| Monologue 2007.07-12 |
| 【07.07.08】 |
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●研ぐ 頭も同じで、時々研いでやらないと切れ味は悪くなる。新しいうちは良かったのだが急に刃が鈍るときがくる。日々の仕事の中ですり減った刃先はそのまま使い潰すともう目立てが効かなくなる。古くなってすり減って、それでもなお切れ味を保ち続ける職人さんの道具のように頭をつねに切れ味良くしておく方法はないものだろうか。 朝日新聞の日曜版に、人間が光合成するのは夢か、という特集記事が出ていて笑ってしまった。できっこない、という気持ちと、そういう発想をすることの爽やかさに気持ちよく笑ったのだ。緑色の人間が空気中から二酸化炭素を吸収して有機物を生成する、その想像は案外楽しい。金や名誉のために、偉そうに出来の悪い教育論を吐く元不良の今は大先生がとうとう国政に参加するかもしれないという時代だから、身上調書の「今後身につけたい技能」という欄に「光合成」と書いて上司に怒られた朝日の編集員の夢のほうがずっと研ぎ澄まされた輝きにあふれているように思う。
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| 【07.07.21】 |
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●チューニング 楽器だとそうやって正しい響きをつねに出し続けるようにチューニングを繰り返している。今頭のなかの音がビミョウに狂っているのを感じる。精神の波動が正しい振幅をしていないように感じている。チューニングが必要な状態であることを感じる。けれどこのチューニングはギターの音を合わせるように簡単にはいかない。いくつかの心の周波数を乱す要因がある。それに薄々気づいてはいる。実につまらないことだが無視することができずに不協和音を心が鳴らしている。本を読んでいても没頭できない。他人の吐いた毒のある言葉がのどの奥のほうに残った魚の小骨みたいに気にかかる。完璧に音が合ったギターを弾いていても途中でイライラしてくる。自分を鼓舞して体勢を立て直そうとすると、そのこと自体がひどく卑しい行為のような気がしてくる。投げつけられた毒を飲み込んでしまえば体のほうが自浄作用で解毒してくれるはずだとは思うのだが毒そのものよりも相手は意識していないのかも知れない当の毒を投げつけられた事実にこだわる自分がいるかぎり、何気ない顔でその毒を飲み下すわけにはいかないのだ。
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| 【07.08.07】 |
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●土地を買う この土地を買ったからといって、広大ではないから、そのまた南側の土地に家を建てられたらやはりそれなりに鬱陶しいはずで、とりあえず今の家の真ん前に建てられるよりは少しはましというだけだ。投機的な価値もない。単なる自己満足。目立たない花をつけるドウダンが数本と白樺の大木が2本。めぼしい木もない。お金は… ない。思慮したあげく、無思慮なことをする、と我ながら思う。 ちょうど5年前の今日、山の家が完成し引き渡された。この5年で標高1249mの気温も上がった。5年前には見なかったカラスが時折やってくる。まだ蚊はいないが、5年前にはいなかったという甲斐大泉駅前には蚊が出はじめたという。地球温暖化は山でも確実に進んでいる。
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| 【07.09.03】 |
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●人生のつまずき方 〜ある人生へのメッセージ〜 普通の人はそれなりに何度かつまずいてまた立ちあがって歩き出すことを繰り返している。人生の形に与えられたものはなく、ひとりひとりみな違い、それでも同じくらいの回数転んでは起きる人生を繰り返しているはず。大事なことはつまずいたことを悔やまぬこと。性格的に一番悔やむタイプの私がいうのもおかしいけれど、悔やんだところで何もはじまらない。時計の針は悔やんでいようが立ちあがろうともがいていようが着実に進んでいる。じたばたして泣き言を言っている暇はない。