7th/Rainy day(Fate)U

 

 それから幾つもの季節が流れ、ラプロー・アンノールが十歳を迎えた頃。

 季節は、森が華やぐ夏の盛り。

 大地を焦がす陽光が、嫌味のように自分の部屋に降り積もっているのを、わたしはベッドの上から見上げていた。

 ――――お外は良い天気なのに……わたしは……。

「げほっ、げほっ! はわ、うぅぅ……きょーじゅー……」

 ずるりと鼻水を啜り上げ、傍らに腰掛けて研究書に書き込んでいる人を見上げれば、教授は暫く無視して筆を走らせ、ゆっくりとこちらを見る。

「どうしました、ラプロー?」

「寝てばっかりじゃ暇ですぅ……本下さいよぅ……」

「何を言っているのですか」

 教授は溜息を吐いて、こちら――氷のう枕に頭を預け、額に冷たいタオルを当てて顔を赤くしている――を見て眼鏡を押し上げた。

「そうして夏風邪をひいているのも、夜中まで本を読んで寝不足になったせいでしょう。観念しなさい」

「そんなご無体なぁ」

 呟いても教授は顔色一つ変えてくれない。

「はわぅぅ……。じゃ、じゃあ、何かお話して下さいよぅ」

「話、ですか?」

「そうですぅ。それなら良いじゃないですか、ね? ね? きょーじゅー……」

 情けなく涙ぐむわたしに、教授は眉を潜めて吐息。

「解りました。どうしてもと言うなら……」

「やたっ、流石は教授……優しいですねぇ……」

 これは二年ほど前に気づいた事だが、どうやら教授は駄々を捏ねられると弱いらしい。それでも、絶対に駄目なものは絶対に駄目だと言うけれど。

「全く、調子の良い事を……。話と言っても、魔術の話ですからね」

「それでもオッケーです。二日も勉強してませんからぁ……あぅぅ、折角ルーンの講義取ってたのにぃ……」

 そう、わたし、ラプロー・アンノールは、一年前から他の魔術師の人にも師事している。

 習っているのは教授が身につけていたもので、黒魔術・ルーン魔術・ドルイド魔術・バベル魔術・法術・屍蘇術・結界術・体術の計八つ。教授に基礎を習った後、より深い所を他の皆さんに教わっている。

 それでも、一番得意で、一番好きな魔術はカバラだ。

「また今度受ければ良いでしょう。そんなに情けない声を出さない」

「はぁい……。ルーンの授業はレアなんですけどぉ……」

 ぐすんと啜りを上げれば、教授は研究書に栞を挟んで膝の上に置く。

「では、始めましょうか……。ラプロー、魔術書というモノを知っていますね?」

「はい、当然ですよ。だって、ルーンのグニル先生と、黒魔術のユキさんが持っていますから」

「それがどんなものか、知っていますか?」

 へ? と声をあげ、少しだけ考える。

「魔術書なんですから、魔術が載っているんじゃないですか……?」

「ええ、その通りです。ただし、それは程度の低い魔術書なのですよ」

「程度が、低い、ですかぁ……?」

 教授は頷き、自分の研究書を掲げて、

「例えばこれです。これは、魔術について書いてあるだけの研究書、他の書物と大して変わりません。ですが、魔術書の中には、見れば呪われる物や、開こうとしても封印がなされている物があるのです」

 確かに、そんな魔術書があると聞いた事がある。

「それが、程度の高い魔術書……?」

「ええ、中には意志を持って主を選んだり、その書物自体が魔術使いとして魔術を行使する物があるくらいです」

「そ、そんなとんでもないものがあるんですか?」

「ユキ師長やグニル氏の持つ魔術書はまさにそれです。記した魔術を用いる事に特化した魔術書、いかなる魔術師もその書を超える事は出来ない。何故なら、その魔術書は、その魔術を使うためだけに造られたのだから」

 一種類の魔術専用の、魔術書。一つに特化したが故の魔術師以上の能力。

「人はその最高の魔術書を、グラン・グリモアと呼びます」

「グラン・グリモア……す、すごいですねっ! それが造れたら怖いものないですよっ!?」

 わたしの興奮に、教授は眼鏡を押し上げ、苦く笑う。

 その笑みは、一体何故――――考え、すぐに答えは出た。

「それを造るのって難しいん、ですね……?」

Ja(ええ).そもそも、魔術師の能力を超える物を造るのです。人間が拳銃を作るまで、どれほどの年月がかかりました? 火薬の発明でさえも西暦四百年頃……火縄銃が出来るのはそれから千年近く後です」

「グラン・グリモアは、拳銃を一から造るほど難しい、と?」

 教授は深く頷き、窓の外、太陽の光に視線をやった。

「あの陽を人間が浴びてから、グラン・グリモアと呼ばれる魔術書は世界に幾つ生まれたのか……私の知る限りでは十五冊……それも、現代では七冊あるかないかです」

「その内の二冊が、グニル先生とユキさんが持っているんですか……?」

「そうです。それ故、この魔術師の城が世界最高なのですよ」

 思い浮かべるのは、ユキさんの持っていた黒い本と、グニル先生の持っていた一振りの槍。

 あの二つが、そんなに凄いものだったとは――――

「さ、お話は終わりです。そろそろ眠りなさい、ラプロー」

「ええっ、も、もうですかぁ!?」

「もうです。眠らなければ治りませんよ」

 うぅ、と上目遣いに見上げるが、教授は意にも介さず研究書を開くだけ。

「解りましたよぅ……も、寝ます……」

Gut(よろしい)……」

 それきり、二人は会話もせず、ただその場で沈黙した。

 窓の外、陽光には、薄い雲。

 わたしの因果視が告げている――――雨が来る、と。

 

