Monologue 2007.01-06
【07.01.03】

●祈りをこめて…

 …新年のご挨拶を申し上げます。

 

 娘らのお年玉の袋に入れる両親からの言葉を毎年考えるのが、正月のならいになっている。例年は文章なのだが、今年はそれぞれのために漢字一文字ずつを考えた。

 「喜ぶ」という字はA乃へ。両親とも仕事に倦んでいるくせに君には喜びをもって生活をして欲しい。「楽」という字はY乃へ。大学最後の1年を大いに「楽(がく)」し(英語でいえば enjoy your life だね)、人を大いに楽しませて欲しい。「躍」という字はM乃へ。どんな方向へでもいいから力強く上方へではなく、前方に躍(と)んで欲しい。

 これらの文字を山の家の新しい境界線のための礎石に刻み込む、というイメージが上の写真。父と母は「祈」る。どうにもならないことも、どうにかなることもただ祈る。それだけ。

 

【07.01.08】

●森の生活5年目

 2002年の8月に引き渡された森の家での生活も今年で5年目に入る。最初の年の冬は大雪の当たり年で、12月の末にどか雪があり、正月も車で家までたどり着けずに駅前から膝まである雪の中を歩いて上ったりした。そして、春先まで何度も大雪に見舞われた。その後、身動きがとれないほどの大雪はなく、あるいは高速道路にチェーン規制がかかるような日は出かけないと決めたので、今回ほどの経験をしたことはなかった。せいぜい、朝起きてみると車が雪で見えなくなっているのに、連日降り続く雪ではなく、帰宅は普通にできる程度だった。

 今回も降り始めはこんな程度で軽く構えていたのだが… 詳細はブログに書いた。お世話になったアットライフの小林さんには申し訳ないけれど、どきどきしてもう駄目か、と何度も思い、そういう経験自体に飢えている東京人はわくわくしている部分もあった。豪雪地帯に住まわれる人々からも怒られそうな、甘い姿勢は反省しなくてはならないのだが、この経験は老後にもしここに住まうとしたら考えないといけない課題を与えてくれたと思う。

 

【07.01.14】

●Anji

 Davy Graham というイギリスのJAZZ、BLUESギタリストの曲で、Paul Simon が S&Gの2枚目のアルバム "Sound Of Silence" で弾いたことから有名になり、アコースティックギターをかじった人のほとんどが一度は弾いてみたくなる曲らしい。そういう私も初めて聴いたときからずっと弾きたいと思い続けてきた曲である。去年の8月の終わりに新しいアコースティックギターを買って、しばらくはクラプトンの Blues にはまっていたが、血の中に Blues のエキスが流れていないようでうまく行かず、おなじみの Paul の曲を爪弾いたりしてお茶を濁してきたのだが、去年の12月の始めころから、どうしても Anji に挑戦したくて、いろいろと調べだした。サイト検索をして驚いたのは、アコースティックギターを弾いている人のサイトのかなり多くで、Anji が聴けるのだ。中には動画入りで公開している人もいる。すごくうまい人からそれなりの人まで様々なのだが、それらを見聞きしているうちにだんだんわかってきた。これなら弾けるかな、と思い出したのは2週間目くらいから。どの人もそうらしいが最初は親指で鳴らし続けるベースラインと他の指で奏でるメロディラインが一つにならずあきらめかけた。いろいろと説明をしてくれているサイトの説明を読んでもギターは弾けるようにはならないのは当たり前で、説明は一通り弾けるようになってそうなんだよな、とうなずきながら読んでいる。

 ある時、石川鷹彦のCDに入っている Anji を聴いていて、なぜかわからないが弾ける気がして、ギターを取り出して弾いてみた。たぶん石川鷹彦の演奏が Paul より少し遅いからからもしれない。細かいところが見えてきた。ベースラインの取り方がPaulと違う。なあんだ、まずはこの弾き方で行ってみようか、とやったらできた。サイトで公表している人の演奏の半分くらいが下手に聞こえるようになった。申し訳ないけれどかなり専門的な説明をしてくれている人のギターのチューニングが全然できていない、などという粗が見え始めた。ギターやグッズのページを見るといいギターを使っているし、グッズ類にはチューニングマシンまで入っている。そうかこの人は自分の耳で音が合わせられないのか、と納得したりした。

