Le Tombeau de Saint-Saëns
サン=サーンスの芸術と生涯
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 サン=サーンスの最盛期

 前章のように、国民音楽協会の設立後、直ちにフランス人の作曲家たちの音楽が 好意的に受け入れられたわけではない。確かに普仏戦争の敗北によって国民意識が高揚し、 文化的側面においても自然に、自国の独自性を見直そうとする風潮は強まるのだが、 頑固で保守的なことで有名なパリの聴衆である。そう簡単に「新しい音楽」を認めるわけがない。 そして、現代フランス音楽の先陣を突っ走るサン=サーンスがまず真っ先に激しい嵐に見舞われるのは、 全く当然の成り行きであった。 「アルス・ガリカ(フランスの芸術)」の精神に則って書かれた一連の交響詩は、 軒並み野次とブーイングの嵐の中初演された。 「クローシュ氏はぶつぶつ言いながら不機嫌そうにしていたが、 そんな調子も『死の舞踏』(サン=サーンスの交響詩の一つ)のことを思い至った時、 少し和らいだ。彼は、初演の際に非難の口笛が一斉に吹き鳴らされたことを楽しそうに思い起こす」 (ドビュッシー)。 また、今日サン=サーンスの最も有名なオペラ『サムソンとデリラ』は、 聖書を題材とする発想自体が危険視され、パリでの上演さえ拒否される始末であった。 同様に、ピアノ協奏曲第4番や『ノアの洪水』などのフランス音楽を代表するこれらの傑作も、 初演に際しては中傷の材料であり、乱闘騒ぎの要因であった。
チュルリョーニス『燔祭』(1909)  しかし1870年代後半、サン=サーンスの名声はいよいよ高まっていく。 それはフランスではなくロシアで、オーストリアで、スイスで。 パリではなく ロンドンで、バイロイトで、ブリュッセルで。 ヨーロッパ全土を周遊する精力的な演奏旅行で、サン=サーンスの名は確実に知れ渡る。 「現代フランス楽派の旗手サン=サーンス氏」。特にドイツのヴァイマールでは、精神的な師匠であり、 最大の後援者であったリストの強い希望と好意で『サムソンとデリラ』が全幕初演され、 かつてない大きな成功をサン=サーンスにもたらした。 国内では過小評価され、外国では大いに認められるという現象は、日本だけに限ったことではないようだ。
 こうなるとパリの聴衆も軌道修正を行わないわけにはいかなくなる。 このままでは、誇り高きパリジャンの審美眼と精神そのものが疑われてしまう。 なるほど、1878年万国博覧会におけるカンタータ『プロメテウスの結婚』の成功、 オペラ座で初演されたオペラ『ヘンリー8世』における聴衆の熱狂的な喝采と、 気がつけばパリでもサン=サーンスは「現代フランス楽派の旗手」に祭り上げられていく。 この時、とりわけパリの聴衆に対するサン=サーンスの不信感は、決定的なものとなったに違いない。


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 ©eugenio sibaccio,1999,2003-2008