生活指導 ナウ

参加民主主義と生活指導・集団づくり 最新の論説レジュメ

2009 国語教育研究集会(児童言語研究会名古屋支部)       09.7.28
 
子どもと教師が蘇る学校とは
〜共生と自立を求めて〜
(別題 〈教育の仕事〉づくりへの再挑戦)
                             折出 健二
 
T 「教育改革」下での教育的関係性の崩壊
 
 1 「教育改革」のもとでの職場における関係性の解体化
 新学習指導要領と「改正」教育基本法
 職員会議が校長の補助機関に:協議による合意形成・課題解決の性格が失われる。 人事評価制度の導入 → 期末勤勉手当の査定(例 神奈川県、昨年6月から)
 PDCAサイクルにもとづく運営が前面に。
 どのようなPを,どう設定するかではなく,P実現のための改善をどうするか、に主眼が置かれる。  
(※ 『住民と自治』6月号所載の公立学校事務職員による現場報告を参照した)
 
 2 教師の仕事のもつアザーリングの性格が壊れていく
 教師の仕事のベースは、小学生あるいは中・高校生である小さい(または若い)他者と出会い、その一人ひとりの成長・発達の欲求を教師自らの実現欲求として共有するように努め、共に読みひらいていくことである。ここに、その職業意識と使命感あるいは達成感がある。キーワードは他者である。
 教師みずから真に頼れる他者を得ることで、勇気を持って子どもたち(他者)と向き合い、学級づくり・授業づくりに取り組んでいくことができるようになる。これは、教師が教師であるためのアザーリング(othering)の原型を取り戻すことである。
 
 3 教育実践の共生・共同性
 子どもと教師 → 次項Uで論じる。
 教師と教師、教師と保護者の関係性を読みひらくことも、実践の内。
 教師の仕事は、子どもとの関係だけで規定されるわけではない。教師の様々な悩みや課題を理解し、これを共有化し支援する多数の他者の存在が不可欠である。まずは、同じ職場の同僚である。ある困難さを抱えている学級担任がいたとしても、教師間にその担任の葛藤を理解しようとする関係性が築かれている場合には、当人が日々のトラブルや子どもの暴力的言動に直面はしても、なんとか見通しを持ちながらそれを乗り越えていくことができる。
 今一つ、重要な課題がある。それは、担任する子どもたちの保護者および市民からの理解と支援である。この人々も教師の仕事を支える重要な他者である。この次元でのアザーリング(そうした他者との対話や交流による自己実現)がどの程度可能になっているか、教師の欲求や願いが保護者たちによってどのように理解され共有化されているか。ここが肝要なのである。教師の欲求や願いは、指導の手だてを編み上げていく原動力であって、それらを保護者たちが共有することは、教育実践を展開する重要な推進力となる。
 
U 子どもの「荒れ」を読みひらく;反貧困の視点から
◇「荒れ」とは
「荒れ」とは、自分では引き受けがたい競争的で関係破壊的な現実に投げ込まれていると感じることから来る緊張・不安・恐れの表出である。
 
 1 子どもの苦悩と貧困の構図
 ・社会権(憲法25条、26条、27条)そのものの危機
 ・新自由主義と競争主義の合体した「自己責任」観念装置による関係性の破壊
 これら二つの次元の事柄が、保護者の就労実態や経済的不安定さを介して、子どもの日常生活に現れる。その「現れ方」の中に、子どもの懸命の意見表明がある、という認識から出発するのが生活指導の立場である。「生徒指導」では、学校システムの構成員である「児童・生徒」の見方に立つために、それができない。
 詳細は、全生研全国大会第51回大会基調提案(『生活指導』8月号に所載)を参照されたい。
 
 2 「派遣村」で市民が示した「人間運動」
 「今日多くの人の生存の危機をひき起こしたのは制度を生み出した政治なのであるから、その政治を支えている日本社会の構成員が、人間としての責任を負うために動かなければならないという意味で、今日求められているのは『人間としての運動』あるいは『人間運動』だとみるべきである」(石田雄の論文、宇都宮健児・湯浅誠『派遣村 何が問われているか』岩波書店、2009年所収、156頁)。
 支援し支援される者同士が、「自己責任」イデオロギーを突き抜けて、「『他者感覚』をとりもどすことで自分の人間性を回復している」(同書、158頁)。
 この市民社会の現実と同じ小さな公共空間が、いま、学級やクラスに起こりがちである。そのとき、子どもたちなりの若い「人間運動」をどう起こしていくか。その可能性を読み取り、そこに必然的に起きる対話を促し、支え、どのような「声」も意見として認め合い、その表現のリスクを教師が乗り越えさせる指導が、反貧困の視点をもった生活指導であり、そのような集団をめざす実践がいま求められる集団づくりだ。
 
 3 支援としてのエンパワメント(empowerment)
 エンパワメント;社会的弱者やマイノリティの権利獲得と自立を支え、共に歩む営みのこと。
 子どもへのエンパワメントの中で、教師がエンパワーされる。事態の共生力。
 
V 市民的自立をどうとらえ、どう構想するか
 
 1 市民とは
 国民とは、憲法によって構築される国家の構成員(公民)、それは各個人にとって法の下での平等と諸権利を対象化した存在。市民は、私的生活をもちながら統治に参加する権利主体であり生活者であって、国家の外に位置し国家を監視し、政治に参加できる諸個人のこと。→ 市民を定義すると;
 私的生活領域を持って、自己の関心や興味に沿って活動し、必要や要求に応じて他者との共同の行動に参加し、対話し、意見表明ができる社会性を備える個人。
 
 2 市民的自立の基礎的なテーマ(5つの要件)
・権利Right as the citizen ・責任Responsibility
・参加Participation ・自治Self-government ・アイデンティティIdentity
 これらの要件を教える(子どもが認識する)機会は、子どもたちの生活の中に、そのトラブルや問題の中にある。それを読みひらいて教材化すること自体が、教師の指導性(生活指導力)である。
 
 3 差異と相互承認
 大事なことは、言説や政治スローガンによって社会的に構築された「差異」を、自分で相対的にみる視点と能力を身につけること、また子どもたちにそのような「生き方」を育てること。→ その知力の獲得としての学び → 脱構築(De-construction)の視点
 実践 いじめ問題も、教室内の社会的言説に影響されるところが大きく、いじめ・いじめられ関係における行動の指導と共に、そのような言説にかんする認識を脱構築していく認識指導の視点も必要である。言い換えれば、誰かがいじめの標的になるにあたって、その子どもの行動や態度にかんする、いじめる側のイメージ言説が必ずあるので、なにがどう事柄を言い当てているのかを読み解いていくこと。 
 実践「この班のユニークな点は、○○だね」「この班の工夫したところはどこだろうか」と、活動の質に目を向けさせ、班を画一化して評価しない指導法が求められる。
 
 4 民主的公共圏(公共空間)としての学級集団
 暴力ではなく、合意されたルール(きまりや法)並びに相互的な関係性の自覚にもとづく相互承認という本来の集団原理が生きて働くこと、ここに学校教育の可能性がある。子どもたちが公共性を体験し、公共的な場で、関係で、どう生きていくか、何が大事かを認識できる活動プログラムが学校教育には必要である。
 実践  自閉症的傾向のAの支援: 幼稚園に途中から行けなくなったあとに入学。1年担任は、本人および子ども集団に他者性を気づかせる指導を行っている。「A君は学校に通うのが初めてだからいろいろ教えてあげて」「1年3組だからA君は学校に来られているんだよ」
 子どもたちは、日直や給食当番の仕方のうちAにできそうなことを選んで教える。学芸会の練習でせりふがうまく言えなくても非難しない。
 母親から「『学校』をあきらめていたが、Aが学ぶよろこびを感じているのを見て変わった」とのお礼の言葉。(以上は、同担任の指導を観察した大学院生報告より)
 
W 学びと自立
 
 1 自己の対象化行為
 学びにおける子どもの自己対象化:自己の経験や知識を、言語や制作などで表現し、他者との間で共有できるものとして外に表し出すこと。獲得と対の行為。
 「学び」の自己対象化がよみがえり、活き活きとすればするほど、「学び」は子どもの人格形成と能力発達を支援する機能として働く。 
 ○ 個人の考えや意見を持たせる教材提示
 ○ 他者とのつながりを呼び込む「問い」の提示ならびに発問の構成
  ※ 「優等生」が間違え、「自信のない子」が正答を予想したり、周りを納得さ せる読みをしたりするなど、測定「学力」が相対化されるような授業構成。
 ○ 発言、人前での発表、表現など広義のコミュニケーションにおける他者の意識  化
 ○ 幼児の遊びを観察していると、対象化には他者化が必ず伴っている。
楽しいことは自分からやってみたい ? そこに他者を参加させたい(ファンタジーを共有する他者が居るから、楽しい) ? 楽しさを周りと共有したい(「見て」) ? 楽しい経験は周りの人に伝えたい(物語化) ? その相手の応答で自分の経験を意味づけ直す ? 次にも「○○をしたい」と言語化・イメージ化される。
 
 2 対話とコミュニケーション
 「表現すること、コミュニケーションすることは痛みやリスクを伴う」ことを実践で体験しながら、いかに相手に伝えるか、わかり合いを求めてお互いの意見が変わっていけるかを学ぶのが、対話の教育である(北川・平田、2008)。「対話というのは、価値観を意図的に衝突させ、それによってお互いに変わっていく作業」(同前)
フィンランドの教育を長年見てきた北川:「シンパシー(感情移入)型の対話から、エンパシー(自己移入)型の対話へ」。お互いの価値観の違いを認めてそれをすりあわせていく様な、他者との共生、他者と対話できる力を持った個人に。
実践「もし自分がその立場だったら、どう考えどう行動するかを考えていくように」という指導を。
実践 全生研の「討議づくり」を、(組織内民主主義の色合いが強い,現在の方法論を脱構築して)子どもたちにとっての「対話のレッスン」として再構成し、もともとわかり合えない対他者関係において、「伝え合う」「合意する」さらには「決める」とはどういうことかを実践的に学ぶ教育として構想し直す必要がある。 
 
X 学校づくり、〈教育の仕事〉づくりの未来
 
 1 教育実践
 他者とのつながり・出会い直しを通して、他者との関係と自己の自立の意味を学ぶのを援助し導く実践 (折出編著『生活指導』(教師教育テキスト)学文社、2008年。)
 
 2 『子ども集団づくり』のテーマ
 学級集団づくりは、自己組織の「外側に」子ども集団を豊かに生み出しつつ、その子ども集団によって知的・文化的にリードされながら、学級制度そのものを、秩序とルールによって運営される民主的で公共性のたかい自治的集団に育てていく営み。
 公共性とは、意見(価値観)の違いを認め、各自が意見を言う自由ならびに共同による決定が相互の意志によって保たれている活動空間のこと。
 市民的公共性が集団づくり・学校づくりの主題になっている。
 
 3 対話の再生から、教育的関係性の再構築へ
○小さなことでよいから「物言わぬ教師」「物言えぬ会議」に、抗していく。
○冒頭のような学校(職場)の実態を、ひろく市民に伝える。
○教師として「何がしたいか」「どのような〈教育の仕事〉をめざすか」を、教師同士も語り合うととともに、市民社会に公的に発信する。
○その実現にとって、市民有志の協力・共同を得ることを過小評価しないで、そこに学校を変えるおおきな意義と切り口があることを認めていく。
○新任教師を育てる主体を、所属学校の教師集団が担うという方針をもって、若い教師を育てながら、校長をはじめとしてベテラン自身も〈教育の仕事〉と出会い直す。いま、職場にこの「物語」が生まれず、無機質的になり殺伐として、余計に「出勤拒否」に陥って行きやすい。
○社会は、中央集権的文部行政への従属から、教育委員会の、真の地方分権確立の方へ動いていく。ジグザグはあるが、確実に新しい世代の保護者意識がそれを突き動かしていく。そのための良心的監視役としての保護者層の重要性が増していく。その保護者層は自然発生ではダメで、それを引き出す(educate)のは、何よりもまず、学校を、教育を、自分の言葉で語れる、そしてそう語るべき教師であるあなた方だ。
 
《参考図書》
折出「市民的自立の学校〜関係性の再構築」「哲学から未来をひらくシリーズ第二巻『生きる意味と生活を問い直す〜非暴力を生きる哲学』」豊泉周治・佐藤和夫・高山智樹編、青木書店刊(7月23日)所収。
折出「道徳教育とアザーリング」民主教育研究所編『人間と教育』第62号、旬報社、2009年、88〜95頁。
折出『変革期の教育と弁証法』『市民社会の教育〜関係性と方法』『人間的自立の教育実践学』いずれも創風社。表紙画は三冊とも愛生研・角岡正卿氏の画。
北川達夫・平田オリザ『ニッポンには対話がない〜学びとコミュニケーションの再生』三省堂、2008年。
木村元・小玉重夫・船橋一男『教育学をつかむ』有斐閣、2009年。
 
 
 
 
 