 でも、いろんな人の、どの人も同じような説明や演奏を参考にさせてもらって、そろそろ Paul の Anji をマスターしかけている。昨日は山でCDを聴きながら、Paul のスピード感を感じようと何度も合わせて弾いた。それでもどうしてもわからない和音が3つある。電車の中で泣いている赤ん坊の声も音程として聴いてしまうと言っていたY乃に聴いてもらうと、和音の構成はわかった。なのに弾いてみると違う。私が数多いサイトの中で一番参考にさせてもらっている muchie さんの演奏 が一番 Paul の出している音に近いのだがこれを真似てもそのように聞こえてこない。ああ、私が私の Anji を公開するまでにはまだ道は遠いな…と思う。

 

【07.02.04】

●ボルボXC70の信頼性について

 自分の乗っている車について、それもかつてボルボ社への傾倒を綿々と書いたことがある私自身がこういう記事を書くことは実に辛いことではある。ただ、そこに書かれた内容は書いた時点ですでに過去のことになっていた生産方式のことだったから、今これから書こうとしていることとつじつまが合わないわけではない。

 まずはボルボXC70はAWD(All wheel drive)、4WDとどう違うのかはよくわからないが、日本の自動車評論家の言葉によれば、いつでも4WDとして働くよ、と準備しているコンピュータ制御のいわゆる「スタンバイ4駆」だという駆動形式を持ち、かつ車高を上げた準オフロードタイプの車である。山の暮らしを始めた最初の年の冬から春にかけて降った大雪に、ボルボ850はとてもついていけず、とりあえずは何でもいいから4駆にしようと思い、ちょうど点検に850を出した時に乗り換えた車だった。FFの850の前はスバルのレガシーだったが、これはバリバリの4駆で、通行止めになった高速に乗ってしまっていた、東京が大雪の日、他の車があちこちあらぬ方向を向いて動けなくなっているのを後目に、ノーマルタイヤで家まで帰ってきてしまった。4駆というのがそういうものだと信じていたので、XC70もそうやって山での緊急時に活躍すると思っていた… 買ってから去年の冬で3年が経ったのだが、その間何度か雪にもあったが、何とか走れたというのが実情で内心レガシーの方が良く走ったなと思いつつ、やっぱり雪の山道ではどんな車もきついのかなと思っていた。

 ところが先週、ボルボXC70と現行のスバルレガシーOutbackを比較しているスウェーデンの自動車評論をしている会社のテスト結果を載せたHPを見つけ、そこで当のテストの動画まで見てしまった。どうもこのサイトを運営している人はボルボで事故に遭ったらしく、ボルボの欠陥を追求しているようで、ボルボ側の応対の悪さに対し相当頭にきている様子だ。そういう点をすべて了解した上で、なお、私にも思い当たる点はあり、それはもはやボルボという会社がなくなっており、フォードの傘下に入ってしまった現状でのボルボへの愛着が薄まっていることもあり、あらためてこの車の信頼性に疑問を感じ始めている。過去のボルボの人間性を感じさせる生産から回収にいたるまでの、他社に見られなかった前向きの姿勢はなくなっており、あえてボルボを選択する要素はなくなっていると思うようになっている。なぜなら、ボルボはフォードの生産方式に正反対の生産方式をとることで、作る側の労働者を守り、それが消費者へも還元されると考えていた唯一の会社だったのだが、時流に乗りきれず数年で自分たちの考え出した生産方式を捨てざるを得なかった。そのあげく、フォードに乗っ取られて今や名ばかりのボルボカーズという会社に成り下がっている。850ですらボルボらしくないと思われたのだが、私の今乗っているXC70のベース車も含めすべてのボルボラインは実にボルボらしくない。もとより深い思い入れがあって乗り始めた車ではないのだが、ぬかるんだ坂道でホィールスピンしつづけるテストの映像を見ているといよいよ怖くなった。完全な車などありはしない。それは過酷な状況に陥ることが多い山の生活ではなおさらのことだが、信頼性というのは実に客観的なデータだけでなく、気分の問題も大きいのだとつくづく感じている。