 風邪を引いて三日目、まだ治る見込みのないわたしは、今日もベッドの上で教授の顔を見上げている。

 外の天気は雨。

 雨の日は嫌いだ。脳裏には、冷たい雨の日の風景。

 母が、人が来るまで待ちなさいと教えた日。

 ただひたすら、待って、待って、待って……待ち疲れ、倒れたわたしを抱き上げたのは――――。

 約束は果たされた。偶然、白い人が訪れたお陰で。

 ――――だから、寂しさは半減だ。

「どうしました、ラプロー。そんな顔をして」

 教授が、こちらを見て声をかける。

 そんなに酷い顔をしているのだろうか、教授の表情は、心配げなもの。

 ――――大丈夫です。なんて事ありません。あの日に迎えは着たから。

「わたし、風邪を治したいです……」

「なら大人しく眠りなさい。待つ事もまた努力、ですよ」

 ――――はい、解っています。わたしは、待っていますから……。

「そんな努力、したくありません……」

「ラプロー……?」

 教授は、わたしの顔を見て眉根をさらに寄せる。

「待つのは、嫌です……教授。わたし、早く治したい……置いて、いかれちゃう……」

「ラプロー、貴女――――」

「おかぁさんに、おいて、いかれちゃう」

 ひっ、と喉が鳴る。視界は溺れたように歪み、胸の中まで水で満たされ、耐え切れずにわたしは吐き出した。

「おか、さん」

 ぽつり、

「おかあさ、ん……」

 ぽつりと、

「おかあさん……っ」

 わたしは、吐き出した。

「おかあさん!」

 告げた瞬間、嗚咽が肉体を突き動かす。布団を引っ掴み、頭までかぶって、わたしは何かを拒絶するように、悲鳴を上げた。

「ひあっ、あああああああ――――っ!! おかあさんおかあさんおかあさんおかあさん――――!!」

 いつか、暴力を振るわれた事。

 いつか、捨てられた事。

 父には良い思い出など一つもない。いつもいつもお酒を飲んで、怒鳴り散らす怖い人。

 母には悲しい思い出しかない。いつもいつも頭を下げて、唇を噛み締めていた惨めな人。

 自分にはやり切れぬ思い出だけがある。待っていなさいと云われ、待ち続けていた馬鹿な人。

 どうして、母親について行かなかった? どうしてついて行けなかった?

『行かないで、お母さん』

 そのたった一言が、どうして……。

「いやっ、いやああああああ!! わたし、待ちたく、ないっ! いっしょにぃ……、うぁああああ……っ!」

 どうして――――孤児院では、雨を見ても耐え切れた想いが、零れ出すのか。

「ラプロー、安心しなさい」

 誰かの、優しい声がする。

「貴女は、一人で待つのではないのですから」

 微かに震える、誰かの声。

「私も、共に待ちましょう。いつか、迎えが来るまで……」

 その声は何をするでもなく、そう呟くだけで、わたしを安心させた。

 不思議な声。不思議な人。

 孤児院で待ち続けたわたしを、迎えに着てくれた人。

 その名を、わたしは呼んだ。

「ノイム、教授……」

 

 

 それは、遠い昔の記憶。

 耳に響いてくるのは、天から零れくる雨、その堕つる音。

 石畳を叩いて一つ。屋根を叩いて二つ。窓を叩いて三つ。花を叩いて四つ。

 それでも、世界で動く音は雨音だけだった。

 ――――サアサア――――

 耳に優しく響く水の戯れ。

 求めても見えない人の影。

 濡れる独りきりの街外れ。

 世界はひっそりとドアを閉め、孤独な遊戯室は、豪華にも無限の装い。

 その孤室の天井(雨雲)を見上げながら、私はぼんやりと思考を巡らせる。

 ――――寒い

 吐息に混じった白い思い。

 ――――お母さん?

 迷う視線が求める人。

 ――――何処?

 私がこんなにも寂しいのに、求める母の顔がない。

 それが何より、不思議だった。

 冷え切った指。何とか独りで温めようと、口元に当てて息を吹きかけてみる。

 少しだけ温かい。

 何度も何度も繰り返し、さらに両手を擦り合わせれば、何とか震えは納まるんだと知った。

 だから、そうした。

 何度も何度も息を吐き、何度も何度も手を擦り合わせる――――頭を下げて両手を合わせたその姿は、まるで祈り乞うているかのよう。

 段々と小さくなっていく指の震え。

 祈りは通じ、寒さは指から祓われていく。

 けれど、代償はあった。

 指の代わりに肩が震え、病魔のように背筋を冒していく。

 ――――手は温かい。温かいのにどうして?

 とても不思議。

 だから、小首を傾げて考えた。

 考えて、考えて……答えに到る事もなく、私は寒さに殺される。

 

 

 朝、耳に優しい雨音に気づいて、わたしは眼を醒ました。

「あ……」

 いつの間に寝ていたのだろう。目覚めの呼気は、そんな疑問を与える。

 懐かしい夢を見ていた気配――――いつかの、雨の日に待ち続ける少女の夢。

 ずっと覚えていたけれど、ずっと夢に見なかった日の出来事。

 それは辛すぎる事だから、心が思い出という記憶よりも、経験という記録にしていたのだろう。

 それが、まるで小箱の封を解くように思い出になっている。

 どうしてだろうと思い、――――息が苦しい。

 気づけば、布団をかぶったまま寝ていたようだ。布団をはがし、外に顔を出すと、窓の外には静かな小雨。

 雨は嫌いだ。嫌な事を思い出させるから……。

 首を振って、教授の方を見る。

 そうして、驚いた。

 そこには、椅子にもたれたまま、疲れ果てた顔で眠る誰かの姿。

「教授……」

 厳格な教授は、眠る時は必ず部屋に下がって眠る。寝顔を見たのは、四年間で初めての事。

 なのにどうして――――思うと、答えは時計にあった。カレンダー付きの、デジタル時計。その日付は、わたしが最後に見た時から二日も経っている。

「教授……ずっと……?」

 教授の向こうの机には、冷め切った珈琲。その存在が、どれほどの間、彼女が自分を看ていてくれたのかを雄弁に語る。

「…………」

 体は軽い。額に触れれば、熱はすっかり冷めている。

 それを確かめ、もう一度視線を傍らへ。

 あれほど身だしなみに気を使う人が、眼鏡をずり下げ、寝こけている。

Danke(ありがとう)Danke(ありがとう) schön(ございます)……」

 その姿、まるで母のようだと――――そう思うのは、錯覚、なのだろうか……。

 疑問は、ささやかな雨の奏楽と共に、いつかの少女が、問うている。

 

