持 統 天 皇
(高天原広野姫天皇)
たかまのはらひろのひめのすめらみこと

持統天皇、鵜野讃良皇女(うののさららひめみこ)は大化元年(645)に天智天皇と蘇我石川麻呂の娘、遠智娘(おちのいらつめ)との間に生れました。この年はいうまでもなく大化の改新の年、彼女の一生も波乱に満ちたものでした。
春過ぎて 夏来るらし 白栲(たへ)の
衣干(ころもほ)したり 天(あめ)の香具山
(巻一、二八)

 春過而 夏来良之 白妙能 衣乾有 天之香来山

春が過ぎて夏が来たらしい真っ白な衣が干してある、天の香具山に

この歌は新古今集、小倉百人一首では「春過ぎて 夏来にけらし 白妙の 衣ほすてふ 天の香具山」となっています。 
私は小学校時代、百人一首が好きで特に女天皇のこの歌は印象的でした。でも、子供心になぜ山に衣が干してあるのか不思議でした。その後、これは初夏の雲を白い衣に見立てて歌ったものだと思うようになりました。今でもその考えは捨て切れないのですが、この解釈、みなさんどう考えますか。

天皇の崩(かむあがり)ましし時に、大后(おほきさき)の作らす御歌一首
やすみしし 我が大王(おほきみ)し 夕(ゆふ)されば 見(め)したまふらし 明け来れば 問ひたまふらし 神岳(かみをか)の 山の黄葉(もみち)を 今日(けふ)もかも 問ひたまはまし 明日もかも 見(め)したまはまし その山を 振り放(さ)け見つつ 夕されば あやに悲しみ 明け来れば うらさび暮らし 荒栲(あらたへ)の 衣の袖は 干(ふ)る時もなし (巻二、一五九)
    
 一書に曰く、天皇の崩(かむあがり)ましし時、太上天皇(おほきすめらみこと)の御製歌二首
燃ゆる火も 取りて包みて 袋には
入(い)ると言はずやも 智男雲
(巻二、一六〇)


北山に たなびく雲の 青雲の
星離(さか)り行き 月も離(さか)りて
(巻二、一六一)

八隅知之 我大王之 暮去者 召賜良之 明来者 問賜良志 神岳乃 山之黄葉乎 今日毛鴨 問給麻思 明日毛鴨 召賜萬旨 其山乎 振放見乍 暮去者 綾哀 明来者 裏佐備晩 荒妙乃 衣之袖者 乾時文無

燃火物 取而・而 福路庭 入澄不言八面 智男雲

向南山 陳雲之 青雲之 星離去 月矣離而

我が大君(おおきみ)が、夕べにご覧になり 夜が明けると尋ね来られたという、あの神の丘の紅葉を今日も尋ねられ 明日もご覧になるのでしょうか。その山を仰ぎ見ながら、夕べには無性に悲しく 夜明けを寂しくすごす、喪服の袖は涙で乾く間もありません。

天武天皇の崩御されたときの太上天皇(持統天皇)の歌二首

燃える火すら取って袋に入れられる、と言うのに

北山にたなびく青い雲は 星を離れて 月を離れていく

天皇ノ崩(かむあが)りましし後の八年九月九日奉為(おほみため)の御斎会(ごさいゑ)の夜、夢(いめ)の裏(うち)に習ひ賜ふ御歌一首 古歌集の中に出ず

明日香の 清御原(きよみはら)の宮に 天の下 知ろしめしし やすみしし 我が大王 高照らす 日の御子 いかさまに 思ほしめせか 神風(かむかぜ)の 伊勢の国は 沖つ藻も 靡(な)みたる波に 潮気(しほけ)のみ 香(かを)れる国に 味凝(うまこり) あやにともしき 高照らす 日の御子 (巻二、一六二)

