いじめについて語る

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【改編のお知らせ】これまで「いじめについて語る会」と名付けてこのページを運営してきましたが、いままたいじめが社会問題となっているとき、「会」を取って、「いじめについて語る」としていろいろの発信を考えていきます。(2006年10月28日)
「いじめ・自殺」問題の講演

12/15,午後、北星学園大学のB館において、同大学教職部門主催でおこなわれた、特別活動研究の最終講義と公開講座の合同講演会で話してきました。この企画の担当は鈴木剛教授で、主催の部門長は、古谷准教授。

300名規模の大講義室で、ほぼ半分のひとが集まっていました。市民の方もかなりおられました。

パワーポイントで映した26枚のコマの資料を配付し、約80分、話しました。学年は二年生でしたが、みなさん、熱心にきいてくれました。

終了後、同じ日に非常勤講師で来ていた谷光さん(元小学校教師、全生研会員)と、わたしの講演をきいてくださった竹田さん、橋本さん(いずれも全生研会員)、それに北海道子どもセンターの土井さん、坂井さんたちと約一時間、最近の学校の状況についておしゃべりをしました。

札幌に着いた14日に、現地ではそれまで晴れていたのが急にしぐれ雪になり、15日は、朝から降り積もり、路面はかなり固まった雪になりました。(※ このところ、なぜか私が行く旅先で天候が変わることが続くのです。札幌の皆さん、モウシワケナイ。)

地下鉄南北線の「大通り」で乗り換え、東西線の大谷地で降りて、雪道を約5分くらいで北星学園大に着きました。この地に約10年前に移転したといわれるキャンパスの光景は、広くはない敷地に研究棟・講義棟・生協、そしてチャペルが調和よく静かに建っている感じで、落ち着いて見えました。

鈴木氏によると、教員採用時の条件が、キリスト教の精神と布教に対してはこれを理解する、ということになっており、教授会の始まりの時には必ず、クリスチャンの教授の指揮でお祈りがあり、全員が「アーメン」と言って会議に入っていくとのこと。ただ、教員に占める信者の割合はかなり少ないのだそうです。



いじめ・自殺問題の緊急学習会

1月13日土曜日、午後1時30分から、名古屋市教育館で、「緊急 いじめ・自殺をどう防ぐか」を考える講演&討論会がありました。主催は、愛知県教職員労働組合協議会。

折出が約1時間、ほぼ下欄と同じ内容で講演をしました。参加者からの質問、発言は教員が主でしたが、瀬戸市民のかたをはじめ、保護者・市民の方も発言をされまして、いい交流ができました。

願わくば、もっと教員の方々は子どもとの関係性での「硬さ」を破ってみてはどうでしょう。けっこうマジメ派で堅いわたしからみても(笑い)、いじめ・いじめられ関係を見る見方が硬いと感じました。ご発言を通じて。

子どもたちと共に「いじめ」現象のうらにあるものを読み解きながら、そこから新たな学びを創り出してみようという柔軟さが無いといじめ問題は解決していかないと思います。

【補足】

いじめ・いじめられ問題は、「いじめる子・いじめられる子」のそれぞれの特性をあれこれ詮索することではなく、その子どもたちを攻撃し・される関係に追い込む教室や学校の競争状況、管理の実態、家庭の抑圧的な状況などを洗い出し、そのなかで「言いたいことが言えない」「自分を出せない」と苦しむ子どもらの内面を外に、他者に、開いていくことがどうしても必要だといえます。

わたしが「硬い」というのは、そういう「開き方」を子どもと一緒にさぐる視点をもたずに、教師がなんとかしなくては、教師がその子の「こころ」に分け入らなくては、という発想のことを指します。

それは、教師の考える「許されない行為」へと子どもを誘導し、また被害感情を教師の権威によって封印させることになって、いじめ・いじめられ関係の本質問題は、内側へ、集団の地下へ、と潜っていくのではないでしょうか。

子どもたちにどう自立を学ばせるか、の視点が要ると思います。(15日)


いじめ問題の関心の高さ

12月16日、北海道子どもセンター主催の「学校におけるいじめ自殺を考える」集会が開かれました。札幌市民会館の会場は、時間と共に四列の席がほぼ全部埋まるほどの参加者でいっぱいになりました。

わたしの発題的な話の要旨は次の通りです。

北海道子どもセンター主催                      2006.12.16. 
学校におけるいじめ自殺問題を考える
〜愛知県西尾市の事件以降の事例から見えてくること〜
                                折出 健二
                              (愛知教育大学)
 はじめに
 
 いじめのとらえ方の再検討
 
 (1)「弱いものいじめ」「集団いじめ」観の枠でよいか
 
 (2)一過性・短期間でおきる心的外傷行為(相手へのショック体験、居場所剥奪)
 
 (3)関係性を“武器”とする攻撃
 
 いじめの構図と心的外傷
 
  (1)悪ふざけやからかいを装いながら、関係性を利用して相手(単数又は複数)を孤立させ、無力化に追い込む。
 
  (2)いじめは、子どもの尊厳を侵すシェイム・ベイスメント・バイオレンス(shame basement violence)だということ。 shame=羞恥、恥辱、誇りを奪われること
   ※被害者の自殺念慮を強化する構図。
 
  (3)いじめの外傷体験のエスカレート
 
  孤立化 → 無力化 → 降伏 → 透明化   (中井久夫説)
   ※このプロセスこそ、上記(2)の特質の暴力性、内的なものの破壊性を示す。
 
 いじめと自殺
 
 (1)「いじめ死」ではないか
 
 (2)自傷行為と自殺〜被虐待児のみせる変容に学ぶ〜
 児童虐待の臨床研究に依れば、次のような特徴が見られる。
@被虐待児は、身体症状を示し、A感情の制御の効かない、「居ても立っても居られないイライラ状態」(ディスフォリア)に至り、B混乱・苛立ち・空虚感・孤立感の入混じった「何が何だかわからない」自己喪失状態に至るとされる。 ※いじめ被害児の異変
Cさらに、「心の苦痛」を「身体の苦痛」に置き換える自傷行為を試みる。これは、虐待による自律神経系の異常な興奮状態を通じて自己の感情の大幅な起伏を学習し、苛立ちなどの感情制御手段として自己の身体を傷つける行為である。
Dそれは自殺念慮に見えるが、そうではなく、自己保存行為だとされる。
Eしかし、それはまだ「生き延びるための」行為である。苦痛を隠しながら、自傷を重ねてでも生きようとする。
Fそれが絶望にいたるとき、自殺(自死)に至る。自殺は、自分を取り巻く暴力と対等な立場で何かを持ち込もうとして決行される。 ※「いじめ死」の子どもの遺書には、その苦悩・葛藤と痕跡が見られる。いじめた生徒の名を記するのもその一環だといえる。
 (以上は、J.L.ハーマン、中井久夫訳『心的外傷と回復』みすず書房、による。)
 
 最近のいじめ問題〜特に「サイバーいじめ」について
 
 (1)いじめの形態 (カナダでのいじめ予防論議から)
 
    身体的いじめ          physical bullying
 
    言葉によるいじめ        verbal bullying
 
    交友関係いじめ         social/relational bullying
 
    サイバーいじめ         cyber bullying
 
  (2)「ネットいじめ」と「サイバーいじめ」
 
  (3)どう防ぐか(カナダの高校生たちに聴く:@〜C)
    @ Stop,Block and Tell が大事。 
 
    A 他のいじめ方より攻撃性が強い。
 
    B 最もひどいが避けるのもやりやすい。
 
    C 「なりすましメール」の攻撃は、「アイデンティティ泥棒」
 
    D インターネット社会におけるサイバー空間の怖さとモラルの教育
      ※「情報活用能力=市場適応への対応」に傾斜してきた問題点
 
 いじめ問題への対応
 
  (1)なぜ、いじめ発覚後の対応でこれほど行政や学校は揺れるのか
 
  (2)統計のための操作的な定義(定量的な定義)と、子どもが苦悩を訴える問題の質をつかむ(定性的な)把握とは区別すべき。
 
  (3)いじめは、差別と競争環境のもとではどこでも起こりうるがゆえに、子どもたちと個の尊厳・関係性を学び合う重要な教育課題。「いじめ=汚点」ではない。
 
 予防と対応のために
 
 A.子どもの抱える課題に即して
 (1)当人が「ヘルプ」を出せる場づくり。
 
 (2)いじめに苦しむ仲間を守ることは自分の権利を守ること。 
 
 (3) いじめのやり方は、いじめる側の屈折した欲求と自己の不安・孤立を映し出す。
    → いじめる側の子どもへのケアと指導を
 
 (4) 子どもたち一人ひとりの尊厳と尊重の学習を:学び直し・脱学習。
 
 B.学校・教職員と保護者の協力
 (5) 当人または保護者等から「訴え」または「相談」があった時、教職員のチームで対応する(管理職者も含めて)。
 
 (6) 保護者会で、いじめ問題に関する認識を共有していく。→ 子ども理解として
 
 (7) いじめられた側の保護者といじめた側の保護者との相互作用を重視し、敵対ではなく、謝罪と和解へ。
   
 C.教育行政による条件整備
 (8) スクールカウンセリングと、スクールソーシャルワークとの連携づくり。
 
 (9) いじめの実践的臨床的な取組みを工夫している学校への支援。
 
  (10) 対応マニュアルを見直し、構成し直す。
  ・いじめにあう子どもをエンパワーする(権利行使を促す)視点から
  ・苦しむ子どもへの共感  ・まずは見守ることが最大の支援  ・対話型
  ・ワークショップに生かせる構成
 
