10th/An Movable Pride(Fate)

 

 教授が怪我をした翌日、夕方になると、教授はもうすっかり元気になっていた。

 午後からはいつも通り授業をして、今はお風呂に入ってのんびりとしているだろう。

 わたしはと言えば、お風呂道具を持って脱衣所に強襲を仕掛けていた。

 曇りガラスの向こうには教授がシャワーを浴びている気配。こちらの気配にまだ気づいていない辺り、随分と油断していると思う。

 服を脱ぎながら置物台の上に目をやると、教授の眼鏡を発見。ちなみに、いつもかけているのとデザインは同じだが、前に使っていた古い眼鏡だそうだ。

 ちょっとだけ失礼して、かけてみる。

「はわ……、きっついです……」

 思わずクラッとくるような度の強さ。教授、実はかなり眼が悪いと判明。

 鏡の前に立つと、光の屈折現象で見える自分は、結構教授に似ていた。

「へぇ……この眼鏡をかけると、結構似るものなんですね」

 ちょっと大人っぽくなったようで気分が良い。

 いつもの教授のように、眼鏡を押し上げる仕草――――似ている。

「今度、セレソさんに見せちゃいましょうか」

 きっと爆笑されると思うのだ。

 その時、引き戸が開く小さな音がして、

「ラプロー? 何をしているのです?」

 教授が顔を出してきた。

「はわわっ!? きょ、教授!?」

「……? 私の、眼鏡? 壊さないで下さい、それが今ある最後の代えなんですから」

 濡れた前髪をかき上げる教授。こうして見ると、やっぱり教授も女性だ。

「それで、何です?」

「あ、いえその……お風呂ご一緒しようかなぁって……駄目ですか?」

「お風呂……」

 教授は小首を傾げ、

「まあ、構いませんが……どうしてその年になって? 今まで一度も言った事がないでしょう」

「え? あ、あんまり理由もありません、けど?」

 ――――だって、お母さんみたいな人だと、昨日思えたから。

「気紛れですか。良いでしょう、断る理由もありませんしね」

「あ、はい、ありがとうございますっ」

 慌てて服を脱いで、お風呂場へ。

 湯気が立ち上るそこは、二人が入っても充分広い。ちなみに、教授は浴槽に浸かるタイプなので、湯船にお湯も張ってある。

「あの、教授、お背中お流ししましょうか?」

「いえ、私はもう終わりましたよ。貴女の方をしてあげます」

 そう言いながら、バスタオルを体に巻いた教授は椅子に座るように目で合図。その左腕と右腕には、刺青の紋様がある。

「あれ? 教授……その右腕……」

「ああ、これですか?」

 はい、と椅子に座りながら頷き、

「研究書には左腕だけって――――」

「ほう……」

 あ――――言っちゃった。

「はわっ、いえっ、ええっと、そうじゃない事はないんですけどっ!」

「見事な物ですね。私の研究書を本当に見たのですか? 一体いつの間に……」

 別段、怒った様子もなく、教授は頭からお湯をかけ、シャンプーをしてくる。

「え、えっと、それは流石に企業秘密というか……。見た所は、“大樹(グロース・バオム)”の所だけなんですけど」

「ふむ、あれは私の研究の中でも一番の成果でしょう。私が魔術師でいられる理由の半分はそれですから。――――痒い所は?」

「あ、ちょっと後ろの所……ん、そこ、気持ち良いです……。で、ええっと、そうなんですか? 確かに凄い理論でしたけど」

 鏡に映る自分の頭が、見る見る泡立っていく。ちょっと教授やりすぎではなかろうか。

「ええ。尤も、私には実現不可能でしたがね……。あれを用いると、外部の魔力を吸収する事への弊害が出てしまいまして……霊力が桁外れでないと」

「やっぱり! という事は、わたしならばっちりですよね? ね?」

「貴女、あれをやるつもりですか……?」

 ぴたりと、教授の手の動きが止まった。

「え、なんか、おかしいですか……?」

「当たり前です。刺青を彫るのですよ? 消える事のない(きず)を、肌に刻むのですよ?」

「……? そ、それが、え、何か……?」

 どうしてだか解らないけれど、教授は深い溜息を吐いて、

「女の子でしょう、貴女……。体は大切にしなさい。いつか、結婚もするでしょう?」

「はわ、結婚、ですかぁ……」

 それはまあ、女の子の夢だし、いつか綺麗な花嫁さんにはなりたいなと思う。

 つまり、教授はそんな事を心配してくれているのか。

「でも教授? 強い女の子も今だと人気ありますよ?」

「……え? あぁ、そうなのですか?」

「だからまあ、きっと大丈夫ですよ。折角の教授の理論も勿体無いですから」

「そういう問題では……」

 そうだ、とわたしは大きく声を上げ、後ろを振り返る。

「ねっ、教授は結婚しないんですか?」

「――――はい?」

 珍しく、教授が素っ頓狂な顔をして、素っ頓狂な声を上げた。

「だって、教授だってもう良いお歳じゃないですか? まあ、不老化の処置をしているんですから外見は変わってませんけど……どちらにせよ、教授が女盛りだという事は変わりませんよね?」

「いえ、まあ……それは、世間で言えばそういう歳ではありますが……。しかし私は」

「ほらほらほらっ! 誰か良い人いないんですか? 教授、元は美人なんですからっ」

 それに、教授は眉を潜め、

「元は……?」

「はわっ、ちちち、違いますよ? ええと、そうですねっ! わあ、教授スタイル良いじゃないですかっ」

 ――――普段スーツで解り難いけど、結構お胸があります。

「すらっとしてるし、ううん……どうでしょう教授! この際、女性としての人生を考えてみてはっ」

「それは何ですか、私が普段女性として生きていないと?」

「え? あっと、そ、そうではなくてですねぇ……!」

 あたふたと腕を振り回すわたしに、教授は溜息。

「ほら、前を向いて、背中を洗いますよ」

 苦笑を浮かべ、軽く頭を小突いてきた。

「まあ、貴女の人生です。お好きにしなさい……」

 ――――何か、くすぐったい感じがする。

 

 数日後。

 わたしは、講義で動けない教授の代わりに、セレソさんと教授の新しい眼鏡を取りに街に下りた。

 天気は生憎の曇り空。次第次第に黒雲が流れ込んでくる様は、山に雨の訪れを告げている。

「あちゃ、これだと帰りのヘリは雨ダヨ。参ったな、ボク酔い易いんだよネ」

「あ、セレソさんもですか? 実は、わたしもなんですよぉ……」

 苦笑すると、セレソさんも唇をへの字にして苦笑。

「あ、でも急いで帰るとヘリの移動中は間に合うかもしれませんよ?」

「え、それホント?」

「ほんとです。わたしだってノイム教授の弟子ですから、天気予報くらいなら任せて下さい」

 なるほど、とセレソさんは笑い、こちらの手を掴んで、

「じゃ、そゆ事なら急ごうヨ。折角の街だけど、酔った苦しみには代えられないからサ」

「そんなに酷く酔うん」

 いきなり走り出した。

「ですかぁわわわわあああっ!?」

 セレソさん、実はかなりの力の持ち主で、アフリカゾウも持ち上げられるとか。恐るべし。

 わたしが上に跳ぶように脚をつけるだけで、セレソさんが引っ張ってくれるので前に飛べる。傍から見ると、わたしは兎のように移動しているに違いない。

「そういえばサ。キミ、ノイムお姉サンから何かオッケー貰ったんだってネ?」

「はっ、はひっ! た、多分それは、刺青の事じゃ、ないでっ、しょーかっ!?」

「ああ、それそれ。刺青ならボク手伝うヨ?」

 凄い不思議――――どうしてこのスピードで普通に会話できるんだろう、この人。あ、今車追い越した。

「そ、そうっ、ですかぁ!?」

「ウン、ボク刺青って好きなんだよネ。ほら、ホッペにしてあるデショ?」

 そう言って指差されたセレソさんの右頬には桜の花びらの刺青。

「そりゃもう、アーティスティックな一品をばーんとしてあげるヨッ」

「え? いえ違うくてっ、わたしの刺青、魔術的なものですからぁ!」

「アレ? そうなの? 勿体無いナァ……ま、それでもお手伝いが要るなら呼んでよネ」

 で、セレソさん急停止。

「はわぁああっ!?」

 慣性の法則により、わたしはセレソさんの背中に突っ込みそうになり、振り返ったセレソさんに抱き締められる。

 ――――肩、肩抜けちゃいますぅ……!

