3rd/Rainy day(Destiny)
それは、遠い昔の記憶。
耳に響いてくるのは、天から零れくる雨、その堕つる音。
石畳を叩いて一つ。屋根を叩いて二つ。窓を叩いて三つ。花を叩いて四つ。
それでも、世界で動く音は雨音だけだった。
――――サアサア――――
耳に優しく響く水の戯れ。
求めても見えない人の影。
濡れる独りきりの街外れ。
世界はひっそりとドアを閉め、孤独な遊戯室は、豪華にも無限の装い。
その孤室の天井を見上げながら、私はぼんやりと思考を巡らせる。
――――寒い
吐息に混じった白い思い。
――――お母さん?
迷う視線が求める人。
――――何処?
私がこんなにも寂しいのに、求める母の顔がない。
それが何より、不思議だった。
冷え切った指。何とか独りで温めようと、口元に当てて息を吹きかけてみる。
少しだけ温かい。
何度も何度も繰り返し、さらに両手を擦り合わせれば、何とか震えは納まるんだと知った。
だから、そうした。
何度も何度も息を吐き、何度も何度も手を擦り合わせる――――頭を下げて両手を合わせたその姿は、まるで祈り乞うているかのよう。
段々と小さくなっていく指の震え。
祈りは通じ、寒さは指から祓われていく。
けれど、代償はあった。
指の代わりに肩が震え、病魔のように背筋を冒していく。
――――手は温かい。温かいのにどうして?
とても不思議。
だから、小首を傾げて考えた。
考えて、考えて……答えに到る事もなく、私は寒さに殺される。
ぼんやりとした意識が、室内に満ちる陽の気配を感じた。
――――朝……。
そう思うと、ドアが開く音がして、誰かの足音が近づいてくる。
「おかぁ、さん?」
母親が朝に起こしに来てくれるのは、本当に久しぶり――――
「いえ、残念でしょうが違います」
「え……あ゛――――はわっ!?」
がばちょと布団を跳ね除けて起き上がると、棘のある瞳と寝惚け眼が見合った。
「じゃ、ジャストフィットですかぁ……」
主に視線が。やっぱりこの人はメドゥーサではなかろうか。
しかし、その魔眼の主は溜息を一つ、包帯の巻かれた右腕で眼鏡を押し上げ、
「何を訳の解らない事を言っているのです? それより、起きたのならするべき事があるのでは?」
言いながら、教授はカーテンを開き、陽光の中で腰に手を当てる。
「え、あ、えーっと……」
一体何をするのか。朝にする事。朝にする事。そう、お腹も減っているので、
「――――――――」
いや違う。ご飯ではない。断じて違う。そんな事言ったら石にされてしまう。きっとその前に顔を洗って歯を磨いて――――あ。
「Guten Morgen……?」
「Ja,Guten Morgen」
これが正解。なるほど、朝一番にする事はこれしかない。
けど――――皆一緒に起こされて、まとめて挨拶される事は孤児院でもあったけれど、
「え、ええと、教授、これからはどうするんですか」
こんな風に、一人だけ起こされて、自分一人のためだけに挨拶される事は、
「朝食を取ったら、空港へ移動します。その後はアカデミーの本拠のあるピレネー山脈まで一気に行きます。――――良く眠れましたか?」
「は、はい。――――久しぶりに――――」
そう、本当に、久しぶり……。
「それは良かった。では、朝食を作ってありますから、顔を洗ったら食事にしましょう」
眼鏡を押し上げる、蒼髪の人。
嵐過ぎし陽射しの中、その人は鋭さのある横顔で、わたしを見つめている。
4th/Castle of Magi
朝食も済んで二時間後、わたしはフランス行きの飛行機の中で、
「うえっ、ぇうぅぅぅぅ……っ」
猛烈に酔っていた。
膝の上には屋敷から持ってきた本が二冊。傍らには、完全に呆れてどう怒れば効果的やら考え込んでいるっぽい教授の顰め顔。
教授はその顔のままで少し考えていたが、やがて小さく溜息。
「だから、本を読むのは止めておきなさいと言ったでしょう」
「はわぅ……だ、ってぇ……」
二列の座席で、自分は窓側、教授が通路側。初飛行機という事で、わざわざ酔い難いと思われる席配置になったというのに、本を読んだのが仇になった。
――――だって、折角時間があって折角本があるのに我慢できなかったんだもん……。
「ラプロー。確かに、暇な時間を勿体無く思うのは美徳ですが、暇な時間を上手く使えぬようでは働く事は出来ません」
「そぅ、れすかぁ……?」
「当然です。余暇と仕事、この区別なく常に働いているようでは、それは労働とは言いません」
通路の向こうから、スチュワーデスが水と酔い止め薬を差し出している。それを教授は見て、右腕で受け取ろうとするが、右腕には包帯。眉を顰めて左腕で受け取る。
「あれ、きょーじゅー……右腕、どうしたんれすぅ……?」
そういえば、朝にもちらっと見たはずだ。昨夜までは確かにしていなかったのに。
「昨夜の嵐で窓ガラスが割れてしまったので、その時に少し切ったのですよ」
「そうらったんれすかぁ……」
教授は頷き、どう見てもフランス系のスチュワーデスに頭を下げた。
「Merci beaucoup」
「De rian.Comment va−ta soeur?」
「……Oui,bian」
スチュワーデスは、にっこりと微笑んで二人を交互に見て、
「Bon voyage」
「Merci beaucoup……。ほら、ラプロー」
「あ、は、はい……ええと」
薬と水を受け取り、小首を傾げる。
「フランス語、話せるんれすか……?」
「ええ、向こうについたら、貴女にも教えなければなりませんね。スペイン語や英語ももちろんですが」
「へぁ……そんなに……」
――――魔術師の城って、どういう場所なのかなぁ……。
「それより、貴女の欠点を一つ見つけました」
欠点? と見上げると、教授は深い首肯。
「本を読む時の集中力は見事ですが、貴女には忍耐が足りない。時には、知識を得る事を自粛せねばならない時もあると知りなさい。“忍耐なき集中は――――”」
その言葉は、聞いた事がある。引き攣り気味に笑って、わたしが口にするのは教授に続く一節。
「“意味はない”、れすねぇ……?」
「……その通りです。どこでそれを?」
「えへへ……、“先生の本”に書かれていました」
「そうですか。なら、それを実行しなさい。今はとにかく、薬を飲んで眠る事です」
「Ja,Professor……」
薬を飲み、一息ついてシートに深くもたれると、その上から教授がシーツをかけてくれた。
「ラプロー、……Gute Nacht」
「Gute Nacht……Professor」
昨夜の寝不足も重なり、意識が落ちるまでには数秒とかからなかった。
フランスのトゥルーズ空港に着いて飛行機から降りると、そのまま空港内を移動。用意されていたヘリに乗せられる。
「ノイム教授……あの、これは?」
「アカデミーが使うヘリですよ。政府認定の特別機の」
――――いよいよどういう組織なのか解らないです……。
「ノイム教授、アカデミーって、どういう組織なんですか?」
「そうですね……。簡単に言えば、裏社会のようなものですか。表社会で普通には生きていけない魔術使い達が寄り添い、魔術や魔物絡みの事件を解決する事で各国政府に存在を黙認させている――――そんな所です」
「各国、政府……?」
それは、一体何ヶ国くらいの事を指しているのか。