 ※最近のゼロ・トレランス(寛容度ゼロ)方式の対処論、いじめ=犯罪ゆえに警察と法 の手段に訴えるべき、などをめぐっては会場の方とも意見交換をしたい。

《付記》 集会後、滝川市のいじめ自殺のご遺族の方や支援者を交えてすこし意見交換をしました。

わたしにとっては大変成果のある機会となりました。単著や今後の講演の中に生かしていきたいと思います。


「うつくしい国のために」というレトリック:いじめ対処提言

11月29日、教育再生会議が、いじめ問題に対する緊急提言を発表したと報じられています。すでに報道でご覧のことと思います。

緊急提言はいじめた生徒への「毅然とした対応」をあげ、これは「出席停止」を念頭に置き、例として「社会奉仕、個別指導、別教室での授業」などを指すとしています。また、いじめを放置したり助長または加担した教員には懲戒処分を加えることも述べています。(『毎日新聞』11/29夕刊)

まず、これらをふくむ8項目にわたる提言を「美しい国」のために行う、としている点。いじめ・いじめられ関係にいる子どもたちを救い出し、一人ひとりが市民として自立していくために、といった「子どものために」ではなく、「いじめのような汚点となることのない、美しい日本という国のために」というコンセプトがここでも持ち出されています。

これは明らかに、いま審議中の教育基本法「改正」の先取りです。もし「改正」されれば、このように何かにつけて「美しい国のために」が持ち出され、その国家規範に異議が出せなくなるような風土がつくられます。これを全体主義といわずしてなんと呼ぶのでしょう。

次に、およそ十年前にも当時のいじめ対策会議の緊急提言で言われた「出席停止」について、今回の提言でもかなり注目されたが見送られた点。
会議後、義家弘介・同会議担当室長は「出席停止という文言は提言に含まれていないが、別教室での授業も出席停止と同じだ。(指導、懲戒の)基準を国が明確にし、学校現場を応援していかないといけない」と説明したようです(同前『毎日』)。

背景には、いじめを加害・被害に分け、加害者には厳しく対処するという、最近文科省が進めようとするゼロ・トレランス(寛容度ゼロ)の発想があります。しかし、それはかつての「集団いじめ」への対処発想であって、いま起きているいじめ問題を見ていません。

最近のいじめは、「ネットいじめ」も含めて、ある種の「自分隠し」によって様々な手段を使いながら特定のひとを攻撃する迫害型のいじめが目立っています。それだけストレスと将来不安、そして自分自身がつよく拘束されているという被圧迫感が働いているとわたしは見ます。ですから、いじめる生徒は次々と現われてくるのです。それをその都度、別室指導をするのでしょうか。

「出席停止」見送りは妥当でしょうが、上記義家発言は、それでも暗にその抑止力をこの提言でも重視するのだと言おうとしています。いじめている生徒を指導する必要性自体はその通りですが、かれらの本来の欲求とは何であり、「何を」「何のために」指導するかこそが、いま問われています。

三つめに、いじめを解決した学校がいい学校だ、という評価を社会に広げることをあげている点。結局は、学校間競争を手段として、「美しい国のために」教師もまたいじめ解決に乗り出せ、と言っているのと同じです。これでは教師たちが本気で動くわけがありません。

いじめ問題は、子どもの人格的自立にとって総合的で不可欠の、関係性を学び合うテーマであること、そしてこの指導を通して子ども同士の関係性を広げ発達させることが学校の開放性や個性化につながること、さらに教師自身がその指導力を学び直していくことで専門性をより高め合えること。こうした教育実践論に立った提言こそ、いま教師の心を打つのではないでしょうか。(11月30日)


ドイツの18歳犯行少年のメッセージ:神戸事件との類似性も

ドイツの小都市のRealSchule(注記:ドイツでは小学校4 年生になると,ギムナジウム(中学校)にいくか,リアルシューレ=実科学校に行く)で、以前この学校にいた18歳の少年が武器を持って押し入り、何人かを撃って、最後に自殺するという事件が起きました。
〈注記:報道より〉 現地時間で11月20日午前9時半(日本時間午後5時半)ごろ、ドイツ北西部エムスデッテンの実業学校にマスクをしたこの少年が押し入り、銃を乱射。複数の煙幕弾にも点火。彼は銃で自殺した。学校関係者と生徒4人が銃で重軽傷を負ったほか、生徒ら22人がガスを吸ったとのこと。(『毎日新聞』11/21付電子速報版より。)

その彼が犯行直前にホームページに載せたメッセージが現地の新聞に掲載されたようです。それは、神戸事件の「サカキバラセイト」の「声明」とも通じるほどに、不透明な自己への不信とその自己を自己として受け入れようとしない(と映る)社会への憎しみにあふれています。

しかも、このメッセージには、教育によってか、あるいは友人関係の対立やいじめによってか、なんらかの心的外傷にさいなまれ続けてきたひとりの若者の姿が浮かび上がります。

仮訳は、いま在外研究でドイツにいる池谷寿夫さん(日本福祉大学)のもの。了解を得ました。以下、抜粋引用です。

「人は、自分の人生の中でもはや幸福にならないと知れば、そして日々その理由がたまれば、この人生から消えることしか残っていない。そして、僕はそうすることにした。……僕が徹底的に学校で教え込まれてきた唯一のことは、僕が敗者だということだった。

(中略)僕はわかった、世界も彼らも僕には存在していないように見えるし、彼らは主にメディアによって作られた幻想だということに。……金の世界がすべてを支配しているし、学校でさえそれしか問題なっていなかなった。……僕は人間どもを憎悪する……どんな奴にも僕から僕の武器を奪う権利はない。……いや、僕にとっては今なお自分の人生に一つの意味を与える可能性がある、そしてその可能性を他のみんなのようにその前に無駄にしない!……おまえらがこの戦闘を始めたのだ、僕じゃない。僕の行動はおまえらの世界の結果だ。僕があるがままにあることをさせておかないような世界だ。

(中略)僕は僕の人生ずっと他人にとっては愚かなものだということに気づいた、そして僕は笑いものにされた。 そこで僕は復讐を誓った!この復讐は、お前らの血は凍るほど、ひじょうに残忍で情け容赦ないものだ。……僕の顔をお前らの頭に焼き付けよう!僕はもう逃げない!僕は、僕の一部を排除されたものたちの革命にささげよう!僕は復讐してやる!……みんなに武器を与えよ、そうすれば人間たちの間の問題は、第3者の介入なしに解決されるだろう。……6歳のときから僕はお前らみんなから馬鹿にされてきた!僕は、ファッショ警察が僕のビデオ、学校のノート、日記、ともかく全部を公表しようとしないと分かっているから、それを自分の手でそうした。最後に、僕に何か分からせようとした人や、かつて僕にいいことをしてくれた人に感謝したい、そしてこのことすべてを許してください!僕はいなくなる。」

【お願い】これは転用をご遠慮ください。訳者の了解が要ります。(23日)


いじめと暴力に関するカナダ調査に

12月の前半、カナダのヨーク大学「ラマルシュ・センター」を中心に調査に行ってきます。科学研究費研究(代表;佐藤和夫千葉大学教授。交付期間3年)のグループ調査活動です。メンバーは、池谷・片岡・山田・折出の四名。

いま予定しているのは、次のような方たちとの交流とディスカッションです。

まず、センター長のJennifer Connollyさんから Research & LaMarsh overviewを聴きます。
  次に、センターの教授陣の内、Dr. Yvonne Bohr, Psychologyや、Dr. Trevor Hart, Psychology、Dr. Alison Macpherson, Kinesiology & Health Science、Prof. Greg Malszecki の各教授から具体的にカナダにおける思春期の暴力の問題を話していただき、こちらのメンバーとの意見交換をします。
さらに、あるPublic Schoolを訪ね、校長の Patti Andrews さんからいじめ防止のプログラムなど実践的な取組みを聴きます。
また、滞在日程の締めくくりとして、北米で「いじめ問題」では必ず名前の出るヨーク大学の社会心理学者 Prof. Debra Pepler さんから、いじめに関する最近のオンタリオ州での大規模調査の結果や男女比などをお聴きし、対策や研究課題を話し合います。

わたしも折に触れて、いまの日本のいじめ自殺の現状、そこから浮かび上がる課題について話してこようと思います。


文部科学大臣のメッセージ(続き)

教育科学系のある演習の授業で、(いじめが原因ではないが)「自殺予告」をした中学女子の手紙を受け取った担任教師の実践報告をリポーターが取り上げて、問題提起をしました。その論点は「『死ぬな』の呼びかけは、無力か?」。

リポーターも、今進行している事態を意識してこの実践事例を取り上げたようです。授業の詳細はここでは省きます。ただ、意見交換の途中で、その学生も下記の大臣メッセージに触れて、この「よびかけ」を見てもやはり無力に感じる、何か形式的な気がする、と言っていました。


文部科学大臣のメッセージ

昨日(17日)付で、標記の文書が同ホームページにUPされました。URLアドレスは下記の通り。
http://www.mext.go.jp/a_menu/shotou/seitoshidou/06110713.htm

1994年の「大河内君事件」後の文部大臣メッセージと比べるとだいぶんよくなっていますが、いくつか気になる点があります。

まず、子ども向けのものには、いじめる側には「恥」「ひきょう」、いじめられている子には「恥ずかしがるな」「苦しまず、勇気を」という呼びかけのトーンの問題です。

やはり、「日本の伝統文化」的で古めかしいのです。これでは武士道的な徳の意識涵養ともとられかねません。いじめは、相手の存在をこわす、人権の否定に等しい行為だ、またいじめに対してヘルプを出すのは君の「権利」だ、という新たな感覚での呼びかけが求められているのではないでしょうか。

おとな宛のものは、(1)この間報道されているだけでも福岡県の事件以降8名ちかくの子どもが自死したことへの痛恨の念というのがにじみ出ていない。(2)家庭教育の第一責任を強調している。(3)教育行政の責任への反省のひとことがない。

