菟原娘子
(うなひをとめ)

菟原娘子を詠った歌人は万葉集に3人います。高橋虫麻呂、田辺福麻呂、大伴家持です。いずれも長歌を詠っています。万葉の耽美派ともいうべき虫麻呂の歌がやはり感動的です。以下、順に見ていきましょう。

葦屋(あしのや)の処女(をとめ)が墓を過ぐる時に作る歌一首併せて短歌

いにしへの ますら壮士(をとこ)の 相競(あひきほ)ひ 妻どひしけむ 葦屋(あしのや)の 菟原娘子(うなひをとめ)の 奥城(おくつき)を 我が立ち見れば 長き世の 語りにしつつ 後人(のちひと)の 偲ひにせむと 玉桙(たまほこ)の 道の辺(へ)近く 岩構(いはかま)へ 造れる塚を 天雲(あまくも)の そくへの極(きは)み この道を 行く人ごとに 行き寄りて い立ち嘆かひ ある人は 哭(ね)にも泣きつつ 語り継ぎ 偲ひ継ぎくる 娘子(をとめ)らが 奥城(おくつき)ところ 我れさへに 見れば悲しも いにしへ思へば (巻九、一八〇一、田辺福麻呂歌集)

反歌
いにしへの 信太壮士(しのだをとこ)の 妻どひし
菟原娘子(うなひをとめ)の 奥城(おくつき)ぞこれ (巻九、一八〇二、田辺福麻呂歌集)

語り継ぐ からにもここだ 恋(こほ)しきを
直目(ただめ)に見けむ いにしへ壮士(をとこ) (巻九、一八〇三、田辺福麻呂歌集)



昔、男たちが、競って求婚したという、芦屋の菟原娘子の墓の前で、長く語り継いで、後の人たちiにも偲んでもらおうと、道端に、岩を組んで造った塚は、津々浦々まで知れわたり、通る人はみな寄り道して、墓の前に立って嘆き、人によっては声をあげて泣き、語り継ぎ、偲び続けてきた乙女の墓、私でさえ昔を思うと悲しくなります。

(反歌)
昔の信太壮士が妻問いしたという菟原娘子の墓はここなのだ。

(反歌)
語り継ぐだけでもこんなに恋しいのに、直接娘子を目にした昔の男はどんなに恋しく思っただろう。

これは田辺福麻呂歌集の中の歌です。福麻呂歌集は、すべて本人の歌というのが一般に承認されている説のようです。ここでは長歌には男の名前はなく、反歌でそのうちの一人の名前が出てくるだけです。詞書に「墓を過ぐる時に」とあるように、実際に墓を見て詠ったもののようです。「道の辺(へ)近く 岩構(いはかま)へ 造れる塚を」と、具体的に書いているのを見てもわかりますね。


菟原娘子(うなひをとめ)が墓を見る歌一首 併せて短歌
葦屋(あしのや)の 菟原娘子の 八年子(やとせこ)の 片生(かたお)ひの時ゆ 小放(をばな)りに 髪たくまでに 並び居(を)る 家にも見えず 虚木綿(うつゆふ)の 隠(こも)りて居(を)れば 見てしかと いぶせむ時の 垣ほなす 人の問ふ時 茅渟壮士(ちぬをとこ) 菟原壮士(うなひをとこ)の 伏屋焚(ふせや)き すすし競(きほ)ひ 相(あひ)よばひ しける時は 焼大刀(やきたち)の 手(た)かみ押しねり 白真弓(しらまゆみ) 靫(ゆき)取り負ひて 水に入り 火にも入らむと 立ち向ひ 競(きほ)ひし時に 我妹子(わぎもこ)が 母に語らく しつたまき いやしき我が故(ゆゑ) ますらをの 争ふ見れば 生けりとも 逢ふべくあれや ししくしろ 黄泉(よみ)に待たむと 隠(こも)り沼(ぬ)の
下延(したは)へ置きて うち嘆き 妹が去(い)ぬれば 茅渟壮士(ちぬをとこ) その夜夢(いめ)に見 とり続(つつ)き 追ひ行きければ 後(おく)れたる 菟原壮士(うなひをとこ)い 天仰(あめあふ)ぎ 叫びおらび 地(つち)を踏み きかみたけびて もころ男(を)に 負けてはあらじと 懸(か)け佩(は)きの 小太刀(をだち)取り佩き ところづら 尋(と)め行きければ 親族(うがら)どち い行き集(つど)ひ 長き代に 標(しるし)にせむと 遠き代に 語り継がむと 娘子墓(をとめはか) 中に造り置き 壮士墓(をとこはか) このもかのもに 造り置ける 故縁(ゆゑよし)聞きて 知らねども 新喪(にひも)のごと 哭(ね)泣きつるかも (巻九、一八〇九、高橋虫麻呂)

反歌
葦屋(あしのや)の 菟原娘子(うなひをとめ)の 奥城(おくつき)を
行き来(く)と見れば 哭(ね)のみし泣かゆ (巻九、一八一〇、高橋虫麻呂)

墓の上(うへ)の 木(こ)の枝(え)靡(なび)けり 聞きしごと
茅渟壮士(ちぬをとこ)にし 寄りにけらしも (巻九、一八一一、高橋虫麻呂)


