福音学
イエス・キリストの啓約を説明します。- おまえたちに言葉と知恵を与えよう。いかなる反対者も、否定しえず、反論しえまい。(ルカ 21:15)- イエス・キリストの栄光の実現を。かく命じられ、行われ、贖われん。もうすぐ夜が明けます。命の書に名のある者は、日を浴びます。
信仰 福音 聖書
1 信仰は知識ではなく行為である
しかり、わたしは、すぐに来る。(黙示 22:20)
キリスト教は、キリストを受け入れることです。 理解ではなく、実践です。 つまり、行為(Act)です。 クリスチャンになるのに、高度な知性や理解力は、不要です。 ただ、キリストを神すなわち主と受け入れる行為だけです。 信仰は、直観的なものであって、勉強によって体得するものではありません。
仕事や試験であれば、勤勉な者がいい成績を修めるでしょう。 でも、聖書をたくさん読み、たくさん覚えれば、よりよいクリスチャンになるという保証はありません。 学習によって、クリスチャンになるのではありません。 ファウストの伝説をご存知でしょう。 優秀な科学者だったのですが、悪魔に魂を売ってしまいます。 勉強好きには、サタンの誘惑が多いのです。 バイブルを読みこんで知識がたんまりあると満足していると、命の書(The Book of Life)の名前が、インクが薄まって、かすんできます。 まるで子供が見たり聞いたりしたことをあるがままに受容するように、キリストに関するすべてを受け入れればいいのです。
よきヒツジ飼いは、ヒツジに命を与える。(ヨハ 10:11)
キリストにとって、人間はヒツジのように無邪気な存在です。 キリストは、人間が神のように賢くあって欲しいなどとは、求めません。 そんなことは畏れ多いことであり、望むべくもないのです。 ヒツジのように、ヒツジ飼いに従うだけです。 でも、キリストを受け入れるとは、どういうことなのでしょうか。
おまえたちは、おまえたちの神である主を、愛さなければならない。
心のかぎり、魂のかぎり、そして思いのかぎり、力のかぎり。
これが第一の戒律だ。
そして第二は、似ている。つまりこうだ。
おまえたちは、隣人を自分のように、愛さなければならない。
これらより大いなる戒律は、ほかにない。(マル 12:30,31)
一言で言えば、キリストを愛し、キリストの愛を疑わないことです。 簡単なことのようで、これほど難しいこともありません。 人間の間であっても、愛を貫くのはたやすくありません。 だれよりも愛し合っていたはずの恋人や夫婦も、愛が冷めて別れてしまいます。 まして、2000年前の人をどうして愛し続ければいいのでしょう。 いつ訪れるとも知れない人をどうして待ち続ければいいのでしょう。 クリスチャンにとって、信仰とは、試練です。 パラダイスの門は狭いのです。
2 福音学は信仰ゆえに福音を守る
福音(Evangel)とは、キリストの教えです。 福音は、知るものではありません。 福音は、信じるものです。 ですから、福音を直接に研究の対象とすることは、避けられてきました。 神学(Theology)という分野はあっても、福音学(Evangelology)という分野はありません。
本来は神の言葉を理解しえないはずの人間にも、神が特別に人間の言葉で呈示する約束を「啓約(Covenant)」といいます。 キリストという形で、神が呈示した啓約が福音です。 ちなみに、神が人類に啓約を示すことを啓示(Revelation)といいます。 啓約の啓示を中心とする宗教を啓示的な宗教といいます。 福音は、条文の体裁をとってはいませんが、神が人類に示した約款なのです。 ちゃんと守ったら、恩寵を授け、天国に昇ることを許すという約束です。
ということは、福音は、人間にも読める言葉で書かれていることになります。 だとすれば、契約と同様に、解釈が問題になります。 そして、キリスト教では、福音の解釈をめぐって、公会議が開かれ、議論が戦わされ、異端とされた人もいます。 福音の意味を都合のいいようにねじ曲げたりする者は、今も後を絶ちません。 キリスト教にとって、異端は、不治の病のように身体をむしばみ、健康を損ないます。 福音は、教義のコア(Core)ですから、もっと厳密に追究されてもいいはずでしょう。
にもかかわらず、クリスチャンは、神や福音に対して、主知主義的なアプローチを忌避してきました。 その理由は、最大の異端たるグノーシス派(Gnosticism)の存在があったことです。 グノーシス(Gnosis)とは、「知ること」すなわち知恵あるいは知識という意味です。 ちょうどキリスト教がローマ帝国で広まりつつあったころ、キリストについて、グノーシス的な解釈がされ、支持されました。 グノーシス派は、善と悪というデュアリズム(Dualism 二元論)を神の領域にまで及ぼしました。
たしかに、善と悪は存在します。 でも、邪悪の存在は、神の責任ではないのです。 神は創造主であって、純粋に善たる創造主から創られる被造物は、創られた当初は、完全に善です。 神は、善ですから、善しか生み出しません。 意思ある被造物は、被造物であるがゆえに、だんだんと堕落して悪くなってしまうのです。 サタンや人間も、堕落してパラダイスを追放され、悪くなったのです。 リンゴの実が腐ったからといって、リンゴの木を責めますか。
ところが、グノーシス派は、父たる悪神と善たるキリスト(光明=光の子)という対立項で、キリスト教を理解しようとしたのです。 このような曲解は、クリスチャンにとって、とうてい受け入れられるものではありません。 父と子は等しいのです。
また、グノーシス派は、神とはなにかというアポリア(難問)を追究するのに熱心でした。 神に関するデュアリズム的な解釈も、探究心の結果です。 このような知識主義が信仰を疎かにする元凶だと、教父(Church Fathers)は、考えたのです。 だから、キリスト教では、主知主義は、最終的に信仰を危機に瀕させるという考えが根強いのです。
グノーシス的デュアリズムは、マニ教を介してパウロ派、ボゴミル派、カタリ派へと引き継がれます。 キリスト教に大きな脅威を与え続けました。 また、「不可知の知」あるいは「隠された知恵=奥義」の探求という性格は、オカルティズムやカバリズムと結びつきます。 これらの思想は、現代にいたるまで存続しています。 クリスチャンは、グノーシスの誘惑に打ち勝たなければなりません。
なお、グノーシス主義は、仏教に似ているという指摘があります。 たしかに、悟りによる解脱を信仰の中核にすえる点は、グノーシス派に類似します。 でも、神を前提にしているか否かが根本的に異なります。 仏教では、そもそも唯一絶対の神を認めません。 仏になるのは、あくまで人間です。 仏とは、解脱者であって、神ではありません。 つまり、仏は、かならず到達しうる存在、いつかは完全に会得されうる対象です。 であるならば、論争は、出家するかしないかといった方法論での次元の問題にすぎません。 仏教では、最終目標たる仏は、かならず達成することができるのです。 だから、仏教は、それはそれで完結したグノーシス・システムでしょう。 もっとも、大日如来が絶対化された後期の大乗仏教(密教)は、ほとんどグノーシス主義です。
グノーシス的思想は、ローマ・ビザンツ時代に、異端として追放されたました。 ですが、マニ教やゾロアスター教を介して仏教へと伝わったようです。 一方、キリスト教の異端たるグノーシス派は、神を前提にしています。 でも、被造物たる人間が、創造主たる神を完全に理解するのは、不可能です。 だとすれば、グノーシス派は、到達不可能な対象に近づこうという試みということになります。 いくら努力しても理解しえない対象を追究することになります。 グノーシス派が実りのない木にたとえられるのは、こういう理由からです。
3 福音はキリストとの啓約である
キリスト教では、神そのものを知ろうなどという試みは、そもそも不可能であって、無駄なはずなのです。 そのような努力をすべきではないのです。 キリスト教では、信仰とは、神を理解することではなく、神に認めてもらうことです。 神から敬虔な者と認めてもらえば、恩寵あるいは恵みを受けることができ、天国に行くことができるというのが、キリスト教なのです。 そして、キリストを介して神を愛し、神から愛されることこそが、敬虔の証だというのが、キリスト教の真髄なのです。 隣人愛や博愛がひいては神への愛にいたる道だとの不屈の信念が、クリスチャンに要求されるのです。
こうして素直に考えれば、神学や福音の研究は、信仰に反する行為だということになりそうです。 しかし、福音を研究するのは、完全なる間違いなのでしょうか。 福音の研究そのものが信仰ではないと理解したうえで、福音を論理(logic)として研究することまで、キリストは禁じたのでしょうか。
研究には、実体の本質の探究と事象の関係の探求とがあります。 神の本質には及ばないけれども、神と人間、父と子と聖霊の関係を研究するのは許されるのではないでしょうか。 神学も福音学も、後者としては、成立しうるのではないでしょうか。 つまり、神そのものを知り、理解することはできないけれども、神の啓約を知り、理解することは可能です。 たとえば、カトリックでは、教会を通じてでないと、神の恩寵を受けられないとしてい ます。 これは、キリストが「神の家」すなわち教会を建てろと命じた点を重視しているためです。
一方、プロテスタントは、教会を軽視するわけではありませんが、信仰の、神と個人との契約という側面を重視します。 この立場の違いは、深刻な事態を招き、多くの犠牲者を出しました。 このような対立は、すべてが福音の解釈の問題から発生したというわけではなく、経済や政治の軋轢も大きな原因でした。 つまり、王侯貴族の支配体制と手を組んで富と権力を押さえていたカトリックに対する新興産業階級のチャレンジという階級闘争の色彩も濃厚でした。 しかし、福音の解釈に対立がなければ、宗教的抗争に発展するのは避けられたはずです。 キリスト教の歴史に、汚点を残さないで済んだでしょう。
初めに、言葉があった。
言葉は、神とともにあった。
言葉は、神であった。(ヨハ 1:1)
言葉(Word)とは、ロゴス(Logos)つまり論理(Logic)です。 キリストは、神の論理そのものという側面があります。 でも、論理は、空論ではありません。 論理は、実在性をつまり実体を決定します。 そもそも、福音とは、論理そのものなのではないでしょうか。 ゴスペル(福音書)を神の言葉だとするならば、福音を正しく理解するにはやはり研究が必要なのではないでしょうか。 言葉は、学ぶものですから。 愛に言葉は要らないとしても、言葉は、愛に寄与することはできるでしょう。
こうした考えから、ゴスペルを中心に、新約における論理を探ろうというわけです。 キリストは、使徒に福音の論理を授けました。 福音書を注意深く読めば、すべて書かれているのがわかります。
おまえたちに言葉と知恵を与えよう。
いかなる反対者も、否定しえず、反論しえまい。(ルカ 21:15)
キリストを受け入れることは、福音を信ずることすなわち魂の福音化(Evangelization)です。 そして、それは、神と契約することでもあります。 その意味で、クリスチャンは、「啓約の民(People of the Covenant)」なのです。 日本で、キリスト教が人気がないのは、日本が契約社会ではない(なかった)からかもしれません。 ユーロ・アメリカの企業と取引すると、契約書が分厚いのに驚きます。 キリスト教社会では、契約こそが信じられるすべてなのです。
契約には、義理も人情も入り込む余地はありません。 ヨーロッパでは当たり前のようなデモクラシーでさえも、「社会契約」という契約として理解されて、やっと定着しました。 不幸にして、日本は、福音から遠ざけられています。 300年にわたる迫害と弾圧は、キリスト教に対する誤解と偏見の源泉になっています。 アメリカ人がクリスチャンだったせいでしょうか、戦後になっても、キリスト教への反感は続いています。 でも、人間として生まれたからは、人種や民族に関係なく、すべての人が福音を授かる権利を有します。 キリストおよび福音に対して、素直に向き合う人が増えてくれれば、これに優る喜びはありません。
そして、イエスは、来て使徒に言った。いわく、
天においても地においても、すべての力がわたしに与えられている。
それゆえ、行け、おまえたち。そして、すべての民族を教え、
父と子と聖霊の御名において洗礼を施せ。
人々を教え、わたしがおまえたちに命じたこと一切を示せ。
そして、ほら、わたしは、いつもおまえたちとともにいる。
世の終りの時までも。(マタ 28:18,19)
4 聖書は読まれるべく啓示された
キリスト教に興味を持ったら、聖書を読まなければなりません。 そもそも、バイブルが成立して 1000 年余もの長きにわたり、カノンを読めたのは、ごく一部のエリートにかぎられていました。 聖職者と権力者です。 一般の信者は、まず、文字が読めなかったのです。 司祭の教説を通してしか、バイブルに接することはできなったのです。
ヨーロッパでは、日曜日にミサの中継をやっています。 儀式の中で、豪華なブックカバーに入ったバイブルをありがたそうに掲げたりしています。 ここに、ゴスペルすなわち神との啓約がたしかにありますと、示しているのです。 グーテンベルク( Gutenberg )が活版印刷を可能にし、ルター( Luther)らがラテン語、ギリシャ語そしてヘブライ語から、自国語に翻訳するまで、庶民は、バイブルを読むことなどなかったのです。
でも、彼らは、れっきとしたクリスチャンでした。 福音は、バイブルを読むことで得られるわけではないのです。 司祭や牧師の話からで十分なのです。 しかし、今や大多数の人が日本語でバイブルを読めるのですから、すばらしいことです。 こんなチャンスを逃す手はありません。 だから、バイブルを読みましょう。
では、バイブルをどう選ぶべきでしょうか。 バイブルは、新約がコイネー( Koine)と呼ばれるギリシャ語、旧約がヘブライ語で書かれています。 そして、カトリックでは、「ウルガータ( Vulgate)」という口語訳(聖ヒエロニムス訳)がカノンとされています。 つまり、ギリシャ語とヘブライ語とラテン語が読めると、バイブルをオリジナルで読めます。 もっとも、原典で読まなければならないわけではまったくありません。 福音の本質は、翻訳によって変わるわけではありません。 なぜなら、福音は、論理だからです。 言葉の違いで内容が変化するものではないのです。
しかし、翻訳に出来不出来は、付き物です。 バイブルの英訳だけでも、数十種類あると言われています。 最も普及しているのは、欽定版( KJV)と呼ばれるものですが、専門家の中には、訳を批判する人もいます。 日本語訳も、いくつかあるようです。 わたしは、原典を読めないので、いったいどの訳が一番いいのか、判断することができません。
でも、あまり神経質になることはないと思います。 一般に売られているものなら、致命的な誤訳は、おそらくないはずです。 ただ、こなれた日本語訳には、ちょっと注意が必要です。 東地中海の乾燥した風土で生まれたバイブルを日本の温暖で湿潤な土壌に根づかせるには、まだ時間がかかりそうです。 福音は、約款であり、厳密です。 日本語では、どうしても福音の厳しさが伝わってこないような感じがします。 余裕のある人は、 KJV や独訳(ルター訳)と比較してみたほうがいいでしょう。 わたしが KJV を直訳しているのは、そのためです。
5 福音書は歴史ではない
そこで、張り切ってバイブルを手に取るわけですが、バイブルは、旧約と新約を合わせると、かなりのボリュームになります。 最初から最後まで読破しようとすると、忍耐を要します。 しかも、初心者にとって、小説やエッセイと違って、読んでいておもしろい内容ではありません。 訳のわからない人名や地名で、脳が混乱するでしょう。 多くの人がジェネシス( Genesis 創世記)からキリストの現れるゴスペルまでたどりつく前に、へばってしまうでしょう。 そして、自分は、クリスチャンになれないのだと思い込んでしまうかもしれません。 残念なことです。
だから、いきなりゴスペルから読みましょう。 というより、まずゴスペルから読むべきなのです。 クリスチャンにとって、バイブルは、ゴスペルに始まり、ゴスペルに終わるのです。 なぜなら、ゴスペルには、福音すなわちイエスの「血の遺言」のすべてがあるからです。 ゴスペルなくして、キリスト教は、ありえません。 ゴスペルを読めば、他のカノンがどんな位置づけになるかは、自然にわかってきます。
では、 4 つあるゴスペルのうち、どれから読めばいいでしょうか。 素直に聖マタイから始めて聖マルコ、聖ルカ、聖ヨハネと読めばいいでしょう。 カノンを編纂したときに、一番すんなりと読めるように並べたのでしょう。 もっとも、絶対にこの順番を守る必要は、まったくないでしょう。 マタイの書は、激情的なので、初心者には、ちょっと読みにくいかもしれません。 ルカの書がむしろいいかもしれません。 ルカの書は、明らかにギリシャ人が読むために、伝記風にまとめられており、記述も客観的です。
ただし、ヨハネの書は、最後がいいと思います。 書かれたのも、おそらく最も遅いはずですし、ヨハネの神学の理解があったほうがいいので。 また、マタイやルカには、イエスの系譜が記されていますが、最初は、読み飛ばしましょう。 暗記しようなんてもってのほかです。 イエス・キリストの本質は、血統ではないからです。