人間、どんなときだって生きている限り腹は減るし、排泄もしないわけにいかない。人生で最大の危機だ、と思っているときにトイレで座っている主人公を描いた小説だの劇だの見たことはないが、泣きながらだってトイレで用を足し、飯を食う。 上手につまずいてすぱっと立ちあがって新しい世界へ転進していくなんてことはまずない。つまずいたら痛いのを我慢して傷口を気にしながら、格好悪くてもなんでもよたよたと進みだすしかない。大事なのはそこで今のよたよたが生涯のキズだというような否定的なとらえ方をしないことだ。格好悪い自分の姿を十分知りつつ、けれどもそれが今の自分であることを認め、堂々と正しいと信じる道を探ることだ。捨て鉢になったり、悪事に走ったり、格好の悪さを増幅して開き直る輩が一番いけない。つまずいたときこそ次の一歩が本当に格好いい人生をキメるチャンスなのだ。
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| 【07.09.10】 |
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●台風一過の山 土曜の朝、周囲を見て歩くと月見草があちらこちらに黄色い花をつけ、ススキの穂が開いていた。赤トンボも何匹か飛んでいるのを見かけた。気温は15℃前後で寒いくらい。今回も寝てばかりの2日間だった。ブログに書いたように起きている間はずっと三大テノールのCDを大音量でかけていた。テノール界の杉様ドミンゴ、泣き出しそうな優男のカレーラス、大泥棒の親玉のようなパヴァロッティ、演出とはいえ彼らが羽目を外して楽しんだ(楽しんでいるようにみえた)「オー・ソレ・ミオ」を一緒に口ずさみながら季節の変わり目を心と体で感じた。
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| 【07.09.17】 |
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●iMacの末期治療 私はそういう恐ろしい真似はせず、側面に隠れたようにある小さな再起動ボタンをおし、alt+コマンド+P+Rを押し続ける。困ったときのpramクリア。そしてコントロールパネルから拡張機能マネージャを開き、一番基本の拡張機能だけに戻し、再起動… と思ったが、再起動を選んだとたんに固まった。仕方なしにもう一度再起動ボタンで強制終了をかける。拡張機能が減って、可愛いリングノート状のウィンドウが消え、手書き風のアイコン類もデフォルト状態に戻っている。そして、今度はすぐにシステム終了を選択する… が、また固まる。だんだん最初にケーブルを抜いた犯人と同じような心境になってくる。とりあえず電源ボタンを長押しして強制終了して寝た。その後もずっとそういう状態だったが、あちこちのシステムを少しずつ試しながらいじくって1週間以上かかってようやく普通に終了するようになった。レトロなソフトをいじっている限り(たとえばこのホームページ作成・FTPソフトのようなOSのバージョンに合ったソフト)今のところ動いている。もとよりどんどん進化しているインターネットの世界は古いブラウザでは見られないところが多く、配信される動画や音楽もQuick Time自体のバージョンが古すぎて見ることはできない。 娘らは(主にA乃だが)新しいMacBookを買おうよ、といっている。私が衝動買いするモノたちよりも確かに安い。そろそろMacOSも次の世代に入ろうとしているようで、今のOSはたぶん一番いい安定した状態だろう。新しいOSが嫌いな私はいつも世代末期のOSを買ってきた。たぶん心配しているほどに新しいマシンへの移行は難しくなくスムーズに行くだろう。我が家はアカデミーパックを買えるし、インテルのCPUの載った今のMacはWindowsでも動く(そのあたりも何だかいやなんだが)。今のiMacを使っている私にはどんなマシンでも速く感じるだろう。でもなんかいやだな、と思う。Macがではない。コンピュータ自体がであり、コンピュータなしで生きていけない生き方が、だ。そう思いつつ、何度も同じことを繰り返し書いている私が、ほとんどの買い物をインターネットでし、銀行のお金もインターネットで動かし、こうしてくだくだと心の憂さのはけ口にインターネットを利用しているのだ。実に自分のありように困惑している。
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| 【07.10.13】 |