やはり構図的には、大臣が、子どもと現場に向かって、あなたがたがしっかりしていじめ自殺を食い止めてくれ、と言っているのです。

それは立場上当然じゃないか、とおっしゃる向きもあるでしょうが、この構図こそ、いじめの発覚を遅らせ、いじめをいじめと認定する目を曇らせ、責任をあちこちになすりつけようとしてきた根本原因なのではなかったでしょうか。そこの根本の改革を示す、そういうメッセージになってこそ、一番苦しむ子どもたちは自分たちの「声」が政治に届いたのだと感じるでしょう。(18日)


なぜ、子どもの「自殺」が続くのか(修正版)

今年の秋になって、福岡県筑前町、岐阜県瑞浪市、大阪府富田林市、長崎県、埼玉県、そして新潟県と報道されているだけでもこれほどの地域で、主に中学生の自殺が続いています。

《今起きているいじめの特徴》

その殆どが、何らかの形でいじめによって追い込まれたからではないかと推測させるような背景があります。ただし、それぞれ学校関係者を含めていま詳細を検証しているところですが、被害者側(保護者)の訴えや周りの子どもたちの声などから、いじめが絡んでいる可能性が高い。

しかも、公表された「自殺」の内、男子が多数を占めます。思春期の男性に寄せられる「強くあれ」「自己主張せよ」「力を持て」などの、競争的自立の「強者」イメージが、作用しています。たとえば囲い込み型でからかわれたり、ズボンを脱がされたり、あるいは金銭を脅し取られたりしたときに、非常な「みじめな」自己イメージに突き落とされます。

「『かっこいい』自分でありたい」という思いと、「『まったくみじめな』自分になりさがった(力に屈してそうさせられた)」という、少年としては受け入れがたい現実とのギャップの激しさは、わたしたちが普通に考える以上に大きいはずです。

それだけ、少子化、異年齢集団での遊び体験の喪失、仲間集団での精神的なぶつかり合いの希薄さがあり、外的な抑圧に傷つきやすくなっているからです。

それから、わたしもまだ十分に分析できていませんが、このページの下段にもあげている「ネット」によるいじめも、最近の傾向です。

大学院研究生のK君という若い人に、今はやりの「ミクシィ」について彼の会員ページを見せてもらって具体的に話を聴きましたが、これはこれでサイバー空間に立ち上がっているコミュニティです。それがある話題をめぐって有効に機能している間はいいのですが、もしそれが特定個人に向けて攻撃勢力として機能すれば、まさに「バジングbuzzing現象」(下欄参照)で、その個人は孤立させられ、相手が匿名性(注記:ネット上の偽名は使うが正体は明かさない場合が多い。)ゆえの不可視的な力となっておそうゆえに恐怖に突き落とされると共に、そういう「みじめな」自分の姿をネット上にさらけだしたと痛感します。「なぜだ」と自分を責めます。

ネット上でのメールあるいは動画などのツールによる攻撃によって、受ける側は心的外傷を被る。こういういじめの局面もインターネット社会の今、しっかりと見ておくべきでしょう。

それにしても、なぜ自殺が続くのでしょうか。

《いじめ自殺の論理》

まず、子ども社会の中でいじめが潜行しているということ。これは、私見では、市場原理的な競争関係を学校社会に持ち込んできた90年代後半以降の孤立化・ストレス・排他的関係などが具体的に子どもたちの間に浸透している事に依ります。「自己責任」観念が、思春期の子どもにはある種の暴力性、つまり破壊の作用を持って働いているともいえます。

次に、その意味で、子どもたちが、おとなが思う以上に孤立していることです。TVの朝のワイドショー番組でゲストたちが「ひとりぼっちじゃないから。死なないで」と、中には涙声になって訴えています。それは、その通りですが、そうした声もむなしく響くほどに(もしそれを聴いていても)、まわりは、つながれない他者ばかりの世界、よびかけてもこだまの帰らない谷底にいるような感じがあるのではないでしょうか。

さらに、いじめのSOSを当人は発信しているのに受け止めてもらえない絶望感、建前で振る舞う学校への不信感、自分が無力化すればするほど存在価値が薄く見えること、そして生まれてきたこの社会そのものとの断絶感などが複合して、自殺論で言う「トンネル現象」、つまり「あの出口」さえ抜ければ楽になれるという心理から自殺念慮がつのります。
これを追い払うように、自殺の当日はいつもどおり平気で過ごしてみるが、その自己を抑圧した時間の負荷が、みんなから離れたある瞬間に決行する引き金となってしまうように、わたしは感じます。

この私見は、かつて愛知県西尾市の大河内君事件のあと、いじめの経過、そしてなぜ自死を選んだかについてずいぶんと各種の書物を読んで考えたことが基になっています。自死した彼の心理を遺書などから追う内に、それは「追い込まれたなかでの実存的な死」であることがわかり、その少年の縊死した姿が夜、イメージとして出てきて、わたしがとても苦しんだことを覚えています。これは今から思えば、相談関係でも起こる、転移現象であったのでしょう。

《いじめ自殺の背景〜新自由主義の破壊力》

さて、いじめ自殺の背景には、少子化、異年齢集団の崩壊、そして対話を含むコミュニケーション力の弱体化、があります。

現代のおとな社会が、業績競争と自己の現状維持で精一杯で同じ職場の他のスタッフの心情などいちいち配慮などしておれない関係になっています。これと基本的には同じ状況に子どもたちもなっているということです。新自由主義の人間関係破壊力とでもいいましょうか、それがこのように作用している。

そのために慢性的な不機嫌状態、いらいら状態が全国のどの子どもにも発生しやすくなっている。それが一方では、小動物に向いたり、弱い子に向いたりする。あるいは、抜毛や摂食障害のような自傷性のある行為になりやすい。
学級などの集団生活が日常化している世界では、相手が弱いかどうかより、なにか異質にうつる存在の者を標的にして、少しは優位に立っている者が攻撃をしていく。この意味では、いじめはどこでも発生するものと見なくてはならないといえます。

いじめる側の方も、実は、上述の慢性的不機嫌状態の自傷行為の裏返しの他傷行為として相手を攻撃しているので、相手の苦痛をおもいはかるなどまずしない。いや、意図しない相手の攻撃、気分的な他傷行為こそ、いま子どもたちの間に起こりやすいいじめの特質なのではないでしょうか。その意味では、かつての「弱いものいじめ」「集団いじめ」とは異なる、自傷的ないじめ(他傷行為)という特質があるのかもしれません。

《何が問われているか》

読み解くべきはいじめる側の論理です。携帯メール等のいじめ方も、上記の延長であって、手っ取り早くそのときの気分ですぐに実行してしまう、そのツールの特性ゆえに起きているといえます。ここに新自由主義の、なんでも自己の欲求のつかの間の満足に使い、それを使い捨てていく論理が入り込んでいるのではないでしょうか。いじめ行為をそのまま使い捨てながら次々と「気分を晴らす行為」をさぐっていく。そのある種の緊張関係にかろうじて自己の確かさを見いだすのです。

それは一見「ゲーム的」に我々にはみえるが、実はそうではない。いじめている子どもらが、それほどまでに浮遊する存在になっていること、つながりがないこと、何かの活動世界や目標と自己との関係やそうした社会性から断ち切られていること、ここに最大のテーマがあるのではないでしょうか。

もしそう言えるのならば、いじめ自殺の当人は、いじめる側の抱える問題までも背負って自死を選んだといえます。そこに現代を生きる子どもたち(とくに思春期)の深刻な生きづらさ・つらさがあるのではないでしょうか。(16日修正/初出13日)


北九州市で小5に10数万円の「たかり」

NHKラジオニュース(12日朝)によると、北九州市で、小5の子ども二人に、合計10数万円におよぶ「たかり」があったにもかかわらず、その学校は市教委にはいじめゼロで報告していました。

被害児童の親がNHKの取材に応じて言うには、学校側にいじめの事実関係の調査を依頼し続けたが、学校側は「金銭の弁償を優先させたい」として、いじめとしての対処はしなかったと。他方、学校側は「他の児童への配慮からであって、いじめ隠しではない」と言っているようです。

このところ、相次いで報道される事例には、「広いいじめ・狭いいじめ」とか、「いじめ」と(いじめとは異なる?)「たかり」あるいは「金銭トラブル」とか、学校側の応答が非常に揺れています。

その原因は、(1)「いじめとは何か」が確かに規定しがたく複合的であること、そして(2)文科省の統計調査のための操作的定義が行政の公式見解のように現場で受け止められ、なおかつこれに縛られていること、さらに(3)いじめ発生は学校側の「汚点」のように見てしまう組織的な体質の問題があること、にあります。

カナダの教育現場の取組みのように、いじめを、暴力と対立葛藤の問題としてとらえその克服そのものを重要な教育プログラムにしていく必要があるのではないでしょうか。

【追記】北九州市の上記の当該小学校校長が、12日、自殺で発見されたと報じられました(NHK、19時台TVニュース)。今回の事件が背景にあるようです。なぜこのような対応になったかを解明することで教育者として生き抜いていただきたかったと悔やまれます。故人のご冥福をお祈りします。


相次ぐ「自殺予告」

既報の通り、最初の、中学生が書き手とみられる「自殺予告」につづいて、別のものとみられる同種の手紙が文科省に届いてます。11/11朝の時点で計7件になるようです(NHKラジオ、11日朝のニュース)。

二件目の高校女子を名乗るひとの「手紙」の出だしは、上記の男子の「予告」手紙の報道に接して「勇気づけられた」としています(10日、昼の民放番組)。自分が受けているいじめに抵抗できない、でも抗議したい。学校も本気で介入してくれない。そういうとき、その「予告」文がまさに後押しする力となったのでしょう。

いじめは、力の非対称関係のもとでこの関係性を乱用しておこる攻撃です。被害者は、相手(複数または集団)への対抗的なちからを得ようとします。つまり、自分をエンパワー(empower)する何かを。