ゴスペルを読むにあたって、重要なことは、伝記あるいは歴史書として読んではならないということです。 新約と旧約の「約」は、証言 (Witness) あるいは遺言( Testament)ですが、まさに、ゴスペルは、4人の使徒による信仰の証だということです。 つまり、客観的に事実を記述したテキストではありません。 作者の個人的な信条の表明なのです。 福音書記家は、いわば法廷で宣誓し、証言したのです。 「主イエス・キリストに誓って、わたしが見聞きしたことは、このとおりで間違いありません」と、言っているのです。
神は、宇宙が始まる前からずって存在しており、宇宙が終わった後もずっと存在します。 だから、そもそも、神についての歴史などあるはずがないのです。 歴史の対象は、被造物の世界だけです。 ですから、ゴスペルの記述を相互に比較してつじつまが合っていないとか、文句をつけるのはやめましょう。 無意味なことです。 レコードではないのですから。 個人の証言ですから、食い違いはあって当然です。
神 キリスト 愛
6 キリストは救世主ゆえに処女を選んだ
マタイのゴスペルを紐解くと、いきなりイエス・キリストの系譜があります。 これは、ひとまず飛ばすとして、次に、処女マリアの懐胎の話へと続きます。 アークエンジェル(大天使)のガブリエル( Gabriel )は、ヨセフのフィアンセのマリアの前に現れて、「おめでとう、マリア( Ave Maria )」と、神の子を身ごもったことを告げに来ました。 受胎告知( Annunciation )です。 マリアの当惑ぶりがかわいいです。 身に覚えがないのに妊娠したって言われたら、みんなビビります。
その後、ガブリエルは、ヨセフの夢枕にも現れます。 ヨセフは、マリアが勝手に妊娠したのを知って、彼女の世間体のために、どうやったらうまく婚約を解消することができるか、悩んでいたのです。 普通なら、厳しく問い詰めたりしてしまうでしょうが、ヨセフは、人間ができてます。 ガブリエルは、マリアが人間ではなく、聖霊によって妊娠したこと、男の子は、やがて救世主となるべき運命にあることを教えます。 ヨセフは、お告げを信じてマリアを妻に迎え入れます。
この処女懐胎 (Virgin Birth) を信じられないと、クリスチャンにはなれません。 すでにローマ時代には、処女マリアの懐胎がナンセンスだと、批判や中傷がありました。 レイプされたんだろうとか、浮気してたんだろうとか。 なるほど常識では考えにくいことです。 でも、性交渉がなくても、妊娠は、可能です。 人工授精は、頻繁に行われています。 もっとも、人工授精には、精子が必要です。 処女懐胎では、精子は、使われていません。 無精妊娠なのです。 これを受肉( Incarnation )といいます。 遺伝的には、イエスは、マリアの遺伝子だけを受け継いだクローンだということになります。
通常は、胎児が男性になるか女性になるかは、受精後の一定の期間で決定されるようです。 X染色体しかないマリアから、どうやってY染色体を生成されたのかは、不明です。 しかし、キリストがみずから言うように、父は、すぐにでも石ころからアブラハムを創り出せるのです。 神に不可能なことなどないのです。 なお、キリストは、女性だったのではなんて、妄想してはいけません。 神の子は、男の子です。 キリストが「父」の「息子 (Son) 」だと自称しています。
こんなことが現実にあるのかと、笑い飛ばしたくもなるでしょう。 つまり、これは、主イエス・キリストを受け入れるための最初のテストなのです。 この問題を解決するには、次のことを知っていなければなりません。 人間を救済することは、人間には不可能だということです。 救世主(メシア)は、人間の外から与えられなければならないのです。 では、救世主は、宇宙人でもいいのではないか、という意見があるかもしれません。 でも、宇宙人にも無理なのです。 なぜなら、宇宙人も被造物だからです。 創造主のみがメシアたりうるのです。
キリストとは別に人間や宇宙人のメシアを信じる者がいます。 しかし、創造主である神のほかに世界を救済しうる者はいないとすれば、被造物のメシアを認める必要などないことは、明らかです。 そのような迂遠な信仰は、いたずらに人生を複雑にし、神の国から遠ざけるだけです。
弟子たちは、心底驚愕して尋ねた。
では、いったいだれが救われるのですかと。
しかし、イエスは、彼らを見つめ、こう諭した。
人では、救うことは不可能だ。だが、神ならば、すべてが可能だと。(マタ 19:25,26)
救済とは、被造物の不完全性すなわち罪からのあがないにほかならないからです。 被造物の世界は、創造主を付加してはじめてコンプリート( Complete 完備)になります。 より劣った世界は、より優れた世界があってはじめて意味を持つのです。 この宇宙という未完の世界は、キリストによってのみ完成しうる (Accomplishable) のです。
わたしだけが、道であり、真であり、命だ。
わたしを通らなければ、だれも父のもとには行かない。
もし、わたしを知っているなら、父も知っている。
これからは、父を知っているし、父に会っている。・・・
わたしに会った者は、父に会ったのだ。(ヨハ 14:6,7,9)
こうして、マリアの処女懐胎を認めるにしても、マリアを福音的にどう位置づけるかは、カトリックとプロテスタントでは、大きく異なります。 早くも 2 世紀には、マリアを神聖視する傾向が出てきます。 マリアが死ぬとき、キリストがマリアを天に引き上げたというのです。 天国では、キリストによって戴冠され、キリストの隣に座す存在です。 これを聖母の被昇天といいます。 キリストは、神なので、能動的に自力で昇天したのですが、マリアは、キリストが引き上げたのです。
この話は、バイブルにはありません。 しかし、キリスト教には、カノンにはされていないけれども、アポクリファと呼ばれる文書があり、さらに、多くの黙示文書があります。 マリアの神聖視は、民衆信仰の中で高まり、教会にも取り入れられていったと推察することができます。 こうしたマリア崇敬は、 16 世紀になって、マリアの無原罪という形で、正式な教義とされました。 原罪を背負うのが人間であるならば、マリアは、人間を超越した存在ということになります。
これに対して、プロテスタントは、マリアの処女懐胎を認めても、それは、マリアが特別だったからではなく、神であるキリストが選んだからだと考えます。 もし、マリアに美徳があるとすれば、キリストによってマトリックス( Matrix 母胎)に選ばれた点だということです。 なぜ、マリアが選ばれたのかは、まさに「神のみぞ知る」です。 ダヴィデの血を引く年頃の娘がほかにいなかったからかもしれません。 いずれにせよ、マリアには、なんの選択権もなかったわけです。 マリアが処女で懐妊したのも、マリアに特別な力があったからではなく、まさに神の御業すなわち奇跡 (Miracle) です。
では、マリアは、福音においていかなる役割を果たしたでしょうか。 ゴスペルから「黙示」までを読んでも、マリアの活動は、ほとんど見出せません。 キリストに母に選ばれ、聖霊に満たされたり、処刑を見届けたりはしていますが、これらの点では、使徒も同格です。 マリアに関して、特別な働きは、言及されていません。 だから、プロテスタントは、マリアを神聖視しません。 この点は、カトリックとプロテスタントとの間の大きな溝となっています。 もともと、マリアの無原罪は、宗教改革と対抗改革の対立が激化した時代に成立したドグマ (Dogma) であり、敵意と危機感が強い教義です。 また、聖母崇敬が過ぎると、キリスト信仰がかすんでしまいかねません。 キリストが、マリヤから生まれたのは事実なので、「テオトコス(聖母)」と呼ぶのは間違いではありませんが、マリヤは、神に選ばれたがゆえに尊いのです。 キリストあってのマリヤであって、マリヤあってのキリストではありません。
7 キリストの実在を疑ってはならない
ここで、マタイとルカの記したイエス・キリストの系譜の意味について、ここで、触れておきましょう。 前述のように、一般の信者は、先祖がどこのだれでどういった人物かについて、深入りする必要はまったくありません。 これらは、イエスがダヴィデの血統、すなわちアブラハムの子孫であるということを示すものです。 なぜ、イエスがダヴィデの末裔でなければならないのか。 それは、旧約で、イザヤが、預言していたからです。
エッサイの幹から一筋の枝が伸び出るだろう。
そして、大枝は、その根から生い出るだろう。
そして、主の霊は、彼の上にとどまるだろう。(イザ 11:1,2 )
エッサイは、ダヴィデの父です。 福音では、旧約は、福音の預言なのです。 マタイの系譜によれば、キリストは、男系でたどれば、ダヴィデ、さらにはアブラハムまで至ります。 もっとも、この系譜は、キリストの形式的な戸籍上の系譜にしかすぎません。 なぜなら、キリストにヨセフの血は、一滴も流れていないからです。 処女懐胎ですから。
だとすると、キリストはダヴィデの子孫ではないではないかという批判がありえます。 でも、そこは、ルカが見事にカバーしています。 ルカは、キリストの女系をたどり、マリアがダヴィデおよびアブラハムの子孫であると示しています。 キリストには、マリアの血は流れていますから、実質的にもキリストは、ダヴィデの末裔だということです。 さすがは医者のルカです。
もっとも、イエス・キリストは、血統というものを重視しませんでした。 イエスは、自分がダヴィデの末裔だという評判を否定しました。
それゆえ、ダヴィデが彼を主と呼ぶのに、
では、どうして彼がダヴィデの子だろうか。(ルカ 20:44 )
自分の親兄弟よりも弟子こそが真の家族だとも言っています。
天にいるわが父の意思を行う者はみな、
わが兄弟、姉妹、母も同じだ。(マタ 12:50 )
なによりも、ユダヤ人だけでなく、世界中の民族を教化するようさとしました。 キリストがゴルゴタで流した血は、無色な神の血だったのです。 キリスト教が世界宗教( World Religion )たるゆえんは、ここにあるのです。 クリスチャンが世界市民( Cosmopolitan )であり、キリストの名のもとに兄弟( Brethren )であるべきなのも、同じ理由からです。
話は、脱線するのですが、先ごろ天皇の継承資格を女系にも広げようという政府の答申が出されました。 これに対して、天皇は、神武天皇(ジンム Jinmu )からすべて男系で継がれてきたのだからと、反対する意見があります。 反対意見の論拠の一つとして、男系を守らないと、神武天皇の血すなわちY染色体が失われてしまうという危惧があるようです。 Y染色体というのは、男性を決定する遺伝子です。 女性はXX、男性はXYという染色体の違いが性差になっています。
でも、まず、Y染色体というのは、本当に代々変わらず受け継がれるのでしょうか。 染色体は、Y染色体にかぎらず、変異していくことは考えられないのでしょうか。 もしY染色体が永久に不変だとするなら、男性のY染色体は、すべて同一ということになります。 つまり、アダム( Adam )のY染色体です。 人類がすべてアダムとイヴ( Eve )の子孫だというバイブルの記述を認めなくても、人類学的に、人類がきわめて少数のグループから始まったというのが定説です。
だとすれば、Y染色体がざっと 15万年くらい不変に受け継がれてきたとすれば、その種類は、ほとんどかぎられてくるはずです。 現代の人類の最初の祖先を{アダムn、イヴn}( n=1,2, … 12 )というカップルとすれば、すべての男性の先祖は、グループのいずれかのアダムに行き着きます。 アダム1 なのか、アダム2 なのかはわかりませんが、アジア人の男性なら、みんな同じかもしれません。 つまり、神武天皇のY染色体も、格別なものではないことになってしまいます。 また、仮にY染色体も長年のうちに変異するのだとすれば、現在の天皇のY染色体が神武天皇のものと同一である保証はなくなってしまいます。 いずれにせよ、Y染色体を根拠に男系の維持を主張するのは、説得力がなさそうです。 わたしは、伝統を守ろうとという考えも尊いと思います。 側室制度を復活させるとか、天皇家を拡張するという議論もありますが、現代の医学なら、科学的に子供を持つことも可能でしょう。 どんな手法で生まれようが、人は人です。
さて、話をキリストに戻しましょう。 この世には、キリストが実在しなかったと主張する人々が多数います。 まず、レコードがないとか、考古学的な証拠がないことを理由にする人々です。 でも、オフィシャルな正規の記録がなければ、実在を信じないというのは、どうでしょう。 あなたの遠い先祖は、戸籍が残っていなくても、確実にいたはずです。 世界に数十億のクリスチャンがいるのに、キリストがいなかったというのは、納得できません。
さらに、キリストは、幻だったと主張する人々がいます。 キリストの誕生から磔そして復活までは、すべては、夢幻だと主張します。 彼らは、そういうキリストを信じるのだと。 これは、キリストに被造性( createdness )しか認めないユニテリアニズム( Unitarianism )に連なる思想です。 グノーシス派の後も、中世には多くの異端がありましたが、最も強大であったパウロ派( Paulicians )やボゴミル派( Bogomils )やカタリ派( Cathari )は、いずれもキリストの実在性に否定的だったのです。 イスラム教でも、イーサー(イエス)の磔刑は、幻覚だとしています。
しかし、このような主張は、もはやクリスチャンのものではありません。 相対主義者が絶対の真実はないと断言すると、自己矛盾になります。 いわゆる「ウソつきのパラドックス」です。 ウソつきが「わたしは、ウソつきだ」と、本当のことを言ったら、どうなるでしょうか。 彼の発言は、ウソなはずですから、彼は、正直者ということになります。 これは、彼がウソつきだという前提に反します。 ウソつきは、最後までウソをつきとおさなければなりません。 真実を語ってはいけないのです。 絶対を認めないのであれば、絶対だと断言してはいけないのです。 逆に、絶対を認めるのであれば、あくまで絶対を認めなければなりません。 キリストを認める者は、とことんキリストを認めなければなりません。
神が存在するか、しないかという質問に、70%は存在するけど、30%は存在しないなんて回答されて、納得することができますか。 神は、存在するかしないかのどちらかでしょう。 それら以外のいかなる回答も、答えになっていません。 そして、神が存在するならば、100%存在するのです。
8 終末の裁きは被造物の宿命である
唯一絶対の創造主を認め、この世界を、霊も肉もすべて被造物だとするならば、被造物には終末がなければなりません。 なぜなら、永遠という性質は、創造主である神だけの特権であって、被造物には許されないはずだからです。 被造物は、あらゆる意味で有限であって、無限ではありえません。 でも、永久は無理でも、半永久なら許されるのではないかと、考える人もいるでしょう。
しかし、キリスト教では、終末は、終わりであると同時に、裁きでもあると考えます。 最後の審判です。 単なる最期ではなく、善と悪が分別され、善は、天に入ることを許されますが、悪は、いわゆる地獄へ落とされます。 なぜ、このような審判が必要なのでしょうか。 それは、神が人間を愛しているからです。
もともと、神はアダムとイヴを愛していましたが、二人は、神の命令に背いたために、エデン (Eden) を追放されてしまいます。 これが、原罪です。 人間は、前科者なのです。 でも、神は、人間を見捨てませんでした。 人間がいつの日か神と同じ次元に戻って来れるよう、配慮していました。 まず、アブラハムの子孫のヤコブの民すなわちイスラエル人を選び、啓約を結ばせました。 これが、モーセの十戒です。
しかし、イスラエル人は、神の期待に応えることができませんでした。 イザヤなどの預言者は、イスラエル人に失望し、救い主すなわちメシアの到来を切望したのです。 彼らは、まだヤコブ‐イスラエルの民の栄光に望みをつないでいました。 しかし、神は、もはやユダヤ人だけに特権を与えようとはしなかったのです。 神は、みずからキリストという形で降臨すると、ユダヤ人が父の期待を裏切ったことを非難し、今度は全人類を救済するスキームを提示したのです。 これが、福音です。
では、神がイスラエル人に示した啓約いわゆる旧約と全人類に示した啓約いわゆる新約の関係は、どうなのでしょうか。 四とおりの考え方がありえます。 第一は、古い啓約も新しい啓約も、いずれも無効であるとするものです。 第二は、古い啓約は有効で、新しい啓約は無効であるとするものです。 第三は、古い啓約も新しい啓約も、いずれも有効であるとするものです。 第四は、古い啓約は無効で、新しい啓約は有効であるとするものです。
第一と第二は、新約が無効だというのですから、クリスチャンとしては、採用しえません。 ちなみに、第一はイスラム教の、第二はユダヤ教の考え方です。 イスラム教では、最終預言者であるムハンマドが第三の啓約(コーラン)を啓示したので、バイブルは、預言としての意味しかありません。 ユダヤ教では、キリストは、神の子をかたった極悪人であり、ユダヤの神を冒涜した罪人なので、福音が啓約であるはずがありません。 したがって、クリスチャンとしては、第三か第四のいずれかを採用することになります。 いったいどちらが正しい解釈なのでしょうか。
