対応するという要請からやむを得ないし、上記の更新手続きで権利は確保される、との考え方らしい。

更新のための講習が大きな鍵となります。おそらく、それは教職大学院設置の大学(文科省によれば、当初の2007年発足を遅らせて2008年発足予定)とも連動するでしょう。

しかも、講習実施の指定大学の最終「評価」(おそらく指定科目の履修結果と所見)をもとに免許授与者である都道府県教育委員会が判定するのでしょう。その際、更新の可否に当たって、全国的な共通の水準をもうけるかもしれません。

そうなれば、これは、「更新制」の導入による、国家試験こそ行わないものの準国定教員資格への変更になっていくのではないでしょうか。


緊急声明「教育基本法改悪に反対し、『改正』案の廃案を求めます」

                              2006.5.14. 全国生活指導研究協議会常任委員会
       

さる4月28日の閣議をもって今国会に上程された教育基本法「改正」案は、一九四七年制定の現行法の「全部を改正」するとしています。このことからも、同「改正」案は、条文の文言としては現行法を受け継ぐかに見える部分もありますが、全体として、まったく別の法律をもくろむ改悪であり、とうてい認めるわけにはいきません。

 第一に、我が国がすでに「民主的で文化的な国家」であるとして、現在の新自由主義体制を前提とした教育の推進を掲げています。「公共の精神」で意図していることは、新たな「公」の創出のために教育を従属化させる構図です。

第二に、「愛国心」の教育を「教育の目標」に位置づけ、その「目標」達成を学校教育に求めるという仕掛けにしています。今でさえ、「日の丸・君が代」の強制が各地で進められているのを見れば、この「改正」を根拠として、教育を受ける者、教育を実践し創る者の内心(精神的自由)を権力が統制することがいっそう公然と行なわれるのは明白です。

 第三に、九年の普通教育を削除し、現在の二極化構造にそのまま順応した教育の複線化への道を法的にも準備しています。しかも、教育の中身に踏み込んで「学校生活を営む上で必要な規律を重んずるとともに自ら進んで学習に取り組む意欲を高めること」を子どもたちに道徳的義務として求めています。

 第四に、家庭教育をも法規定の対象にして父母など保護者の子育て・教育を国家の見地から監視することをねらっています。これは、第二点で指摘した国家という「公」への囲い込みの家庭教育版であり、まさに家庭にまで介入する国家教育権の露骨な表明でもあります。

 他にも個別に挙げるべき問題点は多々ありますが、要は、同「改正」案は、我が国の教育のかたちを根本から改悪するものであり、何よりも重大なことは、国家による「公」への従属という枠組みで子育て・教育を縛るものである点です。

 「改正」案の描く教育とは、国家を意識するように子どもたちの生き方とおとなの関わり方を変えさせ、秩序や規律への従順さをとおして、日米の軍事同盟の強化や世界戦略に資する人材養成につなげていくものです。「改正」案は、教育を超えた、国策推進の根拠法案にほかなりません。

 今回の「改正」が契機となって、教育改革にプラスにつながるのではないか。このように願う方々もおられます。しかし、法案提出者みずからが「全部を改正する」と明言していることからも、またすでに見てきた諸点からも、現行法の国民主権・平和主義の根本理念は棄てられると見ざるをえません。

 それで一体、誰の、何のための改革でしょうか。

 また、相次ぐ子ども・若者の事件を理由に「改正」を支持する声もあります。しかし、教育基本法を変えれば問題が解決するのではないのです。ほんらい、教育基本法の理念を実際生活に即して創造することが重要です。わたしたちの課題から言えば、子どもたちの参加に基づき自主・自治と学びと文化をゆたかに創造する過程で社会的正義や集団の自律性や友愛の関係性、道徳性がはぐくまれ、暴力を持ち込まない平和的で対話的な市民社会の基礎が実現されるのです。

 いま生きづらさを抱えてさまざまなトラブルや孤立化をみせる子どもたちをすくう真の教育創造こそ、国民みんなで力をだしあうべき共通課題です。すなわち、「格差」拡大の競争システムを見直し、自治と共同性や活動性にひらかれた学校空間を築いていくことです。

 わたしたち常任委員会は、2006年5月開催全国委員会において、その喫緊の課題に取り組んでいくことを全国委員各氏と確認しあうと共に、このたびの「改正」案は廃案にすべきことを表明するものです。


教育基本法「改正」法案(その8)
            

