23 April 2002 |
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サクラと共に全日本に駒を進め、2001年が公式競技会
初デビューながら、那須グランドホースショーの
インドアグランプリで3位、オリンピック記念馬術大会の
東京障害選手権(140cm)で3位、
CSI東京でオーストラリアのビッキー・ロイクロフト選手騎乗で
Aクラスの標準障害準優勝、グランプリ13位、
大阪グランプリの中障害チャンピオンシップで優勝、と華々しい
活躍をした若干7歳のミホシンザンの仔、クニワシンザン改め
「ブラックピーク」は、内国産障害にエントリーしていて、大きい障害を飛び始めて
まだ6ヶ月と言う経験の浅ささえクリアーすれば、
この馬も勝ち負けできると思い、絶大な安定感を誇るサクラと
上り調子の新鋭ブラックピークで全日本はいい勝負が出来る
と意気揚々としておりました。 2001年、11月22日に全日本障害飛越選手権が行われる 静岡県はヤマハつま恋乗馬倶楽部に突入し、過去に起きた 様々な想いを胸に広大な芝馬場を見渡すのでした・・・。 「・・・あれから、もう6年と、2年か・・・・。・・・・懐かしいな・・・・・。」 (↑以下、全日本障害飛越選手権大会、其の壱に続く・・・・。 そしてエンドレスに・・・・・・・。) ・・・終わり。 ・・・と、言うのはうそです。ごめんなさい。 でも、FFXの「最後かもしれないだろ・・・・? ・・・・だから、全部話しておきたいんだ・・・・。」 という、終わり近くからいきなり始まる方式を突然真似したくなってしまい、こんなことになってしまいました。 スミマセン。 それでは、続きです。 ・・・紆余曲折ありながらも、やっと辿り着いた全日本。 正直な話それまでの2001年を振り返ってサクラと共に 「本当によかった!!!」という走行が一度も出来ていないの を自分でもわかっていて、それでもサクラの能力の高さで 何とかカバーしてきてここまで来たものの、馬の本当の力を 出し切れていない歯がゆさを、この全日本にぶつけるんだと言う 燃えるような想いが僕の胸を焦がすのでした・・・・・。 「後ろ向きの、後悔だけは、したくない。」 大阪グランプリで、守りに入って下らない第一障害を落として負け てしまった教訓を胸に、いつも後悔の念に囚われるのは当たり前 だが、せめて思い切ってやって後悔したい。 確かにサクラとのコンビは日本最強と言われているけど常に攻めて 行って万一失敗しても前向きに後悔したい!!! ・・・そう自分で覚悟を決めると不思議と心の迷いが一切なくなりました。 心の雲を取り払った、雲ひとつない青々と広がる青空の様な気持ち でサクラと共に大障害のスピード&ハンディネスに臨むと、まるで 練習の様に楽にスイスイと飛んで帰ってこれて、2位に4秒の大差 をつけて優勝していました。 「・・・これだ!!これがサクラの本当の実力なんだ!!!!!」 今年初めてサクラと満足できるような走行ができ、いままで モヤモヤと霧がかっていた僕の心の中がパァア〜〜〜っと 晴れてゆくのでした・・・。 ・・・しかし、好事魔多し。 ヤマハつま恋の競技場は芝馬場なので、 蹄鉄にクランポンをつけなければならなくて、 今回はサクラとブラックピーク用の二組持って来たのですが、 一緒に来た秋田の水平さんがクランポンを持ってなく、 一組貸したので、クランポンが一組しかありませんでした。 サクラが終わって直ぐに始まる内国産障害の出番が 5番のブラックピークに付け替えなければならず、 しかも大障害S&Hの表彰式も迫っていたので、。 競技が終わってすぐで、超興奮しているサクラから 準備運動馬場の中でクランポンを外す、 という無謀な手段をとるしかなく、前脚はジタバタされながらも 何とか外せたのですが、後肢に差し掛かったその瞬間、 「ズゴッ!!!!!!!!」 鈍い音と共に僕はサクラの蹴りをまともに太腿に受け て一メートル程飛ばされました。 「うう・・・・。」馬場に倒れて呻いていると、さっきまで メチャクチャ興奮していたサクラが、不意に自分の脚が 僕に当たってしまったので、はっと我に帰って 「悪い事をしてしまった」とシュンとしていたのでした。 「・・・大丈夫だよ、サクラ。興奮してる時に無理に やろうとした俺が悪いんだから・・・・。」 僕の顔を見ていたサクラはその後はおとなしく クランポンを取らせてくれたのでした。 しかし、クランポン付の足で蹴られた僕の太腿は 腫れ上がってまともに歩く事も出来ない位痛みましたが、 「自分はこの全日本に、ここまでたくさんの人に支えられて 来ているんだ・・・痛いなんて言っていたら応援してくれて いる人たちに申し訳ない!!!!」と、思い、気合を 入れなおして翌日のCSI-Wのインスペクション(歩様検査) に向かいました。 サクラは非常に良い歩様で駆け抜けましたが、引いている 僕の方が跛行していて、観衆の笑いを取ってしまい、 見ていた人から「おまえ、ギャグでやっているのかと思った」 と言われてしまいました(笑) そしていよいよ、2001年のワールドカップ日本代表を決定 するワールドカップJapanリーグの最終戦、世界を目指す人馬の 天王山であるCSI-W Shizuoka League Final の幕が、 切って落とされようとしているのでした・・・・・・・・・・。 ・・・・其の伍へ続く・・・・。 ◇◆☆★☆★☆★☆★☆★☆★◇◆ ▲△広田龍馬 Ryuma Hirota ●◎ ▽▼ zero2000@ff.iij4u.or.jp ○● ◆◇★★☆☆☆★★☆☆☆★★◆◇ |