それが友人・親や教師の言葉あるいは行動での支えであれば何とか初期を乗り切り、その関係も消えていくのですが、それがないと、どんどん無力化され、精神的な隷属、つまり「降伏」状態に突き落とされます。(注記:この構図は養育者による子どもへの虐待と同じです。)

初回の、その子どもの「予告」も、ついに文科省という行政機関(注記:子どもから見ても、ある大きな権力の存在と映る)にまで訴えて出ること、また事態が変わらなければ自殺すると、自分のいのちを突きつけることで、かろうじてそのエンパワーメントを要求しているのです。「予告」文や同種の「手紙」を書いたのも、一人ひとりのおかれているそういう無力化の現実があるからなのでしょう。

ここに届くメッセージでないと、たとえ「ヤンキー先生」が命の尊さを説き「死ぬな」と画面で言っても、それは、力のある者からの見下ろした言い方にしか聞こえないのではないでしょうか。

ではどうすればいいのか。自身もいじめられ体験がありその苦痛を乗り切ってきた方の発信が、こういうときは「力」になると思います。


人権侵害がここまで

『毎日新聞』06.11.9の夕刊によると、昨年10月に札幌の高校で集団によるいじめがあり、その後学校の対応で、その加害者たちのうちの一人は自主退学、また別の生徒も転校して、このいじめは治まったと学校が認識していた。
ところが、ネット上に、被害者(高1男子)がいじめられている場面(蹴られたり追いかけられたりしている)が動画で流れているという。

加害の生徒がいじめの現場をカメラ付き携帯電話で撮影して流したようです。学校としてはそこまではつかめていませんでした。

記事によると、「2ちゃんねる」で話題になり、学校に抗議が殺到し、サイト管理者に学校が閉鎖を申し入れるらしい。

いじめ行為自体が、人権侵害ですが、これでは二重のそれが起こっています。被害場面を動画で撮影して、そうしたマニアックなサイトで流す。
学校に抗議が行くのもわからないではないですが、そのサイト管理者にこそ抗議をして止めさせるべきではないですか。何もかも学校のせいにして責めたり事の始末を任せるのは、いかに社会が孤立化で崩れているとはいえ、度が過ぎると思います。(*注記)

しかし、それだけ、人間関係の事件化では頼れる「公」が他にはない、と住民が感じているということでしょう。学校の役割が変化させられてきています。

それにしても、下記の記事と合わせると、「ネットいじめ」が、なぜか北海道の事例で話題に出てきます。偶然なのでしょう。教研集会での報告では、新潟の高校教師が、ネットによる攻撃や排斥の例を話していましたから、北海道だけで起きているわけではない。が、事件化あるいは話題性として、北海道がたまたま連続して出てくるようです。

サイトの閉鎖と共に、加害生徒が持っている携帯にその元の動画がある場合には、これを第三者立ち会いで削除させることも必要です。(11/9)

*注記:その学校が、管理主義的な生徒指導をおこない子どもたちを抑圧している場合には、その批判もふくめて学校への抗議が殺到することはあります。


「150点の対応」??

『朝日新聞』11/7付夕刊によると、尾木直樹さんは、「『生きて』とメッセージを発した文科省の会見は、150点の対応だった」と評価しているようです。

下記のわたしの見方とはだいぶん違います。要は、文科省は、いじめ問題・未履修問題などで教育委員会・教育行政の対応への批判が全国的に巻き起こっているとき、深夜の記者会見をして即応性を示す必要もあったのではないでしょうか。

わたしは、まったく尾木氏と張り合うつもりはありませんが、本来、こうした訴えが直接に寄せられれば緊急記者会見を開いて、その少年の決意を思いとどまらせる発信をするのは当然の行為であって、ことさらにそれ自体をほめる必要はない、という考えです。それをせずして、何のための文部行政なのかと、むしろ言いたい気持ちです。

手紙の主が「中学2年程度の男子」という点は、ほぼわたしと同じです。

【付記】消印に「豊」の字があって、関係する自治体の教育委員会が該当する事例がなかったか至急に報告を指示しているようですが、 N市教育委員会も一斉に各学校に指示をして、該当事例の有無を報告させたとのことです。

こうしておけば、何か起きてもやるべきことはやっておいた、となります。

自殺予告の手紙

既報の通り、7日未明に文科省が記者会見をして男子と見られる子どもからの自殺予告の手紙が来たことを公表しました。

本日朝刊に掲載されたその手紙を見る限りは、中学の1年か2年の男子と予想されます。理由は「キモイ」「クサイ」「僕のズボンをおろす」の言葉などからです。

「なぜ親がいじめのことを言ってもずっとなにもしないのですか」とも書いています。これは彼なりの教育という権力への異議申し立てです。ここまで意見表明をするようになったこと、いやそうせずにはおれないほどに、身近な、学校の教職員が期待できないことを一面では物語っています。

おそらく、この間の一連の福岡・瑞浪などの学校対応に対する憤り、自分が受けているいじめ被害の苦痛などが複合しての怒りのメッセージなのでしょう。しかし、文科省関係者の官僚的な、共感の見られない事務的「『死ぬな』のメッセージ」ではこの子は救われないと思います。(11/7)
(付記)どなたでもいいから、現場の校長が画面に出て、この子への救済の言葉、かならず君の通う学校の先生たちに改善を求めるし力になるよ、という心からの発信をしないと、手紙の主は決行するおそれが大ではないでしょうか。せっぱ詰まっている上に学校への不信があるからこうして手紙を出したのだから。


「ネットいじめ」(NHK朝の番組で)

11/6のNHK「おはよう日本」で、ブログやメールによるいじめの実態をとりあげ、新たないじめとして標記の呼び方をしていました。

北海道子どもセンターの相談員・谷光さん(全生研会員)がこの問題で、最近の傾向をコメントしていました。また、札幌の高校生が被害体験を語りました。

この問題は分析としては未着の面がありますが、まったく異種のいじめかというと必ずしもそうではないようにわたしは見ています。

まず、ブログや携帯メールでのいじめは、匿名を利用しながら特定の生徒に集中し、被害側は、谷さんがコメントしたように、恐怖状態に一挙に突き落とされます。半面、この実態が物語るのは、被害者をなんらかの関係で知るものを中心に、サイバー空間での「ふざけ」グループが形成され、これが加害層をつくっているということです。いじめの文脈としては、心理的ふざけを偽装したいじめの一種と見てよいのではないでしょうか。ツールとしてそういう手段が使われるようになった点に新しさはあります。

次に、この「ネットいじめ」は、すでに90年代の後半に現われたネット上での特定の人物の誹謗中傷という、おとなの世界でのサイバー的犯罪性の行為を映しているということです。しかも手が込んでいて、ある人物になりすまして周りが嫌がる発信を続け、そうしてその人物排除の理由となる「事実」を勝手につくりだすように巧妙になっています。

どう対応するか。やはり、日常の人間関係の拠点となっているクラスや学年集団に実態をつたえ被害者の恐怖感や追い込まれ状態を訴え、心理的ふざけが攻撃そのものとして働いていることを伝えることが必要です。

また、ブログや携帯メールのツール上での攻撃には、すぐに停止するとか受信制限でメールをカットするなどして、まず心理的負荷を必要以上被らない手段も必要です。

さらに間接的には、被害にあったひとの属する集団や周辺に、何らかのストレスを生み出す競争システムや、あるいは特にきびしい学級経営をしている担任の実態はないかなど、匿名メールをおもしろがる風土を再生産する構造的な問題に目を向け、改善を検討していく必要もあります。

インターネットに関する外国文献を読むと、ネットの関係は、ハチが集まってブンブン言うのに似ているbuzzing現象を示すとあります。匿名を利用しながら特定人物を囲み次々と嫌がらせの言葉(メール)を送る。わたしが集団的いじめの変種ではないかと見るのもそのためです。

匿名の発信者たちを追い払うあるいは発見して問い詰めるのは本来無理なので、被害側が、そのツールの性質を逆に使って、停止するか、ブログ廃止も考慮したほうがいいように思います。メール上でやり返したり、過激な言葉で相手を脅すと、それこそハチの襲撃と一緒でさらに攻撃を増してくるからです。そのことで被害側がいっそう心理的に追い詰められるのは、ある時点からは自分が攻撃を誘い込んでいるので、これは解決にならないやり方だと思います。(11月6日)

           


中2女子いじめ自死事件【続報】

下記の校長は10/31の記者会見で、女子へのいじめがあってそれが100%自殺につながったと報道陣に述べ、はじめて今回の事件が「いじめ自殺」であることを認めました。

決め手は、無記名のアンケート(30日実施)でした。事件が発覚した当初、二回のアンケートはいずれも記名式であったし、「いじめ」という言葉さえ抑えていました。これは二重の意味で間違いでした。自殺というショッキングな事態のなかで、記名式で書かせることも原則対応から逸脱ですし、「背景にいじめがなかったか」と探索するアンケートにするには「いじめ」の言葉を使って回答者である生徒の意識を喚起することが対応の原則です。

いずれにせよ、級友の死によって問いかけられた生徒たちの切実な訴えが学校側のいじめ認識を揺さぶり、校長を動かした、といえます。痛ましい結果をとおして、学校教育は子どもたちの発する声や異議申し立てを受け止めつつ、その教育の中身を創造していかねばならないことが裏付けられました。

こうした「学校の迷走」(報道紙のリード)の背景に、文部科学省の「いじめ」定義にこだわった結果ではないかとの考察も見られます。おそらく、文科省はいじめ定義の見直しをするでしょう。いま話題になっている定義も、大河内君事件の後に再定義したものです。しかし、これも統計のための操作上の定義です。