 4駆でスタッドレスだから、と安心してはいられず、とりあえずは、ただの重たい車でがんばって山道を走っていると思わないと危ないな、と感じている。

 

【07.02.24】

●ものへのこだわり

 車へのこだわりもそうだが、我ながら自分のものへのこだわりの大きさには感心する。歳をとるにしたがってこだわるものの種類が変わっていけばこだわるものの数は減っていくのだが、執着心も強いのでこだわるものがどんどん増えていく。いわゆるグルメではないから食べ物へのこだわりはそう多くない。お酒にしてもどうしてもこれでないとというのはなく、美味しければなんでもいい。

 そのこだわりを一つ一つ「今回のこれが生涯最後」と決めることが増えてきた。これ以上ものを増やさないためだ。その一つが万年筆であり、時計であり、メガネであり、ギターであり… 数え上げるときりがない。いずれも経年変化は避けられないが修理すれば自分の生涯はそれで保つはず。ただし、万年筆やギターのように他のものも欲しくならなければの話だが… 

 何にしてもあちこち探し回ったり、調べたり、試したりして清水の舞台から飛び降りる気で入手したものたちばかりだから今はみんな満足しているし、愛着を感じている。そういえばほとんどが肌身離さないでいるものばかりだ。ギターですら車で出かけるときは後部座席に載せている。いつでも触っていたいものばかり。ノートや手帳やこの何年か同じものを使い続け、いつも同じバッグに入れてどこへでも一緒だ。

 もっとものへのこだわりがなくなったら、ずいぶん身軽になるだろうなと思いながら、そういう自分が嫌いではない。

 

【07.03.11】

●生涯のものたち〜職人さんたちとともに

 前回の続編。こだわりのものたちが身の回りに増え、それらが愛おしく常に肌身はなせないものになる。今日できてくる眼鏡は今かけている眼鏡とセットで死ぬまでかけ続ける。山にいくとすぐに外してしまい、帰りには止まってしまっているオメガの機械式の時計以外はもう時計は買わない。毎日日記やノートを書くために使っているペリカンの万年筆も専用に作ってもらった固い革のペンケースも、それらを入れてどこへでも出かけていくルイ・ヴィトンの緑色のレポーターバッグも、ボロボロになったハンティングワールドのショルダーバッグも、自分で修理したコーチの書類バッグも死ぬまで使う。使い切れば代替わりをしていくモールスキンのノートも入手できる限り使い続ける。ほとんど毎日、ほんのわずかな時間でも弾いているマーチンのギターも耳が聞こえなくなったり、指が動かなくなるまではずっと弾き続ける。財布も小銭入れもシステム手帳も全部大切に使って壊れたら修理に出してずっと使う。買うときのこだわりは買ったときの思い入れが染みついたまま、さらに私との歴史が染みこんで大事に大事に使われる。一月分ずつの薬を入れて、どこへでも持ち歩かなければならない薬入れは、色のさめたディズニーランドのクッキーの缶で、泊まり仕事のとき職場の机の上に置いておいたらあまりの古さに目をとめた職場の同僚(女性)が新しい、ディズニーランドのクッキー入りの缶をくれた。その人には申し訳ないけれどこの古びた缶はユーロディズニーに家族で行ったときの缶だから使っているわけでケチ臭く古くなった缶を使っているわけではなく、戴いたクッキーは子らが食べたが缶はとうに別の小物入れになってどこかにある。

 大量消費時代に入り、見かけのよいものが安く簡単に手にはいるようになり、古くなったり壊れたりしたものを磨いたり修理したりして使うということがなくなりつつある。ボールペンなどリフィル(芯)がなくなったらすぐに新しいのを買うという生活様式に疑問を感じている。たしかに100円かそこらで買えるから、1万円以上するボールペンに簡単には手に入りにくいリフィルを入れ替えながらずっと使うというこだわりは不経済に見える。眼鏡だって今は流行を追って次々と恐ろしくなるほど安いものがすぐに手に入る。20年以上前に買った革靴の底を張り替えたり、踵のゴムを張り替えたりして履くのは数年に1,2回なのだが、それにかかる費用で、新しい履きやすい靴が何足か買える。機械が作り出す大量生産品は労働力の創出に大して貢献してはいないし、作っているのはほとんどが人件費の安い外国製品だから、手作りの味わいなどよほどでないとない。