8th/Grand Grimoire

 

 教授が目を覚まさないので、わたしは自分の布団を寝ている教授の肩にかけ、食事でも作ろうかと思う。

 時刻はすでに昼近く。大分お腹も減っている。

 正直、調理は苦手だが、一通りは教授に仕込まれているのだ。曰く、立派になるためには一人で何でも出きるようでなければいけない、だとか。

「教授にも随分とお世話になりましたし、作って来ましょう」

 頷き、キッチンまで移動。この四年で身長は一四二センチを越えている。足元に少し台を置けば、楽々調理が出来るが何とも嬉しい。

「とりあえず、パエリアでも」

 お腹は凄く空いているけど、教授にも食べさせるのだから少しは我慢。

 まずは冷蔵庫の中から材料を――――見事に空っぽだった。

「え、あ、う、うそーっ!?」

 そういえば、教授は看病に付きっ切りの様子。恐らく、ほとんど出かけていないのだろう。キッチンのあちこちを探したけれど、結局お粥用と思しきご飯と梅干があるだけ。

「うぅ、きっと武蔵先生に教えて貰ったんですね、この東洋の料理……」

 梅干は中国で薬用として使われているらしいし。

「この材料で作れるのは……」

 あるにはあるけれど――――凄くしょぼいですよぅ……。

 でも、しょうがないか、と思い直し、とりあえずご飯を研いで電子ジャーに入れ、スイッチを入れる。

「後は、炊き上がるまで何を……」

 顎に指を添え、少しの間考え、

「やっぱり、教授の所ですかね」

 自分の部屋に戻る。

 教授はまだ、疲れた顔で眠っていた。

「ふふふ、教授の寝顔……」

 無防備で、何の警戒心もないその顔は、思いの他可愛い。

「ノイム教授、子供の頃はもてたと思うんですよねぇ」

 眉間にシワが寄る前までは、と付けたし、くすくすと笑う。それでも、教授が起きる気配はない。

「…………?」

 何か、忘れている気がする。

 今の教授は、無防備で、それならば自分は何かをしなければいけないはずだ。

「ら――――」

 いや違う。落書きなんてしたら本当に殺される。

「う〜ん……」

 ――――思い出せ、思い出すんですラプロー……っ。

 眉間にシワを寄せて首を捻ると、視線は教授の向こうの机へ。そこには、

「研究書……教授の研究書」

『もし、私の隙を見て盗み見る事が出来たら――――』

 ――――それです!

 そう、いつか教授が言っていた。見たかったら隙を突いて見ると良い、と。

「今見るのは少し外道な気もしますけど……」

 今見なかったら、一生機会がないという確信がある。

「えへへ、ごめんなさい、教授。ラプローは、とっても悪い子です……」

 両手を合わせ、お辞儀をしてからそろりそろりと机の方へ。

 研究書を手に取って振り返るが、やはり、教授が起きる気配はない。

 ――――貰いました……。

「ええと……わ、教授の手書き文字、初めて見ました」

 一番初めのページから、機械的に綺麗な教授の手書き文字を一気に流し読みをする。ちなみに全てカバラ式に暗号化されているのだが、教授の使える暗号は全て習っているので問題はない。

 出来れば最初から読みたいけれど、そうしているうちに教授が起きてはしょうがない。要所だけを見るべきだ。

 と、ページも中ほどに達した時、目が止まるのはやけに乱雑な一ページ。

『魔術書の特徴とは、やはりそれ自体が一種類の魔術に特化した点にある。しかし、それを創るためには莫大な消耗が必要だ。特殊な紙、特殊な筆、特殊なインク、特殊な書き方、特殊な製法……最低、魔術師と同質の物を創ろうとするなら、魔術を扱える人間と同レベルの物を用意しなければならない。』

「ふむ……なるほど。これは難しい……」

 古来、人形に始まって、人は人を創ろうとしてきた。現代でも、アンドロイドやクローンという領域に渇望しているのは、そうした人を創造したいという原始の本能によるのだろう。

 しかし、今もって人は人を創る事は難しい。従来通り、男女で創るのが一番早いのだ。

「やっぱり、魔術書は難しいんですね」

 そう思い、ページを一枚捲る。

『魔術使いと同レベルの物を用意する。……ならば、魔術使いの体を魔術書にすれば?』

「あ――――」

 正論だ。それが最も早い手段に違いない。

『純血のダークエルフは、その血筋に伝わる魔術を体に刺青として彫り込んだと伝え聞く。それを私達もすれば良い。上手く刺青の彫り方を工夫すれば、一種類の魔術と言わず、複数の魔術を極める事が出来るのではないか。』

