Le Tombeau de Saint-Saëns
サン=サーンスの芸術と生涯
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 ヴァーグナー論争

ヴァンサン・ダンディ ひょっとすると、フランス人は日本人よりも熱しやすく冷めやすい人々かもしれない。オッフェンバックのオペレッタに笑い転げた第二帝政の時代が終わった後、第三共和制が始まったばかりの1870年代には、空前のベルリオーズ・ブームがやって来る。生前はあれほど足蹴にしていたにも関わらず、今や劇場やコンサート・ホールで、聴衆はベルリオーズに熱狂した。そしてその後、ベルリオーズ以上に世間を騒がせる人物が颯爽と、いや怒涛のように登場する。それがドイツの巨星リヒャルト・ヴァーグナーである。
 1861年パリでは散々こけにされたヴァーグナーであったが、しかしその真価、抗いがたい魅力を認める人々は少なくなく、ボードレール(1821-1867)やマラルメなどの文人はヴァーグナーの音楽を熱烈に賞賛したし、フランクやビゼー、シャブリエら作曲家たちも、その書法に強く影響された音楽を書くようになる。普仏戦争の前後は世論の反ドイツ感情もあって、表面的にヴァーグナー礼賛が推し進められることはなかったが、それでも音楽家たちはヴァーグナー音楽の聖地ともいうべきバイロイトへ足繁く通い、祝祭劇場で缶詰となった。サン=サーンスもその一人である。そしてヴァーグナー死後(1883年)、特に19世紀最後の10年間、フランスではあらゆる劇場がこぞってヴァーグナー作品を上演するようになり、ヴァーグナー・ブームは驚異的な社会現象にまで発展した。その著作『失われた時を求めて』の中で、頻繁にヴァーグナーに言及したプルースト Marcel Proust (1871-1922)は、ヴァーグナー・ブームの洗礼を受けた最後の世代に属する。
 こうなると、フランスの楽壇も「ヴァグネリスム」一色の様相を帯びるようになり、新聞や評論誌の紙上はもっぱら『ローエングリン』や『トリスタンとイゾルデ』の話題でもちきりとなる。特にヴァンサン・ダンディ Vincent d'Indy (1851-1931)を始めとするフランク門下の作曲家たちは、ほぼ無条件にヴァーグナーの音楽を褒めちぎり、その熱狂は「崇拝」にまで至る。
 サン=サーンスもダンディらのようなヴァグネリアンだったのか。確かに彼は、早い時期からバイロイトの音楽(ヴァーグナーの音楽)を率先して認めてきた一人である。それにも関わらず、彼はヴァグネリアンたちの攻撃の的となってしまう。ブーム以前のヴァーグナー礼賛が「悪」とされていた時代には、その音楽を高く評価したがために非難され、ブーム以後には、ヴァーグナーを理解していないと攻撃されたのである。ヴァーグナーに対するサン=サーンスの見解は、おおむね次のような内容であった。つまるところ、自分はヴァーグナーの作品をことのほか深く賛美する者である。けれども自分の美学とは決定的に相容れないものがあるのもまた事実であり、従って自分はヴァグネリアンではないし、これからもそうなるつもりはない、と。ただ、サン=サーンスの失敗はそこにナショナリズムの感情を注ぎ込んでしまったことである。フランスの作曲家たちが、汗水垂らして自国の音楽文化の発展に尽くしているのに、人々はドイツ音楽に熱狂しているのを目の当たりにし、サン=サーンスは寂しく感じていたのかもれしれない。


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 ©eugenio sibaccio,1999,2003-2008