Le Tombeau de Saint-Saëns
サン=サーンスの芸術と生涯
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 作曲家としての出発

グノー  教会オルガニストとしてのキャリアを始めたサン=サーンスは、同時に作曲家としての一歩も踏み出す。 1853年の冬、聖セシル協会の演奏会で「無名のドイツの作曲家」の交響曲が演奏された。 聖セシル協会は、1848年にフランソワ・セゲール François Seghers (1801-1881)が創設し、 劇音楽全盛のパリにあって、優れた器楽作品の紹介に尽力してきた演奏協会の一つであった。 例えばシューマン Robert Alexander Schumann (1810-1856)やヴァーグナー Wilhelm Richard Wagner (1813-1883)など時代の先端をゆく音楽だけでなく、 グノーやビゼーなどの器楽作品もここで演奏されている。 「無名のドイツの作曲家」による交響曲は、確かにウィーン古典派の書法を基礎にロマン的風味を加えた 「ドイツ的」な音楽であったが、その清澄な響きと端整な形式は、聴衆の喝采を浴びた。 演奏後に配られたプログラムに、作曲者が "SAINT-SAËNS" という、 フランス人の、しかもまだ二十歳にも満たない青年の名が掲載されているのを目にして、 人々は驚きを隠せなかった。その作品は二年後、『交響曲変ホ長調 作品2』として出版される。
 この演奏会に立ち会ったグノー Charles Gounod (1818-1893)は、サン=サーンスに次のような手紙を送り、音楽史の未来を予言している。


《...あなたは1853年12月18日日曜日、偉大な巨匠とならなければならないという契約を交わしたのだ、と肝に銘じておきなさい。》


しかし、オペラやバレエなどの劇音楽ではなく、器楽作品の作曲に執念を燃やすことは、 当時のフランスでは無謀にも等しい「愚かな」行為と見なされた。 以後十数年に渡り、新進作曲家サン=サーンスの受難の日々が続くことになる。


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