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●森の生活〜第2章へのプロローグ
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| 【07.10.18】 |
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●インターネット時代の憂鬱 ところがパソコンなどの電子機器はあっという間に陳腐化し、世の中の方が進んでいくとどうにも対応しなくなる。今使っているiMac DVは発売されてすぐ買ったのだが、何年目になるだろうか、忘れてしまった。どこで買ったかも忘れてしまった。カラークラシックを買って以来、Macだけで4台、途中Libretto2台ともう1台Windowsノートを買ったから、PCだけで7台。これもPCフェチで新型を次々と追う人から比べたら少ない方かもしれない。そして、いよいよ新しいMacBookをカートに入れてしまった。こんなにデジタル化された世界に嫌気がさしているというのに、仕事でLANにつながったPCと特別な業務に特化されたオフコン(なんて言葉はまだあるのだろうか)の2台に振り回されているのに、家に帰ればまずMacの電源を入れる。メールを見るとショッピングニュースが届いている。もうすぐ、お歳暮の時期だから、メールがくるとすぐにデパートのサイトに行って、すでに登録された送り先にチェックを入れ、品物を選ぶ。最近は本屋をぶらついて出会い頭に本を買うことがなくなり、欲しい本は決まっているから、Amazonでワンクリックで買う。Moleskineのノートもギターの弦もCDもDVDも、大好きな革製品もみんなネットで買ってしまう。それでなくても町に出る時間がなく、買い物に行けば交通費がかかるのに、ネットだと町まで出ていく必要がない。早ければ中1日で届く。銀行もここ数年ほとんどいったことがない。お金の振り込みも、入金の確認もオンラインで済む。税金だってPay-easyで支払える。キャッシュを下ろすのはすべてコンビニエントストアのATM。一年中、真夜中でも手数料すらかからない。山に置いてある百科事典数十巻はもう古くてどうしようもないのだがたまに読みふけるが、出稼ぎに東京に出てきている間はウィキペディアで事足りる。まだ、お会いしたこともない方とインターネットでお知り合いになれる。それはそれは恐ろしい時代なのだ。山に帰れないときは山の家のデジタル写真が管理会社から送ってもらえる。車のデータを前の車からPCで管理するようになった。買ってから今までの燃費や途中の交換部品の時期などすべて入力してあるから、調べればすぐにわかる。1000枚近いCDの管理もしてあるので、モーツァルトの何番はうちにあるか、と尋ねられると、誰と誰の指揮、演奏のCDがある、と即座に検索できる。ローンの返済と残金もExcelが知らせてくれる。簡単な数式を入れれば、落ちる日にはちゃんと残金がへり、あと何回でこのローンは終わるとわかる。なんでもかんでもPCで自分の生活を管理し、楽をする。そういう暮らしに疑問を感じながら、それがもう当たり前になってしまっている。それが憂鬱でたまらないのだ。 上手に利用しているつもりで、総務省やメーカーやソフト開発会社や、ネットショップにうまく乗せられているのだ。それができないとなんだか手足がもがれたように思いこんでしまうのだ。近く届く、私にとって8台目のノートパソコンがこれまでたまっていたストレスを解消してくれると同時に別のストレスを与えるのだ。今の時代は実に黒か白かどっちにしたって憂鬱が色を変えてデジタル画像のドットを拡大したように身の回りに充満しており、私はそれに打ち勝つことができないのだ。
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| 【07.10.25】 |
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●FTPテスト それにしてもわれながらすごい執念だと思う。ほとんど数名のリピーターの人しか読んでいないページなのに。そもそもが情報と呼べるようなものがないHPの存在自体、おかしいのであって、ブログがあるのだから、そっちですべてを完結してしまえばいいのだが。いやいや個人のつくるHPなんてだいたいが自己満足のために作られているのだ。さて、いよいよFTPのテストをしてみるか。うまくいったらご喝采!