「国連加盟国なら大抵は……。中には自国の組織だけで保たせている国もありますから、そういった国はアカデミーを介入させません。日本やイタリア、イギリス、エジプトですね。アメリカも中々強情ですよ、詰まらないプライドがあるのでしょうね」
「はぁ……と、とんでもないんですね、アカデミーって……」
「ええ、裏社会――――魔術社会の中には、幾つも魔術組織は存在します。ですが、魔術師の城ほど巨大で強力な組織は在り得ません。そうですね、少し、その辺りの事をお話しましょう」
こくりと頷くと、教授はこちらの瞳を覗いてくる。その棘のある瞳は、こちらの感心の度合いを測るようで……。
「魔術使いには、大別して二種類あります。魔術師と、魔術士です」
「マギと、マジシャン……?」
「ええ、魔術師とは、極めた者の事。一つ以上の魔術を、一定のレベルまで持っていった者の事を言います。
逆に、魔術士とはその前段階。修行中の身という事です。全ての魔術士は魔術師を目指し、研鑽を重ねている。魔術師になれば、一つの組織を起こす事も出来ますからね」
それは、料理人みたいなものだろうか。師匠の元で腕を磨き、ある程度の技量があれば自立して店を構える事が出来る。
「大抵、魔術組織は魔術師が一人いて、その弟子の形で魔術士達が集まってくる形を取っています。故に、その規模と自ずと限られるのですが、魔術師の城は違う。魔術師が寄り集まるからこそのその名前、魔術師の城には、二十八人の魔術師がいます」
「二十八人!?」
「そうです。料理界で例えるなら、一つの店に五ツ星コックが二十八人いるようなものですか。さぞかし繁盛するでしょうね」
あ――――やっぱりそうなんだぁ……。
だが、それは凄い事だ。そのコックが一人でも充分にお客さんを取れるのに、二十八人も寄り添って商売をしている。その効果は単純に計算しても二十八倍の収益。実際には、相乗効果でさらに倍くらいはいくはずだ。
「魔術師の城が、魔術社会において世界最高と呼ばれる所以はここにあります。あそこに行けば全ての魔術が存在する――――超一流の売り文句でしょう」
「そこに行けば全世界の美食が食べられる、っていう事ですもんね……」
「ええ。尤も、一分野特化なら他の組織にも分がありますがね。錬金術は世界最高の頭脳集団、薔薇十字団が一番でしょう。とりあえず、ここまでで何か質問は?」
「えっと、ええっと……魔術組織は、弟子を取る形式、なんですよね? じゃあ、アカデミーで、わたしはぁ……?」
問いに、ノイム教授は眉を潜めた。何を言っているんだ、という表情。
「私の弟子に決まっているでしょう。それとも、止めますか?」
「はわっ、いえっ! いえいえいえいえ!!」
「でしょうね、全く……。ですが、ラプロー。貴女は裏社会に首を突っ込もうとしている。生死のやり取りは当たり前という世界に、です」
え、と声を上げて瞬きをすれば、教授は眉根を寄せたいつもの表情で、
「魔術使いは、綺麗な生き方ではない。古来、魔術の起こりは争いのためでした。部族の守護神に願い、味方の軍勢に加護を与えるシャーマン。ドルイドやルーンのように、兵士に力を与える神との誓いを仲介する者、直接敵を殺すための黒魔術……。
現代、多くの魔術師は戦闘型です。真理を追究する世捨て人、という中世的な魔術師は多くない。――――貴女は……」
「教授――――ノイム教授は、戦闘型なんですか?」
それは違うと言う確信がある。――――何故なら、この人は“先生”と同じ真理を追求する人だ。魔術がどうであれ、数学がどうであれ、人に教えられるのであれば同じような学問に違いはない。
なら、未来予知というラプラスの悪魔を追い求めて魔術使いとなったこの人は、真理を追求する世捨て人のようになっているに違いない。例えそれが、時代遅れの生き方だったとしても。
「私は……非戦闘型です。元より戦う事に興味はありませんでしたし、ある時、自分の指向性を完全に非戦闘にしてしまいましたから」
「ですよね? じゃあ、わたしは教授の弟子ですから」
微笑み、“先生”の言葉を思い出す。
「“他の知識人が何と言おうと、私は私を貫き通す”――――わたしも、戦う事なんて興味ありませんよ。誰だって、殴られたら痛いですもん」
答えに、教授は数秒こちらを見つめ、何かを考えて、小さく苦笑した。
「とても苦労しますよ。少しは、護身用に覚えておきなさい」
「え、でも……」
「私はあまり才能がなかったので、他の魔術を修められなかったのですよ。それでも、一通りは使う事が出来ます、護身用として」
教授は眼鏡を押し上げ、縁の所を撫でながら告げる。
「貴女には才能がある。人が持つ魔力というのは、先天性のものです。殊に、貴女には人並み外れた魔力量を持っています。我々が貴女をスカウトしたのは、そういった所があったからですよ」
眉根を寄せた表情ではなく、苦く笑う彼女の表情は、思うよりずっと綺麗だ。
「ああ、見えてきましたよ。あれが、魔術師の城です」
眼下、漆黒の礼装を持って聳え立つ旧き城が、少女を見上げている。
「ふわぉ……すごい……」
ヘリから降り、正面から見上げる黒い古城。
外的を拒む城壁は、向こうの森まで続いていて、中から見れば城壁内にも森が侵食している。
というよりも、森の中に城を持ってきたような、そんな感じ。
城壁内の木々を見れば、早千年を超えてきたかという所も見受けられるのに、城自体は全く崩れてはおらず、あたかも人の手による造形とは思えない威圧感。
――――このお城は、一体どの時代からピレネーの山奥にあったのだろう。
威圧を持って見下げてくる古城には、畏怖よりも敬服が込み上げてくる。
「ラプロー、城なら後で幾らでも見られますから」
「あ、は、はい。ごめんなさい」
かなり前方の正門の所に立っているノイム教授の所まで慌てて駆け込む。
「こ、これからどうするんですか?」
「ええ、ユキ師長に顔見せをして、その後は私の研究室に荷物を置きに行きます」
「ユキさんにですかっ!?」
俄然ボルテージが急上昇。さあ行きましょう、と城内に駆け込んで、いきなり顔面から転んだ。
「はわっ、わんっ!?」
「…………落ち着きなさい。忍耐です、ラプロー」
「は〜い〜……」
しこたま打った顔を撫でながら、今度はゆっくりとノイム教授の歩みについていく。
赤い絨毯が敷かれた城内は、少女を誘うように穏やかな灯火に照らされていた。魔術師の城というのだから、もっとゲトゲトしたものを想像していたが、これでは絵本で見た平和な王城の空気。
中世より以前の、物語のような世界。
「あれ……ノイム教授、あの、あそこにあるのは」
指差すのは、金色に輝く鳥のような像。
ラプラスの悪魔を用いる際、その場の空間にある全物質を把握する事は重要な事だ。そして、魔力以外は完璧だと思える自分の目に映るそれは、
「わたしが見た所、あれって、純金じゃぁ……?」
それも、かなり質の良い高級品。
「ええ、あれは金ですね。眼の所にはエメラルド、爪には純銀、羽にはダイアでしょうか」
「あの鳥、二メートルはありますけどぉ……?」
「もっと巨大な物もありますよ、ここでは」
教授は眼鏡を押し上げ、こちらを見て、
「億クラスがたくさんありますから……壊さないように」
「はわ……ど、努力します」
「よろしい」
とりあえず、道の真ん中を歩いていれば早々壊さないだろう、と判断。ぎくしゃくと腕と脚を一緒に前に出しながら歩いていると、目の前から凄い人が来た。
――――あれが黄金の島国、日本の伝統文化、コスプレって奴ですかっ!