この点について、クリスチャンは、第四の考え方をとっています。 というのも、まず、旧約が啓約としていまだに有効だとすると、ユダヤ人だけが神の民であるとする内容と、全人類が神の民となりうるという内容とが、衝突します。 さらに、新約の意義が相対的に弱められてしまいます。 キリストが現れるのは、新約なのですから、新約こそが啓約なのであって、旧約は、副次的な意味しかないと考えるのが自然です。 これに対しては、イスラエルの民が神に最初に選ばれたという事実の意義は、失われておらず、ユダヤ人は、福音においても、クリスチャンを先導する地位にあると、批判する人がいます。
しかし、ゴスペルにおけるキリストの言動からは、ユダヤ人であることは、罪です。
そして、イエスは十二使徒に言った。
まことに、おまえたちに言う。
人の子が栄光の玉座に着く、世が改まるとき、
わたしにつき従ったおまえたちも、
12 の玉座に着き、
イスラエルの12 の部族を裁け。(マタ 19:28 )
そもそも、ユダヤ人が神に背かなければ、キリストが地に下り立ち、新たな言葉をもたらす必要はなかったのです。 福音では、ユダヤ人は、終末まで生き残り、断罪されなければなりません。 ユダヤ人で救済されるのは、12 の部族から12,000 人ずつの144,000人と定められています。 彼らだけは、クリスチャンになることで、有罪を免れます。 キリストがユダヤ人として来たのは、古い啓約を新しい啓約に切り替えるためでした。
なお、第三の考え方は、メシアニック・ジュー(Messianic Jew)という宗派が主張しています。 これは、キリスト教ではなく、メシア教(Messiahism)あるいはメシアニシズム(Messianicism )です。 彼らは、ユダヤのメシアということだけで、キリストを認めます。 キリストは、たしかに救い主ですが、ある特定の民族やグループだけを救済するわけではありません。
終末は、人間だけに訪れるのではありません。 ユニバース(Universe )に来るのです。 つまり、キリストは、全宇宙を裁き、救済します。 終末において、新たなる過越しを祝うことが許されるクリスチャンの霊魂を除き、すべての被造物は、滅却されます。 そして、キリストによって、新たなる天地が創造され、世界は、完成します。 クリスチャンは、新約だけを啓約と認める者です。 神が一つなら、啓約も一つ、啓約が一つなら、神も一つです。 山には、頂上は、一つしかありません。 もし、頂上がいくつもあるなら、それらは、別の山です。 クリスチャンが同時にユダヤ教徒やイスラム教徒であることは、論理的にありえません。 古い啓約は、破棄されたのです。
このように唯一の啓約として福音が示されたわけですが、この世には、福音を受け入れる者と受け入れない者とがいます。 福音を受け入れなかった者は、ユダヤ教徒とイスラム教徒を除き、異教徒です。 ユダヤ教とイスラム教がどう教えているのかは、わたしは、関知しません。 異教徒は、ただ無に帰します。 また、クリスチャンとなって福音を受け入れても、約束に違反する者もいます。 福音を守らなかった者も、福音に忠実であった者と同様に救済されるとすれば、不公平です。 契約を破った者には、ペナルティ (Penalty 罰) が与えられなければなりません。 つまり、最後の審判とは、啓約を守ったかどうかを判定し、守った者には栄誉 (Glory) を、守らなかった者には懲罰(Punishment) を与えることです。
天国には、メタトロン(Metatron )という書記がいて、クリスチャンの言動や心情を漏れなく記録しています。 彼のおかげで、天国に入ることを許される選抜者 (Selectee) の名前は、「ほふられた子ヒツジの命の書(The Book of Life of the Lamb Slain )」に、世の始めから、記されています。 つまり、だれがクリスチャンになり、だれが合格するかは、神にはお見通しです。 これを予定(Predestination) といいます。
だったら、教会にいくら熱心に通っても、たくさん寄付をしても、関係ないじゃないか、と思うかも知れません。 でも、クリスチャンは、救いを信じて行動するしかないのです。 救済は、キリストの一存ですから、神の専権に、人間が文句を言う資格などないのです。 すべては、運命(Destiny) ということです。 でも、福音を信じた者の望みは、かならずかなうのです。 キリストは、約束を守ります。
こうなると、終末がいつ訪れるのか、気になります。 でも、キリストは、父しか知らないなどと、とぼけています。 だって、もし最後の時期がわかっていれば、緊張感がありません。 いつくるかわからない、明日にでも来るかもしれないと心配がなくなってしまうと、人は、まだ大丈夫だなんて油断してしまいます。 たいていの人間なんて、怠け者ですから、直前にならないと、奮起しません。 終末の時を教えれば、人が神をないがしろにしてしまうと、キリストは、あえて教えなかったのです。
ちなみに、バイブルでは、終末について語った人が二人います。 ダニエル(Daniel )とヨハネ(John )です。 もっとも、ヨハネは、終末の時期については、語っていません。 最後になにが起きるのかを語りました。 でも、ダニエルは、時期について、ガブリエルから教えてもらいました。
そして、日々の供物が取り除けられ、
悲劇的な忌まわしい行いが執り行われる時から、
千二百九十日があろう。
幸いなるかな、待ち続け、
千三百三十五日にたどり着く者は。(ダニ 12:11,12 )
キリストの処刑という蛮行から、千二百九十日で、なにか恐るべき事態が起こるようです。 さらに、それと同じ期間、さらなる試練があるようです。 そして、四十五日後に、なにか喜ばしい結果が現れるようです。 ちなみに、神にとって、地上の千年が一日にあたります。 だとすると、まだ時間は、たっぷりあることになります。 もっとも、ダニエルの預言どおりかは、保証できません。 神は、人間が怠惰なのをよく知っています。 心変わりもありえます。 クリスチャンとして生きるからは、チャンスは、一度きりですから、なんとしても、天国への登竜門をくぐらなければなりません。
9 キリストへの帰依のみが贖罪の道である
キリストが磔にされたことで人類が贖罪(Atonement )されたという意味についても、正確にしておきましょう。 人間には、原罪があります。 これは、アダムとイヴが神に背いてエデンを追放された前科です。 だったら、キリストが自己を犠牲にして罪を背負って処刑されたことで、原罪は、消滅したんじゃないかと、疑問に思うかもしれません。 なるほど、キリストは、原罪をあがないました。
でも、正確に言うと、原罪が消滅したわけではないんです。 犯罪者が有罪とされ、懲役に処されたとしましょう。 服役して刑期を終えて出所しても、彼の犯罪者の記録は、消えません。 罪を犯したという事実は、消せないのです。 キリストの贖罪は、恩赦のようなものです。 でも、恩赦があっても、犯罪の履歴がチャラになるわけじゃありません。 その意味で、原罪は、まだあるのです。
もっとも、原罪の意義は、キリスト前 (Before Christ) とキリスト後 (After Christ) では、変わりました。 キリスト前の原罪すなわち旧約の罪は、アダムとイヴの罪ですが、これは、遺伝形質によって受け継がれました。 人間が人の子として生まれたからは、逃れようもない罪です。 カトリックがマリアの無原罪にこだわるのは、もしマリアが原罪によって汚れていたなら、マリアの血を受け継いだキリストも原罪に汚されていたことになってしまうではないか、という理由もあるのです。 原罪に犯されている者がどうやって原罪をあがなえるのか、という指摘です。 これも、原罪が遺伝すなわち血によって受け継がれるという前提があるからです。
でも、キリストが原罪を受け継いでいなかったのであれば、キリストの人性 (Human Nature) を弱めることになります。 つまり、キリストは、人間としても神としても、過不足なく完璧だったのですから、人であるのに、原罪を負っていなかったら、人性において完全ではなかったことになります。 だから、キリストが完全に人間的だったと認めるなら、原罪もあったとするのが自然です。 キリストは、死んでよみがえったこと、復活 (Resurrection) によって、みずからの原罪を払拭したのだと考えれば、問題ないでしょう。 このようなキリスト前の原罪がキリストによってあがなわれると、どうなったのでしょうか。
一言で言うと、原罪は、肉体的なものから、精神的なものに変化したのです。 つまり、キリストは、無条件に人類の原罪をあがなったのではありません。 キリストを受け入れる、福音を受け入れるということの見返りに、原罪をあがなってやると、約束してくれたのです。 つまり、キリスト後の人類にとっては、原罪は、肉の罪 (Gilty of the flesh) 、先天的な罪悪ではなく、霊の罪 (Gilty of the soul) 、後天的な罪悪になったわけです。 精神の福音化こそが、キリスト後の人間には、要求されることになったのです。 啓約を受け入れなければ、原罪は、霊的な穢れとして残存します。 その汚点は、癌のように増殖します。 精神をむしばんでいき、精神を悪魔化していくのです。 キリストを拒否すると、サタンにくみすることになるでしょう。 だから、この霊的な原罪を祓うために、教会は、洗礼を授けるのです。
ただし、異教徒の全部がアンチキリスト (Antichrist) の陣営に加担することになるわけではありません。 異教徒でも、キリストに敬意を払った者は、死ぬと、クリスチャンになれるように、両親がクリスチャンの家に生まれ変わります。 こうして、多くの異教徒が輪廻 (Recycling) により、キリストの道に踏み出しています。
でも、キリストを憎んだ者には、チャンスが巡って来ません。 むしろ、ますますキリストから遠ざかっていきます。 このような選別(Selection) が宇宙では繰り返されていきます。 そして、クリスチャンと非クリスチャン (Non-Christian) とは、世代を重ねるごとに、たがいに遠い存在になっていきます。 やがて来るべき最後の時まで、このような分別が繰り返され、人類は、ふるいにかけられて選り分けられていきます。
なお、キリストが再臨する審判の時における再生 (Rebirth) である復活と、通常の輪廻による魂の循環 (Circulation) とは、区別しなければなりません。 クリスチャンとして人生をまっとうし、無事にパラダイスへのチケットを手に入れた者は、輪廻の苦しみを味わうことはありません。 「命の書」に名が記されていれば、魂は、世の終わりの時まで神の国で待機し、天なる者 (The Celestials) として、キリストと審判の準備をします。 名前がない者だけが、生まれては死にを反復し、喜怒哀楽に振り回され続けるのです。 それが嫌なら、早くキリストを受け入れ、教会の門を叩きましょう。 選ぶのは、自分自身です。
10 神は愛するために降りた
さて、キリストの実在を肯定して、ゴスペルを読んでいると、疑問がわいてきます。 キリストは、父である神( Father-God )に呼びかけたり、祈りかけています。 父( Father Abba )と子( Son )が同じなら、どうしてキリストは、天に向かって語りかける必要があるのでしょうか。
でも、ここに、キリストが人々を試しているのが見て取れます。 キリストは、あたかも父なる神と子なるイエスが別物であるかのごとき振りをしているのです。 そして、最後に復活を示して父と子が等しいことを実証して見せるのです。 身体がかすみ、雲が割れ、天がバラの花のように開き、まぶしさときらめきの中で、主は昇ったのです。
彼らが見ていると、キリストは、引き上げられ、
雲に受け止められ、見えなくなった。(行為 1:9 )
しかし、父と子の同一性を疑う主張は、後を絶ちません。 「父が先で、子は後だ」とか、「子は父に従う」とか、「イエスは神の養子だ」とかいう主張がされました。 あるいは、「子は父の影だ」とか、「キリストは幻だった」とかいう意見もありました。 こういった異端には、そろそろウンザリします。
キリスト教に関する誤解で、特に日本に多いのは、キリスト教は、ユダヤ教やイスラム教に比べて、緩やかな一神教だという意見です。 つまり、キリスト教は、不完全な一神教だというのです。 聖母崇敬や聖人制度も、厳密な一神教ではないからだと、もっともらしく主張します。
しかし、そもそも、神が唯一絶対なのは、論理的に自明のことです。 問題は、むしろ神と人間との関係をどう説明するか、という点にあるのです。 ただ神を一つしか認めないというだけなら、ただの単神論( monotheism )にすぎません。 単神論としては、ネオ‐プラトニズム( Neo-Platonism )などがあります。 でも、キリスト教もユダヤ教もイスラム教も単神論を当然の前提として、神がいかなる方法で人間と交流を持つのか、という点が最大のポイントなのです。 唯一絶対である神がどうやって人間に啓約を呈示し、帰依を求めるか、というところが、大切なのです。 そして、ここでキリスト教とユダヤ教とイスラム教は、異なるのです。
よく、異教徒は、こう主張します。 ユダヤ教も、キリスト教も、イスラム教も、唯一の神を信じるから、結局、同じ神を信じていると。 ヤーウェも、キリストも、アラーも名前が違うだけで、同じだと。 これは、啓約の重要性が理解できていないためです。 啓約が異なれば、神が異なるのです。 単なる名称の違いではありません。 そして、異なる啓約は、論理的には両立しません。 同じ人間が複数の啓約を神と結ぶことはできません。 人は、いずれか一つの啓約を選ばなければなりません。 二足のわらじをはくことは、神に対する非礼であり、冒涜です。 もちろん、異なる啓約の民が、現実において、たがいに敬愛しあい、平和的に共存するのは、可能なことです。
神が人間に啓約を示す方法として、まず考えられるのは、人間のうちから、代表者を選んで、啓示を述べ伝えさせるというやり方です。 ユダヤ教です。 ヤーウェ( Yahweh )は、モーセ( Mose )を見出し、啓約を示し、自分の教えを民に伝えさせました。 つまり、モーセは、神によって選ばれたメッセンジャー (Messenger) です。 十戒において、モーセ自身は、自分の考えをなにも表明していません。 彼は、神がみずから書いたタブレットを持ち帰り、みんなに示してヤーウェへの帰依を呼びかけたのです。 その後も、モーセは、常に神に命じられたことを、右から左にイスラエルの民に伝達したのです。
また、第二の方法として、神が身近な者から、信頼できる者を人間のもとに遣わして、啓約を呈示するというやり方もあります。 イスラム教です。 アラー( Allah )は、部下であるムハンマドを地上へ代理人として遣わしました。 ムハンマドには、神の啓示を述べ伝える預言的な権威が与えられていました。 彼は、神の代理人として、自分によって神に帰依するよう民に求めたのです。 地上の者は、神と直接に約束を取り交わすことはできず、あくまでムハンマドを唯一の窓口として、アラーを受け入れるのです。 ムハンマドは、エージェント (Agent) なのです。 このように、ユダヤ教でも、イスラム教でも、人間もしくは神の僕という被造物によって、啓約が示されました。
では、キリスト教では、どうでしょうか。 キリスト教では、父は、みずから地上に降臨して、直接に民に啓約を呈示しました。 つまり創造主たる神が人間のもとに、降りて来てくれたのです。 なんと畏れ多く、すばらしい出来事でしょう。 神は、愛する人類のために、使者や代理人を通じてではなく、本人がみずから出向いて教えたのです。 これこそが、キリスト教が他の一神教と異なる点です。 福音が神と人間の間で、直接に取り交わされる約束だという根拠も、ここにあるのです。 なによりも、福音が神の愛すなわちアガペー (Agape) の証だということが、示されています。
神がこの世に直接やって来るなんて、ありえないと、ユダヤ教徒やムスリム( Muslim )は、非難します。 これに対しては、次のように反論します。 もし、神が地上に現れないのなら、神がこの世界との関わり合いを否定するなら、どうして滅びゆく人間などに、帰依を要求する必要があるだろうと。 人間などほっておけばよいではないかと。 なぜ、下種な被造物と啓約を結び、栄光を約束してやらなければならないのかと。
この地球など、全宇宙に比べれば、塵芥です。 このユニバースには、想像を絶するほど途方もない量の富があるでしょう。 それは、すべて神のものです。 しかも、神は、それを一瞬で無にしたり、また幾千倍にも増やしたりすることができます。 ですから、なにも宇宙の片隅のこの小さな惑星にいる人類のことなど、気にすることはないでしょう。
にもかかわらず、神が人間を気遣うのは、やはり神が人間を愛しているからだとしか、考えられません。 愚かな子供でも、親にとっては、愛しいのと同じです。 神は、人間を愛しているがゆえに、キリストすなわち人の子として、来たのです。 このように考えれば、キリストが完全な人間であり、完全な神であるということも、なんの不合理もないのです。 「父が子に先立つ」とか、「子は父の仮の姿だ」などという見解が成り立つはずもありません。