 そのページの下半分には、左腕のイラストと何かの紋様。

「この紋様……数値変換法(ゲマトリア)省略法(ノタリコン)文字置換法(テムラー)の暗号化で……それからさらに圧縮をかけている?」

 ほぼイラストとしか見えない文字紋様。それを読解すれば、

真理魔術(カバラ)秘術“生命の樹”(モード・セフィロト)――――十の真理より火星へ、力よ来たれ(デュナミス・ゲブラー)……」

 カバラの呪文。それも、セフィロトを用いる最高位、教授が使えないと言っていた攻撃系。

 言葉は、次のページにも続いている。

『試作として、これを左腕に彫り込んだ。結果は成功、私に扱えぬはずの攻撃魔術は、見事に成功した。今度はこれをさらに圧縮し、数多の魔術を扱えるようにすれば…………唯一つ改良出来ない事は、肌に直接刻むこの刺青が隠せないという事だけだろうか。』

 凄い――――万感を込めて、唇からそう零れた。

 一種類の魔術を、魔術師以上の能力で行使出来る大魔術書(グラン・グリモア)。歴史上でも十五冊ほどだと言っていたものを、教授は完成させている。

「凄い、やっぱり教授は凄いです……」

 機械的に綺麗な文字を追って、さらに次のページへ。

 そこには、人間の背中を中心としたイラストと、彫り込まれた刺青。首の頚椎を頂点に、背中に広がるように八本に別れる、枝葉広げる大樹のような紋様だ。

 その、圧縮に圧縮を重ねられた魔術書。――――何故、教授がカバラ以外の八つもの魔術系統に知識を持っているのか、今解った。

 全ては、これを完成させるため。

「この、大魔術書(グラン・グリモア)大樹(グロース・バオム)”……人の身の、魔術書化の理念……」

 魔術書のページは、そこで終わっている。もう一枚ページを捲れば、そこには“似姿(ドッペルゲンガー)”という項目。

「す、凄いの、見つけちゃいました……」

 心臓が高鳴り、頬が紅潮しているのが解る。

 初めて、因果視を使えるようになった時以来の興奮。

 ――――気づけば、時計の針はご飯の炊き上がりを教えていた。

「あ、も、もう行かないと……さ、流石に教授も、起きちゃいそうだし……」

 そう、過ぎたるは及ばざるが如し。忍耐と集中だと、教授にしょっちゅう言われている。

 ――――さあ、とりあえずお腹を満たしに行こう。

 

 

 ふと、耳に優しい雨音に気づいて、私は眼を醒ました。

「あ……」

 一体、いつ寝入ってしまったのだろう。目覚めの呼気は、そんな疑問を与える。

 懐かしい夢を見ていた気配――――いつかの、雨の日に待ち続ける少女の夢。

「――――――――」

 深く息を吐き、気を取り直す。ズレていた眼鏡を押し上げ、ベッドに顔を向けると、

「ラプロー……?」

 少女はいなくなっていた。

 代わりに、毛布が自分の体にかかっている。これは、と思い、そうか、と頷く。

「体調が良くなった、か……」

 では、何処に居るのだろうか。立ち上がり、机に置いていた研究書を手に取り、部屋から出る。

「ラプロー? どこにいるのです?」

 リビングに出ると、米の炊かれる匂い。

「キッチンですか……?」

 キッチンを覗くと、少女が、皿の上に丸い米の塊を置いていた。

「ラプロー……?」

「あ、教授?」

 にこりと、少女は自分には出来ない明るい笑顔で笑う。

 ――――それが愛らしいと感じるのが、少し可笑しい。

「何をしているのです……と聞くのは野暮でしょうね。おにぎり、ですか?」

「はい。武蔵先生に教えて貰ったんですけど、他に材料がなくて……梅干おにぎりです」

「なるほど。そういえば……、食料を取りに行っていませんでしたね」

 研究書をリビングのテーブルに置き、手伝おうと腕を捲くると、

「あ、教授は良いですよ。もう出来ちゃいますから……うん、座って待ってて下さい」

「……そうですか。では、お言葉に甘えて」

 軽い溜息を一つ。椅子に座り、キッチンの少女を眺める。

 健康状態は良好なようだ。体温も平熱、多少の空腹ではあるだろうが、今作っているおにぎりを頬張れば問題はないだろう。

「今晩は、何か美味しい物にしょう……。何か、要望はありますか?」

「あ、わたしパエリア食べたいです。あとは、ううんと……イチゴと」

「ケーキは、どうです?」

 少女はこちらを振り返り、目を輝かせた笑顔で、

「い、良いんですかっ? わたし、イチゴのショートケーキが良いです!」

「ええ、解りました……。作りましょう」

「はわ、しかも手作りなんですかっ」

 別に、驚くような事ではないと思う。

 何故なら、世にある料理の多くは、手間さえかければ作れるのだから。

「ラプローの握っているそのおにぎりも、手作りでしょう?」

 あは、と声を上げて少女は笑い、大きなお皿に積むように作ったおにぎりをテーブルに置く。

「どうぞ、ノイム教授。ラプローの手作りですっ」

「ええ、ありがとうございます……。では、頂きます」

 少女の小さな掌で作られた熱々のお米の塊を、軽く頬張る。良く噛み、香ばしいと思える白米の炊け具合に頷いて、舌に広がる味を吟味。

 ぱくぱくと、一個を食べ切って、

「ラプロー」

「はいっ、美味しいですかっ?」

 深く、深く溜息を吐き出し、私は少女を睨んだ。

「貴女が使ったのは、塩ではなく砂糖です」

 それはもう、砂糖の甘味と梅干の酸味が、素晴らしい一品だった。

 

9th/Rain day(Fate)V

 

 それから数週間、ラプロー・アンノールは、今日も元気に魔術の修行中。

 今日は城内にある設備の一つ、戦闘幻影設備(バトルホログラムシステム)のある部屋に篭っている。

 ここは、敵の幻と戦うという軽いゲーム感覚な修行が味わえる事で、城内ではちょっとした娯楽だ。

 今回、わたしが選択した敵はレベルがF〜Sランクまである内のCランク、中級悪魔。見た目は人間のようだが、その黒人よりも黒い肌がいかにも危険な感じ。

 ドーム型のバトルフィールドで、試合開始位置でお互いに礼、同時に幻でしかない敵が真っ直ぐに突進してくる。

精神知覚、埋没(アンダーウォーター・ダイヴ)