ほんらいは、子どもの自死をくいとめ、また子ども同士が成長への糧とするようないじめのとらえ方が学校には求められています。たとえば次のようにです。

いじめは、生活関係において優位に立つ者がその関係の不釣り合いを力として利用して、相手を心理的にか身体的に攻撃する行為です。それは、初めはからかいやふざけ、ケンカの形をとりつくろって(偽装して)、特定の人に向けて行われます。
いじめられている側は苦痛からSOSを発します。それがキャッチされないと、当人は無力にさせられますます絶望するか、あるいは耐えていても、しだいにいじめは暴力へ、そして恐喝(犯罪の疑い)へとエスカレートしていきます。そして当人の心の傷が癒しようのないものになります。


岐阜県瑞浪市の中2女子いじめ自死事件〜どうしたらいいのか

連日、マスコミに取り上げられ、記者会見の校長も心労がかさなっているように感じます。が、以下のような問題を丁寧にクリアしないと、みずからを(そして同校の職員全体を)追い込んでいく構図になっています。

第一に、女子生徒の遺書の文面、つまり自分が排除されることが繰り返してあったことをうかがわせる内容からも、保護者の訴え、他の同級生の目撃証言からも、いじめがあったのは事実です。
保護者からの訴えが女子生徒自死の一週間くらい前に学校側に伝えられていたのに、定例の会議にそれを出せば、と関係の教員も考えていた。おそらくその時点では校長には伝えられていなかったでしょう。しかし、このヘルプ発信の初期対応の遅れ、そこでの「いじめ認識」の浅さ、これがまず学校関係者としては最大の問題点であったと明瞭に認めて、地域社会に謝罪することが必要ではないでしょうか。それが学校への信頼回復への近道です。

第二に、いじめがあったのかどうか、校長の見解が二転三転していますが、これは、かつての大河内君事件のときの中学校側と西尾市教育委員会の対応の初期に似ています。
ただ、その名誉のために言えば、途中から、同機関はいじめの経緯について独自に調査をしてメディアにもまた市議会にも公表し、そのことで、関係者によるいじめ認識のあいまいさを自らただす努力を示された。このことも一つの要因となって、訴訟問題等にまで発展するには至らなかったといえます。

「自殺につながるいじめであったかどうか、調査中」というのは学校管理者としては、安易ないじめ断定がこんどは加害者を「犯人捜し」の目でせめてはならないとの配慮からであれば、一面ではわかります。
しかし、報道されている限りでは、いじめが背景にあって自殺をまねいたことへの学校側の責任を、つまりいじめを黙認しあるいは指導をてびかえたことが自殺を招いたとの因果関係に学校を位置づけるのを、なんとか避けようとする保身の発想が地域社会に読み取られているのです。

それはなぜか。
初動における、自死した生徒への心からの謝罪がみられず、しかも「普通のいじめ」と「そうでない、自殺につながるいじめ」とに分けたり、「いじめはなかった」と強弁したことに依ります。つまり、生徒同士の間での排除や無視が思春期における心理的ふざけを取った、明らかないじめであることを見ようとすれば、自ずから、以後の学校の姿勢は一貫していくのです。そこがぶれると、どうしても、自分たちの非を最小限にとどめようと守りの発想に陥っていきます。

その管理職者等の苦渋の姿は、まるで自死した生徒の訴えを早くから聞こうとしなかったことへの、見えざる者による報復のようでさえあるではありませんか。

逆に、自死した生徒への心理的攻撃(言葉や態度によって)をしていたとされる生徒たちも浮かび上がってきているので、この生徒たちへのケアが大事です。
それはただなだめるのではなく、その生徒たちの謝罪の気持ちを丁寧に引き出すこと、そしてその生徒たちもストレスやあるいはレギュラーとしての緊張感などからそのような他者攻撃になってしまったであろうことを一緒に見つめて、そこから抜け出す手だてを講じていくことです。

いじめる側は、ふざけやけんか、あるいは練習のスタイルのように加害行為を偽装します。そして繰り返して行くほどに相手が無力化し抵抗しない(できない)ので、ますますエスカレートしていく。いじめの構図とその心理的エスカレーションがそこにはあります。

ある意味ではいじめる側の生徒も、そういう悪循環の苦しさを抱え込み、しかし誰にもわかってもらえない状態であったとも言えるでしょう。

「いじめ」は生徒たちの他者認識・自己認識を育てる教育にとって核となる課題です。お互いの尊厳を認めあえる人格の形成こそ大事なのです。このことを、幾人もの若者の「いじめ死」という犠牲がこれほどに訴えているのですから、わたしたちは本気で認識し直し、実践に生かすべきなのです。(10月31日記)


     

滝川市教委のいじめ自殺認定問題

各紙既報のとおり、滝川市教委は、昨年九月の小学6年女子の自殺を遺書から「いじめによるもの」と認め、5日、市長以下関係者が遺族に赴き謝罪しました。

事件直後(市教委は「事故」と呼んできました)遺族が遺書をみてくれといったとき、教育委員会側(教育部長)は「読みたくない」と拒否したと、遺族は証言しています。他方、市教委側は、「遺族が遺書を見せてくれなかった」と主張してきました。

約一年後に、結果として、世論にも押されて市および市教委がいじめ自殺を認めざるを得なくなったわけです。これは、(1)初期対応に解決の鍵がある、という実践の原則をはずして、いわば行政側に問題の(学校監督の)の責任がおよぶのを回避しようとしてきた経緯が逆に事柄の内部的本質を浮き彫りにした感じです。

(2)報道で公表されている女子の遺書を見る限りは、普通には、彼女に対して集団的な無視があり、「キモイ」とされて排斥にあうことが長期にわたって続いたであろうことは読み取れます。自分が居なくなってみんなは思惑通りでしょう、という趣旨の文面をのこしたことに、追い込まれたひとの、死をもって抗議する決意が出ています。

90年代半ば以降の、小学高学年から中学生におよぶ、不可視的で陰湿ないじめの傾向を同市教委関係者がそれなりにきちんと把握して、その発生起因を地元の実態に即して分析してこられたのであれば、この事件に対しても早期に、学校側に対しても、また地域の関係者に対しても具体的な調査をおこない、自死した女子の視点から問題を捉える姿勢をみせたと思います。

ただ、いじめと認定すれば、クラスの大半を「いじめ加害者」と認めることにもなるので、その面で子どもたちへの配慮として慎重であるべきだと市教委側は述べています。この視点は、たしかに大事です。が、自死に至るまでに、かならず、なんらかのSOSの発信があり、子どもたちは誰か現場を見ているものなのです。それを、親なり、教師に(目撃証言として)話せるかどうかは、おとなへの信頼度によります。

市教委が学校に命じて、いうところの「事故」に至る経緯を調べさせた結果、遺書にあるような事実が確認できなかった、だから、いじめとしての行政上の扱いをしなかった。これは90年代に相次いだいじめ自殺者ののこしたメッセージから何も学んでいないに等しい。

第一に、学校側は、じぶんたちのいじめ予防の過失責任、指導体制の問題点を問われるのをさけようと事実確認はできないと回答する傾向にあります。第二に、女子のクラスの子どもたちに聴き取ったとしても、学校や教師を信頼していなければ真実を語りません。

いま中学生になったその子どもたちの中に、今回の市教委の「いじめ自殺」発表の事態を知って、腹痛などで体調をくずしている者もいるようです。普通の子ならば、いままで何となく集団心理であの一件を避けてきた、あるいは隠してきたことが、このように日本の世論を動かす事態になってきたときに、おそらく不眠になったり、勉強も手につかなくなるでしょう。「誰が」ではなく、同じクラスにいた「自分たち」がつくりだしてしまった集団的な「加害性」を今、女子の遺書が(報道されて)その子らに問いかけるからです。

当時かなり加害の中心にいた子は、この報道や市教委の豹変によって、苦しむでしょう。おとなは、この子どもらのケアを、ていねいにやっていくべきです。そのポイントは、これまで伏せてきたことをありのままに他者にしゃべることです。その聞き役になれるおとながどう登場しうるか、です。その意味でも結局は、地域のおとなが問われているのです。

わたしの自費出版『弁証法のレッスン』で「岩脇いじめ裁判」(富山のケース)として書いていることが、この滝川市の事件でもほぼそのままあてはまることに、むしろ驚いています。

                 


以下の講義要旨は、本年10月26日、愛知県内の公立高校二年生の「総合」の授業の一環で、出前講義をしたときのものです。文中の「別紙」とは、授業で配布したものを指します。

                            2006.10.26.
いじめ問題をどう見るか
                                  折出 健二(愛知教育大学)

 1 いじめのとらえ方
 
 
(1)いじめの発生と進行過程
  参照 折出『子育て・教育 とも育ち〜いじめの克服と自立』からの抜粋。
 
  いじめは、優位に立つ者がその関係性を利用して相手を抑圧・攻撃する行為。
  いじめは、人権侵害の行為。
  受けた側が苦痛と感じる行為が繰り返し行われるとき、それはいじめである。
  いじめは、継続性を帯びるとエスカレートし、相手の存在(人格)を脅かし、心的外傷(トラウマ)を生じながら追い込んでいく。
  それゆえ、いじめは集団化するとき、迫害へと転化する。
 
(2)いじめ加害・被害のメカニズム
  参照 中井久夫論文のプリント。
 
  孤立化 → 無力化 → 降伏 → 透明化(隷属化)
 
 (3)1986年のS君いじめ自殺事件、1994年のO君いじめ自殺事件にも共通する、い   じめ問題の3つのポイント;
 
 @ふざけ型いじめの重大性:いじめ=暴力=侵害の原型がある
   ア 心理的ふざけ(いやがることを無理矢理やらせる、言葉による攻撃など)
   イ 物理的ふざけ(顔にマジックで書く、プロレスごっこ、服を脱がすなど)
 