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| 【07.10.28】 |
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●二十歳のころ 二十歳になったからといって急に何かが変わるわけではないから、M乃はいつもどおりのM乃だし、彼女を扱う私たちの目も変わるわけではない。正月を迎えるほどには新しい気分になるわけではない。それは他の娘らのときも同じだったし、私たちが二十歳になったときも変わらなかったはずだ。人生の節目だとか大人としての自覚だとか、成人式のスピーチでわかったようなわからぬようなことをいう来賓の言葉は、個々の成人の人生とは無関係で無意味だ。年齢というのは不思議なもので、体や考え方に少しずつ変化が生じていても、個人の意識の中に年齢の意識はない。私は50数年間生きてきて、いらぬ知識や要領が身についたけれど、まだ二十歳のころの自分のままの思考回路でものを考えている。時代や周囲の環境がどんどん変化しても、その中で生きている自分はいつまでも自分以外ではありえない。それほど容易に人間の心は変わらない。変わっていくのは肉体だけだ。 M乃にとっての二十歳は20年間の人生が経過したということを示すだけだ。社会的な通念で言われるような「重い責任」が二十歳を境に生じてくるのは単なる制度の話で、これまでだって責任はあったし、これで親の私たちの責任が消えるわけでもない。制度化された二十歳ではなく、20年間生きてきて、さまざまな出来事が待っている夢多き二十歳を楽しんでほしい。そうやって私たちも二十歳のころを通り過ぎてきたのだから。
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| 【07.10.29】 |
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●大嘘つきな私 バックアップしておいたファイルも、入れてあったソフトも全部そのままの状態で、ドックとファインダーが変わった。便利かどうかはまだわからない。使い道もよくわからないが、そのうちネットなどに情報が出てくるだろう。外付けのHDDを買って接続すればバックアップが定期的にとれ、簡単に復元ができる「TimeMachine」というのが便利そうだ。 また2時になってしまった。早く寝ないと明日起きられない!
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| 【07.11.02】 |
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●慣れる Tigerを使ったのは1週間くらいで十分理解しないうちに、すぐにupdateしてしまったLeopardにも慣れた。ジョブス曰く300以上の新機能というが、それほど変わった気がしない。ファインダのCover Flowは面白いがうっとうしくなくもなくもない。昔からアイコン表示が好きでなく、リスト表示をしていたから、ファイルの中身が見えるのは面白いだけで結局はファイル名を見て作業している。Dockの表示がLeopardになって変わったのはなかなか便利で、エイリアスをデスクトップ上にいっぱい並べるということがなくなって、今はデスクトップ上に一個もアイコンはない。こればかりはWindowsに負けていると思っていたマウスの右クリックもできるようになっている。それもマウスに右左の割れ目がない!のにである。新しいものに飛びつきだすとそれに凝るのだが、古い環境から抜け出して新しい環境に入っていくことに腰が重い私にとって、今回の変化は仕事に倦んでいる毎日にちょっとだけ刺激を与えてくれた。 混迷する政治や愚かな人心。こういう世の中の風にもトゲトゲをいっぱい感じつつそのうち慣れてきてしまう…のだろうか。
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| 【07.11.15】 |