○日本教育法学会(堀尾会長)の特別委員会が9日、記者会見をして、教育基本法「改正」案には違憲性があるとの見解を表明しました。
○全国生活指導研究協議会常任委員会(代表=折出)として「改正」案の廃案を求める「声明」発表を準備しています。5/13〜14の全国委員会に提議して了承を得る予定。その原案を作成しましたが、了承前なので、ここでの公表はいまは控えます。
○『生活指導』7月号の「今月のメッセージ」に、急遽、「教育基本法『改正』問題を考える」と題する小論を寄稿しました。6月14日頃の発売です。ご一読いただければ幸いです。上記の「声明」も間に合えば、同じ号に掲載されます。


教育基本法「改正」法案(その7)
            

下記にしめした「改正」案が、明日9日の衆議院本会議に上程され、正式に審議入りとなります。与党は、毎日でも開催でき夜間でも議決できる特別委員会設置をもとめる構えのようです。

既設の文教科学委員会方式では、会期末までに審議がおわりそうにないからです。


教育基本法「改正」法案(その6)
             

公式の「改正」法案が公表されています

教育基本法「改正」法案(その5)

下記の与党協議会「最終報告」は28日閣議了承をもって教育基本法「改正」法案となりました。その問題点の1つは、あらたに「教育の目標」をおこし、ここに「愛国心」教育の観点をいれるものです。

1.教育の目的
 教育は、人格の完成を目指し、平和で民主的な国家及び社会の形成者として必要な資質を備えた、心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならないこと。

2.教育の目標
 教育は、その目的を実現するため、学問の自由を尊重しつつ、次に掲げる目標を達成するよう行われるものとすること。
一 幅広い知識と教養を身に付け、真理を求める態度を養い、豊かな情操と道徳心を培うとともに、健やかな身体をはぐくむこと。
二 個人の価値を尊重して、その能力を伸ばし、創造性をはぐくみ、自主及び自律の精神を養うとともに、職業及び生活との関連を重視し、勤労を重んずる態度を養うこと。
三 正義と責任、男女の平等、自他の敬愛と協力を重んずるとともに、公共の精神に基づき、主体的に社会の形成に参画し、その発展に寄与する態度を養うこと。
四 生命を尊び、自然を大切にし、環境の保全に寄与する態度を養うこと。
五 伝銃と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛するとともに、他国を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与する態度を養うこと。

あいち民研の早川さん提供の資料、戦前「実学修身」(1930年刊行)によれば、愛国にとって他国愛は必然であって、それは世界の中の日本を自覚するからだという趣旨で「愛国心」を解説しています。上記の「五」は、そのままの内容です。

それを「前文」ではなく「目標」に入れたことが、重要なのです。「改正」教育基本法は、目標管理型の国家統制法に変えることを意味し、学校教育にもその「目標」達成が要請されてきます。

そして、さらに同「最終報告」では、次のように子どもと教師を統制します。

6.学校教育 (1)法律に定める学校は、公の性質を有するものであって、国、地方公共団体及び法律に定める法人のみが、これを設置することができること。
(2)前項の学校においては、教育の目標が達成されるよう、教育を受ける者の心身の発達に応じて、体系的な教育が組織的に行われなければならないこと。この場合において、教育を受ける者が、学校生活を営む上で必要な規律を重んずるとともに、自ら進んで学習に取り組む意欲を高めることを重視して行われなければならないこと。

とくに(2)でいう「目標」は、前述の「目標」ですし、その達成のために、規律の教育、意欲の発揚を重視することは、戦時下ファシズム期の国民学校体制と論理的には酷似しています。

これが何を意味するかは明らかです。28日の閣議で、これらの内容を了承の上、国会に上程しようとしています。


教育基本法「改正」(その4)

4/23に民主教育研究所の評議会があり、あらたに評議員として招請されたので出席してきました。そこで出された教育基本法「改正」の最新情報では、以下の通り。

(1)会期内の上程・可決をにらんだ動きが早まっている。三上昭彦氏(明治大:民研副代表)によれば、4/28に閣議で了承して上程する予定で動いている。

(2)最終法案構成は、つぎのようになる(三上氏説明)。※念のため、「改正」対照表をお持ちの方はみてください。
前文 第一章 教育の目的・理念 最終報告案の1〜4
第二章 教育の実施に関する基本    5〜15
第三章 教育行政           16〜17
第四章 法令の制定          18
  附則

いわゆる「国を愛する」ことを、「改正」案は、「教育の目標」である「2」の「五」にいれています。
「前文」ではなくここにしたのが、重要な仕掛け。「目標」であり法律条文であれば、その「目標」管理がおこなわれやすくなります。
「目標」の達成状態の点検・評価を、行政権力は実践者にむかって発動しやすくなります。
そういう仕掛けの「愛国心」であること、また国家教育権がそのように「隠された」ことをよくみておくべきでしょう。