2 January 2002 |
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2001年11月23日〜25日に静岡はヤマハつま恋乗馬クラブで新世紀最初の日本NO.1決定戦、全日本障害飛越場術選手権大会が開催されました。 第53回となるこの競技会は、新世紀最初のチャンピオンは誰にな るのか?と言う事と共に、本年最後のワールドカップ予選 (CSI-W)が行われ、2002年のワールドカップ日本代表が決定 する非常に重要な一戦ということで注目され、名実共に国内最高峰 の競技会となりました。 「・・・あれからもう6年と、2年か・・・・。・・・懐かしいな・・・・・。」 オリンピック予選などでヨーロッパに行きっきりだったので、約2 年ぶりに来たヤマハつま恋リゾートの美しい競技場に立ち、大きく 深呼吸しながら、想い出深いこのヨーロッパを彷彿させるような 広々とした辺り一面の芝馬場を感慨深く見回しました。 6年前にこの地で行われた第47回の全日本で僕は天馬マンオブ ゴールドに連れられ、ゴールドにお願いするだけの真っ白な心で騎 乗すると、19歳の未熟な(今でもそうですが)僕を、素晴らしい 天馬ゴールドが僕を導いてくれて優勝する事が出来、ワールドカップの日本代表権 も獲得してくれて、そこから一挙に世界への扉が開け、2000年 のシドニー五輪に出場するまで続く事になった運命の競技場で、全 ては6年前のこの全日本から始まった、と言っても過言でないほど の想い出の地なのです。 そして忘れもしない、3年前に、再びこのヤマハで行われた第50 回の全日本、最終日の大障害選手権で、大障害2日目ブービーだった ファイナルピークが、いきなり素晴らしい飛越をしてくれて、満点 が一人もいない大障害コースを次々とクリアーして、唯一人障害落 下がなく、「優勝か〜〜!?」と思いきや、最終障害を忘れてぐる ぐる回ってしまい、「悲運の名馬」ファイナルピークは優勝できる所を人間のアホのせ いで10位になってしまったという悲劇の地でもあり、この様にヤマハ つま恋は最高の思い出と最悪の思い出が一緒になっている思い出深 い場所で、僕は、「3年前のあの雪辱をきっと果たし、6年前と同 じく、世界への扉を絶対に切り開くんだ!!」と自分に言い聞か せ、固く心に誓いました。 2001年の総決算、2002年の世界への扉を開く風雲急を告げ る第53回全日本選手権の幕が切って落とされようとしているので した・・・・。 其の弐に続く・・・・。 ◇◆☆★☆★☆★☆★☆★☆★◇◆ ▲△広田龍馬 Ryuma Hirota ●◎ ▽▼ zero2000@ff.iij4u.or.jp ○● ◆◇★★☆☆☆★★☆☆☆★★◆◇ |
6 March 2002 |
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・・・・新世紀2001年は、怒涛のような始まりでした。 2000年の雪の降る聖なるクリスマスの夜にシドニーオリンピックに出場したマンオブゴールドと一緒に帰国した日本の心の花から名前をとった「サクラ」が、ヨーロッパはベルギーより長い旅路を終えて帰ってきてくれて、僕にとっての最高のクリスマスプレゼントになりました。 ゴールドは万全の状態でないながらも、そのもてる力を総て出してシドニーオリンピックを戦ってくれ、その後にその無理が祟って、後脚が思わしくなく、しばらくゆっくりとパドックで休養させてあげることになりました。 マンオブゴールドは国際競技会の右も左も解らなかった僕を、1995年に全日本選手権優勝、96年のスイスのジュネーブで行われたワールドカップファイナルに導いてくれて国際大会デビューをさせてくれて、遂にはオリンピックにまで導いてくれた僕にとって最高の「恩人」ならぬ「恩馬」で、「引退」なんて言ったら誇り高きゴールド先生がお怒りになられるので、今回のバケーションは、あくまで一戦から退いた、「一時的」な休養、という事です。 ゴールドとバトンタッチする形で日本につき、僕の主戦馬となってくれた「サクラ」は、5年前にヨーロッパで転戦する際に、ゴールド一頭では心もとなくインターナショナルのグランプリ以外の中障害クラスでも練習できないから、もう一頭探したらどうだ?