そう判断出来るのは、やって来る女性が、全身を白いシルクのような薄布で覆い、その布を黒い革ベルトでぐるぐる巻きに固定しているからだ。その上、目に鮮やかな神緑色の長髪も、革ベルトで一本に纏めている。
しかも、とんでもない美人。両目を伏せたその相貌は、彫刻のように静謐で、まるで祈りを捧げる聖女のように清楚な雰囲気。
「の、ノイム教授……?」
小声で、誰ですか、と問う。
すると、教授はやって来るコスプレイヤーを見て、頷きを一つ。
「彼女はアナスタシス・ファーランドという人です。年齢は十八歳と魔術使いとしては若いですが、私と共に、ついこの前に魔術師に昇格したのですよ」
「魔術師なんですかっ!?」
その吃驚声に、コスプレイヤー魔術師は、目を伏せた顔でこちらを見た。
「その気配、ノイモーントさん、ですね? もう一人は貴女と良く似た気配のようですが、どなたです?」
「ええ、先日ユキ師長と私がスカウトに行った少女です。ラプロー」
と、背中を押された。挨拶しろという事らしい。
「はわ、あ、あの、えと……ら、ラプロー・アンノールです……」
「ふふ、緊張しているようですね」
そう言って、コスプレイヤーはその手をわたしの頭に乗せて、軽く撫でる。
「私の名はアナスタシス・ファーランド。ノイモーントさんの弟子とは、貴女は運が良い。立派な魔術師になれるでしょう……」
微笑み、彼女は軽く会釈をして手を放す。
「私の得意分野は“封印”です。もしも興味があるのでしたら、今度の講義にでも顔を出して下さい」
「しーる……?」
「そう、封印。詳しくはノイモーントさんにお聞き下さい。では、私は失礼しますよ」
彼女はそれだけ言って背を向けて行ってしまう。忙しいのだろう、と思い、教授を見上げる。頬には汗の伝う感触。
「変わった人なんですね。主にファッションセンスが……こう、直角に捻じ曲がってる感じが怖いです」
「ええ、理由を知らぬ者には奇異な衣装にしか見えないでしょうね」
教授は素直に頷いて、再び歩みを進める。が、どうしても確かめなければならない事が一つ。
「きょ、教授? あの、他にもあんな人とか、いるんですか……?」
「魔術師はいずれも変わり者揃いですよ。ズレている所が人それぞれで飽きません」
「はわぅ……」
――――凄い世界に入っちゃったかなぁ……。
「ラプロー、何をしているのです? 速く来なさい」
「はわっ、お、置いていかないで下さい〜!」
古城の最上階、最も天空に近いその部屋に、彼女はいた。
雪のように白い三つ編みと、紅色の眼、白の衣装の全体は、天使のようにその人を魅せている。
相変わらずの、その美貌――――ユキ・スレイマーン。
二十八の魔術師の頂点に立つ、師長。魔術師ノイモーント曰く、世界最高の魔術使い。
「ふむ、良く来た、ラプロー。ノイムも、ご苦労であったな」
労いに、ノイム教授は軽い会釈。
一方、わたしは多いに舞い上がって赤い顔でユキさんを凝視。
「ん? ラプロー、どうした? 我の顔になんぞついているか?」
そう言って頬に手を当てるユキさん。そういう仕草もとっても素敵だ。
とか思っていたら、後ろから教授が背中に人差し指を突き込んできた。
「はわっ!?」
「ラプロー、舞い上がるのは勝手ですが、ユキ師長にも都合と言うものがあります」
「いや、良い良い、この後は暫く暇だからな」
にこりとユキさんは笑って、机の上から書類を取り出す。
「説明ならノイムが全てしてしまうだろうが、一応持って行くと良い。このアカデミーの説明が書いてある」
「あ、は、はい、ありがとうございます、ユキさん……わぁ」
ユキさんから直に書類を貰っちゃった。嬉しいなぁ。えへへへへ。指紋採取して保管しておかないと。
「ラプロー、戻ってきなさい、ラプロー」
「はわっ!?」
「よろしい。それで、ユキ師長」
改めて、と言える声で、ノイム教授は告げる。
「魔術師の城、二十八師が一師、“律法計算者”ノイモーント・フォーアヴィッセンの名において、ラプロー・アンノールを魔術士として認めて頂きたい」
「良かろう。今より、ラプロー・アンノールを我等が同胞とする」
ユキさんは、厳かに頷き、微かに鋭さを持った顔で、
「精進せよ。魔術は己をも犠牲にする道だ」
「は、はいっ! わたし、頑張ります!」
――――こうして、ラプロー・アンノールは、魔術士としての一歩を踏み出した。
一歩を踏み出したラプローがまず訪れたのは、城壁内の敷地にあるノイム教授の研究室――――という名を借りた邸宅だ。
二十八の魔術師には、どうやら敷地内に家を持つ権利が与えられ、その全てが豪邸と呼べるような設備を持っているらしい。
「中にはプールを造っている人もいますよ」
やはり、魔術師も人間であるのだろう。
他の人の家は見られなかったので比べられないが、教授の家は三階建て、白い壁は真新しく、つい最近造られたであろう事が窺えた。
中に入れば、いきなりの古書の香りと、目の前に広がる本棚の群れ。
夕暮れの差し込むその風景は、いつか夢見た自分だけの図書館のよう。
「――――Herrlich――――」
従来、ロビーであらねばならないその場所は、書庫として埋め尽くされていた。二メートルを超える背の高い本棚と、そこに納められた数多の書物。見上げれば、吹き抜けの造りのロビーに、螺旋階段と二階が見える。
物語のようなお城と、その中にある物語のような図書館。
呆然と見上げていると、後ろから教授が背中を押す。
「ラプロー、二階へ。主な居住区は上です」
「は、はいっ――――って、あの、でも……っ」
押されて本棚の中を歩かされながら、視線は左右の本棚のタイトルを逐一チェック。面白そう面白そうとはやる心が、上手く言葉を作らせてくれない。
「忍耐を持ちなさいと言ったでしょう。荷物を片付けて食事を取ったら、好きなだけ見ても良いですから」
「あ、ぅ……は、はいぃ……」
今すぐに読みたいんだけどなぁ、と顔を顰めると、背中に教授の人差し指が突き刺さる。
「はわぁ!?」
「後でゆっくりと読みなさい。後で」
「わ、解りましたぁ!」
逃げるように螺旋階段を駆け上がり、二階に着いた瞬間に、
「はわわわわっ!?」
階段に脚を引っ掛けて転倒。後方で、教授の浅く吐いた溜息が聞こえる。
二階にある一室に通され、そこを自分の部屋として好きに使いなさいと言われた。
――――凄く広い。
孤児院では寝る時は皆が同じ部屋で、私室と呼べるような場所はなかったから、その広さが余計に手に余る。
自分が持ってきた荷物なんて、着替えが少しと“先生”の本が数十冊。部屋にも本棚が備え付けてあったので、そこに詰め込んだら片付けはもう終わりだ。
部屋は、教授が日頃掃除しているのか、埃一つない。あの人らしいな、と思うと微笑が零れた。
教授の話だと、この家は二階が居住区、一階が資料保管区、三階が研究区で、地下一階が実験区になっているのだそうだ。
一階の資料は、好きなのを好きなだけ見ても良い、と言ってくれた事が嬉しい。
けれど、それより、もっと嬉しかったのは、
「ラプロー、貴女の好物を言いなさい。夕食はなるべく貴女の希望に添えましょう」
そんな何気ない会話。孤児院ではほとんど聞き入れられない要求であり、実の両親と共に居た時には一度も聞かれた事のない質問。
「イチゴ、出るかなぁ……」
ドラマで見た事のあるふかふかのベッドに転がって、天井を仰げば、くすぐったさが込み上げてくる。
「孤児院の皆、アルティラさん……」
ごめんなさい。そう思って、
「ありがとうございます」
そう呟いた。
――――ラプロー・アンノールは、とても幸せを感じています。
ノイム教授は無愛想な顔をして、とても優しい人なんだと、そう思う訳です。
「ハイ、ノイムお姉サン」
そう言って、目の前の少女、魔術師セレソ・アノチェセルはにぱーっと笑った。手渡された籠の中には、赤く艶の良い野イチゴ。
「すみません、セレソさん。こんな事が頼めるのは貴女だけなので……」