愛生研(40周年)                 2009.7.5.
今こそ、生活指導・集団づくり
〜子どもと教師が立ち上がるとき〜
                  折出 健二
はじめに
広島から愛知に来て、33年。愛生研・全生研などの生活指導研究の歩みと重なる。改めて、40周年、おめでとう!
1 市民的自立をどうとらえ、どう構想するか
国民とは、憲法によって構築される国家の構成員(公民)、それは各個人にとって法の下での平等と諸権利を対象化した存在。市民は、私的生活をもちながら統治に参加する権利主体であり生活者であって、国家の外に位置し国家を監視し、政治に参加できる諸個人のこと。
◇市民とは
私的生活領域を持って、自己の関心や興味に沿って活動し、
  必要や要求に応じて他者との共同の行動に参加し、
対話し、意見表明ができる社会性を備える個人。
An individual having a personal life domain, and to be active along interest of the self, participating in a joint action with other depending on need and demand, and comprising the social nature that he/she talks and is possible on opinion expression.
◇市民的自立の基礎的なテーマ(5つの要件)
・権利Right as the citizen ・責任Responsibility
・参加Participation ・自治Self-government ・アイデンティティIdentity
これらの要件を教える(子どもが認識する)機会は、子どもたちの生活の中に、そのトラブルや問題の中にある。それを読みひらいて、教材化することが教師の指導性である。
◇本来の市民、日本人らしさ;差異と共同と相互承認
集団-内-承認(acknowledgment in the inside of group)
  集団内の対話を通じて個人のアイデンティティが形成される
  最近の「居場所」論、 「セーフベース」論
集団-間-承認(acknowledgment in group interval)
  多様な文化(集団)間の承認、多様な文化(集団)の差異の擁護
  少数集団を多数集団へ同化しないで、その差異を維持する
@集団-内-承認では、個人のアイデンティティは、その集団の共同性や文化を離れては考えられない。ところが、集団-間-承認において、各集団の文化が「単一の文化」とみなされると、集団-間の関係では「多様性」とか「多文化」としながらも、それぞれに所属する集団内では個人にその「単一文化」が押しつけられることになる。
A内部で集団のまとまりや単一文化を求め、外の文化(集団)間では差異に固執する。→ 実社会では排外的なナショナリズム、原理主義になる。
B内部的な「単一文化」を相対化・多様化しつつ、外部的に文化の差異を肯定するがこれに固執せずに、個人の選択にゆだねる。→ リベラリズム
C大事なことは、言説や政治スローガンによって社会的に構築された「差異」を、自分で相対的にみる視点と能力を身につけること、また子どもたちにそのような「生き方」を育てること。→ その知の力の獲得としての学び → 脱構築(De-construction)の視点
実践「この班のユニークな点は、○○だね」「この班の工夫したところはどこだろうか」と、班を画一化して評価しない指導法が、求められる。
D暴力ではなく、合意されたルール(きまりや法)にもとづく相互の承認という本来の集団原理が生きて働くこと、ここに学校教育の可能性がある。子どもたちが公共性を体験し、公共的な場で、関係で、どう生きていくか、何が大事かを認識できる活動プログラムが学校教育には必要である。? 集団づくりの必要性
Eルールと公共性によって成立する民主的公共圏としての学級集団を形成し、この外に、主体者相互の開放的な関係性をベースにもつ子ども集団を豊かにつくりだす。
【閑話休題 1】わたしの社会論とビジョン
憲法および諸法律にもとづく立憲民主主義国家を築き上げ、その外にまたそれを貫いて、平和的生存権の認識と行動などにおいて民主主義的に成熟した市民社会と地方自治をつくりだす。このことが、日本という現代国家の形成の基軸。この国家のちから(政府の政治力)で、現行の対米従属型の安保条約を破棄し、相互に対等な日米友好条約を締結することで国際社会の付託にこたえる日本、すなわち憲法九条の原理に立つ国際連帯と平和主義の日本の形成をめざす。
【閑話休題 2】ダヴィンチ・コードならぬ、ヘーゲル・コード
「理性的なものは現実的であり、現実的なものは理性的である」(『法哲学』序文、1821)この命題は、現実の肯定と聖化だと表面的に理解されたために、当時のプロイセン政府からは感謝され、逆に自由主義者からは激しい怒りを買った。しかし、ヘーゲルの真意は、そんなところにはない。概念によって確かめられた合理的なものは必ず実現し、そうでない現象物は必ず瓦解する、という隠れた革命コードがそこには刻まれている。現代風に読み替えると→「この時代の真っ只中を理性的に徹底して生きることが、人間としての本来の理念(平和、共生)および主体的な自由意志を実現することになる。そうでない形で築かれる現象・構成物(制度や組織など)は、必ずや崩れ去る。『新自由主義』の政治・経済・文化現象とその崩壊過程を見よ。」→ 小林多喜二『蟹工船』の革命コード。
2 学びと自立
◇自己の対象化行為
学びにおける子どもの自己対象化:自己の経験や知識を、言語や制作などで表現し、他者との間で共有できるものとして外に表し出すこと。獲得と対の行為。
「模倣」としてきたことは、実は、対象化の一種。「まねる→ まねぶ →学ぶ」とされた文化への適応について、柳田國男は、「学を『まなぶ』と読んだのは間違い。『さとる』とすべきであった」と批評している(『国語の将来』)。
 → さとる=対象と自己との関係、対象に接する(対象を扱う)作法を自覚すること、これが学習の真髄。
「学び」から、自己対象化の楽しさ、解放性、達成感などをうばっているのは、何か? また、それはなぜか? 「学び」が子どもの自己対象化へと回復して行くには何が必要か?
「学び」の自己対象化がよみがえり、活き活きとすればするほど、「学び」は自律と自己ケアの行為に転化していく。 → 幼児の遊びを見よ。
貧困の現実の中に、反貧困の芽をつかみとる学び。生活を教材化するチャンス。
◇対話とコミュニケーション
「表現すること、コミュニケーションすることは痛みやリスクを伴う」ことを実践で体験しながら、いかに相手に伝えるか、わかり合いを求めてお互いの意見が変わっていけるかを学ぶのが、対話の教育である(北川・平田、2004)。
「対話というのは、価値観を意図的に衝突させ、それによってお互いに変わっていく作業」(同前)
フィンランドの教育を長年見てきた北川:「シンパシー(感情移入)型の対話から、エンパシー(自己移入)型の対話へ」。お互いの価値観の違いを認めてそれをすりあわせていく様な、他者との共生、他者と対話できる力を持った個人に。
実践「気持ちを込めて話しましょう」ではなく、「もし自分がその立場だったら、どう考えどう行動するかを考えていくように」という指導を。
平田:演劇のレッスン「電車の中で、他人に声をかけてその隣に腰掛ける」。「普段は話しかけない自分がどんな自分になるだろう」と、自己の中の他者を発見することが大事。
実践 全生研の「討議づくり」を、(組織内民主主義の色合いが強い,現在の方法論を脱構築して)子どもたちにとっての「対話のレッスン」として再構成し、もともとわかり合えない対他者関係において、「伝え合う」「合意する」さらには「決める」とはどういうことかを実践的に学ぶ教育として構想し直す必要がある。 
3 子どもの「荒れ」を読みひらく;反貧困の視点から
◇子どもの苦悩と貧困の構図
・社会権(憲法25条、26条、27条)そのものの危機
・新自由主義と競争主義の合体した「自己責任」観念装置による関係性の破壊
 これら二つの次元の事柄が、保護者の就労実態や経済的不安定さを介して、子どもの日常生活に現れる。その「現れ方」の中に、子どもの懸命の意見表明がある、という認識から出発するのが生活指導の立場である。「生徒指導」では、学校システムの構成員である「児童・生徒」の見方に立つために、それができない。
◇「派遣村」で市民が示した「人間運動」
 「今日多くの人の生存の危機をひき起こしたのは制度を生み出した政治なのであるから、その政治を支えている日本社会の構成員が、人間としての責任を負うために動かなければならないという意味で、今日求められているのは『人間としての運動』あるいは『人間運動』だとみるべきである」(石田雄の論文、宇都宮健児・湯浅誠『派遣村 何が問われているか』岩波書店、2009年所収、156頁)。
支援し支援される者同士が、「自己責任」イデオロギーを突き抜けて、「『他者感覚』をとりもどすことで自分の人間性を回復している」(同書、158頁)。
この市民社会の現実と同じ小さな公共空間が、いま、学級やクラスに起こりがちである。そのとき、子どもたちなりの若い「人間運動」が起こる可能性を読み取り、そこに必然的に起きる対話を促し、支え、どのような「声」も意見として認め合い、その表現のリスクを教師が乗り越えさせる指導が、反貧困の視点をもった生活指導であり、そのような集団をめざす実践が、いま求められる集団づくりである。
【参考図書】折出「道徳教育とアザーリング」民主教育研究所編『人間と教育』第62号、旬報社、2009年、88〜95頁。
◇「荒れ」とは
「荒れ」とは、自分では引き受けがたい競争的で関係破壊的な現実に投げ込まれていると感じることから来る緊張・不安・恐れの表出である。
“Rough state" are expression of strain, uneasiness and the fear when a child feels that it is thrown into reality like the competition and destruction which it is hard to undertake for him/her.
◇ 「荒れ」の社会的性格
縦の格差、横の排除という二重の仕切り作用
学習された攻撃性 The learned aggressiveness.
◇「荒れ」の個人的性格
・アクティングインを内側にふくんだアクティングアウト
・原初的なスピークアウト→ その子なりの意見として向き合える環境づくり。
◇支援としてのエンパワメント(empowerment)
エンパワメント;社会的弱者やマイノリティの権利獲得と自立を支え、共に歩む営みのこと
子どもへのエンパワメントの中で、教師がエンパワーされる。
※ いま流行っている「手紙」という歌(歌手:樋口了一)では、「年老いた私」から子どもたちへのメッセージが歌われている。子どもたちに「私を理解して支えてくれる心」をもってほしい、と。それは、かつて、子どもたちが幼い頃に、親として、子どもの世話にあたった時の、その関係性と似ている中身なのである。「あなたの人生の始まりに私がしっかりと付き添ったように、私の人生の終わりに少しだけ付き添って欲しい」。この思想こそ、家族という身近な親密圏における他者とエンパワメントの思想なのである。
4 生活指導の未来
◇生活指導
「生活指導とは、他者とのつながり・出会い直しを通して、他者との関係と自己の自立の意味を学ぶのを援助し導く実践である」
(折出編著『生活指導』(教師教育テキスト)学文社、2008年。)
Life guidance (Seikatsushidou) is a practice which supports and guides learning what the relation to other and self-reliance of a person are, through the connection with other and re-connection.
◇日本的文化の良さと克服の課題
東洋社会における自立をめぐる困難さ;家族、秩序、集団等からの期待、それらへの順応などの網の目に織り込まれている自己→相互依存関係の中での自己肯定。実践「以心伝心」「察しの文化」を超えて、(伝わるのは困難だという前提で)相手に説明する対話の教育を。→ 市民的自立の指導に。
西洋社会:個人主義思想を背景とする個性と自律の強調による疎外された自己→ 空虚感ゆえに親密さを強く求める。いつも相手を確認しながらつながる必要がある。その一方で、個のいっそうの徹底としての市場主義が浸透。
近年の日本社会でも、市場主義・個人競争主義が浸透し、家族内の孤立化が進み、親から十分な注意を向けられないために自分に原因があると「自分を責めてしまう」子ども、いわば、西洋社会型の「疎外された自己」イメージに苦しむ子どもが増えている。             
◇これからの「集団づくり」の方法論
 「みんなで決めて、みんなで守る」 → 自治的能力の基礎を象徴する指標。
関係性の認識を育てないと、集団構成員の関心が、組織内の関係や統制に向かいがち。 ← 組織内民主主義の指標・スローガン。
「共同で決めて、共同で変える」;構成員の関心は「何を、どうつくりだすか」に。集団の外にいつも関係を開いていく指標。
 上記のいずれにあっても、「選ぶのは、決めるのは子どもたち自身だ」という子ども観が重要。論議をつくした上での「多数決」の合理性も、学ぶことの一つ。
◇『子ども集団づくり』のテーマ
 学級集団づくりは、自己組織の「外側に」子ども集団を豊かに生み出しつつ、その子ども集団によって知的・文化的にリードされながら、学級制度そのものを、秩序とルールによって運営される民主的で公共性のたかい自治的集団に育てていく営み。
公共性とは、意見(価値観)の違いを認め、各自が意見を言う自由ならびに共同による決定が相互の意志によって保たれている活動空間のこと。市民的公共性が集団づくりの主題。
これからの10年、15年は、いままでにない激動と変化を経験するであろうから、それだけに、学校教育(公教育)において、市民的公共性の実践的・具体的指導はますます重要になり、そこにこそ生活指導実践の固有の世界が築かれていくべき。
 
《参考図書》
折出『変革期の教育と弁証法』『市民社会の教育〜関係性と方法』『人間的自立の教育実践学』いずれも創風社。表紙画は三冊とも角岡正卿氏の画。
北川達夫・平田オリザ『ニッポンには対話がない〜学びとコミュニケーションの再生』三省堂、2008。木村元・小玉重夫・船橋一男『教育学をつかむ』有斐閣、2009。

『全生研 50年の歩み』刊行に向けて

2008年7/31〜8/3、大分の湯布院で開催される全生研の第50回大会を記念して標記の大会基調提案集を自費出版で刊行します。

その原稿として「刊行にあたって」と、第41回大会から50回大会までの基調提案に関する解説的な論文を、私が依頼を受けていました。

しかし、毎日の理事の業務で、そうした論理的思考モードに切り換えがたく、やっっと締めきり間際に、夜間に集中的に書きました。400字詰めで、約20枚の原稿です。「刊行にあたって」も、その後で、一気に書きました。

こんなに論文作成で苦しむのも私としては珍しいのですが、やはり、研究や文献の読み・分析的思考から遠のいているからでしょう。これは、怖いことでもあるし、逆に、いかに理事職というものが、実践対応で経営的な業務になっているかを痛感しました。

同書は、全生研常任委員会による私家版のかたちの刊行です。直接そこに問い合わせるか、私に伝えてくだされば頒価でお分けできるはずです。



名古屋中学・高校保護者会での講演

2008年7/6に標記の講演に行きました。これは、これまでの名称で言えば名古屋学院大学附属中・高校による「七夕フォーラム」という自主行事の一環で、会場には、約60名の保護者・教員が参加。まず、同高校弦楽部の生徒四人による「カノン」の演奏から始まりました。

わたしは、「親として思春期の子どもにどう関わるか」という講演で、パワーポイントを使いながら、私の持論である「アザーリング」の話をかみ砕いて述べました。そのなかで、実際にあった例として、研究職を目指してきたある青年が進路を大きく転換し、今までとは違う分野で生きていくことを決意したという最近のエピソードを(個人情報には配慮した上で)紹介し、このことのもつ意義として、最後は、本人が人生を選び取る主体者なのであって、親としては、いかにその伴走者としての役割を果たすか、だと述べました。

