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マヤの暦が2012年で終わるという話を最初に聞いたのは1991年の秋だった。5200年弱の13バクトゥンに重なる分明周期仮説や、その大周期が5つで26000年(25920年)周期である事などがとても新鮮に感じられた。ちょうどその頃、私は身辺に「数のシンクロニシティ」とでも呼ぶべき数字の符合が、きらめき始めているのに気がついていた。当時の私はプラトン立体やアルキメデス立体にも魅せられて、毎日多面体を作り続けていた。正20面体と正12面体の回転対称軸は13本、面体正8面体と正6面体のそれは31本。現行のマヤの暦の開始がBC3113年。双対立体である正20面体と正12の、面の数と点の数がリバーシブルである。現行のマヤの暦の終焉がAD2012年。そこに何ら論理的関係性は見られなかったが、それでもその数的符合は私を強烈に数に引き付けていった。
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「当社では商品の品質に対して万全を期しておりますが、万が一不良品がありましたら、お手数ながら当社にお送り下されば…。」お菓子の包装袋によくそのようなコメントが書いてある。一万と、一万分の一と。地球の1年は365・2422日。月の公転・自転周期は27.320日。この2つを丸めて365日と27.4日として掛け合わせてみて、アッと驚いた。電卓への入力を間違えたのかと思って、もう一度打ち込んでみるが変わらない。27.4×365=10001。これは一体どういう意味だろう。地球が太陽の周りを1年かけて公転する間に365回自転するように、公転と自転が等しい月の方もほぼ1万と1日で、地球を365回公転する。この<月−地球−太陽>の関係において、一意で太陽と月が地球を介して1万と1日かけて「位置の交換」をした、もしくはリバーシブルな関係対称性を持ったと言えるのたろうか。
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天体の運行はそれぞれ勝手気ままに動いているのではなく、整然とした多次元的比率の関係で天球の音楽を奏でている。公転周期という時間的数値ではなく、今度は月と地球の赤道直径の比率という空間的数値を見てみよう。月の赤道直径は3,276q、地球の赤道直径は12,756q。ここで月の赤道直径比を100とすると、地球の赤道直径比は366.9735となり、365日に近似する。また逆に地球の赤道直径比を100とすると、月の赤道直径比は27.2499となり、27.3日に近似している。つまり互いを100とすれば、直接関係のなさそうな直径比率の上にも、それぞれの公転周期に近い数字がでてくるのだ。もちろん互いを1とすれば、それぞれ10−2を掛ければよいのだが、100×100=10000=104で、やはりここにも10000のロジックが顔を見せている。
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人間には数える能力がある。現代人であれば国や言葉が違っていても、数の概念はいわば共通言語として理解しあえる。しかし実のところ形而上と形而下をいともたやすくつなぐ、この「数」とは一体何なのだろう。「数える」とは何をどのように扱っているのだろう。数を数えられるということ自体の、このあられもない不思議。ポケットに両手を突っ込んで、まだ見ぬときめきを求めて街をさまよう少女の数えかたと、大学で数理を研究している者の数に対する接し方との間には、人々が想像するほどの大差はない。もちろん今ここで数の概念や、認識の歴史や現状を述べるつもりはない。しかしこの地球上に生息する人間にとって、1年が365日なのは偶然の産物ではなく、人間の何らかの精神構造と照応しているから、そのような周期で運行するように見えているのではないだろうか。
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数を数える時、人間はためらわず10進法を用いる。どうしてシュメール以来ずっと12−60進法を用い続けているのだろう。マヤの13−20の数の論理とはどんな構造をもっているのだろう。人間の指が10本だったから10進法が発達したのだというまことしやかな説がある。また一方、人間の精神構造が10進法という形を取ったから指が10本になったのだとする、まったく逆の主張もある。個人的には前者も後者も同じことを別の表現で言っているだけなのだという気がする。なかなか共通の認識には至らない。主観を排した冷たい技術的な数のみでなく、また客観性に難のある数秘術的な数にも偏らず、普段は気づかなかったような数の符合を介して、なんとかその秘密を共に垣間見ては行けないだろうか。シンクロニシティ。それは「起こる」ものではなく、「気づく」ものなのだ。
