「旧約聖書の人物----新約を予感した預言者エレミヤ」
2007年10月28日
「見よ、わたしがイスラエルの家、ユダの家と新しい契約を結ぶ日が来る、と主は言われる。
この契約は、かつてわたしが彼らの先祖の手を取ってエジプトの地から導き出したときに結ん
だものではない。わたしが彼らの主人であったにもかかわらず、彼らはこの契約を破った、と
主は言われる。しかし、来るべき日に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と
主は言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。わた
しは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。そのとき、人々は隣人どうし、兄弟どうし、
『主を知れ』と言って教えることはない。彼らはすべて、小さい者も大きい者もわたしを知る
からである、と主は言われる。わたしは彼らの悪を赦し、再び彼らの罪に心を留めることはな
い。(エレミヤ書31:31-34)」
旧約聖書の宗教というと皆さんはどのような印象をお持ちでしょうか。キリスト教のことを
よく知らない人の中には、旧約聖書は旧教、つまりカトリックが使う聖書で新約聖書は新教、
すなわちプロテスタントの聖書だと思っている人もあるようですが、これはとんでもない間違
いで、旧約新約ということと旧教新教ということの間には何の関係もありません。カトリック
もプロテスタントも同じキリスト教であり、聖書の使い方は同じです。強いて違いと言えば、
カトリックの場合旧約聖書続編と言われるもの、皆さんの中に「旧約聖書続編つき」というの
をお持ちの方も有るかと思いますが、その部分を正典として礼拝で使うかどうかの違いで、旧
約聖書も新約聖書もどちらもキリスト教にとって大切なものです。このうち旧約聖書はユダヤ
教にもイスラムにも大切にされ、聖典とされています。また先程の間違いと同じくらいよくあ
る誤解は、旧約聖書はユダヤ教の経典で、キリスト教は新約聖書だけを経典としているという
考えです。確かに新約聖書なしではキリスト教はあり得ませんが、一方また旧約聖書なしでは
新約の宗教の土台がなくなってしまいます。繰り返し言いますが、旧約聖書も新約聖書も私た
ちにとって大切な正典です。
一般的に一口で言ってしまうと、旧約の宗教は神の正義を追求する律法、掟の宗教です。新
約は福音、赦しの宗教です。審きがあってはじめて赦しがあるのですから、どちらも大切です。
しかしこんなに簡単に言ってしまうと誤解が生じます。特に旧約についてそうです。旧約聖書
の宗教は律法主義のかたまりで神様はただ恐ろしいだけのように思ってしまいますが、はたし
てそうでしょうか。多くの場合、旧約聖書はそう思われても仕方がないような記述で覆われて
いますが、律法と言われる部分でもよく読んでみると神様の愛、赦しの愛に満ちていることが
分かりますし、さらに預言者、書、律法とともに旧約聖書を構成するもう一つの大きな要素で
ある預言という部分を読むと、これもまた裁きの預言だけでなく神様の赦しの愛の預言がここ
かしこにちりばめられていることが分かります。これまでの旧約を用いた説教でも、ここは旧
約における福音ですということを何度も言ってきました。それは旧約の各所にわたっており、
預言書でも、アモス書9:11-15、ヨナ書4:1-11、ホセア書1〜3章や11:8-9、ヨエル書2:12-14
などでお話ししてきました。そして今日のエレミヤもそうです。
エレミヤはよく涙の預言者と呼ばれていますが、彼も新約聖書の愛と赦しの宗教を予想、予
感した預言者の一人でした。 彼は紀元前600年の前後、今からおよそ2600年の昔、ユダ王国が
亡びようとしていた頃活躍しました。エルサレムの北5km、アナトト(地図5南北王国時代参
照)の出身で祭司の家系に生まれ、若き日に召命を受けて預言者となり、一生妻帯しなかった
と言われています。紀元前 587年、新バビロンの攻撃によってエルサレムが陥落したとき、イ
スラエルの敗北は、神様が罪悪の中にあるイスラエルを信仰的に純化するために国家滅亡とい
う試練を与えられたもので、それは神による愛の懲らしめと受け取りました。そのことを語る
よう神様から命じられて彼は苦しみました。それでも語らないではいられませんでした。エレ
ミヤ書20:7以下は彼の苦しみをよく表しています。読んでみましょう。まず9節まで。(P1214)
「主よ、あなたがわたしを惑わし/わたしは惑わされて/あなたに捕らえられました。あなた
の勝ちです。わたしは一日中、笑い者にされ/人が皆、わたしを嘲ります。わたしが語ろうと
すれば、それは嘆きとなり/『不法だ、暴力だ』と叫ばずにはいられません。主の言葉のゆえ