 Aいじめはなぜ周りに見えないか
  いじめる側は、遊び・ふざけ・けんかという偽装によって支配・攻撃を隠す。
  しかし、やられている側は苦痛・自己破壊からSOSを発せずにはおれない。
 
 Bいじめ被害はなぜ長期化するか
  初期の孤立化・無力化(孤立無援を学習してしまう)が「三ない」を生みやすい。
   →  抵抗しない・逃げない・訴えない → 加害者の暴力性がいっそう拡大する
 
 

2 学校(教室)がいじめ発生の舞台
 
 
 @管理や取り締まりの徹底による学級内の緊張や閉塞性
 
 A過度の競争主義・個別分断化   新学力観以降の国の政策とも関わる問題。
 
 B教師による体罰   ア 受けた子どもの「心の傷」が別な者へのいじめにつながる。
            イ 学級や学年内に暴力容認の空気をつくりだし、いじめを
              エスカレートさせる。
            cf. 体罰は学校教育法第十一条違反行為。
 
 C教師の不適切な言動  能力主義的敗者呼ばわりほか。
             cf. 福岡県筑前町のいじめ自殺事件
 

3 いじめ問題への政府・行政の対策
 
 
(1)いじめとは
 いじめは優位に立つ者がその関係性を利用して相手を抑圧・攻撃する行為。
 対策を立てるには、いじめ発生から進行に至るプロセスを事実に即してつかみ、そこから関係性の何が問われているか、また次の防止や早期発見の視点として何がひきだせるかなど、定性的(質的な面に重点をおく)接近と分析が必要。
 そのためには教職員のチームワークによる問題への接近が不可欠。
 ところが政府・文科省は、個々の学校並びに個々の教師に対して「精度の高い発生件数の報告」を求めるという、定量的接近でいじめをなくそうとしている。
 ここに根本的なズレがある。このことが、このおよそ10年のあいだ、いじめ問題の本質をとらえきれない、また基本的ないじめ克服の方向性を打ち出せない原因ではないか。
 (2)個人の心構え主義には限界がある
 
「いじめは人間として絶対に許されない」(いじめの規範主義的・個人主義的把握)
  ↓
個々の家庭の責任、教師・学校の責任が重大なのでそれを果たすべき
  ↓
道徳教育、心の教育に力を入れる
  ↓ 
(教育行政は)家庭・学校・地域の連携を図る
※ここまでは1996年の調査研究協力者会議の報告と同じ。
  ↓
悪質ないじめは出席停止措置、あるいは警察の協力によって抑止し排除することも辞さない
※これは、最近のゼロ・トレランス(寛容ゼロの生徒指導)と連動した動き。
 
 (3)いじめ問題はおとなの問題でもある
 
 福岡筑前町の事件:困難な思春期を乗り越えて自己のアイデンティティを獲得していくべき中学時代に、ひとりの少年を自死においやった事実を直視すべき。それは当該の教員だけではなく、学校・教育委員会関係者、そして地域住民も心して受け止めるべきである。「生き方の指導」の場である学校で生徒を死に追いやったという事実から、おとな自身が何を学び取るか。教育の再生の原点はここにある。
 
 小学校保健室の養護教諭の話では、いまは、一年生が失敗したりつまずくと「死んでやる」「生まれてこなきゃ、よかったんだ」とすぐ口にする時代だ。それだけ自己肯定感がきわめて低くなっているし、育っていない。
 この事実をもっと保護者は知るべきではないだろうか。中には、そういうわが子の実態を聞かされても、「それを変えていくのが、あなた教師の仕事でしょ!」と、担任に攻勢にでる親もいる。他者への基本的な信頼感がおとな社会の中でも崩れている。
 

4 「いじめは犯罪」か
 
 
 10月9日付朝刊の報道では、奈良県橿原市の中学一年男子が五ヶ月近くメール等で陰湿ないじめを受け、両親が被害届けを出した。同市の警察署も傷害罪に当たるかどうか事情聴取に乗り出したようだ。
 これを受けて、同じ日の朝のTVワイドショーでは、いじめ問題に取り組む弁護士・中島博行氏が、「いじめは犯罪である。被害届を出すのは当然」「中心的な加害生徒を処分するべきだ」と発言した。
 いじめの発生機序(メカニズム)と背景、子ども社会の「いま」について冷静な考察と改革のための実践に開いた議論をしていくことが大事。いじめ加害者を「犯罪」者扱いする、いわゆる厳罰化ではいじめは繰り返される。
                                

 5 いじめ自死のO君の遺書、父親のメッセージ
 


 
 
  別紙 参照

 6 では、どうしたらいいのか
    〜生徒の視点から〜

 
 
A ヘルプを発すること
  これはけっして自分が「弱い」からではない。むしろ、自分を自分で守ろうとする第一の正当な行為である。
  誰に:保護者、友人、教師、養護教諭/カウンセラー、弁護士、医師など。
  どこに:たとえば、「子どもの人権相談窓口」名古屋 052−204−0115
                           (土 午前10〜12時)
      あるいは SOBA(愛知教育大学のサークル)学生のボランティアだが、臨床心理士や社会学教員がバックアップしている。→リーフレット参照。
 
B 教師は当てにならないか
 アンケートでは共通して、相談相手としての「教師」の比率は極点に少ない。では、教師は、まったく当てにならないのか。気づいているのにアプローチがわからない面もあるので、事実を訴え、「いじめ故に高校生活を送れないのは不当」「こうしてほしい」という気持ちを伝える。もちろん、生徒の訴えを聞き取る教師の行為こそまず求められる。
 
 C 加害生徒は真摯に心からの謝罪をすること:これが重要な鍵を握る
 長期にわたって迫害に近いいじめを受けて被害側はこれを学校に訴え、加害生徒は一定の事実確認後に、停学処分を受ける。しかし、処分解除後にまた当事者は校内で顔を合わせ、被害生徒がトラウマから来るフラッシュバックで倒れる事が起きた(複数回)。被害側は法的な訴えを考慮しているという(最近のある事例から)。
 加害者の真摯な、徹底した謝罪(道義的罪をあがなう行為)がないとき、こういう事態が起こりえる。また加害生徒も実はケアを必要としている。
 逆に被害生徒側が、トラウマの必然的な状態として、相手への報復感情あるいは仕返し幻想をいだき、実際に行動に出たケースもある。
 被害の生徒が遺書の中で加害の実名を挙げるなどして、ずっと恨み続けるとか、とりついてやる、と記している。これを「卑怯」という人もいるが、必ずしもそうとは言えない。繰り返しのいじめ(暴力)はもともと権力的な非対称でおこなわれる。それゆえに、その権力で追い込まれた被害者はその言葉で応じるしか、残された力を持ち得ていなかったと知るべきである。
 この点からも早期の発見とケア、加害側の心からの謝罪が不可欠。
 
 参考文献:日本弁護士連合会『いじめ問題ハンドブック〜学校に子どもの人権を』こうち書房
      折出健二『子育て・教育 とも育ち〜いじめ克服と自立』中日新聞社出版局
       折出健二『弁証法のレッスン〜暴力・平和・他者』自費出版


 

「いじめの発生メカニズムと早期対応」について
                                 


1 いじめの態様(いじめ行為のタイプ)について
 

 1986年のS君いじめ自殺事件、1994年のO君いじめ自殺事件にも共通するし、それ以後のいじめ問題の底流にあることとして−−−
 @ふざけ型いじめの重大性
   ア 心理的ふざけ(いやがることを無理矢理やらせる、言葉による標的化など)
   イ 物理的ふざけ(プロレスごっこなど)

 Aいじめは不可視性をもち発覚しにくいが、いじめ被害者によるヘルプ発信は可視性をもち、何らかの行動で発せられる。
 
 Bいじめの継続性とエスカレートの暴力性

  いじめを受けた初期の孤立化・無力化による「三ない」
   →  抵抗しない・逃げない・訴えない → 加害者の暴力性が拡大しやすい
 

 Cいじめる側の発覚防止行動、遊び・ふざけ・けんかという偽装
  やられている当人の苦痛・自己イメージ破壊・他者回避の心情などがいじめ発覚の鍵。
 


2 学校がいじめ発生の舞台となること
 

 @管理や取り締まりの徹底による学級の緊張、閉塞性
 

 A過度の競争主義・個別分断化: 新学力観以降の国の政策とも関わる問題。
 

 B教師による体罰   ア 受けた子どもの「心の傷」が別な者へのいじめにつながる。
            イ 学級や学年内に暴力容認の空気をつくりだし、いじめを
              エスカレートさせる。
            cf. 体罰は学校教育法第十一条違反行為。
 
 C教師の不適切な言動  能力主義的敗者呼ばわり、秩序・規律からの落伍者嘲笑等。
             cf. 福岡県筑前町のいじめ自殺事件
 

 参考文献:日本弁護士連合会『いじめ問題ハンドブック〜学校に子どもの人権を』こうち書房
      折出健二『子育て・教育 とも育ち〜いじめ克服と自立』中日新聞社出版局(現在、本書は完売で在庫なし、だそうです)


いじめ問題取材を前に

NHK名古屋放送局報道の記者より、最近のいじめ問題についての取材を受けました。以下は話題の要点です。

まず、約10年前の「大河内君事件」の教訓を学校も保護者も地域住民もほとんど学んで来なかったことが、この間の北海道、福岡の重大な失態というべき問題を引き起こしている。

次に、こうした事件をあたかも教師の質的低下の最たるもののように取り上げ、そしてちょうどスタートした、安倍政権の教育再生会議における審議の筆頭に教師・指導力問題をあげよ、とあおることも誤りであること。いま子どもと教師の信頼関係を早期に回復し、ないしは新たに構築し、その基礎の上に、ほんとうに成長と発達に開かれた学びの空間をつくることが大事である。