まずは、「隠された」論理をきちんと指摘して、公開して、その問題点とあわせてみんなの判断をあおぐことが大事です。

現行法は、国民みんなで共同して理念を追及しようという、共同探求型の法律。

「改正」法案は、国家が目標をこの法律で示してそれを教育を通じて徹底する目標管理支配型の教育振興「基本法」になります。


教育基本法「改正」(その3)

下記の「愛国心」表記案をふくむ協議会合意の「改正」案をめぐって、自民党内では批判や異論が続出らしい(『朝日新聞』4/14付名古屋本社版「夕刊」第3面)。

「他国を尊重する」が気に入らない上に、「教育は不当な支配に服することなく」という現行を、自民案は「教育行政は不当な支配に服することなく」に改めるべきだとの主張なのに、協議会案ではこの「改正」案は見送られたためらしい。また、同党主張の「宗教的情操の涵養」も盛り込まれない。

与党の自民党内がまとまらないのでは、今回の法案上程は無理であろう。

・・・と思わせておいて、会期末に急遽上程、若干の会期延長のなかで文教科学委員会強行可決、本会議で可決。こういうこともある。

国立大学法人法可決のときのやり方がそうでした。あの苦い経緯を忘れてはいけないと思います。

教育基本法「改正」(その2)

「伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛する」とすれば、戦前の国家主義の色合いが薄れたので、与党の公明党も合意したという。果たしてそういえるのか。

「伝統と文化」を「はぐくむ」ように教育する主体は、この文脈では依然として国家なのではないか。いや、文言の上では国家は隠された。しかし、それは国家という集中的権力(軍隊をふくめれば暴力装置)が隠されたわけで、いつでも発動できる状態であるといえます。 表向きから隠されればこれに合意して、前に進める。だから「ポーズとして」と、下欄で書いたわけです。

また、「国と郷土を愛する」とする文言自体も、国家という強制装置を隠した統合体としての「我が国と郷土」であるとみれば、結局は、ある政治権力の価値体系をもつ「国家」によって統合される「国を愛する」と、ほぼ同じ事なのです。

『朝日新聞』4/13付夕刊の「素粒子」は、この「愛国心」表記を風刺して、「『愛』と『国』はあるが『心』がない。さては本心を隠したな」と。

ある意味で、その通り。「国を愛する心」をもとめる構図は変わっていないと見るべきでしょう。


教育基本法「改正」の合意点

「読売新聞」4/12付速報によると、教育基本法「改正」の与党検討会は、12日、焦点となっていた「愛国心」の表現について、「伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛する」とすることで合意したとのことです。

これは、「国を愛する心」を主張する自民党見解をうまく取り込み、なおかつ、その場合の「国」が国家=統治機構であることは戦前の全体主義につながると難色を(ポーズとして)みせる公明党見解にも配慮した、つまりは駆け引きの産物です。

このような政治的取引で、国の教育の根幹となる教育基本法の文言が内定するなど、いかに教育という営みを軽視しているか、いかに子どもたちの苦しみや親の葛藤を無視して自分たちの政治信条を優先しているか、です。

さらに、同速報によると、基本法の「前文は微調整が残っているが、18条で構成される改正案の全容が固まった。政府は4月下旬にも法案を提出、今国会での成立を目指す」ということ。

中央教育審議会が2003年3月、同法の抜本的な「改正」(教育学者によっては「全面改正」であるとの見解もある。)を答申して、はや、3年余。上記の与党検討会の「合意」は、すぐに「教育基本法改正に関する協議会」開催、最終的与党案の確定、そして、自民、公明両党内の了承手続きを経て、国会への「改正」法案上程が具体化していく段取りです。

教育基本法は、1947年制定以来、59年目。それを「時代に合わない」からと変えるよりも、その精神に沿った教育を我が国社会に創造していく。この精神がいまほど大事なときはないのです。


米軍再編「最終合意」プランをどうみるか
             

報道によれば、1日、日米両政府は、日本の米軍の基地および部隊の再編について最終合意をしたと言います。詳細は各紙報道にゆずります。

しかし、日米地位協定にもとづき、国内の基地移転・部隊移動のすべては原則として日本側の財政支援を前提としたものです。

次に、米軍基地の縮小化のように見えます。また基地周辺の住民の騒音等の負担に配慮したように見えます。しかし、自衛隊基地での離着陸訓練、米軍基地への一部民間利用許可など、米軍は従来よりも、既設の自衛隊基地と一体化して軍事訓練をおこなうことになります。

