旅行記
2002年7月から2003年11月にかけて、ヨーロッパから中東を旅行しました。その体験を本にまとめ、巡礼エッセイという形で出版しました(新風舎「もう一つのヨーロッパ」)。もっとも、費用を抑えるために、写真を挿入することができませんでした。このサイトで、旅行中に撮った写真を紹介します。100KBを超える画像が多数あるので、大容量回線でなければ、表示できないでしょう。要JavaScript。なお、画像は、今後Google社のPicasaウェブアルバムに移転します。
ギリシャ
アイギナ-クレタトルコ
イスタンブールアトス
アトスエジプト
アマルナ-アレクサンドリアイスラエル
ガリラヤブルガリア
プロウディフ-ネセバルルーマニア
ブカレスト-コンスタンツァイギリス
カンタベリーフランス
シャルトル-アヴィニョンドイツ
ベルリンスイス
ジュネーブイタリア
アッシジ-パルマヴァチカン
ヴァチカンギリシャ
アイギナ-クレタ
|
|
Greece1(Ae |
ギリシャに来たら、エーゲ海クルーズは、欠かせません。アイギナ、ミコノス、イドラを回るのは、定番です。
クレタは、ギリシャ前に、地中海を制した国です。ミノス(Minos)という王が治めていたので、ミノア人(Minoans)とも呼ばれます。ギリシャ人がミノア人を征服する話は、ミノタウロス(Minotaur)伝説として残っています。ミノア人がどんな系統の民族だったのかは、いまだに判明していません。リニアA(線状A Linear A)は、解読されていません。リニアBは、ギリシャ語であることが、判明しています。
また、クレタ島からは、奇妙なタブレットが見つかっています。ファイストス・ディスク(Phaistos Disk)と呼ばれるものです。見ていると、なんか吸いこまれそうな錯覚に陥ります。円盤の両面に絵文字(記号)がらせん状に描かれています。このような美しく神秘的なタブレットは、世界に二つとありません。神殿の跡から発見されているので、なんらかの呪術に用いられたかと思われますが、これも、未解読です。自由で写実的な絵画を残したミノア人が、どんな信仰を持っていたのかは、興味深いところです。
ミノス・リング(Ring of Minos)が、一つの推察を許します。リングには、精巧なテクニックで装飾が施されています。その図柄から、命の木や永遠の楽園といった、オリエントに共通の信仰が見て取れます。このことから、ミノア人は、フェニキア人(Phoenicians)の先達ではなかったかとも、推察できるのです。ミノス・リングは、黄金のリングです。これが3500年以上も前の細工だとは、信じられません。命の木に群がる人々でしょうか。
ミノス王の玉座。クノッソスは、サントリーニ(Santorini)島の噴火ではなく、ギリシャ人(ミケーネ人)に破壊されました。ミノタウロス伝説のもとになったのは、雄牛崇拝です。
アテネ
![]() |
| Greece2(At |
ギリシャ人が地中海へと南下して 4,000年。アテネの歩みは、ヨーロッパの歩みと言っても、過言ではありません。アクロポリスのふもとにあるゼウス神殿の遺跡。オリンポスの最高神はゼウス( Zeus )です。「ゼウス」は、インド‐ヨーロッパ語で、「神」の意味です。「神性( deity )」や「神学( theology )」という言葉も、仲間です。ギリシャ神話を始め、世界各地の神話は、キリストを予言しています。
「パルテノン (Parthenon)」とは、「乙女の場所」の意味です。北側の断崖をよじ登ったペルシャ部隊が火を放つと、アクロポリスは、炎上しました。アテネの守護神アテナ( Athena )は、処女神( Virgin God )です。処女神崇拝は、コーカソイドすなわちヨーロッパ人に特徴的です。古代では、女神は、豊穣神で、多産神であり、男神や人間との聖婚により、世界を生み出していくのが普通です。なぜ、処女神崇拝が盛んになっていったのか、興味深いところです。 パルテノン神殿は、オスマン時代に火薬庫として使用され、爆発して無残な姿になってしまいました。外側を飾っていたフリーズは、ロンドンの大英博物館に展示されています。騎馬隊の浮彫りが見事です。
アテネの市内観光といえば、考古学ミュージアムで古典古代の遺品を見て、アクロポリスに登ってパルテノンを見て、プラカ地区でお茶するのは、もちろんです。 クリスチャンなら、教会にも足を運びたいものです。 ギリシャは、ヘラクレスやプラトンを生んだだけではなく、偉大な使徒や教父も輩出しています。 日曜日には、ミサの中継があります。 ビルの敷地の片隅に建つチャペルには、人々が礼拝に訪れます。 ちっぽけですが、正面に飾られているのは、四世紀ごろのレリーフです。 アテネのビザンツ教会には、たいていの観光客は、見向きもしません。 外観は、地味で、薄汚い感じですが、 5世紀におよぶイスラム支配を耐え抜きました。 ギリシャといえば、白い教会ですが、実は観光用に漆喰を塗ったからです。 もともとは、みな、こういう感じだったのです。 個人的には、ビザンツ風の色彩も、大事にしてほしいものです。
モナスティラキ広場は、地下鉄の駅もできて、ずいぶんきれいになりました。 アゴラには、古代の神殿と中世の教会が共存しています。 アクロポリスのふもとの街並みは、裏通りに一歩踏みこむと、静かです。 いくつか小さいですが貴重なビザンツ教会が残っています。 小道が入り組んで、迷路のようです。 アクロポリスのニャンコ。 地上の肉食の哺乳類は、すべてネコ。 アテネのミトロポリ。一番格式の高い教会です。旧ミトロポリには、古代の教会の趣を伝えるレリーフが使われています。 リカベットスの丘からは、アテネが一望できます。
ギリシャ正教は、「沈黙のうちに神を見る」という静謐主義(ヘシカスム Hesichasm)を重んじるので、郊外に大きな修道院があります。 しかし、オスマン時代に、信教の自由と引き換えに莫大な重税が課されたので、多くの修道院が廃墟になってしまいました。 カエサリアニ修道院( Caesariani Kaisariani Monastery)もその一つです。
ビザンツ時代のことを知るのに、ビザンチン・クリスチャン博物館を見ない手はありません。訪れる人は、多くないようですが、実に貴重な文化財が、裸で展示してあります。 ギリシャ人は、異教でも、キリスト教でも、ヨーロッパ文化に、最大の功績を残しています。 現代のギリシャ人には、かつての栄光は、感じられませんが、世界史上最も偉大な民族なのは、疑う余地は、ありません。
デルフィ
![]() |
| Greece4(De |
デルフィ (Delphi)は、ギリシャの聖地でした。ヘロドトスの言及する神聖兵器は、アポロン神殿にあったそうですが、その正体は、謎です。ペルシャ軍は、デルフィの財宝を略奪しようとしますが、神聖兵器 ( Sacred Weapon ) が炸裂し、パルナッソスの岩肌が崩れ落ち、撃退されました。パルナッソス山:岩肌には、崖崩れの痕跡が残っています。
オシオス・ルカス修道院( Osios Lukas Hossios Loucas Monastery)は、デルフィからほど近い。
エレウシス-ペロポネソス
![]() |
| Greece5(El |
エレウシスは、ヘレニズム期の地中海世界で、随一の聖地でした。霊魂の不滅を唱えるオルフェウス教 (Orphism)に基づく女神崇拝でした。ディオニュソス(バッカス)は、ヘレニズム期になると、女性的に表現されるようになります。ローマのネロ帝やハドリアヌス帝も、ここでイニシエーションを受けたといいます。
乾燥したアッティカ(アテネのある地方)と異なり、ペロポネソスは、緑豊かです。 オリンピア。ゼウスのための祭事から、オリンピアの競技が発展しました。神と相撲をとるというのは、古代の世界では、珍しくなかったようです。 旧約にも、ヤコブが天使と戦って勝ち、「イスラエル(神に祝福されし者)」の称号を与えられる話があります。 旧都ナフプリオは、小さいですが、観光拠点です。
スパルタは、今では、高速道路さえ通らない地方都市です。 現実のスパルタ教育は、実に過酷なものでした。子供は、生まれると、病気のある子は、すぐに山に捨てられ、健康な子だけが国家の管理の下で厳しく教育されました。 郊外のミストラ ( Mystra ) は、ビザンツの城塞都市です。山の中腹に建つ修道院。サンクチュアリの「聖なる目」は、訪れる者の心を見透かすのでしょうか。放棄された教会が点在します。 ビザンツ帝国の最後の皇帝、コンスタンティノス十一世の像。一四五三年、コンスタンティノープルで戦死。ローマ‐ビザンツ帝国 1,500年の歴史は、ここに幕を閉じました。
スパルタの地方は、ラコニアあるいはラケダイモンとも呼ばれます。ラコニアは、美人の産地として有名でした。なぜなら、スパルタは、長らく鎖国政策を敷き、純血主義を維持したからです。スパルタ美人の容姿は、彫刻や絵画で、重宝されたのです。 ヘレニズム期のもの。現存するモザイクでは、世界最古のもの。 ラコニア美人。トロイ戦争を引き起こした絶世の美女ヘレネの伝説も、あながちです。
レスボス-ロードス
![]() |
| Greece6(Le |
ツアーでギリシャに旅行しても、レスボス島を訪れるコースはないようです。でも、アテネから飛行機が日に数便あり、日帰りで行って来られます。
観光の手段ですが、エージェントに頼めば手配できるかもしれません。わたしは、飛行場でタクシードライバーと交渉しました。朝の6時ごろから昼過ぎまで島を半周して食事代とチップ込みで、150ユーロほどではなかったでしょうか。オリンピック前だったこともあって、多分ちょっと割高です。女性なら、まけてもらえたかもしれません。とにかくギリシャ男は、女性に差別的に甘ちゃんです(イタリア男の比じゃありません)。たった一人の女性のために、国を挙げて戦争したなんて伝説も、あながちです。
観光のシーズンですが、ギリシャはどこでもそうですが、レスボスも、サッポー(Sappho)の島としてヨーロッパ人にとっては特別な存在で、夏場にはドイツやイギリスからツーリストが押し寄せるそうなので、春か秋のオフシーズンが静かです。もっとも、ここがレズビアンの聖地になっているということはなさそうです。 レスボスは、エーゲ海の北寄りなので、冬はかなり寒いでしょう。島をすべて見て回るなら、1泊できれば、十分な時間がとれるでしょう。一般的にギリシャの地方を回るなら、一番いいのは、レンタカーでしょう。
レスボスは、サッポーの島であると同時に、ダフニス(Daphnis)とクロエ(Chloe)の島としても、著名です。ロンゴス(Longos)がこの島を舞台に牧童の少年と少女の愛の物語を書いたのは2世紀、ローマ帝国の最盛期のことでした。牧歌文学の代表的な作品として、親しまれてきました。