に、わたしは一日中/恥とそしりを受けねばなりません。主の名を口にすまい/もうその名に
よって語るまい、と思っても/主の言葉は、わたしの心の中/骨の中に閉じ込められて/火の
ように燃え上がります。押さえつけておこうとして/わたしは疲れ果てました。わたしの負け
です。」
彼はあまりの苦しさに生まれて来たことを呪います。同じ20章の14-18 です。「呪われよ、
わたしの生まれた日は。母がわたしを産んだ日は祝福されてはならない。呪われよ、父に良い
知らせをもたらし/あなたに男の子が生まれたと言って/大いに喜ばせた人は。その人は、憐
れみを受けることなく/主に滅ぼされる町のように/朝には助けを求める叫びを聞き/昼には
鬨の声を聞くであろう。その日は、わたしを母の胎内で殺さず/母をわたしの墓とせず/はら
んだその胎を/そのままにしておかなかったから。なぜ、わたしは母の胎から出て労苦と嘆き
に遭い/生涯を恥の中に終わらねばならないのか。」
エレミヤは多感で人間性にあふれていました。一輪のアーモンドの花に神様の力と言葉とを
感じたという挿話は有名です。(P1172、1:11) そんなエレミヤだったからこそ神様の赦しに基
づく「新しい契約」の思想、新しい福音的宗教を予感することができたのでしょう。司会者が
読んでくださったところをもう一度味わってみましょう。「見よ、わたしがイスラエルの家、
ユダの家と新しい契約を結ぶ日が来る、と主は言われる。」まさしくイエス様によって新約の
宗教がもたらされることを予告しています。「この契約は、かつてわたしが彼らの先祖の手を
取ってエジプトの地から導き出したときに結んだもの」つまり古い契約、旧約、律法によって
神様の前に義とされて救われるという約束「ではない。わたしが彼らの主人であったにもかか
わらず、彼らはこの契約を破った、と主は言われる。」律法によっては人は救われないことが
はっきりしたのです。「しかし、来るべき日」それはイエス様がお出でになった時であること
を私たちは知っています。「来るべき日に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、
と主は言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。」
これはどういうことでしょうか。それは律法が形の上での掟ではなく、心の中に大事に育まれ
るもの、愛に変わることを示唆していないでしょうか。その時、「わたしは彼らの神となり、
彼らはわたしの民となる。」神様と人間の関係が愛に根ざしたものになる、恐ろしい神ではな
い、「神は愛なり」という神様になるということでしょう。「そのとき、人々は隣人どうし、
兄弟どうし、『主を知れ』と言って教えることはない。彼らはすべて、小さい者も大きい者も
わたしを知るからである、と主は言われる。」人間同士の関係もまた神様を仲立ちにした愛に
根ざしたものとなります。そして、「わたしは彼らの悪を赦し、再び彼らの罪に心を留めるこ
とはない。」と、これはまさしく新約聖書の思想です。愛の宗教です。新約聖書の31ページ、
マタイ16:13-14に「イエスは、フィリポ・カイサリア地方に行ったとき、弟子たちに、『人々
は、人の子のことを何者だと言っているか』とお尋ねになった。弟子たちは言った。『《洗礼
者ヨハネだ》と言う人も、《エリヤだ》と言う人もいます。ほかに、《エレミヤだ》とか、
《預言者の一人だ》と言う人もいます。』」とあります。人々がイエス様を、新しい契約、赦
しの宗教を打ち出したエレミヤの再来だと言ったのも理由のあることだと思いませんか。
最後に新約の予感、福音の予兆だと思われるエレミヤの預言、司会者に読んでいただいたと
ころですが、ほとんどそのままヘブライ人への手紙8:10-12 に引用されています。5月18日の
家庭集会でお話しした「水に落ちた犬は打つべきか?」でも読みましたが、今もう一度それを
読んで今日の話を閉じたいと思います。「『それらの日の後、わたしが/イスラエルの家と結
ぶ契約はこれである』と、/主は言われる。『すなわち、わたしの律法を彼らの思いに置き、
/彼らの心にそれを書きつけよう。わたしは彼らの神となり、/彼らはわたしの民となる。彼
らはそれぞれ自分の同胞に、/それぞれ自分の兄弟に、/「主を知れ」と言って教える必要は
なくなる。小さな者から大きな者に至るまで/彼らはすべて、わたしを知るようになり、わた
しは、彼らの不義を赦し、/もはや彼らの罪を思い出しはしないからである。』」
新約聖書の著者、あるいは編集者が、旧約聖書の中にも福音の説かれていたこと、それを成
就した、完成させたのがイエス様であったことを確信していたのは明かです。
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