「いいサいいサ、お姉サンのお役に立てるなら、このセレソ・アノチェセルは大満足ダヨ。お姉サンが手伝ってくれたおかげで、良い土壌も手に入ったんだしネ」
お相子、と笑う彼女に、小さく微苦笑を返し、もう一度頭を下げる。
「また、イチゴを貰いに来ると思います」
「アレ、そうなの? ならまた作っておくヨ、ただし、その分は貸しだからネ?」
「ええ、またお手伝いしましょう」
土壌活性の手伝いくらいならどうという事はないから、と心中で頷き、踵を返す。
「あ、お姉サンちょっと待ってヨ」
「何です、セレソさん?」
振り返れば、セレソは両腕を組んで、こちらを見上げている。その顔は楽しげな微笑みだ。
「イヤ、お姉サンがイチゴを貰いに来るのは、どうしてかなって思っただけサ。それと、顔が優しい感じがするネ、何か、良い事でもあったのカナ?」
「そうですか?」
眉間に指を当て、いつも通りシワが寄っているのを確認する。
「平時と変わらないと思いますが、イチゴは弟子の好物だそうなので。良い事があったかどうかは、ご想像にお任せしますよ」
「あははっ、上手い切り返しダヨ、ソレ」
ウン、と彼女は頷いて、
「また何時でもおいでヨ、とびっきり美味しいイチゴをあげるからサ」
「感謝します。では、また今度」
今度こそ背を向けて歩き出しながら、もう一度眉間に指を当てる。やはり、いつもと変わらない感触。
だが、魔術師として先輩であるあの少女が言うのであれば、それは的確なのかもしれない。
アカデミーの魔術師の中でも、戦闘型として知られる魔術師、セレソ・アノチェセル。その洞察力は、非戦闘型の自分とはまた別種の鋭さを持つはずだ。
「……弟子も出来れば、精神的に変化が生じるのは必然。まして、その弟子が――――」
小さく苦笑して、足早に歩き出す。
「あの年頃に食欲を我慢しなさいと言うのは、酷でしょうからね」
城の敷地内を最短距離で歩き、自分の研究室へ。
玄関を抜け、二階へと上がり、無意味に設備の良いキッチンにイチゴを置く。
「水に浸して冷やして、ラプローを呼びに行きますか」
ドアをノックする。
今まで誰も住む事のなかった空き部屋は、今では一人の少女のもの。だから、礼儀を持ってドアをノックする。
「……?」
返事がない。ここにはいないのか、と思い、ドアを開けて中を覗く。
陽も暮れて、夜の暗さが隅々に忍び込んだ室内。暗きを払う大きな窓の向こう、木々の海原の上には、雲に煙る金色の月光が……。
一枚の、絵画のようなその世界。その中で、ベッドの上に横たわる、誰かの小さな体。
この絵本のような風景で、これ以上似合う者はいないと思えるようなその登場人物は、心地良さそうな寝顔で、小さな胸を上下させている。
「待ちきれず、寝入ってしまいましたか……」
無理もない。今日は移動が多かった。いかに飛行機内で眠ったとは言え、慣れない刺激は根本から疲労を蓄積させる。
作った夕食は、シチューがメイン。温め直せば、その味は問題ない。
ならば、この少女を無理に起こす事もないだろう。
ドアを閉め、ベッドの方へと歩み寄る。
月明かりで見える少女の寝顔はあどけなく、――――どこか、心に染み入るものがあった。
「何もかけずに、寒いでしょうに……」
言い訳のように呟いて、毛布をかけてやる。
ん、と少女は呻いて、
「おかぁ、さん……」
そう言って、顔を綻ばせた。
――――確か、今朝はそう言われて、否定した……。
「Gute Nacht――――心安く、眠りたもう……」
目を移し、ベッドの傍にあるデスクから、椅子を引き出す。
「今日は、良い三日月ですね」
――――さぞ、集中し易いでしょう。
椅子に腰掛け、瞼を伏せる。
「精神知覚、埋没……脳内領域、開書」
自分に対する暗示の言葉が、雑な思考の全てを吸い取っていく。
先鋭化に継ぐ先鋭化、自己の持てる力の全てを引き出そうと編み出した自己暗示の言霊が、私という存在を限りなく澄んだモノへと昇華する。
その反面で、ぎちり――――思考内で、脳が機械仕掛けになったような錯覚。その不快さに腹の中では微かな嘔吐感。
それを捻じ伏せ、小さく唇を動かす。
「真理魔術、秘術”数秘法”」
解き放たれる大気の振動は、それだけで私の意識を呑み込んでいき、底へと誘う。
意識の中の底辺で閉じていた瞼を開ければ、そこには、セピア色の過去が展開されていた。
六歳の少女の、少女らしからぬ日常。
本を追い求める日々と、読み続ける日々。
夜な夜な、夢の中で母を呼ぶ誰か。
待てども来ない、誰かの母。
唯一つの心の拠り所は、孤児院に置いてあった見知らぬ誰かの書物。
視えるものは、全てが見知らぬ、しかし懐かしい過去ばかり。
過去視の見せる、一時の思い出。
――――過去視――――
今は無き未来を読む因果視とは逆の、今は亡き過去を探る能力。
もはや振り返れぬ何時かを視る事で、真理に到ろうと開発された技術。
――――やはり、虚しい技術だ。
目の前で、寝ている少女が涙を零している。しかし、過去を視ているに過ぎない自分がその涙を拭える事はなく、指を伸ばして触れようとすれば、光を撫でるように透けるだけ。
そして、その過去も、次の過去がやってくれば消える。
少女を殴る、誰かの父。
泣きながらも、声を噛み殺す少女は、泣き喚けばさらに叩かれる事を知っている。
誰かの母は、必死に父を止めようとして、同じく殴られた。
壊れた家庭の姿と、必死に耐える誰かと誰か。
そして、何時しか誰かの母は耐えられなくなり、雨の日に誰かを逃がした。
待っていなさい、という残酷な約束。
守られぬと解りきった嘘。
それを、頑なに信じていた、雨の日――――
「やめろ……」
小さく、過去に現在が零れる。
「やめろ」
もう、やめろ――――瞼を伏せて、過去を終わらせる。
意識の底辺は、その思いだけで漆黒に還り、無音よりも静けさに沈んだ。
もう良い。
もう、充分だ。
この子には、優しくしよう。
やり方は良く解らないが、この子には上手に接しよう。
そして、厳しくしよう。
大人になった時に、誰かを力で殴らないように、そう教えよう。
それが、何時の日にか――――雨に濡れた、少女を助けると信じて……。
意識の底から目を開ければ、暗い森の上の月光が、雲をかぶっていた。
「雨が、来る……」
雨――――雨は、嫌いだ。
重かった意識が、傍らに人の気配を感じて浮き上がる。この感覚は、
――――寝て、いたんですか……?
そう思うのと、意識が全覚醒するのとは同時だった。
「はわわわっ!? ごごっ、ご飯っ!?」
バネ仕掛けの人形よろしく、勢い良く跳ね起きると、体の上の毛布が広がる。
それから、傍らの気配が、
「起きましたか……」
小さく吐息を零して、こちらを見ている気配がある。
例の赤色の、血を吸った棘のような瞳。あの威圧感を思い出し、背筋がふるりと震えた。
「はわ……っ、きょ、教授、ご、ごめんなさい! わたしっ、どれぐらい!?」
とりあえず土下座をしておく。目は怖くて見れないけれど、膝の上に本が見える事から、どうやら本を読んでいたらしい。
「大したものではありませんよ。それより、食事は食べられますか?」
「へ、え、あぁ……あ、はい」
「なら、食事にしましょう」
そう言って、教授は立ち上がり、ドアに向かう。
「あ、あの、教授? 怒らないんですか……?」
「怒る?」
教授は、振り返っていつもの眉を寄せた表情で、しかしその瞳を伏せた。
「私は、この程度で怒るように見えますか? 移動で疲れたのでしょう。今日は、食事を摂ってお風呂に入ったら、何も読まずに眠りなさい。良いですね?」
「J,Ja!」
「Gut……」
そこで、教授は瞼を開け、眼鏡を押し上げる。
「イチゴがあります。イチゴには、ミルクをかけるタイプですか?」
「あ、はい、わたし半分にかけて、半分は生で食べます!」
「中々こだわりますね……」
――――やった、イチゴだ!
そう思い、ガッツポーズをしながら、ふと気づいた。
明るさのないこの部屋で、教授は確かに本を持っている。
目が悪くなるからと注意した本人が、暗い部屋で本を読んでいた訳は――――誰かが、目を覚まさないようにと……?