夜明け:ラヴェル(Ravel)が作曲したオペラも有名です。夜明けの音楽は、わたしが実際に体験した景色とピッタンコでした。牧場で草をはむ家畜の群れ。 ヘレニズム文化の特徴は、牧歌性にあります。元来は、ギリシャ人の素朴な田園趣味だったのですが、ローマが地中海を制するにつれ、一つの理想的な世界観へと進化しました。牧歌性とは、汎神論的な自然賛美、自然と人間、自然と都市、自然と国家、自然と文明の調和あるいは融合を美の理想とする思想です。自然の背後にある調和や秩序すなわちコスモスへの信頼感がベースとなっています。ローマの平和(Pax Romana)が神々の意に沿うのだというローマ・コスモポリタンの確信です。
ヘレニズム的牧歌の影響は、ユダヤ教やキリスト教にも及んでいます。旧約に「ソロモンの雅歌(The Song Of Solomon)」あるいは「歌の歌(The Song Of Songs)」という小さいカノンがあります。
教えてください、おお、わたしの魂が愛するあなた、
どこであなたの群れを養い、昼に休ませるかを。…
わたしは、シャロンのバラ、谷のユリ。(雅歌 1:7,2:1)
愛しあう男女の相聞ですが、旧約の中では、抜群に享楽的で平和的な内容で、砂漠の中のオアシスのような書です。この書は、ソロモンの名をかたってはいても、作られたのは、早くとも紀元前2世紀のアレクサンドリアかパレスチナあたりで、ヘレニズム的叙情に満ち溢れた愛の賛歌です。 また、主イエス・キリストは、みずからをヒツジ飼いにたとえました。二、三世紀の初期のキリスト教では、福音を牧歌風に理解していました。今でも聖職者は、信者というヒツジの群れを正しく導く者と考えられています。 モリボスの要塞。昔の戦いは、都市や田園を攻撃せず、城を攻め落とせば、決着しました。
レモナス修道院(Lemonas Monastery)を始め、レスボスには、いくつか教会や修道院があり、独特の風情があります。 遠くにローマ時代のアクアダクトが霞みます。ロンゴスの生きた時代の雰囲気が残っています。 ミティリニは、ハイカラな港町。華麗なカテドラルが目を引きます。ここで、何気に入ったレストラン(タベルナ)で食べたカラマリア(イカ)飯は、ギリシャにしては、上出来でした。イカとトマトソースとチーズとオリーブオイルは、三和音のように調和します。
ロードス島は、キプロス島と並んで、アフロディテ崇拝が盛んだったところです。ロードスの港。世界の七不思議(Seven Wonders)の一つ、巨大なアポロン像が、港の入口にあったとされています。 キリスト教の関連では、一時期ヨハネ騎士団(ホスピタル騎士団)の拠点が置かれたことで有名です。
ミケーネ-トロイ
![]() |
| Greece7(My |
ミノア人を滅ぼして地中海の覇権を握ったミケーネ人は、各地に植民地を設置し、貿易を独占していました。ミケーネの遺跡は、後にギリシャ人でさえ、人間業ではないと考えた城塞です。 ミケーネの獅子門。前第二ミレニアムごろまで、ヨーロッパにも、ライオンがいたといいます。ヘラクレスのライオン退治も、ウソではないようです。 アガメムノンの王宮から見晴らすアルゴス平野。一瞬王になった錯覚にとらわれます。
そんなミケーネ人に敵対する勢力が現れました。ダーダネルス海峡は黒海への入口にあった、トロイ(Troy)です。トロイは、ギリシャの商船に通行税を課し、莫大な利益を上げていました。黒海地方は、ギリシャ人にとって、黄金、鉄、穀物の供給に不可欠でした。トロイの増長に業を煮やしたミケーネ王アガメムノンは、全ギリシャに、トロイ遠征を命じたのです。トロイは、ギリシャと黒海を結ぶ中継地で、貿易利益を独占していたのが、ミケーネのアガメムノン王には、シャクにさわったようです。ホメロス(Homer)の物語で、トロイの王子アレクサンドロスがスパルタの王妃ヘレネを略奪したというのは、もちろんフィクションです。ダーダネルス海峡:ちょうどチャナッカレのあたりが最も狭くなっています。クセルクセス王率いるペルシャ軍が、船を並べて結び合わせ、橋を架けたのも、ここでした。
トロイ。別名は、イリオン(Ilion)。この解説を見ると、トロイの歴史は、エジプト王朝くらい古いことになります。メソポタミアの世界最古の叙事詩「ギルガメッシュ」は、主人公が杉の森の奥に住むフンババ(フワワ)という化け物を退治する話です。これは、メソポタミア文明が北方の森林地帯の敵対勢力の脅威にさらされていたことを暗示しています。このフンババというのが、トロイとも結びつくのかもしれません。これが事実だとすれば、トロイは、エジプトやメソポタミアと並んで古い文明の存在を推測させることになります。なぜなら、トロイ人が何のバックボーンもなく、いきなり高度な都市国家を築き上げたとは、考えにくいからです。トロイの北方すなわちバルカン半島から黒海にかけてのドナウ川流域に、トロイの母体となった高度な文明が栄えていたのではないかと、推測できるのです。四大文明と並ぶ第五の文明です。
トロイの城塞は、丘の上に何層にもわたって築かれています。でも、見ても分かるように、トロイの城は、そんなにでかくもなく、城壁も、そんなに高くありません。ホメロスを読むと、すごい難攻不落の要塞都市って感じですが。要は、実際にホメロスがトロイを訪れた可能性はありますが、イマジネーションと描写力を賞賛すべきなのでしょう。 丘の上からの眺め。今では、海岸が数キロ先に後退していますが、トロイ戦争のころには、かなり近くまで海が入りこんでいたようです。 トロイ戦争に勝利したミケーネですが、遠征による疲弊ははなはなだしく、急速に衰え、やがてドーリス人に吸収されました。
一部のミケーネ人は、海の民(Sea People)として、エジプトからトルコにいたる海岸地方を荒らし回りました。イスラエル人の宿敵パレスチナ人(Palestinians 聖書では、ペリシテあるいはペリジ人 Philistines)は、このとき、ギリシャ人とともにカナン地方に定住しました。 ギリシャに敗れたトロイ人も、海の民に加わっていましたが、やがてイタリア半島に定住します。ウェルギリウス(Virgil)が、「アエネイス(Aeneas)」という叙事詩を残しました。やがて、アイネイアスの子孫は、ティベル川のほとりに、ローマという町を築きました。つまり、ローマ人の祖先は、トロイ人なのです。ローマは、ギリシャの征服を、先祖の敵討ちだと、正当化したのでした。この話は、完全なフィクションだと考えられていますが、まったくのでたらめではないかも知れません。 アクロポリス。ビザンツ時代初期までは、立派な祭壇がありました。
テルモピレ-サラミス-プラタイア
![]() |
| Greece8(Th |
ヘロドトス (Herodot)が「歴史」を著すきっかけとなったペルシャ戦争。インドからリビアにいたるオリエントを統一したアケメネス( Achaemenes )朝ペルシャ。現代にいたるまで、トルコを含むオリエントの完全統一を成し遂げたのは、アケメネス朝だけです。これは、紛れもなく、偉業です。ペルシャは、バビロニアに強制移住させられていたイスラエル人を解放しました。「捕囚」と言われていますが、多くのイスラエル人は、バビロンでの生活に満足していました。バビロンの陥落後も、バビロンに居ついたイスラエル人は、少なくなかったのです。もちろん、キリストの先祖は、イスラエルに戻りました。
クセルクセス王は、陸海軍百万(補給部隊を含む。)を率いて、ギリシャに侵攻しました。配下のあらゆる民族から徴兵された多国籍軍です。これほどの大規模な遠征は、ほかにないでしょう。ペルシャ軍は、ダーダネルス海峡に橋を架けてヨーロッパへと渡ります。テルモピレを突破し、ついにアテネを破壊しますが、サラミス水道で、艦隊が全滅してしまいます。ダーダネルス海峡の橋を壊されて、退路を絶たれるのを恐れたクセルクセス王は、大慌てでアジアへ撤退しました。
「熱い門」という意味のテルモピレ。今でも温泉が湧いています。当時は、道路付近まで海が迫り、海岸沿いに、熱泉が湧いていました。 レオニダスのモニュメントとポキス人の砦。 スパルタ( Sparta)王レオニダス ( Leonidas ) の率いる先鋭 300名が、文字どおり獅子奮迅の末、玉砕。
アテネ人は、町を放棄し、婦女子をサラミス島に避難させ、海戦にすべてを賭けました。デルフィから、「木の砦」は陥落しないという、宣託があったからです。海峡は、臨海工業地帯となっています。港沿いの丘の上で、クセルクセス王は、海軍の全滅を目の当たりにして天を仰ぎました。今は、フェリー乗場になっています。サラミス島は、ギリシャ海軍の機知になっているので、うっかり写真を撮っていると、因縁をつけられるので、要注意です。わたしも不審者と勘ぐられ、警察署にしょっぴかれてしまいました。
ペルシャ軍は、いったんアッティカを離れます。プラタイア ( Plataea )で、ペルシャ軍とギリシャ軍は、川をはさんで対峙しました。今は、川に流れはなく、アシが生い茂ります。岩がころがっているようですが、実は、古代の遺跡です。 民族の自由と独立を守るための戦いでの勝利は、皮肉にも、衰退の引き金になります。強大なペルシャを撃退したギリシャは、やがてアテネとスパルタの両雄の抗争する内戦状態となりました。やがて、マケドニア(Macedonia )が、ギリシャを支配します。アテネもスパルタも、ギリシャの覇権を回復することはできませんでした。
アレキサンダー大王( Alexander the Great )は、アケメネス朝ペルシャへと攻め込み、わずか数年で巨大な帝国を滅ぼしてしまいした。しかし、アレキサンダー時代も長くは続きませんでした。ローマは、カルタゴを葬り去ると、マケドニアも屈服させ、ギリシャを手中に収めます。そして、ローマは、熱に浮かされたように、ギリシャの文化を吸収します。有名なアッピア街道 (Appian Way)は、ローマとギリシャを直結する道でした。「ローマ人は、征服した者によって、征服された」と、有名な詩人が、しみじみ回想しています。こうして、ローマ帝国の時代でも、ギリシャは、特別な地位を占めました。このギリシャ文化の優越は、ローマ帝国の東西分裂後に、ビザンツ帝国へと受け継がれていくのです。
テサロニキ
![]() |
| Greece9(Th |
夏だったのですが、ギリシャもテサロニキあたりになると、涼しいのかと思いきや、アテネより暑かったです。もっとも、冬は、ずっと寒いのでしょうけど。テサロニキ(Thessaloniki)のビザンツ教会は、アテネのより華麗な様式のものが多いです。 ヨーロッパでも、これほどのロトゥンダ(円筒建築)は、数えるほどしか残っていません。 ローマ時代の建築が現役とは驚きます。
テサロニキのあたりは、古代のマケドニアです。アレキサンダー大王の故郷です。(ギリシャの北にあるマケドニアとは異なります。)マケドニア人は、ヘレニズム時代には、ギリシャ人と同化しました。その富と文化は、なかなかすばらしかったのですが、この「デルヴェニのクラテル(Derveni Crater)」は、見事です。
トルコ
イスタンブール
![]() |
| Turkey1(Is |