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●疲れと悲しみの関係 疲労感はなぜか心を悲しくさせる。鬱かな、と思うのはたいてい悲しくてたまらなくなっているときだ。Macはひととき私の心に再び明かりを点してくれたし、いまだってこうして、面倒くさいエディタを立ち上げてHTMLを書いていることが楽しくなくはない。楽しくなくはないと感じていることをしながら、心楽しまぬ現状について書いている矛盾もなかなか興味ある心理ではある。世の中への不満や怒りや心配は常に心中に満ちているが、それも直接の原因ではないように思う。疲れていると感じるのは自分の体なのか心なのか両方なのかわからないが、疲れても疲れてもランニングをして逆に疲れの果てにくる爽快さを味わっていたころを思い出すと、今は疲れるとすぐに体に染みついたゼッケンを外してリタイアしたくなる。じゃあ、また走り出せばいいじゃないかとこの数日のうちに1,2回思ったことも確かだし、走る格好をしていないのに、それに走るような状況でもないのに、急に100mくらい7分/kmくらいのペースで走ったこともある。すぐに息が上がり、歩き出しても心臓の激しい脈動が止まらない。100Kマラソンを何度か走った人間だったなんで自分でも信じられない。その一方でちょっとトレーニングしたらフルマラソンくらいは走れそうな幻想だけは持っている。ありとあらゆることごとを自分の意志でなくしながら、そのことで疲れ果て、そして悲しくて悲しくてたまらなくなっている。
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| 【07.11.18】 |
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●森の生活とインターネット すでにこの地に定住しておられる方にお話を聞くと、ケーブルテレビ局のケーブルを利用しているという。「ここで暮らすならインターネットは必須でしょう」とその方に言われた。私もそう思う。携帯電話でインターネットサイトを回ることもできなくはないし、現に山からインターネットサイトにつないで買い物をしたこともある。いつかはもっと快適にできるようになるだろうが、今のところ携帯でのネットサーフィンはすこぶる面倒で具合が悪い。銀行口座のお金を動かそうと提携銀行につないで何度か電波が切れるうちに、オンラインカードが無効になってしまったことがあった。そういうわけでこの山の家でネットが繋げる方法を調べだした。ケーブルテレビの配線は私の家よりかなり下までしか来ておらず、引き込んでくるのに費用がかかりそうだ。テレビは見る気がないのでインターネットサイト回線だけでいいのだがそうもいかず、まずケーブルテレビの回線は敷かなくていけないらしい。ADSLは収集局が村にもあって不可能ではなさそうだが電話回線がここまで来ていない。これもどうやって引っ張ってくるのかわからない。 だから、すぐにもインターネット開通というわけにはいかない。管理会社に尋ねたら、やっぱり難しそうな、あるいはそれなりの費用がかかりそうな答えだった。とりあえず、会社の無線LANのパスワードを教えてあげるから、昼間は会社に来て、会社が閉まっても会社脇の駐車場でいつでもインターネットはできますよ、といってくれた。この方法を使えば用件のあるときだけ、駅前の管理会社まで下りていけばインターネットはできることになる。ところが今のコンピュータは常にインターネット接続をしていることを前提としたOSで、CDを入れればタイトルや曲目を裏でとってきてくれるし、ヘルプもちょっと込み入ったことを調べようとしたり、動画で見ようとしたりすると裏からアップルサイトにつなごうとする。愛用しているガジェットの天気予報も、辞書もサイトと連動している。 このひと月で一気に冬の姿に変わってしまった寂しい森の木々を眺めていると、そもそもデジタル化社会から離れてこういう「僻地」で社会から自ら逃避して生きようと思っていた当初の心意気がしぼんできているのがわかる。昨日の昼間、初めてカモシカが至近距離の林のなかをゆっくりと歩いているのを見た。これまで何度か出会っているのはニホンジカでカモシカとは科が違う。両方とも偶蹄目だが、カモシカはウシ科、ニホンジカはシカ科なのだ。だから、ひとが近づいてもニホンジカたちのようにくるりと背を向けて谷間へ駆け下りて消えてしまうというようなことはなく、枯れ葉をざくざくと踏みしめながらどこかへ消えていった。カメラを持って外に飛び出したときはもう姿がなく、追跡すると目には見えないが近くの森の中をざくざくと歩いている音だけがする。この自然のなかで暮らす楽しみはカマドウマ騒動も同様、まだまだたくさん残されている。なのにインターネットで目に見えない外部と交信する必要があるのだろうか、と思ってみたりもしている。
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| 【07.12.02】 |