困難な思春期を乗り越えて自己のアイデンティティを獲得していくべき中学時代に、ひとりの少年を自死においやった責任は大きい。それは当該の教員だけではなく、学校の全教師・教育委員会関係者も心して受け止めるべきである。「生き方の指導」の場である学校で、生徒を死に追いやったという事実は、どう抗弁しても耐えられない重さを持つ。

教師同士の関係性が、子どものいじめを読み解くかどうかのバロメーター。つまり、教師がどうケアされているのか。そのためには、教師がみずからの実践の弱さやもろさ、失敗を語り出せる学年や職場の関係がつくられているのかどうか。

その教師関係を破壊するものが教員評価である。教師の分断・孤立化にそれが作用する。これはもう全国的に明らか。しかし、その苦しみをいだく当事者の教師がなぜ声をあげられないのか。そこまで教師を黙らせたのも一部メディアの「ちから」ではないか。

また、強引で、自分の感情にまかせて教師に注文をつけ教師を卑下する一部保護者の言動ではないのだろうか。

保健室の養護教諭の話では、いまは、一年生が失敗したり、つまずくと「死んでやる」「生まれてこなきゃ、よかったんだ」とすぐ口にする時代だ。それだけ自己肯定感がきわめて低くなっているし、育っていない。

高学年でも、日頃いじめに遭っている子どもが、ついに耐えきれずちょっとしたことでいじめる側を殴る。このトラブルをどう読み解いていくか。殴った方の気持ちも聴き取るように、担任や親がどう関われるか。そこが問題の解決への鍵である。

この事実を、もっと保護者は知るべきではないだろうか。中には、そういうわが子の事実を聞かされても、「それを変えていくのが、あなた教師の仕事でしょ!」と、担任に優勢にでる母親もいる。一部メディアのコメンテーターの発言がそれを勢いづけてもいる。

教師を非難するその母親の、これまで聴き取ってもらえなかった悲しみと、そのような言葉をぶつけられた担任自身の悲しみと。なぜ、かくも、人間は、互いを手とつなぐべき時に、傷つけ合わねばならないのだろうか。
【追記】当初のUPに加筆・修正しています。(06年10月)


                             

「いじめは犯罪」か

10月9日付朝刊の報道では、奈良県橿原市の中学一年男子が五ヶ月近くメール等で陰湿ないじめを受け、両親が被害届けを出しました。同市の警察署も傷害罪に当たるかどうか事情聴取に乗り出したようです。

これを受けて、同じ日の朝のTVワイドショーでは、いじめ問題に取り組む弁護士・中島博行氏が、「いじめは犯罪である。被害届を出すのは当然」「中心的な加害生徒を処分するべきだ」と発言しました。レギュラーのスタッフも同調するようなコメントを述べていました。

まずその弁護士のいう前提は、いじめを生徒同士が考え解決に取り組むという教育論は総論としては賛成だがもはやいじめは教育を超えた問題である、ということです。いじめた側が「あそび」「わるふざけ」のつもりでも被害者にとっては侵害行為である、とする点はわたしも支持します。

しかし、その局面を持ってして、加害側を「犯罪行為」とみなして一般の犯罪の法律を適用するというのはまさに取り締まり・処分の発想であって、いじめ・いじめられの関係性を変えていくという発想は見られません。

奈良の「事件」は学校としては生徒から相談を受けて担任がクラスで話し合わせ関係者が当人に謝罪したにもかかわらず、別の生徒がメールで中傷する事が起きた。本人は学校に行けない状態になった。そこで、親が学校の対応能力を超えていると判断して警察署に被害を届け出たという経緯です。これは、その生徒がうけたいじめの行為・長い期間・うつという心的外傷の症状からすると、やむを得ない対処であったと思います。

インターネット社会でのメールという手段による個人の排斥・中傷・攻撃をどう考え、対応していくか。匿名でほぼ思い通りに相手を攻撃できる。この暴力的な優位性を防ぎ進展を止めるには、一方には少年法の厳罰化に同調して、どんどん処分を強化せよ、という流れが出てくるでしょう。

しかし、それでよいのか。根底には、個人を孤立化させて競争を徹底する現実の学校体制が他者への攻撃を生み出していると言えます。そのうえ、さらに、相手に対して優位な立場にある者が、その関係性をちからとして利用して相手を抑圧する。この「関係性の乱用」(森田洋司さんが最初に使用したようだ)という問題があります。しかし、これを変えていくことこそ、いま教育の中心課題です。

この次元からの問題解決を、いま弁護士やジャーナリストたちがもっと声を大にして、そうした課題と向き合う学校の取組みを励ましほんとうの教育の改革を保護者や教師たちと一緒になって提起していくべきではないでしょうか。

競争徹底の社会や学校体制をそのままみとめておいて(許容または放置しておいて)、当事者同士のある種の「自己責任」つまりいじめの加害行為をするものはそれだけのペナルティを受けるのを覚悟せよ。いじめられる側もみずからを防衛するためにどしどし被害届を出して相手を法的に裁けるように告発せよ。このように当事者対処を薦める。

こういう当事者間の対決をまわりがあおっていく言説こそ、「強力」によって解決する論理であり、まさに社会の中に暴力性を再生産する一要因となるのではないでしょうか。


「学校におけるいじめ」国際セミナー

 以下に載せますのは、標記の国際的なセミナー(主催:オクスフォード・神戸インスティチュート。5/21−25)で、国内招待報告者の一人として私が報告した内容です(論考集用)。当日は、英語でプレゼンテーションをおこないました。その英文は、有料の主催者編集論考集(当日配布)に載っており、掲載はここでは控えます。

オクスフォード神戸教育セミナー        2003年5月23日

学校におけるいじめ克服とエンパワメント

                            愛知教育大学

                             折出 健二

 一  「いじめ」問題の基本認識について

Bullyingと日本語の「いじめ」(ijime)との関係は、Abuseと虐待(gyakutai)の関係に似ている。「いじめ」は、行為者による攻撃・抑圧の性質よりも、その行為を受ける側に力点がおかれ、その人格の固有の境界を越えて侵害する(侵害される)、という恥辱を与える(それを受ける)ことに重点をおいて用いられる言葉である。

 私は、「いじめは、日常の関係やシステムへの過剰適応あるいは疎外感・ストレスなどを背景にして、ある個人または数名を標的にして孤立させ、攻撃し、心的外傷を負わせる行為である」と定義づける。以下ではこの意味でBullyingを用いて述べていくが、上記のニュアンスが含まれることをはじめにご了解いただきたい。

  日本では、1994年の愛知県西尾市で起きた「いじめ・自殺」事件をきっかけに、ふたたびいじめ問題は社会的なテーマになってきた。「ふたたび」というのは、1980年代半ばに東京で起きた「葬式ごっこ」と呼ばれる中学生のいじめ・自殺事件以来の教育現場で起きた衝撃的なできごと、という意味である。

 愛知の事件は、当時13歳であった男子中学生が約8ヶ月にわたる身体的攻撃と恐喝を受け、同年11月下旬、自宅で縊死をしたものである。直後に家族によって長文の遺書が発見され、公開されたことから一挙に全国的に知られることとなった。私は、地元の教員養成大学に勤務し、地域での子育て・教育問題にも関わっているので、知り合いの教師・市民・研究者と共にこの事件の調査プロジェクトを組み、95年8月から約1年半、現地の聞き取り調査をおこなった。

 その経験と考察からすると、@子どもの集団における力の秩序、A高校入試を控えている中学校の競争的雰囲気、B「強く、たくましく、勝者であれ」という日本の男子へのジェンダー的要素と思春期の抑圧、などがこの事件には絡み合っていることが見えてきた。

 その点で、カナダ・ヨーク大学教授、D.ペプラー(Debra Pepler)女史(心理学)がのべるいじめ論、すなわち「いじめは攻撃行動の一形態で、いじめる側といじめられる側とのパワーの不均衡から生じる。いじめる子(あるいは子どもたち)はいつも犠牲者(あるいは犠牲者たち)よりもパワフルである。」と共通するものがあると思う。

 学校の競争的秩序とこれにとらわれる思春期の葛藤がどのようにいじめ問題と関係するか。これをめぐっては日本の研究者の間でも意見が異なるが、本国際セミナーでもその点での論議が深まることを願っている。

 

 二 いじめにおける〈否定的他者〉の問題

 

 J.L.ハーマン(Judith L. Herman; 精神医学者)の『心的外傷と回復』(原著、1992年/邦訳、みすず書房、1996年)は、レイプや児童虐待など、暴力によって心的外傷を負った子ども・青年・成人の臨床的研究をまとめた大著である。訳者の精神医学者、中井久夫(なかい ひさお)氏も述べるように、同書にはいじめ問題を読み解くための基本的で専門的な分析視点がいくつも提示されている。

  中井久夫氏は、これをもとに、加害の論理を「孤立化」「無力化」「透明化」の三段階で整理している。

 すなわち、いじめ(または家庭における虐待)は、個人を孤立させ、無力状態においやり、この孤立無援の状態で、加害者の気のむくままに攻撃を加える行為として始まる。

 次に、いじめは、標的とする者の身体と行動の自由を奪い、さらにその精神的自由を奪うまでに、人格に越境し侵入していく。これによって、いじめの犠牲者(被害者)は、無力状態におかれ、抵抗すらできなくなる(「無力化」段階)。

  ついに、犠牲者(被害者)は、内面を侵害される苦痛から逃れようと、進んで加害者の言いなりになる態度さえ見せる。それは、「ニセの自己」であるが、そのような自己を演じることで、直接の恐れから逃れようとする。しかも、彼/彼女は、いじめるメンバーたちの一員であるかのように、外見上は、親しく振る舞う。これは、虐待を受けている子どもが、家の外ではその加害の親と親しく行動する光景がみられるのと似ている。だが、それは恐れの前に屈服している姿である。被害者の精神的な苦痛は深刻なのに、加害と同化していて外からは見えない。これが、「透明化」の段階である。

