長忌寸意吉麻呂
ながのいみきおきまろ
長忌寸意吉麻呂は紀伊国那賀郡を本拠とする長氏の出で、東漢(やまとのあや)系の渡来氏族といわれています。姓は直(あたい)から天武11年に連(むらじ)、14年に忌寸(いみき)を賜りました。正史に記載がなく、詳細は不明ですが持統・文武朝に宮廷歌を残しています。天皇、行幸時に従駕した歌のような、公的な場での歌がある一方、宴席での即興歌に異才を発揮しています。巻16にある、数種の物の名を詠みこんだ物名歌は中国の詠物詩の影響によるもののようです。
二年壬寅(みづのえとら)に、太上天皇(おほきすめらみこと)、三河(みかは)の国に幸(いでま)す時の歌
引馬野(ひくまの)に にほふ榛原(はりはら) 入り乱れ 衣にほはせ 旅のしるしに (1−57)
     右の一首は、長忌寸奥麻呂(ながのいみきおきまろ)。

引馬野尓 仁保布榛原 入乱 衣尓保波勢 多鼻能知師尓

引馬野(ひくまの)に匂う、はんの木の原へ入って、衣に色をつけなさい 旅の記念に

引馬野は愛知県御津町御馬付近で持統上皇の三河行幸に随行した時の歌です。



長忌寸意吉麻呂(ながのいみきおきまろ)、結び松を見て哀咽(かな)しぶる歌二首

岩代(いはしろ)の 崖(きし)の松が枝 結びけむ 人は帰りて また見けむかも (2−143)

磐代乃 崖之松枝 将結 人者反而 復将見鴨

岩代の岸の松が枝を結んだ人は再び帰り来て、枝を見たのだろうか

岩代の 野中に立てる 結び松 心も解けず いにしへ思ほゆ (2−144)

磐代之 野中尓立有 結松 情毛不解 古所念 

岩代の野中に、いまも立つ、あの結び松を見ると、私も心を解くことができず昔のことが悲しく想われる

この2首は、斉明天皇4年、蘇我赤兄に唆された有間皇子が反逆を企てて発覚し、中大兄皇子に処刑された事件で、連行される途中の歌、
岩代の 浜松が枝を 引き結び ま幸(さき)くあれば また帰り見む (2−141)
(岩代の浜の松の枝を結んで無事を祈るが、もし命があればまた帰りに見よう)
を受けて作った歌です。この歌に、山上憶良が後に唱和して作った歌が次にあります。
天翔(あまがけ)り あり通ひつつ 見らめども 人こそ知らね 松は知るらむ (2−145)
(有間皇子の魂は天(あま)駆ける鳥となって結び松を見に通って来るのだろう、人間には分らないが松はそれを知っているだろう)


長忌寸意吉麻呂(ながのいみきおきまろ)、詔(みことのり)に応(こた)ふる歌一首

大宮の 内まで聞こゆ 網引(あびき)すと 網子(あご)ととのふる 海人(あま)の呼び声(こゑ) (3−238)
     右の一首。

大宮之 内二手所聞 網引為跡 網子調流 海人之呼聲

大宮所の中にまで聞こえてくる 網子を指揮する漁夫の掛け声が

持統・文武天皇の難波行幸(文武3年)時の歌だと思われます。

長忌寸奥麻呂が歌一首

苦しくも 降り来る雨か 三輪(みわ)の崎 狭野(さの)の渡りに 家もあらなくに (3−265)

苦毛 零来雨可 神之埼 狭野乃渡尓 家裳不有國

困った時に降ってくる雨だ、三輪の崎、狭野(さの)の渡しには雨宿りする家もないのに

三輪の崎は新宮市だといわれています。

風莫(かざなし)の 浜の白波いたづらに ここに寄せ来る 見る人無しに (9−1673)
(一には「ここに寄せ来も」、といふ)

     右の一首は、山上臣憶良が類聚歌林には、
     「長忌寸意吉麻呂、詔に応へてこの歌を作る」といふ。

風莫乃 濱之白浪 徒 於斯依久流 見人無 一云 於斯依来藻

風莫の 浜には空しく白波が寄せてくる、誰も見る人がいないのに

風莫の浜は所在不明ですが紀路歌枕抄では瀬戸鉛山村、現在の白浜町とされています。


長忌寸意吉麻呂が歌八首

さし鍋に 湯沸(わ)かせ子ども 櫟津(いちひつ)の 檜橋(ひばし)より来む狐(きつね)に浴(あ)むさむ (16−3824)