 その瞬間、瞼を伏せ――――体から余分な力を削除、己が精神の育んだ小世界へと潜行する。

 教授から教わった自己暗示の言葉。

 師曰く、“魔術を用いる際、集中の方法は人それぞれ。しかし、最も効率が良いのは、自己暗示に違いない”。

 それ故、魔術士として魔力の少なかった教授は見つけた。自分が最も集中出来る、最高の自己暗示。

 教授に先鋭化の極みをもたらす暗示は、何故かわたしにも有効だった。

脳内領域、開書(メインメモリ・オン)

 告げる一言により、脳内の空き領域を明確に指示系統の元へと引きずり出し、確認。

 各種演算に使用する領域を分割。一つは身体制御、一つは五感察知、一つは攻守用魔術、一つは因果視へ。

 風を巻いて突進してくる悪魔の拳を潜り、懐に入る――――こういう時、体が小さいと楽だ。

 勢いよく右足で地面を蹴り、

「アタァ!」

 直上の悪魔の顎を蹴り抜く。

 ちなみに、この掛け声は体術を教えている魔術師に仕込まれたものだ。教授はいつもいつも言うのはやめなさいと言ってくる。何故だろう、格好良いのに。

 たたらを踏んで二歩後退した悪魔に対し、両手を腰の右側で溜め、前に突き出すと、

「破動拳ッ!」

 何の加工もしていない、純粋な魔力の弾丸を発射、悪魔をさらに後ろに吹っ飛ばす。が、威力が足りない。悪魔はすぐに体勢を整え、炎の球弾を放つ。

「むぅぅ……っ!」

 両手を、魔術の規則に従って交差、最後に胸の前で両手を合わせ、

「“水面(みなも)”!」

 前面に結界を敷き、敵の魔術を緩和吸収、弱い威力ながら跳ね返す。

「“天地遍く方々よ。ユダヤ、アブラハムの契約主たる御神の御名により、水の精霊よ。かしこみて人の子が申し上げ奉る”」

 その隙に、一息で長い詠唱を終え、

「“水槍千突(アクアバレッド)”!」

 火球を喰らって防御体勢の悪魔の周囲ごと、無数の水の槍が突き穿つ。

 それで勝負は決まり。

 システムがわたしの勝利を告げ、闘技場だった周囲が四角い部屋になっていく。

「ふぅぅ……。うむ、絶好調ですっ」

 ――――きっと、今ならノイム教授にも勝てると、そう思うわけです。

 それは、教授もかなり強いけれど、やっぱり戦闘型じゃない魔術使い。元から自身の持つ魔力量が桁違いだったわたしは、特に狙ったわけでもないけれど、戦闘型魔術使いに負けないくらいの実力を持つ。

 多分、これが才能――――なんて、ちょっとニヤつきながら考えてしまう。

「それでも、教授に教わる事は多いんですけどね」

 カバラの魔術はまだ途中、特にあの大活性のような回復系の魔術は難しい。戦闘型なら、ほとんど使えるようなったのだけれど。

 教授の話では、どうやら回復系には向いていないのだとか――――最初の頃は、戦闘型なんて嫌だなと思っていたけれど、才能がそっちに向いているのだからしょうがないと思う。

「さてと……後はお部屋に帰って、魔術書化の理論構成をしましょうか」

 そう、最近はまっている事。

 自分が覚えた魔術を、教授の研究書で見たあの大魔術書(グラン・グリモア)に追加していくのだ。この作業が中々楽しい。工夫すれば工夫しただけ、未来の自分が強くなる。

 それが、たまらない快感。

「そうだ。今日は悪魔召喚の辺りを作っちゃおう♪」

 部屋を出て軽く鼻歌を歌いながら廊下を歩くと、目の前をセレソさんが歩いてくる。その肩に担いでいるのは、一振りの長剣。

「あ、ラプロー」

「あれ、セレソさん。これからお仕事ですか?」

 笑顔で問うが、セレソさんはとりあえず抱きついて、両頬にキス。

「駄目だヨ、ラプロー? 挨拶はしっかりしなくちゃネ」

「あ、あはは、すいません……」

 セレソさん、元はスペインに住んでいたらしく、その大らかさはこっちが照れてしまうくらいだ。

「よろしい。それでまあ、お仕事はお仕事だけど、学内の仕事サ。ちょっと戦闘訓練してくるんだヨ」

「へえ、セレソさんでも訓練ってするんですか?」

「あは、まさかー。違う違う、ボクは訓練なんかしないヨ」

 彼女はにっこりと笑い、甘いなぁ、と呟いて、

「言ったデショ、仕事だって。他の魔術士をぶっ飛ばす仕事なのサ。ちなみに、ぶっ飛ばされるのが魔術士の訓練。あと、死人を出さないのも仕事なのカナ? ま、骨くらいは逝っちゃうだろうけどネ、あははははっ!」

「うわぁ……」

 セレソさんのお弟子さんは大変そうだ。

「今度ラプローも相手してあげても良いヨ? キミ、最近腕を上げてるらしいしネ」

「そ、その時はお手柔らかにぃ……一応、他の魔術士と同じくらいは戦えると思いますけど」

 苦笑しながら頭を掻くと、セレソさんは急に笑みを止めてこちらを見ている。

「え? あの、セレソさん?」

「ああ、別に良いんだヨ、気にしないで。ただチョット、ネ」

「ちょっと……?」

 頷く魔術師はもう笑っているが、その瞳は笑わぬまま。

「ウン。キミさ、チョット調子乗りすぎだと思うヨ」

「え――――?」

「おっと、もう時間がないヨ。じゃ、ボクはもう行くから、アディオス・ラプロー!」

 魔術師は明るく笑い、手を振って去って行く。

 

