ところで、作曲クラスの学生は「ローマ賞 Prix de Rome」というコンクールを目指す。 フランスの芸術アカデミーより贈られる最高の賞であり、第一等を受賞した者は金メダルが授与され、 芸術先進国イタリアの首都ローマに滞在することが認められる。 その代わり、四年間ローマのメディチ荘 Villa Medici という芸術アカデミーの宿舎に留まり、 合唱と管弦楽によるカンタータ作品を書いて音楽院に提出する義務を負う。 歴代のローマ賞受賞者リストには、 ベルリオーズ Louis Hector Berlioz (1803-1869)や グノー Charles Gounod (1818-1893)、 ビゼー Georges Bizet (1838-1875)、 マスネ Jules Massenet (1842-1912)、そして ドビュッシー Claude Acile Debussy (1862-1918)など、 現在でも知られる音楽家たちが名を連ねている。 サン=サーンスは1852年(16歳)にローマ賞に挑むものの、落選してしまう。 さらに12年後、応募年齢の資格が最後になる1864年(28歳)にも、 満を持して挑戦してみたがまたもや失敗を期し、 終にサン=サーンスは、ローマ賞を獲得することができなかった。 最初は若年であったのが理由かもしれないが、二度目も失敗というのは、何とも皮肉な結果である。 というのも、音楽史上の革命者として名を轟かせるベルリオーズやドビュッシーが、 アカデミックな音楽の権化ともいうべきローマ賞を獲得する一方で、 終生伝統的なスタイルを捨てることのなかったサン=サーンスが手中にすることが能わなかったのだから。 後年、同じような経験をラヴェル Maurice Ravel (1875-1937)も味わう(2)。とはいうものの、 これほどの才能を世間が認めないはずはなく、最初のローマ賞を失敗した年に、 パリの聖セシル協会の主催するコンクールで『聖チェチリアへの頌歌 Ode à Sainte-Cécile』(1852) が第1等賞を獲得し、さらに公で演奏もされるという栄誉を授かっている(3)。
(1)パリ音楽院については、補遺[1]を参照。 ©eugenio sibaccio,1999,2003-2008
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