志 貴 皇 子
し き の み こ

彼が歴史に登場するのは、679年天武天皇が皇后と6人の皇子たちを伴って吉野に行き誓いを交わした時です。(日本書紀)この6人とは、天武天皇の皇子4人(草壁、大津、高市、忍壁)と、天智天皇の皇子2人(川島、志貴)です。このとき、草壁が皇太子となったといわれますが、彼は天皇になることなく、この世を去ります。志貴皇子の立場は微妙なものだったわけですが、その警戒感からか、政治にタッチすることはほとんどなかったといわれています。大津皇子事件などから、身を守るために、目立たぬように一生を送ったのでしょう。しかし、後に彼の子の白壁王が光仁天皇として即位し、以後一貫して(現代に至るまで)その子孫が天皇となるわけです。以下、彼の歌を紹介していきましょう。


采女の 袖吹き返す 明日香風 都を遠み いたづらに吹く(巻一、五一)
采女たちの袖を吹き返していた明日香風は、都を遠く離れて空しく吹いている。
葦辺行く 鴨の羽がひに 霜降りて 寒き夕べは 大和し思ほゆ(巻一、六四)
葦のほとりの鴨の羽に霜が降るような寒い晩は大和のことが思いだされる。
前の歌は、持統天皇の藤原京遷都(694年)の後、旧都への懐古を歌ったもの、後の歌は文武天皇が706年に難波宮に御幸した時に歌ったものです。いずれも上の句は、とてもよいのですが、下の句がちょっと物足りない気がします。権力者(天皇)に対する遠慮でしょうか。


むささびは 木末(こぬれ)求むと思へども 山の猟夫(さつを)に あひにけるかも(巻二、二六七)
むささびは梢を求めようとしたが、猟師に捕まえられてしまった
むささびという動物は梢に駆け登って他の木に飛び移る習性を持っているようです。そこで猟師は木の幹を叩いて穴からおびき出し、梢に登るところを射落とすそうです。
猟夫は権力者、むささびはその罠にかかって死んでいった大津皇子を始めとする人たちのことであったのかも知れません。

大原の この市柴の いつしかと 我が思ふ妹に 今夜(こよひ)逢へるかも(巻四、五一三)
大原の茂った雑木林の中でいつ逢えるかと思っていたが今夜やっと逢えたよ
志貴皇子唯一の相聞歌、優れた歌人ですが、恋の方は臆病だったのでしょうか。この歌もそれほど感動が伝わってきませんね。

石走(いはばし)る 垂水の上の さ蕨(わらび)の 萌え出づる春に なりにけるかも(巻八、一四一八)
岩の上を走る滝のほとりに、わらびが芽を吹き出した、春になったんだなあ
春の到来を喜ぶすばらしい歌です。北陸に生まれ育った私には春が来た時のあの感動が蘇るようで大好きな歌です。

神(かむ)なびの 岩瀬の杜(もり)の ほととぎす 毛無しの岡に いつか来鳴かむ (巻八、一四六六)
神が降りるという岩瀬の森のほととぎす、樹のはえていないこの丘にもいつか来て鳴いてほしい
志貴皇子のさびしい境遇を象徴するような歌です。

天武系の世にあって志貴皇子は、「山の猟夫」に会わぬ様に生き続けました。彼の庶子白壁王も、父と同じく、周囲で撃たれていくむささび達、すなわち長屋王、大炊王(淳仁天皇)、道祖王等を横目に、ほそぼそと生き続けますが、62歳になって突然、藤原氏に天皇(光仁)として擁立されます。天智系の復活です。その結果、志貴皇子も春日宮天皇と追尊されることになります。泉下でさぞびっくりしたことでしょう。志貴皇子の死にあたっても挽歌は笠金村が歌っていますが、きわめてさみしいものです。長歌1首と短歌2首がありますが、短歌1首を紹介します。

高円(たかまと)の 野辺の秋萩いたづらに 咲きか散るらむ 見る人なしに(巻二、二三一)



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