 私が危惧しているのはそういう消費感覚をコントロールしている企業の圧力で、修理を手がける職人さんが失職していくということだ。わずか4年前に山へ持っていくために、リニューアルしてもらった近所の椅子の修理屋さんが店を閉めてしまった。万年筆のペン先を研磨して、調子を見てくれている万年筆屋さんも森山さんのあとに出てきたとは聞いていない。おそらく私がここ数年の間に何回かおじゃました眼鏡屋さんもずっと同じ仕事を続けていくことができるとは思わない。こんなことでこの星はいいのかな、と思う。だから新しいオペレーションシステムを次々に入れ替えて、まだまだ動いているコンピュータを陳腐化させるWindowsもAppleももういらないのだ。

 

【07.03.13】

●新型クレーマー

 体の節々が痛くてどうにもならず仕事を昼前に切り上げて、休暇をとった。周囲から、インフルエンザではないか?と遠巻きにされながら職場を出て帰宅した。結果はレトロな風邪で、おそらく過労で体力が落ちていたからだということ。インフルエンザでタミフルを飲んだらどうなるのか不謹慎にも期待していたのだが。

 医師も薬品の研究者もよほど自信をもって仕事をしないと危ない。人の命を預かる仕事なんだから自信をもってやるのが当たり前なのだが、自信を持ってした仕事があとで犯罪や不法行為まがいの扱いを受ける時代だ。教師も保育士も子どもを預かるかぎりは医者と同じだ。校内で怪我でもすれば直ちに親からクレームがくる。下手をすると損害賠償の被告になる。だから教師の損害賠償に対応する保険ができる。

「国は保育室ではない」とフロイトはいったが、まさに国民の多くが国やその他の行政機関に保護を求める。一方で自分の義務は果たさない。ここでいう国民が同一の人物だといっているわけではないが、個々人相手に行政が対応できるわけではないので、あえて国民一般を指していう。ただ義務を果たさない国民がクレーマーになる例も少なからずあるだろう。つまりは、犯罪的なクレーマーの体質は多くの国民が共有する行政への過大な依存の感覚につながる部分があると思えてならない。それは、国が他国に対して持つ依存の(その反面として乖離の)感覚に連なっている。前世紀の戦争の責任は棚上げにし、今世紀の問題の重要性に自己本位の序列をつけ、プロの博徒ならタイミングを計って切きるべきカードを最初から切ってくる政府の対応のまずさは見ていて滑稽でもある。

 薬を飲んで寝たら体の痛みは治まった。明日職場へ出たら周囲からまた遠ざけられるのだろうか。いっそインフルエンザでゆっくり休んだ方が自分としては楽なんだけれど…

 

【07.04.01】

●パソコン

 久しぶりに家電量販店に行ってパソコンを見たり、インターネットの価格サイトを見たり、メーカーサイトへ行ったりしている。私が欲しいのではない。不具合が多く、見ることができないサイトや使えない周辺機器がどんどん増えていく現状のiMacはまだそれでもこうやって最低限のことはできているし、古いエクセルも活躍しているから、私自身はいらない。このMacが使えなくなったら自分のコンピュータはもう持たないと決めている。

 必要なのはM乃で、MacBookあたりを買ってやろうと思っていたのだが、テレビが見たいとか録画したいとかいうのでそのままでテレビを見ることができないMacは選択肢から落とさざるをえない。Windowsでも仕方ないか、と探してみるとVISTAというのか、とにかく新しいOSのものばかりでXP搭載の機種は今のところ見つけられていない。秋葉原あたりへ行けばあるのだろうと思いつつ出かける元気がない。VISTAでいいじゃないかという声が聞こえてきそうなのだが出たばかりのOSは信用していない。Windowsは95と98を使ったことがあるがどちらも末期になってから買った。だからXPでも2000でもいいから落ち着いたOSが欲しいのだがもうない。古い機種を見つけても中身だけ入れ替えてあるのかVISTAになっていたりする。