イスタンブールは、ギリシャ人の植民市ビザンチオン(ビザンチウム)が起源です。コンスタンティヌス大帝が首都機能を移してからは、コンスタンティノポリス(コンスタンティノープル Constantinople ) と呼ばれました。オベリスクのある広場は、かつて戦車競技場でした。ローマ時代から、戦車レースは、市民の格別の娯楽でした。マルマラ( Marmara)海は、ダーダネルス海峡とボスポラス海峡にはさまれた中海のようなところ。氷期には、黒海とマルマラ海は、エーゲ海から切り離されて中海になってしまいます。海岸に難破船の残骸とおぼしきものがありました。古代から、航海に難しい海だったのでしょう。海底には、ミノア‐ミケーネ時代からの沈没船や積載物が山と沈んでいるはずです。考古学的にも、美術的にも、ものすごい価値があるでしょう。手前にあるのは、城壁の一部です。
コンスタンティノープルは、五世紀に、キリスト教がローマの国教とされてからは、政治と宗教の中心になりました。政教一致を支えたのは、皇帝神寵説という考え方でした。皇帝は、神であるキリストに寵愛を受けている存在であり、現世におけるキリストの代理人である、というものです。ハギア・ソフィア( Hagia Sophia)は、総本山として、1,000年にわたり、キリスト教界に君臨しました。ハギア・ソフィア、すなわち「聖なる知」とは、福音のことです。モスクに転用されてしまったので、内部は、見る影もありません。往時は、モザイクで埋めつくされ、キンキラだったそうです。ミナレットも、オスマン時代に、建てられました。コンスタンティヌス大帝時代のバシリカの遺跡も、見つかっています。皇帝が教会より優越するという考え方は、後に、西ヨーロッパで、絶対王政を支えることになります。
暗いので、わかりにくいのですが、ドームは、さしわたし 60m近くあり、1,500年前の建築とは思えません。もっとも、過去に何度も崩落しています。トルコも地震が多いですから。このときも、四分の一ほどは、支柱でおおわれていました。ドームの四隅には、青いセラフ(天使)が描かれています。黄金の顔も、あります。アプスには、聖母子が描かれています。モスク時代には、塗りこめられていました。ステンドグラス:イスラム風です。本来は、オーソドックスの教会には、ステンドグラスは、使われません。二階には、かろうじて破壊を免れた見事なモザイクがあります。これほどの教会がなぜなくなってしまったのか、疑問に思われるかもしれません。コンスタンティノープル教会は、政治に振り回される傾向が強く、異端に対しても、断固とした態度を示せないことがままありました。異端に寛容な教会を、キリストは、残しません。
一四五三年に、コンスタンティノープルが陥落します。ハギア・ソフィアが教会でなくなったことは、ローマ・カトリック世界にも、複雑な感銘を与えます。それまでは、ハギア・ソフィアが、世界で第一の教会だと暗黙の了解がありました。しかし、今や、それがなくなってしまったのです。世界で最高の教会を建立しなければならないとの危機感が強まったのです。そこで、ヴァチカンのサン・ピエトロが、ハギア・ソフィアに取って代わることになります。ブラマンテやミケランジェロの設計は、サン・ピエトロは、ギリシャ・クロス(正方クロス)であり、ハギア・ソフィアを強く意識したものでした。
もっとも、ミケランジェロの設計は、ベルニーニによってラテン・クロス(長方クロス)変更されましたが。ハギア・イレーネは、コンスタンティヌス大帝が母親のヘレナのために造営したといいます。ハギア・ソフィアの裏にあります。ハギア・ソフィアは、イスラム教や仏教でも、聖堂建築のお手本とされることになります。ハギア・ソフィアの対面に建てられたブルー・モスクも、その一つです。ブルー・モスクとは、赤と青の対比が、見事です。ユスティニアヌス大帝の后テオドラは、娼婦上がりで、アリウス派だったともされ、評判がすこぶる悪いのですが、彼女がユスティニアヌスを叱咤しなかったら、ハギア・ソフィアもできなかったでしょう。
金角湾は、コンスタンティノープルの繁栄を支えました。コンスタンティノープルは、ヴェネチアが台頭するまで、東地中海貿易を独占していました。ひときわ目立つのは、図書館です。イスタンブールの新市街は、ヨーロッパの街並みと大差ありません。チンチン電車に乗ったのは、生まれて初めてでした。ボスポラス海峡沿いには、高級なホテルやヴィラが立ち並んでいます。ルメリ要塞は、メフメト二世がコンスタンティノープル攻略の拠点としました。金角湾の口には、鋼鉄の鎖が張られていて、敵艦隊を防いでいましたが、トルコ軍は、艦隊を陸上輸送し、新市街のある丘を越えさせるという作戦で、攻略に成功したのです。
トプカピ宮殿。別名、チューリップ宮殿は、スルタンの宮殿です。日本や中国の焼き物があります。素人なのでわかりませんが、いい仕事なんでしょうか。隣接する考古学博物館も、一見の価値があります。ヨーロッパの博物館よりも保存状態のいいギリシャ-ローマ時代の彫刻があります。現在は、トプカピ宮殿の南側は、市街になっていますが、ビザンツ時代は、すべて宮殿でした。市街の地下から、モザイクが発掘されています。
ローマの都市のインフラは、何といっても水道です。大規模な公衆浴場を可能にしなければなりません。ローマのどの地方都市でも、公共サービスは、ローマと同等でなければなりませんでした。なぜなら、ローマからどんなに離れていても、そこがローマであるかぎり、居住レベルは、ローマ並みでなければならなかったのです。そこが、ローマ帝国のローマ帝国たるゆえんでした。テオドシウス城壁は、異民族の侵入を防ぎ続けた巨大な城壁です。
オスマントルコの時代にギリシャ人が住んだのが、フェネル地区です。聖ゲオルギオス教会は、コンスタンティノープル総主教の教会です。ファサードは、近代風ですが、裏に回ると、ビザンツ風です。けっして大きな教会ではありませんが、内部は、荘厳です。近年、ヨーロッパやアメリカでも、オーソドックスに対する関心が高まっているようで、この日も、アメリカからの学生が来て、講義を聴いていました。
七つの教会-パトモス
![]() |
| Turkey2(Th |
聖ヨハネが黙示で、手紙を書き送った7つの教会は、いずれも現在のトルコにありました。もっとも、現存する教会や遺跡が、本当にバイブルで言及される場所なのかは、わかりません。 ペルガモ (Pergamom ペルガモン )の教会。ローマ時代は、セラピス神殿だったということです。 ヘレニズム期には、ペルガモン王国が栄えました。エジプトのアレクサンドリアと並んで文芸の中心でした。 ヨハネがサタンの玉座と非難したのは、ゼウス祭壇のことです。祭壇は、ベルリンのミュージアムに運ばれて展示されています。
テアテラは、商業で繁栄しました。テアテラ (Thyatira ティアティラ )の教会。住宅街の真ん中に、廃墟があります。
サルディスは、リュディアの都でした。ギリシャ植民地(イオニア)との交易で、栄えました。巨大な公衆浴場の遺跡があります。このあたりの風景は、どことなく中国の水墨画のようです。 サルデス (Sardis サルディス )の教会。巨大な円柱が無造作に転がるアルテミス神殿の遺跡の裏に、チャペルがあります。
フィラデルフィヤ (Philadelphia フィラデルフィア )の教会。住宅街の中の公園のようなたたずまい。巨大な柱が往時の壮麗さをほうふつとさせます。
ヒエラポリス(Hierapolis)は、パムッカレに隣接するリゾート都市です。パムッカレの温泉:ローマ帝国の富裕階級が湯治に来ました。今では、温泉の湧出量が減少したのか、お湯は、すべてのテラスに供給されていません。 しかし、絶景です。こんな眺めのいい温泉は、日本にもそうはありません。 大通り。今でいうブランドショップが軒を連ねていました。手前がローマ様式のゲート、奥がビザンツ様式のゲートです。ローマ人の娯楽だった公衆浴場は、キリスト教の時代には、教会に転用されました。
劇場。ローマ後期の華麗なアフロディシアス様式です。アフロディシアス(Aphrodisias)は、ほど近いアートの町で、ここのアーチストは、流麗で繊細な渦巻き文様などを多用しました。 ラオディキヤ (Laodicea ラオディキア )の教会。温泉で有名なパムッカレにほど近いのですが、ほとんど発掘されていません。 ラオディキヤに限らず、文明の十字路であるトルコには、遺跡や遺物が埋もれているはずです。特にトルコの進出によって、ビザンツ人が撤退した場所には、貴金属などが隠されているでしょう。いずれ戻って来て、掘り返すつもりだったからです。
エペソ (Ephesus エフェソス )は、 ローマのアジア州の州都でした。現在も発掘が行われています。七人の眠り人 (Seven Sleepers) の修道院跡。ローマ時代に、当局の迫害を逃れて、ここで集団生活を送っていたのでしょう。 「マリヤの家」は、二〇世紀の再建ですが、一世紀にさかのぼる住居跡や墓地が見つかっているそうです。
ヨハネとマリヤは、ここで亡くなったという説も、有力です。聖ヨハネのバシリカ:エフェソスは、ヨハネにゆかりの土地です。ラテン・クロス型の壮大なバシリカがありました。美しいロゼッタ型の宝物庫。
ヨハネの墓です。実際にここに埋葬されたという確証は、ありません。 スミルナは、ホメロスの故郷ではなかったかとも言われています。スミルナ (Smyrna スミュルナ ) の教会:カトリックの教会。ヨハネの弟子だった使徒教父ポリカリポス(Polycarp)の町です。
ヨハネは、パトモス島に幽閉されているときに、ガブリエルによりインスピレーションを受け、黙示を著しました。
イエス・キリストの王国と苦難、
その試練をともにする者、
あなたがたの兄弟でもあるわたし、ヨハネは、
神の言葉と、イエス・キリストの証のゆえに、
パトモスと呼ばれる島にいた。(黙示 1:9)
パトモス島。一一世紀に創建されたという修道院がそびえます。修道院へは、登りは、バスでないときついでしょう。下りは、徒歩でもなんとかいけました。 洞窟のチャペル:修道院を下ったところに、ヨハネが監禁されていた洞窟があり、チャペルがあります。 一世紀末は、ローマによるキリスト教への迫害が強まっていた時代です。キリストは、最愛の弟子ヨハネが、十二使徒のしんがりとして、試練にさらされることを預言していました。また、ヨハネは、キリスト教の内部にも、深刻な分裂が生じ始めたことを憂慮していました。まさに内憂外患の状況で、使徒としての使命感から、黙示を書いたのです。
アトス(Athos)
アトス(Athos)
![]() |
| Athos |
アトスは、ギリシャ・オーソドックスの聖地。テサロニキの東、ハルキディキ(Khalkidhiki)半島のアクティ(Akti)半島にある宗教国家です。テサロニキからは、バスに揺られて5 時間くらい。思ったより遠いです。入口の町ウラノポリは、小さな港町です。
