「けずり師」
| ー戦火の煙ただよう昭和十七年、彼は深川で生まれている。 |
| 父が銘木屋だったため、木を扱う道具はすでに家にそろっていた。 |
| しかしなぜ、当時すでに先の知れているけずり師などになったのか。 |
| 名人、鉛屋助造の内弟子に入ったのは、彼がまだ八つになったばかりの頃である。 |
| 「当時、やっと生きるのが少し楽になったような時代だが、家はおやじが死んじまったんで、 |
| 早く働かなきゃならなかった。 出来る事をやるしかなかったんで、 |
| 別にけずり師になりたかったわけじゃないよ。」 |
| ー今では鑑賞用となったえんぴつも、江戸期には字をかいたり線を引いたりの |
| 実用的な筆記用具だった。今で言うシャーペンや、ボールペンのような物だ。 |
| えんぴつで字が書けると言うと、驚く人もある位だからねこも杓子もえんぴつ |
| を持っていた時代があるとは、想像できないかも知れない。 |
| 主な加工地であった、今の兵庫県あたりから仕入れた物を、「丹波えんぴつ」として、 |
| 江戸でも下町を中心に売られ始めた。 多少値は張ったが、見栄と言う事もあってか愛用者が増え、 |
| 草加でも削られるようになる。 いわゆる「草加物」は一般に値が安かったので、 |
| より手頃なものとして、江戸庶民に定着していった。 |
| 「物心付いた頃には、木を削ったり磨いたりして遊んでたね。おやじにも色々仕込まれたし、 |
| ーあの頃は楽しかった。 今?・・ 今ねえ・・ まあ、人生いろいろってね、へへ。」 |
| ー江戸も後期になると、「化粧えんぴつ」が登場する。これは天皇家にも献上される高級品と言う事で、 |
| 一般庶民には手の届かない代物であった。 後藤象二郎にもえんぴつ趣味があり |
| 「文明開化とえんぴつ世界」と言う一文を著した。 |
| 財閥の三ッ石も、えんぴつ職人を雇うようになった明治の後期、 |
| すでにえんぴつは最盛期を終えようとしていた。 |
| 「おれがこの道に入った頃はまだ分業制で、生地師、けずり師、化粧師 |
| がいたんだけど、どんどんけずり師以外いなくなっちまったんで・・・。一時は結構忙しかったなあ。 |
| それで女房のやつも、あんた えんぴつえんぴつって えんぴつがあたし達に何してくれたのさ、 |
| なんてね。でも、おれにはこれしか出来ねえし・・。 |
| まあ、今じゃけずり師もおれだけだけどね。」 |
| 彼はけずり師といっても、現在、生地、けずり、化粧を一人でこなしている。 |
| ーご多分に漏れず後継者もいない状態である。 |
| ー 私は子供ではないから、えんぴつはコウノトリが運んで来たり、キャベツの |
| 中で生まれたりする物でない事はしっている。 一説には、大陸で生まれ、 |
| 朝鮮半島から海を渡ってくると言うが、この謎は解けぬ気がする。(あるいはそう思いたい。) |
| ー えんぴつ自体は、何処から来るのか。 |
| 「そんな事、考えた事もないねえ。在庫はあるし、おれはそれを削るだけさ・・・。 |
| ただ日に三度、西に置いた神棚のえんぴつを拝んで、あとは断食・・・。 |
| ー おれはそれでいいと思ってるよ。」 |
| 彼の気負いのない姿勢が、えんぴつと人との本来の関係を示しているように思える。 |
| 2004年 10月 島田博樹 記す |