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●今お気に入り〜ギタリスト そのYouTubeで見つけたのがTommy Emmanuelというアコースティックギタリスト。他にもびっくりするくらいうまいギタリストはいるが、彼は超絶技巧をにこにこしながら楽しそうに弾く。CDを買おうかと思ったけれど彼の本領はライブで、映像つきでないと楽しくない。音だけ聴いていると一人で弾いているとは思えないし、気持ちよく聴き終えてしまうだけになりそうだ。それが、絵と一緒だとほら、こんなにすごい。 ちなみにTommy Emmanuelは1955.5.31、オーストラリア生まれ。私より一つ年下だ。こういうのを見てしまうとちょっと自分でギターを弾くのが嫌になってしまう… その一方で、「anji」を一生懸命弾いているアマチュアギタリストの映像を見ていると思わず「勝ったぁ!」と思ってしまうこともしばしばだけれど。
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| 【07.12.19】 |
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●体と脳のはたらき ところが、疲れは体の中に蓄積していくもので、疲労が限界に近づくと容易に恢復しなくなってくる。山まで車を飛ばすことも腰に悪いのはわかっているのだが、山の空気を吸って一晩寝て、翌日も音楽を聴いたり、本を読んだりを繰り返しながらうとうととし続け、体を長くして風呂につかっているうちに曲がっていた腰が伸びてきた。どこかにまだ不発弾がかくれているような感じはするものの平静な体調に心が安らいでいく。しかし、50年以上酷使してきた体に可塑性はあまりなく、月曜日に仕事に出て、パソコンの前に座ってキーを打ち出すとすぐにまた腰がかたく凝り固まっていくのがわかった。 体の痛みは悲しみという〈感情〉をこえて、脳の働き自体を鈍らせる。今、何をしなくてはならないのか、どこに注意力を向けて、どういう方向にもっていくの一番よいか、というようなほんのちょっと複雑な思考ができなくなる。形而上的な思考力は当然なくなる。「走ることは生きること」と海の向こうから声が聞こえてきた。「脳を走らせていたい」と書かれたその言葉が私に向けられた言葉のように感じる。 脳を走らせるためには体をまず癒すことが必要だ。ゆっくりとお風呂に入って、暖かくして今日は寝ていよう。 ●Yummy FTPを買う というわけで、このように無事更新ができるようになった。そろそろ新年のindexファイルへの切り替えのために、Monologueの07下半期版を作っておかないとならない。時系列を反対にしていく作業だから、Dreamweaverでも面倒だった。テキストエディタでやるほうがむしろ簡単かもしれない。今度の三連休にのんびりとやろう。
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| 【07.12.28】 |
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●年末に思うこと 政治や経済の不健全さを見せつけられてきたこの一年だったが、そんなことをすっかり忘れて、青臭い哲学にしがみつく。新しい年へ向けての抱負もないし、大きな夢もない。とにかく、自分らしく生きて行けたらいいな、と思う。今年はどうだったかといえば、たぶん自分らしく生きてきたと思う。夏前に念願だった坊主頭にした。もとよりない髪の毛を短くしただけのことで、どうということはないけれど、なければないなりに結構気にしてはいたわけで、少なくとも今は髪の毛のことで気を煩わすことはなくなった。一番の変化だし、一番の収穫だったと思うが、そうだとすれば実に他愛のない「生き方」の追求だ。でも、現実なんてそんなものだと思う。たぶん来年ものらりくらりとそんな他愛もない生き方を続けていくにちがいない。
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| 【07.12.31】 |
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●自分の歳もわからなくなる… いろいろと娘らの歳を基準に説明されても、にわかに信じがたい。なぜなら私はこの1年間、自分が54歳だと信じ切って生きてきたからだ。早速Excelを起ち上げて年齢計算の式を入れて歳を計算してみた。たしかに今はまだ53歳だ。なぜなんだろう? いつから間違えていたんだろう? 年末も大晦日になって、歳を一つ得した気になっている。呆けて得することもあるのか。 この更新は管理会社の無線LANを使わせてもらって行っている。駐車場の片隅に止めた車の中でHPの更新ができるのだから、山の家まで回線を引く必要はなくなった。 ![]() |
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