九世紀ごろから修道院の建設が始まり、ビザンツ皇帝の支援もあって発展しました。 現在は、政治的に独立国で、聖母マリヤの臨在に配慮して女人禁制となっています。 単なる観光目的の入国は、受け付けてもらえず、あくまで修行を体験するという理由でなければならないようです。夏の間だけ遊覧船が運航しており、こちらは、女性でも問題ありません。半島には、20の修道院がありますが、海からは、5つほどしか見えません。重いですが、売店で写真集を買いましょう。修道院は、どれも色とりどりで、華麗な城のようです。1時間ほどのクルーズですが、すばらしい景観です。
半島の先端に、アトス山があります。テサロニキは、40℃近くあったのですが、ハルキディキの海は、小雨混じりで、時化て肌寒かったです。アトスは、ほんの一瞬姿を現しただけでした。
イスラエル
ガリラヤ
![]() |
| Israel1(Ga |
ガリラヤ地方は、南部のユダヤ地方からすれば、田舎であって、軽蔑されていました。 でも、ガリラヤを訪れると、エルサレムでは得られなかった安らぎを覚えます。
メギドの丘 (Megiddo Hill)。ハルマゲドン (Armageddon) とされるメギドは、軍事的な拠点として、重要でした。このあたりは、1年を通じて温暖で、水があり、馬を飼うのに絶好なのです。 変容( Transfiguration)の山タボル (Mt. Tabor) は、神秘的な感じです。ナザレ (Nazareth) は、思いのほか大きな町です。日本の画家が描いた聖母子です。桃太郎に似ています。ヨセフゆかりの教会は、イエスの実家に建てられています。
カナの町。イエスは、婚礼で、水をワインに変えました。ティベリアスの町。かつてガリラヤ湖から死海までは、一つの内海でした。やがて乾燥によって分離し、ガリラヤ湖は淡水湖になりました。ガリラヤ湖と死海は、ヨルダン川で結ばれていますが、わずか 100kmしか離れていないのに、天と地ほどの開きがあります。
ヨルダン川。ここで洗礼を受ける人は多い。 カペナウム (Capharnaum) は、ペテロの生まれた町です。猟師だったペテロに、キリストは、「魚ではなく、人を獲れ」と言って、最初の弟子としました。 最古のシナゴーグ。一世紀の住居跡。ペテロの実家:ペテロ(シモン)の家の跡には、オクタゴンの教会が建てられました。教会の遺跡の上には、記念館がありますが、どうせなら教会を再建してほしいです。
ヤッファ-マサダ
![]() |
| Israel2(Ja |
ヤッファ(ヨッパ Ioppa )は、ミノア時代から栄えた貿易港です。ヨーロッパとアジア(ミノア時代は、まだヨーロッパやアジアという観念はなかったですが。)の接点でした。旧市街。教会がひっそりと建て混んでいます。カナンには、ミケーネ人(アカイア系ギリシャ人)も訪れていました。ペルセウス( Perseus )がアンドロメダ( Andromeda)を救出する話も、ここが舞台になっています。当時のギリシャ人にとっては、カナン地方は、エチオピアと考えられていました。 ナポレオンの築いた砦。最後は、教会だけが残りました。黄昏のテルアビブ。カナンの海に、日が沈みます。聖ペテロも見た夕日です。
エルサレムからマサダに行く途中に、クムラン(Qumran)があります。ここで、クムラン文書と呼ばれる巻物が発見され、ヘブライ語で書かれたものとしては最古の聖書が発見されています。クムランの崖の洞穴に、文書が保管されていました。 クムランの遺跡には、多くのプールがあったことがわかります。教団の人々は、毎日熱心に水浴びをしていました。ユダヤ教でも、外から戻ると穢れを落とすために水浴しますが、クムラン派では、もっと儀式化されていたようです。
マサダの要塞。ヘロデ大王の居城でした。第一次ユダヤ戦争で、ローマ軍は、裏側に土盛りして巨大な城壁破壊装置を引き上げ、攻め落としました。もっとも、ローマ軍が城内になだれこんだときには、反乱軍は、すでにみな自害していました。ビザンツ時代のチャペルの跡が残っています。
エルサレム
![]() |
| Israel3(Je |
![]() |
| Israel4(Je |
アイン・カレムには、洗礼者ヨハネゆかりの教会があります。ヤド・ヴァシェムには、ホロコースト博物館があり、迫害の資料が展示されています。
ダヴィデの町は、シオン( Zion) から始まりました。現在は、旧市街の外になっています。傾斜地なので、ちょっとホコリっぽいです。シオン門の前に、マリヤの「眠りの教会(永眠教会)」があります。ダヴィデの墓も、シオンの一角にあります。実際のダヴィデの墓は、地下にあって、だれも見たことがないそうです。最後の晩餐( Last Supper) の部屋とされている場所も、近いです。
旧市街 (Old City) は、クリスチャン (Christian) 、アルメニアン (Armenian)、ジューウィッシュ (Jewish) 、ムスリム (Muslim) の クォータ (Quarter)に分かれています。アルメニアン・クォータは、静かです。ジューウィッシュ・クウォータは、街並みがよく整備されています。ムスリム・クォータに入ると、中東の市場といった雰囲気に変わります。
聖墳墓教会( Church of the Holy Sepulcher)は、ゴルゴタに建てられた教会です。ゴルゴタのサンクチュアリは、キリストの時代は、城壁の外で、小高い丘でした。今は、街に取りこまれて建物ですっぽり覆われているので、丘という感じはしません。意外と小さいようですが、1500年以上にわたって、幾万の巡礼者が記念に持ち帰ったからです。ゴルゴタの岩は、石灰岩のように、白っぽいです。「アダムのチャペル」からも、確認できます。キリストの処刑地は、場所が不明となっていましたが、コンスタンティヌス大帝の母ヘレナが聖なるクロスを発見し、ここがゴルゴタであることが判明しました。コンスタンティヌスは、神殿を取り壊し、教会を建てさせました。コンスタンティヌスのバシリカでは、ゴルゴタは、まだ露出していました。現在の建物は、十字軍時代のものです。
カトリコン(小ドーム)。ギリシャ正教のチャペルです。世界のへそと呼ばれています。 ヘレナのチャペル。下のクリプトには、聖なるクロスが発見されたチャペルがあります。階段の壁には、ピルグリムが刻んだクロスが無数に残っています。 大ドーム(アナスタシス・ドーム)の下には、アエディクラ( Aedicula 小さな家 Edicule)と呼ばれるチャペルがあります。チャペルを入ると、イエス・キリストの墳墓をふさいでいた墓石の一部があります。キリストが復活する日曜日の朝に、墓石は、エンジェルによってどかされました。
朝夕の二度、フランチェスコ修道僧( Franciscans )がヴィア・ドロローザ(Via Dolorosa 悲しみの道 受難の道 Passion Way) を行き来します。実際にこの道のとおりに、キリストがクロスを担いで歩んだかどうかってことは、どうでもいいことです。 ヤッファ門は、正面玄関といった感じです。ダヴィデの塔。現在の旧市街の城壁は、スレイマン大帝の時代のもので、ダヴィデとは、関係ありません。ここから、市内を一望できます。より古い時代の遺構も見てみたいものです。
博物館は、エルサレムの歴史の勉強にいいです。ダビデ-ソロモン時代の城壁の拡張や、コンスタンティヌス時代の聖墳墓教会の模型もあります。ゴルゴタの丘が、当時は、剥き出しだったのも、わかります。
ロックフェラー博物館は、ダマスカス門の向かいにあります。正門でパスポートを預ければ、ただで見学できます。
獅子門は、裏門のようになっていますが、ゲッセマネ (Gethsemane)方面に開いています。ゲッセマネとオリーブ山 (Mt. Olives)。キリストや使徒は、このあたりを足繁く行き来しました。ゲッセマネは、キリストが逮捕された場所です。緑が多く、ほっとします。ここで、不思議な歌が聞こえました。最後の晩餐の夜に、キリストが使徒とともに歌った賛美歌だったのかもしれません。
斜面は、ユダヤ墓地になっています。ユダヤ墓地からは、ダヴィデの町が一望できます。「マリヤの墓」など、祈るにはいい場所も多いです。「キリストの岩屋」の天井には、謎の星紋が描かれています。「嘆きの教会」は、涙粒をイメージしたデザインになっています。「万国民の教会」には、キリストが煩悶した岩が残されています。ロシア・オーソドックスのマグダラのマリア修道院には、きれいな尼さんもいます。
ハドリアヌス時代の床のあるエッケ・ホモ(「この人を見よ」)の遺跡。教会もあります。 ベテスダ (Bethesda)は、モリヤー (Moriah)の裏手にあったアスクレピオン(療養所)です。キリストは、ここで病人を癒しました。
ヴィア・ドロローザには、キリストの受難にまつわるポイントがあります。 イスラエル博物館は、旧市街からはちょっと遠いですが、死海文書も展示されています。 ホテル前の道路が封鎖されました。ロボットが出動して発砲する事態に。でも、よくあるようで、ユダヤ人でさえ、ウンザリしていました。疑いをかけられたとおぼしきパレスチナ人が怒鳴っていました。殺伐としていました。エルサレムというと、爆弾テロを連想しますが、少なくとも旧市街では、皆無です。ここでは、クリスチャン、ムスリム、ユダヤ教徒が、肩を寄せあって暮らしているからです。イザコザは、しょっちゅうなんでしょうが。世界のお手本です。もっとも、治安がいいかは別で、狭い路地の一人歩きは、ちょっと危険です。怪しい人に声をかけられても、ついてったりしないことです。
多くのクリスチャンは、エルサレムという町に、特別の感慨を覚えます。当然です。エルサレムこそ、キリストが磔にされ、復活した町だからです。現在の旧市街は、クリスチャンよりは、ユダヤ教徒やイスラム教徒の活動する場所となっています。ほとんどムスリムの街です。エルサレムに来て期待を裏切られるクリスチャンが多いそうで、エルサレム・シンドローム( Jerusalem Syndrome )なんて言葉すらあります。
地上のエルサレムの現実は、複雑です。3つの啓示的な宗教が 1 点で交わるからです。3つの啓約は、論理的に両立しません。でも、信者が、世俗的に共存することは、可能です。ただし、偽善的な平和は、長くは続きません。
クリスチャンは、七世紀にエルサレムを喪失してからは、十字軍の時代を除き、この町では、あまり羽振りがよくありません。神殿の丘は、非ムスリムの入場料は、なんと一人二百万ドルだそうで、金持ちしか入れません。キリストは、クリスチャンからエルサレムを取り上げてしまったのでしょうか。よくわかりませんが、確実なことは、天なるエルサレムは、クリスチャンだけのものという事実です。
エジプト
アマルナ-アレクサンドリア
![]() |
| Egypt1(Ama |