「こんな街中で抱きついてきて、ドイツ人の割りに大胆だネ、キミはサ」

「だ、誰のおかげですか、今の……」

 ――――うぅ、何か今ので酔いそうです。

「とにかく、ホラ、ここがノイムお姉サン愛用の眼鏡屋サ。行こう、ラプロー」

「は、はいぃ……」

 街の小さな眼鏡屋――――そんな風情のお店のドアを開け、中に入る。

「チャオ、オジサン。ノイムのお使いで着たんだけどサ」

「おぉ、着たね。ノイムのお嬢ちゃんは元気かい?」

 店の奥から出てきたのは、腰の曲がった老人。パイプ煙草を咥えながらの笑みは、懐かしいと思わせるような優しい笑みだ。

「ウン、元気ダヨ? ネェ、ラプロー?」

「え? あ、はい。とっても元気だと思います」

 ちょっと前に大変な事があったけど、と心の中で付け足す。

「ほう、そっちのお嬢ちゃんは、誰かね?」

 老人は、眼鏡ケースを取り出しながらこちらに笑みを向け、セレソさんは目で頷く。

「えっと、わたしはラプロー・アンノールと言います。ノイム教授の弟子です」

「ほっほぅ……、なるほどの。そういう事かね。何だか、ノイムのお嬢ちゃんの小さい頃を思い出すね」

「教授の、小さい頃……ですか?」

 あぁ、と老人は頷き、眼鏡ケースをわたしに手渡す。

「あれは、ノイムお嬢ちゃんが十二歳だったかの。うちに始めてきた時も、そこのセレソお嬢ちゃんと一緒に来たのよ」

「へえ……教授、ここの常連さんなんですね」

「こんなくたびれた眼鏡屋の、数少ないお客さね……」

 そう言って、老人はわたしの髪を撫でる。――――そういえば、教授に頭を撫でられた事はなかったな、と思いながら、微笑み。

「お嬢ちゃんも、目が悪くなったらうちにおいで」

「ん、は、はい……。でも、目が悪くないうちからおいでになったりしてぇ……」

「なんと……?」

 後ろから、セレソさんが笑う。

「伊達眼鏡が欲しいんだってサ。ノイムお姉サンの真似したいみたいでネ」

「ほぉ……あのお嬢ちゃんも、随分と慕われるようになったの。どれ、好きなフレームを選ぶと良い。伊達眼鏡なら、すぐに出来る」

「はい、ありがとうございますっ」

 広くはない店内を慌てて駆け出すと、後ろで老人が笑った。

「そんなに慌てずとも、眼鏡は逃げやせんよ」

 声に応え、振り返ったら、

「はぁい、解ってまびっ!?」

 思い切り転んだ。幸い、商品棚は無事。

「はわわぅ……あ、危なかったです……」

「おうおう、お嬢ちゃん、大丈夫かね?」

「は、はぁい、大丈夫です〜。慣れてますからぁ」

 痛いのには変わりはないけど。

 ――――ううん、でもどんな眼鏡が良いのだろう。教授と同じのだと芸がないし……。

「ラプロー、ラプロー。キミさ、こんなの似合うんじゃないカナ?」

 むむ、セレソさんの掲げる眼鏡は――――

 

 帰りのヘリでアカデミーに着くと、待ちわびたかのように空が泣き出した。

「ヘエ、流石だネ、ばっちり雨が降ってきたヨ」

「えへへ、教授の教え方が上手だからですよ」

 言いながら、眼鏡を押し上げる。縁の細い、丸眼鏡。

 教授が四角い感じの眼鏡なので、良いチョイスだと思う。

「アハ、その仕草、ホントにソックリだよネ」

「ですよね? やっぱり、日頃から見てると仕草って似るんだと思います」

 傘を差し、ヘリポート用の広場から正門を抜けて中へ。

「そろそろ教授の講義も終わってる頃でしょうね」

「ウン。その時間ダヨ。講義室に行ってみるカナ? 速く渡してあげられるヨ?」

「うぅん、そうですね。教授、あの眼鏡だと眼が疲れるようですし」

 胸に眼鏡ケースを抱いて、城内を歩く。

 今日の晩御飯は何かな、という思いと、今日の授業は何だろう、という思い。

 どちらも、自分にとって最大級に楽しみな事だ。

 教授の料理は美味しく、教授の授業は優しい。

 つい数日前は、教授から教わる事はもうほとんどないと思っていた。

 ――――とんでもない。わたしは、まだまだ未熟過ぎる。

 初めて教授に授業して貰った時と同じような気持ち。

 そういえば、魔術士には二種類の指向性があった事を思い出す。

 一つ――――鏡を見つめる者。

 一つ――――空を見上げる者。

 カバラを主軸に据えたわたしは、前者。

 鏡を見つめる者、すなわち、自分自身の中から真理を見出す者。

 今のこの気持ちは、自分の事が少し解ったから、感じられるのかも知れない。

 自分の力量と愚かしさ、それから――――教授に対する絶対的な尊敬と、それ以上の親愛。

 恥ずかしいけれど、わたしは教授に母を重ねている。それも、理想の母を。

「やっぱり、ノイモーントの授業は駄目だな。やる気が出ない」

 だから――――

「何であんな端役の魔術師が代理講義に出張るんだろうな」

 耳に聞こえた――――

「教えるのが上手いからだろう。それがやる気を失せされるんだから困る」

 そんな侮辱を――――見逃すわけには、行かなかった。

「やれやれ、好き勝手言うネ……。近頃の魔術士はマナーがないっていうか……ラプロー?」

「セレソさん、教授の眼鏡、持ってて下さい」

 セレソさんの手に眼鏡ケースを押し付け、瞼を伏せて息を吐く。

「ちょっ、気持ち解るけどそれは不味いヨッ」

精神知覚、埋没(アンダーウォーター・ダイヴ)

 その囁きで、セレソさんの静止が無音に散る。

 自分の内、奥深くに埋もれたわたしに聞こえるのは、大切な、忘れてはいけない教えだけ。

『“Ordnung(秩序を) ist(守る) das(事は) halbe(生活の) Leben(いろは)”――――悪戯に無秩序を持ち込んではいけない。悪戯に平穏を壊してはいけない』

 解っています――――そう心の中で頷き、だけど、と続ける。

脳内領域、開書(メインメモリ・オン)

 貴女がわたしを守ってくれたように、わたしも貴女を守りたい。

 教授に逆らう事に、謝罪の気持ちはあるが後悔の気持ちはない。

 何故なら、“先生”が教えてくれた。

 他人に間違っていると言われても、()げてはならないモノがある事を。

 ――――わたしは、わたしを貫き通す。

「そこの魔術士!」

 仮令(たとえ)、教授の教えに逆らう事になろうとも――――

「わたしと勝負しなさい!」

 ――――貴女の誇りを、わたしは守りたい――――

 