主な展開は下記の通り。

1)折出の講演 2)4者によるディスカッション *卒業生の親の報告も含む *4者:折出,親,高2生徒(2名),教師(高1) 3)質疑応答 参加者を交えての討論

この中で、息子さんと激しい葛藤を経験した、同校卒業生の親であるSさんの発言がとても良かった。また同校高校生のM君は、ガンで入退院を繰り返す母親に、中学生の当時、ため口で逆らったこともあったが、今から二年前母を見送ってからは、いっそう「お帰り」「行っておいで」と、当たり前の言葉掛けをしてくれる親の存在がいかに大事かを痛感する、という話をしてくれました。

いずれも、私にとっては、「アザーリング」を実証するすぐれたエピソードであり、聴いている内に目頭が熱くなって、こらえるのに大変でした。

会場の高校生の進路をめぐる悩みの発言に、すかさず、フロアの保護者(母親)からご自分の子どもの経験も交え、発言した高校生を励ますエピソードが熱く語られました。司会者(同校教員)が「すばらしい進路指導をありがとうございます」とコメントして、会場はドッとわきました。楽しく、しかもしっかりと「魂にしみ込んだ」(保護者代表の言葉)集会でした。(7月6日 記)



「関係性」の言葉は社会に定着している

『朝日新聞』2008年6月6日付夕刊五面では、橋口亮輔監督作品「ぐるりのこと。」を批評しています。ここで取り上げたいのは、その映画の内容よりも、批評文に4回も「関係性」が使われていることです。それは次の通りです。

「人と人との関係性ははっきり目に見えるものではなく、じっと固定されたまま維持されるわけではない」

「(この作品は:折出)人と人との関係性を、その“揺れ動き”のままに可視化する野心作である」

「“不可視なもの”に呪縛された2人の関係性の“揺れ動き”」

「いわば剥き出しの関係性のドラマへと2人を容赦なく追いやる」

この筆者(映画評論家の北小路氏)は「関係性」という概念をよくつかんでいると思います。すなわち、不可視的なものを内側に抱えながら、それが関わる者同士の目に見える行動や言葉に顕れ、その交差する行動・言葉によって、逆に不可視的なものが少しずつ変化していく。この動的な過程の全体が関係性なのです。

つまり、目に見える事柄と、目には見えない事柄とが矛盾しながら、この矛盾によるお互い(この作品では、夫婦の二人)の変化、出会い直し、改めての相互の承認に、私たちの生活や生きることの意味があると見るから、関係性に着目するのです。

可視的な事柄だけでものごとを認識できているなら「関係」の概念で十分に済むでしょう。「関係性」が、1990年前後から思想・社会論の分野で使われ出して、こうして映画批評にまで使われ出したことは、その用語がほぼ定着していることをうかがわせます。

しかも、新自由主義の政策的な浸透と比例するかのように「関係性」が語られ、広がってきたことにも意味がありますが、ここでは深入りしません。

わたしが、小著『市民社会の教育〜関係性と方法』創風社刊で、副題に「関係性」をつかったのは、卒論でヘーゲルをやって以来の、この哲学者の基本概念が「関係性」(BeziehungenまたはWirklichkeit)にあると読み取り、それを今日の生活指導論・集団づくり理論で打ち出して行きたいと考えたからです。

言葉が時代の変容を先取りし、あるいは映し出し、その言葉で身近な生活や事象を切り取ると、今まで見えなかったことが見えてくる。それでまた、いっそう見え方がとぎすまされ、何をどう見て行動すべきかが自覚的になり、これらの過程がその言葉に一層の輝きを与える。こういうことがあります。

「関係性」の言葉も、このようにして一層磨きがかけられていくのではないでしょうか。



小林多喜二『蟹工船・党生活者』

標題の文庫本が、なんと文庫コーナーで平積みされています。名古屋駅前の地下にある、通路に面した比較的中規模の書店でのこと。

私が手にして購入したのは、新潮文庫版で、奥付を見ると、初出が「昭和28年6月28日」、そして最新版が「平成20年5月15日97刷」とあります。新聞の読書欄でも、この『蟹工船』は取り上げられ、いま、若いひとの間で「これは俺たちのことではないか」と話題になっているようです。

ワーキングプアの実態、はげしい格差社会において、まるで「使い捨て」ぞうきんのように扱われている現代労働者にとって、『蟹工船』に登場する漁夫たちの姿、船長(監督)によってこきつかわれる場面は、まさに自分のことのようにうつるのでしょう。

この作品には、「私」とか、たとえば「健二は・・・」といった、特定の話者も人物も出てきません。漁夫たちみんなが、主人公という作風になっています。

言い換えれば、かれらは、未組織ではあるが、資本主義の真下でその搾取にくるしめられる労働者群を象徴しています。

あまりの過酷さについに、三百人の漁夫たちがたちあがり、ストライキにはいって、これをバックに監督に要求事項を突きつけます。しかし、翌朝、監督がひそかに連絡を取って駆逐艦をまねきよせ、銃剣を持った水兵たちが乗り込んできて、ストライキ行動の表に出た漁夫リーダーの9名を連行していきます。

そこで、「俺たちには、俺たちしか味方が無えんだ」という、有名なせりふが語られます。監督は、ストライキの失敗以後は、いっそう過酷な条件で働かすようになり、まさに生きるか死ぬかの瀬戸際に漁夫たちは立たされます。

そのときです。漁夫たちは、リーダーはいなくても自分たちで決断します。

このままだったら、本当に殺される。一緒にサボるしかない。(連行されたリーダーの一人が言っていたように)何よりも力を合わせることだ。また奴らが駆逐艦呼んだら、こんどは全員で連れられていけばよい。何も恐れるものはない。

「死ぬか、生きるかだからな」「ん、もう一回だ!」そして、彼等は立ち上がった。ーーーーもう一度!

これが、この小説のラストです。

多喜二が26歳の時の作品(発表時、1929年、彼の第二作目)とされています。そのあと、3年後に特高に検挙され、拷問によって獄死させられます(享年、29歳)。

いまこれが若い人も交えて、書店に平積みされるほどに読まれると言うことは、現代社会の地層の、目立たないところで、この地殻を変えるであろう、なにかエネルギーがじわっと蓄積されつつあるのを暗示しているのかも知れません。

ただ、それに「点火」できるかどうかは、自然発生的ではなく、内部からの、新たな他者の登場が必要です。自分たちの生き方の意味を見つけさせてくれる他者、です。



頭脳明晰な若者がどうして犯罪を:オウム事件が問いかけたこと

推理作家の佐木隆三氏が「オウム事件から見えてきたこと」と題して講演をした全容をNHKラジオ第二放送の番組で聴きました(2008年4月20日)

氏は、オウム事件の麻原裁判の第一審すべてを傍聴し(第二審は結局開かれないままとなった)、また同事件の関連裁判についても傍聴ないし判決等の精査などをおこなっています。同事件は林泰夫被告の上告却下で死刑判決が5名になるとともに、現在最高裁で争っている8名についても今年から来年にかけて判決が出る予定。

麻原被告に関しては、2004年2月27日、東京地裁第257回公判で死刑判決が出され、弁護団が控訴。しかし、東京高裁では、2005年8月を期限とした控訴主意書が弁護側から出されず(被告の訴訟能力が困難との理由)、これに対して東京高裁は「被告の訴訟能力はある」として控訴を棄却、一審支持で死刑判決。弁護側は特別抗告申し立てをしたが最高裁は「原原審(一審)の判断を揺るがす事実は見たらず」として、これを棄却。2006年9月死刑が確定。

推理作家らしい供述調書や公判記録、判決のくわしい分析を基にした講演は、まさに大学の講義のような展開でしたが、私にはとても感銘を覚える内容でした。講演はやはり話者の事実認識や体験の語りが魅力を左右すると、学びました。

さて、佐木講演の山場は、「理系の高学歴の信徒たちが、命ぜられた殺害に関わったのはどうしてか?」と自ら問いかけたところ。「そのヒントが公判の中にあります」と述べ、広瀬被告(早大大学院修士課程修了)の公判で証言に立った指導教授と弁護人とのやりとりをくわしく報告しました。同被告は、主席修了で記念の銀時計をもらったほどの優秀な学生。その彼は、当時はまだいまほど注目されていなかった超伝導理論で卒論を書き、進学してからそれに基づく磁気式浮揚の研究で、指導教授と一緒に国際学会誌に共同論文を投稿するも、はじめは却下されます。二回目は掲載。その後、突如、彼は「出家する」と言い出した。その理由は、(自分は磁気式浮揚を研究してきたが)「麻原は空中浮揚をする」、その麻原に師事したいためだと。

自分の学問的な(優秀な)研究の挫折感からなのか、磁気式浮揚の研究という「科学の目」ではとらえられないものを、「麻原浮揚」にみたからなのか、そこは不明ですが、ただ前述の指導教授が「理系学生は忙しい。哲学や文学をよむ時間がないほどだ。そこに問題があるように思う」と法廷で証言されている点に大事なヒントがあるように思います。



ここに一日いて、いいでしょうか

2008年4月19日の早朝、「ラジオ深夜便」の番組〔こころの時代〕では、「ここに一日いて、いいでしょうか〜お寺と市民のいい関係」と題して、大蓮寺住職・應典院代表(大阪市)の秋田光彦氏が話していました。

應典院とは、「一般的な仏事ではなく、かつてお寺が持っていた地域の教育文化の振興に関する活動に特化した寺院として計画され、〈気づき、学び、遊び〉をコンセプトとした地域ネットワーク型寺院として」活動し、「音響・照明施設を備えた円形型ホール仕様の本堂をはじめ、セミナールームや展示空間を備えており、演劇活動や講演会など様々活動に」取り組んでいることで有名らしい。(引用は同院の概要記事より)
若い人も相当数のひとが訪れるようだ。

約一時間に及ぶ秋田氏の活き活きとした説得的な話のポイントは、わたしの感じでは、氏の言葉では「寺は、他者とつながる場だ」に尽きるでしょう。

秋田氏みずから、居場所探しの経験があります。大学時代に演劇活動をやっており、卒業後、寺の息子として30代で得度(僧侶の資格取得)したが、「寺とは何か」「僧侶とは何か」の問いで考え続け、ついにはアジアの寺を訪問する遍歴の旅に出たそうです。
そうして帰国後、前述の浄土宗の寺の住職に任命された際、思い切って寺のコンセプトを変えました。多くの寺院が行き詰まり、マンション経営に乗り出したり、土地に手を出したりする中で、そう決断したとか。「逆転の発想です」と、本人も言っていました。

あるとき、お寺に来た初めてのひとが言った言葉。それが標題の言葉です。秋田氏は、この人との出会いで「寺とは何か」を教えられたとも話していました。「ここに一日いて、いい」そういう場と人とのゆるやかなつながり・空間。それが現代の何かを問いかけているのでしょう。

應典院の活動や秋田氏の考え方は、立命館大学リレー講座第8回「現代社会と宗教」の講師として、浄土宗大蓮寺住職、應典院主幹秋田光彦氏の話が『読売新聞』(http://osaka.yomiuri.co.jp/ritsumei/rs50601b.htm)に紹介されています。



憲法九条の存在

名古屋高裁(青山邦夫裁判長)は2008年4月17日、航空自衛隊が首都バグダッドに多国籍軍を空輸していることについて「憲法9条1項に違反する活動を含んでいる」との判断を示し、結論は原告側の敗訴(イラクへの自衛隊派遣差し止めと賠償請求は原告の利益なしと、却下)としました(『朝日新聞』名古屋本社版、4/17夕刊より)。

勝訴した国は上告できず、原告は敗訴したものの、違憲判決が示されたので上告せず、となりました。裁判には負けたが憲法判断では勝った、の戦術とも言えます。

判決が「イラク国内での戦闘は、実質的には03年3月当初のイラク攻撃の延長で、多国籍軍対武装勢力の国際的な戦闘だ」と指摘したことは重要。

「多国籍軍の武装兵員を戦闘地域であるバグダッドに空輸する」のも、同地域に物資を空輸するのも同じであるとは、江畑謙介氏によると、「軍事的な世界の常識」(同前紙4/18朝刊)。航空自衛隊の活動が武力行使と一体化したもの、との名古屋高裁の判断は、合理性があります。よって、同判決が「武力行使を禁じたイラク特措法に違反し、憲法9条に違反する活動を含んでいる」としたことは、妥当な判断だと思います。

 〈憲法9条1項〉(戦争の放棄) 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇または武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

本記事にあたり、朝日コムの報道を参考にしました(アクセス日:2008.4/18http://www.asahi.com/national/update/0417/NGY200804170005.html)。



「教師になったあなたへ」

4月からいよいよ教職の仕事についてあらたな生活を始める皆さん。

じわじわと緊張も増しているかも知れませんが、若い皆さんに語りかけるような教育誌が発行されています。それが下記の雑誌です。

『クレスコ』(全日本教職員組合編・大月書店刊)

雨宮さんのいう「カッコ悪いところをさらせる先生」になるのは案外むずかしいけれども、何でも百点の「パ−フェクト・ティーチャー」をめざすのはやめよう、というメッセージと受け止めて読むと、こころに浸みると思います。



「2008年インディペンデント・スピリット賞」

CATVで、「2008年インディペンデント・スピリット賞」の授賞式を観ました。英語の勉強を兼ねて。

これは、その年の最も優れた独立系作品やその出演者を表彰するイベントです。別名「独立系映画のアカデミー賞」といわれるもので、ハリウッド系の、メジャースタジオによって成り立つ「アカデミー賞」の前日に、毎年行なわれてきました。今回は、さる2月23日(アメリカ時間)、米カリフォルニア州サンタモニカで開催されました。

今年は、予期せぬ妊娠をしてしまう十代の少女を描いた『JUNO/ジュノ』が作品賞を獲得し、この少女を演じたカナダ出身の女優エレン・ペイジが主演女優賞に輝きました。

この番組で、わたしが関心を持って観たのは、受賞者や受賞作品を紹介する俳優たち(各賞ごとに異なる男女の俳優たちの組み合わせで進行が行われた)や受賞者(たち)の、やや緊張と興奮をはらんだ短いスピーチです。

中でも、最後にダスティン・ホフマンが紹介者となって、クライマックスの作品賞を紹介するときのスピーチが、とてもウイットに富み、かつ映画産業の資本主義体質を暴き出していて深みがありました。

主演男優賞のフィリップ・シーモア・ホフマンを全出席者に想起させるジョークの中で、「わたしは彼と寝たんだ。それでホフマンなんだ。ただし、これは軽いジョークで聞き流してくれ」と言って会場を沸かせた後に、「インディペンデント・スピリットとは、ノー・ギャラで出演する映画作りのことだ。そこには(監督や俳優の)メッセージが込められている。ここが、ハリウッドと違うところだ。これは冗談じゃないよ」と、さらりと資本主義映画の商業主義を批判してみせるあたりは、さすがです。

肩のこらない、しかも出席者の殆ど全員が興味を持つ話題をうまく引き出して、聞かせる。そこで、話者の言いたいこと(視点)をピリッとスパイスを効かせて語る。わたしたちも、こういうトークの妙味というか技法は、場を踏む中で学ばなければなりません。




最新の拙稿 Info.:2008年6月23日現在

このたび私が編者となりました下記の教職テキストが刊行されました。
『生活指導』『特別活動』:いずれも1800円+税。

どうぞご一読ください。また、教職科目のテキストとしても選定の対象にしていただければ幸いです。
くわしくは、下記へお問い合わせください。
学文社 〒153-0064 東京都目黒区下目黒3-6-1 TEL.03-3715-1501(代) FAX.03-3715-2012.