はっきり言って、アマルナは、宗教や美術の歴史に興味のない人にとっては、行く価値がありません。だから、ここは、報告ということです。お勧めしません。まず、行くのが大変です。カイロからナイル川沿いを5時間くらい走り、検問所を過ぎると、装甲車の先導で川を渡り、ようやく着きます。現地の見学も、護衛をともないます。過激派やテロリストが多いようです。また、苦労したわりに、たいして見るべきものも、ありません。いくつかの墓や宮殿の跡ぐらいですが、ギザやルクソールのような見ごたえは皆無です。
アマルナが重要な理由は、記録に残されているかぎり、最初の一神教が行われたことです。崇拝されたのは、アテン(Aten)という太陽神です。つまり、神というよりは、太陽の崇拝だったわけですが。でも、多神教が支配的であった古代で、神を一つしか認めなかったのは、画期的なのです。この唯一神の信仰がヘブライ‐ユダヤ教へと受け継がれた可能性があるわけです。なぜなら、当時のエジプトにヘブライ人がいたのは確実だからです。アマルナ時代がわずか20年ほどで終わると、あのツタンカーメン(Tutankhamen)王の世を経て第19王朝に入り、ラムセス(Ramses)時代になります。
そして、ヘブライ人が奴隷として酷使され、モーセ(Moses)に率いられてエジプトを出る物語(エクソダス Exodus)へとつながります。つまり、ユダヤ教の成立の布石は、アマルナ時代にあった可能性があるのです。しかし、現時点では、アマルナとユダヤを結びつける確証は、まだ見つかっていません。 かつては緑豊かだったろう河岸段丘に、墓が並んでいます。 不思議なことに、墓の多くは、十字構造 (cruciform)です。
イクナートンの后ネフェルティティは、セム系ではなく、ミタンニ系あるいはアーリア系とも言われるが、真偽は不明です。ネフェルティティの宮殿は、中庭にプールのある華麗な造りでした。アマルナ時代は、美術でも、画期的な発展を見た時代でした。びっくりするほどに写実的な彫像が生み出されています。人間をありのままに映し出そうとするこの伝統は、後にギリシャ・ローマを経て、ルネサンスへと受け継がれ、現代につながります。
アレキサンダー大王は、アジアに自分の名を冠した町を何十も造らせました。そのうち、最も繁栄したのが、エジプトのアレクサンドリアです。アジア文化に寛容だったと言われるアレキサンダーですが、町はギリシャ風でなければ気が済まなかったようです。もっとも、アレキサンダー自身は、アレクサンドリアに住むことはありませんでした。アレクサンドリアは、部下だったプトレマイオスが王朝を開き、その首都として発展したのです。
しかし、空前の繁栄を誇ったアレクサンドリアに、大きな災難が降りかかります。365年、地震による津波で大被害を受けたのです。津波は、市の中心部を飲み込みました。 アレキサンダーの霊廟も、この津波で消滅してしまったのでしょう。東地中海地方は、アフリカ、アラビア、ユーラシアのプレートがぶつかり合う場所で、昔から巨大地震が発生しています。モーセに率いられたヘブライ人が、エジプトを出るとき、海が裂け、ファラオの軍隊が後を追って渡ろうとすると、海が元に戻って、エジプト軍が壊滅したというのは、有名な話ですが、これも、津波と関係がありそうです。
カイトベイ要塞には、世界七不思議の一つ、ファロス灯台が建っていたといいます。この灯台も、地震で崩壊したそうです。現在は、「ポンペイウスの柱」と呼ばれる柱が立つセラピス神殿の遺跡も、長らく津波による土砂に埋もれていました。このあたりは、ローマ‐ビザンツ期には、ビバリーヒルズのような高級住宅街だったようです(ビバリーヒルズには行ったことはありませんが、たぶん丘なんでしょう)。
アレクサンドリアは、ヘレニズム時代に、アテネを抜いて地中海の文化の中心地となりました。シチリア生まれの数学者アルキメデスが活躍したのも、ここでした。東西の文化が融合し、神秘主義的な思想も盛んで、錬金術が誕生したのも、ローマ時代にかけてです。キリスト教に関していえば、なんと言っても、旧約聖書が翻訳されたのも、プトレマイオス時代でした。これは、「セプトゥアギンタ( Septuagint LXX )」と呼ばれ、ギリシャ世界にヘブライ思想がもたらされる契機となったのです。
ルクソール
![]() |
| Egypt3(Lux |
ルクソールは、エジプト王国の首都でした。 同時に、エジプト人の聖地です。 巨大な宗教複合施設がありました。 ヘロドトスも示唆していることですが、ルクソールのカルナック神殿の円柱を多用した構造は、ギリシャ人に多大な感銘を与えたようです。 パルテノンに代表されるギリシャ的な建築様式は、エジプト的な様式をより洗練させたものです。 エジプトの円柱は、描画彩色されていますが、ギリシャ人は、筋を入れることにより、より伸びやかで高貴な雰囲気を醸し出すのに成功しました。
ナイル川の対岸は、王家の谷で、ツタンカーメンの墓もあります。 王侯貴族の墳墓の多くが十字構造なのも、意味ありげです。 十字構造の墓室は、古代のエトルリアなどにも見られます。 古代人がキリストを予感していた証拠です。
カイロ
![]() |
| Egypt2(Cai |
カイロは、アレクサンドリアの没落後、エジプトの中心となりました。 市内からもよく見えるギザの三大ピラミッド。 ただ石を積み上げただけではなく、精密に計算されているのです。 当時のエジプトの設計測量技術がいかに優れていたかを実証しています。 サッカラの階段ピラミッドなど、試行錯誤もありました。 近くに行くと、いかにデカいか実感します。 スフィンクスは、ピラミッドの狛犬のようなものと考えられてきたようですが、最近では、もっと独自の意義があると主張する人もいます。
しかし、三大ピラミッドには、もっと根本的な秘密があるのです。 実は、三つの並ぶピラミッドは、ゴルゴタにおけるキリストの磔を予言しているのです。 ピラミッドを上から見れば、くっきりと十字架が浮かび上がります。 中央のひときわ高い場所のカフラー王のピラミッドがイエス・キリストの十字架を表しています。 実際の大きさでは、クフ王の大ピラミッドが最大ですが、十字架の大きさは、体格に合わせて作られたので、イエスより身体の大きかった強盗の十字架のほうが大きかったのでしょう。 中央の一番高い場所にあることのほうが重要なのです。 古代エジプト人も救世主の到来を期待していたのです。
もっとも、明確にキリストを意識するに至るには、まだ時間を要しました。
つまり、イスラエル人のエクソダスやモーセによるユダヤ教の確立などの準備が必要でした。
すべては、キリストが顕現するために、事は運びました。
イエスは、生まれるとすぐにエジプトに行き、ピラミッドを眺めて満足しました。
それにしても、腰痛持ちには、ラクダは、楽じゃない。
エジプトのキリスト教には、ギリシャ・オーソドックスのアレクサンドリア教会(Alexandrian Church)とコプト教会(Coptic Church)と呼ばれる二つの宗派があります。大まかには、ギリシャ・ローマ系の人と、エジプト系の人の教会です。「コプト」とは、「古代のエジプト」という意味らしいです。コプト教会は、単性論(Monophysitism)だと言われています。そのため、カトリックやオーソドックスからも、異端とされてきました。確かに、アレクサンドリアでは、単性論が流行したことがありましたが、どうやら誤解のようです。現在は、純粋な単性論は、エチオピアなど一部の地域にしかありません。
エル・ムアラカ(El Muallaqa)教会。コプトの教会は、幾何学文様が目立ちます。コプト教会の緻密で繊細なデコレーションは、イスラム・アートに大きな影響を与えています。この教会は、「浮かぶ教会(Hanging Church)」の愛称で親しまれています。このあたりは、ナイル川の地下水脈があるのです。雨が降ると、一面水浸しだそうです。だから教会も高床構造になっています。聖マルコが、初代の総主教です。ビザンツ時代の壁が残っています。
ギリシャ・オーソドックスのマリ・ギルギス(聖ゲルギオス)教会。巨大なロトゥンダ(Rotunda 円筒建築)です。聖ゲオルギウス(ジョージ)のドラゴン退治は、有名です。中東では、民族で宗派が異なっていることが多いのです。クリスチャンは、コスモポリタンであるべきゆえに、ナショナリズムを教会に持ちこむのは、賞賛されるべきことではありません。ですが、ビザンツ時代からの歴史があって、教義も分裂してしまっているため、統合は、難しいでしょう。カイロの旧市街(Old Cairo)は、一歩踏みこむと、ひっそりとした街並み。アブ・ゼルガ(Abu Serga)の教会のクリプト(Crypt)が聖家族の滞在したという洞穴です。
ゼイトゥーン(Zeitoun)は、聖家族がカイロに入る前に、一休みした場所とされています。ヨセフとマリヤがイエスを連れてエジプトに逃れたとき、モストロド(Mostorod)で、湯あみをしたといいます。場所はというと、「ホントにこんなホコリっぽいとこに、教会があんのか」っていうようなとこ。でも、ちゃんとありました。それにしても、教会の中も外も、びっくりするくらい人が多い。一世紀の壁も残っています。階段を降りたところで、女性が争うように祈っています。アラブの活き活きしたキリスト教の雰囲気に感銘を受けました。聖職者はプロテスタントが嫌いなようでしたが、クリスチャンは、兄弟として分かり合えると、握手して別れました。クリスチャンがいがみ合うのは、サタンの思うツボですから。
エジプト考古学博物館には、ツタンカーメン王の埋葬品が展示されています。ラムセス時代に、王名表から消された幻の王です。太陽の子としてのファラオは、キリストの予言です。
シナイ
![]() |
| Egypt4(Sin |
カイロからスエズ運河を越えてひたすら走り続けること8時間。
砂漠は熱い。
血も沸き立ち、心が燃え立ちます。
シナイへの道路には、ニガヨモギだけが生育を許されます。
岩また岩です。
シナイの荒涼たる風土は、日本のとは対極にあります。
広大な土地があっても、砂漠は、富を生みません。
でも、ここが聖地となると、なにがなんでも手放せません。
啓示的な一神教は、こんな土地に、人間を縛りつける作用も有しています。
でも、人間にとって、緑豊かな土地に生活することだけがいいことなのか、ちょっと考えてしまいます。
なにか大事なことを思い出すためには、こんな環境も、無意味ではないのです。
実は、砂漠は、不毛ではない。
水さえあれば、作物も実ります。
命を育むのです。
文明や文化を生み、キリストも生んだのです。
砂漠には、まだ可能性があります。
厄介者じゃなく、救世主になるかも。
アレクサンドリアの名門の娘だったカタリナ(キャサリン)は、皇帝に従わず、車輪にくくりつけられるという拷問を受け、処刑されました。
死後、遺骸は、天使によって、シナイ山に葬られたとされます。
聖カタリナ修道院(Monastery of St. Catherine)は、六世紀に城塞が築かれてから、そのままです。