 テレビについてもそうだ。アナログから地上波デジタルへの移行を国が決めている。2011年だったかこの年に向けてテレビの粗大ゴミが大量に発生するだろう。そこらに不法投棄する者もでてくるだろう。テレビに関心がないからどういう経緯あるいは理由で、それも国主導でデジタル化を進めているのかしらない。その点革製品はどうしても使えなくなったら土に戻るのに…

 話が逸れたがM乃のパソコンで困っている。お金さえ出せばありとあらゆることができる、とうたっているコンピュータが買えるのだが何せいまは何から何まで生活用品を揃えねばならず、コンピュータだのテレビだのは一番最後にしなさいといっているのだが、本人は他のものがなくてもコンピュータとテレビはすぐにもないと生きていけない!と言っている。私の古いリブレットを使っておけと言っても聞かない。さすがにリブレットじゃ何もできなくなっているのだが… どなたかそこそこ古くてもいいから4年間ちゃんと動いて勉強に使えるコンピュータを譲ってくれないかしら。

 ←結局水戸の量販店で一番安かった地デジ対応のVISTAマシンをさらに3万ほどまけさせて買ってしまった。最近はOSはもとよりCPUの違いもよくわからなくなっていたのでちゃんと動くのかどうかよくわからない。少なくともユーザレポートや他のサイトの掲示板などを見る限り、無茶をしなければストレスなく動くはず。マルチタスクはできないよ、とM乃には伝えた。たぶん、インターネットとテレビが主たる用途で、レポート書きなどがときどきかな。まあ甘いオヤヂだと我ながら思う(4/7追記)。

 

【07.04.09】

●選挙義務

 選挙権(憲法上正式に言えば参政権)というけれど、最近は義務で投票にいく。結果を見るたびに行かなきゃ良かったと思う。自慢じゃないが、30数年前に選挙権を得てからこれまで投票した人すべて落選した。つまり私の参政権を通じて政治に託した思いはほとんど(もしくはすべてかもしれない)取り上げられていないのである。じゃあ当選する人に入れればいいじゃないか、という反論の声を今日職場で聞いた。まさにそうなのである。みんな、もうあいつにうんざりしているのに、じゃあ誰に入れるんだ?と、うんざりしている顔面神経痛に入れているのだ。…とはいうものの、今回私は本当に推すべき人に投票せずあの傲慢な男を引きずり下ろすために対抗馬へ投票した。だから余計に後味が悪い。

 

【07.04.25】

●YATSUGATAKE EXPRESS

 今朝、YATSUGATAKE EXPRESSと名づけた愛車が購入後3年半で6万キロを超えた。保証期間は5年もしくは6万キロだったから、これで保証が切れた。最近まで山での木々とのかすり傷以外無傷だったのに、ここにきてこすったり、M乃の引越の時に低いところにあった2,3段のブロックにかみついたりしてバンパーがガリガリになった。もとよりバンパーはボディを保護するためのものだから交換する気もない。ウィンタータイヤも交換していない。このまま次のシーズンまで履きつづけ、次のシーズン始めに新しいウィンタータイヤに交換するつもり。相変わらず燃費は重たい車にしてはいい。丁寧にゆっくり乗っているからだろうが…

 ほとんど新しく出る車には興味がない。リタイアして山暮らしを始める決意をしたたら、軽トラックの四駆でも買うつもり。いや、この車が現役でいてくれれば多少金がかかってもずっと乗ってもいい。もう車なんてどうだっていいという気がしている。だってボルボがフォードに乗っ取られ、そのAWDが雪道で往生すると、もう欲しい会社がない。ベンツだけは別だが、山道をベンツで走る気はしないからほんとうにどうでもいいのだ。なら歩けば?とエコ派には言われそうだが、足腰弱ってきて、交通手段のないところに済もうとする人間には車は必要だと思わざるをえない。ここは非常に痛いところだが、車に乗らない人とタバコを吸わない人の、車に乗る人、タバコを吸う人への敵対心には、グローバリズムの仮面をかぶった「ナショナリズム」的な権益主義を感じてかなわない。お互い結構勝手なことをしているのに、自分だけ被害者面するのが気にくわないのだ。

 