父は子であり、子は父なのです。 父から子が導き出され、子から父が導き出されます。 父と子は、まったく等しいのです。 だとすれば、キリストが天にいる父に祈ったり、伺ったりしても、それは、傍目には、そう見えても、実はただの独り言、自分への言い聞かせのようなものです。 キリストと神との間には、いささかの隔たりもなく、対話ではありえないからです。
11 トリニティは神の完全性の帰結である
キリストに神性と人性があると認めても、そのありようがどうなのかについて、さらに議論があります。 つまり、この二つの性質がキリストにおいてどうなっているのか、という点に関する話です。 一つは、カトリックやオーソドックスなどの説明で、二つの性質は、相反することなく完全に両立しているというものです。
もう一つは、ネストリウス派の影響を受けた説明で、二つの性質は、不可分に一体となっているというものです。 前者を両性説( Dualphysitism )、後者を合性説( Miaphysitism )といいます。 この対立は、本質的なものではなく、一般のクリスチャンにとっては、どうでもいい議論です。 ちなみに、いずれの説も、キリストにおいては、神性と人性に加えて、霊性もあるという点を見逃しています。
こんなことがあった。
イエスも受洗し、祈っていると、天が開かれた。
そして、聖霊がハトのような似姿で、
イエスの上に降りた。(ルカ 3:21 )
この点は、ほとんど意識されていないようですが、指摘されなければなりません。 つまり、キリストにおいては、唯一不可分である「ユニティ (Unity) ことトリニティ( Trinity )」の「子」において、「神性」と「霊性」と「人性」がすべて完備されています。 これをキリストのコンプリート性 (Completeness) といいます。 キリストにおいては、なにも欠けることなく、完全かつ無限に、備わっているのです。
父と子の等価性さえ受け入れられれば、トリニティを受け入れるのは、難しくはありません。 キリストも「父と子と聖霊( Holy Ghost )」と三者をまったく区別していないのですから。 「トリニティ」は、日本では、「三位一体」と訳されます。 これを「三つの者が一体である( 1+1+1=3 )」と読んでしまうと、誤解になるので、注意してください。 これは、「三つの位は一つの体である( 1+1+1=1 )」と読まなければなりません。 「位」は「位格」、「体」は「実体」です。 「位格」は、ラテン語の「ペルソナ( Persona )」またはギリシャ語の「ヒポスタシス Hypostasis) 」の訳です。 「実体」は、同様に「スブスタンティア( Substantia )あるいは「ウーシア( ousia )」の訳です。
教会は、トリニティを説明するのに、なんだか難しそうな概念を用いています。 いずれもギリシャ哲学の用語ですが、一般のクリスチャンがこのような概念にこだわる必要は、まったくありません。 「位格」も「実体」も、説明のための概念ですから。 このような専門用語を理解することができなくても、ちゃんと天国に行けます。
なによりも大事なのは、内容です。 すると、「 1+1+1=1 」では、等式が成り立っていないと、思うかもしれません。 たしかに、「 1 」では、成り立ちません。 でも、たとえば「∞( Infinity 無限大)」だと、「∞ + ∞ + ∞ = ∞」が成立するので、安心してください。 もっとも、無限は、神の属性の一つにすぎません。 「神=無限」ではありません。 早とちりしないでください。
このように、「三位一体」という訳語は、よく練られてはいるのです。 ただ、「トリニティ」そのものの訳というよりは、内容の解説になっており、肝心の実体感がありません。 また、すでに世間では、どちらかといえば、「三つの物が一つであること」と、理解されてしまっています。 キリスト教では、使わないほうがいいでしょう。
トリニティについては、真実を離れて、単なる言葉のニュアンスだけから、議論が噴き出しています。 「三」を意味する「 tri 」があるからです。 純粋に一神教であるためには、「ユニティ (Unity) 」でなければならないといった、感覚的な主張が氾濫しています。 いわゆるユニテリアニズム (Unitarianism) がその筆頭です。 ユニテリアン (Unitarians) は、トリニティとユニティとが両立しないということを前提に、ユニティのほうが優れているといった、主張をします。 彼らは、言葉に引きずられて真実を見失っています。 トリニティがユニティだということが、理解できないのです。 「三」という要素があっても、トリニティは、ユニティなのです。
これは、難しい話ではありません。 たとえ話ですが、三角形に辺が三つあるからと言って、三角形が三つあるとは、だれも言いません。 むしろ、辺が三つなければ、三角形が成り立たないというのが、真理です。 また、さいころには、一から六までの六つの目がありますが、さいころが六つあるとは、だれも言いません。 逆に、六つの目がなければ、さいころではありません。 だから、神に父と子と聖霊があっても、神が三つだと主張するほうが、幼稚です。
なお、トリニティにおける 三つの位格のあり方についても、カトリックとオーソドックスの間では、違いがあります。 カトリックでは、位格の統合性を重視します。 オーソドックスでは、独立性を重視します。 この議論も、トリニティが唯一の実体であるという範囲にあるかぎり、さほど決定的な差異をもたらすものではありません。 実際は、時に共動し、時に別動するからです。
なお、ヒンズー教では、ブラフマー (Brahma 創造 ) 、ビシュヌ (Vishnu 繁栄 ) 、シヴァ (Siva 破壊 ) の 3 つの神は、ブラフマンの 3 態だと、説明する人がいます。 これは、「三神一体 (Trimurti) 」という様態論( modalism )です。 「父」と「子」と「聖霊」は、神の一部でもないし、作用でもないし、様態でもありません。 氷と水と水蒸気のような三態でもありません。 それぞれが、完全な神であり、対等で同一なのです。 キリストにおいて、完全な人性と神性が両立しているというのは、神性( Divine Nature )、霊性( Spiritual Nature )、人性という「性( Nature )」は、属性ではなく、世界の意味です。 この神の世界は、霊の世界と人の世界を完全に包含しているのですから、神が神でありながら、霊や人でもあるというのは、可能なのです。
にもかかわらず、キリスト教の異端や異教では、トリニティに懐疑的な意見が後を絶ちません。 トリニティをあるがままに受け入れられるかどうかは、キリスト教を受け入れられるかどうかの試金石になっているようです。 ムハンマドは、トリニティを激しく非難しました。 現在でも、トリニティを三神論だと誹謗する人は、少なくありません。 人間が神を完全に理解することなど不可能なので、神を語るときは、少なくとも根本的に間違えないように、注意深くあるべきです。 クリスチャンとして、キリストが神であるという立場に立つなら、トリニティは、論理的な帰結として、受け入れなければなりません。 トリニティを受け入れられない者は、キリストの恩寵 (Grace) を受けることはないのです。
12 愛の価値は対象の価値で決まる
福音は、愛の啓約だと言いましたが、なぜ愛なのでしょうか。 神との約束のコアがどうして愛でなければならないのでしょうか。 啓約を受け入れることは、啓約を信じることです。 そもそも信仰とは、信じることです。 信じるとは、行為 (Act) です。
行為の価値は、目的によって決まります。 最悪なのは、邪悪を求める、犯罪を欲するなどの行為ですが、求めること、欲することがいけないのではありません。 目的が邪悪であり、犯罪であることがいけないのです。 正義を求めることや、善行を欲することは、いいことなのですから。
憎むとか、避けるなどの消極的な (negative) 行為では、逆に邪悪や犯罪を目的にするほど、いいことになります。 正義を憎んだり、善行を避けたりすることは、いけないことです。 逆に、不正を憎み、悪行を避けるのは、いいことです。 このように、行為を表す動詞は、ほかにもいろいろありますが、すべてなにを目的にするかで、価値が決まります。 だとすれば、積極的な (positive) 行為では、最良のものを目的とすれば、行為は、最高のものになるはずです。 消極的な行為では、最悪のものを目的とすれば、最高のものになるはずです。
では、目的の価値は、どうやって決まるのでしょうか。 世の中には、無数の目的があり、人の価値観は、多様です。 ある人は、家族が大事だと言い、ある人は、仕事が優先だと言います。 ある人は、お金が宝物だとし、ある人は、グルメが生き甲斐だとしています。 大黒柱のお父さんは、平日は遅くまで残業し、休日は妻や子供を遊園地に連れて行きます。 だれでも、豪華な別荘で、露天風呂に浸かってのんびりしたいですし、一流のスシ屋で、トロやウニをたらふく食べたいものです。
どれが正しいとか、どれが間違っているとかいう問題ではありません。 生まれ育った環境や、はぐくまれた人生観によって、人の行為の目的は、さまざまで、みなもっともな理由があります。 せいぜい 80 年の期間で、そうたいしたことは、できません。 かぎられた時間の範囲で、人は、自分なりに生きるしかありません。 人生の目的や価値を一義的に決めつけるなんて、意味がないんじゃないか。 であるならば、目的に最高とか、最悪とかは、ないのではないかとも疑います。 みなそれぞれやりたいようにやればいいじゃないかと、なりそうです。
しかし、やはり人間は、そうはいかないわけです。 道徳とか、倫理といった問題が人間にはあるのです。 人としてやっていいこと、いけないことがあるわけです。 やるのに、よりよいこと、よりよくないことがあるわけです。 そうした価値の序列を認めないと、人間は、人間らしくなくなってしまいます。 だんだんと人の気配、世間の空気がよどんできます。
勘の鋭い人は、ちょっとおかしいなと、うっすら気づくのですが、はっきりとどこが悪いのかわからないので、ほったらかしになります。 そうこうしているうちに、すでに事態は、取り返しのつかないことになってしまいます。 そして、破局を迎えます。 ソドム (Sodom) とゴモラ (Gomorrah) の住民のように、最後は、焼き尽くされてしまいます。 そんな話は、伝説だろうし、事実としても、自然災害の結果であって、天罰ではないと、言うかもしれません。 でも、ほかにも多くの国や町が生まれては、消えたのです。
一方で、ずっと長く残る国や町があります。 イタリアに、サンマリノ (San Marino) という国があります。 国というより、ほとんど都市ですが、 1,700 年の間、独立を維持しています。 ナポレオンやヒトラーのような独裁者も、手出しできませんでした。 強い軍隊もなければ、多くの人民がいるわけでもない。 サンマリノができたころ、ローマ帝国がありました。 当時としては、世界で最強で、最も豊かな超大国でした。 でも、その帝国の面影は、廃墟でしか確認することができません。
これから 1,000 年の後に、この地球に、どんな国や町があるか、だれも予想することはできません。 みな自分の生まれ育った町や国がずっと続くだろうと、なんとなく信じていますが、どこにもそんな保証がないのです。 国や民族にかける保険は、ないのです。
サンマリノが続いているのは、国や町そのものを守ろうという意識よりも、むしろ信仰の自由を守ろうという意識が強かったからです。 聖マリノは、時の皇帝ディオクレティアヌスによる猛烈なクリスチャン迫害から信仰を死守しようと、国の礎を築いたからです。 ローマ、コンスタンティノープル、エルサレム、アンチオキヤ、アレクサンドリアの教会も、異民族による支配、異教徒による攻撃、アンチキリスト的な侮辱行為にさらされながら、信仰ゆえに、残っています。 被造物であっても、物質的なものよりは、精神的なもののほうが、永続的であって、守るという行為の対象にふさわしいのです。
すべての積極的な行為について、同様なことがあてはまります。 行為が持続するためには、緊張感を要します。 目的が物質的では、張りがなくなってきて、だらけてきてしまいます。 どんなに美味いものも、毎日食ってたら、なんだか飽きてきます。 どんなに美人でも、毎日会ってたら、なんだかときめかなくなってきます。 夫婦が長続きするのも、おたがいに通いあう気持ちがあればこそです。 思いやりがなくなれば、顔を合わせるのもいとわしくなります。 人は、パンのみで生きることはできないのです。 そういうふうに創られているのです。 なにかを選び、求め、好み、信じ、愛さなければ生きていけません。 そして、その目的にも序列がなければならないのです。
13 価値は信仰によって序列化される
もっとも、精神的な価値といっても、いろいろです。 プラトンは、美 (beauty) が最高だとしました。 アリストテレスは、善 (goodness) が最高だとしました。 でも、ほかにも、正 (justice) 、義 (righteousness) 、徳 (virtue) 、忠 (loyalty) 、幸 (happiness) 、誠 (sincerity) など、無数の精神的な価値があります。 それらにどうやって優劣をつけたらいいのかは、一概には決められません。
そこで、古代のギリシャ人は、「自然法 (Natural Law) 」というものを提案しました。 現世の法令や規則は、一つの国や組織しか律しませんが、そういった枠組みを超えて宇宙の全体を支配する法があると考えたのです。 そして、ローマ人は、自然法を正義と見なしたのです。 この発想は、現代にも受け継がれています。
似たような考えは、東洋にもありました。 古代の中国人は、「天命」というものを想定しました。 地上の支配者たる君主は、人民を支配する根拠ですが、そんな君主といえども、天の命令に逆らうことはできないと考えたのです。 そして、この天命について、儒教や道教の思想家は、やはり正義だと考えました。 こうして、統治者が自然法や天命にそむけば、暴力的な革命 (revolution) によって体制( regime レジーム)を打倒するのも、やむをえないとしたのです。
しかし、なにが正義で、なにが正義でないかは、結局のところ、人間の判断です。 100 人のうち、 99 人が正しいと判断し、 1 人が間違っていると判断しても、マジョリティの判断が正しいという保証はありません。 実際、争いがある場合には、当事者は、みな自分に正義があると、信じているものです。 自分に非があると認めるなら、ごめんなさいと、謝るでしょうから。 戦争なんかも、たいていは、大義名分で正当化されます。 おたがいに自分のほうが正しいと言い張るのです。 だから、戦争になるのです。
同じようなことは、他の概念にもあてはまります。 人にとって、なにが善いのか、なにが悪いのか、なにが美しいのか、なにが醜いのか、答えは、一つに定まりません。 人間的な価値判断は、発散します。
では、価値の序列は、どうやったら、収束するのでしょうか。 その基準を提供するのが、道徳や倫理、あるいは信仰の役割なのです。 つまり、宗教は、「ものさし (Measure) 」であるということです。 この世の中にある無数の価値を測る尺度を提供するものなのです。 どういうことかというと、信仰がないと、無数の価値が乱雑にとっちらかった状態です。 信仰があると、すべての価値が整理されてきれいに並ぶようになるわけです。 行動するときに、なにをより大切にするか、判断することができるようになるのです。 尺度がなければ、カオスでも、尺度があれば、コスモスになるのです。
一神教では、最高の価値は、創造主である神となります。 神を行為の目的とするとき、行為は、最も善なるものになります。 神が啓示することが唯一にして絶対の究極の価値だとするのです。 すべての概念は、被造物となり、神からの距離によって一列に並べられます。 啓約とは、価値のものさしということになります。 神を選び、求め、好み、信じ、愛すことが、最も尊いことになります。 逆に、最悪のものは、サタンです。 サタンを憎み、嫌い、避けることが最も尊いことになります。 福音では、キリストが愛を最高の教えとしています。
とどのつまりは、どうして福音のコアが愛なのかというのは、神であるキリストがそう教えているから、ということになるわけです。 「問いをもって問いに答える」わけですが、神は、自体的に答えなので、どうしようもありません。 一神教すなわち啓示的な宗教とは、そういうものなのです。 人間の世界には、唯一の答えがなく、神だけが絶対的な回答者なのです。
こういうシステムをトートロジー( tautology )といいます。 通常は、説明になっていないという、悪いニュアンスで用いられます。 でも、システムがトートロジーであることは、システムが無矛盾であることです。 トートロジーを非難する者は、非トートロジーに立脚しなければなりませんが、非トートロジーは、自己矛盾です。 トートロジーと無矛盾であることは、論理的に、同値なのです。 なぜなら、あらゆる問いに対して、かならず答えが一対一で対応するなら、問いと答えとは、同値になるからです。 つまり、あらゆる問いに対して答えが用意できるシステムは、トートロジーなのです。 それを論難する者は、どこかで矛盾を犯さざるをえないのです。 非トートロジーには、論理的な破綻があるのです。 矛盾したロジックでは、個別の議論に勝つことはできても、真理に到達することは、かないません。
