中 皇 命
(なかつすめらみこと)


万葉集の歌人には正体のわかっていない人が多いのですが、中皇命(なかつすめらみこと)もまた議論の分かれる人です。江戸時代、荷田春満とその弟子、賀茂真淵は孝徳天皇の皇后、間人皇女(はしひとのひめみこ)としました。しかし、大正時代に喜田貞吉博士は、5首のうち、1−3、4の歌は舒明天皇の皇后、宝皇女(皇極・斉明天皇)で、1−10、11、12の歌は天智天皇の皇后、倭姫王であるとしました。沢潟久孝氏はすべて宝皇女の歌としています。それぞれ、論拠はあるのですが、先ずは歌を見ていきましょう。

天皇の宇智の野に遊猟(みかり)したまふ時、中皇命(なかつすめらみこと)の間人連老(はしひとのむらじおゆ)をして献(たてまつ)らしめたまふ歌

「やすみしし 我が大王(おほきみ)の 朝(あした)には 取り撫でたまひ 夕へには い寄り立たしし み執(と)らしの 梓の弓の 中弭(なかはず)の 音すなり
 朝猟(あさがり)に 今立たすらし 夕猟(ゆふがり)に 今立たすらし み執らし の 梓の弓の 中弭の音すなり」
(巻一、三)

反歌

「玉きはる 宇智(うち)の大野に 馬並(な)めて
朝踏ますらむ その草深野(くさふかの)」
(巻一、四)

[やすみしし] わが大君が朝には手に取って撫で、夕べには側に立て置く、愛用の梓弓の弦の音する。朝の狩に今立たれるのか、夕べの狩りに今立たれるのだろうか。愛用の 梓弓の 音がする。

*「やすみしし」は大君にかかる枕詞。

反歌

(たまきはる) 宇智(うち)の原野で 馬を並べて今ごろは朝の狩をなさっているだろう。その草深い野て゜。

    *たまきはる:はウチにかかる枕詞。


この歌の詞書にある、「間人連老をして献らしめたまふ」という言葉が様々な議論を生んでいます。間人連老は歌の作者なのか、中皇命が作った歌を届けただけなのかということです。神田秀夫氏は長歌の方はまだ童女であった中皇命の言ったことを間人連老が歌にまとめたもので、反歌だけは間人連老が作ったものではないかという説をとっています。それで、反歌だけが秀作となったということです。また、2人の関係は、間人連氏が間人皇女の乳母であるというのが賀茂真淵の説です。中皇命が間人皇女であるという根拠もそのあたりからきているようです。中大兄皇子の乳母が葛城氏であったことから葛城皇子と呼ばれたのと同じだということでしょう。老の代作説の根拠の一つに詞書が歌となっていないこともあげられています。

中皇命、紀伊の温泉に徃(いでま)す時の御歌

「君が代も 我が代も知るや 磐代(いはしろ)の
岡の草根を いざ結びてな」
(巻一、一〇)

あなたの命も、わたしの命も知っている岩代の岡のこの草をさあ結びましょう。
(草を結ぶのは旅の無事や将来を祈るまじない)


「我が背子は 仮廬作らす 草(かや)無くは
小松が下の 草(かや)を 苅らさね」
(巻一、一一)

わが君は仮の庵をお作りになる、草が足りないのなら、あの松の下の草をお刈りなさい。

「吾(あ)が欲りし 野島は見せつ 底深き
阿胡根(あごね)の浦の 玉ぞ拾(ひり)はぬ」
(巻一、一二)

見たいと思っていた野島を見せていただいた、でも底深い阿胡根の浦の真珠はまだ拾っていません。

右は、山上憶良大夫が類聚歌林に検(ただ)すに曰く、「天皇の御製歌云々」 と云ふ。

さて、中皇命はだれでしょうか。私は宝皇女、即ち皇極・斉明だと思います。まず、最初の2首は舒明天皇の時代のものです。従って、間人はまだ子供です。代作までさせて父親に歌を献じるということは考えにくいと思います。老は使いしただけと考える方が自然のような気がします。倭姫王は生れていたかどうか。後の三首は斉明天皇が紀伊の温泉に行った時のものです。これも詞書が問題になっていて、天皇ならば幸(みゆき)となっているはずだとか、御歌ではなく御製というべきとかいうことです。私は女性の天皇はあくまで次の天皇までのつなぎ役、したがって低く見られていたのではないかと思います。中皇命というのも、中間をつなぐ意味ではないでしょうか。後の三首の歌の調子も、見方によれば命令調と言えなくもありません。息子の中大兄に対する歌でしょう。
いずれにせよ、歌は歯切れがよく技巧的でないところがとてもいいと思います。



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