 冷たい雨が降り注ぐ、実戦訓練用の広場。

 大嫌いな雨の手に身を委ね、わたしは三人の魔術士の前に立っている。

 雨は自分にとって大敵で、敵は三人もいるというのに、不思議と心は乱れない。

 きっと、そんな事よりももっと強いモノを、心が求めているのだろう。

真理魔術(カバラ)秘術”数秘法”(モード・ゲマトリア)……」

 因果を視る――――それは、前回の不完全なものとはまるで違う。明確な未来の予測だ。

 三対一。ただでさえ体力の少ない自分の最も有利な戦い方は、先手必勝、速攻決着。

「行きます……!」

 身を低く、低空を疾駆。

 教授の戦い方を思い出し、正確に模倣する。

 今の自分ではまだ、一動作で発動出来る魔術は体術系しかない。なら、教授と同じ動作をするのが最適のはず。

 三方、敵はそれぞれが詠唱に入り、大気中の魔力を集めようとするが、

「遅い!」

 脚のバネを炸裂させ、一気に加速。右端の敵の鳩尾に中段蹴り、そこを踏み台にして顎を打ち抜く。

 体術を教わった時、教授が教えてくれた技。自分より体格が大きな敵に使えと言われた。だから使う。

「魔術を使えるものなら、」

 残った二人に対し、今蹴り倒した敵の襟首を掴んで立ち上げ、

「使ってみなさい!」

 自分の前面に、盾として引き出す。

「あああああ――――っ!」

 そのまま、真ん中の敵に突進。盾に使った一人を投げつけ、体勢を崩した肩に飛び蹴り。体の支点を崩された敵は、呆気なく転がる。

「“真理魔術(カバラ)秘術“生命の樹”(モード・セフィロト)――――!”」

 転がった魔術師の鳩尾を踏み付け、最後の一人に向かって跳躍。

「“十の真理より火星へ、力よ来たれ(デュナミス・ゲブラー)……!”」

 思い切り拳を振り上げ、詠唱を終えた魔術士が高圧の弾丸を放つのと同時、

「砕っ!!」

 地面に、鬼にも等しい全力を叩き込む。

 逆しまに吹き上がる土砂が、高圧の空気の塊と激突し、互いに呑み込んで行く。

「わたしの……っ、」

 その土砂の氾濫の真中、無尽蔵に体内の霊力を吐き出して突き進む。

 敵は脇からの攻撃に注意し、真正面には無頓着。

 その真正面の土砂を、突き破って前へ。

「わたしの、勝ちです!」

 腰に溜めた拳を、真っ直ぐに敵の顎へと放つ。

 因果視は、正確にわたしの勝利を導き出した。

「ラプロー……!?」

 雨音の中、酷く澄んで聞こえた気がするその人の声。

 振り返れば、雨に濡れた景色の中からその人は駆けて来て、真っ直ぐにわたしを睨む。

 棘のような赤い瞳の、恐ろしいと思えるような鋭さ。

 教授は、肩を震わせてわたしを見下ろし、

「馬鹿者――――!!」

 張り裂けるような声で、わたしの頬を弾いた。

 ――――痛い。思い切り、平手打ち……。

 自分が命を賭けた時ですら怒らなかった人が、激怒しているのだなと、頬の熱さに感じる。

「貴女、一体何をしているのです! 教えたでしょう、暴力は振るうなと! 貴女は頷いたはずです、それともあれは嘘かッ!」

「ノイム、チョット言い過ぎじゃ……ラプローはキミのために」

「セレソさんは黙っていて下さい! 答えなさい、ラプロー!」

 教授はわたしの肩を掴み、膝を突いて瞳の高さを等しくする。

 そこにある教授の瞳は、酷く不安げに、私を見つめていた。

「貴女は……、貴女ほど、暴力の痛みを知る人も、少ないはずでしょう……ラプロー……っ」

 臓腑(ぞうふ)が潰されたような、教授のかすれた声。

 ごめんなさい、そう思い――――しかし、口に出さない。

「わたしは……痛い事は、大嫌いですけど……」

 はっきりと見据えれば、雨に濡れたその人は、いつか捨てられた少女に、良く似ている。

「教授が、大好きな教授が馬鹿にされて黙っているのは、死ぬほど嫌いです」

「――――――――」

 教授は、僅かな間、赤い瞳でわたしを見つめ、首を振った。

「それでも、私は暴力を許しません。二度と、しないように……特に、私のためになど……」

 それから立ち上がり、こちらの顔にある眼鏡を、軽く指で叩いて、

「なんです、その眼鏡は……? 目が、悪くなったのですか?」

「いえ、伊達です。伊達眼鏡……ほら、教授と眼鏡でお揃いですよ」

「……中々、似合うのではないですか?」

 微苦笑を零し、それきり教授は背を向ける。わたしが倒した魔術士の介抱に行くのだ。

 ――――少しだけ物足りない……。

 そう思うわたしの肩を、セレソさんが叩き、微笑みで告げてくれる。

「アレ、絶対照れてるヨ。良かったネ、ラプロー」

 そうですか、と頷き、視線をその人の背中へ。

 すると、その人は立ち止まり。

Danke(ありがとう)……」

 小さな声で、そう言った。

 

11th/Equal women(Fate & Destiny)

 

 それから、再び月日はたゆたい四年。

 ラプロー・アンノールは十四歳になり、アカデミーの中で魔術師に最も近い魔術士として知られるようになった頃、少女の背には、偉大なる書物が完成した。

「良いですか、ラプロー。その大魔術書(グラン・グリモア)大樹(グロース・バオム)”は、ほぼ戦闘用。故に、貴女が使い方を誤れば……解りますね?」

 刺青を彫った道具を片付けながら、相変わらず歳を取らない教授は、服を着込むわたしに諭す。

「大丈夫大丈夫、わたしは大丈夫ですよ、教授」

「はぁ……。本当に、そうだという事を祈りますよ」

 鏡に映る自分を見れば、白いロングスカートに黒い長袖。髪型はショートをやめて、三つ編みに。顔立ちはずっと大人っぽくなったし、早々と成長期を終えてしまったのか、身長は教授よりも高くなった。

 ――――まあ、成長期を早く終えたおかげで、刺青を彫れたのですけど。

「しかし……」

 その言葉に振り返れば、教授は眼鏡を押し上げ、鋭い赤眼で僅かに見上げてくる。

「これで、私が教える事はなくなりましたね。本当に、恐ろしい弟子ですよ」

「そ、そんな事はありませんよ、教授にはまだまだお料理やお裁縫を教えて貰わないと……。それに、運命理解は教授の方がずっとお上手じゃないですか」

「自分の半分も生きていない弟子にすべて劣っていたら、流石に人生を振り返ります」

 言いながら、教授はわたしの襟元に手を伸ばし、

「ほら、襟が曲がっている……だらしのない」

「んっ、くすぐったいです……」

 それに――――身長を越えても、知識で越えても、どこか勝てそうにないその人の事を、世では親と、そういうらしいです。

「教授、そういえばわたしって教授の半分も生きていないんですよね? という事は、教授は二十九以上ですよね? 三十路(みそじ)ですかぁ?」

 一瞬硬直する、教授の指。それから、鋭い瞳で見上げて、そっと、

「……黙秘します」

「え、という事は三十路(みそじ)越えてぎゅっ!?」

 そっと襟元を締められた。

 