京都の全生研会員との誌上論争における、第二回のわたしの反論が、『生活指導』7月号に掲載されました。「実践記録を読むことの意味〜制度化された読みを超えて〜」です。8ページものです。

全生研は、周知の教育研究運動団体で、革新性のある自主研究組織です。民主主義に関わる認識と行動を重要な教育内容として、主に教科外の教育活動における目的・内容・方法の次元で実践論を構成するべく、戦後結成後50年追求してきています。義務教育系では唯一の教科外研究の団体です。

わたしは学生以来の会員歴を持つ一人として、また何ほどかの理論的提起をしてきた者として、いま、その理論枠組みを変えるときであり、また変えることで再生していくときであると判断し、この数年、問題提起をしてきました。

このたびの論争も、相手方によるその問題提起に対する批判であり、わたしの反批判です。これは起こるべくして起きていると、理解しています。

弁証法的には、誰かが矛盾を概念として提示して、これに対する批判と反批判のかたちで、その矛盾は理性化され、再度概念化され、この再概念がテコになって、次の新たな運動が始まる。こういうダイナミズムがあります。これをヘンにおさえたり、ねじまげたりするのは、それこそ理性の展開に反する行為なのです。

つねに歴史は、「誰が正しいか」ではなく、「(論じられる)何が正しいか」をめぐって動いていくのです。そのレベルから見れば、われわれはすべて、理論の展開がひろがる「細胞核」なのです。そこに個としての、いのちを表現する存在意義があるのです。



「新・生活指導入門」

全生研セミナーが、23日、東京都内で開催され、午前中の竹内常一氏講演では標記のテーマで約1時間半のレクチュアがありました。竹内氏は、「新」は「生活指導」にも「入門」にも掛かると述べていましたので、あるいは学級集団づくり・入門第三版を多少は意識しているのではないかとも思われます。

もちろん、その課題提起は氏の自主的なものであり、常任委員会が特に要請したものではないのです。かつての入門第二版の作成依頼、ずっと全生研の研究運動の柱を担ってきた氏自身が、「新」のかたちで提起せざるを得ないところに、いま、生活指導研究、集団づくり方法論をめぐる転換、その針路の分岐点にさしかかっていることが現れていると言えます。

その仕事を、今の子どもの状況、教師と学校、保護者の生活現実、社会の構図や教育政策全体を見据えながらリアルに、かつラディカルに(根本的に)果たしていくのは、氏から見ると次の世代、つまりいまの50代、40代の実践家・研究者ではないかと思います。

全生研運動にかかわる一人ひとりの批判的精神と知の確かさが求められているのです。



仕事とは、プロとは

たまたまTVをみていたら、NHKBS2の「蔵出し」番組で灰田勝彦のビッグショーをやっていて、番組もいよいよ終わりになったようで、最後の曲の「森の小径」を歌うときにこのようにしずかに語っていました。

「あの暗い戦争の時代にあって、僕の歌ったこの歌で、生きる希望を持ち、人生に意味を見いだした人がいたとしたら、歌手としての僕のしごとにも意味があったと思います」

そういって、彼は、しばらくマイクを持ったまま言葉を発せませんでした。

この番組に出たときに灰田勝彦、66歳だそうです。上記の言葉に、戦中時代から歌ってきた彼の歌手人生の、心から発するほんとうの言葉が込められているように私は受け止めました。

私は、灰田さんはハワイアンの歌手として知っているくらいで、ファンで何でもありません。が、偶然今回聴いた彼のその言葉の中に、「仕事とは何か」「プロとは何か」が端的にかたられているなと思いました。

つまり、プロとは、自分の仕事を通して、人々に希望を、今を生きる自信を、あたえられるように仕事に「打ち込む者」なのです。教師も然り、です。ただどこそこ大学大学院をでたという高学歴を口にしたり、○○賞を受けたとPRばかりしている人がもしいたら、その人は、それだけではプロではありません。その仕事によって、その人が、どれだけ人が希望を持ち、生きる意欲をもてるように寄与できたか、なのです。



《閑話休題:おまけのショート》

ことし1月の朝日新聞紙面に関西棋院による碁力判定のテストがあったので試しに解答を出しました。

昨日その認定通知が届きました。全問60点満点中47点で、「一級」の認定に値するとの結果。予想より良い成績でした。囲碁はわたしの趣味の一つですが、中学の頃、父親に習った程度で、まだ基礎がよわいと自分でも思います。

級段位の認定免状を受けるには、お察しの通り、お金がいります。



《閑話休題:三つのショート》

【その1】11日朝、NHKTV総合のホリデーインタビューで、漫才師・宮川大助さんにスポットをあてて、鳥取県境港市と奈良県の自宅で話しを聞いていた。八人兄弟の七番目だったとか。放っておかれることが多かったためか、小学校時代は腕白で「勉強もしない」子で、親も教師も手に負えず、高学年になってとうとう母親が施設に預けることにした。

そのとき担任の岡田先生(女性)が、「私が預かります。この子はやればできるようになります」と説得してくれた。そして、放課後、いわゆる補習的な個人指導をしてくれて、やがてそこへクラスの「できる」子どもらも参加する学びのグループが生まれ、大介少年も自信を得て落ち着いてきた。そして、無事に卒業になった日、母親は、その担任の前で土下座して泣きながらお礼を言ったという。

その日、岡田先生は、「この学校のすべての先生があなたを担任したくないと言っていた。でも、わたしは、あなたはやればできるものをもっているとずっと思ってきた。そして見事に成長した。おめでとう」と、心から祝福してくれたという。

彼も、少年時代、〈教師のひとこと〉にささえられた。そして、今日がある。だから、2007年に脳出血で倒れて一時は舞台を降りたが、復帰した最初の舞台で、しゃべりを始めたとたんに、観客席は一斉にすすり泣きになったときに、「漫才は笑いを送っているばかりではなく、自分もこうして支えてもらっているんだとわかった」。なにごとによらず、大成する人は、どこかに他者の意味を学ぶ場面をかならずもっているように思う。

【その2】NHKラジオを聞いていると、四月から「つながるラジオ」という新番組を始めるらしい。「つながり・つながる」が時代のテーマになっている証拠かもしれない。

11日はその特集として「格差社会」をどうとらえのりこえるか、についてゲストを交えて、リスナーとの双方向を組んでいた。東大院の本田由紀さんの切り口はさすがだ。が、緊張のせいか、かなり早口。反貧困ネット事務局長・湯浅誠さんくらいの語りのテンポが、聴くものにはしみ込んでくるように思う。それは湯浅さんが、ワーキングプアとされる状況に生きている方たちとこれまで対話し、否応なしに、通じ合える世界を築いてくる姿勢を身につけてきているからではないか、と思った。

語りのスピードは、語る人の目線、あるいは姿勢による面もおおきいのだな、と教えられた。

【その3】民間教育研究団体の全国組織から届いた大判の封筒に「折出健二。様」とあった。名簿記載のさいに「。」が残ったのかもしれないが、ああこういう表記もおもしろいな、と思った。ただ、原稿にこれをつかってはまずいだろうけど。



「なんで俺がグレたか」

父母・教職員・研究者たちが参加する東海・「非行」と向き合う親たちの会が最近発行した小冊子のタイトルです。同会の例会で、次郎君という若者が語った、非行体験、激しいヨット訓練で知られる民間矯正施設や少年院での体験をそのままに文章化したもの。参加者との質疑も収録されています。

次郎君は、この話しをした時点では、20歳。愛知の若者。わたしは、この冊子を同会の事務局長さんから贈呈され、さっそく読んでみました。

まず、わたしが知らされたのは、次郎君も、いまの学歴=競争社会の負の生き方に巻き込まれ、苦しんできたということです。

小学校から中学校はじめまでは、まじめに勉強して将来は大学をめざしていました。親からも「(ホームレスの人を指して:引用者)大学に行けなかったら、ああやって、一人で、のたれ死にするんだよ」と言われてきて、真剣にそう思っていた(同冊子より)。

ところが、中学のある先輩が「テストを白紙で出した」ことを聞きびっくりすると共に、その先輩たちがやっているピアス、単車の乗り回し、染めた髪などの姿が「何か輝いて見えた」というのです(同冊子)。

次郎君にもおそらく進学の不安やこの先どうなるのかという見通しのなさもあったのでしょう。その先輩たちと一緒に行動する様になる中で、勉強できなくても輝けるんだ、と気づき、いままで自分が目標とすべきであった良い大学、良い会社の一元的な生き方だけではない、もっといろいろの生き方があるんだ、と思い始めます。

それからは親や教師の言うことを聞かなくなり、非行の体験へどんどんのめり込んでいたというのです。そのあたりはリアルに語られていますので、発行者の同会に問い合わせ、じかに読んでみてください(問い合わせ先:「ひまわりの会」 052−741−1505)

この次郎君の語りから見えてくるのは、思春期の誰もが、「なんとか自分も輝きたい、輝いてみたい」という思いを抱いているということではないでしょうか。それが、「勉強一筋」によってではなく、また極端な異装をしたり、人を脅したり教師や他校生とタイマンを張ることによってではなく、日常のクラス活動、スポーツや文化活動、生徒会活動あるいは地域への参加など、幅広いチャレンジ的な活動によってつかめることが大事なのではないでしょうか。

そのためには、たとえば中学校はどのような「場」「空間」を創り出していくべきなのか、です。わたしたちに突きつけられているのは。
次郎君が強制的に入所させられた矯正施設はそのような「空間」と真反対であったことが、彼の体験談から十分にうかがえます。

読者の方々のお子さん、あるいはクラスで担任している子どもたち一人ひとりも、本質は同じです。いつも、ではなくても、どこかで、人々の見ている前で、《自分が輝く》ことのできる活動を欲しているのです。

では、《自分が輝く》とはどういうことなのか。それは、この子の場合は、何(どのような活動や関係性)によって可能なのか。そのためには、わたしは(親としてあるいは教師として、市民として)どのような他者を演じていくことが必要なのか。その他者を演じながら、わたし自身も輝いてみたい。そのためには、わたしの生き方はどうあればよいのか。

こう考えてくると、次郎君の提起、問いかけは、今を生きる(同時代人としての)わたしたち一人ひとりにもしみ込んでくる中身を持っていると思います。(2/8 記)



名生研で折出論文を検討

最近いただいた案内によりますと、名古屋生活指導研究会(名生研)の例会で、『生活指導』2月号に載りました拙論「集団づくりの改革〜理論は照合リストではない〜」を、小林信次さんの報告で検討することにした、とのこと。

小林さんは昨春退職するまで長い小学校教師歴を持つと共に全生研会員であり、愛知の生活指導研究のリーダーの一人でもあるので、彼がどのような角度から拙論を批判的に分析するのか、わたし自身も興味があるところです。

日時 2月21日 木曜日 午後6時半から

場所 南生涯学習センター(名古屋市南区。JR笠寺駅から徒歩で数分。わかりやすい場所)

非会員でも歓迎してくれるはずなので、興味がある方はどうぞ参加してみてください。当のわたしは、理事関係の公務がなにも入らなければ、参加してみようかなと思ってはおります。かえって、徹底批判や討議にさしさわるとまずいので、居ない方がいいのだろうなとも。

【訂正】なお、上記の論文中、岸田実践(東京)と藤原実践(京都)について、それぞれ5年、6年の実践ですので「ともに小学校高学年の実践」とすべきところを「6年生の実践」としてしまいました。誤記ですので、この場を借りて、訂正とお詫びを申します。



訃報

広島大学名誉教授であり、わたしの学部時代の指導教員でもありました藤井敏彦氏が、2008年1月24日19時33分、永眠されました。故人のご冥福を心よりお祈り申し上げます。

先生は、マカレンコ教育学の体系化に努められ、あわせて幼児教育、平和教育でも多大の功績をあげられました。先生の平和教育とヒューマニズムへの専心と活動を、その御遺志を、今後も私たちの世代が引き継いで行きたいと思います。合掌。

追記:ご遺族の意向で、藤井先生に薫陶を受けた卒業生たち・実践家の方たちの気持ちを受け止めつつも、すべてお身内で葬儀等、すまされました。その上で、あらためて、しかるべき時期に「偲ぶ会」を催すこととしたい、とのことです。



すごい! 乳児の不思議な能力

2008.1/21のNHKスペシャルで「赤ちゃんの成長の不思議」を放映しました。2006年の同番組の再放送です。

脳の中で情報伝達の結合組織である神経シナプシスは生後8ヶ月から一歳ごろにピークを迎え、しかも、それは成人の約1.5倍にまで増幅し、あとは次第に減っていきます(アメリカの研究者の実証研究から)。

それは一見後退の様に見えますが、実はものを見る能力(認知能力)においては、ある部分をじっと見る見方から全体像をさっと見抜く見方へと転換していくことと重なっています。つまり、まず比較・識別が発達し、その後、全体像認知が発達していく、というわけです。