  この過程は、支配的で抑圧的な他者の存在にたえずおびえ、恐れ、そして精神的にも屈服していく過程でもある。この隷属状態が放置されれば、ついには、この精神的苦痛から解放されようとする当人の思いが、自殺の引き金になることさえある。

 

 三  いじめ克服には何が必要か

 

 1 いじめの進行プロセスとケアの問題

 

 私は日本で起きたいくつかのいじめ事件や教師の報告例をもとに、仮説的にいじめの進行プロセスを4段階でとらえている。

 A 一方的な嫌がらせ

    一方的な排除・無視

    同化した上での、面白半分の身体的・心理的攻撃

    集団による迫害と恐喝

  これらは階段のように順に進むのではなく、むしろ前段を内側にふくみながら雪だるまのように膨張していくと捉えておきたい。

このいずれの段階でも、いじめられた子どもはなんらかの心の傷を負わされているが、Dに近くなるほどそれは深い。早い段階で発見し、当人の恐れを共感的に受け止め、立ち直りを支え、そして回復を見守りながら、他者との新たな対話の世界へ入っていけるようにすること。これがここでいうケアである。学校におけるいじめ克服を考えるに際して、このケアテーカー(care-taker)となれる人物の存在、誰(単数でもあり複数でもあり得る)がその役割を担うかがおおきな鍵をにぎる。

 2 いじめられる子どもへのケアと援助

 初期のいじめを受けた場合であっても、いじめられた側には自己に対する否定的な他者が存在しており、それが当人の不安をかき立てている。これがさらに進行し長期化すれば、いっそうの外傷体験が当人に生じていると見なくてはならない。

 いじめに悩むのは当人の弱さであると見るのは、いじめのメカニズムを見ないで、いじめられた側の心理的状態を問題にする点で誤っている。また、「やられたらやり返せ」という見方も、結局は同じであって、いじめられる者は力の弱い者という先入観が働いている。クラス担任は、まずこういう先入観を棄てて、いじめられている子どもの現実と向き合うことである。

 そのポイントは、彼/彼女が問題を乗り越える主体であることを一貫して尊重しつつ、いま生じている外傷体験を受け止め、それが外的行為によるものであって当人の人格的・内的欠陥によるものではないことを伝え、立ち直りを促していくことである。と同時に、新たな人間関係に参加していく力を引き出していく(エンパワーする)ことである。もともと日本の学校でおこなわれてきた民主的な教育実践には、このような要素は含まれていたのであって、いじめ問題ではそれらをいっそう自覚的に発揮させる必要があると言える。

 私見では、いじめ克服のテーマは、ケアとエンパワメントである。

  @まず、いじめを受けた子どもに対して、当人が自己回復の主体となるように温かく接し、支えていく。その子の孤立無援感を減らし、それ以上の無力化を防ぐ。

 そのために、教師あるいはスクール・カウンセラーが、また双方が連携して、当人のいじめ体験を聴きとり、心的外傷によって損なわれた他者との結びつきを回復していくことである。すなわち、共感的な他者による支援のネットをつくることである。

  Aかなり進行した段階であっても、いじめの現場を目撃されながらも被害者はそれを認めない。ここには一種のトランス状態が働いている。つまり、みじめな自分は居なかった、として実際の自己から解離してあえてそのシーンを抹消しようとする。虐待が繰り返された子どもは、能面のような表情で、まったく苦痛にかんじていないかのような態度を見せるといわれる。

 したがって、いじめられたことが明らかな場合にも、当人の短所・欠陥をあげて苦悩を追い込むのではなく、むしろ当人の自信や楽しさにつながる話題や活動へとゆっくりと誘って、行動や対人関係をみずから選ぶ「自己統御権」(ハーマン、前掲書)を回復していくべきである。

  B被害者は「自分の方に、いじめられる原因や欠陥があるのではないか」と、自己非難を強めている。その苦しさゆえに、加害者の機嫌をとろうとして、何でも要求に応じる自分を演じる。しかし、これは「ニセの自己」である。当人の肯定的な自己を取り戻す(発見する)ための共感的な対話こそ、ケアの中心的なテーマである。

  逆に「いじめられる側にもその原因がある」とする見方に立つことは、基本的には、子どもの内面をかき乱すものである。

 3 いじめる子どもの指導・援助とケア

 

  いじめる側には、既存の関係やシステムへの過剰適応からくる不満が隠されていることが多い。それはたいていの場合、努力して適応しているのに自分の値打ちが見えないのである。規範や秩序とは関係なくうごく行為者を攻撃したくなる。その持って行き場のない言い分をまず聞き取ることが、生活指導の基本である。

  いじめている彼/彼女らも、自分たちの存在価値を実感できないまま学校の秩序と規範になんとかして自己を適応させようとしてきた。それは本来の自己を発揮し、表現している姿ではない。その意味では、いじめる側も自分たちのちからを奪われたような状態である。その彼/彼女らそれぞれのニーズに合ったエンパワメント、つまり仲間と共に生き認められる自分(自己の本来の値打ち)を発見させることが必要なのである。

  四 いじめ克服の今後の課題 

 1つは、いじめの持つ社会的な提起を大事にしていくこと。すなわち、現在のいじめ問題は日本の学校社会における選抜と競争の現実に対する「ノー」の叫びであり、教師・父母はこの子どもの内なる「声」といかに対話していくかが問われている。日本では、学習指導要領が大幅に改訂され、いま学校完全五日制とともに実施されている。制度的改革も必要であるが、学校における人間関係の質的な改善、対話とケアの公共空間(public space)をどうつくりだすか、という発想が求められている。

 その点で、2つめとして、いじめにひそむ子どもの真のメッセージを読みとる機会を、対話や通信ノート、クラスの話し合い、絵画・音楽・演劇等の表現を通じて幅広くつくり、子どもの社会参加の契機としていくことが必要である。このことが、子どもの権利条約の意見表明権等の子どもの諸権利を、日常の中に一歩一歩実現していくことに繋がる。

 3つめには、いじめによって生じている心的外傷(トラウマ)の問題である。これが放置されれば、被害者を加害者にしてしまう恐れもある。具体的な事例の研究などを通じて、そうした臨床的なケアについての知見を教職員が共有できるような研修体制の確立も、いじめ克服にとっては重要な課題である。


[いじめにあった(あっている)子どもの支援活動]
1999年4月から、標記の活動に一本化して活動しています。
名称は「SOBA」。Sympojum of Bullying in Aichiの略と同時に、「あなたのそばにわたしたちがいます」というメーッセージも含んでいます。
方法は、ファックス、手紙、電子メールによる訴え、相談などをメンバーで受け止め、話し合い、匿名でなければすぐに返事を出して、支えるというもの。
学生・院生・市民のボランティアによるもので、10名くらいが交替で担当。最近もメールで、母親からの相談、青年からのいじめられ体験の発言が届いています。それぞれに返信をだし、メール本文は印刷して非公開のファイルにとじて貴重な資料として保管しています。

FAX送信先は、0566−26−2713。(SOBA専用)
手紙は、郵便番号448−8542 「SOBA」係
電子メールアドレスは、最近のウイルス感染をさけるため、いま再編中。

このSOBAのボランティアをただいま募集中!

 高校生・学生・院生・市民・教員等、どなたでも参加できます。

 なお、このたびSOBAのHPが、愛知教育大学の附属教育実践総合センターの関連ページでスタートします(2002年8月の予定)。詳しいことは下記でご覧ください。
http://www.jissen.aichi-edu.ac.jp/soba.html

 2001年からこのSOBAで取り組んできた「いじめをのりこえるリーフレット」が完成し、希望者にお分けしています(無料)。申し込みは、上記のSOBA宛にどうぞ。

 その「リーフレット」の一部は、下記の通りです。これをお読みいただいて、ご意見・ご感想を上記SOBA宛のメールでお寄せ下さい。

なお、小学生にも読んでもらえるようにルビを入れています。一部の括弧書きはそれを表します。

はじめに・・・
 
☆「いじめ」って何だろう
 
「いじめ」とは、いつ・どんなときでも相手(あいて)深い(ふか)心(こころ)身体(からだ)痛み(いた)感じる(かん)
 
ように一方的(いっぽうてき)攻める()こと。
 
☆「いじめ」にはこんなことがあります。
 
身体(からだ)傷つける(きず)「いじめ」>
わざと相手の足(あし)引っ掛けたり(ひ   か)転ばせたり(ころ)する。
 
ちょっとしたことで近く(ちか)にいる子()をなぐったり、けったりする。
 
* 力づく(ちから)物(もの)取り上げる()
プロレスごっこと言って()、わざと相手(あいて)痛めつける(いた)
 
心(こころ)傷つける(きず)「いじめ」>
一人(ひとり)の子をみんなで仲間(なかま)はずれにしたり、無視(むし)したりする。
 
* 相手(あいて)物(もの)隠したり(かく)壊したり(こわ)して困らせる(こま)
 
* 相手(あいて)見()目()をバカにする言葉(ことば)浴()びせる。
 
いやなこと、恥()ずかしいことをやらせる。
 
おどす。
 
こんなふうに相手(あいて)傷つけて(きず)しまうことが「いじめ」です。
 
☆いじめる子、いじめられる子、周りで見ている子はそれぞれどう思っているのかな・・・
<いじめる子>     <いじめられる子>      <見ている子>
 
 悪(わる)ふざけ        苦痛(くつう)             関わりたく(かか)ない
 
 遊び(あそ)半分(はんぶん)        辛い(つら)             見()てみぬ振()
 
 楽しい(たの)         悩む(なや)             かわいそうだ
 
気()持()ちいい       死()にたい           今度(こんど)自分(じぶん)がいじめられる
 
それぞれの気()持()ちを考え(かんが)てみたことがありますか?

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