 絞殺されそうになってから数時間後、わたしはセレソさんと街に下りていた。

 街の街路樹を弄ぶ冷めた風は、季節が厳冬を迎えた事を密かに笑い、高く見える天は、直に曇り出す予感。

「セレソさん、あの、あんまり居るときっと雨が降ると思いますけど?」

「え、ホント? ま、参ったヨ、ソレ……せっかく、ラプローのお祝いに美味しいケーキを食べようと思ったのにサ」

 セレソさんも相変わらず、十六歳の少女のまま。直に、わたしの方が年上に見えるようになるのだろう。

「うぅん、ゴメン、ラプロー。やっぱり今日はケーキを買って帰ろうヨ。ボク、酔いたくないからサ」

「わたしはどっちでも大丈夫ですよ。セレソさんにお任せしますから」

 にっこり、わたしはセレソさんに微笑み――――綺麗に前のめりに転んだ。

「はわ、わぅぅ……」

「ラプロー。キミ……街に来ると絶対に一度は転んで帰るよネ? ソレってアレかな? 験かつぎ、とかそういうカンジ?」

「う、うぅぅ、ど、どうせわたしは幾つになってもドジですよぅ……」

 やっぱり素なんだネ、とか呟いて、セレソさんは手を取って立ち上がらせてくれる。

「ドジな魔術師候補の魔術士って、多分キミくらいだと思うヨ?」

「褒めると同時に貶さないで下さいぃ!」

 しこたま打った鼻を擦りながら、セレソさんに手を取られて歩く。セレソさんの方が,

身長が低いのに、何だか妙な気分だ。

 セレソさん御用達のケーキ屋は、もうすぐそこ。イチゴのショートケーキを五つくらい買って帰ろう、と思って――――カフェテリアの人影に目を奪われた。

「え――――?」

 こちらを見ろ。

 そう言われたかのようにカフェテリアのパラソルを見れば、寒空の下、細葉巻(シガリロ)と紅茶を嗜む女性の姿。

「――――――――」

 息が詰まる。

 何という事はない。ただ、紅茶と細葉巻(シガリロ)を楽しんでいる、普通の女性だ。

 漆黒の黒髪と細縁の眼鏡、通行人の全てが魅入るような白い喉元が、異様に綺麗なだけ。

 その眼鏡を押し上げる仕草。世の全てを客観視するような無表情。血を吸ったように赤い、不吉な眼。

「な――――ぁ――――?」

 心臓が止まりながら膨張する。

 普通の女性だ。普通の女性だ。ただ、地獄の毒気じみて美しいだけの女性だ。

 そう――――ノイモーント・フォーアヴィッセン、自分の師に酷似していなければ、である。

 師を美しくしたような――――否、師が彼女の劣化なのではないか。

「せれ、セレソ、さん!」

 セレソさんには見えていないのか。あの、異様な存在が。

「ン? 何カナ、ラプロー?」

「あの人、カフェの所にいる人ッ」

 指差し、今し方通り過ぎた場所を示せば――――無人のカフェテリアが、死んだように風が吹かれていた。

「ダレ? カフェにはダレもいないみたいだけどサ」

「う、うそ……。さ、さっきまで居たんです! シガリロと、紅茶を……」

 その名残もない。カフェテリアは、最初からそうであるように無言。

「ふぅん……。どんな人だったのサ? ひょっとすると、お化けの類カナ?」

「え、と……その、教授を、三倍くらい、綺麗にした人……」

 それから――――

「何だか、わたしにも、似ていたような気が……」

 全体的な雰囲気は違う。

 けれど、彼女を構成するパーツを分解すれば、自分と同じ物が幾つもあるという直感がある。

「気のせい、だったんでしょうか……」

 小首を傾げ、目の前の少女を見れば、

「――――――――」

 そこに、戦場を跋扈(ばっこ)する魔術師がいた。

「ひ……」

 大気が押し潰されるような錯覚。

 それでも、魔術師の顔は微笑みのまま。微笑みのままで、世界を相手に殺し合いを始めようとでも言うのか。

「ラプロー、今日はもう帰ろうヨ。何だか、気分が変わっちゃってネ」

 声もなく、その提案に頷く。

 今この人に逆らえば、殺される気さえする。

 魔術師セレソは、アカデミーに帰るまでその緊迫を崩す事なく、それが、今何かが始まった事を告げていた。

 

 

「着たか、ノイム」

 城の最上階、師長室に入ると、ユキ師長とセレソさんが私を出迎える。

 その顔色から察すと、どうやらあまり愉快な話ではないようだ。

「何の御用です、ユキ師長?」

「うむ。つい先程の報せなのだが……どうやら、そなたの似姿が現れたようだ」

「――――――――」

 一瞬、頭の中が空白になった。

「そう、ですか。情報源は、セレソさんですか?」

「イヤ、ボクは直接見てないけど、ラプローがネ」

「ラプロー……? なるほど……」

 少し考え、これからどうすべきかを思う。

「ヘルハウンドとガーゴイルの失敗で、とうとう自分が出てきたか……。この城の結界を崩す事は諦めのたでしょうね」

「あるいは、そう見せたいのか、だな」

 難しい所だ。敵は、私よりも遥かに戦い慣れている。

 勝算は皆無に近似した値。

 しかし、例えそうだとしても……。

似姿(ドッペルゲンガー)の狙いは私とラプローでしょう。組織は関係ありません。私だけで片付けてみせますよ」

「む、無理だヨ、ノイム! 相手は教会認定Sランクの化け物じゃないカ!? 純戦闘型のボクだってタイマンじゃ殺されるヨ!」

 Sランク――――天・人・魔の三界でも、最高位の強さ。人の身からすれば、台風や地震などの災害のようなものだ。

 行けば、(わら)のように殺されるだろう。

 けれど――――

「ありがとう、セレソさん。貴女はいつも、優しかった」

 視線を移せば、眉を潜めて押し黙るユキ師長の姿。

「今まで、本当にありがとうございました、ユキ師長……」

 少し躊躇い、深く頭を下げる。

「……ユキ教授。不出来な弟子で、申し訳ありません。昔から孤独で、不幸だと思っていた私の人生ですが……、ユキ教授、貴女に拾われてからは、本当に幸せでした」

「どうしても、独りで行くのか……?」

 問いには一つ、ただ小さく首肯して、口元を綻ばせた。

「運命という道は、必ず最後に独りきりで踏み出すものですから」

 背を向け、一歩をドアへ。

「ラプローの事は、よろしくお願い致します」

 そうして、言うべき事は全て失せ、ただ黙してドアに手をかける。

「ま、待ちなヨ、ノイム! ユキさんも、おかしいヨ!? な、なんでそんなに簡単に許しちゃうのサ!?」

 構わず、私はドアを開け、出て行く。

 背後に、セレソさんの怒声と、私の師の言葉を残して。

「確かに、アイツはノイムのドッペルゲンガーだけど――――」

「言うな、セレソ。昔から決められていた事なのだ」

 僅かな間を置いて、私の教授は、静かに云う。

「“ラプローを救うのは、私だけ”――――彼女の生涯で、初めての我侭(わがまま)。魔術師として侮辱されても自制し続ける我が弟子の、たった一つの我侭(わがまま)だ。叶えてやらねばなるまい」

「なんで、そんな……!」

「それだけが、いつかの少女を救える手なのだ――――」

 その言葉を背中で受け止め、小さく頷く。

 今の自分の原典。

 忘れてはいけない。

 ――――私は必ず、いつかの雨に濡れた少女を、救ってみせる。

 

 研究室に戻ると、少女が一年は待ったかのような顔で飛び出してきた。

「教授!」

 だけど、少女はすぐに言葉に詰まるはず。言いたい事が多すぎて、何を言って良いか解らないから。

「わ、わたしさっき、ま、街に行ったんですよ! セレソさんが魔術書の記念にって、だから、じゃなくてそこで、えとっ」

「ええ、大丈夫ですよ」

 ――――全て解っているから……。

「セレソさんから聞きました。その事について、少しお話しましょう」

「え、ああ……そ、そうですか」

「まあ、先ずは中へ」

 少女の背を押し、二階へ向かいながら、

「ラプロー、似姿(ドッペルゲンガー)というモノを知っていますか?」

「ドッペルゲンガー……ですか? 一応は知ってますけど……世界に三人まで存在し得る、自分と似た存在ですよね?」

「そこまで知っているなら話は早い。貴女が見た者は、私のそれです」

 二階について、リビングのテーブルに少女を座らせ、珈琲を淹れる仕度をする。

「似姿とは、単に姿形が似ている者の事を言うのではありません。その者の生い立ちや、性格、能力などまで似るそうです。自分とそっくりの人間が突然現れ、忠告をしたという報告があるのはそのためです。先に生まれた似姿は、これからの相手の生涯を知っていますからね」

「え、あ、はい……。それは、聞きました。殺されたりするケースは、自己嫌悪の現れみたいなものだとか……」

 頷き、少女の目の前に珈琲を置く。

「あ、ありがとうございます……それで? 教授は、何を言いたいんですか?」

「その似姿は、大分前から、私と貴女を狙っていたのです」

「な、何でですか!?」

 少女は立ち上がりながら叫び、けれど気づいて、再び椅子に腰を落とした。

「じ、自己嫌悪、ですか?」

「ええ、どうやら彼女は、私と貴女を許容したくないらしい」

 少女はうな垂れ、少し考えた後、

「え――――? 教授と、わたし……?」

 その間の抜けた問いかけに、思わず苦笑が零れた。

「ラプロー、貴女は頭が良いのですが、どうも自分の事には鈍感ですね」

 眼鏡を外し、少女の肩に手を置いて、表情を苦笑から微笑みに。

 いつも寄せていた眉根を緩め、真っ直ぐに少女を見詰める。

「誰かに似ていませんか? この顔は……」

「――――――――」

 