14 愛は人間に最も普遍的な行為である
もっとも、どうしても納得できない人のために、すこしだけ説明すると、愛は、あらゆる行為の基本だということです。 人間には、神とともにあったエデンでの至福のメモリーが原初的にインプットされています。 この記憶は、どうやっても消すことはできません。 人間であるかぎり、最高の幸福への憧れから、逃れることはできません。 それが、愛するとか、求めるとか、欲するといった意欲や願望となって、人間を突き動かすのです。
愛が原点なのです。 人間は、愛を中心にして行動するからです。 愛は、人種、民族、信仰、主義といった違いを乗り越えます。 愛は、すべてを許します。 なにを人生の目的とするかは、人によって違います。 欲求の対象は、さまざまです。 でも、人間は、なにかしらを愛そうとしている生き物 (Creature) なのです。 だから、キリストは、身近な存在から愛するよう教えたのです。
まず自分です。 自己を愛せということです。 自己を愛せない者が、他者を愛せるはずがないからです。 自分の食事をまともに作れないシェフに、どうして満足なレストランが経営できるでしょう。 次に親、兄弟や配偶者などの家族や親戚です。 さらに対象を広げて、隣人です。 仲間や友人、同じ共同体に暮らす人々、国民や民族です。 隣人愛 (Neighbor Love) です。 ここぐらいまでは、そんなに難しくはありません。
しかし、キリストは、愛の対象をより拡張するよう要求します。 敵です。 きのうの友は、きょうの敵、きょうの敵は、あしたの友ですから、敵も味方も等しく愛せ、ということです。 仇敵愛 (Enemy Love) です。 憎たらしい相手を愛するのは、かなり難題です。 右の頬を打たれて左の頬を差し出せる人は、少ないでしょう。
こう言われているのを聞いたことがあるだろう。
「目には目を、歯には歯を」と。
だが、おまえたちに言う。
悪者に抵抗するのではなく、
右の頬を打つ者には、
左の頬を向けよと。(マタ 5:38,39 )
旧約やコーランでは、敵を滅ぼせとは教えても、敵を愛せとは、教えません。 ジェノサイド (Genocide) というのは、近代の造語ですが、旧約では、「ヘレム (hrm) 」といいます。 神の、神による、神のための根絶 (Eradication) です。 敵は、根絶やしにされなければなりませんでした。
そのとき、シホンがわれらに対して現れた。
シホンとそのすべての民は、ヤハズで戦おうとしていた。
主、われらの神は、シホンをわれらに差し出した。
そして、われらは、シホンやその息子やそのすべての民を打った。
その際、シホンのすべての町を奪い、
すべての町の男、女、幼な子を滅ぼし尽くし、
一人たりとも、残さなかった。(申命 2:32-34 )
古代のオリエントでは、生き残るためには、部族を丸ごと根こそぎにするしかないと、されていました。 過酷な自然環境のもとでは、強烈な生存競争が、不可避でした。 食うか食われるかの、熾烈な世界だったのです。 キリストは、もうそんなことはやめにしようと、教えたのです。 愛の対象範囲を拡大していくと、人類愛 (Human Love) あるいは博愛( philanthropy ) ということになります。
15 究極の愛は神の愛である
こうして愛を高めていくと、究極の愛に至ります。 それが、神なる愛 (Devine Love) すなわちアガペーです。 キリストは、愛が連続的な行為だと、つまり収束的な行為だと、教えているのです。 愛の対象は、無限にあって、人によってさまざまでも、極限は、ただ一つしかないのです。 そして、愛の極限がアガペー、キリストの愛 (Love of CHRIST) 、神なる愛だと、説いたのです。
わたしの戒めを持ち、守る者は、わたしを愛する者だ。
そして、わたしを愛する者は、わが父によって愛され、
わたしも彼を愛し、彼にみずからを現そう。(ヨハ 14:21 )
神を愛することは、神を選ぶこと、神を求めること、神を信じることです。 対象が神であるとき、信仰と愛は、完全に一致するのです。 だから、キリストは、愛を説いたのです。
争いは、正義から生まれても、愛からは、生まれません。 人が 10 人いれば、 10 の正義があります。 だから、正義から、暴力がうべなわれ、戦争が始まるのは、不思議でもなんでもありません。 でも、もし愛のために争うのだと、クリスチャンが主張するなら、それは、偽りです。 愛からは、平和しか生まれません。 愛に不和はないのです。 キリストが愛の最高の目的であるなら、キリストから導き出せるのは、平和だけです。 偽善は、愛を汚します。 キリストの名で戦争を正当化するなら、神の名誉 (Honour) を汚すことになってしまいます。
ユダヤ教やイスラム教では、神も戦いますが、キリストが暴力を肯定したことは、一度もありません。 でも、クリスチャンはもちろん、人間が争いをやめる気配はありません。 神の手を離れた被造物の宿命でしょうか。 枝を離れたリンゴの実のように、被造物は、落下します。 せめてキリストの名で戦争を正当化するのだけは、すべきではないでしょう。 コンスタンティヌス大帝は、ミルウィオ橋で、キリストの印で勝利しましたが、彼は、まだクリスチャンではありませんでした。
これからも利権や資源のための戦争は、なくならないでしょう。 過去において、人間は、ほとんどの戦争をビジネスとして行ってきたし、これからもそうでしょう。 でも、戦争の責任を神に帰すのは、クリスチャンだけは、回避すべきです。 人は過つが、それを神のせいにしてはならないのです。 偽善者とそしられないためにも、戦争にキリストが賛成するかのようなこじつけは、あってはなりません。
どうしても争うなら、キリストに背いて戦うことを自覚すべきです。 人間がどんなに愚かであろうが、すべて被造物のゆえんであって、キリストに罪はないのです。 天上のヒツジ飼いは、地上のヒツジに命を与えましたが、みずから命を拒否したヒツジを救うことはできません。 争うことは、どんな事情があろうが、キリストの愛の戒めに反します。 そのことを懺悔し、悔い改めるしかありません。 被造物が被造物に弓を引く行為は、被造物が創造主につばを吐くよりは、罪は、軽いからです。
教会 試練 人生
16 よき教会で洗礼を受けなければならない
啓約としての福音、処女懐胎、原罪と贖罪、父と子と聖霊のトリニティ、キリストのアガペーを受け入れれば、精神的な福音化は、ほぼ達成されます。 いよいよ信仰の実践となるわけですが、名実ともにクリスチャンであるためには、洗礼(バプテスマ Baptism)を受けなければなりません。 そのためには、教会の門を叩き、聖職者によって受洗しなければなりません。 これは、どうしても必要なイニシエーション (Initiation) です。
なぜなら、キリストは、使徒に洗礼を施すように命じたからです。 使徒の役割は、2,000年にわたり、聖職者によって受け継がれています。 最後に残るのは、神の家だけです。 迷っているうちに、人は、死んでいきます。 でも、とどまって祈り始めれば、もう死ぬことはありません。 キリストによって、人の命が改められるからです。 これが、再生 (Regeneration) です。
とりあえずは、受洗して穢れを洗い落としましょう。 外国人のクリスチャンと結婚するなら、その人の宗派に合わせるのがいいでしょう。 夫婦で宗派が異なると、結婚しても、うまくいきません。 礼拝を別々に受けなければなりませんから。 子供をどちらの教会に帰属させるかで、もめたりもするでしょう。 家族は、同一の宗派でが、基本でしょう。
まずは、身近なところに教会がないかどうか、探してみます。 昔は電話帳のみでしたが、今はインターネットもあって、便利です。 たくさんの教会が見つかるはずです。 でも、いろんな宗派がありますから、迷ってしまいます。 まずは、カトリック系か、プロテスタント系かで、迷います。 日本には、オーソドックス(Orthodox 正教)系の教会は、めったにないので。
ローマ・カトリック教会(Roman Catholic Church)は、基本的に、全世界で共通の教義と儀式を保持しています。 「カトリック」とは、「普遍な」という意味ですから、国や民族が異なっても、教会の運営は、同じです。 法王を最高指導者とするヒエラルキーで、世界に10億人の信徒を擁する最大の宗派です。 教義も洗練されており、教会もきれいで立派です。 安定した組織やバックボーンを期待するなら、カトリックでしょう。
オーソドックス系は、日本では、日本ハリストス正教(Orthodox Church of Japan)という独立系の教会があります。 オーソドックス教会は、国ごと、民族ごとにあるのです。 でも、基本的な教義や様式は、やはり世界共通です。 もともとカトリックやプロテスタントは、オーソドックスから分離しました。 歴史的には、最も偉大な民族であるヘレネス(Hellenes)の流れをくむ、由緒ある教会です。 エルサレムの聖墳墓教会も、ギリシャ・オーソドックスの所属です。 「ハリストス」とは、キリストのことですが、ほかにもヨハネを「イオアン」と、表現します。 ギリシャ語の音韻を保持した用語を用います。
でも、呼び方だけの問題で、本質は、同じです。 オーソドックスの教会は、聖人の壁画やイコノスタシス(Iconostasis)、鐘や香など、厳粛です。 ちょっと仏教(密教)寺院のように、荘重な感じで、日本人向きかもしれません。 日本人は、ありがたそうな雰囲気がないと、信心しませんから。
それから、オーソドックスでは、聖職者は、ヒゲや髪の毛を伸ばします。 不精ではなく、伝統です。 僧侶が坊主なのとは、正反対ですが。 日本では、ヒゲが不謹慎というか、だらしない、不潔なイメージがあります。 公的な職業の人には、ふさわしくない容貌のように、理解されています。 でも、幸いにして、最近は、日本人でも、ヒゲに抵抗感がなくなってきています。 今後は、変わってくるでしょう。 ヤコブ‐イスラエルは、腕に毛皮を巻いてまで、父のイサクの祝福を受けようとしました。 毛深いことは、繁栄と多産のシンボルであり、縁起がいいのです。
ただ、カトリックもそうですが、伝統が長いので、サクラメント(Sacrament)の儀式が長いです。 堅苦しいのが苦手な人は、プロテスタント系がいいでしょう。 本来の意義を離れて、なんだか好き勝手にやらかしている教会もありますが。 どうしてもなじめなければ、宗派を変えてもいいのです。 すべてのクリスチャンには、キリストとの直接の啓約に基づき、教会を選定する権利があります。
プロテスタント教会には、ばらつきがあります。 まず、宗派がいくつもあります。 メソジスト(Methodists)、バプテスト(Baptists)、アングリカン(Anglicans 聖公会)、エヴァンジェリカル(Evangelicals 福音派)などの大きな宗派から、独立系のものまで、いろいろです。 わたしは、近所にあったメソジスト系の教会に通って福音を受け入れました。 洗礼は、転居した関係で、独立系の教会で、受けました。 どちらも立派な牧師がいました。
もっとも、独立系の教会は、牧師の個性によって運営されている面が強いです。 正統教義(Orthodoxy)に差があるはずはないのですが、中には、独断と偏見に満ちた説教をする牧師がいないとはかぎりません。 こういう教会の門を叩いてしまうと、取り返しのつかないことになりかねません。 教会にも、聖職者としての立場を悪用する者がいないとはかぎりません。 よい教会を見る目を養うためにも、個人的にも、福音を受け入れておく必要があります。 キリストが帰天するや、サタンは、悪しき教会を活用しています。 ヨハネは、教会を叱責しています。
キリストを知っていると言いながら、
その戒めを守らない者は、
うそつきだ。
そして、真実は、その者にはない。(ヨハ 2:4)
清い教会と汚れた教会とを見分ける目も、クリスチャンには要求されるわけです。 お人好しは、悪魔の餌食です。 サタンにカモられてしまいます。 神の家の看板を掲げながら、サタンを祭る者でないか、見極めなければなりません。 よい教会かどうかは、正統教義をきちんと教えているか、によります。 特に個人の教会の場合は、教え方に問題がないか、チェックする手段がありませんから、要注意です。
よくある異端的な教団には、教祖という者が存在し、「キリストの生まれ変わり」などと称します。 でも、キリスト教は、神であり救い主たるキリストが、強いて言えば、教祖であって、ほかには考えられません。 また、キリストは、神ですから、生まれ変わるなんてことはありません。 キリストは、永遠に不滅かつ不変です。 福音書にあるように、偽キリストを称するのは、キリストへの冒涜で、最悪です。 ひとたびこの手の異端に与すれば、もはや救われる望みはありません。 「命の書」の名前は、塗りつぶされます。 サタンの種族となって、最後の審判の時まで、呪われ続けるほかはありません。 くれぐれも気をつけてください。
でも、正統教義とは、なんでしょうか。 それは、福音の正しい解釈のことです。 キリストを受け入れた使徒や教父の血の努力によって長い時間をかけて確立されました。 それは、過去に何回か開かれた公会議(Council)で、信条という形で、まとめられています。
プロテスタント系の教会の中には、かならずしも正統教義に忠実ではないところもあるので、注意しましょう。 迫害や弾圧に屈しなかった偉大な先達の成果をムゲにすることは、キリスト教の歴史を否定することになります。 すぐに教会員にならず、礼拝や説教を見定めてからにしたほうが賢明です。
カトリック、プロテスタント、オーソドックス、いずれの宗派にかかわらず、教会のよし悪しは、聖職者のよし悪しです。 なによりも信者の親身になってくれるかどうかが、最大のポイントです。 信者は子ヒツジですが、キリストがそうであったように、すべての聖職者も、よきヒツジ飼いでなければなりません。 信者を正しい信仰に導こうと努力を重ねているかどうかで、聖職者の評価は、決まるのです。 信者は、愚かなヒツジであっても、いい指導者かどうかを、ちゃんと感じ取るものです。 熱心なヒツジ飼いには、おとなしくついて行きますが、怠惰であれば、好き勝手に動き回ります。
17 教会は善意の寄付で維持される
教会には、寄付の問題があります。 寄付金を強要するところがあるようです。 強要するのなら、寄付ではなく、徴収です。 税金と同じです。 ユダヤ教では、「十分の一税(tithe)」という義務があります。 でも、キリストは、十分の一税を否定したわけではありませんが、義務とはしませんでした。 むしろ、税を払っていさえすればいいという態度を、偽善だとしました。
ユダヤ教では、聖職者も商売することができますが、キリストは、聖職者が商売するのを禁じました。 聖職者は、家族も、親族も、財産も、すべてを捨ててキリストに従う決意なのです。 したがって、教会の運営は、信者からの寄付でまかなわれなければなりません。 教会は、自給自足は許されますが、商売はできません。 世俗の信者が支えなければなりません。 神の家は、「みんなの家」です。
でも、あくまで任意の寄贈でなければなりません。 みんなで支えようという気持ちが、教会の財政をサポートするのです。 寄付の時期も額も、信者が自分で決定すべきです。 わたしは、今までほとんど寄付をしていませんが、死んだら、すべての財産を教会に寄付するつもりです。 チャペルの墓地に埋葬してもらいたいのですが、火葬はイヤなので、外国になるでしょう。 どこの国になるかは、未定ですが、寄付は、そのための資金にするつもりです。
寄付を毎週するのも結構ですが、寄付で慢心してはなりません。 寄付の金額や価値の大小は、信仰や救済の軽重の目安ではありません。 なるほど、キリストは、生活費のすべてを寄付した者を賞賛しました。 同時に、余裕のある金持ちが天国に入るのは難しいと、非難しました。 でも、あくまで信仰心を比較したのであって、金額の大小を問題にしたわけではありません。
寄付がどんなに多額であっても、信仰の裏づけがなければ、ただの経済です。 逆に、寄付が少額でも、強い信仰があれば、高い価値があるのです。 キリスト教では、信仰の裏づけがあってはじめて、財産は、意義を持ちます。 金で買った心は、安物です。 キリストは、その資産家に十分な信仰心があれば、非難しなかったでしょう。 教会は、信者からの寄付を、贅沢のためにではなく、福音化のために用いなければなりません。
すなわち、宇宙の富は、すべて神の所有であって、人間は、ごく一部を借用しているにすぎません。 この地球、いやユニバースのどこにも、神のテリトリーでない場所は、これっぽちもありません。 皇帝に税金を払っても、最後は神に返したのと、同じことなのです。 そして、人間は、いずれ、最終の時には、キリストにすべての財産を返還しなければなりません。 物質的な財産はもちろん、精神的な財産もです。 だから、キリストは、ユダヤ人もローマに納税しろと、さとしたのです。