【07.05.15】

●FERMATAのリタイアを考える

 これが天職だから、と教員になるときFERMATAは言った。私はそう言って働きだしたFERMATAに食べさせてもらいながら大学院に通った。結局、学部時代尊敬した教授は横の物を縦にする、つまりドイツ留学時代に師事した教授の学説を後生大事にして翻訳をし、その娘を妻にした「恩師○○」(と彼はいつも口にしたものだ)の書いた古びた学説の祖述に終始し、自説を展開することはなかった。2年目の終わり、書きかけた論文の書き直しを命ぜられ、喧嘩して研究室に通わなくなった半年ほどのブランクを含め3年間彼の下にいたが、その間、彼は一つも論文を書かない男だった。私のすることなすことにケチをつけた。当時の私は、今以上に反権力的な思想で社会を見つめていた。それがかび臭い彼の脳味噌には気にくわなかったのだろう。私は500枚以上の原稿用紙に書きたいことを書き連ねて事務所に提出し、彼はそれを読んだかどうかはしらないが「優」をくれて縁が切れた。生きているのか、もう死んだかはわからないが、新聞に載るほどの男ではなかった。

 そういう生活を支えてもらいながら、私はFERMATAより10年遅れて「正式な」就職をした。それまでの生活も今から考えれば全然「正式でないことはない」のだが、私の父親は確定申告をし、自分で国民健康保険にはいるようなフリーの仕事を正式ではないと思っていた。私自身は、今もその当時も仕事を天職だなどと思ってはいない。食べるためにしかたなくしている時間の浪費だと思っている。

 ところが最初天職だと信じて仕事を始めたFERMATAは最近になって自分が選んだ仕事が天職に思えなくなっている様子だ。もとより世の中は相対的なものだから芸術家などでなければ天職などというものはふつうはない。それに輪をかけて時代が彼女の職場環境を変えていった。管理され、マニュアル化された教育などというものが真の教育であるわけがないのだが、そうやって栄えた塾や予備校的な詰め込みを親たちが望み、ものを教えるためだけではなかった学校は制度として崩壊し始めた。お上も政治的な色彩の強い管理を始めた。親たちは自分らの好まない教師を辞めさせるという発言力を持つようになった。まるで家庭教師を変えるように学年途中でもなんでも、嫌な教師にダメ出しをし、学校側はそういう団体交渉に対していとも容易に譲歩して、結局教師の自主性を奪う。年がら年中研究授業と称する、画一的な教育のノウハウを指導して歩く「指導者」が教育委員会から派遣され、授業の逐一について標準化しようとしている。君が代を歌わない教師をバードウォッチングのように数え上げている。

 だからもう嫌になったのだと思うし、その思いは部外者の私にもよくわかる。学校が荒れたり、学級が崩壊したりするのは教師の力不足だけに負わされるべきものではない。親たちの教育が十全になされずにきたことが一番の原因である。ところがこれは保護者会などで絶対に口にしてはいけないことになっている。いじめられた子にも落ち度があったと言ってはいけない、というのと同じだ。給食費の滞納を当然の権利のように行使する親が、ひとたび自分の子が怪我をして帰ってくると学校と担任を相手取り怒鳴り込んでくる日常を前に、人間と人間のふれあいから生まれていた学習と生活習慣も含めた教育のありかたとに亀裂を入れているのはむしろ、出来合いのものしか食べさせないで、塾通いだけには目を光らせている馬鹿な親たちだ。そういう親から、人を傷つけたり、あるいはその親を殺したりする子が出てきたとしても全然不思議じゃない。少年法をかえても事態は全然変わるわけがない。ふてくされたガキどもを増やすだけだ。たしかに昔からこの国の行き方はその場しのぎの処方箋ばかりだったなと思う。すぐに剥がれる絆創膏をあちこちに貼る程度の政策しか思いつかない連中があらゆる政治の場で専門家面している。

 今すぐは我が家の生活があるので無理なのだが、そう遠くないうちにFERMATAを仕事から救い出してやろうと思う。せいのっ!と二人して辞めてしまえば私も楽なんだけれど、10年間多く働いてくれた分、私のほうはもうしばらく仕事という時間食い虫と暮らさなければならないことを耐えなければと思う。