 

 眼鏡もなく、眉根の緩んだその顔は、どこかで見た事がある。

 毎日、朝に洗面所の鏡で見る顔――――ラプロー・アンノールそれ自身。

「あ……」

 今まで何の関連性も持たなかった脳内の記憶(シナプス)が、いっせいに互いを繋ぎ、互いの絆を主張し出す。

 そう、忘れかけていた記憶。

 孤児院を出て、アカデミーに来る途中、飛行機の中でわたしが酔った時の事、

 

 教授は頷き、どう見てもフランス系のスチュワーデスに頭を下げた。

Merci(ありがと) beaucoup(うございます)

De rian(どういたしまして)Comment(妹様は) va()()ta() soeur(ですか)?」

「……Oui(ええ)bian(きっと)

 

 あの時はフランス語が解らなかったが、今なら理解出来る。

 教授と姉妹だと間違えられたのは、それは姿形が似ていたからではないか。

 そして、アカデミーに着いた後、

 

 その吃驚声に、コスプレイヤー魔術師は、目を伏せた顔でこちらを見た。

「その気配、ノイモーントさん、ですね? もう一人は貴女と良く似た気配のようですが、どなたです?」

 

 盲目の魔術師が、気配を視てそう言った。

 また、初めてセレソさんと出逢った時も、

 

 急に理解出来る言語に変換された。この人、凄く頭良いかもしれない。ドイツ語ペラペラ。

「ゴメンゴメン、ノイムお姉サンの匂いがしたから、ついついいつものノリで抱きついたんだよネ。そしたら、ノイムお姉サンじゃなくてキミだったからサ」

「ノイム教授、ですか……? 教授なら、今はどこかに行きました」

「でもおかしいな。確かにキミから、ノイムお姉サンと同じ匂いが……」

「はわぅ、それって、わたしが教授と一緒に暮らしてるからじゃ……」

 手に縋って起き上がりつつ涙目で見上げれば、ううんと彼女は唸る。

「ボクは単純な体臭を嗅いでる訳じゃないんだけどナ……。まあ、良いや、ゴメンネ」

 

 魔術師は、わたしと教授とを明らかに間違えている。

 どうして気づかなかったのか――――母親のようだと感じられたのは、この人がこんなにも身近だから。

 まるで、鏡の写したような自分。

「きょ、教授……」

「貴女は私――――」

 教授は、微笑んだまま、わたしの頭を撫ぜた。

「私は、貴女……」

 ――――初めて、この人がわたしの頭を撫ぜてくれた。

「貴女が私に似ずに良かった。たった一つ、あの雨の日に助けが間に合っただけで、全て変わってくれた」

「え、な、何の、事……?」

 教授は、とても綺麗な微笑みのまま、師のように、母のようにわたしを抱き締める。

「私と違うわたしに、最後の贈り物です」

「さい、ご……?」

 ――――嫌だ。

「ここにある本の全てと、私の部屋にある研究書を、わたしに。好きに使いなさい」

 ――――最後なんて、言わないで……。

Gute Nacht(お休みなさい)……」

「いやっ――――ぁ――――」

 抗い難い喪失感が、わたしの意識を根底から刈り取った。

 

 

 耳に響いてくるのは、天から零れくる雨、その堕つる音。

 石畳を叩いて一つ。屋根を叩いて二つ。窓を叩いて三つ。花を叩いて四つ。

 それでも、世界で動く音は雨音だけだった。

 ――――サアサア――――

 耳に優しく響く水の戯れ。

 求めても見えない人の影。

 濡れる独りきりの街外れ。

 世界はひっそりとドアを閉め、孤独な遊戯室は、豪華にも無限の装い。

 その孤室の天井(雨雲)を見上げながら、私はぼんやりと思考を巡らせる。

 ――――寒い

 吐息に混じった白い思い。

 ――――お母さん?

 迷う視線が求める人。

 ――――何処?

 私がこんなにも寂しいのに、求める母の顔がない。

 それが何より、不思議だった。

 冷え切った指。何とか独りで温めようと、口元に当てて息を吹きかけてみる。

 少しだけ温かい。

 何度も何度も繰り返し、さらに両手を擦り合わせれば、何とか震えは納まるんだと知った。

 だから、そうした。

 何度も何度も息を吐き、何度も何度も手を擦り合わせる――――頭を下げて両手を合わせたその姿は、まるで祈り乞うているかのよう。

 段々と小さくなっていく指の震え。

 祈りは通じ、寒さは指から祓われていく。

 けれど、代償はあった。

 指の代わりに肩が震え、病魔のように背筋を冒していく。

 ――――手は温かい。温かいのにどうして?

 とても不思議。

 だから、小首を傾げて考えた。

 考えて、考えて……答えに到る事もなく、私は寒さに殺される。

 

 それは、遠い昔の記憶だった。

 いつかの、雨に濡れる少女の記憶。

 その少女には誰も迎えに着てくれず、目を覚ませば、見知らぬ人が少女を孤児院まで連れて行った。

 後に、魔術師になった少女の記憶。

 後に、誰かに抱きとめられる少女を見つけた、少女の記憶。

 今はまだ、救いのないいつかの少女――――その少女を救いに、魔術師(わたし)は街へと降りた。

 特に行く当てはない。そして、ある必要もない。

 何処かを歩けば、勝手に私の敵が見つけてくれるだろう。

 歩き回った時間は一時間ほど。

 そうして、私は一人の人影とすれ違い、一歩を過ぎて――――同時に、立ち止まる。

「なるほど、驚くほど似ていますね」

 私は問い、

「間の抜けた事を……上面が似ているだけでしょう」

 わたしは答えた。

「貴女の名は?」

「無礼な。人間風情が、自分が先に名乗りなさい」

 なるほど、そう頷いて私は振り返り、向こうも振り返る。

「ノイモーント・フォーアヴィッセン」

「リツカ・サルワ」

 漆黒の長髪を持つ私の似姿は、無表情な顔に僅かに眉を寄せて嫌悪を表すと、同じ私の顔を睨む(にらむ)