もう1ミレニアムが過ぎ去って、この世に、どんな国家や企業があるかを、だれもあてることはできません。 でも、ただ一つだけ、確実なことがあります。 世界の最後の時まで、教会は残る、ということです。 会社は、辞めてしまえば、なにもしてくれません。 国は、死んでしまえば、なにもしてくれません。 国に払う税金があるなら、教会に寄付すべきです。 教会は、死んだ後も、この世の終りまで、クリスチャンであったと、証明してくれます。
18 結婚は祝われ、中絶は呪われる
結婚の話ですが、クリスチャンにとって、結婚は、単なる入籍では済みません。 法律的な問題と、信仰上の問題は、まったく別だということを、肝に銘じておかなければなりません。 つまり、役所に婚姻届を提出しただけでは、クリスチャンとして結婚したことにはなりません。 教会で、キリストの前で、夫婦の愛を誓わなければ、結婚ではありません。 社会的に夫と妻として認められても、教会が認めなければ、結婚にはなりません。
逆に、教会で式を挙げて神の面前で愛を誓えば、クリスチャンとしては、結婚が成立します。 入籍していなくても、キリストが認める夫婦です。 つまり、結婚には、三とおりあります。 神が祝福する教会婚(ecclesiastical marriage)、役所が認証する法律婚(入籍legal marriage)、世間が認知する事実婚(内縁actual marriage)です。 教会婚は、神聖婚(sacred marriage)あるいは祝福婚(blessed Marriage)ですが、法律婚と事実婚は、世俗婚(secular marriage)です。 クリスチャンとして、本当に結婚したというためには、教会婚でなければなりません。
教会婚の条件は、正統なクリスチャンの男女のカップルによる、キリストの祝福(Blessing)を受けた婚姻であることです。 たとえば、同性のカップルによる場合は、たとえ正規の教会で正式に結婚しても、教会婚にはならず、事実婚にとどまります。 獣的な性欲を満たすためではない同性愛(ホモセクシャリティ homosexiality)を、完全に教会から閉め出すのは、病人を癒したキリストの精神に反します。
教会には、病人を癒す義務があります。 同性愛には、遺伝的な、あるいは精神的な原因による病気である場合があります。 だから、同性愛者でも、クリスチャンであることは、可能です。 これは、他の疾患、精神病などでも、同様です。 でも、同性愛者に、キリストの名のもとにおける婚姻すなわち教会婚が成立しえないのは、どうしようもありません。 キリストは、同性による婚姻を念頭に置いていません。
男女の一方または双方が非クリスチャンであるカップルの場合も、同様です。 また、クリスチャンのカップルであっても、一方または双方がみずからの不貞により離婚していたのであれば、キリストの祝福を受けるに値しないので、教会婚は、成立しません。 もし、クリスチャンでなかった者がクリスチャンになれば、過去に何回結婚していようが、教会婚を受けることができます。 過去の結婚は、教会婚ではなかったからです。
もし、一方または双方が非クリスチャンである男女が、二人ともきちんと洗礼を受けてクリスチャンに改宗するのなら、教会婚とするためには、あらためて教会で挙式しなければなりません。 このあたりは、宗派によって差がありそうなので、詳細は、神父なり、牧師なりに相談してください。 なお、結婚は、クリスチャンの必須の条件ではありません。 独身であっても、クリスチャンであることは、もちろん可能です。 もっとも、純潔(virginity)を守らないのであれば、結婚して子供を持つべきです。
さて、キリスト教では、結婚は、神聖な行為すなわち信仰そのものだと、理解しなければなりません。 単なる書類手続きではありません。
パリサイ派の連中がイエスのところに来て尋ねた。
男が妻を捨てるのは、合法かと。
イエスを試していた。
そして、イエスは、彼らに答えて言った。
モーセは、おまえたちにどう命じたのかと。
すると、彼らは言った。
モーセは、離婚状を書けば、妻を捨てるのを許していると。
すると、イエスは、彼らに答えて言った。
モーセは、おまえたちの心が頑固だから、このような訓示を残した。
しかし、創造の始めから、神は、男性と女性を設けた。
これゆえに、男は、生みの父と母を離れ、自分の妻に忠実でなければならない。
二人は、一つの身体であり、
そうして、もはや異体ではなく、同体である。
ゆえに、神が一つに結合したものを、人がばらしてはならないと。
そこで、家の中で、イエスの弟子がイエスに、同じ問題について、ふたたび尋ねた。
すると、イエスは、彼らに言った。
妻を捨てて別の女と結婚する者はだれでも、
妻に対して不貞を犯すことになる。
もし、女が夫を捨てて別の男と結婚するなら、
不貞を犯すことになると。(マル 10:2-12)
これは、厳しい戒律です。 クリスチャンは、神の前で結婚すると、原則として、離婚することが許されません。 いい加減な気持ちでは、結婚しないでください。 教会婚は、肉的な交わりではなく、霊的な結合だからです。
しかし、相手がすでに不義であれば、結婚の神聖が失われるので、離婚することができます。 また、伴侶が非キリスト教に改宗したり、棄教すれば、非クリスチャンとの婚姻を維持するいわれはないので、離婚することができます。 また、教会で式を挙げておらず、単なる法律婚か事実婚であったにすぎなければ、神の前で結ばれていないので、離婚することができます。 これらの場合には、離婚した本人に罪はないので、教会で再婚することができます。
また、自分に非がないのに、配偶者に一方的に離縁されたのであれば、やはり本人に罪はないので、教会で再婚することができます。 これに対して、自分の浮気や不倫が原因で離婚した者は、原則として、教会で再婚することはできません。 宗派を変えれば、許してもらうこともできるのではと、思うかもしれませんが、再婚のための宗派替えは、脱法的です。
日本では、入籍や内縁は、問題ありません。 これらは、信仰とは、無関係だからです。 ただし、教会の証明がないと、婚姻届が受けつけてもらえない国もありますから、国際結婚の場合は、注意してください。 結婚は、相手の社会や文化と関わりあいになることを意味しますが、クリスチャンとの結婚は、神との関係だということを忘れてはなりません。
国際化が進んで、日本でも、外国人は、めずらしくなくなりました。 ガイジンは、みなアメリカ人、なんて先入観の時代も、かつてはあったのですが。 いまや世界中から、人は、やって来ます。 日本人も、外国で仕事をしたり、生活することが、さほど特殊なことではなくなってきました。 外国の文化に慣れてきている状態でしょう。
でも、思わぬ落とし穴があることにも、注意しましょう。 特に、宗教の問題です。 日本は、基本的な文明の枠組みを、ユーロ‐アメリカから輸入しました。 でも、中身は、やっぱり「和」です。 これが最も強く現れているのが、宗教です。 日本人は、世界では、「異教徒 (Pagan) 」だということです。
異教 (Paganism) という言葉が意味するのは、無神論的だとか、無信仰、無宗教だといったレベルにとどまりません。 これは、もっとえぐい感情、侮辱や嫌悪を含んだ響きなのです。 啓示的な宗教を信仰しない日本人は、プライベートであれ、オフィシャルであれ、外国人となんらかの関係を持つときは、このことを頭の隅っこに置いておいたほうがいいでしょう。 人種的、民族的な偏見よりも、宗教的偏見ほうが、恐ろしいのです。
これは、キリスト教では、勧められるものではありません。 クリスチャンは、異教徒に対しても、原則として、寛容と慈愛をもって接するべきだからです。 でも、そんな簡単に消せない現実なので、どうしようもありません。 外国では、人を測る尺度として、信者 (Believer) か、非信者 (Non-Believer) か、という絶対のスタンダードがあるのです。 信者とは、唯一絶対の神を信ずる者であり、非信者とは、そうでない者です。 この尺度は、今日では、そんなに目立ちませんが、なにかの拍子で、表面化します。
たとえば、一神教が排他的で非寛容だというのは、日本では、けっこう常識になっています。 でも、これは、世界では、とんでもない非常識です。 インテリぶって、信仰心の篤いクリスチャンやムスリムと、うかつにそんな議論をしないほうが、身のためです。 信ずれば、神ほど慈愛に満ちた存在はない、というのが、世界の常識なのです。 これを否定すると、神への冒涜とされ、命がいくつあっても、足りません。 神を冒涜することは、どんな犯罪より、重罪だというのが、超法規的な共通認識です。 これは、もう法律や道徳以前の問題なのです。
信仰と関係なく、世界と無難につきあいたいなら、軽々しく知識をひけらかすのは、やめましょう。 どうしてもやるなら、決死の覚悟でやることです。 なにを言いたいのかと、怒られそうですが、非常にデリケートな領域です。 要は、うかつに神の悪口を言わないってことです。
クリスチャンの女性にとって、大きな問題が、中絶です。 福音的には、許されません。 まず、胎児は、人なのか、人でないのか、という議論になりますが、人であればもちろん、中絶は、殺人になります。 人ではない有機体だとしても、それは、人となるべき潜在性を有する特別の生命体です。 そのような特別の生命体であるならば、人と同等の人格を保障すべきです。
そして、すべての胎児には、なんらかの理由で、生まれるのを望まれないとしても、人として生まれる権利があります。 すべての胎児には、福音を受ける権利があるのです。 端的に、胎児は、福音的には人間だとも言えます。 なぜなら、すでに人として創られており、母胎にいるかどうかの問題にすぎないからです。 いくら親とはいえ、子が福音を授かる機会を一方的に奪うのは、重罪です。 キリスト教では、産む権利はあっても、産まない権利はないのです。 産まない権利は、人を殺す権利と同じだからです。 クリスチャンなら、育てるかどうかは別として、子は、産みましょう。
しかし、レイプなどの卑劣な犯罪による妊娠では、女性の負担は、大きすぎます。 また、経済的な困窮や、避妊の懈怠による場合でも、まともに養育されないのであれば、赤ちゃんがかわいそうです。 この場合には、福祉的なバックアップが、必要です。 たとえば、出産の前に機関に届け出るようにします。 機関は、キリスト教系の民間団体、できれば教会が運営すべきです。 親子関係の永久的な放棄を条件に、子を機関が引き取ります。
キリスト教では、血縁は、人間にとって本質的ではありません。 親子、兄弟などの関係をないがしろにしろ、ということではありません。 でも、人間関係を律するプリンキピア(原理)は、愛です。 いくら血が濃くても、愛がなければ、まことの家族ではありません。 子は、クリスチャンとして、福音的な教育を受けることができます。 希望があれば、里親もできるほうがいいでしょう。
ただ、売春や臓器売買などに供されるおそれもあるので、養子縁組には、機関が関与しなければならないでしょう。 志願者の社会的なポジションや経済的なバックボーンも、調査されるべきです。 もちろんクリスチャンであるのは、当然のことです。 もし、養子関係が破綻したら、厳しいペナルティが課されるべきでしょう。
19 政治や経済に神はいない
日本でクリスチャンになると、周囲との摩擦が生まれます。 無神論者にとって、神とは、幻覚あるいは妄想ですから、宗教は、精神病と同じです。 しかも、日本では、クリスチャンは、圧倒的にマイノリティなので、不便もひときわです。 クリスマスもイースターも、ホリデー(Holiday)ではありません。 でも、信仰の自由が保障されています。 一部のイスラム教国のようなひどい嫌がらせや迫害もありません。 エジプトやインドネシアなどでは、クリスチャンをねらった事件が起きても、まともに捜査もされません。
もっとも、日本で、将来そのような事態が起きないとは、断言できませんが。 一度ミスを犯した者は、ふたたびミスを犯す可能性があります。 3世紀にわたってキリスト教を公然と禁止してクリスチャンを弾圧した国は、世界でも、日本ぐらいです。 日本は、この報いを二十世紀に受けましたが、まだ不十分です。 法が許しても、神が許しません。 人が裁かなければ、神が裁きます。
今のところ、たまたま日曜日が休日とされていますから、教会での礼拝も、たいていは支障ありません。 運動会などの行事には、参加する必要はありません。 選挙も、無理に行かなくてもいいのです。 信仰の自由がなによりも優先されるべきだからです。 およそ思想の自由は、いかなる人権に優先しますが、信仰は、すべての思想の基盤ですから、絶対不可侵です。
そもそも、人権 (Human Rights)というものは、信教の自由が起源です。 信仰の自由は、人間の権利として、至高のものなのです。 信仰の自由がなければ、、すべての人権は、成り立ちません。 信仰は、人間の自由と権利の根幹なのです。 信仰の自由を告白しない者は、信仰を告白しない者よりも、悪魔と同視されるべきです。 政教分離も、信仰の自由を確保するための制度です。
いかなる体制のもとでも、国民には、国の基本事項を決定する権利があります。 したがって、国民が国の宗教を決定することも、可能です。 宗教は、文化でもあります。 すくなくとも、正規の手続きで、そのような決断がされたからは、承認されなければなりません。 特定の宗教の国教化と政教分離は、両立しえます。
ただ、国教を決めるなら、マイノリティの信教の自由をいかに確保するか、十分な手当てが必要でしょう。 デモクラシーは、マジョリティで物事を決めますが、マイノリティを無視していい、という制度ではありません。 なぜなら、マイノリティを排除していくと、全体主義になってしまうからです。 これは、デモクラシーにとって、致命的な自己矛盾であり、自殺です。 デモクラシーは、マイノリティを尊重するからこそ、デモクラシーなのです。
イスラム圏にも、わずかですが、クリスチャンがいます。 圧倒的なマイノリティで、しかも、イスラム国家は、たいていは非(反)民主主義的ですから、信仰を守るのは、容易ではありません。 その努力は、まさに賞賛の賞賛に値します。 彼らの名前が命の書の最上位にあるのは、当然です。
これに関連して、日本には、靖国神社の問題があります。 もっぱら外交問題になっているのですが、問題の本質を見失っています。 これは、まず、政教分離の問題として、扱われなければなりません。 つまり、政治家や大臣にも、もちろん、信教の自由はあります。 個人的に神社に参拝しても、なんの問題もありません。 神社や寺にも、信教の自由が保障されるのも、当然です。 でも、靖国神社の役割は、特殊です。 現行の法制度のもとでは、靖国神社は、ただの宗教法人です。 なのに、事実上、国の追悼施設としての役割を持たせてしまっています。
戦前ならともかく、これからの時代は、国のために戦うのは、神道の信仰者だけではないでしょう。 無神論者や仏教徒、クリスチャン、将来は、イスラム教徒やユダヤ教徒だっているかもしれません。 だから、公的な追悼に、宗教色があってはなりません。 もしくは、追悼は、すべての宗教に対して平等になされる必要があります。 公的な機関は、魂や霊を扱う形而上の問題に介入すべきではないのです。 追悼は、国家のために犠牲となった者の名誉のためにのみ、行われるべきです。 そして、この名誉は、信仰とは別の次元で、賞賛されなければなりません。
個別の神社や寺院にも、独自の宗教的知見に基づいて祭祀を執り行なう権利があります。 靖国神社が、一個の宗教法人として、いかなる信仰にのっとって、どういう祭祀を行うかは、基本的には自由です。 でも、個人の信条を無視して半強制的に慰霊すれば、相手の信教の自由に対する侵害でしょう。 クリスチャンは教会で、ムスリムはモスクで、ユダヤ人はシナゴーグで、信者の証を立ててもらいたいのです。 したがって、クリスチャンは、神社への強制的な合祀には、賛成することはできません。
日本では、神道なのか、仏教なのか、入り混じっていて、実体は、よくわかりませんが、事実上の国教があります。 また、ヨーロッパやアメリカなどでは、キリスト教が事実上の国教になっているにもかかわらず、法的には、国教を採用していない国があります。 事実上の国教化と政教分離は、かならずしも排他的ではありません。 ただし、信教の自由を保障するために、特別の配慮が必要です。 キリスト教を初めとする、他の宗教の信仰を抑圧し、弾圧するのは、避けなければなりません。 国教ではない信仰に対しても、信教の自由を保障する努力が必要です。 公的な追悼の非宗教化は、そういった配慮の一つとして、積極的に考えてほしいものです。
ただ、個人的には、こういう事実上の国教という制度は、大事な問題からの逃げのように思います。 宗教も文化です。 国がいかなる宗教を国の思想のコアにするのか、歴史や伝統の問題と同様に、国民がみずから決定する権利があります。 でも、国教を制度として認めてしまうと、世の中が、えてして非国教的な信仰に不公平になりがちです。 どうしても、非国教に対して、差別や弾圧が起こります。 現実には、こういうやり方も、やむをえないのでしょう。
なお、国教化は、国が形而上の問題に介入することになるのでしょうか。 かならずしもそうではありません。 国が国教を決めたからといっても、宗教の自立性を維持するのは可能です。 つまり宗教的自治が認められればいいのです。 国家は、あくまで国民が選んだ宗教を尊重するというだけです。