と社長に言われ、オランダ、ベルギー周辺を社台ノーザンホースパークのトレーナーをしていたニュージーランド人のジョン・グレイと一緒にまわっていると、オランダの片田舎で一頭の大きな、やけに胴の長い牝馬に巡り逢いました。 見た所とても重そうで、胴が長すぎて僕のような非力な乗り手ではまとめきれそうになく、しかもとても強いタイロク(←変換しても出なかった(汗;) を付けて乗られていたので、ジョンに、「(到底僕に乗れそうにないけれど)この馬を試さなくちゃダメ?」と聞くと「せっかく馬装して持ってきてくれたんだ。彼等をハッピーにする為にも跨るだけ跨りなさい。」と言われ、跨ってみると・・・・。 「・・・ふわっ・・・。」 {・・・あ・・・なんだろ・・・。なんだかとっても安心できる、初めてなんだけれどとても懐かしい感じがする・・・・。・・・これは・・・そう・・・おかあさんの感じ・・・・。} 力を全く入れず、強いハミに頼らず、この「へスター」と呼ばれる子供が2頭いると言うお母さん馬に任せて飛ぶと・・・。「ぼわ〜〜〜んっ!!!」 殆んど力を使わず、凄く良い飛びを見せてくれ、何回か飛ぶだけでなんとなくお互いが分かり合ったような気がするのでした。 「君の乗り方がへスターを良くした!!」普段はあまり口数の多くないCSI東京で優勝したレオポルドとオランダ選手権のグランプリで19歳の若さでヨス・ランシンクの二位に入ったマティ−スのトレーナーであり父親のファン・アステンさんが絶賛してくれ、僕は運命の糸のようなものを感じました。 そして、この馬とコンビを組みたいと思った最大の理由は、その瞳でした。 お母さんの、なんともいえない優しい瞳をしているのです。 正直、こんな優しい瞳を持った馬は見たことありませんでした。 「・・・この馬だったら、きっとどこまでも僕の面倒を見てくれるはずだ・・・。」 そう、その馬との出会いこそが、5年後の2001年の日本の馬術界に旋風を巻き起こす事になる、サクラと僕の初めての出逢いだったのです・・・・・・・。 ・・・・・・・・・・其の参に続く・・・・・・・・・。 ◇◆☆★☆★☆★☆★☆★☆★◇◆ ▲△広田龍馬 Ryuma Hirota ●◎ ▽▼ zero2000@ff.iij4u.or.jp ○● ◆◇★★☆☆☆★★☆☆☆★★◆◇ |
6 March 2002 |
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サクラと僕の道のりは決して平坦なものではありませんでした。 初めてのグランプリは5落下に始まって、一年半ほどして徐々にお互いに力をつけてきて国内の インドアグランプリに3位にはいったと思ったのも束の間、世界選手権の予選の前にアウトバー ンで馬運車ごと引っくり返ってお互いに九死に一生を得て、そのまた一年後に復活してインター ナショナルのCSI-Aのオランダのアインドホーヴェンのグランプリで5位に入るようになるも、 オリンピック予選前に脚部不安を発生して休養、とそれらの事を一々詳しく書いていたらきりが ないので、とにかく紆余曲折あり、ゴールドのセカンドホースとして影に隠れながらも、確実に 力を付けていたサクラは、日本の土を踏み、2001年にゴールドとバトンタッチをするように 本邦初公開となるJRAホースショーでいきなり六段の日本新記録となる187CMをマークし、華々 しい日本デビューを飾り、続く関東大会、ロイヤルCSI-WTOCHIGI、那須グランドホースショーの グランプリでも向かう所敵なしの強さを見せて優勝を重ねてくれ、日本を代表する名馬として大 活躍をしてくれて、2001年の競技シーズン前半を終えました。 そして那須で一番忙しい夏のシーズンが到来し、全日本ジュニアでは出場数が一番多いチルドレンのクラスで教え子の長谷川菜美さんが優勝してくれ、とてもいい夏になったのですが、レッスンと競走馬の調教に追われ、十分に調整の出来ないまま始まった秋の競技シーズンでは調整不足と、一番簡単な第一障害か、人間が先に「・・終わった。」と力を抜いてしまって最終障害を落とす、という人間のアホ病のせいでCSI-WTOKYOは優勝するも東日本の選手権と大阪グランプリを人間のアホで取りこぼしてしまい、いよいよ前述のファイナルピークでの雪辱も重なって 「誰が何と言ったってサクラが一番日本で強いんだ!! サクラの為にも絶対に勝つ!!」 と言う気持ちが大きくなっていくのでした・・・。 ・・・・・・其の四に続く・・・・。 ◇◆☆★☆★☆★☆★☆★☆★◇◆ ▲△広田龍馬 Ryuma Hirota ●◎ ▽▼ zero2000@ff.iij4u.or.jp ○● ◆◇★★☆☆☆★★☆☆☆★★◆◇ |
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