「もう一人の似姿は存外に似ていなかったものを……。貴様は全く同じとは……」

「彼女は、少しズレましたのでね」

 二人同時に眼鏡を押し上げ、互いに同じ仕草で襟元を正す。

 深蒼色の外套の襟元を直した彼女は、ワイシャツの襟元を直したこちらに舌打ちを一つ。

「鏡を見ているようですよ、本当に」

「不愉快ですがね」

 お互い、思う事もほぼ同じ。

 ラプローが少しズレた似姿なら、私と彼女は、全くの同質。

「――――良かった」

 そう――――だからこそ、不愉快ながらも私にとっては喜ばしい。

「何です、人間風情」

「いえ、貴女が私と酷似しているのが喜ばしい、とね。おかげで、勝算が増えましたよ」

「ほう……。“異空”」

 彼女の呟きと同時に、世界の色が赤に堕ちる。

「この空間の位相を、現実世界より僅かに“赤”に傾けました。これでもう救援はない。それでも、勝算が増えたと?」

 問いに、口元を緩めて頷く。

「関係ありませんよ。むしろ、邪魔が入らず心地良い」

「…………」

「そう睨まずに、自分で少しは考えてみなさい。貴女と私はほぼ同質、故に、次にお互いが何をするか、誰よりも因果視が易いはず……」

 リツカ・サルワは、こちらの言葉に目を細めた。

「別に、能力を隠す必要もないでしょう。私と貴女は、似姿なのだから。地獄の女帝、アンリ・マンユの道具……無秩序(サルワ)よ」

「腐ってもわたしの似姿ですね……。雑魚に対して力を使うのは不本意ですが……良いでしょう。貴様を、一応の敵と認識してあげます」

 ――――来る。

――――六大魔 リツカ・サルワ――――

 中世、この人界に攻め入ってきた魔神軍の実質的指揮官。女帝、アンリ・マンユより軍団の指揮権を預かる主軸だ。

 教会認定のSランク。中世、アカデミーの魔術師二名を粉砕した、魔術殺しの魔術使い――――地獄でも最強クラス。よりにもよって、とんでもない人物に命を狙われたものだ。

「しかし、今の私なら勝てぬ相手ではない……」

「言いますね、人間風情――――しかし、あながち嘘でもない」

 彼女は不愉快そうに眉を潜め、その手に白い杖を握る。

 先端が槍のように刃になり、その下部に錫杖に似た鉄環のついた魔杖。

 解る……あれが、大魔術書(グラン・グリモア)に匹敵する魔術の塊だという事が。

 そして、――――私の魔術書、“大樹”の原典はあれですか。

「私は原初の魔神、女帝アンリ・マンユに創造された魔杖……。杖は魔術の象徴なれば、この身は魔術で創られている」

「つまり……魔神の創った魔術より弱い魔術は……」

「全て無効となります」

 神々の中でも強力な二元神である魔神の魔術、それを凌駕(りょうが)する魔術が世に幾らある。

 ――――魔術師を二名も殺せるはずだ。

 そうして、最強の魔術使いは杖を振り上げ、

「行くぞ、劣化物――――直視に堪えない存在(もの)は砕かれる命運と知れ」

 真っ直ぐに振り下ろした。

 

 杖を振り下ろす。ただその動作で、魔杖(リツカ)の魔術は成った。

 突風を巻く衝撃波。

「はっ、あ――――!」

 横に跳躍をして高速の回避運動。掠めもしないのに横面を張られたような鋭い痛み。

 直撃は、すなわち死神の愛撫に等しい。

精神知覚、埋没(アンダーウォーター・ダイヴ)……脳内領域、開書(メインメモリ・オン)真理魔術(カバラ)秘術”数秘法”(モード・ゲマトリア)

 視界の中に戦闘用のウィンドウを立ち上げ、因果を視て、即座にバックステップ。

「“潰れなさい”」

 眼前の空間が、魔力の大槌によって粉砕される。

 敵の魔術には、最早詠唱も動作もない。魔力に対する『命令』、それだけで彼の魔杖の魔術は成るのだ。

「“雨の如く”」

 その一言で、上空で集束爆弾(クラスターボム)が炸裂、魔力の小爆弾が広範囲に叩き付けられる。

 爆撃はほぼ絨毯(じゅうたん)上、ゴキブリでもいびり殺そうかと言う攻撃を、紙一重でかわしていく。

 ――――体が軽い。

 爆撃が完全に広がりきる前に抜け出し、休む間もなくその場から飛び退き、敵を視る。

「ちっ……」

 無駄打ちをさせられているリツカは舌打ちを一つ。それを視る。

 ――――魔力が充実していく。

「“裂けなさい”」

 今度は地面が大きく口を開け、呑み込まんと眼下に広がるのは底の見えぬ闇。

 それすらも回避し、似姿を視る。

「雑魚の分際で手を煩わせる……。次は回避もさせぬ」

 真理魔術(カバラ)は、自分自身を知り、力を得る魔術。

 ならば、鏡を見るように自分と等しい者を視れば――――

「“荒れ狂いなさい”」

 結界内の世界が紅蓮の焔に包まれる。回避の術は皆無。

 だが、

「それももう必要はない――――貴女はもう充分視た」

 焦げていく世界に左腕を突き出し、力を込める。

大樹書、開書(サーキット・オン)項目、結界魔術(モード・シールドマジック)――――“火の拒絶”」

 全身に展開された結界が、炎と熱を弾き、ただ余熱が服を焦がしていく。

「やれやれ……新調したばかりのワイシャツが」

 焔が吹き退(すさ)った後、露になった背中には、

「感謝するべきでしょうね。似姿(あなた)のおかげで、完成しましたよ。これが――――」

 大魔術書(グラン・グリモア)大樹(グロース・バオム)”。

「これが、私の力です」

 逆さに描かれし大樹の姿。

 八つに分かれた枝葉はその力の数、樹の全体の白光は魔力が通う印。

「貴女に魔術は通じない。しかし、貴女の魔術を相殺するくらいは出来そうですね、魔杖」

小癪(こしゃく)――――!」

 ――――さあ、ここからが本番だ。

 

 

 ――――それは、少女の記憶から失われていた物語(ページ)

 音が聞こえている。

 耳に響いてくるのは、天から零れくる雨、その堕つる音。

 通りを見れば、水溜りを壊して消えていく、野良猫の歩み音。

 そうして、動く音は雨音だけになっても、少女は待ち続けていた。

 ――――サアサア――――

 耳に優しく響く水の戯れ。

 求めても見えない人の影。

 濡れる独りきりの街外れ。

 世界はひっそりとドアを閉め、孤独な遊戯室の中の少女は、開かぬ檻の中のような存在。

 その孤室の天井(雨雲)を見上げながら、少女はぼんやりと口を開く。

「お母さん……わたし、ちゃんと待ってるよ?」

 その子の母親は、少女に人が来るまで待っていなさい、と言ったのだ。

 だから少女は待つ。理由はそれ以上になく、またそれ以上に必要がないだろう。

 ――――寒いだろう。

 誰も来ない。

 ――――まだ来てあげないのですか?

 猫もいない。

 ――――凍えてしまっている。

 何億もの雨音を聞いて無言。

 まるで音のない演奏会に来たような無意味さ。

 これだけの雨の音がありながら、そこは死んだように静寂で、それが酷く悲しい。

 少女は自分の手を口元に、何度も何度も息を吐き、何度も何度も手を擦り合わせる――――頭を下げて両手を合わせたその姿は、まるで嗚咽に狂っているかのよう。

 そうしている内にも、雨は少女から意識を削いでいく。

 ――――駄目。まだ寝てはいけない。

 まだ、誰も人が来ていないから、貴女はその人が来るまで起きてなければいけない。

 だが、声は届かない。

 少女は何とか立っていようと建物の壁に背を預け、そのまま、倒れるようにお尻から落ちていく。

 それきり、少女は動かなくなった。

「あ……」

 ようやく、私が出した声は、雨の中、誰にも聞こえない。

 慌てて駆け寄れば、少女はすでに気を失っている。それでは駄目だ。

「私と、同じになってしまう……」

 少女を抱き上げれば、酷い熱。体が疲弊(ひへい)しきり、生命力自体が弱まっている。

「おかぁ、さん……」

 ――――まだ、待ってるよ?

 少女はそう唇で伝え、小さく体を震わせた。

「っ、……どうする、どうする……」

 唇を噛み、頬を伝う雨粒を舐める。

「考えなさい、ノイモーント……!」

 この雨に打たれる少女を助けられるのは、自分を置いて誰がいるというのだ。

 ――――自分と同じ、唯一縋れた母に嘘を吐かれるという道を辿ろうとする少女を助けられるのは、自分以外に居ないだろう……。

 この少女は、自分なのだ。

 そう思うと、体の芯で応える力があった。

 真理魔術(カバラ)は、自分自身を知り、力を得る魔術。

 ならば、鏡を見るように自分と等しい者を視れば――――力は得られる。

「っ、成功して……!」

 カバラの術者でありながら、一度も祈った事のないヤハウェに切る十字。

真理魔術(カバラ)秘術“生命の樹”(モード・セフィロト)――――」

 ――――主よ、お願いする。私の今後の人生を捧げても良い……だから!

十の真理より太陽へ、命よ来たれ(エクススシアイ・ティフェレト)……」

 ――――この子だけは……!