神経シナプシスの量的な現象は脳機能の低下ではなく、逆に、周囲の世界を認識する上での認知機能の質的な成長を表しているようです。

くわしくは、下記の番組紹介で確かめてください。

赤ちゃんの不思議

前にもこのHPにアップしましたが、娘の長男を生後すぐから1ヶ月までわたしの家で見守ってきたので、とても興味ふかく、かつ共感しながら見ることができました。



SlowとFast

教育科学研究会の機関誌でもある『教育』(国土社)の五月号で、「スロー・エデュケーション」の特集を組みます。わたしへも執筆依頼があり、受けました。

そこで、前からすこし考えてきたことですが、執筆の素材構成の準備を始めました。驚かれるかも知れませんが、マルクスの若い頃の労作『経済学・哲学草稿』(別名、パリ手稿)に、SlowとFastの概念の起源がある、という仮説の下にいまそれを検証しているところです。ずっと読み返してきたのでかなりページの角はとれて、いたみもあるが、読みやすい大月書店の文庫版を使っています。

ここでは詳細は論じませんが、Slowは、一般的には「じっくり時間を掛けて」「身近な土地のものを大切に」といった、自然還り的な考え方で理解されている傾向がありますが、要は、関係性をさす概念です。

つまり、自己の対象化(創ること、書くこと、演奏すること、形にすることのすべて)の中に自己自身を、自己の感性、自己の喜びを見いだせるような対象との関係性を結んで何かに取り組むこと、その行為の過程、これがSlowの本質なのではないかということです。

上記のマルクスの労作にそくして言えば、彼があちこちで使っているドイツ語の「Wesen」にそのヒントがあります。この言葉は、人間の存在、人間そのもの、自己の可能性をあるがままに表出できること、といった意味です。訳者もそのように解説しています。

Fastの思想は、この対象との、すなわち自己自身との関係性を、壊していく産業の論理です。マルクスの手稿では見事にこれが分析されています。つまり、労働者が自己を打ち込み、労働の成果物を産み出せば産み出すほど、労働者は自己自身を失い、自己のいのちを失う。そう彼は書いています。いわゆる「労働の自己疎外」です。こんにち、「ファスト・フード」「ファスト・エデュケーション」は、わたしたちの本来の「食」「教育」を、どこかでいびつなものにする論理を指しているでしょう。それを、ただ「スピードが速い」「一律的」などと理解していては、まだあさいのではないでしょうか。

もし、このような仮説が成り立つとすれば、SlowとFastの概念は、産業社会の極みの今日、起こるべくして起きている思考形式であると共に、その起源は、資本主義的生産様式の人間の自己疎外をするどく考察した、上記のマルクスの作業のなかにすでにあったのではないか、ということです。

こうした今までとは違う視点でもって、先ほどの依頼原稿をまとめられないか、といま考えています。ですから、その文庫本を持ち歩いては読み返して、改めてマルクスの若い目線に学べないかと探っています。



新年ごあいさつ

以下は、1/3付で、全生研の代表としてメーリングリスト参加の皆様に発信しましたあいさつです。

ML参加の会員の皆さん。新年おめでとうございます。

今年は50年を記念する大会を大分・湯布院で開催いたします。現地、大分実行委員会の皆様には、引き続きお世話になりますが、大会成功を期してなにとぞよろしくお願いします。常任委員会も、それぞれの役割を発揮して「汗をかきながら」今次大会成功に向けて取 り組んでいきます。

全国のあらゆる地域での格差のひろがり、絶対的貧困からくる苦悩という現実をみますとき、子どもたちの生きることの難しさをうけとめ、ともに立ち上がり、一歩一歩彼や彼女の個としての尊厳を護りつつ他者とのつながり、共同と自治にいどんでいくことは、いっそう重要性を増しています。

たとえば、昨年もフリーターの青年ユニオンが次々と結成されるなど、苦悩(Leidenshaft)は活動と指導と連帯によって情熱(Leidenshaft)に転化する、という社会法則が実証されています。

全生研の実践・研究と運動の出番、その連帯の力を発揮するときです。どうぞ会員の皆さんの、子どもの幸せと人間的自立を願う活動を結集して、2008年もふりかかるであろう様々の教育政策、差別と分断の支配に抗して、力まずに、あせらずに、取り組んでいきましょう。

皆様のご健勝とご多幸を祈念します。

常任委員会を代表して  折出健二



2007年を振り返って、そして新しい年に

まずは、このつたないHPをご覧いただいた皆様に、感謝申し上げます。知人はもとより、かなり前の卒業生、大学院で講義をしたときの受講院生でいまは大学教員となっている人からも「見ています」とメール等で知らされます。

全生研の常任でブロガー歴の長い塩崎さんからは、最近のある会議の場で、「ブログの方が簡単だし、双方向的なやりとりができますよ」とも言われましたが、この方式をしばらくは続けてみます。

2007年の公務としてのトピックは、やはり教職大学院の設置認可です。4月に理事に着任した時点では、まだ既設教育学研究科の整理再編も手つかず状態でしたし、両大学院の定員、既設の各専攻の定員さえもまだ流動的な状態でした。事前の打ち合わせに行くたびに、文科省の関係セクションからは、「既設の整備をしっかりと」と再三言われますので、これも受けながら、また学内的にも「なぜ教職大学院をつくるのか」の合意を図るという二面の課題に奔走したのが実情です。

学内の各専攻の教員各位にはほんとうに短期間の集中協議をお願いしまして、ご苦労をおかけしました。改めてお礼を申します。

教職大学院については、「エリート教員養成」のための研修機関になるのではないか、そういう再教育システムに加担するのか、などとキビシイご批判・ご指摘が全国的な議論としてあるのは承知しています。

それを乗り越えていく、まさに教職の実践学の大学院にしていきたいと思います。

2008年のキーワードは、前年から引き続いて、「ワーキング・プア」「学力(低下)」「つながり」ではないでしょうか。

いまは詳細を論じる場ではありませんが、階層の格差はさらに広がり、完全に社会の二極化が生じています。デューイのいう「学校は社会のミニチュア」の通り、新自由主義の格差化・差別化・排除の縮図が学校・学級に現れており、いま、教育実践は、クラスの目の前の子どもたち一人ひとりの生き方の中に、より大きな現代社会との格闘をどれだけ読み取れるかが、ほんとうの子どもの共感か、うわすべりのそれなのかを左右すると言えます。

民衆の中から生まれた教師は、ある意味で本能的に、子どもたちの生活現実の中に、みずから教師としてどう生きるべきかのヒントを読み取って、そこから元気をもらって実践を切りひらいてきました。

さて、いよいよ、2007年も去りゆく時となりました。確実に、次の社会への胎動は始まっているので、この市民的エネルギーを信頼して、希望を持って2008年を開始しましょう。



*******2007****** 12月の講演

12/1土曜日、午後1時半より、刈谷市民会館。刈谷高校の父母・教職員を対象に、「今、大学で学んでほしいこと」と題して話します。マジメな堅い話のタイトルですが、先方の依頼テーマなので一応そのようにレジュメをつくりました。実際は、参加者の顔ぶれを見て、ややリアルな学生生活の実態、特に父母として青年期を生きる彼・彼女とどう向き合えばよいか、を話そうと思っています。

12/15土曜日、札幌市内にあります北星学園大学の公開講座の一環で、「『いじめ・自殺』問題を考える〜いま、深めるべきことは何か〜」と題して話します。会場は、同大学の講義室。

同大学の三学部同時の聴講らしく、120名くらいの規模になるようです。公開講座でもあり、一般にも無料で公開されますので、お近くの方で関心のある方はどうぞ。

パワーポイントを使って話しますが、全部で30数コマのレジュメを当日配布します。最近の文科省調査でも、いじめ定義を変えたとはいえ、以前より6倍近くも増えているいじめ。その背景には何があるのか。高校生に広がる「サイバーいじめ」についても参加者と共に考えあいたいとおもいます。

講演ではありませんが、12/22〜23と千葉市内で開催される全生研・拡大常任委員会で、「全生研における生活指導・集団づくりのいまとこれから」と題して、今後の研究方針に関わって提起する予定です。

「班・核・討議づくり」方式として実践されてきた「集団づくり」の科学的発展法則の理論主義と、社会の激変を反映した子どもたちのリアルな生活実態や生き方との乖離をこえて、あらたな生活指導をどう開拓するかを探ります。



関係性と参加民主主義

12/22〜23と、千葉市内のポートプラザちばで、全生研拡大常任委員会が行われました。常任の他に指名全国員三名が参加しました。一日目、わたしが問題提起をして約4時間、この中身について参加者の質疑・討論をもちました。

わたしの報告の内容は、来月発売される『生活指導』1月号の拙稿をもっと一般化した形でまとめたもの。ただ、そのぶん、文章の中身のリアリティは薄くなりました。

キーワードは、関係性、参加民主主義の集団像、ヘゲモニーは集団が築きだすもの、などです。参加者からは鋭い質問や意見・批判が出されました。ヘゲモニーをめぐっては、京都の藤木史さんと埼玉の安島さん、福島の本田さん(三人とも中学校教諭)、さらには北九州大の楠さんなどが絡んで、なかなかおもしろい議論になりました。

久しぶりに常任相互の討論も巻き起こり、わたしの提起がいくらかは触媒となって作用したようです。

ただ、今回は問題提起としてレポート風に文章化したのですが、本格論文として、論証していく文章に仕上げるにはまだ時間も、字数も、そして何よりもエネルギーが要るようです。

とにかく、今回の問題提起のスケッチ、要旨は、上記の1月号の拙稿でご覧いただければ幸いです。



「いいよ!」「グッド・ジョブ!」

12/18のNHKラジオ深夜便の「ナイトエッセイ」は、元マラソンランナー・金哲彦さんのお話。

日本では、ランナーへの応援は「頑張れ!」が圧倒的に多いが、英語圏では「Good job!」または「Good looking!」だそうです。日本語では「いいぞ、その調子」「かっこいいよ」というニュアンスでしょうか。

つまり、ランナーの「いま」に対して、とてもポジティブだというのです。それに対して「頑張れ!」は、どこかランナーを追い詰める、あるいは外からプレッシャーを掛ける様なニュアンスがあるようです。

場面かわって、教育においても、子どもたちの活動に対して「Good job!」という意味の言葉をなげかけられたら、なんと楽しいことでしょう。それこそ、子どもたちは本当に元気づきます。

それを(日本語で)どういうかは、実践者それぞれの思いのこもった評言で良いのではないでしょうか。

とかく日本の学級・学校は「頑張る 五段活用」の世界です。「頑張らなくては 頑張りましょう 頑張る 頑張れば 頑張れ 頑張ろう」。

正直言って、わたしも(団塊の)「ガンバロウ」世代なのですが、この言葉は危ういなと思っています。

だから、卒論指導などの場面で、学生にもできるだけそれは使わない様にしています。その代わりに、「いいんじゃない」「たいしたもんだ」「いい線行っているよ」「やればできるじゃない」「だいぶ成長したな」・・・・といった言葉で肯定的なイメージを相手が持てる様に励ます工夫をしています。

自分の子どもにも、たしか中学生の頃から、「おぬし、(なかなか)やるなあ」と、時代劇風に言って、あいての努力した成果や何か成し遂げたときに、声を掛けていました。



ふたたび、「滝山コミューン」との対話

下欄のように、『週刊現代』10月13日号、「リレー読書日記」で小著が取り上げられました。執筆者は、原武史氏。

見開き二ページのうち、後半の三段半のスペースで、主に、大西忠治氏の書簡に対する原氏のコメントの形で書かれています。
集団を「もの」としてみる大西氏の集団観、また書簡の文体から感じられる大西氏のある種の傲慢さを取り上げて、この「実践論」と、マカレンコ以来の集団主義とは体質的につながっているのではないか、そこには「班」に象徴される日本型ミリタリズムの体質ともつながるものがあるのではないか。

そのようなトーンで書かれています。原氏ならずとも、わたしのこの地味な小著の中でこうした大衆的雑誌の「書評」コーナーで話題に取り上げるとなると、たぶん、この書簡が物語るテーマになるだろうなと、わたしも予想はします。

わたしが、この書簡編を入れるつもりになったのは、戦後教育実践研究の流れにおいて、実践家と研究者の間での論争があれこれあったはずなのに、そうしたものが殆ど記録化されず埋もれていくことに疑問があったこと。また、わたしはけっして大西忠治氏という人物を憎んでも敵視もしておらず、居酒屋においてさえ共に飲みながら若いわたしと「資本論」や「弁証法」の話につきあいながら、それでいて研究者の、実践からの遊離の傾向を常に批判してきた、根っからの実践家として、論争するにふさわしい相手(年配者)として敬愛していたということ。

にもかかわらず、大西理論では、次のことが論理として弱いか、抜けていること。すなわち、集団というのはその単一組織の関係だけでは捉えてはならず、関わりのある特定の人々という他者との関係性を重視すべきであること。また、そのような自己形成とは他者と共に何かを学ぶことで自己が解放されていく達成意識なのであること。そして、こういう共同無くして学びも自治も成立し得ない、というマルクス的な共同論が抜けていること。

言い換えれば、ある誰だれという他者の他者として(わたしという個が)「意味のある立場に立つ」(鷲田清一)ときに、自己の社会的関係世界が生まれ、また内実のある共同の世界が築かれていくということ。

あれほどに実践的に「集団つくり」(大西氏はけっして「づくり」とは呼ばなかった)を追求した大西氏でさえ、上述の共同性、自己他者の関係性が十分に認識されてはいなかったのです。

その最大の理由は、大西氏が、−−当時の理論状況ではある面で必然的だったのでしょうが−−「共同」「関係性」「相互性」といった、集団論に不可欠の概念を持っていなかったからです。ないしは、当時はそういう概念を心理主義、あるいは反・集団主義として追いやっていたからです。ヘーゲルが言うように、ものごとは、概念を持たねば見えないし、認識されないのです。概念を獲得してこそ、物事の物事たり得る本質が見えるからです。

その意味では、大西集団論の弱さよりも、戦後の、60年代、70年代の教育研究の主要概念の限界性によるものではなかたのでしょうか。

わたしは、そのことを「往復書簡」をして語らしめることができれば、次に続く若い研究者にも何かヒントになるのでは、と思ったのです。(10月2日 記)