 

 ユキ師長の代理講義を終え、私は城内の廊下を歩いていた。

 ――――この後はラプローの授業を見て、夕食の材料を倉庫係に取りに行き、そのまま調理へ。七時には食事を終えて……。

 今後の予定を思えば、魔術師としての仕事が溜まっている。今日は、徹夜になるだろう。

「時が止まれば良いのだけれど……」

 世にはそういった能力者、“死水”が居ると聞く。生憎と、私は時を読むだけの能力者だが。

「今度、暇があれば研究してみますか」

 それにしても、近頃のラプローは一人で何かをしている。問いかけても答えの返らぬ事だ。過去視で視ればそれも解るのだろうが、いかに少女と言えどプライバシーというものがある。

 過去視と因果視――――不便な能力だと思う。

 知らずとも良い事があるがために、人は未来を見通せず。

 忘れねばならぬ事があるがために、人は過去を振り返れず。

 魔術師となり、運命理解者として名の知れた私が悟ったのは、そんな当たり前の事だった。

「それを悟るために、十を越す数の冬にこの身を晒してきた、か……」

 手に入れた力は決してその身から離れる事はなく、捨てられた幼子のように怨念じみて、今もこの身に縋りついている。

 だが、それでも良いと近頃は思う事が出来る。

 ――――後二つ。後二つだけ、私が私自身を貫き、成せたのなら……。

「いつかの少女を、私は救えるのだろうか――――」

 天井を仰げば、豪奢なシャンデリアが、ひっそりと埃に塗れていた。

「アレ、珍しい事もあるもんだネ。あのノイムお姉サンが黄昏てるヨ」

 良く知った明るい声は、長剣を肩に担いだ魔術師、セレソ・アノチェセルのもの。

「私が黄昏るのは、可笑しいですか?」

「まさか。絵になるなぁってネ……実際、眼鏡をコンタクトに変えて、その眉間のシワを取ったら、キミはボクより可愛かったからネ」

 それに、少しだけ苦笑を零し、

「私の似姿(ドッペルゲンガー)が、あの手合いですからね」

似姿(ドッペルゲンガー)、ネ……。人・天・魔の三界に存在する、自分と同種の存在物……三人までいるんだっけカナ?」

「ええ……。私も確認しました。三人までは存在出来ます。――――内一人は、少々ズレていますがね」

 彼女は私の言葉に頷き、おめでとう、と告げる。

「とにもかくにも、お姉サンは自分の能力を有効活用できているみたいだネ。でも、ボクからの忠告」

「忠告?」

「ウン。キミのお弟子サン、今チョット調子に乗ってるみたいダヨ? あるんだよネ、そういう時期ってサ。自分が強くて強くてしょうがないって思い上がってる時期」

 危ないヨ、と彼女は続け、

「そういう時期が、一番死に易い……知ってるヨネ? ノイム?」

 

 

 教授の家に帰って来て、すぐに地下室に駆け込む。

 悪魔召喚はその術の特性上気軽にやれず、あまり経験がない。魔術書化する前に、下級悪魔を召喚しておくくらいはしないと――――そう思ったので、魔術実験用の地下フロアに来たのだ。

 黒魔術の中でも、奥義と言えると悪魔召喚用のフロア。

 実は、わたしにとっては使用禁止に指定されているけれど、大丈夫。下級悪魔くらいなら暴走しても倒せる自信がある。

 暗い召喚部屋には、四隅にロウソク。中央に、円と十字を組み合わせた魔法陣。その他、儀式に必要な物は大抵揃っていた。

「ふぅ……。では、参りますかっ」

 まず、二つある魔法陣の内、小さな魔法陣の中に立つ。これは術者を守るための結界で、もう一つの大きな魔法陣は悪魔が呼び出される結界だ。

精神知覚、埋没(アンダーウォーター・ダイヴ)……」

 悪魔召喚は、召喚・契約・行使・退去の四段階に別れ、最も注意を要するのは契約である。この時、悪魔の甘言に注意しなければ、術者が悪魔に使われるという事もあるのだとか。

「“神と聖霊の御名により、我、此処に地獄の門を開錠せん”」

 同時、室内の空気が一瞬で変わり、二つの魔法陣が淡い白光を吹き上げる。

「“地獄に追い堕とされた者、黒き十二翼の輩よ。七柱の王、大罪統べし咎人よ。汝等の下僕を我が前に差し出せ。此処に契りを交わそうぞ”」

 見つめる大きな魔法陣の中に、黒い影が固まっていく。悪魔が、そこに出ようとしているのだ。

「“契りは地獄の秩序と汝を縛り、我は汝を従える。汝、我が剣となりて力とならんや。問いには肯定を持ちて契りとせん”」

 手応え――――この契約は確実に成功する。

 この魔力を叩きつければ、下級悪魔には抗う術は皆無。

「“我が名を刺し出し、汝に剣として打ち込まん。我が名は、ラプロー・アンノール”」

『ラプロー・アンノール……』 

 魔法陣の中、ぬめった光を放つ紫の瞳がわたしの名を呼んでいる。

『そうか、魔術士よ。わしを呼んだのは貴様か』

 おかしい――――召喚が成功していれば、相手は自分の名を告げるはずだ。相手の名乗りを聞く事は、召喚では成功を意味する。

 では、その逆は――――

「まさか……」

『あのお方の命令を受けて四年、ようやく終わりが来たか』

 やばい――――悪魔を地獄に退去させないと――――

「“神と聖霊の御名により――――”」

『させん、小娘!』

 悪魔の怒声と共に、溢れた闇が魔法陣を吹き飛ばした。

 