カトリコンのアプスには、イコノクラズムを免れたモザイクがあります。 数は少ないですが、ミュージアムがあって、六世紀にまでさかのぼる貴重なイコンが展示されています。 必見です。構内には、モスクもあるそうです。 イスラム教界がキリスト教やユダヤ教を排斥しないのは、歴史や伝統もありますが、経済的な理由も大きいのです。 人間ですから、生活があるんです。 修道院の納骨堂には、15世紀にもわたって、信仰に殉じた修道者のシャレコウベが、無造作に積み上げられています。 信仰は、過酷です。
ブルガリア(Bulgaria)
プロウディフ-ネセバル
![]() |
| Bulgaria1( |
プロヴディフは、ブルガリア中部の町。 香水の原料のバラの栽培で有名です。 古代には、トラキア人が住んでいました。 遺跡から、彼らは、ディオニュソス(バッカス)という葡萄酒の神を信仰していたことが窺われます。
プロヴディフは、夏はとても快適な感じ。
ネセバルは、黒海の小さな島。 日本人なら、江ノ島をイメージすれば、いい。 ビザンツ時代には、数十の教会があった。
ソフィア-ヴェリコ・タルノヴォ
![]() |
| Bulgaria2( |
ソフィアは、ブルガリアの首都。 コンスタンティヌス大帝ゆかりの町。
タルノヴォは、ブルガリアの由緒ある町。 ブルガリア帝国の首都でした。 多くのブルガリア人は、ちょうど多くの日本人が京都や奈良に感じるような親しみを持っています。
ルーマニア
ブカレスト-コンスタンツァ
![]() |
| Romania |
革命から15年、明るさを取り戻したブカレスト。 伝説では、羊飼いのブクルの故郷です。 基本的には、緑豊かで、美しい町ですが、ニセ警官とボッタクシーと尾行には要注意。 細かいところでは、スーパーやデパートで釣銭をごまかされたりするのも実にありがち。 通貨のケタがでかいので、最初は計算が追っ付きません。 また、夜は怖くて、とてもじゃないけど、外出できませんでした。 クリスマスのころだったか、夜9時か10時ごろに、いかつい男がぬいぐるみを持って訪ねて来ました。もちろん、ドアを開けずに、そっと様子を窺ってると、30秒くらいで立ち去って行きました。 不気味だった。
でも、食べ物は、安くておいしかった。 ハムやソーセージの種類が豊富で、買うのが楽しみだった。 米は、日本人には想像つかないほどまずいけど、パンが最高だった。 日本のパンは、パン屋で買っても、スポンジみたいにスカスカだけど、あっちのは、中身がぎっしりで詰まった重厚なやつで、実に食い応えがあった。 何たって、直径が30センチ、厚さが10センチぐらいのが、30円ほどだから、これで治安がよければ、永住したいくらいだった。
トウモロコシをつぶして泡立てたママリガは、チョルバという豚肉スープによく合う。 ミネラルウォーターやジュースも毎日飲んだ。 水は、日本とフランスの中間程度の硬度で、料理でもお茶でもいい。 ルーマニアでは、民俗音楽の専門チャンネルがあって、よく見ていました。もっとも、地元の人によれば、これは、外国向けにかなり洗練されてしまったものらしい。
コンスタンツァは、ローマ時代は、トミスという名で、オウィディウスが追放された地だ。ローマでの贅沢な都会生活に慣れ親しんでたオウィディウスにとって、片田舎だったダキアでの田舎暮らしは、肌に合わなかったようで、不遇をかこつ日々が続いた。オウィディウスは、ギリシャ・ローマ神話の完成者で、「転身譜(メタモルフォセス)」という傑作を残している。霊魂の不滅を説くピタゴラス派の学説によって、神話を解釈し直したもので、それまでは単に人間が動物や草木に姿を変えたという話の寄せ集めだった神話を、霊魂の生々流転という観点から、統一的に説明したものです。ピタゴラス派は、ローマの目の敵にされていたから、アウグストゥス帝の逆鱗に触れてしまいました。皇帝は死んで永遠不滅の神になるという思想に反するからです。皇帝であっても、犬や猫に生まれ変わるかもしれないってことですから。本来は、ピタゴラス派の思想は、魂に貴賤はないという意味で、徹底した平等思想なのです。ただでさえ、風紀を乱す放蕩者のレッテルを貼られていたオウィディウスには、恩赦は、期待できませんでした。
コンスタンツァという名は、コンスタンティヌス大帝の娘のコンスタンツァを記念して改名されたそうです。ルーマニアの海の玄関になっています。黒海沿岸には、海水浴場があって、夏は、人が押し寄せます。共産主義時代は、ギリシャ・ローマ時代の遺跡は、あまり大事にされなかったようです。ルーマニア人は、ダキア人の子孫だという民族主義的な通念からですが、実際には、多くの異民族と混血してしまっています。ビザンツ時代の大規模なタイルが発見されています。
ドナウ川がいかに巨大な河川かは、すでにこのあたりから伏流水が黒海に注いでいることからも、察しが付きます。ドナウ川流域あるいは黒海沿岸部は、いわゆるヨーロッパ人の祖先であるインド-ヨーロッパ語族が西へ移動した通路にあたります。ちょうど7、8000年くらい前のことです。当時は、現代よりも温暖でしたから、生活は、しやすかったでしょう。文明が栄える条件は、整っていたようです。後に、イリュリア人、トラキア人、ダキア人、リディア人、フリギア人、ヒッタイト人と呼ばれた民族は、一つの文明圏を基盤としていた可能性もあります。ドナウ文明です。紀元前2000年ごろになると、気候が寒冷化し、黒海沿岸からバルカン半島やトルコへ南下したわけです。2、30メートルくらい掘れば、何か見つかるかも。
いずれにせよ、美しい景色です。1,000年前、このあたりで羊を追っていたので、すごく懐かしい。当時は、クリスチャンは、まだ少なかった。1,000年後には、日本を含めてアジアの大多数が福音化されていることでしょう。楽しみです。今度生まれ変わるときも、羊飼いがいいな。
イギリス
ロンドン
![]() |
| England2(L |
「霧の都」の霧とは、「スモッグ」なんですね。空気の汚れは、ヨーロッパの他の都市でも気になりましたが、ロンドンでは、びっくり。外を2時間ほど出歩いただけで、鼻の穴が真っ黒になった。11月も終わりだったから、暖房の時季だが、薪を使っているのでしょうか。食い物がやたらまずかったのにも、閉口しました。安い店しか利用しなかったのも事実ですが、中華やイタリアンでさえ、ここではまずかった。この街では、すべてがまずくなってしまうのでしょうか。ロンドンでは、うまい物は、王侯貴族と金持ちしか食べられないのだとしたら、庶民は、少し怒ったほうがいいです。エリザベス女王に直訴して、議会を叱咤してもらいましょう。
もっとも、イギリス人の味覚自体が、ちょっと普通ではないのかも。テレビでヨーグルトに納豆を混ぜてうまいって食っていました。別々に食うべきでしょう。イギリス人男性を旦那にすれば、何でも美味しいって食べてくれて、奥さんは、楽かもしれません。でも、逆に、イギリス人女性を女房にすると、外食がちになるかもしれません。世界中の富を集めたロンドンには、ウェストミンスターを始め、立派な教会がたくさんあります。
大英博物館には、世界中から収集した貴重な文化遺産が展示されています。その中には、キリストの予言に関する物も、含まれています。もちろん、表向きは、通り一遍の教科書的な解説しかありませんし、場所もばらばらです。でも、さりげなくわかるようにしてあります。
フランス
シャルトル-アヴィニョン
![]() |
| France1(Ch |
シャルトルは、ヴェルサイユと同じ方角なので、一緒に1日で見たほうがいいでしょう。乗換えがありますが、難しくはないです。大聖堂のクリプトのガイドがあるので、時間が許すなら、行きましょう。貴重な壁画があります。
アヴィニョンは、パリからかなり遠いですが、TGVでノンストップで2時間ほどだったでしょうか、楽ちんで感動しました。アヴィニョンは、教皇庁が置かれたことがあります。多くの装飾は、失われてしまいましたが、一部復元されています。ペトラルカは、この町で、永遠の恋人ラウラ(ローラ)を見初めたことになっています。
パリ
![]() |
| France2(Pa |
やっぱり、パリはいい。もっとも、大都市は、多分どこもそうでしょうが、似たり寄ったり。高い物価、汚い空気、うるさい夜…。でも、都市計画には、戦略が付き物。パリも例外ではありません。ノートルダムの地下には、ローマ時代からの遺構が残っています。七世紀に発祥したイスラムは、ビザンツ帝国から中東とアフリカを奪います。防波堤を失ったヨーロッパのキリスト教界は、侵略の脅威にさらされることになりました。
八世紀には、イベリア半島の大半がアラブの手に落ちます。勢いに乗るサラセン軍は、フランク王国にも侵攻しますが、カロリング家の祖カール・マルテルは、ツール・ポワチエで敵を何とか撃退することに成功しました。しかし、アラブの脅威が去ったわけではありません。おまけに、北からはバイキングの襲来が。こういう状況にあって、シャルルマーニュは、侵略者から王国を守るために、パリを要塞都市にしたのです。
パリの教会といえば、ノートルダム。シテ島には、サント・シャペルという礼拝堂もあって、全面のステンドグラスが圧巻です。もっとも、訪れたのが11月ということもあって、天気の悪い日が多く、ステンドグラスの演出を堪能できませんでした。天気のよい春から夏にかけての訪問を勧めます。
パリの教会には、パスカルやヴォルテールといった有名人の墓もあるので、興味のある人は、見ておくと、話の種になるかも。特に、フランスの歴史に興味があるなら、サン・ドニは、外せません。ここは、フランス王家の菩提教会でした。メロヴィング家、カロリング家からブルボン家まで、歴代の王と后が葬られています。悲劇の王ルイ16世とマリー・アントワネットの墓もあります。また、ここは、ゴシック発祥の教会ともされ、たまたま、天気がよかったので、ステンドグラスが見事でした。クリプトには、聖ディオニュシオス(ドニ)が埋葬されたという伝説があります。
その聖ディオニュシオスが殉教したとされるのが、モンマルトルです。「殉教の山」という意味です。近代以降、芸術家の町として有名です。巡回バスで登ると楽です。
ルーブル美術館の、特にキリスト教関係の展示としては、エジプトの修道院の出土品が出色です。
ドイツ
ベルリン
![]() |
| Germany1(B |
征服されざるゲルマン。ドイツの歴史は、2000年前、ヘルマン(アルミニウス)がローマ軍の先鋭部隊をトイトブルクの森で撃滅したときから始まる、とされています。地中海世界を統一し、北方世界をも手中にせんと勢いづく皇帝アウグストゥスの野望は、もろくもついえました。深い森と濃い霧が、ゲルマンを守ったのです。司令官ワルス率いる部隊全滅の報告に、アウグストゥスは顔面蒼白で、「ワルス、わが部隊を返せ」と、叫んだといいます。この戦闘以後、ローマは、ゲルマンの征服を断念し、ライン-ドナウ線を国境として、守勢に回ったのです。