講演「幼児の発達をどうとらえるか」

さる9月15日(土)午後、愛知県一宮市の「プラザ一宮」(勤労市民会館)で、私立幼稚園連合会一宮支部の研修の一環として講演をおこないました。

200名の受講者と聞いておりましたが、皆さん、熱心に聞いてくださって、こちらも話しやすかった。発達課題を抱える子どもの事例も交えて、できるだけ実践の課題と保育者としてどういう立場で、どういう役割を意識して子どもとつながればよいかを中心に話しました。

終了後、主催の役員の方々と会食しました。困った保護者によって幼稚園もいろいろと対応に苦慮している事例が、次々と話題になりました。

わたしからすると、子どもが幼児期から、若い親は幼稚園に対して何か優位に立とう、子育ての「受け身」ではなく「主体者」になろうと焦っている感じが致します。



「これは私の宝物」

17日の分科会で、広島の中学校教師Sさんの報告を聞きました。市内で三番目に「荒れる」中学校として有名な現場で、組合専従を終えて現場に復帰した彼は、特に女子グループのすさまじい反発と指導拒否にあいます。

Sさんは、クラスの初めに雰囲気や学校の実態から、「つまらないプライドは棄てる」「とことん生徒の話を聴く」という作戦を立てます。これは実践スタイルの転換といっても良いでしょう。

自分のクラスの指導困難な女子とのつながりで、同じ学年で別クラスのC子への指導も入ってきます。次々と「事件」は起こり、もはや学年の教師で対応するほか無いわけです。あるとき、C子ともうひとりが授業を抜け出して屋上へあがったのでSさんが追っていきます。屋上で、「どうしたんや。話したいことがあるんなら、話してみては。先生、聞くで」とSさんはC子に。

すると彼女は約一時間、自分の生い立ちを語ったのです。それは、母親と同居するに至った男性から受けた暴力、食事もろくにとれない貧しさ、親戚の叔母の家に預けられてからの虐待的な環境など、ここまで一人の少女たち(姉と弟がいる)が貧困と暴力と抑圧を受け続けるのかという生い立ちでした。

そのことがあって、次の日のSさん担当の国語の時間、受験期なので「小論文指導」の時間ですが、C子は例によって机にうつぶせて携帯をいじりながらけだるそうにしています。そこで、作文用紙をわたし、「昨日の話を書いてみたら」とさりげなく言うと、C子はしぶしぶ(と見える態度で)書き始めたというのです。そして、なんと400字詰めで6枚に、屋上での話をそのまままとめた「自分史」を書きました。その原文写しを見ましたが、文の主述も内容も、漢字もしっかりしています。字は、硬く、とがっている感じはありますが。

その最後に「S(原文は実名)先生に全部話したら心のどこかにあったもやもやが消えて、そんな気持ち(自殺しようとしたこと:注記)はなくなった。多分あのときに先生が来ていなかったら死ぬところだったと思います。ありがとうございます」と書いています。

Sさんは、その原文の(いつも持ち歩いているのでしょう、かなりシワが入った)作文用紙を掲げ、「これは私の宝物なのです」と言いました。

そのC子は、いま定時制に通いながら、ものすごく派手なスタイルでやってきて、S先生と会うこともあるようです。



《記事変更のお断り》

『生活指導』8月号に書いた私の論文に対する京都支部の会員からの「批判」が京都支部のHPに掲載されていることを、本人からではなく、全く別の方から知らされ、この方からその全文コピーもいただきました。さらに下記の全生研大会の総会においても、関連の発言をご本人がしました。その主旨は「集団づくり」論の現状への批判です。

そこで、8日付で、このページで私見をアップしましたが、内容がやや過激で、ご本人ならびに関係者との間に感情的なもつれを生みそうでしたので、自発的にこれを削除しました。

私が言いたいのは、研究協議会なのですから、批判と反批判は、元の論文提起があった機関誌上で行うべきで、上記のご本人が規定にしたがって投稿されてはいかがか、ということです。

そういう公論の作法をまず踏まえるべきではないか、ということです。

「批判」をけっして無視しているわけではないので、以上最小限度のことを記しておきます。(8月8日、削除に当たって)(訂正:当初、「ご本人のホームページ」としていましたが、間違いであると知りました。上記のように訂正します(9月10日)。)



いじめのとらえ方

下記の日本生活指導学会「いじめ・暴力と生活指導」の分科会で、後半の討論にあたり、わたしが「いじめは一種の暴力であり、暴力の克服と深く関連づけた取り組みが求められるであろう」という趣旨でまとめたところ、フロアから竹内常一氏が「いじめによってしか子どもはつきあえないといえる。暴力は悪い、いじめは暴力、としてしまうと、絶対に実践はうまくいかない」と発言をしました。

分科会の参加者は、折出はどう反論するのかと見守っていた感じでしたが、わたしは「暴力とは、拒否的行動であり、相手の尊厳の否定、その内的世界への侵入である。むしろバイオレンスの文脈でいじめをとらえている。カナダの調査も参考になっている。」と述べました。

これには「肩すかしを食った」と、H会員は不満を表しましたが、司会も務めているわたしが、その場で竹内氏とやり合っては討論が進まない、と判断したためです。こういう分科会での司会の役割は、報告者の中身と絡めて参加者の多様な発言を引き出し、その個々の表明を保障することにありますから。自説を参加者に印象づけるために、司会がたびたび持論を話すのはルール違反。

いまやっと、自分のHPで、補足をします。わたしとしては、竹内氏に象徴される、いじめもまた子ども時代のつきあいかたであり、問題はそれが迫害に転化するのはなぜかを解明することだ、といういじめ観は80年代のものだと思います。いまや、90年代以降、新自由主義的な競争と孤立化、排除と不信が広がる中では、いじめは明らかに相手の拒否・否定・抑圧・攻撃という暴力性をおびて行為化されているのです。

「竹内さんの規定を聞いて、懐かしさを覚えた」と、すぐあとに藤田昌士会員も発言しましたが、わたしは、その「いじめ・つきあいの一種」論がつづていることが、昨年あたりからの問題も含めてこの間のいじめ問題の究明を遅らせる一要因になっているのではないか、と言いたいのです。いじめ問題に対する、教育学の責任です。

わたしの大学院での指導生であるNさんが、修論テーマとも関わるので、最近、大河内祥晴さんに会って聞き取りをさせてもらいました。その中で、事件のその後に触れて、「今も以前も何も変わっていない」「(取材や評論家の見方で遺憾に思うのは:注記)いじめられるというのは『感受性の違い』で済まされている現状だ」「(それでは:注記)悪いことをされても、それに傷つくかどうかはその子次第という見方をしている以上、本当の意味でのいじめはなくならない」と話されたそうです。

「いじめも子どもの付き合い方の一種。それしかつきあえない」というのは、一見もっともらしいのですが、結局は、それによって傷つくかどうかは、それを受け止める側の「感性の違い」になるおそれがあります。

つまり、いじめの攻撃性、外傷体験の惹起が、どこか不問にされる、あるいはつきあい行動の中に解消されるおそれがあるのです。

そういういじめ認識で今後も通用するのかどうか、子どもたちのメッセージはそれを果たして認めるものであるかどうか。

竹内氏の見解にも見られる、一定の地歩を築いておられる教育学者の「いじめ観」の中に、どこか、いじめ・いじめられ関係を上から見下ろしているところはないか。結局は、いじめという「付き合い」を通して集団を知り他者を学ぶほかないのだ、といった家父長的な見方はないのかどうか。

ここを一端突き抜けないと、教育学者のいじめ論は、いじめの現場を生きている子どもたちにとっては無力だと思います。いやそれどころか、現にいじめで悩む子どもにとっては、教育学をやるひとでさえそのようなとらえ方か、と絶望感さえもつのではないでしょうか。



日本生活指導学会

9月1〜2日、北海道大学で日本生活指導学会が開催されました。120名近くの参加を得て盛会でした。

分科会の様子は後日、アップしますが、わたしにとって印象に残ったエピソードを1つ。

2日目のお昼の休憩時、控え室にこられた地元の学童保育指導員とおっしゃる女性が「よかったらサインを」と言って、わたしの『変革期の教育と弁証法』を差し出したのです。

学習会のテキストにして読み合わせに使ったというその本は、付箋がいっぱいしてあり、途中のページには何かメモらしいものがはさんであって、本自体がふくらんでいる感じ。表紙もかなり使い込んでいるようで、その本がとにかく辞書のような雰囲気。

もちろん感謝を込めて、サインをしました。あるフレーズを添えて。これは最近のサインで使う言葉で、「アザーリング」を表した私も気に入っている言葉。(ここでは、非公開にしておきます)

誰かが書いていましたが、こうして自作の本が読まれて、その後も携帯されていて、その人の手垢にまみれるほどに仕事の中に溶け込んでいる、というのは、著者にとっては最大に励ましだと思います。



「社会制作」について

全生研の常任委員会著『新版 学級集団づくり入門(小学校編)』では、子どもの発達と集団づくりを交差させて捉え、少年期における子どもの自立を述べた件(くだり)で、仲間集団をつくりながら、子どもは「社会制作」の方法を身につけていく、としています(同、19ページ)。そして頭注では「社会制作」の用語解説として「人間が一定の契約を取り結ぶことをつうじて、社会をつくりだすこと」とあります。

この提起以降、「集団づくり」を論じる際に「社会制作」が使われてきています。同研究会の近畿ブロックの全国委員が中心となってまとめた『共同グループをつくる』でも「社会制作」は理論上のベースになっています。

ここ数年、わたしは、全生研の「集団づくり」論にある「民主集中制」の構図を相対化することを提起してきました。全生研の理論を学生時代から学んできた者としては大いなる自己矛盾です。それを承知で行っているのですが。わたしにおける一種の脱学習です。

これに対する批判あるいは一部の方による「折出は変節した」のたぐいの人格的なものへの揶揄も、相当なものでしたが、とにかく批判の矢が飛んできたのは事実。

わたしは、ハーマンの、暴力被害にあっている側からの暴力批判の臨床研究、そして暴力を暴力で解決する論理を含むマルクス主義への批判のアーレントの政治思想などに集中的に学ぶ中で、上記のような「民主集中制」相対化の提起をしてきています。

そこが、「社会制作」ともつながるのです。つまり、集団づくりの論理を「社会制作」としたとき、それは、外在的な目的(契約社会の確立もふくむ)のもとに行為を方向付ける論理、言い換えれば、子どもに対して、教師が設計した「社会」像に向けて子どもたちの関係性を推し進める論理です。それを「指導性」あるいは教師の「ヘゲモニー」として正当化し容認してきているのは周知です。

しかし、いや、だからこそ、そこに内在する暴力との親和性、抑圧性への転化の身近さを今一度問い直すべきではないか、というのがわたしの主旨なのです。子どもたちを、真に非暴力で平和的に問題解決に取り組む市民に育てるために。

いまはホームページですから詳論はひかえますが、「平和な学級集団」をめざす集団づくり。その「社会制作」の方法論理そのものが実は暴力性を持ってはいないのか、という相対化の目がいまこそ必要なのではないでしょうか。

これに対して、「実践」とは、一人の人間の内在的な目的にそって行為が展開していく世界です。たとえば、恋愛は「実践」であって、「制作」ではないはず。学びも「制作」のように始まるがそれを壊して(脱して)子どもの「実践」に転化させるために、指導と援助を必要とする。集団をつくりつつ子どもが自己形成を遂げていく実践も、同じような視点で組み替えを必要としているのではないか。それが問題提起の主旨なわけです。たとえば、「つくり」と「交わり」の弁証法的な統一として。

ここがなかなか周りには理解してもらえず、やはり教師にとって「制作」的世界で子どもを方向付けることは宿命なのかとも感じますが、必ずしもそうではない。

女性の教師で集団づくりに取組む実践家の中に、いまのべてきた暴力性へのするどい相対化の目があることと、指導やヘゲモニーを強調し子どもたちの集団「つくり」を「制作」論理でとらえることに疑問を持たず、むしろ自信をいだく方の中に男性教師が多いこととの間には、丁寧に検討してみるべき問題があるのではないでしょうか。

他者によって設計された関係性を、自分たちののぞむ世界であるかのように追求させる。この構図が、他者の力によって内的自由の自己コントロールを奪われるという暴力性をおびるのではないか、そうならないために指導はどうあればよいか。

そこで、つねに行為者である子どもの自主性・主体性を軸に置く「対話」という指導方法を必然的なものとして重視するのです。対話は、子どもに言葉を取り戻させ、内発的な目的による自己の行為の意味づけ、自分たちの関係性をどう変えるかのイメージを獲得させていく教師の行為です。ここには教師にとっての自己否定の論理があります。指導が脱指導に転化する、というように。

集団づくりを「社会制作」としたこと自体は必ずしも間違いではないのですが、その語感、その用法によって、(教師としての優位性に媒介された面もあって)集団づくりの世界を目的外在的な、他者による設計の実現にしてしまってはいないか。案外、ここにふれることがタブー視されてきた面もあるのですが、そこを一度問い直して、真の民主主義的な、子どもたちの関係性追求の実践を指導する方法論の確立をいそがねばなりません。(2月17日)


教師二年目のAさんへ

昨年12月に札幌でおこなわれた「いじめ・自殺を考える集会」での感想文集が、主催者の北海道子どもセンターから送られてきました。

そのなかに、Aさん、あなたの感想があります。教職二年目の方だというのを、主催者が書き添えたメモで知りました。

勤務先で行われたいじめアンケートがその後どう使われるのか疑問だと、もっともな意見を述べていますね。するどい視点です。

そして感想の最後に、あなたはこう書いていますね。
「子どもも担任も追い込まれていく時代に教師になったことを悲しく思います。(決して後悔はしていませんが)」

わたしは、この最後のフレーズに、おもわず目頭が熱くなりました。どれほど多くの言葉を費やす実践リポートよりも、また理論家の現実分析よりも、よりストレートに、今を生きようとする若い教師の生きづらさを見事に表した言葉だと感じたからです。