 地下フロアを吹き飛ばした魔力の放出は、一階の資料庫まで貫通。衝撃を結界で緩衝したわたしは、書棚の上に辛うじて着地。

 見上げれば、舞い散る紙の残骸の中に、狐のような顔をした有翼の魔物が在る。

「ガーゴイルですか!? 悪鬼がどうして悪魔用の召喚に……!?」

 しかも悪鬼の中でも上位にランクする魔物、教会認定でBランク。魔王の一歩手前の脅威。

「わしの上役の魔女めはな、この程度の術式に介入するくらい造作もない、魔術の申し子なのよ。そして――――」

 告げ、悪鬼は翼を一打ち、真っ直ぐにこちらに突っ込んでくる。

「魔女より言い渡された命は、貴様ともう一人を殺す事だ!」

「そ、そんな簡単にやられません! 脳内領域、開書(メインメモリ・オン)真理魔術(カバラ)秘術”数秘法”(モード・ゲマトリア)!」

 突っ込んでくる敵の軌道・行動を因果視、右に飛び、書棚の上を渡りながら精神を研ぎ澄ます。

 だが、上手く因果を視る事が出来ない。ノイズ交じりの未来は、酷く不安定。

 ――――い、いきなりの戦闘で自己暗示でも落ち着かないくらいに動揺してます……っ。

「くっ……なら! “天地遍く方々よ。ユダヤ、アブラハムの契約主たる御神の御名により、”」

「ふんっ、遅いわ小娘!」

 悪鬼が翼を一振りすれば、巻き起こる突風が体を浮かす。

 風属性の魔術、たった一つの挙動で――――空中に浮いた体は、無防備に敵の攻撃を待つばかり。

 ――――結界で防御……っ!

 両腕を交差させて結界を敷く準備をするが、間に合うか――――すでに、敵は眼前だ。

「このっ、馬鹿者――――!!」

 その時、脇からの蹴撃がわたしを吹き飛ばし、悪鬼の攻撃は辛うじて外れた。

 本棚に突っ込みながら見上げれば、書棚の上に着地するのは、スーツ姿の女性。

「きょ、教授!?」

「そんな長い動作付きの魔術が、実戦で役に立つものか!」

 怒声を放ち、教授は即座に短剣を抜いて突進。その過程、

精神知覚、埋没(アンダーウォーター・ダイヴ)……脳内領域、開書(メインメモリ・オン)真理魔術(カバラ)秘術”数秘法”(モード・ゲマトリア)

 淡々と告げられた言葉に、悪鬼が攻撃対象を変更。教授に向かい、その小剣ほどもある鉤爪による刺突を放つ。

 だが――――、

「ぬぐっ!?」

 流血したのは悪鬼の方だ。教授は髪を数本切られただけで、悪鬼の腕を切り裂いている。

 突然の殺し合いであろうとも、決して慌てず集中の極みに到るその精神力。

「貴様――――貴様が、もう一人の抹殺対象だな……っ」

「そういう貴方は、魔杖(サルワ)の狗か?」

 明らかに人間以上の存在に、怯みもしないその強固な赤い眼差し。

「ここは魔術師の城。異変はすぐに察知され、一分で助けが来るでしょう。いかに、悪鬼よ」

「ちぃ……言ってくれる、劣化品めが……。だが、退く訳には行かん。あの魔女は容赦がないのでな、せめて一人でも殺さねば、生きて帰っても死ぬ」

 教授には、戦闘でなら勝てると思っていた。

「そうですか。なら、私を殺す事です。あの子には、もう指一本も触れさせはしない」

 それは、思い上がりだと思い知った。

「あの子は私が守る。一分――――それなら、私の命を賭ければ何とか持つでしょう」

 戦闘技術や、魔力の才能などよりも――――他のどんなものより、その心の在り方が、全てを上回っている。

「やってみろ、魔術師!」

「言われずとも見せましょう。ラプロー、そこでじっとしていなさい」

 一人と一匹は、同極の磁石であるかのように、瞬間的に引き合った。

 

 