腹の底から震えが込み上げて、微かに乱れる動悸。
それが嬉しさから来るものだと理解するのに、数秒かかった。
「ラプロー、どうしました? 速く来なさい」
「あ……、は、はい!」
駆け出し、ドアの所の教授に向かって、
「教授、その本は何ですはわバビィッ!?」
顔面から床に転んだ。
上の方では、教授が眼鏡を押し上げながら溜息を吐く気配。
「はわぅぅ……、お顔、痛いですぅ……」
顔を擦りながら女の子座りに体勢を持って行くと、教授は見下ろしながら、
「この本は、私の研究書ですよ。今までの十二年間の全てが詰まっています」
痛みが一発で引いた。
「へあっ!? そ、そうなんですか!? 凄いです! 見せて下さい!」
「ストレートですね、貴女は……。でも駄目です」
「な、何でですかっ、わたし、弟子じゃないですかぁ!」
「弟子だからと言って、全てを教える訳ではありません。私が教えるのは、十の内の四から三程度、後は、貴女が自分で見つけていくのです」
教授は溜息を一つ。ですが、と続けて、
「もし、私の隙を見て盗み見る事が出来たら、それも認めましょう。貴女が、自分で見つけたのですからね、私の隙を……」
「あ……、や、約束ですよ!」
教授は眼鏡を押し上げ、悠然と頷く。
「不可視なる運命を解するが故に、律法計算者と異名を取るこの魔術師を出し抜けるのでしたら、どうぞ、ラプロー」
その姿、魔術使いの頂点に立つ者の威厳。
将来、こういう人になれるでしょうかと、少女は頷いた。
5th/An Immovable Pride(Destiny)
冷たい雨の降る翌朝、朝食とコーヒーを済ませた後、教授は三階の研究フロアにわたしを呼んだ。
三階は壁が取り払われており、フロア全体が一室になっていて、中央に大きなデスクがある形。教授はデスクの椅子に座り、わたしはその前に。
「さて、今日から貴女に魔術を教えていきます」
「はい、待ってました!」
「ただし、平行して一般教養も教えますので」
一般教養。それはつまり、普通の学校と同じような事を教えるのだろうか。
「え、あの……どうしてですか?」
「どうしても何も、諸学に通じてこそ人生に価値があるのですよ。ただ魔術が使えるだけで満足したいのですか?」
「あーぅ……それは、他の人も一緒なんですね?」
いえ、と教授は眼鏡を押し上げ、
「貴女くらいでしょう。大体、いかに魔術士とはいえ、幼少の頃は一般人と同じように学校に通いますから」
「あ、そうなんですか……」
「貴女がここに来る年齢が異例なほど早かったのですよ。では、始めましょう」
こくりと頷くと、教授はとつとつと語りだした。
「魔術を使う上での基本は、何を置いても魔力です」
「エーテル……」
「そうです。魔力は、世界のあらゆる所にあります。ここにある大気や、太陽の陽射し、今降っている雨、そして生物の体内にも、です。特に、生物の中にある魔力を“霊力”と呼んで区別する事があります」
「魔術っていうのは、そういう魔力を使うんですね?」
「ええ、その通りです。そして、魔術には二種類あります。自分が持つ魔力、つまり“霊力”を使う者と、大気中などから取り込んで使用する者です。人間で多いのは圧倒的に後者、人間という種族は長命種でなくなった時から、その霊力を大幅に失っているのです」
自給自足をするか、外部供給に頼るかという事なのだろう。
しかし疑問が残る。種族なんたらは保留にしておくとしても、
「えっと、教授。どうしてその、霊力を使うタイプがいるんですか?」
「良い着眼点です。その疑問の根拠は?」
「だって、自分の中の力を使わなくても済むならそれに越した事はないと思います。それに、思い込みかもしれないですけど、一個の生物が持つ魔力よりも周囲の環境が持つ魔力の方が多いんじゃないんですか?」
「Gut.論理的な疑問であり、貴女の推論は正しい。ただ、そこまで考えられる貴女なら、答えまでの推論も立つのではないですか? 何故、外部魔力に頼らず、内部魔力に頼る魔術士がいるのか、と」
それは――――眉間に指を当てて、少し考える。
例えば、国家が外国からの食料輸入にばかり頼っていたら、国内産業の割合が崩れ、輸入を打ち切られれば危機に瀕する。それに、輸入するためには金銭もかかってしまう。
そこから導き出される解は、
「外部の魔力を使えないように出来る魔術が、ある? 例えば、自分で吸収しつくしちゃうとか……。それともう一つ、外部魔力を使おうとすると、何らかの代償が必要になる、ですか?」
見上げれば、ノイム教授は顎に手を添えて静かに首肯。
「Herrlich.完全な回答です。外部の魔力を使用するためには、まず自分の体内に受け入れなければなりません。その際に妨害する魔術が幾つか考えられますし、最も手早いのはラプローの言う己で先に吸収し尽す事でしょう。その上、体内に受け入れるためには、自分の物ではない魔力を自分用に濾過する必要があり、その時に霊力を消費してしまいます」
「やった、正解ですっ! つまり、霊力はどうしても消費しちゃうし、根本の魔力を封じられてしまうリスクがあるんですね!」
ええ、と教授は頷き、感心したようにこちらを見る。
「流石の吸収力です。三ヶ月でラプラスの悪魔を解せる訳だ……」
「えへへ、“先生”がそれ用の本を買っておいてくれたおかげですけど」
「なるほど……。この調子なら、今日一日でどこまでいけるのか……次に行きましょう」
はい、と元気良く笑うと、教授はコーヒーを一口。
「では、貴女が霊力型か魔力型かについてですが……」
「あ、教授はどちらなんですか? やっぱり魔力型なんですか?」
「いえ、私は霊力型です。カバリスト……真理魔術の術者は霊力型ですからね」
カバラ――――小首を傾げて、どんな魔術だったかを思い出す。
「ユダヤ教の、秘術ですよね?」
「ええ、そうです。現代の体系付けられた全魔術の原型とも言える最初の魔術と言われ、世界の律、すなわち真理を求道するための学問とも言えるものです。
その主な修練は瞑想。外界に真理を求めるのでなく、自己という小宇宙を接点に大宇宙の真理を見出す。そのため、カバリストは自分という存在を把握していく度に真理に近づくのです」
「へえ……じゃあ、わたしもそれでいきます。教授と同じカバリストです!」
あくまでも目標は、“先生”の目指した真理だ。それ以外の魔術にも興味はあるけど、まずはこっち。
「ふむ……。まあ、貴女の桁外れの霊力の量なら、そちらの方が良いのですが」
教授は浅く瞼を伏せ、例の研究書にすらすらと筆を走らせる。
「とりあえず、カバラと私の知る各種魔術の基礎は教えます。それから専門的な事はそれぞれの魔術師の所へ聞きに行きなさい」
「へ? あの、でも教授……そんなに覚えられるものなんですか? 魔術って……」
五ツ星コックにそんな簡単になれるのだろうか、と小首を傾げれば、教授は首肯。
「容易くはありません。しかし、私と貴女なら出来るでしょう。貴女には、それだけの素質がある」
教授は本を閉じ、ペンをペン立てに突き立てる。
「さて、忙しくなりそうですね……」
教授の立てた勉強スケジュール――午前は魔術授業で、午後からは一般教養、主に外国語の習得――をこなして、早数日。
教授にも都合があるのだろう。休憩時間もかなりあり、その間は城内を好きに散歩出来る事になっている。
今は城内の廊下を、探検気分で闊歩中。
「相変わらず豪華ぁ……」
今見上げているシャンデリア、一体幾らくらいするんだろうか。金銀を使っているように見えるのは気のせいだと思いたい。
「う〜ん、後はどこに行きましょうか……」
あんまり歩き回ると、本気で迷子になりそうなので困る。このお城、外見よりも中の構造が複雑になっていて、とんでもない収納スペースを誇っているらしい。
なんでも、魔王が建てたお城だとか。
そういえば、そういうお話が聖書にあったなぁ、と思いながら歩いていると、
「Nuem――――!!」
見知らぬ言葉を発しながら、金髪セミロングの少女が抱きついてきた。
「はわっ!? はわわわぶっ!?」
しかもとんでもない勢い。押し倒される格好で、大転倒。
「はぅ――――っ!!?」
がどん、とかいう打撃音を上げた後頭部がしこたま痛い。
「――? ――――Nuem?」
涙ぐんだ視界の向こう、十代中盤くらいの少女が、こちらを覗き込んでいる。
彼女が発している言葉で、唯一理解出来るのは“ノイム”という単語だけ。少し聞いた感じ、スペイン語だと思われる。
「いた、たたぁ……はわぅ、な、なんですかぁ……?」
「――――。なんだ、ドイツ語しか話せないんだネ?」
急に理解出来る言語に変換された。この人、凄く頭良いかもしれない。ドイツ語ペラペラ。
「ゴメンゴメン、ノイムお姉サンの匂いがしたから、ついついいつものノリで抱きついたんだよネ。そしたら、ノイムお姉サンじゃなくてキミだったからサ」