これでは、基地周辺住民の悲願である、基地の撤去、基地からの経済的自立への道はなお遠い、と言わざるを得ません。

結局は、米政府の、日米軍事同盟の強化、日本を極東・アジアのあらたな軍事拠点としてアメリカの世界戦略の重要な一翼を担わせるという路線の促進に、巧みに組み込まれ、しかも財政支援まで強いられる仕組みです。

担当大臣たちは、いったい何を交渉し、何を主張してきたのでしょうか。自主自立の文化国家として、自信を持って交渉できたのでしょうか。

米軍に日本の安全を保護してもらう以上、応分の負担、米軍の方針の受け入れはやむを得ない。政府はそのようなトーンのようです。しかし、米軍部隊のグアム移転費用、国内の移動後の基地維持の原則日本側負担など、あまりにも従属した関係は、非常に問題です。それらが、結局は、国内の格差拡大や、教育・福祉・医療等の社会保障の補助から国がどんどん撤退していく(「自己責任」の名の下に)ことにつながっているわけです。
 


《弱者フォロー》

いま、全国高校野球の最中。13日の京都外大西(京都)と関西(岡山)とのゲームはすごかったですね。ある原稿執筆のため資料を読みながら途中からラジオで聞いていましたが、10対4の6点差京都が追いつき、ついには12対10で勝ったのです。ゲームセットの後、関西の投手は泣き崩れていたようですが。2年生ですからまた来年があるでしょう。

『朝日新聞』14日付で、精神科医の香山リカさんが、このゲームを見てのコメントを寄せています。彼女はかつては高校野球はナショナリズム的でいやだったし、「負けても『よく健闘した』とか必ずフォローが入るところも偽善に思えた」。ところが、今回のゲームを見て、いま勝ち組・負け組がはっきりして負け組には容赦ないとき、関西の投手が「かわいそう」に見えたし、「負けたチームにもよく頑張った」と言いたい、と述べています。

わたしも、中学時代にふるさとの広島の田舎の学校で野球部に入ってやっていた経験があります。高校でも大学でもスポーツをしました。その経験から言うと、「ドンマイ(Don't Mind)」という声掛けがスポーツ集団の文化としてあって(少なくともわたしたちの頃は)、それ自体が「弱者フォロー」のそれなりの関係性を表していたわけです。

いまは、レギュラーに早くなって表舞台で活躍することを競うようになり、部内にもそのような仲間関係が育ちにくい。高知の明徳義塾の「事件」もそれを象徴しています。スポーツ集団のなかにあったはずの「弱者フォロー」の文化を失わせてきたもの、それをもっと問うべきだと思います。


《組織と権力と個人》

いま、自民党は「郵政民営化」に対する賛否の態度をめぐって、分裂状態になっています。組織のあり方を考える上で、非常に興味深い現実のテキストです。

小泉氏は、自己の信念であるその民営化こそ、公務員の大量削減、30兆と言われる資金の市場への流通開放、市場原理による社会秩序づくり、などの点で最大の効果のある政策だと思っている。これをつぶしにかかった議員(同じ党のメンバー)に対して、今度の総選挙では、わざわざ閣僚のひとをその反対者の立候補する選挙区に候補者として異動させて充ててまで、こんどの衆院選を決着の場にしようとしている。これは権力者の行動の典型のようなものです。

さらに、同氏は、いまこそ「自民党をぶっ壊す」チャンスと見ている。すなわち、民営化反対の議員たちの裏には中曽根・野中といった「実力者」の影響がある。さらにそれはかつての田中角栄路線とも言える。「民営化」反対派の排除の形を取りながら、自民党政治の底流にある、権力者・派閥・上下組織・結束・親分子分的関係という、ふるい組織原理をも壊そうとしている。成功するかどうかはともかく、自民党でさえもそのような改革が内側から現れてこざるを得ないほどに、矛盾が深刻になっているわけです。

選挙の予想はわかりませんが、これをもって自民党政治の、いや日本の政治組織の古い原理の、終焉がいよいよ本格的に始まると言えます。その立役者となる人物もまた、自分の党総裁としての権力をつかいながら、反対派を排除していくほかない。討議でも説得でもない。ここに、近代政党であるはずなのに、古い体質をひきずっている姿があるし、小泉氏もまた、政党人としての近代性を掲げながらも、みずから、保守伝統の「権力采配」「反対者徹底排除」にのめり込んでいく矛盾があります。これは組織の宿命かもしれませんが、彼が、上記のように二重の改革をやろうとしている戦略はしばらく注目しておきたいと思います。(05.8)




                         


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