そう、その通りです。あなたのように、希望にあふれて教師になった若い方々に「悲しい」思いをさせているこの国が、どうして「美しい国」だなどといえるでしょうか。教員養成に携わる一教員として、この言葉をしっかりと受け止めます。

しかし、Aさん。一番、悲しみ、苦しんでいるのは、あなたがいま、いろいろ悩みながらも関わろう、つながろうとしている、その子どもたちではないでしょうか。

その一人ひとりは様々な生活現実を営んでいるでしょう。僕がよく講義で話す言葉、「学級の子どもたちはぞれぞれに生活の諸矛盾をランドセルに詰めて教室にやってくる」。

その彼・彼女の「悲しみ」を受け止め、聞き取り、共にそれを超えていく活動を創り出していく、伴走する他者。それこそ、Aさん、担任のあなたでもあるし、あなたが果たせる役割だとも言えます。もちろん、子どもの親御さんもです。

戦後の、いや戦前も含めて、どの時代も教師たちは時の権力者や財界の野望がえがく人材育成のために「追い込まれ」てきています。「追い込まれ」方が時代によって違うと言ったらいいでしょうか。
「追い込まれ」の中にあって、自分の足でしゃんと立って子どもたちの現実と向き合う。そこに実践の原点があります。これは教師のディスティニィ(宿命)なのかもしれません。

それだけ、教師の仕事は、子どもたちの生活や生き方を介して、その時代の課題と向き合っているということです。

この格差社会であればなおさら、あなたのいう「悲しみ」はずっとつきまとうかもしれません。でも、それは、Aさん、あなたの、教師の仕事に寄せる純粋な情熱、パッションに由来すると僕は思います。
そのパッションは、いま、目の前の子どもたちと悪戦苦闘の日々の中で、彼や彼女が今しか出会えない固有な他者を果たしていく情熱です。

目の前の子どもの姿を、ただこちらに見えるように見るのではなく、この時代の、いまを、ここで、生きようとする彼や彼女たちの変化・成長していく姿を、読みひらくように見る。そうすることで、教師は子どもたちの未来に向けてともに生きていくのです。わたしが言いたいのは、そういう情熱です。

これは、とっても大きな、意義の深い仕事だと言えます。

あなたは、やはり、教職の仕事をみごとに選び取り、いま教師としての生き方を模索しているのです。

あなたの短いフレーズに感激して、僕の応援メッセージを書きました。かえって、惑わせたかも知れませんが。

どうぞ、身体にも十分に気をつけて、頑張ってください。「頑張る」はもとは「眼張る」、つまり事態をしっかりと自分の目で見る、ことから転用したらしいですよ。では。(1月16日、17日一部改作)


保護者はなぜそこまで教師を追い詰めるのか

2月1日のNHKTV「クローズアップ現代」は「要求する親 問われる教師」を放映。大阪の貝塚の中学校ほかの例もとりあげながら、追い詰められている教師の現実をリアルに取り上げました。

ある教師は、「職員室で交流する時間がない、悩みを打ち明ける時間がない」と語っています。また、精神性の疾患で教師が複数入院している病院のある精神科医は、「(こうした教師の特徴は:引用者)不適格だから病んでいるのではない。良すぎて倒れる、まじめであり頑張りすぎて倒れる」と語っています。

教師であろうとする、その人格的な特性ゆえに、「抗議する」親の、優位な立場からの追及の構図にはまってしまうのでしょうか。

大阪のある女性校長は、ある担任の学級通信のことをきっかけに保護者から追及され、誠意を持って対応したが故に以後、監督責任者として直接に罵声を浴びせられ続けたそうです。そして、この女性校長は自殺に追い込まれました。

死の少し前、夫には「学校へ行くのが怖い。何もかも崩れていく気分がする」と話していたようです。そして、上記の一件から五ヶ月半後のある日、「苦しみ、苦しみぬいた。申し訳ない」の遺書を残して投身自殺をしたということです。

その夫(教員)は、「刃物を使っているわけでも、ピストルを使っているわけでもないのに、死に追いやっている」と語り、暗に保護者側の攻撃の暴力性を示唆しています。

なにが、どう問題なのでしょうか。

1つは、格差社会化や将来不安の入混じった不安定社会のまっただ中で、親は、公的機関の象徴とも言える学校にしか不満や不利益を言い出せないほどに追い込まれている。

2つめに、「自己責任」「自助努力」観念、いや社会的なイデオロギーが家族にまで浸透し、それが「わが子」中心主義の見方を一層助長している。

親も隣近所で「井戸端会議」風に愚痴をしゃべり合ってストレスを解消したり、手近な良い解決策を知ったりすることがきわめて薄くなっている。

3つめに、少子化傾向の中で、「わが子」の「問題」行動を言われることは、親である自分の自己否定評価と同じ、という感覚が強まっている。たとえば、「オタクの子どもがいじめた」「あなたのしつけは、虐待ではないのか」などには、関係の親御さんはものすごく過敏に反応し、教師に、児童相談所の職員に、激しい怒りをぶつける例が最近目立っている。

4つめに、一部の、ただ視聴率を上げるための番組作りで教師や学校をバッシングして「ココマデ教師は堕ちている」といわんばかりの映像を構成して放映するメデイアの影響も大きい。「あるある」問題のねつ造ほどではないにしても、初めから教師をたたく意図での番組構成は、視聴者の感覚に訴えるメディアの特性を過度に悪用しているともいえる。

いまや教師の絶対的権威を掲げる社会はもう完全に終わっているとしても、これほどまでに、教師を攻撃対象とする、保護者ー教師関係というのは、過去には見られなかったことです。いったいいま地域コミュニティに何が起きているのか。ここを冷静に分析していく必要があります。


全生研「近畿地区学校講座」の要旨
          

1月6〜7日、近畿地区の標記の集会があり、講座を担当します。その講演要旨です。

近畿地区学校                           2007.1.6.
今日のいじめ問題と生活指導・集団づくり
 
                            折出 健二(常任委員)
 はじめに
 
 常識的いじめ観の転換を
 
 (1)関係性が“武器”に転じる市場原理の世界
 
 (2)一過性・短期間で強まる被害者の心的外傷
 
 いじめの構図と心的外傷
 
  (1)悪ふざけやからかいを装いながら、関係性を利用して相手(単数又は複数)を孤立させ、無力化に追い込む。
 
  (2)いじめは、子どもの尊厳を侵すシェイム・ベイスメント・バイオレンス(shame basement violence)だということ。 shame=羞恥、恥辱、誇りを奪われること
根底から被害者の尊厳を崩す→被害者の自殺念慮を強化。
 
  (3)いじめの外傷体験のエスカレート
 
  孤立化 → 無力化 → 降伏 → 透明化   (中井久夫説)
   ※このプロセスこそ、上記(2)の特質の暴力性、内的なものの破壊性を示す。
 
 いじめと自殺
 
 (1)「いじめ死」ではないか
 
 (2)自傷行為と自殺〜被虐待児のみせる変容に学ぶ〜
 児童虐待の臨床研究に依れば、次のような特徴が見られる。
@被虐待児は、身体症状を示し、A感情の制御の効かない、「居ても立っても居られないイライラ状態」(ディスフォリア)に至り、B混乱・苛立ち・空虚感・孤立感の入混じった「何が何だかわからない」自己喪失状態に至るとされる。→ ※いじめ被害児の異変
Cさらに、「心の苦痛」を「身体の苦痛」に置き換える自傷行為を試みる。これは、虐待による自律神経系の異常な興奮状態を通じて自己の感情の大幅な起伏を学習し、苛立ちなどの感情制御手段として自己の身体を傷つける行為である。
Dそれは自殺念慮に見えるが、そうではなく、自己保存行為だとされる。
Eしかし、それはまだ「生き延びるための」行為である。苦痛を隠しながら、自傷を重ねてでも生きようとする。
Fそれが絶望にいたるとき、自殺(自死)に至る。自殺は、自分を取り巻く暴力と対等な何かを持ち込もうとして決行される。 
※「いじめ死」の子どもの遺書には、その苦悩・葛藤と痕跡が見られる。いじめた生徒の名を記するのもその一環だといえる。
 (以上は、J.L.ハーマン、中井久夫訳『心的外傷と回復』みすず書房、による。)
 
 最近のいじめ問題〜特に「サイバーいじめ」について
 
 (1)いじめの形態 (06年12月カナダでのいじめ問題調査を経て)
 
    身体的いじめ          physical bullying
 
    言葉によるいじめ        verbal bullying
 
    交友関係いじめ         social/relational bullying
 
    サイバーいじめ         cyber bullying
 
    人種差別いじめ         recialized bullying
 
    同性愛排除いじめ        homophobic bullying
 
 (2)「サイバーいじめ」
 
 (3)どう防ぐか(カナダの高校生たちに聴く:@〜C)
   @ Stop,Block and Tell が大事。 
   A 他のいじめ方より攻撃性が強い。
   B 最もひどいが避けるのもやりやすい。
   C 「なりすましメール」の攻撃は、「アイデンティティ泥棒」
   D インターネット社会におけるリテラシーの教育
      ※「情報活用能力=市場適応への対応」に傾斜してきた問題点
 
 いじめ問題への対応
 
(1)統計のための操作的な定義(定量的な定義)と、子どもが苦悩を訴える問題の質をつかむ(定性的な)把握とは区別すべき。
 
(2)いじめは、差別と競争環境のもとではどこでも起こりうるがゆえに、子どもたちと個の尊厳・関係性を学び合う重要な教育課 題。「いじめ=汚点」ではない。
 
 予防と対応のために
 
 A.子どもの抱える課題に即して
 (1)当人が「ヘルプ」を出せる場、関係性が鍵。
 
 (2)いじめのやり方は、いじめる側の屈折した欲求と自己の不安・孤立を映し出す。
    → いじめは行為者の自立の課題を映し出す。
 
 (3)子どもたち一人ひとりの自己尊厳の学習を:学び直し・脱学習。
 
 B.学級における子ども集団づくり
 (4)いじめは、集団における関係性と一人ひとりの自立とが交差するテーマ。
   関係性が「武器」に転じないためには、次の点での自己他者認識が不可欠。
  @自由に自己を表現できるし応答がある。
 
  A個性とは、そのひとの思考の主体性であって、空間的距離や「個」という物質的事柄ではない。
  B個性の差異は、それぞれが自立の目的とどう向きあうかの内的構えの違いであって、攻撃材料ではない。
 
  C集団づくりに取り組むのは、班を単位とする「一緒主義」「団体主義」からではなく、個性的差異を認識の共有化・深化・発展 のテコにして、各人が自立に挑むためである。
 
 (5)いじめが発覚したとき、被害者の権利保護に立つ対応を取りながら、この問題を子どもたち自身がどう受け止め考えるかを問 いかけるフィードバックの視点を。
 
 (6)いじめは、子どもどうしの関係性の屈折に発する、相互に承認できない生きづらさの問題であり、自立そのもののテーマ。
   集団でおきたいじめ(あるいはそれにつながるトラブル)を子どもたちと読み解き、自分たちの生活の現実を(生きづらさの背 景を)読みひらく《学び》をつくりだす行為の過程こそが、子ども集団づくりのプロセスである。
 
 C.学校・教職員と保護者の協力
 (7) 当人または保護者等から「訴え」または「相談」があった時、教職員のチームで対応する(管理職者も含めて)。
 
 (8) 保護者会で、いじめ問題に関する認識を共有していく。→ 子ども理解として
  いじめられた側の保護者といじめた側の保護者との相互作用(それぞれの側に屈折した要求があるが共通性もあること)を重視し 、敵対ではなく、謝罪と和解へ。
   
 D.教育行政による条件整備
 (9) スクールカウンセリングと、スクールソーシャルワークとの連携づくり。
  いじめの実践的臨床的な取組みを工夫している学校への支援や条件整備こそ重要。
 
  (10) 対応マニュアルを見直し、構成し直す。
  ・いじめ被害の子どもをエンパワーする(権利行使を促す)視点から
  ・苦しむ子どもへの共感  ・見守ることが支援となる場合もある  ・対話型
  ・ワークショップに生かせる構成
 
 E.ゼロ・トレランス(寛容度ゼロ)の生徒指導方式でいじめは克服できるか
  @いじめを、当事者間の「許されざる行為」とみなし、いじめる側を学校空間から排除する措置では、いじめを生み出す元にある 過剰な競争関係なり、差別の構図なりが結局はそのままになる。
 
  A「出席停止」(教育再生会議での検討案)は、学校権力による規律統制の様相をおび、そのいじめ事実発覚に至る過程での実践的 なありかた、保護者との連絡、学校運営の課題が不問にされる(出席停止措置を行使する側の問題を問うことが必要)。
 
  B仮にその措置を行使しても、家庭訪問等の支援・立ち直りへの指導を誰がどうするかの人的保障や、この措置を認める行政機関 の学校への指導体制の方針などがオープンになり、共有されない限り、この措置は、権力者による恣意的判断を免れない。
 
【参考】折出によるいじめ問題に関する論文・談話
  『新婦人しんぶん』06年11月23日号
  『女性のひろば』07年1月号
  『クレスコ』07年3月号

【付記】この講座の内容編成は、さる12月16日に札幌で行ったいじめ自殺問題を考える講演(要旨は、いじめを考えるコーナーに掲載)のさいの参加者からの質問や意見に」示唆を得て、若干の加筆を行い、なおかつ全生研の会員が対象であることから集団づくりの実践の観点をかなり意図しておこなったものである。(4日 記)


福井高教組                        21th Oct.06
 
生徒の生きづらさを自立と学びへ
                                   
                        折出 健二(愛知教育大学)
 
はじめに  コミュニケーション労働としての教育
 
 (1)人間を、人格としての発達可能性を秘めた主体を、相手にした仕事である。
   働きかける者、働きかけられる者、しかも働きかける者が働きかけられる(教育者が教育される)という相互行為、相互交流を基幹にもつ仕事である。
 
 (2)共感的理解
   ただ相手に働きかけるのではなく、相手の内的世界における充足・希望、あるいは逆に不安・葛藤・焦燥・苦悩などを理解する(つかむ)。
   そして、これらの共感的理解をとおして個人の人格的自立を支えていく仕事。
 