「ノイム教授、ですか……? 教授なら、今はどこかに行きました」
ぐすんと啜りを上げて、後頭部を自分で撫でる。というか、そろそろ上から退いてくれないだろうか。
「あ、そうか、今頃お姉サンは講義中か……。こんな所で歩いてる訳ないよネ」
ようやく上から退いて、手を差し伸べてくる誰か。
「でもおかしいな。確かにキミから、ノイムお姉サンと同じ匂いが……」
「はわぅ、それって、わたしが教授と一緒に暮らしてるからじゃ……」
手に縋って起き上がりつつ涙目で見上げれば、ううんと彼女は唸る。
「ボクは単純な体臭を嗅いでる訳じゃないんだけどナ……。まあ、良いや、ゴメンネ」
告げて、にぱーっと笑った彼女はわたしの顔に手を添え、両の頬に軽いキス。
「はわっ」
「ボクの名前はセレソ。セレソ・アノチェセル。ノイムお姉サンとは結構親しいんダヨ?」
「セレソ、さん?」
どこかで聞いた名前だなぁ、と思うと、すぐにハッとした。
「もしかして、いつもイチゴを下さってるセレソさん!?」
「ウン、そうサ。キミだネ、イチゴ大好物だっていうのはサ? ボクのイチゴは美味しいでしょ?」
「は、はい! それはもう! いつもいつも楽しみにしてるんですよぉ」
「アハ、嬉しいネ。よし、今度はもっと美味しくしてあげるヨッ」
あれ以上美味しくなるのかなぁ、と毎晩食べているイチゴの味を思い出す。
思い出して、とんでもない事を思い出した。
「……? セレソさんって、あの、魔術師ですよね? えっと、確か、第十八師の……」
「そうダヨ? 第十八師『不純鬼』――――二十八師の中でも、戦闘能力はチョットしたものサ」
――――この、見た目が十五歳くらいにしか見えない、笑顔の可愛い少女が、戦闘に特化した魔術師。
「せ、セレソさんって……えっと、何歳……?」
「ん?」
にぱーっと魔術師は笑い、
「それはトップ・シークレット、ダヨ?」
明るい声で告げた。
しばらくして、意気投合したわたしとセレソさんは、セレソさんの案内でお城を回る事にした。
所々、近道用の通路があって中々に面白い。
「あれ、そういえばセレソさん。あの、ノイム教授が講義って……?」
「? 知らないのカナ? 魔術師達はそれぞれの得意魔術に応じた授業をもつんダヨ」
授業を持つという事は、大学か何かみたいな仕組みなのだろうか。決められた時間に教師役の授業時間が設けられ、興味がある人がそれを受講するような。
「で、でもわたし、教授の所で暮らして一人だけで教えて貰ってます、けど?」
「ウン、授業の中で、気に入った魔術士を自分の愛弟子に出来るのサ。何人までかは魔術師の実力とやる気次第だけどネ」
「そ、そうなんですか? 初めて聞きました……。あ、でも、確かに教授が他の魔術師に聞きに行きなさい、とか言ってましたっけ……」
そういう事、とセレソさんは笑い、けれど、と続ける。
「ノイムお姉サンの場合はチョット、ネ。あの人、魔術師成り立てだし、凄い珍しいジャンルの魔術師だから授業をほとんど持ってないんだよネ。誰もやりたがらないからサ」
「ノイム教授のジャンルって……因果視と過去視ですよね? カバラの数秘法を使った」
――――数秘法――――
カバラの秘術の一つ。暗号作成などにも使われるが、占術の一種でもある。
世界を数として観測、その脳内の演算により律を解し、真理に到る方法。
一般的なカバリストに行われる事はない外法的な手段で、真っ当なカバリストは“無”に到ろうとする。
ノイム教授はこれを得手とし、普通のカバリストが瞑想で到ろうとする境地に演算で到ろうとしたらしい。
それに、因果視と過去視という能力も、本来なら先天性の能力であるという。それを後付で習得しようする魔術使い自体、世界には極少数。
「なるほど……わたし、自分が興味あるからそんな事全然考えていませんでした」
「ま、しょうがないよネ。昨今の若い魔術士達は戦闘型になろうって考えてるんだからサ。戦闘要素の欠如した魔術理論の一つである“運命理解”の分野は、中世時代に流行が終わってるんダヨ」
「そうですかぁ……。面白い分野だと思うんですけどねぇ……」
だって、未来と過去の事が解るというのだから。
とは言っても、因果視は完全な未来予知ではない。
魔術における過去・因果・未来・運命とは、少々一般的な言葉とは違う。
『過去』とは時間軸の後ろ、固定化されてしまった時間の事を指し、抗いがたいというよりも変える事が出来ないもの。
『因果』とは現在より時間軸の先、多少の道筋が過去の行いによって決まってはいるものの、まだ変える事が出来るもの。
そして、『未来』とは時間軸の先の事であるが、絶対的に決まっているものだという理論の上での推測の事。
『運命』とは、過去と未来の事であり、絶対的に決められて固定された時間の事を言う。
このように、因果視とは、こうなる可能性がある時間の事を視る能力であり、その証拠に因果視で見た未来は変える事が出来る。
全ての因果視能力者の目指す所は、絶対たる神の領域、未来視を成す事だ。
尤も、その未来視を証明するためには数千年の時を必要とするため、人の身では確実に不可能だろう。
「ノイム教授、教えるのは上手なんですけど……」
「ウン、そうなんだよネ。アカデミーで一番人気のないジャンルの魔術師が、実はアカデミーで一番教え方が上手い魔術師なのだ――――なんて、割と悲劇だよネ」
「え、い、一番なんですか?」
そうダヨ、とセレソさんは頷き、
「だから、ノイムお姉サンは他の魔術師の代理講義をしてたりするんダヨ。ボクもよくお世話になるし、ホント、頼りになるお姉サンなんだよネ」
――――頼りになるお姉さん、か。そういえば、思い当たる所が多々ある気がする。
例えば料理。家庭料理として王道的なものはほとんど作れるらしいし、その味はこの数日間ですっかり感服している。掃除や洗濯も完璧で、埃や汚れの一つも残さない。
そういえば、服が破けたら手馴れた様子で裁縫もしてくれたっけ。
「――――そこ、無駄口を叩くのなら出て行きなさい。邪魔です――――」
「J,Ja!?」
やけに聞き覚えのある鋭い声に、反射的に背筋が痺れた。隣では、セレソさんがにぱーっと笑み。
「キミさ、相当ノイムお姉サンに叱られてない? でも、お姉サンの声がしたって事は、授業、そこでやってるのカナ?」
セレソさんの視線の先、一枚のドアの向こうに、あの鋭利な魔術師の気配がある。
セレソさんと一緒に、そぉっとドアの隙間から覗けば、大学の講堂のような部屋の中、教壇の上には眼鏡をかけた教授の姿。
「出て行きなさいと言ったでしょう。何時までそこに居座る気です。去りなさい」
大きくはないが、張り詰めた感のある教授の怒声。その先には、幾人もの魔術士の中の数名がいる。
「少し喋ってただけじゃないですか。そんなカリカリしなくても良いでしょ、ノイモーント先生」
「貴方の意見は求めていない。出て行きなさい。この講義は悪魔召喚の講義、貴方のような油断の多い魔術士に向いたものではない」
「たかだか下級悪魔じゃないですか。ミスったって死にはしませんよ」
「だから貴方には向かないと言っているのです」
平素から睨みつけるような教授の瞳が、今まで見た中で最も恐ろしく見える。
決して怒気を孕んでいる訳ではない。逆に、人間味を欠いているその瞳。温度のない、作り物のような教授の赤眼は、魔眼のように口答えをしている生徒を射抜いている。
「ちっ、解りましたよ。出て行きます、出て行けば良いんでしょう」
席を立つ数人の一団。
「よろしい」
その背中を見る事もなく、教授は再び黒板に向かい、続きを書き出す。
「悪魔を召喚するだけなら、何も難しい事はありません。魔法陣を形式通り描き、手順をきちんと踏めば召喚は出来ます。その後の調伏が難しく、また召喚した悪魔の真贋を判断する事が――――」
「大した魔術を持たないアンタは慎重だよな!」
去り際の大声に、教授は数秒固まり、小さく吐息。
大声を上げた一団は、わたし達が見ているのとは逆のドアから出て行き、教授は何も言及せず、残った魔術士を振り返る。
「ここに残っている諸氏には、覚えておいて貰いたい」
ドアを離れたわたしの耳には、相変わらず冷静な教授の声。
「下級悪魔は確かに容易い敵です。ですが、下級悪魔に扮する芸を身につけている悪魔は数多くいるのです。ユキ師長が良く言うように、悪魔召喚はいつも命懸け。決して、些細なミスも犯さないように……。では、続けます」
何故、そんなに冷静なのか。
どうして、あれだけ貶した人に怒らないのか。
――――大した魔術を持たない。
そんな事はない。魔術使いとして、極めた者の称号こそが魔術師だ。
確かに、戦闘型ではないかもしれない。けれど、そうではないなりの魔術があるのではないのか。
「教授……」
――――どうして、言い返さないのですか……?
