Le Tombeau de Saint-Saëns
サン=サーンスの芸術と生涯
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 パリ音楽院の学生時代

サラチェーニ『聖チェチリアと天使』  13歳になった1848年の秋、サン=サーンスはパリ音楽院(1)に入学し、 まずブノワ François Benoist (1794-1878)が教えるオルガンのクラスに登録する。 51年にこのクラスで格別苦労することもなく第一等賞を獲得すると、 次にアレヴィ Jacque Fromental Halévy (1799-1862)のクラスに入り、作曲の勉強を始める。 とはいうものの、幼少より作曲を「たしなみ」のように続けてきた彼にとって、 作曲法はとりわけ難しいものではない。幼い頃から古典やラテン語を学び、 これらを短期間のうちに修得してしまった秀才なのだから。 もちろん、クラスが休講になると、真っ先に図書館にこもって勉強する努力を怠らなかったなればこそ、 言えることである。


 ところで、作曲クラスの学生は「ローマ賞 Prix de Rome」というコンクールを目指す。 フランスの芸術アカデミーより贈られる最高の賞であり、第一等を受賞した者は金メダルが授与され、 芸術先進国イタリアの首都ローマに滞在することが認められる。 その代わり、四年間ローマのメディチ荘 Villa Medici という芸術アカデミーの宿舎に留まり、 合唱と管弦楽によるカンタータ作品を書いて音楽院に提出する義務を負う。 歴代のローマ賞受賞者リストには、 ベルリオーズ Louis Hector Berlioz (1803-1869)や グノー Charles Gounod (1818-1893)、 ビゼー Georges Bizet (1838-1875)、 マスネ Jules Massenet (1842-1912)、そして ドビュッシー Claude Acile Debussy (1862-1918)など、 現在でも知られる音楽家たちが名を連ねている。


 サン=サーンスは1852年(16歳)にローマ賞に挑むものの、落選してしまう。 さらに12年後、応募年齢の資格が最後になる1864年(28歳)にも、 満を持して挑戦してみたがまたもや失敗を期し、 終にサン=サーンスは、ローマ賞を獲得することができなかった。 最初は若年であったのが理由かもしれないが、二度目も失敗というのは、何とも皮肉な結果である。 というのも、音楽史上の革命者として名を轟かせるベルリオーズやドビュッシーが、 アカデミックな音楽の権化ともいうべきローマ賞を獲得する一方で、 終生伝統的なスタイルを捨てることのなかったサン=サーンスが手中にすることが能わなかったのだから。 後年、同じような経験をラヴェル Maurice Ravel (1875-1937)も味わう(2)。とはいうものの、 これほどの才能を世間が認めないはずはなく、最初のローマ賞を失敗した年に、 パリの聖セシル協会の主催するコンクールで『聖チェチリアへの頌歌 Ode à Sainte-Cécile』(1852) が第1等賞を獲得し、さらに公で演奏もされるという栄誉を授かっている(3)。



(1)パリ音楽院については、補遺[1]を参照。
(2)ラヴェルのローマ賞獲得の経緯については、 補遺[2]を参照。
(3)余談として、聖チェチリア(フランス語読みは、セシル)は、 純潔を約した夫との結婚の当日、許多(あまた)の楽器の音が彼女を見送ったという伝説から、 音楽の守護聖人とされている。


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