 

【07.06.03】

●EUGENE殺害完全犯罪計画

 TV番組は信用できない時代だから、本当かどうかは責任はもてないのだが、先日夕方に放映されていた番組で、入眠剤、降圧剤、高脂血症剤,抗鬱剤を飲んでいる人にグレープフルーツ(もしくはそのジュース)を同時に飲ませると肝臓の解毒作用が効かなくなり、上記の薬の薬効が効きすぎて死ぬ、というのを医師の説明付きでやっていた。私は全部飲んでいる。ただし、グレープフルーツはあまり好きではないのでほとんど食べていない。グレープフルーツの他にもスウィーティなどもダメで、みかんや夏みかんは大丈夫とのこと。薬も薬効は同じでも種類が違えば問題はないのかもしれない。私の薬が平気かどうか、ちょっと試してみたい気もするが、今死ぬのはちょっと大変なので死のうと思ったら試してみようかとも思う。

 

【07.06.13】

●なんか、楽しいことはないかなあ…

 仕事のストレスがたまり、暑さがそのストレスの湿度を上げて、じっとりと重たく心身にのしかかっている。こういうときはふだんから尋常でない物欲に火がつく。欲しいものは次々と出てくるが買えるものばかりじゃないから、よけいストレスがたまるし、月末のカードの請求額を見てまたストレスが増える。ばかばかしいことだなと思いながら、悪循環は続く。

 PAUがいなくなってから、猫のトラが私の腹に乗ってくるようになった。暑苦しいのだが、正直なところちょっと癒される。子らが子ども子どもしない歳になり、私のほうが子らから子ども扱いされる。これも実はちょっと癒される。

 坊主にした頭の毛はすぐに伸びてきて、鳥のヒナのようだな、と我ながら思い、そうFERMATAに言ったら、「禿げ鷹のヒナ?」と疲れ切った私の心を慰撫してくれる… まあ、そういう小市民的幸福を味わうことが本当は一番の楽しみなのだろう、と人生の真理はわかっているはずなのについ口をついて出てくるのは「なんか、楽しいことはないかなあ…」

 

【07.06.24】

継続〜continuation

 生きていくということは命を継続していくということで実に当たり前のことなのだが、自らの命を継続しているとさまざまなものが身辺から消えていくのに気づくことがある。30年以上前には就職戦線でトップクラスにあった大企業がいつの間にか消えている。気安く家の修理を頼んでいた大工さんが亡くなって工務店自体がなくなる。大したものは扱っていないのに私が定期的に通って購入する品を黙っていても仕入れておいてくれた店がたたまれる。壊れて捨てようかと思っていた椅子を持っていくと前よりもっと素敵な椅子に直してくれた修理屋さんが店を閉じる。とびっきりうまいわけではないけれど、カウンタに座れば黙っていてもその日一番のネタを握ってくれる寿司屋のおやじさんが病気になってのれんがしまわれたきりになる。遅ればせながらの開発で様子が一変した最寄り駅の周辺からは馴染みの店が消え、新しくできた雑居ビルにどの駅前にも必ずある居酒屋チェーン店が入り、安売りのドラッグストアが入る。それらのテナントも想定外の低収益で早晩撤退するだろうと思われる。有料自転車置き場を中地下にして土のない公園を作ったけれど、今は人目に付きにくい公園には若い連中が真夜中までたむろしている。

 変化はそういう周縁部だけじゃなく、中央でも「制度改革」の名の下に起こっている。教育制度、社会制度、法制度は世の中を安定させるために編み出されたシステムであって、そこには本来的な原理がある。その根幹を揺るがせばシステムは破綻を来す。社会の変化が制度の改変を余儀なくすることがありうることは認めざるをえないが、そこには羈束性がある。そのときどきの為政者の思いつきで制度が変えられるとシステムは暴走し、マシンはクラッシュする。永続性のある「叡智」が今この日本に欠けている。人類が築いた歴史を抽象的で曖昧な「美しさ」という言葉でねじ曲げようとしているのが今の新保守主義の手合いなのだ。

 

 

EUGENE's Web Siteへ

All Rights Reserved, Copyright EUGENE 2007