「わたし、悔しいですよ……」
下唇を噛んで、知らずにそう零していた。
ユキ師長の悪魔召喚に関する代理講義を終え、研究室に帰ってくると、玄関前に少女が一人、こちらを見上げ、真横に唇を結んで立っている。
少女の瞳は、瑠璃にも似た黒。いつも、本を読む時や新しい物を教える時に良い輝きをする眼が、今は少し、湿度が高い。
「ラプロー……?」
見知らぬ態度を示す、良く見知った少女の名を呼ぶが、少女は応えず、唇だけが微かに動いている。
「――――――う……して――――」
少女の震える細い肩。
青い、ショートカット。
どこか見覚えのある、その、姿。
「教授、――――ど、して、……か?」
上手く呼吸が出来ないのだろう。喘ぐような呼吸の音に掠れる、微かな責め声。
「どうして、何も、言わないんですか……」
少女の唇は、そう云っていた。
「どうして、とは……。ラプロー、貴女は――――」
問いかけ、答えを得ようとして、止める。
それでは誠意になるまい――――少女はまだ歳若いが、立派な魔術士なのだから。
仮にも魔術師の城で随一の運命理解者である者が、この程度の問いを理解してやれないで何が魔術師か。
瞼を浅く伏せ、意識を研ぎ澄ます。
自分の意識を、目の前の少女に限りなく近づける。不可能ではない、難しくもない。何時か冷たい雨に打たれていた少女を、自分は知っているのだから。
到る。到る。少女の心境に到る。
少女の悔しさに到る。
数十分前の講義中の事。そう、自らが尊敬に値すると認めた師が、自らが尊敬出来ないと思う者に卑下されて喜ぶ者はいない。
それは丁度――――親に強く在って欲しいと願うような、子のような。
「ラプロー……」
「どうして、ですか……? くやし、ですよ……」
「それは……」
言っても解らない事は多い。だが、言わねば解らない事もあるだろう。
「ラプロー。何も、あの程度の事で声を張り上げる事はないでしょう」
見下ろす先に、小さな少女の顔。
「言いたい者には言わせておけば良い。他の者に何と言おうと、私は黙し、私を貫き通す――――強く在るためには、自分を誇示する必要は欠片もない」
「――――――――」
少女は下唇を噛んで、何かを言いたげだ。
だからこそ、その瞳を見つめる。
「“Ordnung ist das halbe Leben”――――悪戯に無秩序を持ち込んではいけない。悪戯に平穏を壊してはいけない。しかし、平穏を望んではいけない。秩序を望んではいけない。それは常に、守り、創って行くべきものだからです」
「きょ、じゅぅ……っ」
ひっ、という少女の呼吸。
困ったものですね――――そう思い、小さく溜息。
眼鏡を押し上げて、少女の背中を押す。
「ここは冷えます。さあ、上へ行きましょう」
温かいコーヒーでも淹れよう。彼女は甘い物が好きだから、ミルクは多めに。
けれど、その前に、一言だけ。
「――――Danke――――」
少しだけ、何時かの少女を、救えただろうか……。
それから数日、いよいよ冬も芯から冷えた頃、山の中にあるアカデミーでは、白い雪が降り始めた。
漆黒の古城も雪を淡くかぶり、その黒と白の重なり合いは、優雅な城をさらに美しく華を添える。
今日は、教授は街へお出かけ。
この人知れぬ山中の城では、セレソさんのように自給自足出来るように畑を作っている人や、毎日やってくるヘリからの支給のおかげで生活出来るのだが、本などは街に直接赴かなければならないらしい。
そう見ると紙一重な生活のようだが、良質な地脈の通う土壌を選んで建築したのだとかで、森に入るだけでも実りは豊富だそうだ。
春になったら、教授に食用の野草やキノコの見分け方を教えて貰う予定がある。
テレビで見たキャンプみたいで楽しみです――――そんな事を考えていると、講義室に純白の魔術師がやって来た。
「ユキさん、久しぶりに見ました……やっぱり綺麗〜……」
今日は試しにユキさんの講義、黒魔術を聞きに来たのだ。講義室は満室。ユキ師長の講義は最も人気があるのだとか。
「さて、諸君、早速始めるとするが」
ちらりと、ユキさんの紅の瞳がわたしを見る。
「初見の可愛いお嬢さんもいる事だ。数分、黒魔術についての説明をしよう。諸君も復習のつもりで聞くように」
――――はわぅ、ユキさん優しい〜〜〜!!
「知っての通り、黒魔術とは“黒を制する魔術”……。つまり悪魔を調伏するための魔術である。黒魔術の始祖とも言える人物が、ヤハウェに仕えた偉大なる王であったからな」
ふむ、それはノイム教授に教わった事だ。
「その過程で様々な魔術を応用する事になるため、多くの知識を持たねば使いこなせない難関分野とも言える。例えば、このように、」
ユキさんが指を鳴らすと、その瞬間に教壇の上空に炎が出現。ノイム教授も同じ事をしたけれど、その速さが段違い。
教授は、詠唱から入らなければならないのに、ユキさんは指鳴らし一つ。
「悪魔を打ち下す力も持たなければならない。悪魔召喚のステップは、最低限の戦闘魔術を身につけてからと言う事になる。この講義は、その戦闘魔術の講義となっている」
では、とユキさんは繋げ、
「本題に入ろう。今日は水のエレメントを使用した魔術だったな。これは、水の精霊の力を借りる魔術で――――」
他の魔術師達は、メモを取るなりしているけれど……。
――――とりあえず、ラプローは聞いているだけで大丈夫なのです。
ユキさん綺麗だなぁ……。
「〜〜♪」
講義も終わり、お城の庭の中を散歩する。
機嫌の良さは最上級。ユキさんの講義はとても解り難かったが、理解出来ない程ではない。
講義の内容は頭の中に完璧入っているし、あの程度の魔術なら今すぐ使える自信まであるくらいだ。
ここへ着てから一週間弱。自分の中の魔力を操るいろはは、教授から完璧に伝授されている。
「少しだけ実験してみたいですねぇ……」
こう、人が居ない場所でなら……。
きょろきょろと周囲を見渡せば、広い中庭には巨木が一本。教授の話しによると、あの樹がこの一体の地脈の中心なのだとか。
「流石に地脈の中心に打ち込むのは危ないから……」
樹から離れ、何もない場所へ行く。
深い呼吸。手は胸の高さで、空を抱くように。
魔術の基本は、集中。精神を限りなく先鋭化させ、雑な思考を排除する。雑な思考が入った分、魔力は思った通りに流れてくれない。
「“天地遍く方々よ。ユダヤ、アブラハムの契約主たる御神の御名により、水の精霊よ。かしこみて人の子が申し上げ奉る”」
魔力を、四次元の自分の体の底から組み上げる、そんなイメージ。
「おい、あいつ、ノイモーントの弟子じゃないか?」
ブラインドが開けられたような錯覚。集中していた精神が、誰かの小声で遮られる。
「あっ、と……はわぅ、まだまだ未熟です」
深く息を吸って、魔力を自分の中に戻す。
外部魔力を使う魔術士では、一度自分の中に取り込もうとした魔力をこうして戻す事は難しいのだとか。暴発が少ない事も、霊力型の魔術士の利点なのだ。
「弟子も霊力型か。やっぱカバラだろ? 今時あんなもん習ったってなぁ」
「そう言うなって、カバラは初歩には良いだろう、安全だし。ま、中核に据えるのはありえないけど」
――――凄いムカつくんですけど……。
聞かせるつもりなのか、それとも気づいていないだけなのか。一応はひそめた小声ではあるが、魔術士達の会話はこちらまで筒抜けだ。
「カバラで使えるのは瞑想のトレーニングだけだろ? それくらいなら他の魔術で教えられる。所詮は死んだ魔術だよな、もはや学問。太極拳みたいなもんさ」
――――違う。そんな事はない。カバラを極めれば、準最強クラスの吸血鬼レベルまでの肉体強化が可能だと教授は言っていた。
「しかも、ノイモーントは数秘法。煮ても焼いても食えない分野って言われてるあれだろう。雑誌の占いとかパスワードクイズじゃないんだから」
――――数秘法の利点はそこじゃない。過去と因果を見通す時間の理解だ。
「今時、戦えない魔術なんて魔術じゃないだろ」
――――――――――――このっ!!