 魔術師にとって、最も弱い所は何か。それは、多くの魔術が詠唱や動作が必要だという事だ。

 つまり、その間に攻撃されてしまえば、何の抵抗も出来ない。それ故、多くの戦闘型魔術使いは、一動作で魔術を行使する術を編み出す。

 その点を、私――――魔術師ノイモーントは、魔術を捨てる事で解決した。

「ふう……っ!」

 頭上から振るわれる爪を短剣で丁寧に弾き返し、蹴りを放つ。

 身体能力を強化する以外、一切の魔術は使用しない。

「貴様、本当に魔術師か……?」

 蹴りを避けて頭上に舞い上がる悪鬼の声には、余裕の色。

 当然だ。人間の身体能力など、いかに強化したとはいえそう頑強なものにはならない。

 まして自分は非戦闘型、格闘技術も未熟ならば、攻防の末に傷つくのは目に見えている。

「が、ある意味で魔術使いらしい戦い方ではあるか。魔術使いの弱点がないのだから」

「余裕がありそうだが、そうしている間にも時間は過ぎていく。残り、四十五秒」

「それは困る。行くぞ、魔術師」

 集中し、目を細めて因果を視る――――敵の次の行動は、突っ込むと見せかけた魔術の行使。

「潰す……」

 書棚を蹴り、迎え撃つように頭上に。急停止をかけて間合いを外そうとする分も見切り、回し蹴り。

「むぅ……! こちらの攻撃を潰すのが上手いな……流石という所か。魔女に似ている」

「そうでしょうね」

 書棚に着地、次の攻撃に備え、横の書棚に飛び移る。

 ――――ここの本達には申し訳ない事をする。

 攻防を重ねる度に、書棚は倒れ、本が砕けていく。全て目を通し、暗記した本だ。その価値として惜しむものはない。

 だが、自分に知識をくれたモノ達。一人の時間を紛らわせてくれたモノ達。

 失うには、余りに大きい。

「残り三十秒……っ」

 あと少し――――そう思うが、書棚と同様に、すでに全身が傷だらけだ。

 眼鏡は砕けてしまった。近眼と乱視混じりの自分では視界が霞む。

 折角のワイシャツもぼろぼろ、一応ブランド物だったのだけれど。

 ――――身体能力、最大時より三十二パーセント減少。集中力急速下降。因果視に多大なズレの可能性あり。

 限界か――――思うと同時、バックステップを踏もうとした脚から力が抜ける。

 ――――失血による脱力。

 僅かな失速から、即座に首元を悪鬼に捕まれた。

「残り二十五秒……思いの他に短かったな、魔術師」

「かふ……二十、五秒……か」

「どうした、次の策でもあるのか?」

 いえ、と首を振り、小さく唇を歪める。

「最初に策を使って、それで決まりでしょう……。時間切れですよ、悪鬼」

 なに?――――そう眉を潜めた悪鬼の腕が、肩から吹き飛んだ。

 遅れて肩を押さえる悪鬼の背後、コマ落としのように現れた、長剣を肩に担いだ魔術師が一人。

「ボクの友達に何してくれてんのサ。ドブ臭い悪鬼の分際で」

 悪鬼は信じられないものを見るように後ろを見て、それから前の私を睨み、歯をむき出す。

「一分と、貴様は嘘を……!」

「人聞きの悪い……。異変を察知してから一分、と言ったでしょう? 異変は、私と貴方が遭遇した時からではなく、貴方が現れた時から……その後のカウントは、私と貴方との戦闘時間ですよ」

 そう、戦闘時間。

 あと十秒で、戦闘は終わる。

魔術師の城(アカデミー)、二十八師が一師、“律法計算者(カリキュレイター)”ノイモーント・フォーアヴィッセン」

 あと五秒。

「私の因果視(計算)は、貴方の死期まで看取っています――――Auf Wiedersehen(さようなら)

 柱時計が鳴り響き、セレソ・アノチェセルの剣が、悪鬼の体を二つに両断した。

 

 

 全てが終わって、一階に居並ぶ書棚のほとんどが崩れ去った後、血塗れの教授は、わたしの前に立った。

 初めて来た日に、夢にあるような図書館だと感じた幻想の名残は、最早ない。

 そこは、時の暴力に負けた、廃墟のよう。

 そして、目の前に立つ女性(ひと)も。

「ノイム、速く治療した方が良い。キミ、あちこち折れててもうボロボロじゃないか」

「ええ、解っています、セレソさん。ですが、これは今ここでやるべき事ですから」

 血に濡れた教授の顔は、怒りのない眉を寄せた顔。いつも通りの、何も変わらない顔。

 だが、時々息を呑むのは、全身が痛いからだろう。

「きょ、きょ、じゅ……」

「ラプロー。怪我は、ありませんね?」

 その一言が、怒鳴りつけられるよりも痛かった。

 いっそ怒鳴って欲しい。謝る事なら慣れている。ここに着てからも、ここに来る前も、父と母が居る時からずっと――――。

「間に合って良かった……。二度と、このような事をしてはいけません」

 教授の声は、いつになく穏やかで、どうしてそんな風に居られるのか、こちらの気が狂いそう。

「自分がした過ちを、解っていますね?」

「はい……」

「その結果、貴女の命が危険になったのも、ここの本達が砕けていったのも、セレソさんに迷惑をかけた事も、解っていますね?」

「……はい……」

 教授は、静かに頷き、

Gut(よろしい).」

 それだけ言って、背中を向ける。

 それ以上、言うべき事はないと、叱る必要もないと、教授は云っている。

「きょ、教授! 待って下さい……ど、どうして怒らないんですか!? 一番、一番危険で、一番痛い思いをしたのは……!」

 貴女じゃないですか――――唇を噛んでその人の背中を見上げても、その人は何も言わない。

 怒らないという怒り方が、これ以上ないほどに胸に痛い。

「教授っ! ノイム教授!」

 思い切り怒鳴って欲しいと願うのは、これが初めてだ。

 いつか、父がわたしに怒鳴り散らすようになってから、怒られるのが本当に嫌だった。

 理由のない怒声も、罵声も、大嫌いだ。

 だけど――――

「教授! わたし、叱って欲しいです! どうして、叱ってくれないんですか!」

 この人にだけは、怒って欲しい。

 理由もある。責任もある。

 なのに、どうして――――

「ラプロー……」

 静かな声は、ようやく答えた人のモノ。

「私が貴女のために命を賭けるのは、当然の事です。何も気兼ねする事はありません」

 その人は振り返り、不器用な顔で、――――微笑んだ。

「貴女を守る――――それが、今の私の生き甲斐ですよ……。私の大切な子をね……」

 腹の底から震えが来る。

 それが、いつか味わった喜びの再来だと気づいて、――――気づいた時には、もう泣いていた。

「あ……?」

 ぽろぽろ、ぽろぽろと……涙は落ちていく。

「あれ、あ、やです……。わたし、泣いて……あはは、す、すみません」

 目元を拭い、髪をかき上げてわたしは笑う。

「とま、ないです……ごめん、なさ……。あは、あははは……っ」

 本の散乱したその家で、顔を覆いながら笑う。

「あははっ、あははははははは……!」

 笑いながら頬を伝っていく涙を感じ、雨に濡れたようだと、わたしは思った。

 誰かを待つ必要はない。

 わたしが傍に居て欲しいと思う人は、もうそこに、すぐ傍に……。

 ――――その日の雨は、とても、温かい。

 


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