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リニアルな時間の概念下で言えば、12−60の数の論理は有史以前の過去から来ており、13−20の数の論理は2013年以降の未来から来ていると表現することもできる。そして少なくともこの5200年間において、10進法とは数の認識に対する「地球固有の精神構造」なのだ。土星の1公転は29.53年。月の1公転は29.53日。仏教的には浄土の1日はこの世の1年である。西洋占星術でいえば、1年1日法。類いまれなこの星「地球」に人間として生まれてきて、しかも10進法で数を数えられるということのこの上もなき幸せ。それにしても本当に「数」とは何だろう。「数える」とは何をしているのだろう。そして数がはじけ合うようなシンクロニシテイを知った時の、あの湧き上がる至福感は本当に何なのだろう。数の比率の中にめくるめく整合性を垣間見そうな瞬間の、あの美の予感を肌で感じるあの感覚。
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私は高校2年の時サッカーに熱中し過ぎて、物理B・化学B・数学UBの3科目において、5段階評価の2を頂戴したことがある。英語や国語や地理や生物などは勉強しなくてもどうにかなるところもあるが、理数系の課目は日々の積み重ねがなければ、途中からさっぱり分からなる。その時私は、ああこれでもう数を扱うこととは一生縁がなくなるのだなと思った。時を経ること十数年、あろうことか私は数の不思議さや形の美しさに夢中になった。よもや好奇心と興奮の中で独学し続けるはめになるとは思いもよらなかったのだが。ダグラスホフスタッターの本の中に「NUMBER NUMBER(ナンバー・ナマー)」という言葉がある。数に痺れてマヒしている者とでもいう意味だ。私はこつこつ集めた数のデータ集に「
for NUMBER NUMBER」(数痺者のために)と名づけた。しかしいまや数の痴れ者・「数痴者」である私自身のためのものなのかも知れない。
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最初の頃は一人よがりの探求だった。自分が知りたいことが分かればもうそれでよく、すぐに次の興味に取り掛かれた。しかしそのようなデータが膨れ上がってくると、ひとりでは全体が俯瞰できなくなってきた。同じような数痴論者との情報交換、そして尋常ではないが興味深い世界観の共有。そのためには人に伝えるための作業をしなくてはならない。もはや自分の興味と好奇心を満たすだけの数オタクではいれなくなっていた。何事にもタイミングというものがあり、それを逃すかうまく掴まえてレベルアップしていくかで未来も変わって行く。我々現代人が忘れ去って久しい、有史以前の太古の英知探求の道を辿ることで、地球の未来へ続く新たなる道へのリンクを見出すことができるだろうか。本当に、この「数」とは一体何なのだろう。「数える」とは何をどのように扱っているのだろう。
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さて本編の内容構成だが、10進法ホロン的にデータが配列されている。各部は《0》,《1》,《2》,《3》,《4》,《5》,《6》,《7》,《8》,《9》の大パートからなっており、これら内部にはさらにそれぞれ10進法的な数の並びがホロニックに収まっている。例えば365は《3》と《4》の間にある《36》の項に入っている。さらに細かく見れば同じ365という数の並びでも、その実際の数値の小さい方から順に並んでいる。例えば◆0.365◆3.65◆36.5◆365という順になっている。コンピュータの検索機能でサーチするなり、国語辞典などのようにパラパラめくって気にいったところを見るなり、使用法は自在である。なお、本稿は順次バージョン・アップされているものなので、重要な数値で未登録なものがあったら、自ら挿入するのみならず、ぜひ当方にご一報いただけたらと切に願うものである。
(e-mail address→ maro.ono@nifty.ne.jp )
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