明るく華やかな南ヨーロッパへの羨望は強く、やがてゲルマン人は、ローマ領内へ雪崩れ込みました。ローマとゲルマンという、ヨーロッパの南北問題は、その後、神聖ローマ皇帝とローマ法王の対立、プロテスタントとカトリックという構図にも、如実に現れています。神聖ローマ帝国は、ビザンツ帝国とゆかりが深く、大聖堂のクリプトには、大選帝候ヴィルヘルムを始め、ドイツ-プロイセンの基礎を築いたホーエンツォレルン家の棺がずらりと並んでいて壮観です。
ベルリンの博物館にも、貴重なコレクションが展示されています。出色なのが、バビロンの城壁のタイルでしょう。また、エジプトのアマルナ芸術も充実しています。
フランクフルト-ケルン
![]() |
| Germany2(F |
ソーセージの名前にもなっているフランクフルト。実際、市場で買って食べたら、美味しかった。
ケルンのドムは、最も見たかった教会の一つでした。これだけを見に、特急でケルンへ。でも、すごくがっかりしました。見てのとおり、煤で真っ黒に汚れています。ちょっとひどすぎる。何世紀もかけて造り上げたものを、数十年で台無しにしないでほしい。ここには、黄金の棺に、東方博士(マギ)の聖遺物が収められているといいます。
ヴォルムス
![]() |
| Germany4(W |
ヴォルムスは、ルターが宗教改革ののろしを上げた地です。ゲルマン神話で、英雄ジークフリートが葬られ、ニーベルングの財宝がライン川に投げ込まれたされる伝説の地でもあります。
スイス
イタリア
アッシジ-パルマ
![]() |
| Italy1(Ass |
オルヴィエトは、丘の上にあるので、フニクラーレで上り下りします。ここのバシリカも立派です。町並みも、アッシジと同様に中世です。
フィレンツェのジョットに大きなインスピレーションを与えた聖フランチェスコゆかりのアッシジ。サン・フランチェスコ(San Francesco)のバシリカは、地震で被害を受け、ジョット派のフレスコも崩落したのですが、今はきれいに修復されています。フランチェスコは、イタリアで、最も人気な聖人です。クリプトには、フランチェスコの墓があります。 中世からの町に住むのは、ずいぶん不便でしょうが、なにものにも代えがたい幸福感がありそうです。チャペルでは、祈りたいときに、祈ります。
チーズで名高いパルマ。ここも丘の上の都市です。エスカレータやトンネルが面白いです。エトルリア人の町だったことで有名で、ミュージアムには興味深い出土品があります。墓の形が十字構造です。エジプトの王族の墓と似ています。エトルリア人も、キリストの到来を感じていたようです。
ボローニャ-ラヴェンナ-サンマリノ
![]() |
| Italy2(Bol |
エミリア-ロマーニャのビザンツ文化。アカデミズムを育んだのが、ボローニャです。ラヴェンナは、ビザンチン・モザイク(Byzantine mosaic)の宝庫です。 サン・ペトロニオ(San Petronio)は、未完の巨大バシリカです。
ボローニャの大学。今日では総合大学の意味の「ユニバーシティ」には、「学問の世界、共同体」の意味があります。当時の大学は、神学、法学、医学、文学を柱にしていました。ペトラルカも学んでいます。ここで学んだ人々が、やがて、ルネサンスの原動力になりました。 ボローニャは、アーケードの町です。これは、一見の価値があります。広場からアーケードをたどって行くと、教会があり、チマブーエの聖母子を見ることができます。
サント・ステファノ(Santo Stefano)には、イシス神殿の遺跡があります。イシスは、エジプトの女神で、ローマ時代後期に、イシス信仰が大流行しました。二世紀のカルタゴ出身のアプレイウスの「黄金のろば」という実に面白い作品があり、魔女によってロバに姿を変えられた主人公が、バラの花を食べて元の姿に戻ることができ、イシス信仰に目覚めるという筋立てになっています。 鉛筆みたいな塔。よくも立っているなと関心しきり。
ラヴェンナは、ビザンチン・モザイクの宝庫です。ビザンチン・モザイクの技巧は、復興されており、すばらしい工芸品が生産されています。サン・アポリナーレ・ヌオーヴォ( San Apollinare Nuovo )。ラヴェンナの教会は、大理石で化粧をしていないところが、また古風です。1,500年も前のビザンチン・モザイクがなぜギリシャやトルコではなく、イタリアに残っているかというと、イコノクラズム(Iconoclasm)とイスラム支配を免れたからです。ビザンツ帝国は、八、九世紀に、断続的に勅令を発して、イコンなどを破壊させたのです。イコノクラズムは、コンスタンチノープル教会とローマ教会の溝を深めることになりました。オスマントルコは、教会をモスクに転用するにあたり、モザイクや壁画をはぎ取り、塗りつぶしました。だから、本家のギリシャなどより、イタリアで見れるのです。
サン・ヴィターレ(San Vitale)。正八角形(Octagon)の素朴な形態。オクタゴン・ストラクチャは、ビザンツ時代は、洗礼堂(baptistery)の様式として確立していました。中世以降に、多くの教会がロマネスク様式やゴシック様式に建て替えられてしまったので、このような純ビザンツ風の聖堂で現存するのは、ミラノのサン・ロレンツォ(San Lorenzo)など、数例しかありません。正方十字を45度に重ね合わせたクロスを洗礼クロス(Baptistery Cross)といいます。棒の先端を結ぶと、ちょうどオクタゴンになるのです。 アプスには、洗礼を受けるキリストが描かれます。洗礼を受ける絵は、アリウス派の影響が強いのでしょうか。側面には、ユスティニアヌス大帝とテオドラ妃です。
サン・ヴィターレの周辺には、ほかにもモザイクの名作が残っています。 ガラ・プラキディアの霊廟、アリウス派の洗礼堂、サン・ジョヴァンニ洗礼堂です。
サン・アポリナーレ・イン・クラッセ(San Apollinare In Classe)は、町外れにありますが、バスで行けます。チケットは、ローマと同様に売店で買えます。ここのアプスの青と緑のモザイクも、素敵です。 ダンテの墓碑。このビザンツの面影の残る古風な街で、ダンテも静かに眠っています。フィレンツェを追放された孤高の詩人を、ラヴェンナは、温かく受け入れました。詩人って、異国で死ぬほうが、ロマンチックで、様になりますね。
サンマリノは、独立国です。発祥は、ローマ帝国によるキリスト教に対する最後にして最大の迫害だった、ディオクレティアヌス帝の時代です。信仰を守るために、聖マリノが、この山に住んだのが、興りです。イタリアは、ローマ帝国の崩壊後、異民族や外国の侵略にさらされましたが、独立を守り通したというのは、驚くべきことです。暴力的な軍事力だけが、自衛の手段ではありません。 サンマリノの町は、あいにく天気が悪かったのですが、霧深さに、なんか手出ししがたいような趣がありました。サンマリノでは、住民による自治が維持されています。
フィレンツェ
![]() |
| Italy3(Flo |
トスカナ(Toscana)のバラ、フィレンツェ。街がルネサンスです。道幅が広かったのには、感心します。文芸の地では、食欲も進みます。だから、トスカナには、おいしいワインやチーズがあります。 サンタ・マリア・デル・フィオーレ(Santa Maria Del Fiore)。夕日にこれほど映えるファサードは、ありません。ほのかにピンクに染まります。
フィレンツェには、見るべき美術館が、5、6あります。日本語版の公認ガイドブックがあるので、必ず買いましょう。効率よく見学しなければなりません。 ヴェッキオ宮殿。ここにも、ミュージアムがあります。 ウフィッツィ・ミュージアムの見学では、団体より個人のほうが有利です。団体は、並ばなければなりませんが、個人なら、前日(ハイシーズンだと、早めにしたほうがいいかも。)に予約を入れておけば、すぐに入れます。番号を聞き取るだけなので、英語ができなくても、だいじょぶです。
サンタ・クローチェ。ガリレオの墓。地動説を唱えたため、晩年は、軟禁状態でした。 サン・ロレンツォは、メディチ家の菩提教会。ここの宝物堂に、ミケランジェロの最高傑作があります。 フィレンツェは、革製品が有名だそうです。 サン・マルコには、フラ・アンジェリコの作品があります。 フィレンツェは、街そのものがルネサンスです。
アルノ川。プロポーズしたくなります。 対岸には、ピッティ宮殿があり、ここにも、ルネサンスのマエストロの傑作が揃っています。 サンタ・マリア・デル・カルミネのブランカッチ礼拝堂には、リアリズムの先駆者マザッチオの傑作も残っています。エデンを追放される「アダムとイブ」は、骨太なデフォルメで、近代的ですらあります。時代を先取りする人って、いるものです。 アルノ川が注ぐのがピサの町。鐘楼が有名ですが、バシリカも立派です。手前の丸いのは、受洗堂です。フィレンツェから電車で1時間です。
ミラノ
![]() |
| Italy4(Mil |
ミラノは、コンスタンティヌス大帝がキリスト教を公認し、アウグスティヌスがキリスト教に帰依した町として、有名です。歴史も古いのですが、遺跡は、ほとんどありません。教会も、いくつか著名なものがありますが、ローマやフィレンツェほどではないです。新しい街なんです。イタリアでは、100年くらいは、ついこの間って感じです。
ミラノといえば、ドゥオモです。「ドゥオモ」とは、「ドーム」のことです。この壮大なゴシック建築を、美しいと感じるかどうかは、人それぞれでしょう。わたしの第一印象は、「ハリネズミ」でした。でも、ファサードが修復中で、幕におおわれていて、じっくり正面から見たわけではなかったので、否定的に感じてしまったのかもしれません。また、「イタリアは、ロマネスク様式だろう」という、安直な先入観があったのかもしれません。「ゴシック様式は、北ヨーロッパだ」という固定観念が、邪魔した可能性もあります。南ヨーロッパには、こういった華麗で軽快なゴシック様式があってもいいはずです。ちょっと反省しています。地下には、ドゥオモに建て替えられる前の教会や受洗堂の遺跡があります。ここにかぎらず、由緒ある教会には、地下(クリプト)が見学できるところが多いです。墓地になっているのが多いですが、遺跡が見れるところもあります。時間に余裕があるなら、見逃さないようにしてください。教会の歴史が、わかります。
サン・ロレンツォ(San Lorenzo)は、ラヴェンナのサン・ヴィターレと同じオクタゴン構造の教会として、著名です。古代のバプテステリは、復旧させてほしいです。 サンタンブロージョ(Sant'Ambrogio)は、アンブロシウスゆかりの教会です。ミラノを代表する教父が、聖アンブロシウス(Ambrose)です。アリウス派に甘かったコンスタンティノープル教会を、非難しました。四世紀は、まだコンスタンティノープル教会の力が圧倒的でしたから、非常に勇気ある告発でした。ローマ・カトリックを代表する教父アウグスティヌスを見出し、改宗させた人です。非常に人望があったのでしょう。遺骸(中央の白い服)が、展示されています。聖ヴィクトルのチャペルのモザイクも、五世紀ごろのものとされています。 ミラノも、ルネサンスには、レオナルドを始め、有名なアーティストをたくさん招いています。 スフォルツァ城は、ミュージアムになっています。ロンダニーニのピエタは、ミケランジェロの遺作とされます。いたいたしいです。