クリスチャンは、政治や経済に、どう関わればいいのかも、しばしば葛藤を生みます。 キリストにつき従った使徒にとっても、同様な悩みがありました。 キリストが教えていているうちは、ただキリストに忠実であればよかったのです。 キリストからクリスチャンを率いる権威を引き継いでからは、現実の問題にどう対処するか、切実となったのです。
結論から言えば、信念に従って行動するしかありません。 政治や経済に、キリストは、いません。 なぜなら、すべては、キリストのものだからです。 キリストは、民がだれを王にいただくか、なにを益とするかは、民に任せています。 神を崇拝ことを禁ずる体制でないならば、福音に反するとは、言えません。 ペテロも、まず現行の体制に従うよう勧めています。 王を尊べと、さとしています。
しかし、デモクラシーでは、人権、とりわけ信仰の自由を奪う体制には、革命すなわち暴力で対抗すべきと、されています。 これは、ペテロの教えに反するのでしょうか。 人民は、奴隷のように、生きなければならないのでしょうか。 わたしは、ペテロは、王あるいは体制が、あくまで福音に忠実であるかぎりは、従えと教えたと、考えます。 そして、体制が、反福音的ならば、暴力による解決によるよりは、むしろ殉教すべきなのでしょう。
ただし、自分たちで、福音にかなう体制を樹立することは、否定はしていないでしょう。 なぜなら、およそ人の世に、絶対の正義や権力は、ありえないので、人民がどういう制度を選ぶかは、人民の意思で決めればいいからです。 リンカーンは、人民主権を、「人民の、人民による、人民のための政府( The Government, of the people, by the people, for the people)」と定義しました。 これは、地上の統治権が、神ではなく、人民にゆだねられているので、人民の手によって、人民の幸福のために、行使されるべきだ、って意味です。 わたしも、これに賛成します。
20 男女は福音的に一つである
また、ペテロは、妻は、夫に従えと、教えています。 パウロは、女は男に従うべきと、説いています。 これは、福音にかなっているのでしょうか。 今日の先進国では、男女平等が基本ですから、実生活では、問題になります。 この点についても、信念に従って行動するしかありません。 家庭や社会で、男と女がどういう役割を与えられるかは、キリストが決めることではありません。 ペテロやパウロの時代には、男尊女卑が当たり前でした。 おそらく世の中のほぼすべての人が、当然と考えていました。 だから、ペテロやパウロも、そう勧めたのでしょう。
一方を他方より上位に置くのが、誤りだとも思いません。 そういう時代も、長かったし、今でも、世界では、男性優先的な構成のほうが、一般的でしょうから。 みんなで話し合って決めればいいのです。 日本でも、地方や家庭によっては、伝統で父系や母系があるでしょうし、一概にダメだとは、言えません。
これに対しては、イヴは、アダムのあばらから創られたから、女は、男より劣等だと、反論する人もあるかもしれません。 イヴが大蛇にそそのかされて知恵の実を食わなければ、人間は、エデンを追放されずに済んだと言う人もいます。 でも、イヴがアダムの肉からできたとしても、アダムとイヴで、材料が異なるわけではありません。 イヴがサタンの誘惑に負けたのが、イヴのせいなら、どうして神は、イヴだけを追放しなかったのですか。 アダムは、なぜ実を拒絶しなかったのですか。
つまり、アダムもイヴも、共犯で、同罪です。 男女は、ペアでなければ、人間的ではないのです。 キリストは、男と女を差別してはいません。 男にも女にも、平等に接していますし、病気を治しています。 すべての罪を女性に押しつけるのは、福音的ではないでしょう。
男だろうと、女だろうと、救われる者は、救われるし、救いようもない者は、救いようがないのです。 教会においても、相変わらず、女性蔑視は、強いのですが、それが福音に基づくと説明するなら、間違っています。 差別の根拠は、役割に求めなければなりません。
21 福音は悪を許容しない
クリスチャンは、倫理的な意識が、おそらく通常人よりも高いはずです。 グノーシス的二元論では、かならずしも悪を否定しません。 悪を否定してしまうと、善の意義がなくなってしまうからです。 悪者がいないと、正義のヒーローは、暇なのです。 クラーク・ケントは、スーパーマンに変身する機会がありませんから、美人の同僚にも相手にされない、さえない記者のままです。 キリスト教では、悪は、善の欠如であって、マイナスの善ですから、いかなる意味でも、否定されなければなりません。
19世紀末のドイツの哲学者ニーチェは、アンチキリストの代表です。 彼の哲学は、ニヒリズム(虚無主義)です。 彼は、思想の骨格を仏教に得ました。 つまり、仏教の空の思想が、ニヒリズムのプロトタイプです。 一切の価値を否定することにより、いわば無からなにかを生み出そうとするのが、ニヒリズムです。 輪廻(カルマ)の思想は、空を支える宇宙観ですが、ニーチェは、永劫回帰と読み換えています。 同様に、仏を超人(superman)と言い換えています。 完全に悟りきらない段階の人は、高人(highman)です。 ニーチェ哲学は、ヨーロッパでは、画期的な思想のように評価されましたが、日本人には、おなじみの仏教ですから、陳腐です。
ニーチェが悪に寛容なのも、仏教的なグノーシス主義だからです。 善も悪も相対的な違いでしかないので、手段を選びません。 つまり、グノーシス主義では、悪は、いわば善の逆数です。 善と悪を掛け合わせても、本質的には、なにも変わりません。 福音では、悪は、マイナスですから、プラスである善と掛け合わせると、悪が生まれます。 悪は、否定するほかはないのです。
したがって、クリスチャンは、役所や会社などの組織では、かなり良心の呵責を覚える場面もあるでしょう。 組織では、えてして黒を白と言わなければなりません。 なので、わたしは、クリスチャンは、なるべくプロフェッショナルな方面に進んだほうがいいと、思います。 医師や弁護士、税理士や会計士など、高い職業倫理を要求されるものがいいでしょう。 わたしは、大きな企業を選んだのですが、失敗でした。
若いなら、起業するのも、いいでしょう。 人生も半ばをすぎてしまうと、あとは大過なく、キリストからお呼びがかかるのを、待ちたくなってしまいます。 二十代、三十代のうちに、冒険してください。 ビジネスでのクリスチャンの成功は、キリスト教界に寄与します。 商売で成功したら、教会にたっぷり寄付しましょう。
キリストは、聖職者が商売にたずさわるのは、禁じたのですが、一般の信者には、職業選択の自由を認めています。 なぜなら、社会のすべてのメンバーが聖職者になるのは、現実的ではありません。 そして、職業につかせる以上は、どの職業がよく、どの職業が悪いとは、特に語っていません。 むしろ、キリストは、いやしまれていた職業の者にも、わけ隔てなく接し、弟子としています。
また、たとえ話ですが、人は、タレントに応じて報酬を受けるべきだとも、語っています。 一般の信者がどんな仕事をしていようが、問題ないのです。 強盗でさえ、パラダイスに受け入れられたのですから。 もちろん、だからって、悪事を働いてもいいとは、けっして言っていません。 犯罪者でも、悔い改めれば、天国に行けると、言ったのです。
22 福音への意欲と情熱が救済を保証する
文明的な社会には、さまざまな誘惑があります。 クリスチャンになっても、人間は、人間です。 物欲、食欲、性欲、その他もろもろの煩悩から開放されるわけではありません。 大多数のクリスチャンは、迷いながら、苦しんだり、楽しんだりして、平凡に、人生を送ります。 この点で、異教徒と異なるわけではありません。 ときには、犯罪や反社会的な行動に走ってしまう人もいるでしょう。 欲望に負けて反福音的な (anti-Evangelic)行為をしてしまうこともあるでしょう。 そんなときは、おそらく自分で自分がイヤになります。 でも、自分をうらむのは、お門違いです。
シャカは、欲望を悪とし、煩悩を克服するようさとしました。 仏教では、すべての価値を否定し、欲望を滅却すれば、悟りを得て、解脱することができると、されます。 これは、一種の無価値主義あるいは虚無主義(ニヒリズム nihilism)です。 無は、本来は、無価値なはずです。 なのに、無に価値があると言うなら、悪にも善があると、主張するはずです。 論理が同じですから。 だから、虚無主義者は、かならず悪魔崇拝者になります。
でも、キリストは、欲望をかならずしも否定していません。 むしろ、欲望を、神を希求するエネルギーに転化するよう、教えています。 修行によって、いくら欲望を抑制することができるようになっても、神のないところに、幸福は、ありません。 山野にこもって欲を絶とうとするのは、無益とまではいいませんが、それだけでは、自己満足でしかありません。
キリスト教にも、いくつかの修道会など、禁欲を重視する教派があります。 でも、それは、愛を神に集中するために、質素を重んじるのです。 禁欲のための禁欲ではありません。 単なる禁欲主義では、アガペーに到達することはできません。 そもそも、人間に本能や感覚があるかぎり、欲望をゼロにすることなどできません。 なぜならすべての欲望は、本能や感覚の働き、生命の機能だからです。 欲望は、生きている証なのです。 本能や意思は、原罪の名残です。
もし、アダムとイヴがエデンにずっといれば、人間は、あらゆる欲望や意思から自由でした。 ただ平和に、幸福に、半永久的に暮らせたのです。 腹が減ることもなく、裸でも、恥ずかしいとも思わずにいられたのです。 男と女ということさえ、意識せずに、つまりエロスにとらわれずにいられたのです。 でも、二人は、楽園を放逐され、その代償として、人間は、本能や欲望を無視することができなくなってしまいました。 時計の針は、被造物には、もとに戻すことはできません。 つまり、欲望や意思は、人間の証明なのです。
どんなに自己の欲求を征服しても、まったく飲まず食わずで生きることは、どだい無理です。 オシッコやウンコを我慢するのも、不可能でしょう。 欲望を否定せよと、教えながら、布施を受けたり、現世ははかないと、教えながら、伽藍を建てたりするのは、自己矛盾ではないでしょうか。 人生は苦だと、言いながら、正しく生きようと努力するのは、背理でしょう。 現世が空なら、いくら修行したって、現世は、空です。 欲を否定せよと、言いながら、実は、無を欲しているではありませんか。 無欲であれと、命じながら、極楽を求めよとするのは、偽善でしょう。
人間から欲望をマイナスしていけば、なにが残るのでしょう。 無が有だと主張する者は、悪が善だと主張するサタニスト (Satanist)です。 欲望や願望を否定するのは、人間らしさの否定です。 信仰は、人間が人間らしくあるためのものです。 人間が非人間的になるための信仰など、自己撞着です。 信仰は、人間を枯らすのではなく、実らせなければなりません。
生を肯定し、欲も肯定したうえで、キリストという最高の価値への愛、神の愛を求める行為に近づこうとするのが、キリスト教の信仰です。 豊かになりたい、偉くなりたい、成功したい、出世したいという意欲は、すなおです。 おいしい物を食べたい、きれいな服を着たい、広い家に住みたいという気持ちの、どこがいけないのでしょうか。 福音も、救済も、心から求めない者には、与えられません。 そして、心から求める者に、かならず与えられます。
求めることは、苦難なので、受難 (Passion)という言葉が、情熱 (Enthusiasm)の意味になるのです。 愛は、熱く欲することであり、篤く信じることなのです。 そして、意欲 (Will)と愛の羅針盤を、キリストに向け続けるかぎり、命の船は、天なる港を外すことはありません。
おまえたちがわたしにとどまり、
わたしの言葉がおまえたちにとどまるなら、
おまえたちは、欲するものを求めよ。
されば、欲するものは、おまえたちに、なされよう。(ヨハ 15:7)
法や道徳や倫理の範囲でなら、クリスチャンにできないことはありません。 つまり、意欲は、それ自体が悪ではありません。 でも、意欲の価値は、目的によって決まるのです。 欲望の結果、悪に走ったとしても、欲望そのもののせいではありません。 法や福音に反したからです。 クリスチャンなら、すべての行為に序列をつけ、常にキリストと福音を忘れてはなりません。
大事なことは、最後まで救済をあきらめないことです。 自暴自棄にならないことです。 あきらめた時点で、天国への階段は、とぎれてしまいます。 ペテロでさえ、 3度も主を無視してしまいました。 最初に天国に入ったディスマス (Dismas)は、罪人でした。 犯罪者として、キリストとともに磔にされましたが、キリストを受け入れたので、十字架の上で、天国を約束されたのです。
だれもがこのような恩寵にあずかるとはかぎりません。 でも、クリスチャンは、懺悔し、信じるしかありません。 悪とは、なにかを欠いていることです。 キリストには、すべてがあり、なにも欠けるところが、ありません。 完全にして無欠なとは、キリストのためにある形容なのです
自殺しても、天国には行けません。 自殺は、福音の放棄だからです。 棄教と同罪です。 悪いのは、下手に取りつくろおうとすることでしょう。 キリストは、偽善を憎悪しました。 悪人が善人ぶるのは、最悪です。 罪を犯したら、すなおに認めましょう。 人間をあざむけても、神は、あざむけないのです。 天なるエルサレムの入国審査で、エンジェルがパスポートにスタンプを押してくれるかどうか、祈って待ちましょう。
ほかにも、クリスチャンが現実の生活において、悩むべき場面は、多々あります。 神父や牧師に相談したり、信者で話しあったりして、乗り越えてください。 現世でうまくいかなくても、現世を憎まないようにしましょう。 クリスチャンなら、この世で生き別れても、天国ですぐに会えます。 「天国で待つ」が、クリスチャンの合言葉です。
23 信仰は告白されて強まる
被造物にすぎないわたしたちが、創造主たるキリストすなわち神について語ろうとすれば、言葉が足りません。 福音の解釈について、口論や議論が生じ、対立や分裂を招くこともあるでしょう。 でも、だからって、キリストについて語ろうとせず、信仰に臆病になってしまうならば、それは、キリストの望むところではないでしょう。 すべてのクリスチャンには、キリストとの直接の啓約に基づき、キリストを信じ、キリストについて語る権利と義務があります。
もし、自分の意見が他人と異なっていても、オーソリティの見解に反していても、クリスチャンは、キリストをあきらめてはなりません。 天国に行けるかどうかを、最終的に決定するのは、創造主たるキリストなのですから。 パラダイスへのドアが開かれるのを信じて、人生をまっとうするしかありません。 かつて、異端の烙印を押されながら、ちゃんと天に昇った人々も、大勢います。 たとえば、ジャンヌ‐ダルク、ガリレオ、デカルトなどの例を忘れないようにしましょう。 兄弟の間で、意見の食い違いがあっても、ねばり強く、おたがいの理解と尊重に努めましょう。 人生は短く、信仰は長いのです。 事を急ぎすぎないようにしましょう。 キリストの気が変わっていないなら、まだ時間は、たっぷりあります。
わたしは、つくづく自分の未熟と弱さを痛感します。 でも、一個のクリスチャンとして、信仰を告白し、救済を熱望し、罪を懺悔し、真実を証言する資格があります。 信仰は、啓約の履行責任です。 信仰の責任は、自分だけが、神に対して、負うのです。 だから、このことで、キリストの怒りを買ってしまったなら、心から情けと許しを、主に乞います。
24 人生は巡礼である
天地は過ぎ去れど、わたしの言葉は過ぎ去らぬ。(マタ 24:35、マル 13:31、ルカ 21:33)
長い苦難の末に、世の終わりが訪れます。 キリストにより、すべてが裁かれ、天地が滅却されると、世界は、新たに造り出され、完成されます。 そして、キリストとともに過越しを祝う時、神の愛を知ることができます。 すべてが与えられ、もはや失われるものはなにもないでしょう。 こうして福音は成就され、啓約が履行されます。
人生が長かろうが、短かろうが、福音を受け入れ、キリストと啓約を結んだ者にとって、人生は、巡礼です。 人生が改まれば、世界が改まります。 キリストに出会えば、この世界は、別物です。 キリストとともに歩み、失われた時間と記憶を取り戻しなさい。 クリスチャンは、旅に生まれ、旅に生き、旅に終わります。 この世は、仮の住みかにすぎません。
人生も行為であり、その価値は、目的で決まります。 道を照らすのは、福音の灯りだけです。 目的地は、遠いですが、かならずたどり着けます。 生き別れても、天国で再会することができます。 悲しみは一時ですが、喜びは永遠です。 では、よき旅を。
神にして人、
主にして僕、
父にして子、
聖霊にして人魂、
われらが主イエス・キリストの愛と恵みが、
われらすべてに、かないますように。
アーメン。+++
(注)聖書の引用は、「欽定版(ジェームズ王バージョン King James Version KJV )」とその翻訳によりました。翻訳は、可能な限り、逐語訳としました。
tTt.K.