天武天皇御崩御後八年九月九日、後斎会の夜、夢の中で口ずさまれた歌
 明日香の清御原の宮に天下を治められた(やすみしし)わが大王、(高照らす)日の御子はどのようにお思いになってか (神風の)伊勢の國、沖の藻の、なびく波に潮の香りが立ちこめる国においで遊ばすのか、無性にお慕わしい(高照らす)日の御子さま


最初の長歌とそれに続く短歌二首は、夫である天武天皇が亡くなった時の悲しみの歌です。壬申の乱で共に苦労してきた故天皇に対する思いが伝わってきますね。160番の「智男雲」は訓義未詳です。161番の歌の「北山」は明日香北端の香具山ではないかといわれています。また、青雲は天武天皇、星は皇子や皇女たち、月は皇后自身ではないでしょうか。
最後の長歌は天武天皇が亡くなってから8年後の法会の夜、持統天皇が夢の中で覚えた歌です。 

天皇(すめらみこと)志斐嫗(しひのおみな)に賜ふ御歌一首
いなと言へど強(し)ふる志斐のが強語(しひかたり)このごろ聞かずて朕(あれ)恋ひにけり (巻三、二三六)

志斐嫗が和(こた)へ奉(まつ)れる歌一首
いなと言へど語れ語れと詔(の)らせこそ志斐いは奏(まを)せ強語と言(の)る (巻三、二三七)

天皇賜志斐嫗御歌一首
不聴跡雖云 強流志斐能我 強語 比者不聞而 朕戀尓家里

志斐嫗奉和歌一首 嫗名未詳
不聴雖謂 語礼〃〃常 詔許曽 志斐伊波奏 強語登言


いやだと言うのに、志斐の嫗の強(し)い語りをこのごろ聞いていないので物足りない

いやですと申し上げているのに、語れ語れとおっしゃるから志斐めはお話しているのに 強い語りなどとおっしゃるなんて

「強(し)い」と「志斐」を懸けたユーモアに満ちた歌のやりとりです。「志斐の嫗」は語り部でしょうか。

和銅三年庚戌(かのえいぬ)の二月に、藤原の宮より寧樂(なら)の宮に遷(うつ)る時に、御輿(みこし)を長屋の原に停(とど)め、古郷(ふるさと)を廻望(かへりみ)て作らす歌、 一書には「太上天皇の御製」といふ
飛ぶ鳥 明日香の里を 置きて去なば 君があたりは見えずかもあらむ (巻一、七八)

和銅三年庚戌春二月従藤原宮遷于寧樂宮時御輿停長屋原廻望古郷作歌 一書云太上天皇御製
飛鳥 明日香能里乎 置而伊奈婆 君之當者 不所見香聞安良武

藤原宮より寧楽(なら)宮に遷りましし時、御輿を長屋の原に停めて、はるかに古郷を望んで作る歌
          太上天皇の御歌と言う

(飛ぶ鳥の)明日香の里をあとにして行ったならば、君の家のあたりは見えなくなってしまうのでしょうね。

この歌は平城京遷都の時の元明天皇の歌とされていますが、「太上天皇」の御製というのがよく分かりません。この時、元明天皇は現役の天皇ですし、史上最初の太上天皇の持統天皇はすでに亡くなっています。また、この遷都は藤原京から平城京への遷都ですので、「明日香の里」というのはおかしいということで、いろいろな説があるようです。1つは、「明日香」は「藤原宮」を含む広い地域を指し、この歌をとりあげたのが元正天皇の時代になってからなので元明天皇のことを「太上天皇」としたという説、1つは藤原京を明日香と呼ぶのはおかしいとして、この歌は飛浄御原宮から藤原宮に遷る時の持統天皇の歌という説などです。どっちが正しいのかよくわかりませんが、私は藤原京遷都の時に持統天皇が作った歌を平城京遷都の時に引用して儀礼的に歌ったものではないかと思います。