  (3)援助専門職
   教師は教科内容修得に関わる専門職者であると共に、子ども・若者の発達に対する援助専門職者(Helping Profession)である。
 
 
T 生きづらさとは何か
 
 1 発達とアイデンティティ形成から見るときの「危機」の乗り越えがたさ
 
 個体の発達においてたどるべき「心理・社会的危機」(E.Erikson)=転機を乗り越えがたい状態が幼児期、少年期、そして青年期と多層的に重なりあう。
 なぜか。その危機に挑む場面に立ち会い伴走してくれる他者の欠如、不在、不可視。
 
 子どもが思春期・青年期を生きるとき、その親が成人期の世代性(次世代を育て自立をささえる役割としてのアイデンティティを獲得すること)をどう体得し創り出しているか。
 
 思春期・青年期を生きる生徒たちの現実と向き合う教師は、そのような他者としての自分というアイデンティティをどう獲得していくのか。
 
  2 新たな競争秩序・競争の徹底のもとでの学びづらさ
 
  1980年代末以後の「新学力観」による、個々の生徒の被圧倒感・自己縮小感
  @「学力」概念の拡張
  「学力」として客観化される達成水準を生み出す個人の能力要素を、従来の知識・理解から関心・意欲・態度、思考・表現、技能にまで拡張したために、個人の「能力・  人格」の多面が評価にさらされるという、生徒と学校の緊張関係を拡張させた。
 
  そうではなく、「学力」という達成能力を生み出す学びの基礎としてどのような知的裾野を持たせるかという視点が必要。
  つまり、「学力」は生徒が獲得していく「文化力」の主要な部分であり、その「文化力」形成の対象と活動過程のほうを豊かにしていく改編こそが必要である。
 
   ex.教材の自主編成
      授業展開における参加型の構成
      プレゼンの要素も含む自主的学びの支援
      共同(協同)学習をベースに置いた知的訓練の、相互性のある授業
 
  A授業の四辺形と学びの再構成
 
        生徒              学習方法(認識方法)
  ----------------------------------------
  ----------------------------------------
     教師               教材(学習材)
 
  上図の内、「生徒」の「学力」特性を細分化し要素化して学力評価を改編したが、文化力を引き出す学びのためには、授業の「四隅」全体をどう再構成していくかの追求を 教師たちにゆだねるべき。
【付記】「文化力」は、小著『変革期の教育と弁証法』創風社で述べた。ちなみに、教育再生会議にはわたしは懐疑的であるが、座長の野依氏も「文化力」の着眼の重要性を 指摘している(『朝日新聞』インタビューで)
 
 
 
  3 新自由主義的「私事化」のパラドックス現象:他者との共同の見えづらさ
 
 「自己責任」「自己選択」が「今後の個性重視の教育では重要」(1997中教審)とされて以来、パラドクシカルな現象が派生。
 他者との関係性では、一方では「マサツ回避」のための緊張をはらんだ関係の増幅、他方では、対話や討論によるぶつかりや対立を超えての合意形成を経験していない、無防備な「自己」の不安の増大を生み出している。
  特に後者の現象は、権力・権威への安易な適応・従順という最近の若者傾向ともつながっている。
 
 
U 高校教育実践の変容と教師の役割・再登場
 
 1 学びは教科指導過程のみならず、生活指導過程にもある。生活指導としての学びが、文化力形成(対話力、表現力、課題設定力)ひいては(狭義の)学力形成をうながす。
  換言すれば、生活変革に対する「見通し」のちからなくして、「学び」のちからの向上はダイナミックさを持ちにくい。
  cf. 大学生:知識理解はあるが、討論場面で発言できない、自己主張を出せない。
  定式化された枠内での「できる」生徒(知的情報の反復再生型能力ではないか)。
 
 2 生徒自治の萌芽を伸ばす。
 
  生徒の自主自立の尊重は重要だが、顧問教師をはじめ多くの教師は「任せる」というスタンスで、「討議すること」「リーダーであること」「合意形成とは」などについて生徒と語り合い、問題を共有していかない位置にいるのではないか。
 
 3 生徒の対人関係の揺らぎと要求と発達の転機
 
  マサツを回避しながらも、薄っぺらな付き合いでは満足しない。
  クラスや学年の公共空間としての居心地、周りの関係における安心安定、他者発見・自己発見を求めている。
 
 
 4 (前述の)構造的な競争主義や分断化・孤立化のなかで、「教師にかまってほしい」「頭ごなしの否定にはキレる」「仲間に大切にされたい」という、高校生なりの「わたしを見て」症候群が強まっている。
   ツッパリの生徒ほどそれは屈折し、要求度も強いのではないか。
   しかし、ある意味では健全な自己アイデンティティの探究行為でもある。
 
 5 高校におけるいじめの発生
  いじめの形態の変容
  a. 携帯メール遊びで、特定の生徒を責める。また、ある生徒になりすまして、虚偽の情報をながす。
   → バーチャルな関係性における攻撃性の現われ。
  b. 現実の競争・家族関係等によるストレス、自己肯定の弱さ、などを反映。
 
  c. やられた生徒の話を聴く。
    T「いつから、いじめが・・・」
    S「三年生になってから」
    T「どうしてほしい?」
    S「なんとか耐えていきたい。このために休もうとは思わない」
  ◎発達支援のポイント:「どうしていじめられるんだ」ではなく「どうしたい?」。
   「聴くことの力」(鷲田清一)
 
  d. 生徒の無力化をエンパワーしていく「言葉の力」を再認識するときではないか。
 
 6 AD/HDやアスペルガー症候群の生徒が入学してくる事態の中で、どう発達の理解と援助をしていくか、また教職員がこの課題をどう共有していくか。
  「発達障がい」は、疾患ではない。共通して社会性の障がいであり、対人関係・対他者の関係での、自己表出・協調・交流・共有などの社会性機能の不全ともいえる。
 
 
 7 高校教育実践で活用すべき三つの力
 
   生徒集団の力と、教職員の共感と共有の力、そして保護者の支援・協力。
 
   cf. 高1の担任(工業高校土木科)で、夏休みにクラス全員の家庭訪問を実施。 「ほめまくり家庭訪問」と自称。以後は、学校の場で保護者との対話に発展。
 
 
 8 脱学習(unlearning)という学び組み替えの場としての高校教育を
 
  高校生に至るまでの、劣等感、被差別感、学校不信感、心的外傷体験、家族の危機などを、高校生活を通じて、そこで学習してきた(学習してしまった)自己という像ないしは自己イメージを脱するという学習の追求こそ、生徒たちの自立の鍵。
 それは同時に、教師として彼・彼女と出会い直し、かれらを通じて教師の自己肯定を得て教師という自己のアイデンティティ危機を乗り越えていくことでもある。
 
  その意味で、「否定の中の肯定をつかむ」実践観と自立観を。
 
 
参考図書:折出健二『弁証法のレッスン暴力・平和・他者』自費出版
      同   『市民社会の教育〜関係性と方法』創風社
      同   『変革期の教育と弁証法』同


私版本『弁証法のレッスン〜暴力・平和・他者〜』

発行:2006年7月20日。東京・千代田製版。A5版、160ページ、頒価1000円(税込み)
            

内容は下記の通りです。

○教育改革とわたしたちの課題

憲法の原理
戦後六O年の節目で憲法・教育基本法を考える
平和と学問
「自己責任」主義の県内版ではないか〜愛知の教育を考える懇談会「最終報告」について〜
学力をめぐって〜「知的遊び」のある学びを、子どもたちに〜
「学力低下」問題の本質は
少人数授業

○子ども・若者の未来〜暴力を超えて〜

自律性無き日本の資本主義と生きづらさ
格差社会
「岩脇いじめ裁判」の本当の意味
「愛知学園事件」を読み解く 第一信
「愛知学園事件」を読み解く 第二信
沖縄・長崎の事件をどう見る
「健全な家庭」の問い直し
臨床と自立と平和〜暴力をめぐって〜
平和活動の中の「つながり」
二つの平和宣言と地方の主権・自治の新たな展開
暴力を問うメッセージ
弱者フォロー

○子どもとの関係性とおとなの自立

子どものメッセージを読みひらき、信頼と自治の力をはぐくむ
「いのちが削られていくようです」
「指導力向上を要する教員」とは
教育における他者関係と教師の役割
困難な中でどう実践記録をつくるか
最近の子ども虐待をどう見るか
ケアを考える
新入門をめぐる声

○わたしの書評他

書評『教育基本法 歴史と研究』
大学院生にも、研究者にも、刺激的
「バカの壁」の元にあるもの
汝の道を歩め
インパクトのある体験記
市民的政治感覚にプラス
吉野源三郎の児童文学復刊
ヘーゲルの未来
ヘーゲルとポストモダン
歴史を引き継ぐということ〜デリダに学ぶ〜
マルクス
「グッバイ・レーニン」
「きつねの窓」
  付録 卒業研究(卒論)に取り組むために


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小著を謹呈した愛知県立大学・近藤郁夫さんから、氏の趣味である高山植物の写真のはがきにコメントを書いたものが届きました。

こうして本にまとめられると「画面上よりも深化しているように思えます。『本』のもつ力なのでしょうか」と。また、同書の「付録」も参考にしたいと。

そのはがきの表の写真は、ヒメフウロ(姫風露)という、わずか1センチほどの花だそうです。その名の通り、とてもすてきな花。感銘を受けました。

人生は、案外と、このヒメフウロのように、その人の輝きを放って締めくくられる(閉じていく)物語なのでしょうね。(9/8)

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小著をお送りした方から返事が届きました。哲学者の島崎隆氏(一橋大学教授)からです。ずっとこの夏はオーストリアのウイーンで過ごされたようです。。

というのは,ご次男がこのたびウイーンのギムナジウムの最終試験に合格し、高校卒業となり、その整理などがあったためとか。帰国子女枠でこんどは大学受験らしいです。いま大学生のご長男もたしかウイーンで教育をうけられたと思います。

島崎さんのご家族は10年もウイーンで暮らしてきたことになるらしい。その体験を通じて、教育学者以上に教育、学校について発信をしておられます。たとえば、氏の著書として 『ウィーン発の哲学―文化・教育・思想』 (未来社、2000年)があります。

わたしの小著の内容についてはいろいろ感想を書いてくださいましたが、マラブーの著作については「何が言いたいのか、つかめない」と辛口のコメントでした。ただ教育や時事をめぐる「弁証法的思考」については、哲学の専門外ではありますが、まあわたしの試みは大目にみとめてもらえたのかもしれません。

氏はいまは「エコマルクス主義」でまとめる仕事をされているとか。マルクスと環境とのつながりです。哲学分野も、たえず更新されていくのですね。そうして思想の源泉の再認識・再評価へと問題が深まっていくのでしょう。

分野の異なる方からこうしてコメントをいただけることは、たいへんありがたいことだと思っています。


SNSの反響が問いかけていること

いま、SNS,ソーシャル・ネットワーク・サーヴィスが急速な広がりを見せているようです。中でも「mixiミクシィ」は、会員数約500万人で、ついにサイト運営の会社は上場にまで至ったとか。(9/14、NHKのTVニュースより)
          

こうした背景には、サイバー・コミュニティ(ネット空間に成立するコミュニティ)への参加拡大が、我が国でもインターネット社会の浸透・拡大によって起こるべくして起きていると言えます。

当の「ミクシィ」HPによると、「mixi では、健全で安心感のある居心地の良いコミュニティを醸成して行きたいという想いから、招待なしでの新規登録は、行えない仕組みになっております。」(URL=http://mixi.jp/about.pl アクセス日:06.9.14.)として、限定された、安心できるメンバーでの「つながり」を同社サイトの「売り」として打ち出しています。

次に、「まだ見ぬ(会わぬ)他者」との出会いがとても魅力なのです。全くの他人でもない。もちろん友人ではない。だが、友人に紹介された、自分にとって「親しみの生まれうる他者」。それは家族でもない、職場でもない、地域でもない。あたらしい、何かわくわくするような出会いなのでしょう。そういうつながりを、多くの人が求めている証拠です。現状を「超えてみたい」何かが、誰の中でも動いているのです。

当のHPもこう発信します。「さらに、mixi を使えば 『友人の友人』との交流が簡単にできます。“よく話には出るけれど、、” といった直接は面識のない方など、どこかでつながっている新しい方々との交流を楽しむことができます。この点が、mixi がもつこれまでのウェブサービスにはない新しさです。これまでは見えなかった世界中の友人同士のつながりを、ぜひmixi で実感してください。」(同上)

三つめに、「出会い系」の怖さを払拭する仕組みがSNSにはあり、これは、同じ話題やトピックでつながれる安定・安心の確保、です。
HPでは、「mixi では、共通する趣味や関心ごと、考えなどをお持ちの方々とのコミュニケーションを楽しむことができるコミュニティ機能をご用意しています。また、コミュニティに参加することで、他者に自分の趣味や属性、どういった人間なのかを端的に表現することもできます。」(同上)と述べています。

テレビニュースに映ったミクシィ社長は、若い、30代の男性。彼らはうまく現代社会のひとびとのニーズをつかんだと思います。
名前の由来は、こうです。「“mixi”とは “mix”(交流する)と “i”(人)を組み合わせたことばです。みなさんが友人との関係性の中で刺激を受けあうことで、これまでの友情をさらに深めてほしい、そして、これまでの友人関係から新しい友人を見つけ出してほしいという願いを込めて付けました。」(同上)

わたしからすると、なるほど、と感心してしまう。「他者」「関係性」「新しい人を見つける」の、現代他者論の三つのキーワードが、このHPのメッセージにきちんとおさまっているではありませんか。

ただし、ここから先はわたしたちの生き方とも関わるテーマ。このネット上の「サイバー・コミュニティ」は、社会をよりよくしていくパワーの探究とどうつながっていくか。孤立や不安、友人ほしさがある程度満たされたあとに、どのような自立を創造していくか。

ここが、実は、さすがのミクシィも及び得ないテーマ(世界)なのではないでしょうか。

「参加」が「友人発見・出会い」、そして「親密に近い暖かさ」で終わっていいのだろうか。もちろんそこから先は、SNSのせいではなく、個々人の自立と生き方、わたしたちの社会づくりの課題ではないかと思います。

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