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今、私の足元から二米先は、その鋭く切れ落ちた東側の崖の縁である。
剣岳を背面に置いて、後ろはなだらかな斜面、前は切り立った崖が遙か眼下まで落ち込んでおり、覗き込むと総身が宙に浮くような錯覚に襲われる。
フォッサマグナの一大特徴である非対称山稜の魅力、ここにありだ !!!
三人の我が登山隊員は、無意識のうちにそれぞれ自分だけの時を過ごしていた。
至福の時は短く感ずるものだ。
気が付いたら風が強くなり始めており、剣の頂上に雲が沸き上がっている。 嫌な予感を感じながら山荘へ戻った。
夏期アルバイトの女子学生の大声の誘導で、大勢の登山者の夕食が始まる。
これでは「山小屋の灯火」の風情などあったものではない。
就寝(九時)までの時間、話題の雲上レストランで生ビールを楽しむことになった。
おつまみは、懐具合との相談で揚げたてのフライドポテトだけである・・・。
内装や調度は、白樺の合板を使用した小粋な感じで、これが三千米の高所のものとは驚きである。
八時頃になり、周りがザワザワとし始め、セミナーが始まった。
昭和大の医学生の「高所順応(高山病対策)」、某大学生の「雷鳥の生態」のスライドショウである。
目新しいものではないが、学生らしい初々しいプレゼンで好感を呼び、最後に大拍手を浴びていた。
白馬岳をハクバダケと言う人が多いが、シロウマダケと称するのが正しい呼称であると私は思う。
名前の由来は、「信州側の里の古老の言によれば、田植えの季節が近づくと山肌に馬の形が現れ、代掻き作業(苗代作り)を促したことにある」と伝えられている。
「シロカキウマのお山」が転じてシロウマとなったのが語源のシナリオだとすれば、これをハクバと改称するのは、山の縁起を知らぬ者の身勝手な振る舞いと言うべきであろう。
確かに、シロウマよりはその連想であるハクバの方が響きが現代的で世情に受けやすいことを理解できなくもないが、「空撮登山ガイド・白馬岳」のコラムでの紹介映像で見た代掻き馬は何と、融け始めた雪の山腹に浮き上がった黒褐色の岩の馬、つまりクロウマであった!。
スコッチウイスキーのピートの香りが好きな私だが、この山を「ホワイトホース」等と言って欲しくないと本気で思ってしまう。
ついでに紹介するが、今回のコースの最終ピークである爺ヶ岳の名前は、春先になると種まき爺さんの雪型が現れる事に由来すると言う。
また、百名山の五竜(ゴリュウ)の名は、やはり融雪期に、信州の雄・武田信玄公の家紋である武田菱が、山頂直下に現れることに由来すると言われる。
里の人々は敬愛する御領主様の御家紋を御菱(ゴリョウ)と呼び、これが転訛してゴリュウとなり、信玄公のように勇ましい漢字「五竜」が宛てられたとする巷説である。
このような素朴で微笑ましい山名の縁起は、地名とともにそのまま言い伝えて、未来永劫に大切にしたいものである。
目が醒めると嵐のような気配である。
慌てて二重窓を開けてみると、雨と風が猛烈な勢いで吹き込んできた。
一瞬台風一一号の到来かと思ったが、小屋番の情報によれば前線が通過中とのことで、昼前には回復するという。
大広間で朝食中の誰しもが、今日の予定についてワイワイガヤガヤとやり合っている。
部屋に戻って善後策を話し合う。
問題は台風の現在位置と進路とスピードであるが、「東シナ海を緩速北上中」と言うおおざっぱな情報だけでは、どうにもならない。
さんざん迷った挙げ句、次のような行程を取ることに決まった。
@ 天候の回復を待って天狗山荘へ向け出発
・三時間の行程であり、危険個所は少ない
・午後三時までには着きたいので、出発時刻限界は正午
A 明日は、天候にもよるが、唐松岳を越え、五竜山荘着
・この行程は、最大の難所・不帰の嶮を含む
B 明後日は、長丁場になるが、五竜、鹿島槍を越えて冷池山荘着
・ここで今日の遅れが挽回できる
雲上レストランでラーメンを食い、限界時刻の正午まで待って、完全防水の身支度を整え出発した。
雨は上がったが、風がまだ猛烈に吹いている。
ザックカバーが風船のように膨らみ、これがヨットの帆のような働きをして、山上でよろけているTV番組のシーンを思い出し、怖くなってザックもろとも予備の靴ひもでぐるぐる巻きに縛り付けた。
小屋を出ると右からのものすごい風で、体が煽られてしまう。
視界は濃霧で一〇米ほど、これでは牛乳の中のメダカの軍団のようなものだ。
このようなときは何をさしおいても、道を外してはならない!
高山植物を保護するための道ばたのロープをしっかりと掴み、体を風上に傾けながらの行進が続く。
体を傾けるとザックが一段と重く感じる。
これでは三時間が限度であろうと納得する一方、三時間も持ちこたえられるだろうかと不安にもなる。
左側に杓子岳、左前方に白馬鑓ヶ岳があるはずだが、濃霧の中である。
もっともこの有様では、仮に見えたとしても、山を見て楽しむ余裕などあるはずもない。
不安の入り交じった悪戦苦闘の中、目指す天狗小屋の黒い影が霧の中に浮かんだとき、安堵感が総身に走るのを感じた。
天狗小屋は小さいが、小屋番達の心遣いが感じられてとても好感が持てる。
ここにも生ビールがあって、八五〇円である。
手持ちぶさたで、ウイスキーを嘗めながらバカ話をしていたら、向かい側のかいこ棚のカーテンが開いて、若い女性(そう言っておこう)が二人顔を出した。
すかさず、小泉さんが「一緒に飲みませんか?」と声をかける。
大阪からやってきた姉妹で、二人とも独身だという。
今日の行程の怖かったこと、過去に登った山、今後登りたい山、等々、こんな時の話題は尽きることがない。
小屋泊まりの山旅の楽しさの一つである。
高山植物の写真が貼りつめられた食堂での夕食は素晴らしかった。
何と、固形燃料とアルミ箔を使った鍋物が並んでいるではないか! 間髪を入れず、生ビールを注文する。
食事が魅力的だと小屋の食堂の雰囲気がぱっと明るくなり、カレーライスと福神漬けだったりすると湿っぽくなって、ただ黙々と食べるだけになってしまうものだ。
小屋番の姿勢で山小屋の生活は雲泥の差になってしまう。
天狗山荘万歳!、猿倉山荘糞食らえ!である。
朝目が醒めると、何かザワザワしている。
窓を開けると、東側の壮大な谷の上に雲の切れ間が見えて、オレンジ色に光り始めている。
「ご来光だ!」
慌ててIXYを掴み、ツッカケを引っかけて外に飛び出す。
雨上がりの空に綿雲がたなびき、雲間が輝いてる。
待つこと数分、お日様がギラギラッと顔を出した。
陽光を受けて紅い顔の数十人が一斉に歓声を上げる。
小泉さんの音頭で、全員で万歳三唱!、そして大拍手が巻き起こり、周りの山々に高らかにこだました。