 少女を抱き締め、あらん限りの力を送る。

 一秒の後、私が死んでいても良い。

 この子だけは、次に誰かがここを通るまで、起きていなければならない。

「――――ノイム?」

 そして、次に通る誰かは――――自分と待ち合わせをしていた、とびきりの美人。

 私は、その通りに現れた己が師の名を呼んだ。

「ユキ、きょう、じゅ……」

 少女の傍らに倒れ、薄れていく意識で、教授に手を伸ばす。

「この子を……抱いて、あげて下さい……。私では、駄目です。私は、自分を抱けない」

 教授は何も言わず、私と少女を見て、濡れた少女をその胸に抱き寄せた。

「相も変わらず、己に厳しい……」

 少女の意識が、目覚めるのを感じる。

「全く、仕方ない性根だ、そなたは……。終ぞ、我はそなたを癒せなかったか」

 間に合った――――途端、意識が消えていく。

「これで良いのだな?」

 遠い場所で、ユキ教授が告げたので、私は頷きを一つ。

 それから――――

『その子は、私が……守ってみせる』

 それきり、私の意識は世界から断絶した。

 少女の記憶から失われた物語。

 いつかの雨に濡れた少女が、その日、雨に濡れた少女を救う。

 過去より続く因果は、そうして、生涯を契ったのだ。

 

 

「“朱に染まりなさい”」

項目(モード)黒魔術(ブラックマジック)――――“水精”」

 放たれた火焔に、水の塊をぶつけ相殺。それでも殺しきれない威力は、常時展開させた結界に受け止めさせ、前へ。

「ハッ!」

 踏み込み、左の上段蹴り。

「くっ……、貴様、それでも魔術使いか」

 杖で受け止めたリツカは、舌打ちをしながら後退。

 追いかけようとすれば魔術が放たれ、それを私が相殺する。

 先程からこれの繰り返し、互いに決定打が打てない。

 否、こちらが打てない、と言うべきか。

 リツカは徐々にではあるが、こちらの体に傷を負わせている。対し、向こうは無傷。

 一見互角の勝負だが、勝てる可能性は小数点を割っている。

 ――――勝負あり、ですか……。

 それならば、するべき事が一つだけ。

 今まで絶えず追いかけていた脚を、一度止め、もう一人の自分を見据える。

「何かする気か、劣化物」

「その通り、貴女の因果視はどうです? 私の因果視は、私の勝利を導きましたよ?」

 リツカは、不愉快げに目を細め、杖を素振り。

「わたしの因果視は揺らがず、わたしの勝利を見せている」

「なら、一つ賭けをしましょう。因果を視る事が出来るのなら、貴女も得意でしょう? 昔、カジノで荒稼ぎをした事がありますよ、私は」

 リツカは、僅かな時間を思案に使い、やがて頷いた。

「……わたしも、良く稼いでいる。面白い、言ってみなさい」

 これで――――王手(チェックメイト)

「簡単ですよ。貴女が勝ったら、私の背にある魔術書を好きにしなさい。ただし、そうでなかったら、貴女はもう一人の似姿に手を出さない」

「わたしに、人間風情の作った魔術書を奪えと?」

「流石に誇り高い、奪うのなら屈辱でしょうね。ですが、この魔術書は貴女にとっても魅力的なはず……。ですから、チップにするのですよ」

 彼女は生粋の魔術使いで、一軍を預かる軍師だ。

 なら、魔力さえあれば使えるこの魔術書が、いかほどに有効利用出来るか解るだろう。

「……良いでしょう。確かに、その魔術書は失わせるには惜しい」

 予想通り、彼女は頷き、杖を構える。

「企みがあるのは承知……。だが、散々卑下した者の誘いを断る道理はない……」

 流石だと、心の底からそう感じる――――傲慢(ごうまん)と取れるほどの自尊心と、それに負けぬだけの器。

 この地上が創生されるよりも遥かに前から、地獄の軍勢を率いる戦の申し子。

 とても、人間の敵う存在ではない。

「では、約束ですよ、リツカ・サルワ」

 しかし、私は、

「来なさい、魔術師」

 その彼女の似姿――――。

 前方に向かい、跳躍する。

真理魔術(カバラ)秘術“真理の樹”(モード・セフィロト)

 自分が最も信頼の置ける魔術、真理の秘術に、全魔力を注ぎ込む。

十の真理より火星へ(デュナミス)――――」

 眼前には、リツカの放った巨大な魔力槌。

「――――力よ来たれ(ゲブラー)!」

 魔力の塊に左腕がぶつかり、しかし貫く。

 煙を巻く魔力の乱流の向こう、討ち果たすべき敵が居る。

「貫け……!」

 最早、魔力に命令するだけの時間もない。

 決着が、手に入る。

 宣言通り、貫かれた。

「――――貫けとは、これでよろしいか?」

 痛みも感じぬほど、一瞬で――――左腕が、貫かれた。

「それだけ力を込めては、腕が千切れてしまう。痛かろうに……」

 薄く、リツカが笑っている。

 先端に刃を持つ魔杖を、こちらの左肩に突き刺しながら。

「因果の視合いは、わたしの勝ちですね、人間風情」

 肉と骨が千切れる音が、肉体を伝わって直に脳内に響く。

 嫌な音だと思い、歯を食い縛り、

「おっ、おおおおおおおおお――――!!」

 後一歩を踏み込む。右腕でリツカ(わたし)を掴むために。

 大きな動脈が傷ついたのか、派手な出血が始まったが構わない。

「なにを――――」

「因果を視なさい、私の似姿……! この魔術師の城(アカデミー)、二十八師が一師の因果視は、最早貴女の最後を看取っていますよ!」

 口元には、会心の笑み。

 右腕にも、刺青が彫り込んである。いつかラプローに見つかった時、上手く誤魔化せて良かった。

 これまで真似をされては、困るのだ。

十の真理より天球層へ(アイン・ソフ)――――」

「っ、馬鹿な、貴様如きに扱える魔術では……!」

 その通り、真理を追究する秘術の、最高の奥義。

 世界を構成する概念を象った真理の樹(セフィロト)、その最上位から世界を存続させる力を引き出す魔術。歴史上、これを成功させた人間を見た者はいない。

 人間と言う小さな器に入った膨大な魔力は、耐え切れずに器を破壊し、

「自爆――――貴様、死ぬ気か!」

 ――――気づいた所で、もう遅い。

 笑みで答え、力を、この身に降ろす。

王冠を頂け(ケテル)!」

 荒れ狂う魔力が、右腕から全てを薙ぎ払った。

 閃光の中に消える敵影を視て、思う事はただ一つ。

 

 ――――いつかの少女(じぶん)は、これで、救えただろうか……。

 

 閃光は、私の意識も、純白に消した。

 

12th/Rain is over(Future)

 

 わたしが目を覚ますと、教授はもう発った後で、もう、その人の姿は、何処にもなかった。

 後に残ったのは、一人の魔術師が生活した家と、一人の魔術師が読み続けた本と、

 それから――――

「研究書……」

 一人の魔術師が書き続けた、一冊の本。

 今、教授の部屋でそれを読んでいる。

 他に、何もする事が思いつかなかったのが、不思議と言えば不思議だった。

 教授の字はとても綺麗。

 機械的でありながら、どこか人間味のある丸みがある。

 その字を初めて見た時、どうして気づけなかったのだろう――――?