ナポリ-モンテカッシーノ
![]() |
| Italy5(Nap |
ナポリは、ポンペイに行くバスツアーで立ち寄っただけなので、ほとんどなにも見てません。ナポリ湾一帯は、温泉が出たこともあって、ローマ時代から、リゾートとして栄えました。湾に沿って貴族の別荘があったのですが、温泉を掘りすぎたために、地盤が沈下して、町が沈んでしまいました。 ベスビオス山は、一世紀と五世紀に大噴火しており、最初の爆発でポンペイを埋め、次の爆発で、ローマ時代の異教文明にとどめを刺しました。噴火前は、富士山型の緑豊かな山でしたが、爆発で山の上半分が、吹っ飛びました。 それにしても、古代ローマ人は、派手な壁画が好きだったんですね。 遺体のかたどりは、祈りながら、灼熱の火山灰に埋もれていった人でしょうか。
ローマからナポリに向かう途中にあるモンテカッシーノ(Montecassino)。カッシーノというの言葉は、ヘレニズム時代に、シリアやエジプトで山岳神として祭られていたカシオス(Kasios)に関係があり、それ自体「山」の意味があります。日本でも、山の上に神社があるように、山は、天に近い場所として、ずっと神聖視されてきました。おそらくモンテカッシーノも、ギリシャ・ローマ時代に、神殿もしくは聖域があったのでしょう。聖ベネディクトゥスが、こういう場所を信仰の場に選んだのも、そういった背景があったのでしょう。
モンテカッシーノ修道院へは、歩いて登るのは、かなり困難です。ローマあるいはナポリからレンタカーで行くのがベストでしょう。電車を利用すると、ローマから2時間くらいだったと思います。バスがないので、駅前のタクシーと交渉するしかありません。チップ込みで50ユーロは、けっこうな金額ですが、行く価値が大きいし、満足感もあります。都合、3、4時間くらいはかかるので、よしとしました。というより、いい加減交渉にも疲れるんです。
修道院の歴史は、地震や略奪の繰り返しでした。特に、第二次大戦で連合軍によって徹底的に爆撃され、無残に崩れ落ちてしまいました。ドイツ軍が立てこもっているという誤った情報のためでしたが、大失態というべきでしょう。こうした苦難の歴史のためか、修道院のモットーは、「平和(Pax)」です。もし愛が無矛盾なら、そこには平和しかありません。現実には、不可能ですが。なぜなら、終末において、キリストによって福音が完成され、新しい世界が創造されるまでは、すべては未完成だからです。
ローマ
![]() |
| Italy6(Rom |
![]() |
| Italy7(Rom |
ローマには、 888(801) の教会があるといいます。「 888 」はイエス・キリスト、「 801 」はアルファ・オメガの数字です。ローマの七大教会は、サン・ピエトロ、サン・ジョヴァンニ、サンタ・マリア、サン・パウロ、サン・ロレンツォ、サンタ・クローチェ、サントゥアリオ(Santuario della Madonna del Divino Amore )です。カトリックの方は、忘れずに巡りましょう。サンタ・マリア・マッジョーレは、テルミナ駅からすぐなので、真っ先に寄れます。ここのモザイクは、必見です。福音書記家ルカの描いた最初のイコンもあります。
現在のローマは、バロックの化粧をしています。わたしたちがヨーロッパでまず思い浮かべる様式は、バロックです。スペイン広場でジェラートを食べると、映画のように、きれいに別れられそう。ハッピーエンドだけが、美しい人生じゃないと、自分に言い聞かせましょう。ポポロ広場周辺は、暮らしやすそうです。
サン・ジョヴァンニ・イン・ラテラーノ(San Giovanni In Laterano)には、ヴァチカンに移転するまで、法王庁が置かれていました。付属のオクタゴンのバプテステリ(洗礼堂)は、四世紀のものです。サンタ・クローチェには、聖ヘレナの発見したキリストの磔の十字架などの聖遺物があります。
コンスタンティヌス大帝がキリスト教を公認すると、ローマの様子は、一変しました。神殿が教会に転用されていったのです。ローマの政治の中心だったフォロ・ロマーノには、教会に転用された神殿が残っています。ローマ時代の貴族の屋敷が教会になった例としては、サン・クレメンテ ( San Clemente ) があります。ここのクリプトには、貴重なフレスコも残っていますし、最も深い場所(一、二世紀ごろ)からは、ミトラ教の集会所跡も発見されています。2,000年も時間をさかのぼるわけです。
ローマ人は、ギリシャ人の文化をほとんど丸ごと継承したのですが、オリジナルがないわけじゃありません。その例として、アーチとドームがあります。ギリシャ人は、直線的な建築しか、造りませんでしたが、ローマ人は、円形の構造を可能にしたのです。これは、統一された世界あるいは天空という、世界観、宇宙観を表現するのに、最適だからでしょう。アウグストゥスのマウソレウムは、マウソレウムに円形構造を採用した例としては、最初かもしれません。中世までは、サンクチュアリとして、利用されていたようですが。パンテオン (Pantheon) は、ローマの円形建築の代表です。壁にはアーチ構造を重ねた跡が見て取れます。現在は、教会になっており、ラファエロの墓もあります。若くして世を去りましたが、天才は、百年を十年で生きます。ミケランジェロの彫刻といえば、サン・ピエトロの「ピエタ」が有名ですが、キリストやモーセの作品もすばらしいです。
ジュリア通り( Via Giulia)は、ラファエロが住んでいました。ローマ時代の建築をそのまま利用しているものも、まれにあります。サンタ・サビーナ:巨大な建築が、1,600年も残っているというのは、驚きです。でも、 ちょっと掘ると、すぐに古代が出てきます。有名な「真実の口」も、古代の遺品です。サン・ニコラ・イン・カルチェーレ。教会の壁に、埋めこまれた円柱。古代の神殿をそのまま教会に転用しています。クリプトには、古代の人骨があります。
トラステヴェレ地区には、メジャーな観光スポットはありませんが、観光ズレしていないので、散策するにはいいです。地区を代表する教会がサンタ・チェチリア( Santa Cecilia)です。音楽の聖人である殉教者チェチリアの遺骸があります。サンタ・チェチリアは、教会自体より、カヴァリーニ( Cavallini)の壁画で有名です。カヴァリーニは、ローマの画家で、チマブーエ(Cimabue)やジョットに大きな影響を与えました。壁画は、週に1回しか公開されないので、事前に曜日と時間を確認しておかなければなりません。また、クリプトには、息をのむほど美しいチャペルがあります。サンタ・マリア・イン・トラステヴェレ(Santa Maria In Trastevere)のモザイクも、カヴァリーニのものとされています。
コンスタンツァのマウソレウムは、サンタニエーゼ(Sant'Agnese)にあります。やはり同時代のものです。内部のモザイクも、当時のものです。ワイン作りの風景です。ワインは、キリスト教では、重要なアイテムなのです。
ローマは、郊外にも見所が多いです。サント・カリストやサン・セバスティアーノなどのカタコンベ。ティボリには、ハドリアヌス帝の別荘と噴水庭園で名高いエステ家の別荘があり、半日ツアーで気軽に行くことができます。
シチリア
![]() |
| Italy8(Sic |
シチリアという島も、ギリシャとローマ、そして、ヨーロッパとアジア・アフリカを結びつけるかすがいのような土地です。カルタゴとローマが対立する引き金となり、1世紀以上にもおよぶポエニ戦争を引き起こしました。最終的に、ローマが全面的に勝利し、帝国化の第一歩となりました。パレルモの町は、昼間は、南国的で穏やかなのですが、夜は、人通りもばったり途絶えて、物騒です。特に女性の一人歩きは、気をつけてください。マルトラーナ教会は、広場に面したファサードは、バロック時代のもので、ダミーです。ビザンチン・モザイクは、ノルマン時代にギリシャから職人を呼んで作らせたのでしょう。ビザンツの教会は、オスマン時代に破壊されてしまったのですが、シチリアには、残っています。
ノルマン時代の王宮にパラティナ礼拝堂があります。贅のかぎりを尽くしたインテリアには、目を見張ります。惜しげもなく富を注入したものは、長く残ります。ネロ帝の面前に引き出されるペテロの図。ネロのモザイクは、珍しい。カプチーノでゆかりのカプチン派のカタコンベも、訪れる価値は、大きいです。写真が見せられないのが残念ですが、何千という幸福そうなガイコツが見れます。死ぬのが恐いと思っている方は、ちょっと考え方が変わるかもしれません。これだったら、死ぬのも楽しいかもって。
ミュージアムは、わかりにくい場所ですが、訪れる価値があります。コリドールのある中庭:修道院や教会の趣で、いいです。人面棺:シチリアにおけるオリエント文化の影響の一つに、人面棺があります。エジプトの棺にも、マスクがありますね。古代人は、棺を来世へのエントランスのように考えていたのでしょうか。
カターニアの街もけっして見所がないわけじゃありません。でも、パレルモよりも物騒な感じです。夜は危ないと、思いつつ、出歩いてしまいました。昼間でも、人通りの少ない場所には、長居はしないほうがいいでしょう。
シラクーザは、古代ギリシャ時代には、シュラクサイと呼ばれていました。ヘレニズム時代に、アルキメデスを輩出した町です。ギリシャ時代は、南イタリアからシチリアにかけては、ピタゴラス派の影響が強く、数学の研究が行われていました。プラトンは、観念論を展開するにあたり、わざわざシラクーザを訪れて、数学を教えてもらっています。アルキメデスがピタゴラス主義者だったという記録はありませんが、無関係ではなかったでしょう。ピタゴラス派は、秘密結社的な性格が強く、政府から弾圧されました。霊魂の不滅と輪廻を教義のコアとしていたので、死を恐れなかったからです。死を恐れない思想や宗教は、支配する側にとっては、やっかいです。命懸けで抵抗するからです。この点は、カエサル(シーザー)も、指摘しています。後に、クリスチャンがローマ当局から弾圧されたのも、殉教をもって最高の名誉とするところがあるからです。シラクーザの劇場の裏の岩肌には、水が湧いています。オルティジャは、丸ごとバロックの街並み。アレトゥーサの泉。古代人は、湧水にも、愛欲を想像しました。大地に女性を重ねあわせる発想は、たいしたもんです。
タオルミナは、エトナ山のふもとにある町です。断崖の町として有名です。牧童のダフニスが、ニンフの恋を拒絶したために、失明させられ、絶望して身を投げたといいます。山の頂上に要塞があるようです。エトナ山は、雲に隠れて見えませんでした。周遊鉄道で山を一周することができます。















































































