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Le Tombeau de Saint-Saëns
サン=サーンスの芸術と生涯
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新進作曲家の受難
サン=サーンスは晩年、ドビュッシーやストラヴィンスキーへの無理解と反発を公言して憚らなかったため、
死後保守的かつ反動的な伝統主義者として、長いこと不当に認知されてきた。
しかし生前、創作期の前半においては、先輩のベルリオーズと同様に、また後続のドビュッシーのように、
音楽芸術における「革命家」と世間では見なされていた。
オペラを筆頭とする劇音楽に圧倒され、翳りを見せていた器楽の分野において、
ドイツ・オーストリアの息吹によって、栄光あるフランス器楽の伝統を今一度蘇らせようという野心は、
当時としてはすこぶる前衛的な態度であった(1)。
若書きながら、近代フランスの室内楽における先駆的な作品として評価の高いピアノ五重奏曲(1855)や
ピアノ三重奏曲第1番(1868)は、感心されるどころか怪訝な眼差しで見られ、
冒頭の雄大にして悲愴的な独奏が印象的なピアノ協奏曲第2番は、
1868年パリのサル・プレイエルでその初演が行われたが、聴衆の反応はきわめて冷ややかであった。
ライプツィヒのゲヴァントハウスで初披露したピアノ協奏曲第3番(1869)にしても、
カデンツァを従来とは異なる箇所に配置したり、第二楽章冒頭で無調的な線条を響かせる試みは、
器楽の先進国ドイツにおいても不評を買った。
1870年代に、リストにならって作曲した一連の交響詩も、演奏を拒否されたり、
ブーイングの嵐に巻き込まれるなど、サン=サーンスは散々な目に遭う。
彼は自著『和声と旋律』(1885)で、次のように回顧している。
《15年くらい前まで、あるフランスの作曲家が器楽の領域で危険を冒そうと大胆にも試みる場合、
自費で演奏会を開いてそこへ友人や評論家を招くよりほかに、自分の作品を演奏してもらう手段はなかったものだ。》
ハイドンやモーツァルトなどのウィーン古典派からさらに一歩踏み込み、
ドイツ・ロマン派の薫りを醸すことは、当時のフランスにおいて非常に危険な行為であった。
若きサン=サーンスが生きたフランス、それは第二帝政という、芸術を快楽として消費するような、
どこか浮わついた空気の漂う時代であり(2)、パリはその真っ只中にあった。
そんな中で、クソ真面目に器楽などという、ドイツ人しか書かない地味な音楽にご執心とは一体どういうことか。
イタリア風の劇音楽に酔いしれる聴衆は、そんな風にサン=サーンスを冷ややかに見ていたのかもしれない。
だが特に、ヴァーグナーの音楽を擁護したことは、パリの聴衆を決定的に憤らせる行為であった。
第二帝政期に何度かパリに訪れたヴァーグナーは、その度に神経を逆なでするような行動や発言をして、
フランス人の反感を確実に「醸成」していた。音楽よりも、音楽家自身の高慢で不遜な態度が、
人々には許せなかったのだが、その音楽に対しても、ベルリオーズが「未来の音楽」と痛烈に批判するなど、
攻撃の的であった。未来の音楽、つまりは「今は無視すべき」音楽と同義に認識されたのである。
そしてほかにもさまざまな要因が加わって、パリの「ヴァーグナー嫌い」は、
1861年3月、彼の歌劇『タンホイザー』の公演が大失敗に終わることで頂点に達したのである。
一方サン=サーンスは、ヴァーグナー自身の人格はさておき、彼の音楽を冷静に判断し、
その魅力や革新性を高く評価した。だが、そういうことを許す時代ではなかった。
(サン=サーンスとヴァーグナー。
この関係は後々まで、サン=サーンス自身に大きな影を落とすことになる。)
当時のサン=サーンスが、劇音楽において先輩グノーが成し遂げたような成功を夢見ていたのも事実である。
しかしそれ以上に、器楽における邁進が、自分の役割であると自負していたことも、
彼の作品リストは明瞭に語っている。世間の風当たりが強く、自作の演奏が拒否されようと、
サン=サーンスは動じることなく次々と新しい音楽作品を生みだしていく。
《私は批評も賛辞もあまり気を使いません。それは自分の値うちに自惚れているからではないのです。
そうではなく林檎の木が林檎を実らせるように、自分の天職を果たすために作品を制作するのに、
私は私について人がどんな意見を抱こうとそんなことは案ずる必要がないからなのです。》(3)
(1)こういった試みはサン=サーンスだけの功績でない。ベルリオーズは勿論、ルイーズ・ファランクやラロ、
フランクなども、1870年代以前より優れた器楽作品を書いた作曲家たちである。
また、グノーやビゼーの交響曲が、ウィーン古典派に立脚した作風をもつことも忘れてはならない。
(2)つまり、私たちの時代の一つの原型(プロトタイプ)が第二帝政のパリにあるといっても、
差し支えないだろう。これに関して音楽生活の視点から言及したのが、
浅井香織著『音楽の<現代>が始まったとき』(中公新書)である。
(3)質問状を送ったドイツの記者に宛てた返信の一部(1901年9月9日付)。
ロマン・ロラン著『今日の音楽家』(みすず書房)より引用。
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©eugenio sibaccio,1999,2003-2008
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