補記
そして、イエスは、このように多くのたとえを用いて、
人々の聞く能力に応じて、言葉を語った。
しかし、たとえを用いずに語ることはなかったが、
弟子たちしかいないときは、すべての事柄を解き明かした。(マル 4:33-34)
おまえたちに言葉と知恵を与えよう。
いかなる反対者も、否定しえず、反論しえまい。(ルカ 21:15)
主の恵みを受けてから、二十年にわたる苦悩を経て、ようやく真実を記述することができるようになった。
悪魔があの手この手で阻もうとしたが、主の導きで何とかたどり着いた。
新たなるミレニアムの夜明けを迎えるにあたり、多くの人々が正しい信仰に立ち上がれるように、できるだけ平易に書き記したい。
ただし、新しいことは、何もない。すべては、主イエスによって語られた。
言葉は、余すところなく使徒により伝えられた。神の言葉に何かを付け加える余地はない。
もし何かを付け加えるなら、未来永劫に呪われるだろう。
神の言葉から何かを取り除く者もしかり。
すべては、必要にして十分に満たされている。
キリスト万歳。アーメン。
具体的には、次の事が無矛盾に確認される。
一、まず、永遠の過去から永遠の未来において、唯一絶対たる神が存在し、神は神以外のすべての存在を創造した創造主であること。
一、次に、創造主たる神は、救世主たる神でもあり、神は、精神や物質においても、顕現することから、父と子と聖霊のトリニティが実現されること。
一、そして、神には性質上始まりも終わりもないが、すべての被造物には、始まりがあり、神の恵みにより不死(終わり無き存在)にされない限り、終わりがあること。
一、最後に、神により永遠化されること(天上に引き上げられること)が救いにほかならず、そのためには、キリストの愛と言葉である福音を受け入れる以外に道はないこと。
以上。
神は、いたく世を愛し、そのひとり子を与えた。
子を信じる者がひとりして滅びず、永遠の命を得るためだ。
神が子を世に遣わしたのは、世を裁くためではない。
子によって世が救われるためだ。(ヨハ 3:16-17)
主イエスの言葉と知恵。言葉の言葉。知恵の知恵。
選ぶ者は選ばれ、選ばぬ者には何もない。
主イエスの光と救い。光の光。救いの救い。
ひざまずく者は抱かれ、ひざまずかぬ者に報いはない。
主イエスの恵みと愛。恵みの恵み。愛の愛。
受ける者は受け入れられ、受けぬ者に用はない。
時は満ち、機は熟した。
夜が終わり、雄鶏が鳴く。
地の罪は地上で償えば済むが、天の罪は償えない。
天の罪は天上でしか償えない。
だから、人は、天を目指さなければならない。
神は人を愛したので、みずから見本を示した。
疑う者に日は差さず、ためらう者に朝は訪れぬ。
恐れず、陰なき光の道を行け。
欲望の奴隷ではなく、欲望の主人たれ。
脳髄の情人ではなく、脳髄の元締めたれ。
快楽の家畜ではなく、快楽の支配者たれ。
道徳の囚人ではなく、道徳の番人たれ。
1 存在と実体について
まず、神が存在しないと主張する無神論者は、「存在する」とはどういうことかが、よく分かっていない。
結論を言えば、神が存在しないと主張するなら、自らも存在しないと主張するはめになる。
以下、そのことを示す。
人は、神をどう表現すべきか。 いや、どう表現せざるをえないのか。 いずれにしても、まず、神がいることを証明しなければならない。 なぜなら、存在するなら、実体を議論する余地があるが、存在しないなら、実体を議論する意味がないから。 つまり、存在するなら、実体があり、存在しないなら、実体もない。 実体とは「どうあるべきか(How to be)」の問題である。 これに対して、存在とは「何があるべきか(What to be)」の問題であって、両者を混同してはいけない。 存在論を理解できないのは、この混乱が原因である。
ただし、神が存在すると証明しても、神の実体を議論する意義は、あまりない。 まず、神は、万能だから、いかなる実体でもなれるだろう。 実際になるかどうかは別として。 また、そもそも神の実体を人が現世で認知する機会がほとんどないだろう。 (もちろん例外がイエス・キリストであり、聖霊だが。) 天国においても神を直接に認知することはほとんどできないだろう。 ただ、神とともにあるという恩寵に満たされるだけだ。 天にはただ幸福だけがある。 人間に分かるのは、それだけだ。 創世記では、神は、自分に似せてアダムを造ったとされる。 ミケランジェロも神を老人として描いた。 しかし、主が神に似せて人を造ったというのは、キリストが自分に似せて人を造ったということにすぎない。 創世記もイエス・キリストの預言なのである。
神が人を創った日に、神は、自分に似せて人を造った。(創世 5:1)
そこで、神の存在をいかに証明するか。 答えは、いつも聖書にある。 つまり、聖書にはすべてが書かれている。 ただ、人が読み取れるかどうかが問われる。 イエスは、すべてを語った。 だのに、まだ語られていない何かがあると、多くの人は、愚かにも思い込んでしまう。 すべての迷いや疑いは、思い込みから生まれる。 もし、言葉を最初から最後まで信じ通せるならば、信仰が揺らぐことなどありえない。 いつの世も、人は、揺らがないほど愛される。 人には、神と神の言葉を区別することができない。 聖書が神の言葉だというのは、すべての信仰の出発地であり、目的地である。
初めに言葉があった。言葉は、神とともにあった。言葉は、神であった。(ヨハ 1:1)
聖書によれば、いかなる論理にも先立つ三つの公理がある。 存在公理、順序公理そして有界公理である。
(1)存在公理(Axiom of Being)あるいは帰属公理(Axiom of Belonging) : ∀a∃a(a∈a)
存在は、自己帰属性である。
他のいかなるものにも帰属しなくても、自己には帰属するからである。
もしaが存在するならば、aは、自己に帰属する。
かつ、aが自己に帰属するならば、aは、存在する。
自己に帰属するものは、すべて存在する。
自己に帰属しないものは、なべて存在しない。
もし、aが自己に帰属しないと主張するならば、aがaでないと主張することになる。
これは、自己破綻(ラッセルのパラドックス)である。
そして、自己に帰属しないものはない。
よって、すべては、存在する。
∀a∃a(¬(a∈a)) ⇔ ∀a(¬∃a(a∈a)) ⇔ ¬(∀a∃a(a∈a))
この公理の系として、「空」とか「無」と呼ばれるものも、存在する。
∀a∃φ((φ∈φ)∧(φ∈a))
空であっても、自己に帰属することは明らかであり、かつ、空は、いかなる要素にも帰属するからである。
神は、すべてを漏れなく創った。 この世に、神によって造られなかったものは、かつてなく、これからもない。 すべては、あらかじめ用意されている。 ないのは、ただ、現れていないだけである。
かくして、神は、造ったものすべてを見た。(創世 1:31)
おお、主よ、あなたこそ、栄えと誉れと力を受けるにふさわしい。
あなたが万物を創造し、あなたの望むままに、万物は、創られつつ、創られたから。(黙示 4:11)
(2)順序公理(Axiom of Ordering)あるいは比較公理(Axiom of Comparing) : ∀a,b((a<b)∨(b<a))
任意の要素は、取り出してある基準によって比べられる。 つまり、任意の要素は、ある順序によって並べられる。 この公理は、選択公理(Axiom of Choice)とも同値である。 すなわち、任意の要素は、ある規則によって選び出せる。 任意の要素について、「並べる」という作用は、「比べる」と「選ぶ」という作用と同値である。
この公理の系として、冪(ベキ)の存在も成り立つ。
冪とは、ある要素のすべての部分集合(その要素自身を含む。)と「空」から構成される要素である。
∀a∃p(a)((a∈p(a))∧(φ∈p(a))
aがp(a)に帰属すれば、aの部分集合がp(a)に帰属するのは明らかであり、「空」が帰属するのは「空」の定義から明らかである。
この公理が有限集合に関して成り立つことは、冪を取り出すのは、難しくないから、自明である。
しかし、無限集合、特に不可算の無限集合において成り立つかどうかについては、議論があった。
この公理は、いかなる要素も冪を持つことを示す。
この公理の系として、推移法則も成り立つ。
∀a,b,c((a<b)∧(b<c)) ⇔ ∀a,b,c(a<b<c)
また、反対称法則が成り立つ。
∀a,b((a<b)∧(b<a)) ⇔ ∀a,b(a=b)
したがって、反射法則が成り立てば、全順序関係となる。
ところで、帰属関係は、反射法則そのものなので、反射法則が成り立つ。
∀a(a∈a)
また、推移法則も成り立つ。
∀a,b,c((a∈b)∧(b∈c)) ⇔ ∀a,b,c(a∈b∈c)
また、反対称法則も成り立つ。
∀a,b((a∈b)∧(b∈a)) ⇔ ∀a,b(a=b)
つまり、帰属関係は、全順序であるから、すべての存在は、整列される。
キリストは、すべての被造物を意のままに選び出し、比べて並べる。 主に並べられないものはない。
最初の者が最後になり、最後の者が最初になることが多い。(マタ 19:30)
おまえたちのうちで最も偉大な者は、おまえたちの僕でなければならない。
自分を高くする者は、みな低くされ、自分を卑しくする者は、高くされよう。(マタ 23:11,12)
(3)有界公理(Axiom of Bounding)あるいは完備公理(Axiom of Completing) : ∀a∃x((1/x)≦a≦x)
任意の要素について、上界と下界が存在する。
全順序なので、上限と下限が存在する。
∀a∃sup(a) かつ ∀a∃inf(a)
aの拡張(エクステンション)を a_ext=a∨(1/x)∨x とする。
拡張は、基となる要素に上界と下界を付加したものである。
a_extは、存在公理と順序公理を満たす。
a_extにおいて、(1/x)とxは、最小と最大であり、唯一の極小と極大である。
aが最大と最小を持たなくても、a_extは、最大と最小を持つことから、aが開いていても、a_extは閉じている。
a_ext(1)=[(1/x)(1)<a<x(1)]
a_ext(2)=[(1/x)(2)<a_ext(1)<x(2)]...
a_ext(n)=[...<[<(1/x)(3)[(1/x)(2)<[(1/x)(1)<a<x(1)]<x(2)]<x(3)]<...]は、すべて閉区間。
a_ext(n)の上界と下界をx(n+1)、(1/x)(n+1)とすれば、a_ext(n)、x(n+1)、(1/x)(n+1)は、いずれも収束列であって、
lim(a_ext)=XA、lim(x)=XN、lim((1/x))=(1/XN) とすれば、XA=XA∨(1/XN)∨XNについては、上界と下界が存在しない。
したがって、この公理は、正確には、∀a∃x((1/x)<a<x)(ただし、aは、拡張の極限ではない。)となる。
XA=[(1/XN)<...<[<(1/x)(3)[(1/x)(2)<[(1/x)(1)<a<x(1)]<x(2)]<x(3)]<...<XN]は、閉区間。
なお、(1/XN)とXNは、一意に定まる。
∃XN((1/XN)∈(1/XN)) かつ ∀a((1/XN)<a)
∃XN(XN∈XN) かつ ∀a(a<XN)
aの濃度をc(a)とすると、c(a_ext)は、c(a)が無限濃度なら、c(a_ext)=c(a)である。
有界公理により一般連続体仮説が成り立つ。
なぜなら、同一の区間において、ある要素の冪は、一意に定まり、かつ、ある要素から冪への全単射は、ないからである。
よって、アレフ(n)の濃度の要素の冪の濃度は、アレフ(n+1)に等しい。
(Aleph(n))~(Aleph(n))
= (2~(Aleph(n-1)))~(Aleph(n))
= 2~((Aleph(n-1))*(Aleph(n)))
= 2~(Aleph(n))
= Aleph(n+1)
したがって、無限濃度は、アレフ0(可算無限濃度)とアレフ1,2,3...(不可算無限濃度あるいは連続体濃度)がある。
つまり、連続体濃度には、さらに際限なく高次の連続体濃度がある。
そして、任意の濃度c(a)について、存在公理と順序公理が成り立つ。
無限濃度には、可算濃度(アレフ0)と不可算濃度(アレフn n=1,2,3...)という二種類がある。
これは、存在に、形而下的な存在と形而上的な存在の二種類があることを示している。
形而下的な存在は、可算であり、形而上的な存在は、不可算である。
形而上的な存在は、形而下的な存在の冪である。
任意の想像上の存在が物理的に存在するほど宇宙に容量はない。
形而上的存在には、精神的存在すなわち観念的存在が含まれるが、そのほかの非形而下的存在も含まれる。
たとえば、何らかの霊的存在、超観念的存在などである。
もっとも、人間がこれらの存在を認知するのは、難しいだろう。
なお、可算か不可算かは、人間にとっての区別にすぎない。
なぜなら、神に数えられないものはなく、神は、すべてを数え上げるから。
ここで、唯物論が成り立たないことも分かる。
唯物論者は、神や霊や精神や観念などの形而上的存在は、脳が作り出したにすぎないと主張する。
独立した存在ではなく、影のようなものだと。
しかし、もし、脳が精神を作り出したにすぎないとするなら、精神は、脳を出ることはない。
影は、本体と一対一に対応するから、影の濃度も本体の濃度に等しいはずである。
しかし、現実には、影の濃度は、本体をはるかに上回る。
脳は、物質を超えていくらでも認識を拡げるから。
本体と影との間に単射がないことから、観念は、何かの影ではなく、独立した存在だとしなければならない。
すると、濃度のより小さいものが濃度のより大きいものを含むことになり、矛盾である。
物質M(Mは、稠密で全順序な無限集合)であれば、c(M)=Aleph0、c(p(M))=Alephである。
ここで、c(M)からc(p(M))への全単射がない。
よって、p(M)には、Mに含まれない要素が無限に存在する。
したがって、Mが存在するならば、Mには属さないものがある。
つまり、Mを超越した存在が必ず存在しなければならない。
われらは、それらを形而上的存在と呼ぶ。
これは、次のように言い換えられる。
もし、脳がすべての観念を作り出したなら、形而上的存在の連続性は、公理にならないはずである。
なぜなら、脳は、みずから作り出したものを数えられるはずだから。
しかし、実際には、形而上的存在に番号を付すことができない。
つまり、アレフ0の存在がアレフ以上の存在を漏れなく取り尽すことができない。
したがって、脳は、すべての観念を包含することはない。
すなわち、精神や観念は、主観的にのみならず、客観的にも存在しなければならない。
いわんや神においてをや。
神や霊や精神は、脳の外でも存在する。
そうでなければ、観念を伝達することはできず、精神を共有することもないはずだからである。
aの冪をp(a)とする。 c(a)=d(XA)=Aleph0 であるならば、c(p(a))=c(p(XA))=Aleph である。 このとき、(1/XN)、XNは、XAの極小(最小)、極大(最大)であるが、同時に、p(XA)の極小(最小)、極大(最大)でもある。 物質的な存在の極小と極大は、精神的な存在の極小と極大でもある。
キリストは、霊的な存在と肉的な存在のほかには、語っていない。 なぜなら、福音的には、人間に直接接するのは、子と聖霊だけだから。
存在には距離を定義することができる。 つまり、存在は、距離空間を構成する。 よって、存在が全有界で完備ならば、存在は、コンパクトである。 神が存在するので、存在は、全有界である。 また、物質は完備ではないが、精神は完備である。 なぜなら、形而下的な存在は可算無限だが、形而上的な存在は不可算無限だからである。
目を高く上げて見よ。だれがこれらの物を創造したかを。
かの方は、それらの群れを数えて呼び出し、それらすべてを名前で呼ぶ。…
一つとして漏れはない。(イザ 40:26)
肉によって生まれた者は、肉だ。 霊によって生まれた者は、霊だ。(ヨハ 3:6)
2 父と子と聖霊のトリニティについて
トリニティが一神教を弱めるとか、三神論であるとか主張する者は、神を知らない。
唯一絶対の神が存在するならば、キリストが存在しなければならない。
以下、そのことを示す。
子(キリスト)と聖霊の存在が証明された。 では、父(神)は、どうなのか。
無限に冪を考えることができる。 これらの存在は、物質も精神(観念)も超越したものである。 このような超形而上的な存在は、感覚(直感)も直観(思考)も及ばないので、いかなる存在かを記述することはできない。 ただ、それらが存在することだけが証明される。
冪も、全順序であり、収束列であるから、極限の冪が存在する。 これが父(神)であり、唯一にして絶対の存在である。 ここで、次のような問題が提起される。 冪の存在が元になる要素の存在を前提とするならば、形而上的存在が形而下的存在から構成されるにすぎないのではないか。 しかし、三つの公理を前提とすれば、形而上的存在から形而下的存在も漏れなく導き出せる。 したがって、神の作用が万物の創造の源泉であることが分かる。
そして、冪の極限は、より順位の低い拡張の極限でもあるから、物質的存在の極限も精神的な存在の極限も、これに一致する。
したがって、トリニティが実現する。
これは、次のように言い換えられる。
すべての無限集合について、上界が存在し、さらにその極限は、一意に定まる。
よって、人には子(キリスト)、霊には聖霊、そしてすべてに対して父(神)があり、これらは、同値である。
トリニティとは、存在というよりは、むしろ論理的な帰結である。
だから、トリニティを認めることが一神教を弱めたり、否定することにはならない。
それどころか、神や天国、霊と肉を認めるなら、必然的にトリニティが成立しなければない。
ちょうど、三角形が三辺を持つのと同様に、自明なことなのである。
神が認めることは、キリストを認めることであり、キリストを認めることは、神を認めることである。
それらは、論理的には区別することができない。
すなわち、トリニティとは、次のとおり記述される。
「父が存在するなら、子と聖霊が存在する。かつ、子が存在するなら、聖霊と父が存在する。かつ、聖霊が存在するなら、父と子が存在する。」
あるいは、「父と子と聖霊は、たがいに先にあり、かつ、たがいに後にある。」
端的に「父と子と聖霊は、同値である。」
イエス・キリストは、「神の右の座に着く」者である、
これは、比喩である。
神は、唯一の頂点であるから、右も左もないだろう。
最高峰の頂に立てば、もはや右や左もなく、周囲にはただ天空が見えるだけのように。
これは、父と子が同位(一致)であることを意味する。
二千年もの間、われらが信じてきたことは、正しかったし、これからも正しい。
わたしと父は、一つだ。(ヨハ 10:30)
わたしは、父に願おう。
そうすれば、父がもう一人の助け主をおまえたちのために与えよう。
それは、その助け主がいつまでもおまえたちとともにいるためだ。
その助け主とは、真理の霊だ。(ヨハ 14:16-17)
それは、彼らが一つになるためだ。
父よ、あなたがわたしにあり、わたしがあなたにあるように、
彼らもわたしたちのうちで一つになるためだ。
それは、あなたがわたしを遣わしたと、世が信じるためだ。
そして、あなたがわたしに与えた栄光を、わたしは、彼らにも与えた。
それは、彼らが一つになるためだ。
ちょうどわたしたちが一つであるように。(ヨハ 17:21-22)
3 終末と再生
神やトリニティを認めたとしても、どうして終末や最後の審判や再生が必要なのかが分からなければ、主の恵みの真実が分かったとはいえない。
どうして世界が刷新されなければならないか、なぜ永遠の命が可能なのか。
以下、そのことを示す。
神を除くすべての存在が有界であることは、いずれ終末が訪れることも示す。