「ち……っ、……!」
咄嗟に唇を噛み締める。
『“Ordnung ist das halbe Leben”――――悪戯に無秩序を持ち込んではいけない。悪戯に平穏を壊してはいけない』
解っています。そう心の中で頷いて、その場から踵を返す。
口の中に広がる鉄臭い味が、気が狂いそうな怒りを押し留めてくれる。
教授は正しい事を言っている――――殴られる事、蹴られる事。暴力の痛みを良く知っているからこそ、それをしてはいけない。
魔術を喰らった事はないけれど、きっと同じくらいは痛いのだから、それはしてはいけないんだ。
……それに、何も知らずに波風を立てる者を相手に、教授は吠え返さない。
無意味な相手に無意味な労力は使わず、その後に待つ意味ある相手に意味ある労力を使う。
それが、教授の信念であり、強者たる誇り。
その教授の不動の誇りを、弟子であるわたしが穢す事なんて、出来るはずがない。
「でも……っ」
――――悔しいです……教授。
気づけば、教授の家の自室にいた。
ベッドに転がり、無気力に時計を仰げば、昼の一時。そろそろ、教授が帰ってくる。帰ってくれば、昼の分の魔術授業と、英語の授業。
「やる気、でませんね……」
一日くらい休めないだろうかと思い、ベッドに顔を埋める。
玄関が開く音がして、規則正しい足音。一寸狂いもないそれは、間違いなく教授のものだ。
「ラプロー? 部屋ですか? 今日の授業を始めますよ」
足音は近づいてくる。いつも通りの、鋭い教授の声と共に。
「ラプロー?」
ドアをノックする音。布団を頭からかぶり、近づいてこないで、と思う。
「寝ているのですか、ラプロー? 入りますよ?」
ぎゅっと目を閉じ、暗黒に沈む中、あの人がドアを開ける音がした。
「ラプロー……? また寝て……」
声は近づいて来て、ベッドに腰を下ろす。
もしかして、狸寝入りだと気づかれているのだろうか。今まで、そんな事はされた覚えがない。
「まあ、良しとしましょう……」
布団の上から、軽い圧迫。
それが、撫でられているのだと気づくのに、数分が必要だった。――――この人が、わたしを撫でた事が、一度もなかったから。
「今日は休みにします。セレソから聞きましたよ。地脈樹の所で、私の悪口を聞いて唇を噛んでいたと……」
布団の中で、眼を瞑っていては見えないが、なんとなく、今の教授の表情が解る気がする。
「頑張りましたね……。Herrlich,Lapereau」
今の教授の表情は、きっと――――。
6th/MagiVs Socery(Destiny)
雪の降る深夜。
ふと古城が見下ろせば、地脈を束ねる神木とも呼べる大樹の根元に、一人の細い人影が一つ。
風が吹けば、粉雪が舞うのに合わせ、翻る深蒼色の外套と漆黒の長髪。闇夜にも鮮やかなのは、細い眼鏡の奥、血を吸う棘のような赤い瞳。
鋭利な視線は、ただ大樹を見上げている。
「地脈の基点は、ここか……」
鋭く張り詰めている音質での呟きながら、細い影は細い指を大樹の幹に。
「結界を崩すには、これを殺すしかないでしょうね」
そう言って、影は眼鏡を外し、形の良い唇を凍えた幹に重ね合わせる。
接吻だ。
「ん、っ……」
唇の間から零れる吐息。
顔を擦り付けるように、影は己の唇を大樹に押し付け、蜜でも吸うように喉を鳴らす。
「ちゅ、ぁ……んぅ……」
飲み下したモノが美味しいのか、接吻はしばらく続き、――――やがて離れる。
「は、あぁ……。流石は、魔術師の城の地脈樹……極上の精気……」
影は己が唇に指を這わせ、もう一度接吻しようとして、背後、古城から気配に、
「“退隠”」
その姿を消した。
それきり、残された影が残した足跡も、降り来る雪に埋もれて行くばかりだ。
翌朝、城内の人気の多くが、地脈樹のある中庭、及びそれが見える城の窓へと殺到し、息を呑んだ。
地脈からの魔力の影響で、冬でも葉を枯らさぬはずの大樹が、茶色く精気を失っている。
その根元には、純白のユキさんの姿と、六人の魔術師達。
見覚えがあるのは、薄布を黒革で留めているアナスタシスさん、金髪に黒いリボンのセレソさんと、わたしの傍らのノイム教授だけ。
そのうち、セレソさんが珍しく眉を立てて怒りながら、
「ゼッタイに魔術の影響ダネ! この大樹が枯れるなんてあえりえない! 植物はボクの専門でもあるんだから間違いないヨ!」
「うむ。そうであろうな……我も同意見だ。アナスタシス、結界の方は?」
「破られた箇所はありません。ですが、通過した跡はありました」
その言葉に、教授が感心したように吐息。
「つまり、破るのではなく誤魔化したと、あの武蔵氏の結界を……。侵入者は大した魔術師ですね。アカデミーの魔術師並か」
「お姉サン感心してる場合じゃないヨッ!」
「まあまあ、セレソ。慌てても仕方のない事ではある。が、この樹が枯れれば、とても困るのは確かだな?」
アナスタシスさんが、それに頷く。
「この樹は結界の基点でもあります。これが枯れると、いかに武蔵師の結界でもその効力が持ちません」
「であろうな。これは魔術師の城に対する敵対行動……そんな事をする輩が、果たして幾人いるか……。時にノイム」
ユキさんが、教授を振り返る。
「はい、何です、ユキ師長?」
「そなた、昨夜この地脈樹の所にいたのか?」
一瞬、周囲の全てが息を呑み、緊張。
だが、問うたユキさんとノイム教授だけは平然として、
「いえ。今から二十四時間、この地脈樹には近づいていません。お疑いですか?」
「目撃証言があってな、昨夜、城の窓からノイムらしき人物を見たと。何分遠目ゆえにはっきりしたものではないが、雰囲気がそっくりなのと赤い瞳が見えたとな」
教授は眼鏡を押し上げ、軽く頷く。
「では、その時間は?」
「夜の十一時と少々」
その時刻に、思わずわたしが声を上げた。
「? どうした、ラプロー?」
「あ、いえ、あのその……その時間、教授は家にいました。弟子の証言ですから、あんまり信憑性はないかもしれませんけど……」
「良い良い。では、その時間にノイムは何を?」
はい、と頷き、昨夜の事を思い出す。
「えっと、昨日、わたしがお昼くらいに寝てしまって、起きたら夜の十一時ちょっと前だったんです。でも、お腹空いちゃってて、キッチンに行ったら教授が起きて本を読んでいました。それからお願いして、食事を三十分くらい付き合って貰ったので」
「ふむ……食事の内容は?」
「あ、はい、ホットミルクとスパゲッティです。ミートソースの。わざわざ作って貰って……あ、デザートにイチゴも」
ユキさんは頷いて、微笑。
「先に取っていたノイムの話と一致する、食事の中身も完璧だ。まあ、ノイムがここの結界を崩そうとしても何の利点もない。元より薄い疑いが晴れたな、ノイム」
肩を叩かれた教授は、軽く会釈をして、しかし幹に近づく。
「教授……?」
「おぉ、ノイム、やってくれるか? 珍しい、自分の魔術を見せたがらないそなたが」
ユキさんの問いかけに、教授は静かに頷きを一つ。
「私の弟子に、少しは良い所を見せようかと」
「なるほど……」
ユキさんが、わたしを見て笑みを深める。それから、周囲の微かなざわめきを見て、両手を下に。静かにしてやってくれ、という合図。
だが、教授はそれに首を振り、
「ユキ師長、不要です」
「む、そうか?」
「ええ、私の魔術の神髄は、自己暗示による絶対の集中力ですから……」
大樹の幹に、その片手を当て、瞼を伏せる。
「精神知覚、埋没」
静かな呟きから、教授の顔から表情が抜けた。
平素から寄せられている眉根も緩み、覗く無表情な横顔は、まるで人形のように綺麗なもの。
「脳内領域、開書」
続く呟きで教授の眼が開けば、永い眠りから目覚めたように緩やかな面持ち。
眼鏡を外し、素顔を見せた教授の顔は、今まで気づかなかった事が不思議なほどの美人。
そして、――――いつかどこかで、その顔を見た事があるような……。
「真理魔術、秘術“生命の樹”――――十の真理より太陽へ、命よ来たれ……」
教授は呟き、大樹の幹に接吻した。
「ん……」
軽く吐息を零し、そのまま教授は接吻を続ける。――――そうする事で、大樹に命を吹き込めるのだとでも言うように。
そして、事実大樹の枯葉が落ち、次の新芽がもう出ている。
「はわ……凄い……」
「うぅん、流石お姉サン。良く見ておくんだよキミ? これだけの大活性を使える魔術師はそうはいないし、見れる事もまずないんだからサ」
「大、活性……?」
傍らを見上げれば、セレソさんは笑みで頷いて、
「怪我を回復させるんじゃなくて、生命力そのものを回復させるのサ。怪我を塞いでも体力が持たずに死んじゃう事がある。瀕死の状態なら、栄養を摂っても体が消化出来ない事がある。そんな時、その根本的な生命力から回復させるレアな魔術サ」
セレソさんは教授を見て、ほら、と続ける。
「見てみなヨ。死にかけの樹を救うあの姿」
降る雪の中、乱反射する陽光を浴び、大樹に身を寄せる女性。
いつもの険の抜けた穏やかな相貌は、
「まるで天使だよネ」
わたしは、声もなくそれに頷き、ただその姿に魅入った。
「は、ぁ……」
そうして、教授が唇を放した時には、大樹は何事もなかったかのように聳えている。
瀕死の生命すら救う魔術。
何者をも傷つける事なく、誰かの平穏を守る術。
――――わたしはそれに、焦がれるような憧憬を覚えた。