「“先生”……」

 孤児院で見た、“先生”の本と全く同じ字の姿。

 それが掲示する事実は、

「教授も、あの孤児院に……」

 思えば、その答えを導き出す要素は幾つかあった気がする。

 教授の行動や、アルティラさんの言動。二人は、何故か顔見知りのようだった。

 ――――孤児院でわたしと一緒に居てくれた“先生”は、その後、アカデミーで一緒に居てくれたんですね。

 ページは、魔術の研究を一心に続ける教授の姿が重なるように、綿密に文字が躍っている。

 暫く読んで、そのスタイルが変わったのは、日付が六年前頃からだ。

『ラプローの授業予定。霊力型、カバリスト。彼女は私より才能があるのだから、基礎から丁寧に教えていくべきだろう。忍耐は、成功をもたらす。』

 教授が、自身の研究について書く事がほとんどなくなったページの初め。

 それは、わたしが初めて教授に授業をして貰った日。

「教授……」

『ラプローが風邪を引く。遅くまで本を読んでいるせいだと思われる。きつく叱ってやるべきだ。とにかく、早く治ってくれれば良いけれど……。』

『看病中、雨に脅えてラプローが泣き出した。泣き出されると、思いの外に困る。普段、彼女が実年齢より大人に振舞うので忘れるが、彼女がまだ幼い事を忘れてはいけない。今度、誰かにあやし方を聞いてみよう。』

『看病途中で不覚にも寝入ってしまった。起きたら、ラプローがおにぎりを作っていたので、それを食事にしたら……砂糖で握ってあった。あの子は本当にドジで困る。

                                けど、美味しかった。』

 そういえば……教授は、あの砂糖おにぎりを、全部食べてくれた。

 思い出せば、教授はいつも眉を潜めたキツイ顔で、笑ってくれていたような気がする。

 きっと、わたしと接する時にいつも本気だったのだろう。

 だから、笑いたいのに笑えない。

「きょ、じゅ……」

 文字と共に巡る思い出を、まるで走馬灯のようだと思う。わたしが死ぬわけでもないのに、誰かの死を代わりに見るように。

 教授が馬鹿にされていたので泣きそうになった事。

 教授の魔術の凄さに憧れた事。

 悪魔召喚で、迷惑をかけた事。

 お風呂に一緒に入った事。

 教授を真似て眼鏡を買った事。

 手料理を教わったり、外国語を教わったり、野草と毒草を教わったり。

 そういえば、教授の作るショートケーキは美味しかった。

 ――――また、食べたいな……。

『さて、すっかりラプローの成長記録になってしまったこの研究書』

 最後のページで、教授の文字が、語りかける口調になった。

『もし、ラプローがこれを読んでいたら、手紙となるでしょう。その時、私はそこにはいないのでしょうね』

 そう、今はいない人。

 ユキさんとセレソさんが、ここ数日探しているけれど、見つからない。

 だからもうきっと、貴女は――――

『では、手紙となった時のために、一つ、言葉を遺しましょう。

 貴女が、好きだと言った先生の言葉です。』

 続く、ページの下半分を埋める、言葉。

 それは――――

 

『運命が道と仮定して、知識は服、記憶とは荷物、希望は駆け足、絶望は夜。

 人生は後ろに残して前に望むもの。

 その道を独りきり歩む者は稀有、見渡せば人々は連れ立って歩む。

 だが、悲しむなかれ、妬むなかれ、独り歩む者よ。

 世々の人に例外なく、運命最後の一歩は独りで踏み込む。

 だから、独りを恥じるなかれ、独りを誇るなかれ。

 それは、最後の一歩の予行練習。

 慎重に、静謐(せいひつ)に、厳格に、――――ただ、その独歩を成せ。』

 

 いつか、わたしを励ました、あの言葉。

 でも、教授――――

「きょう、じゅ……わたし、こわい……ひとりは、こわいです……」

 ずっと貴女が居てくれた。

 ずっと貴女が支えてくれた。

 だから、もう貴女なしでは嫌です――――

『それに……。』

 涙交じりの声に、果たして、文字は応えた。

『それに、貴女には、私がついています。最後の一歩まで、私は貴女と共に在るでしょう。

 私は貴女で、貴女は私――――独りきりで死ねる事など、出来まないのですよ?

                        Meine liebe(親愛なる) Lapereau(ラプロー) enor(アンノール)

                           Deine(あなたの) Neumond(ノイモーント) enor(アンノール)

「――――――――」

 アンノール。

 わたしと同じ、その姓。

「ここの魔術師は――――」

 声は、ドアを開けて入ってきた、純白の魔術師のものだった。

「ここの魔術師は、魔術師になる時、姓名を変える伝統がある。名前を二つ以上にする事で、自分の存在を二つ造るという一種の儀式なのだが……ノイムは、姓だけを変えた」

「ユキさん……じゃあ、これは……」

「ノイモーント・アンノール――――それが、彼女の真名だ。

 いつか雨に倒れた少女を救った、いつか雨に濡れていた少女……。解るか、ラプロー・アンノール?」

 腹の底から、震えが込み上げてくる。

 それが、喜びでも、悲しみでもない涙の衝動だと感じた時には、ユキさんに抱き締められていた。

「今は泣くと良い、ラプロー。稀代の魔術師の弟子よ。いつか、いつかそなたが――――」

 純白の魔術師にうながされ、わたしは泣いた。

 口を開き、声をあげ、空に向かって吠えるように……。

 

 空席になった二十八師の第十一師――――これより一年後、その席を埋める少女が一人。

 その者は、あらゆる魔術体系を網羅した稀代の魔術師で、姓をフォーアヴィッセンと言う。

 

 

 

13th/Rainy day(Destiny)

 

 寒い、冬のある日。

 ベッドで生涯を見送る女性の耳に響いてくるのは、天から零れくる雨、その堕つる音。

 石畳を叩いて一つ。屋根を叩いて二つ。窓を叩いて三つ。花を叩いて四つ。

 それでも、世界で動く音は雨音だけだった。

 ――――サアサア――――

 耳に優しく響く水の戯れ。

 求めても見えない人の影。

 濡れる独りきりの街外れ。

 世界はひっそりとドアを閉め、孤独な病室は、豪華にも無限の装い。

 その孤室の白い天井を見上げながら、彼女は消えない残り火を吐くように、

「ごめんなさい……」

 そう零した。

 こんな雨の日は、思い出す事が多い。

 もう、三十二年も前の事だ。

 丁度、こんな静かな雨の日――――考えて、顔を両手で覆う。

 五十半ばにしてはシワの覆い顔。

 酷く顔をしかめて生きてきたから、当然と言えば当然の末路だ。

 ――――これが、これだけが自分の戒め。鏡に映るこの顔だけが、罪悪感を流してくれる気がした。

「アンノールさん」

 静寂な部屋に、青年医師の声が一つ。

 シワの多い女性の悩みを良く知る彼は、この雨の日にそぐわない、酷く陽気な笑顔でドアの所に立っている。

「ドクター……なにか、良い事でもありましたか……?」

 医師は、ええ、と頷いて傍らにいる誰かを手招く仕草をした。

「アンノールさんに、お見舞いだそうです」

 ――――お見舞いとは、一体誰だろう。

 酷く孤独な人生だった。

 昔、たった一度の結婚から、全てが過ちだらけの人生に、お見舞いをしてくれる人などいるはずが――――

「お久しぶりです。見ない間に、シワが増えてしまいましたね」

 ドアから現れた女性は、穏やかな微笑みを浮かべ、その蒼い長髪を揺らす。

「この顔を、覚えておいでですか?」

 忘れるはずもない――――老いた女性の唇は、声にならぬ言葉をそう伝えた。

「それは良かった……随分、探しました」

 微笑む女性は、医師を置いて部屋に入り、ゆっくりとした足取りでベッドに近づく。

 白い花束を抱える手は、左腕だけ。

 老いた女性は、ただ呆然とその歩みが近づいてくるのを見ていた。

 声をあげ、それが幻だったと思い知るのが恐ろしい。

「そのシワが貴女の戒めですか、モントジィエル・アンノール――――いえ……」

 微笑む女性は、眼鏡の向こうの赤い瞳まで綻ばせて、

「――――お母さん――――」

 そう呼ぶべき人を、抱き締めた。

「あ、あぁ……ノイム……? ノイモーント・アンノール……?」

「はい、お母さん。貴女に、あの暴力の日々から逃がして頂いた、貴女の一人子です」

 告げられると、老いた女性は恐る恐る我が子の背に手を回して、切れた呼吸を一つ。

 けして止む事のなかった、いつかの雨のように、三十二年の想いを吐き出した。

「ごめんなさい……ごめんなさい、ごめんなさい……」

 その言葉に、隻腕の女性は頷き、

「謝って頂ければ、あの日の嘘は許して上げます。お母さん」

 優しい声で、その人を抱き締める。

 

 外に降る雨は冷たく、――――その日、永く待ちわびた人は、ついに巡り合った。

 


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