持統天皇に対する評価は様々です。我が子、草壁皇子を皇位につけるために、大津皇子を謀反人にしたてあげた、父天智ゆずりの策謀の女性、草壁皇子が皇位に就くこと無くこの世を去ると、今度は孫の文武天皇の成人まで自分が皇位に就いた権力志向の人等々。しかし、私は必ずしもそうとは思いません。姉、大田皇女の息子、大津皇子は懐風藻によると、「幼年にして学を好み、博覧にして能く文をつづる。壮に及びて武を好み、多力にして能く剣を撃つ」とあります。彼女としては、父天智、夫天武が敷いた中央集権国家の建設、律令制の完成のためには、このような大津皇子の性格は危険極まりないものとしか思えなかったのではないでしょうか。我が子草壁のためもあったでしょうが、それよりもむしろ、父と夫の敷いた路線を忠実に継ぐ堅実な方針をとる必要があったのだと思います。推古、皇極・斉明天皇に続く3人、4代目の女性天皇ですが、実権を握った最初の女帝であったといえるでしょう。奇しくも、ほぼ時を同じくして中国でも女帝、「則天武后」が権力を握っていました。両者とも、いろいろな人物評がありますが、一時代を築いた女傑であったことはまちがいありません。
最後に、藤原宮をたたえる作者未詳の長歌と人麻呂の彼女をたたえる歌を紹介しておきます。
藤原の宮の御井の歌
やすみしし 我ご大王 高照らす 日の御子 荒栲(たへ)の 藤井が原に 大御門(おほみかど) 始めたまひて 埴安(はにやす)の 堤の上に あり立たし 見(め)したまへば 大和の 青香具山は 日の経(たて)の 大(おほ)き御門(みかど)に 春山と 茂(し)みさび立てり 畝傍(うねび)の この瑞山(みづやま)は 日の緯(よこ)の 大き御門に 瑞山と 山さびいます 耳成(みみなし)の 青菅山(あをすがやま)は 背面(そとも)の 大き御門に よろしなへ 神さび立てり 名ぐはし 吉野の山は 影面(かげとも)の 大き御門ゆ 雲居(くもゐ)にそ 遠くありける 高知るや 天の御蔭(みかげ) 天(あめ)知るや 日の御蔭の
 水こそは とこしへにあらめ 御井のま清水
(巻一、五二)
短歌
藤原の 大宮仕へ 生(あ)れ付くや 娘子(をとめ)がともは 羨(とも)しきろかも (巻一、五三)
     右の歌、作者(よみひと)いまだ詳(つばひ)らかにあらず。
[やすみしし] わが大王 [高照らす] 日の皇子が藤井が原に京をお造りになり
埴安の堤に立ってご覧になると、大和の青き香具山は 東方の御門のところに春の山として茂って立っている。畝傍の瑞々しい山は 西方の御門の方に瑞々しい山として、山らしく立っている。耳成の青い草山は 北方の御門として神々しく立っている。名高い吉野の山は 南の御門のはるか雲の彼方に聳える。高く天に聳え、天に立つ大宮の水は永遠に沸きいづる。御井の清水
藤原の大宮に仕えるために生まれてくる少女たちは羨ましいなあ

天皇(すめらみこと)の雷岳(いかつ゛ちのをか)に幸(いでま)す時に、柿本朝臣人麻呂が作る歌一首
大君(おほきみ)は 神にしませば 天雲(あまくも)の 雷(いかつち)の上(うへ)に 廬(いほ)りせるかも (巻三、二三五)
    

持統天皇が雷岳(いかづちのおか)においでになるとき柿本人麻呂の作る歌

大君は神にあらせられるので 天雲の雷の上に仮宮を造られている

彼女は夫、天武天皇との思い出の地、吉野に何回も足を運んでいます。死後も、天武天皇と合葬されています。
なお、彼女については屋内様のホームページ「屋内の書斎」の中の「万葉集:持統天皇のページ、あやめ様の「よろづのことのは」の中の「歌人からみる万葉集」の持統天皇の項を、また、大津皇子とその姉大伯皇女についてはHARUKO様の「HARUKOのおしゃべりルーム」の「歌物語風に読む万葉集」の中の「不運の姉弟」をご覧ください。
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