葦屋の菟原娘子は八歳のころから、婚期が近づいて髪を結い上げる年頃まで近所の人たちにも姿を見せず、こもりきっていて、男たちは一目見たいものと、もどかしがり、人垣を作って言い寄った。茅渟壮士(ちぬをとこ)と菟原(うなひ)壮士は、血気にはやって処女に求婚した。焼き鍛えた太刀の柄を握り、白木の弓と靫(ゆき)を取り背負い、水にでも火にでも入ろうと立ち向かい争ったそのときにこの愛しい処女は母に語っていうには「賎しい私のため、立派な男たちが争うのを見ると、生きていたとて、想う人と結婚できると思いません。いっそ、黄泉の國で待ちます」と、ひそかに一人で思い嘆き悲しんで、処女は世を去って行った。茅渟壮士は、その夜、夢に見て続いて後を追って行った。先を越された菟原壮士は、天を仰ぎ叫びわめいて、地団太踏んで歯ぎしりし、猛り口走りあいつに負けてはならじと腰に吊るした剣を取りはらい後を追って行った。一族の者たちは寄り集まって、長い世の証しにし、遠い未来に語り伝えようと処女の墓を真中に、壮士たちの墓を右と左に作った。
そのいわれを聞いて、その頃のことは分らないのに、今亡くなった人の喪のように、私は泣いてしまった。

反歌
葦屋の菟原処女の墓を行き来するたびに見ると声をあげて泣かずにはいられない

墓の上に生えている木の枝は茅渟壮士に靡いている、やはり伝え聞くとおり、彼の方が好きだったんだ


福麻呂の信太壮士と虫麻呂の茅渟壮士は同一人物です。ちぬは今の大阪府南西部、つまり彼女にとってはよそ者だったわけです。一方菟原壮士は地元の男、本来なら菟原壮士の方に分がありそうなのに、五分以上の闘いになったのはやはり茅渟壮士の方が魅力的だったのでしょうか。娘子の自殺の理由は茅渟壮士といっしょになりたかったのですが、よそ者と結婚するわけにはいかないので悲しみのあまり死んだという説もあります。、          



処女墓(をとめはか)の歌に追ひて同(こた)ふる一首併せて短歌
いにしへに ありけるわざの くすばしき 事と言ひ継ぐ 茅渟壮士 菟原壮士の うつせみの 名を争ふと たまきはる 命も捨てて 争ひに 妻どひしける 娘子らが 聞けば悲しき 春花(はるはな)の にほへ栄えて 秋の葉の にほひに照れる あたらしき 身の盛りすら ますらをの 言(こと)いたはしみ 父母(ちちはは)に 申し別れて 家離(いへざか)り 海辺に出で立ち 朝夕(あさよひ)に 満ち来る潮(しほ)の 八重波(やへなみ)に 靡く玉藻の 節(ふし)の間(ま)も 惜(を)しき命を 露霜の 過ぎましにけれ 奥城(おくつき)を ここと定めて 後の世の 聞き継ぐ人も いや遠(いやとほ)に 偲ひにせよと 黄楊小櫛(つげをぐし) しか刺しけらし 生(お)ひて靡けり (巻一九、四二一一、大伴家持)

娘子らが 後の標(しるし)と 黄楊小櫛 生ひ変(かは)り生ひて 靡きけらしも (巻一九、四二一二、大伴家持)


昔あったという出来事で、世にも不思議な話として語り継がれてきた、茅渟壮士と菟原壮士とが名誉にかけて、命をもかけて争って妻どいしたという娘の話は、聞けば悲しくなる話だ。春の花のように色香に映え、秋の葉のように輝く、そんな女盛りの身なのに、男たちの言い寄る言葉に心を痛め、父母に別れを告げて家を出て、海辺にたたずみ、朝な夕なに満ちてくる潮の八重波に靡く玉藻の節のように短い、惜しい命を、露や霜が消えていくように、亡くなってしまった。墓をここと定めて、後の世の聞き継ぐ人も偲ぶよすがにしようと、形見の黄楊の櫛をここに刺したらしい。それが生い茂って青々と靡いている。

娘子の後の世への証しにと、黄楊の小櫛は生え変わって木となり、枝葉を靡かせているらしい


詞書の「処女墓(をとめはか)の歌」は虫麻呂の歌を指しており、後から唱和している歌です。


この伝説は平安時代の大和物語147段 「生田川」にも載っています。
「 昔、津の国に住む女ありけり。それをよばふ男ふたりなむありけり。(略)申さむと思ひたまふるやうは、この川に浮き手はべる水鳥を射るたまへ。それを射あてたまへらむ人に奉らむ」
水鳥をうまく射た方と結婚するというのですが決着がつかず結局女が入水すると2人の男も、1人は彼女の足を、もう1人は手をとらえて死ぬというものです。大和物語では更に死後の世界でも争いが続き、ある旅人が塚のそばで野宿をした時、血まみれの男が現れ刀を貸してくれと頼むので貸してやると、しばらくして、おかげで相手をやっつけることができたというのです。朝になってみると塚のもとにも、返された刀にも血がついていたという怪談めいた話です。
更に、室町時代の観阿弥の夢幻能、「求塚」では、旅の僧が娘子の塚のそばを通ると彼女の霊から救いを求められます。娘子は決断をしなかったことを理由に2人の男とともに地獄に堕ちていたのです。僧が読経してやると、地獄の責めを受けている様が現れるという、恐ろしいものです。
この物語は他にも森鴎外の戯曲「生田川」でもとりあげられています。
この種の話は洋の東西を問わず、人気があるようですね。
なお、「菟原娘子」私のネットフレンド
HARUKOのおしゃべりルームでもとりあげられていますのでこちらから行ってみてください。
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