刺名倍尓 湯和可世子等 櫟津乃 桧橋従来許武 狐尓安牟佐武

さしなべに、お湯を沸かせ、人々、櫟津の ひのきの橋を渡ってくるコン狐に浴びせてやろう
「来む」はキツネの泣き声コンとかけています。

右の一首は傳へて云はく、「ある時、もろもろ集ひて宴飲す。時に夜漏三更にして、狐の声聞こゆ。すなはち、衆諸(もろひと)、意吉麻呂を誘(いざな)ひて曰く、<この饌具(せんぐ)、雑器(ぞふき)、狐声(こせい)、河橋(かけう)等の物に関(か)けて、ただに歌を作れ>といへれば、すなはち、声に応へてこの歌を作る」といふ。

つまり、宴会でみんなから、饌具(せんぐ)、雑器(ぞふき)、狐声(こせい)、河橋(かけう)等を使って即興で歌を作れといわれて、すぐに作ったわけです。


行騰(むかばき)、蔓菁(あをな)、食薦(すごも)、屋梁(うつはり)を詠む歌

食薦(すごも)敷き 青菜煮て来む 梁(うつはり)に 行騰(むかばき)懸けて 休めこの君 (16−3285)


食薦敷 蔓菁・将来 ・尓 行騰懸而 息此公

すごもを敷いて、青菜を煮て持って来い、梁にむかばきをかけて休んでいるこの君のために

*むかばきは山野を歩く時足に着けるもの


荷葉(はちすば)を詠む歌

蓮葉(はちすば)は かくこそあるもの 意吉麻呂が家にあるものは 芋(うも)の葉にあらし (16−3826)


蓮葉者 如是許曽有物 意吉麻呂之 家在物者 宇毛乃葉尓有之

蓮の葉というものはなるほど、こういうものなんだ、家にあるのは似ているけど芋の葉らしい

この時代、宴席では料理を蓮の葉に盛ったようです。しかし、高価なため、一般の官人の家では芋の葉で代用していたのでしょう。蓮の葉は宴席の美女、芋の葉は自分の妻の譬でしょう。このころから女性を芋に譬える風があったのですね。

双六(すごろく)の頭(さえ)を詠む歌

一二(いちに)の目 のみにはあらず 五六三(ごろくさむ) 四(し)さへありけり 双六の頭(さえ) (16−3827)


一二之目 耳不有 五六三 四佐倍有来 雙六乃佐叡

一二の目だけではなく、五六、三四の目まで出る、双六の采はおもしろいものだ

人間の目との対比で歌ったものでしょう

香(かう)、塔(たふ)、厠(かはや)、屎(くそ)、鮒(ふな)、奴(やっこ)を詠む歌

香(かう)塗れる 塔(たふ)にな寄りそ 川隈(かはくま)の 屎鮒(くそふな)食(は)める いたき女奴(めやっこ) (16−3828)


香塗流 塔尓莫依 川隈乃 屎鮒喫有 痛女奴

香を塗ってある塔に近寄ってはいけない、厠のある川の角に住む屎鮒を食べた汚い女奴は


酢、醤(ひしほ)、蒜(ひる)、鯛、水葱(なぎ)を詠む歌

醤酢(ひしほす)に 蒜(ひる)搗き合(か)てて 鯛願ふ 我れにな見えそ 水葱(なぎ)の羹(あつもの) (16−3829)

醤酢尓 蒜都伎合而 鯛願 吾尓勿所見 水・乃・物

醤と酢に のびるをつきこんであえものとして、鯛を食べたいと願っている私に、 水葱の吸物など見せてくれるな


玉掃(たまばはき)、鎌、天木香(むろ)、棗(なつめ)を詠む歌

玉掃、刈り来(こ)鎌麻呂 むろの木と 棗が本(もと)と かき掃かむため (16−3830)

玉掃  苅来鎌麻呂 室乃樹 與棗本 可吉将掃為

玉箒を刈り取って来い、鎌麻呂、むろの木と棗の木の下を掃き清めるために

鎌麻呂は鎌の擬人化


白鷺の木を啄(く)ひて飛ぶを詠む歌

池神(いけがみ)の 力士舞(りきしまひ)かも 白鷺の 桙(ほこ)啄(く)ひ持ちて 飛び渡るらむ (16−3831)


池神 力士舞可母 白鷺乃 桙啄持而 飛渡良武

池神の力士舞なのだろうか、白鷺が 桙(ほこ)を咥えて 飛んで行くのは

白鷺が木を咥えて飛んで行くのを見て、力士舞の滑稽な姿を連想したものでしょうか。


公式の場での歌に比べて、巻16の8首は遊びの文芸です。この頃から、和歌は言葉遊びとなり得ていたことがはっきりしますね。壬申の乱が終わり、天武天皇が亡くなって、時代は大きく変わったのではないでしょうか。そして、これを境に和歌もより技巧的に変わっていったような気がします。万葉集の中で長忌寸意吉麻呂は必ずしも名歌を残したとはいえないかも知れません。でも、一つの変化の象徴として考えるのは私だけでしょうか。
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