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Le Tombeau de Saint-Saëns
サン=サーンスの芸術と生涯
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希望に燃える音楽家たち
1870年7月、フランスはドイツ北部の一王国であったプロイセンに宣戦布告し、
普仏戦争が勃発する(1)。国家元首であるナポレオン三世が、開戦の二ヶ月足らずでフランス東部のセダンで
捕虜となり、第二帝政があっけなく崩壊してしまうものの(9月2日)、
その後もフランスは国防政府を立てて抗戦を続ける(9月4日)。
この頃サン=サーンスも兵士として戦場に赴く(9月15日)。
しかし9月19日にはプロイセン軍にパリを包囲され、首都は風雲急を告げる状態に陥った。
深刻な食糧不足と厳しい寒さのなかで、人々は窮乏しながらも果敢に抗戦を続けたが、
翌1871年1月28日、ヴェルサイユで休戦協定が結ばれ、ついにフランスはドイツに敗れてしまう。
このような過酷な状況の下で、サン=サーンスは同僚の音楽家たちとともに、
「国民音楽協会 Société nationale de musique」を創設した。
その日付は、2月25日。敗戦からまだ一ヶ月も経っていない。
《本協会の目的は、出版されたか否かを問わず、フランスの作曲家たちのあらゆる重要な音楽作品の制作と
普及を助長し、できる限りの範囲で形式のいかんに関わらず、あらゆる音楽上の試みを、
その作者の側に高い芸術的な熱意が認められるという条件で、これを奨励し引き立てることにある......
本会会員は、友愛に基づき、絶対的な無私をもって、その全力を尽くして相互扶助をなすという
断固たる決意をもって、各自がその活動領域において、
その選択と演奏にまかされるべき作品の研究と演奏に協力すべきものとする。》(2)
国民音楽協会は「アルス・ガリカ Ars gallica」を旗印に活動を開始した。
ガリアの芸術、様式。つまりフランス音楽を向上させ普及させようという意図が、この言葉に含まれている。
このように、自分の書いた作品が公に演奏されるチャンスをもてるようになったため、
協会は中堅の、あるいは若きフランスの作曲家たちに大きな希望と自信を与えた。
そして当時のほとんどのフランス人作曲家たちはこの協会に加入し、
あるいは協会の催す演奏会に積極的に協力する。
サン=サーンスは協会の副会長に、またフランクやフォーレ、そして『スペイン交響曲』のラロも委員として
発足メンバーに名を連ね、デュパルクやマスネらもこの後に続いた。
だが当初から、順風満帆に新しいフランス音楽に貢献できた訳ではない。
創設してまもなくに、パリ・コミューンの宣言によって首都は再び混乱状態に陥ったため(3)、
音楽家たちの多くは一時パリを離れなければならなかった。サン=サーンスは5月末までロンドンに避難する。
協会の最初の演奏会が開かれたのは11月17日。パリの混乱がようやく収束した後、
サル・プレイエルにて行われ、フランクのピアノ三重奏曲や、
サン=サーンスが戦死した友人を悼んで書いた『英雄行進曲』などが初演された。
協会が乗り越えなければならない苦難は、戦争の後にも続く。
いざ演奏会を開く上でも大きな問題があった。依然保守的な見識が大部分を占めるパリの聴衆は、
器楽を演奏することは「ドイツ主義」として捉え、協会メンバーを冷ややかな態度で迎えた。
加えて、所詮音楽家同士の集まりであったため、オーケストラを雇うほどの経済的余裕はなく、
せっかく大編成の交響楽作品を書いても、やむを得ず二台のピアノ、
あるいは連弾で初演しなければならないことも日常茶飯事であった。
国民意識の高揚と絡めて、ことさら国民音楽協会創設の意義が強調されるとき、
しばしばこの点が批判される。だが、自分の作品が公で演奏されることと、
そのまま机の引出しの奥に眠らせること。認められるかどうかはともかく、
作曲家にとって、あるいは聴衆にとって、どちらの方が好ましい選択であろうか。
《(国民音楽協会は)真にフランス芸術の揺籃であり至聖所であった......
協会がなかったとしたら、フランス音楽の名誉となっている諸作品の大部分は単に演奏されなかったばかりでなく、
おそらく書かれもしなかったであろうと思われる。》(4)
21世紀を迎えた今日でも、私たちはフランス近代の音楽作品を愛聴している。
その中には、国民音楽協会のコンサートで、音として初めて、この世に成り響いたものが数多い。
そうだと考えるならば、上記に引用したロランの言葉は、あながち誇張されたものではない。
サン=サーンスやフランク、あるいはフォーレのヴァイオリン・ソナタなどの室内楽や管弦楽の作品の多くは、
ここで産声をあげた。また、現代音楽の門戸を開くに至るドビュッシーの『牧神の午後への前奏曲』、
デュカスの『魔法使いの弟子』、ラヴェルの一連のピアノ作品なども、協会の演奏会で初演されたのである。
国民音楽協会はその後、第二次世界大戦前夜の1938年まで活動を続けた。
(1)普仏戦争 Guerre franco-allemande(1870-1871):プロイセンとフランス間で行なわれた戦争。
スペイン王位継承問題をめぐる両国間の紛争を契機として開戦。プロイセンは、宰相ビスマルクの下、
ドイツ統一をもくろみ軍事力を増強し続けてきたが、
この戦争はドイツ統一に障害となるフランスを一気に叩き潰すチャンスであった。
フランス東部のセダンで皇帝ナポレオン三世自らが捕虜となって降伏、フランス第二帝政は瓦解する。
国防政府を樹立させたフランスはなおも抵抗するが、1871年1月パリを明け渡して敗戦する。
(2)国民音楽協会規約の一部。
ロマン・ロラン著『今日の音楽家』(みすず書房)より引用。
(3)パリ ・コミューン Commune(1871):普仏戦争後、臨時政府がドイツと結んだ屈辱的な講和
(アルザス・ロレーヌ地方の割譲、莫大な賠償金額など)に不満をもったパリの市民・労働者によって
結成された自治政府(コミューン)。世界初の社会主義政権(1871年3月18日成立)だったが、
ドイツ軍の支援を受けた政府軍の攻撃により「血の一週間」の激闘を繰り広げた後、5月28日に壊滅した。
ちなみに、ドビュッシーの父親マニュエル Manuel-Acile Debussy (1836-1910)も、コミューンに参加し、
戦後しばらく捕虜となった。
(4)ロマン・ロラン著『今日の音楽家』(みすず書房)より引用。
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©eugenio sibaccio,1999,2003-2008
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